庄福BICサイト 平成18年11月8日更新 20年4月26日更新
唐尾座の芝居 | 瀬高劇場 | 相撲甚句 | 瀬高御門の子守唄 | 蛍のわらべ歌 | |
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北原白秋 | 山中の俳諧 | 松尾竹後 | 幸若舞 | ||
蘭法医・恵美伍一郎 |
. 【唐尾座の芝居】 大江考祥 著 明治の初め頃、東山村(瀬高町)大字小田の氏神、唐尾八坂神社の祇園祭に、余興として唐尾座主催の芝居が上演された。その俳優は、主として唐尾の人々が祇園祭に、1ヶ月前から稽古して当日上演していた。(5月1日小屋入り、6月1日奉納)たまたま明治4年(1871)に上演したものが大変出来映えが良かったので、近隣の町村でも評判でした。そんなことから、その年、熊本県長洲町からの招きで興行したのが唐尾座の旗揚げになったようです。その時の地域別の一座の人々は、唐尾7人、山下2人、山中2人、八女郡兼松1人、野町1人、本吉1人の合計14人でした。その後、次第に盛んになり、明治28年(1895)頃には全盛期を迎えた。専門の衣装方、かつら方をやとい、唐尾座の名声は、熊本や佐賀方面にも聞こえるようになる。ひいきの女性客の金銭的援助が座の経営を大きく支え、踊って、もうけて、銀行を建てたという嘘のような話も聞かれたと伝わっています。全盛期の役者として、「嵐徳三郎、中村三吉、浅尾鬼工丸、市川虎平、市村家吉、中村成子、中村巴若、坂東定市、いちかわ恵三造、浅尾玉車、市川花柳(団十郎)、中村米三郎」などがいました。唐尾座は、夏.秋の祭りや他村の祭りをめあてに稽古に励んでいました。本拠地唐尾には、上下に常設舞台が設けられていました。役者の嫁さんは、夫から踊りを習って踊ったそうです。尾上多三郎は、お寺で修行したことのある人で、学問があり、やせ形で裃(かみしも)が似合ったとのことです。坂東薪笑は、大阪の人で、唐尾の女性を嫁にしたといいます。踊りが上手で唐尾全域に踊りをはやらせたといいます。松本団松と芸名が墓石に彫られている人もあったそうです。役者は化粧するおしろいの鉛毒のため早死にした人が多かったそうです。
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唐尾は、江戸時代は柳川藩と久留米藩の国境の宿場町として、また矢部川上流の山村から里へ出た最初の町として、旅館や飲食店が立ち並んでにぎわっていました。紙すきの製紙でも有名でした。 (ふるさとの昔ばなし瀬高の民話と伝説より) 常設劇場、映画館などなかった明治年代から大正中頃までの人々の憩いの場は野舞台(のぶて)が唯一の娯楽場であった。現在の福岡銀行の西北部の本長寺が引越ししてくる前の空き地や、下庄小学校の旧正門入口の向え付近、談議所の荒木病院の所などの空き地に木や竹で囲いをし、莚(みしろ)でふさいで仮芝居小屋が仮設された。観客は十人弁当箱に一杯の御馳走を詰めて持って行き、幕あいに酒を酌み交わしながら芝居に興じた。農村では昭和30年代までは祭りの余興として、農家の庭に仮芝居小屋を設置して旅芸人を呼び演技を楽しんだ。 |
【瀬高劇場】 明治24年九州鉄道、矢部川駅(現瀬高駅)が開業。明治42年には柳河軌道(柳川~瀬高)が開業され輸送手段が変化し矢部川駅周辺には旅館、料亭、馬車駅ができ、下庄の軌道沿いの田畑(現在の栄町・恵比須町・矢部川)に跡取りでない商店の次男などの新規開店や従来の店を移転するところが増える。 大正12年の秋、瀬高の酒造業は全盛時代を向えていた。これらの酒屋(酒造家)が出資、株式会社を組織し、芸能部門へも手をのばして、瀬高町下庄栄町に出来たのが瀬高劇場である。当時筑後地方一番の立派な広々とした劇場で、客席に花道が備わり、二階席もあった。落成時の初演開場は、歌舞伎の名門、沢村宗十郎、沢村長十郎を迎えての「杮落とし(こけらおとし)」の芝居で幕を開けた。演題は「紅葉狩り」「義経千本桜」などであった。劇場の中に売店が設けられ、これを「中茶屋」といつた観客へ座布団や酒肴、湯茶を提供する商売である。そのサービス係をする女性を「お茶子さん」と呼び、働きながら芝居や映画が見られ、おまけにチップが、たんまりもらえた。興行師(小家主)は会社(劇場)側と契約を結び、契約金をはらい契約期間経営にあたるわけである。案外高い契約金を払っていたようである。劇場の付近も客目当ての商店が増えてくる。
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. 【清水名所を唄いこんだ相撲甚句】(日本で始めて披露)
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. 【瀬高御門の子守唄】 この唄は、大正時代まで子守り唄として歌われていました。 瀬高御門は、明治5年に柳川城が災上焼失した後、今の下庄上町にある引接寺いんじょうじに移され山門となっています。(現在台風被害の為に倒壊) 以前、瀬高御門は柳川の国道橋より南へ150mほどの所にある水門のそばに建てられていた藩政時代の厳格な城下町に入る正門でした。
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郷土の歌人文学者 北原白秋(沖端出身)明治18年-昭和17年 北原白秋は明治18年(1885)山門郡沖端(現・柳川市)の柳川藩、御用達の海産物店の家で生まれる。のちに生家は北原酒造となる。姉は瀬高町上庄の「菊美人」の酒造家に嫁いでいる。母親の実家は南関でたびたび遊びに瀬高を通り遊びにいっている。明治34年頃の中学伝習館に四人の文学少年の北原白秋の同僚の由布白影は瀬高町の女山出身で俳句の巨匠松尾竹後である。 沢山の作品を出筆、近代日本の文学、文芸に大きな足跡をのこした歌人、文学者である。故郷、山門を歌った詩多数、柳川市内、清水山に白秋の句碑あり。 昭和17年(1949)東京、杉並で永眠。 白秋の詩集には「耶宗門」 「東京景物詩」 「白金ノ独楽」 「思い出」 「水墨集」など多数。 作詞では「この道」 「あわて床屋」 「砂山」 「ゆりかごの唄」など多数のなじみの作品を残している。 北原白秋記念館へのリンク |
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. 【山門の歌】 山門はもうまし邪馬台国、 いにしえの卑弥呼が国、 水清く、野の広らを、 稲豊かに酒を醸(かも)して、菜は多(さは)に油しぼりて、 幸(さちお)ふや潟の具と、珍うずの貝、 ま珠 照る鰭(はた) 見さくるや童(わらべ)が眉に、 霞引く女山(ぞやま) 清水。 朝光(あさかげ)よ雲居立ち立ち、夕光(ゆうかげ)よ潮満ち満つ。 げにここは邪馬台(やまと)の国、 不知火や筑紫潟 我が郷(さと)は善しや。 . |
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【清水一首】 ちち恋し はは恋してふ 子のきじは 赤と青もて そめられにけり (清水本坊前の句碑) . |
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山中.若宮宮 奉納俳諧句合(はいかい、くあわせ)の額 瀬高町の矢部川の上流の山中集落は山下城のあった立花町と接し、古代からの街道が通り、紙漉き(製紙)の町としても栄えた。山下の水天宮の手前に鎮座している若宮宮に奉納された、俳諧の額は天保15年(1844)のものである。地元山中はじめ小田.平田.坂田.唐尾.上庄.下庄の俳人の七十句が見事な筆跡で書かれている。僧日源(1595年代)矢加部新衛門兄弟によって、製紙の技術を伝えられその後代々紙漉きを続けていた矢部川筋の山中.唐尾集落の鳴五堂凡鳥に従事する俳人グループの俳諧盛んな時の記念すべき額である。この天保15年は清水山の「芭蕉翁」の碑を建立した石田茂山が文政12年(1829)79才にて世を去り15年を経過し、柳川藩の俳諧は石田茂山から鳴五堂凡鳥の世代が変っていたと考えられる。旧柳川藩誌に明語堂凡鳥「上妻村土窪の人この人より期道大いに進む」とあり。また柳川沖端正段島の西原靖尾「凡鳥の弟子で後に宗匠なり」と記されて、凡鳥の門人が柳川藩の西の端にも居たことが窺われる。 名木野のしだれ桜の祠には柳川藩の上流の文人が奉納した天保14年4月25日於晴嵐亭「連歌の一巻」と嘉永4年(1851)三十二首の「額」が遺されている。山中の俳諧の額は庶民の遺したもので、同じ時代に山を隔てて、武家と一般庶民が楽しんだ連歌と俳諧の文化が育ち育まれていたことは大変興味深いことである。広瀬山中では、その後も俳諧が盛んで瀬高町の愛好者で現在まで続いている。 |
白秋と伝習館同僚の俳人 松尾竹後(女山出身)明治18年-昭和35年 松尾竹後は瀬高町女山出身で白影、由布熊次郎もその一人である。明治34年頃の中学伝習館に四人の文学少年北原白秋と由布、白影らは文学に目を開いた同僚である。のちに白影は俳句一筋に進み明治40年に上京、日露戦争時、松尾竹後の号となす。関東震災大正12年、瀬高に一時帰郷「瀬高倦鳥俳句会」を指導した。昭和35年に79才で佐賀にて永眠。死後「海鼠の如く」と題した竹後の句集が町内で発行され、句碑も5基建立された。 【松尾竹後の俳句】 明治40年上京した竹後は、若干28才にして「宝船」の選者に推され、 明治、大正年間に次のような今に瑞々しい作品を発表している。 びろうどに真珠に冷ゆる雪は降る 沼沿ひの草恋ひ馳(は)せし雪舟(そり)のあり よき水に茹(ゆで)竹の子の象牙かな 麦の穂のもやもやもせむ乳のあたり 躍(おど)らしき乳房つつみて単もの きりぎりす女は肌を見せずなりぬ 昭和初年刊、歳時記に次の句などが収録されている。 おととひの海鼠と黙し今日もあり 春の夜を二人しあらば疑はず あきらめておるに月出る旧山河 おぼろおぼろあきらめきれず海の音 その後、昭和21年瀬高に移り住み水害や火災にあったのを次の句で詠んでいる ものの本水に火に減り桃青忌 初冬の日向自由に堂往ひ 晩年清水本防庭園を俳句の道場と絶賛し、芭蕉や恩師の松瀬青々の 句精神を受け継ぎ清水寺に芭蕉忌を修しつづけた。 青々忌西陬(すい)にして竹後あり 酬恩の思ひ芭蕉にさかのぼる 出世間的、句生活の竹後は「さび」の境地を深め「霊玄」に入り、また「象徴」の世界は遊ぶ秀作を残している。 秋風は姿を雲に吹きにけり しずかにも月の僧坊さまたぐる 眠る山を出てはかへらぬ水の音 雨月一夜をいかに寝し音ぞ山小鳥 天翔(かけ)る歓喜天花に観世音 身じろげば梅が香揺るる思ひあり 門下生の句に さささっと笹をはなるる雪の音(黒田筍頭)、 ジャーピーが墜ちし背振りの山霞む(古賀梅桶)、 凍てし野をわがものとして飛べる鳥(庄村輓水(ばんすい))がある。 |
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【瀬高町の俳句の歩み】 旧柳川藩志によれば「柳川藩には元禄(1689~1704)の頃より俳諧、発句をなすもの上流社会にあり」とある。幕末から瀬高地方で俳諧がなされた資料に文化7年(1810)新版の「俳諧季寄せ桐火桶」を下庄の吉広方庭の祖父法定(弘化2年ー昭和2年1845~1927)が生前使用してた本が現存している。ボロボロになっており幾人かに受け継がれ使用されていることを物語っている。1844年広瀬山中の人たちの句が若宮宮に額に奉納されている。「瀬高倦鳥俳句会」、瀬高かわがらし句会」、「山中俳句会」「楠の実句」、「瀬の音句会」「ホトトギス派」、瀬高冬野句会」などがあつた。瀬高では今日まで引き継がれ、瀬高文化教会協俳句部の句が広報せたかで紹介されている。瀬高町短歌会の活動もある。 . |
. 【幸若舞】 瀬高町が誇る伝承芸能といえば日本最古の舞楽として約700年の伝統をもち、日本芸能の原点といわれている「幸若舞」である。 1582年京都において朝廷警備の任に就いていた、山下城主蒲池鎮連と越前出身で幸若舞の達人大沢自助幸次の出会いから始まる。二人は幾度かの出会いを重ねる中、天正10年(1585)山下城に大沢を招請して幸若舞を伝授を開始した。 蒲池家はその後零落するが、舞の方は家臣の手を通じて伝えられ、天明7年(1787年)松尾増墺(ますおき)に伝えられた。 松尾増墺は大江に住んでこの舞の後継者を作り、代々松尾家を家元と称するようになった。1811年頃には幸若舞は大江村のみならず、下妻郡北長田.南長田.あたりにも伝承されていた。舞は中世に流行した語りを主としたものです。 明治維新後、禄を離れた越前幸若をはじめ各地の幸若舞は、早くその舞を捨ててしまったが、ひとり大江に残った大頭流の幸若舞のみがその芸統を守ってきたのである。 織田信長が愛好して舞った幸若舞曲の「敦盛」は素材を「平家物語」から取ったもので、一の谷合戦で熊谷直実が自分の息子と同じ年格好の平敦盛の首を討った無常を感じて出家する話です。織田信長が桶狭間の戦いにおいて、決戦前夜に舞いを踊った一節です。 「思えば此の世は常の住みかにあらず、草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷(きんこく)に花を詠じ、栄花(えいぐわ)は先立って無常の風に誘わるる。南桜(なんろう)の月をもてあそぶ輩(ともがら)も、月に先立って有為の雲に隠れり。人間五十年、化天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生を受け滅せぬ者の有るべきか。是を菩提の種(たね)と思い定めざらんは、口惜しかりし次第ぞと定め、・・・」 これが、織田信長が舞った越前の幸若舞「敦盛」の曲の一部分です。現在、大江では復元作業を進め、平成20年にはお披露目する予定という。 幸若舞は毎年1月20日に小雪降るほど底冷えする大江の天満宮境内の舞堂で五穀豊穣を祈って奉納されます。現在語り伝えられている曲目は10種余りで、「日本記」「扇の的」「浜出」「安宅」「八島」「和泉ヶ城」「高館」などの勇ましい軍記物がほとんどです。舞堂の背景に張られる幕には、菊、五七桐、下り藤の紋が大きく染め抜かれ、格式の高さを示しています。後世の歌舞伎をはじめ各種芸能の原形として注目されています。国の重要無形民俗文化財。 アクセス地図へのリンク(瀬高なす) (写真は旧瀬高町HPより借用) . |
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【蘭法医・恵美伍一郎】 瀬高地方における、蘭法医学の始祖は、恵美伍一郎と言われる。恵美伍一郎は、上庄二百町の漢方医の恵美朴元の長男として生まれ、長ずるに及び、明治7年頃に東京医学校に蘭法医学を学び、東京出身の夫人と結婚して、郷里の瀬高に帰り、現在の八坂神社の前に医業を開いた。その建物は今も一部を改造されているが大体の形式は当時のまま残されている。式台作りの玄関を入った右側に投薬窓があり、当時の面影を偲ぶこたができる。建物は二階バルコニー付きの洋風建築で、当時としては、洋風建築物は誠に珍奇で進歩的なものとして近隣は勿論、遠く福岡方面からも見学者が後を断たなかったと云う。恵美一家が大牟田に引移りに及び、現在は森田氏の所有となって売り家の看板がある。恵美伍一郎は三橋町中山の3代山門郡医師会会長田中省三(大正4年~昭和18年)より二.三年先輩であり、以後幾多の医学生を育成されたと云われる。 |
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