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  矢部川の地名の旅 瀬高堰(高柳) H19.7・29更
 鶴 記一郎                                    


ここでは郷土史家・鶴 記一郎さんの「矢部川の地名の旅」のほんの一部矢部川概観を抜粋して紹介してみました、不足の記事はぜひ「本書」をお読みになり矢部川全域にもっと親しんで頂ければ幸いです。
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鶴 記一郎さんは大正元年、瀬高町下長田に生まれ、八女中学、法政大学、満鉄職員、会社員を経て現瀬高郷土史会々員として数多くの郷土紹介などの著書を出版されておられます。
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主な著書、
矢部川地名の旅(1981)高柳の小作争議(1983)民族から見た日本.中国(1985)長田の日子神社(1987)清水寺.広田八幡と郷土瀬高(1991)瀬高町神社と幸若舞の横顔(1996)有明文化圏賛歌(1998)有明文化圏断章(2001)有明文化圏断章続編(2003)日本列島の位置、少数民族の研究と童話(2004)
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瀬高町下庄元町在住。平成18年94歳で永眠。

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【国破れて山河あり】

満州にあること13年、私は昭和21年9月に引き揚げてきました。敗戦後、難民として満州新京(長春)で過ごした1年は文字通り生き地獄だっただけに、博多に上陸できた感激は今でも忘れません。戦争で廃墟と化した博多に1泊して、いよいよ鹿児島本線で南下、故郷の瀬高をめざしていきます。久留米を過ぎ羽犬塚から次第に清水山の姿が見えてきます。博多の惨状をまのあたりに見ていたので、我が故郷はどうなっているか、悲喜交々の予想をしておりました。列車が矢部川の鉄橋に入って鏡のように光り輝き、満々と流れる川面、遠くに河岸の樟林(楠林)が視野に入ったとき息を呑みました。あゝ故郷だ!故郷は昔のままだ。故郷を恋い幾度か夢に見た矢部川「国破れて山河あり、城春にして草木深し、時に感じては花にも涙を灌ぎ、別れを悔んで***杜甫(とほ)はこの句の後で悲観的な言葉を弄(ろう)していますが、私は勇気百倍しました。ようし、故郷の自然は変わっていないぞ。祖国の再建に立ち上がろう。精一杯はたらこう。そんな意欲が油然と湧き上がるのでした。私にとって矢部川は正に故郷のシンボルだったのです。
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*【杜甫】(とほ、712年〜770年)唐の時代の最高位の詩人、日本の松尾芭蕉は杜甫を尊敬し、傾倒して作品にも影響を受けている。
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【大正少年期の回想】
(夏編)
少年時代、夏となれば矢部川で毎日毎日泳ぎました。初夏には隣組で矢部川河岸のホタル狩がありました。各家庭の手作りの御馳走。河岸の広場は、むせ返る若草の香りが漂っています。その上にゴザを敷きつめ宴が張られます。そら豆、ゴボウ、人参、そしてコンニャク、豆腐の煮付け。最高のごちそうはゆで卵。大正の初期ですが、その頃、農家には十羽ほどの鶏が飼ってありますが、普段はその卵を食べることは贅沢とされ売っておりました。自分の家でできる卵でさえ自家用とせず、僅かの金にしなければならなかった当時の農民生活を想像して下さい
(秋編)
秋は矢部川の岸辺で集落全体の運動会が開かれるのです。堤防上にタオルを巻きつけた竹ざおを目標にして2、300m走るのです。出発点もゴールも明確でありませんが適当に順位を決められました。子供の相撲は河川敷です。土俵は見物の人垣で丸い円陣ができます。行司は酔っ払いの中年男子。普通の土俵がありませんので、なかなか勝負のつかないこともありましたが、行司は酒のいきおいで、ドラ声を張り上げヤジを飛ばして見事な判定を下していました。

その頃農家には必ず一頭の馬か牛が飼ってありました。その飼料としての馬草刈は子供に割り当てられた一日一度の日課でした。その草刈場が矢部川の堤防です。早朝露を踏み、新鮮な空気を吸っての草刈も、当時は嫌なものでした。今になって追想してみると名画の中の一少年像をみるようで懐かしいものです。
(春編)
桜花の頃は、矢部川岸の樟林はビロードのようにキラキラ光る若葉が萌え出て来ます。そして樟は若葉と交替に古い葉を落下させるのです。そうすると子供達は「樟の葉拾い」に出掛けます。樟の葉を集めて麻袋に詰め樟脳製造場に売る訳です。ところが、樟林は国有林で垣を廻して中に入ることは法度で、垣の周囲が採集場でした。勇敢な仲間は、こっそり垣内に忍びこむのです。垣内は樟の葉が渦高く積って掻き集めるのに効率がよいからです。ですからその方法は危険があります。たまたま見張人(官員さんと呼んでいました)が回ってきて、彼の目にとまったら目玉を喰らった上、拾った葉はその場に散撒かねばなりません。オスカー.ワイルドの「我がままな巨人」の情景と似ていませんか。
そうして夕方までに集めた代価は十銭内外でした。そのお金を自分の小使いにする者は一人もありません。必ず全額を母に渡していました。母が喜んで受け取ってくれることで、その日の疲れは癒されるのでした。こうして矢部川は私どもの揺籃であり、心の奥深く焼きついているのです。

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【矢部川水系】

(呼び名編)
「矢部川」と上流から下流までを統一的に呼ぶようになったのは明治時代に入ってからではと思います。それまだは、矢部川と呼ぶのは上流の矢部村の地域だけ、上妻地方(筑後・八女)の人々は上妻川瀬高では瀬高川、河口の旧大和町(柳川市)では中島川などで地域によって呼び名が異なっておりました。私ども矢部川に対する関心も、対処の方策も呼び名に表れているように、居住地域に限られ閉鎖的なものだはなかったでしょうか。

(藩政時代からの閉鎖性)
藩政の時代は矢部川の両岸は久留米.柳川と藩を異にしていました。そのため、利水の井堰工事、或は矢部地方から下流に向かう道路もそれぞれ両岸に修築されるなど不合理な工事が行われ、両岸とも不便に悩まされてきました。近世初期、田中吉政の筑後国一内の藩政が続き、矢部川が同一藩政があったとしたら、もっと効率の良い対策がとられたのではあるまいか。
こうした矢部川に対する閉鎖的な関心は最近まで続いていませんか。私は八女市祈祷院の矢部川河岸に或水天宮と五霊宮に参詣したことがあります。その境内に水天宮奉祀五十年祭之碑があり、碑文は大略、次の通りです。大正10年6月17日に大洪水があり、堤防が決壊して大災害が起きそうになったとき、対岸の堤防が決壊して難を免れた。よって久留米の水天宮の神霊を分霊してお祭りした。」ここの集落の人々が水天宮を祭った敬神の情には敬意を表し、利己主義、排他主義などは夢にも思っていませんが、この碑文を対岸の立花町の人々はいかなる気持ちで読むのでしょうか。神力は公平たるべきものです。それなのに一方には不幸をもたらし、一方には悲惨な対岸の不幸によって得た幸福を与える神様となる訳です。こんなことで、自分の地域だけを留意するようでは適切な矢部川対策は望むべくもありません。これからは、上流、下流、両岸相携えて対策を練り上げていくべきです。
【本流】
本流は八女の釈迦岳(1231m)に発し、西流して高田町、旧大和町の境となり有明海に注ぎます。河口には有明海に深く坑道をもつ有明炭鉱(廃坑)の坑道がありました。川の長さは61km。ちなみに筑後川の長さは123km、世界第一のミシシッピ河はなんと6530km。
ところで川の長さは分水界から河口かでということですから、源は釈迦岳の頂上ということになります。そこを川と呼ぶのは少し抵抗を感じます。河口は流路が海に注ぐ地点ですが、有明海は潟が4kmも広がり、干潮時は矢部川が海の中に延長されます。マボロシの川、すなわち「みを」です。将来潟地が干拓されると「みを」は現実の川となるでしょう。
さて矢部川の上、中、下流はどの地域を示すでしょう。私見によれば、矢部川が完全に九州山地を抜け出る立花町山下付近までが上流ではないかと思います。山下付近にはまだ河床に基盤岩が露出し侵食が行われているからです。そして下流とは瀬高橋南方太田井堰からです。それからは勾配がはゆるやかになり、急に蛇行をはじめ、そこまでは海水が浸入しているからです。矢部川改修事務所では矢部川全体としての上、中、下流の快定はむずかしいが中流のはじまりを求むれば流路制御のため人工堤防の修築を開始する田形付近ではないかということです。
【分流】
分流には山ノ井川(18,3km)、花宗川(13,4km)、沖ノ端川(14km)塩塚川(6km)などがあります。塩塚川の下流では堂々たる河川で漁港となり海苔舟が櫛比しております。沖ノ端川の岩神井堰より分流しております。ここで分流らしい分流は分流口に樋門のない沖の端川でしょう。
【支流】
楠田川9km、飯井川9,9km、白木川10km、辺春川14,3km、田代川6,3km、剣持川8,6km、星野川28,5km、笠原川8,3km、御側川4km、縦鶴川4kmがある。
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【船小屋付近の河岸】
田尻総助総馬父子は1695年から矢部川の南岸に千間土居を築き、その上に樟の苗を手植えした、それは北田(現在の立花町)から始まり、下長田の領域で終わり竹林が40m位続き、雑草の野原、続いて砂浜、小石の河岸に移行して千間土居はここで終わり。視野は広がり、清流を越えて、北岸の民家が見え、遠くに背振山の山並みを望むことができるのです。昭和3年、千間土居の南側に、上長田の鉱泉場付近からここまで約500mの放水路が修築されたので、その付近が放水路の末端に当たることになりました。大正末期紺碧の空はあくまで澄み込み、濃緑の樟林.竹林を背景にして、夏草萌え出る野原に咲き誇る花に蝶の乱舞、河原の清流には銀鱗なす鮠(はや)の群、宝石を散りばめたような小石と砂原の岸辺には、今にも王子様かお姫様が現れそうな、まさに御伽の世界の庭園を偲ぶ程でした。
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本郷の朝鮮松原】
文禄元年正月五日豊臣秀吉15万8千の兵を朝鮮に出兵させた中に柳河藩も従軍した。藩主立花宗茂は朝鮮から帰還の際松の苗木を持ち帰り、本郷の川原に植えて大切に育てた。「もしも枝を切った者があれば腕を切る、幹を切った者は首を刎ねる」斗「触れ」をだして厳重に取り締まったそうです。そのためか昭和中期まで鬱蒼(うっそう)と茂り矢部川の清流と相まって景観を誇っていた。それを戦時中、戦争遂行の目的のために、松の幹に溝を掘り、松脂を採取し松根油として燃料に使用した戦時中の苦い歴史もあつた。。戦後枯れ死した後も地元民により苗木を植えたりして管理され現在は若木の松が矢部川の本郷河岸の景観を守っている。(郷土史より追記)
*最近情報! 対岸には2005年より船小屋にかけて「県営、筑後広域公園」が建設されスポーツゾーンとして変貌中。

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【瀬高橋付近】
 江戸期までは橋はなく下庄と上庄を結ぶ旧薩摩街道の渡し舟がありました。明治38年、日露戦争後、矢部川を渡る渡し舟の不便さから、洪水で流されるのを覚悟で川面すれすれに簡単な有料の「ガタガタ橋」が造られた。明治42年に木造瀬高橋が架設され平行して柳川と瀬高駅(矢部川駅)を結ぶ柳川軌道が走りました。夏は川辺で酒蔵家の寄付で花火大会がありました。200m下ると昭和20年建設された矢部川最後の瀬高堰(平成2年下流側に瀬高堰完成で取り壊し)があり、昭和年代までは、洗濯の主婦や魚採りや、水泳ぎの子供でにぎわっていた。すぐの下流は談議所の港です。中世期から昭和初期まで港として栄え、戦後も有明海の潮干狩りに舟で満ち潮に乗り矢部川を下りました。
           橋きわから斜めの道路はガタガタ橋への通路
明治時代の瀬高橋 2階建は松屋、橋のたもとのわら葺屋根の家と馬車が見える
右岸瀬高町の上庄から棚町西津留鷹尾中島などの集落が下流に向かって続きます。棚町(タノマチ)は「田野町」の意味で水田が広がっているところ。藩政時代棚町のお倉の浜の港は中島港ともに立花藩の産米は遠く大阪に積み出されており、商船の監視をする番所のあった河港は中島、沖端、塩塚、又防備の遠見番所もこれらの港にありました。 
矢部川下流を瀬高橋から河口までとし、下流は海水が逆流してきます。逆流してくる海水の上層は上流で幾度か利用された余水の淡水(アオ)です。この淡水は樋門を通じてクリークに溜められ、さたに水車などで引水されて水田灌漑に利用されたのです。逆流してくる海水は有明海の潟(ガタ)を巻き込み灰色に濁っています。悠々と大蛇の如き蛇行、広い堤防と河川敷の中で、絹布のように輝やき流路を眺めていると大地に溶け込みそうになります。
柳川藩志によると、黒崎開から瀬高まで舟でさかのぼるのに70潮を要し三昼夜半かかったそうです。いかに蛇行がすごかったが想像できます。
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【中嶋を中心として】

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西津留は川のよどみ、西津留の対岸は東津留、江戸初期に矢部川湾曲の直線化工事(1645年)で一つの津留部落が東西に分離したものです。鷹尾(タカオ)は有名な鷹尾神社の社名をとったものです。中島はかって島だったところです。中島の中は数ある島の中で中心的な島に付けられた地名でしょう。
中島の町並、河岸には何度来ても飽きません。虚飾がなく、漁師気質というか、むき出しの人情味が流れているからでしょう。どんな格好しようと町の人は許してくれます。狭い道路上では野菜、魚類、日用雑貨が売られています。若主婦が「おっさん、買わんね、安かよ!」「ひやかしばかりじゃ、でけんばい。」河岸に出ますと漁港の中島港です。時たまノリ場から、若者に舵をとられた舟が爆音高く、白波を蹴立てて帰路を急ぎます。黄昏が迫ると、雲仙岳近くにあかね色の落日が懸ります。そうすると人、舟、灰色の流れもガタも、町も総てが金色色に燃えに燃え、しだいに夜の静けさに戻ります。
矢部川関連リンク集 船小屋大橋とガタガタ橋 矢部川の橋 中ノ島公園 新船小屋温泉長田鉱泉場

矢部川上流

船小屋大橋

矢部川中流

    

    矢部川概観編のみ16ページを紹介、全171ページは本書でお読みください  瀬高の歴史表題へ
    
当ページは興味をそそる為タイトル、動画をアレンジし着色してあります。  管理人 庄福