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*原始時代、みやま市の東山連山に住み始めた古代人は、阿蘇山の噴火、地震や豪雨など自然災害や病気におびえ、自然の霊魂に身の安全を祈っていた。磐座などには天から神が降臨し、大木(神木)には神が宿るとし、神域を造り祀りを行ない信仰した。巨石を神域とした長田の豊前坊磐座(いわくら)・藤の森古墳の磐座がそれにあたるであろう。
*弥生時代には稲作が持ち込まれ、太陽や水の神・田畑の神に豊作を願い神事を行ってきた。下小川の天道社・乙姫宮・長島の田中の神・下庄新町の生竹天神・金栗・上庄の牛の御前などは古代からの信仰を覗かせる。
自然崇拝信仰は続き弥生時代後期には外来文化の影響をうけ、支配者や豪族を祀る宮の創設に至り、民衆の信仰をあつめた。
平安時代に密教の影響で神仏併合となったりするお宮もあつたが、部落には古代から信仰された氏神さんが鎮座して村人の幸せを守って来た。多く時代に流され明治には神仏分離されて現在に引き継がれています。こうした神社や寺院および古代からの地名を調査研究されていた瀬高郷土史会の先輩の研究資料と瀬高誌を参考に現地取材・写真撮影により紹介しています。
                    
各校区をクイッックして御覧下さい
                                       H・19・8・19更新
みやま市のお宮・お堂 総覧表
                        水上校区のお宮
①老松神社  上坂田 ②若宮神社   上坂田 ③豊前坊磐座 下長田
④長田日子神社 下長田 ⑤大谷口お  下長田 ⑥社日さん 下長田字下山添
⑦弁天さん 下長田字上山添 ⑧八竜神社   下長田 ⑨下長田若宮神社下長田
⑩屋須田さん 下長田 ⑪天満宮    下長田 ⑫大師堂    下長田
⑬薬師堂    下長田 ⑭老松神社   上長田 ⑮稲荷大明神上長田 
⑯お弘法さん 上長田交差点角 ⑰八坂神社   唐尾 ⑱稲荷神社 八坂神社境内
⑲恵比須さん   唐尾 ⑳薬師堂    唐尾 21宝満神社   唐尾
22七社神社   小田小坊谷 23社日さん    小田 24地蔵堂    平田
25宮地嶽神社 平田字小田 26熊野神社   禅院 27藤の木さん  禅院
28水神     広瀬堰傍 29恵比須さん 広瀬 30金毘羅神社 山中
31天満神社     山中 32地蔵堂     山中 33若宮神社    山中
34観音堂と地蔵堂 山中、
①汐井神社  立花町山中 ②水天宮 立花町山下
                    清水校区のお宮
①香椎聖母神社 藤ノ尾 ②若宮神社  藤ノ尾 ③天満神社 下坂田
④堤の天満神社 山門
⑤天満神社   朝日 ⑥若宮神社 朝日
⑦諏訪神社     本吉 ⑧宮地獄神社 本吉 ⑨八坂神社 本吉
⑩八剣神社     本吉 ⑪稲荷神社   本吉 ⑫天満神社 草場
⑬草場聖母宮(しょうもぐう)草葉 ⑭女山日子神社女山 ⑮若宮神社 女山
⑯老松神社   大塚 ⑮熊野神社 大草字山田
                        上庄校区のお宮・お堂
①住吉宮 上庄 ②八坂神社(祇園さん)上庄 ③屋須多神社八坂神社境内
④新宮   八坂神社境内 印鑰社 八坂神社境内 諏訪神社 八坂神社境内
宮地獄(みやじだけ)神社 生目神社 八坂神社境内 天満宮 八坂神社境内
八鉾神社 八坂神社境内 稲荷神社 八坂神社境内 ⑤金刀毘羅神社  上庄新町
⑥観音堂 ⑦浜王宮 上庄土居町 ⑧愛染明王堂 上庄瀬口土居町
⑨高明神社 上庄横道 ⑩薬師如来堂 出口 乙丸さん  上庄出口
⑫八坂神社 上庄御二橋 ⑬宝満神社 上庄北原 ⑭日大尺神社  北原
⑮牛の御前 上庄北原 ⑯天満宮   上庄三軒屋
                        本郷校区のお宮・お堂
①香椎聖母(しょうも)神社本郷小字町 ②中土居八幡宮 本郷小字仲土井 ③天満神社本郷小字奥久
④恵比須宮 本郷瀬戸島 ⑤権五郎八幡神社本郷小字小路 ⑥五社神社本郷小字門前
⑦屋須多神社(三社大明神)文広作出
                        下庄校区のお宮・お堂
①潮斎(しおい)神社 文広 ②印(いんやく)神社 文広 ⑥広田八幡神社 文広
④吉岡八幡宮 吉岡 ⑤樋口八幡神社 大竹樋口 稲荷神社樋口八幡境内
⑥前田の天満宮 ⑦恵比須神社恵比須町 ⑧下庄八幡神社
恵比寿神社下庄八幡神社境内 印鑰社屋須多神社八幡神社境内 多賀神社八幡神社境内
三光院 下庄八幡神社境内 七社宮 下庄八幡神社境内 天満宮 八幡神社境内
宮地獄神社下庄八幡神社境内  上町観音堂 上町 ⑨乙姫神社 上町
⑩清高稲荷・観音堂 田代 ⑪生竹(いくたけ)天神 新町 ⑫天満神社 八幡町一
⑬大師堂 八幡町一 ⑭一つ堂天神 八幡町一 ⑮天満神社 八幡町二
⑯松尾神社(きのどんさん元町 ⑰金栗八幡宮 ⑱水天宮 談議所
⑲高柳日枝神社北高柳  淡島社(栗島)高柳日枝神社境  西の宮大神 高柳日枝神社境
 角源蔵稲荷高柳日枝神社境   弘法大師堂北高柳日枝神社境内 ⑳地の神様   北高柳
21観音堂    北高柳 22比寿の祠  23牛の御前 金栗
24牛の御前  真木 ①鷹尾神社 大和町 ②牛の宮大和町鷹尾神社境内
                     大江校区のお宮・お堂
①宮園天満神社 ②大木八幡神社 ③妻の神広安
④広安天満神社 ⑤真木天満神社 ⑥大江天満宮
⑦有富の若宮神社 ⑧松延天満神社  ⑨北広田八幡神社
⑩上小川八幡神社 吉井 ⑪印天満神社堀池園 地蔵堂 上小川
⑬山下家の墓 上小川 ⑭天満宮 上小川
                        南校区のお宮・お堂
①こうやの宮 ②田中の神 ③御幟の杜
④鉾楯の杜 ⑤釣殿宮 ⑥西の宮(釣殿宮内)
⑦太神宮
⑧宇津良姫社 ⑨古島の天満宮と若宮さん
⑩帝神社海津 ⑪乙姫宮下小川 ⑫天道社下小川
⑬下小川八幡宮 ⑭井手の上八幡神社 ⑮玉垂神社堀切
⑯荒仁宮堀切 ⑰八歳宮堀切 ⑱宗高神社
⑲木玉宮 ⑳開の天満神社 泰仙寺の聖母宮
六体神(ろくてさん)浜田 野田の若宮さん浜田 浜田沖田の天満神社
南浜田の天満神社 北浜田の天満神社 東津留天満宮
石橋神社(ひやぞうさん) 南高柳日枝神社 三ノ溝(さなみぞ)山王社
                      高田町のお宮
①熊野神社 ②天満神社 ③八剣神社
帝神社     海津 ⑤水天宮  海津字海門 ⑥阿蘇神社  海津
⑦竹飯神社  竹飯 ⑧水天宮   渡瀬 ⑨淀姫神社  江浦
 八剣神社 淀姫神社境内  高良社  淀姫神社境内  大日社  淀姫神社境内
 稲荷神社 淀姫神社境内 ⑩お地蔵さん  江浦 ⑪弘法大師
⑫乳観音    垣原   厳島神社(いつくしまじんじゃ) 黒崎開  宝満神社    北新開

みやま市の神社の総社・本社と石碑の由来(社名クイック)
社日様の由来 二十三夜塔 庚申神
住吉大社 松尾大社 伏見稲荷大社
宇佐八幡宮 若宮神社 印鑰(いんやく)神社
大宰府天満宮  老松神社 宝満神社
八坂神社 日吉大社 西宮神社・えびす宮総本社
諏訪大社 高良大社 香椎宮
金刀毘羅宮

           社日様の由来
中国の唐の時代に伝来した神事で土地の守護神「社」を祀る日のことで「社日」さんとして全国的に広まった。社日とは春分・秋分に最も近い前後の戊の日のことで、この日に祭祀をおこなう。お彼岸の行事は仏教はお寺で供養を行なう習慣が出来たので、神道でもお宮に土地の守護神「社」を祀り、田植えが開始される春に穀物の生育を願い、秋には収穫の感謝の神事を行い翌年の豊凶も占ったという。社日の主尊は倉稲魂命(うかたのみたまのみこと)で食物の神、稲を司る神であることから筑後地方でも江戸時代後期以降社日信仰として流行した。春秋の社日には仕事を休み、餅をついたり、近隣の「社日」回りをした。
みやま市では下長田字下山添・作出の屋須多神社・南高柳の日枝神社・北浜田の天満神社・堀切の玉垂神社・八歳宮などに祀られている。
     
南高柳の社日さん
        二十三夜塔の由来
月待ち行事「二十三夜講」は旧暦の十五日、十六日、二十二日、二十三日に同信者が祭神の前で月が出るのを待ちながらお勤めや飲食を行われ、主に、「三夜待ち」「産夜」とも呼ばれて、多くは女性の講であつたようで、これを記念した塔が造られた。室町時代からあった記録もあるが、江戸時代に盛んになり全国に普及したとおもわれる。二十三夜塔の祭神は何様と決まっておらず、信仰の目的もいろいろ地域により違っていたようである。
みやま市では北高柳の日吉神社境内の東奥の角付近にある。
        庚申神の由来
庚申信仰は、中国の道教に由来しています。人間の身体のなかに三尸(さんし)という虫がいて、60日ごとに回ってくる庚申の夜、人間を早死させようと、人間が眠っているすきに抜け出して天帝に悪口をいう。天帝はそれを聞いて人の寿命を決めるのですが、この日、身を慎んで徹夜すれば三尸は上天することができず、したがって長生きできるという説があります。中国の人々には、階層、性別をこえて広くこの教えが信じられ、実行されていました。これが奈良時代に伝来し、江戸時代には最盛期を迎え、娯楽と信仰を兼ねることが出来る庚申に、自分たちのささやかな夢を託し、国土安全、平穏無事、五穀豊穣、家門繁栄など自分たちの守り神として広く信仰され、おもに江戸~明治時代にかけて、流行しました。大別して神道系の「猿田彦大神」と仏教系の「庚申尊天」があり、「庚申」「庚申塔」「帝釈天」などと刻んだものもあります。この信仰は現在も見られます。
みやま市では唐尾の宝満神社の鳥居の東側に庚申天・女山の旧街道沿いの東側や下小川八幡大鳥居の横や文広に猿田彦大神がある。
        道祖神の由来
道祖神は塞の神(さいのかみ)とも言い、一般に村の外れにあって外部から村に悪い霊が侵入するのを防いでいます。この神は天宇受売神・猿田彦神と結び付けられていない場合でもしばしば男女神であるようで、その由来は、男女の仲の良い神様が守っていてくれると、そこを通り抜けようとした霊は「邪魔するな」とばかりに突き飛ばされるからだとされています。、村の守り神子孫繁栄、あるいは交通安全の神として信仰されている。 また庚申講とも結び付けられて信仰されている所もある。
みやま市では上坂田の老松神社入口・下坂田の天満神社鳥居横にある。
        若宮神社の由来
百科辞典などの文献のによると若宮さんの神格は二つの解説がある。一つは大きな神格を有する神の御子神(みこがみ)が新しく土地を拡めた所(干拓地・開墾地)に合霊を勧請して新宮を創るのを若宮と呼ぶ。二つは特に平安に流行した神仏の不思議な力によって病気や災害を逃れるように祈る呪術(じゅじゅつ)で、災害異変が起こると神の御霊、怨霊のたたりと恐れこれを調伏し封じこめようとして巫女をもって祈祷を行ない社を建てて悪霊を祀るこの時建てた社を若宮という。みやま市にある若宮は前者と思われ、祭神は水を司る神、雨乞いの神、罔象女神(みずはのめのかみ)が多い。
神社の総本社の由来
住吉大社  福岡市・大阪市・下関市
古書には福岡市博多区住吉を「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。住吉宮の由来は十四代仲哀天皇の妻である神功皇后 (しんぐうこうごう) 新羅(しらぎ) に出兵する際に、住吉大神の力をいただいたことがきっかけとある。新羅遠征により、大いに国の安定を築くことができたため、住吉大神のお告げによって、この住吉の地に祭られることになった。俗に「海の神」とされ大和政権の玄関口にあたる大阪市住吉区や海路にあたる下関市一の宮住吉福岡市博多区住吉(この三社が日本三大住吉)壱岐に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきた。安曇一族宗像一族も大和朝廷に依頼されて彼らを支援して先導したり護衛したりしていたのではないでしょうか。全国に2129社もの住吉神社がある。
みやま市では上庄の住吉宮(八坂神社境内)がある。
   
住吉大社(博多) 住吉大社(大阪)
松尾大社
京都市右京区嵐山宮前にある松尾大社が松尾宮の総本社である。総本社の由来は太古の昔から、この地の住民が松尾山の磐坐(いわくら・神の御座所)を守護神として崇めていた。いわゆる山岳信仰である。5~6世紀、日本の古代国家が成立した頃に日本と朝鮮半島の交流が盛んな時に秦の始皇帝の子孫(最近の研究では新羅の豪族)と称する「秦(はた)」氏の集団が朝廷の招きによって来住、帰化する。この秦氏の首長が松尾山の神を氏神と仰ぎつつ、大陸伝来の新技法で土地開発や絹織物、陶器製造また松尾山からの湧く神水を使い美酒を醸造した。大宝元年(701)秦氏の祭神の社殿を建てられ、神水が湧く松尾神社が日本一醸造神と崇められ「酒の元水」として醸造家が持ち帰り用水に混和して醸造し美酒の製造を願い信仰した。また秦氏はのちに豊穣を祈って伏見に稲荷大社を祀った伏見稲荷がある。
みやま市では下庄元町の松尾宮がある。
                    松尾大社
伏見稲荷大社  京都市
大陸から渡来した豪族である秦氏が京都の山城の国で農業、養蚕をしていた。和銅4年(711)2月の初午の日秦氏は京都・伏見の稲荷山の三ヶ峰に豊穣を願って稲荷神社を創建した。この日をしのび「初午大祭」が行われている。平安時代になると,空海(弘法大使)は稲荷神を稲荷山の山頂から麓に遷して東寺(教王護国寺)の鎮守とした。823年秦氏は稲荷山から材木を供出するなどして真言宗との関係が強化され、これにより、真言密教が稲荷信仰と共に全国に広まっていった。農耕神(田の神)を祀ることは以前から全国各地に土着の信仰があり狐を神の使者と考えられていたが稲荷神と狐が結びつけられた。信仰が都市部でも広まり商工業の守護神としても広まった。家によっては屋敷稲荷として無病息災などを祈り祀ることも流行し、あらゆる願い事をかなえる万能の神様となった。祭神は食物をつかさどる宇迦之御魂(ウカノミタマ)で「古事記」には素盞鳴(スサノヲ)と神大市比売(カムオホイチヒメ)の間に生まれた神とある。いつも参詣人の絶えない稲荷大社だが、特にお正月には商売繁盛を願ってたくさんの人が初詣に訪れる。門前には、稲荷名物のすずめうずらの焼鳥・いなり寿司を売る店やきつね煎餅、伏見人形などの土産を売るお店が軒を並べて賑わっている。全国稲荷神社が一番多く約4万社がある。
みやま市では本吉の源徳稲荷神社・高柳の角源蔵稲荷・田代の清高稲荷・下小川の稲荷宮(天満宮お堂内)などがある。
佐賀県鹿島市の
祐徳稲荷は日本三大稲荷として有名である。全国では豊川稲荷(愛知県)・笠間稲荷(茨城県)などがあり、この2社は三大稲荷の座を競り合っている。

                    伏見稲荷大社
宇佐八幡宮
八幡神社の総本社は宇佐八幡宮(大分県)である。もとは宇佐地方にいた大神氏が信仰した氏神であったと考えられる。大陸との交流の盛んな時代八幡神を信仰する渡来人の秦一族との関わりがあり渡来技術により発展をもたらし、それ故に大神氏が八幡神を氏神としたという仮説も考察できる。
欽明天皇の時代
(539年~571年)大神比義という者によって祀られたと伝えられる。宇佐八幡宮の社伝「八幡宇佐宮御託宣集」などでは、欽明天皇32年(571)に「誉田天皇広幡八幡麿」(誉田天皇は応仁天皇の別名)と称して八幡神が表れたとしており、ここから八幡神は応仁天皇であるということになっている。東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(749)宇佐八幡宮は大仏建造に協力しており、781年には仏教保護の神として八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の神号が与えられ全国の寺の守護神
として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まり稲荷社に続ぐ6万社を数える。
祭神が応仁天皇であるから、皇室から分かれた源氏も皇室の祖神として信仰し、
建久3年(1192)源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎えて鶴岡八幡宮とし、御家人たちも武家の主護神として自分の領内に勧請した。それ以降も、武神として多くの武将が崇敬した。
みやま市では樋口八幡神社・下庄八幡神社・鷹尾八幡宮・廣田八幡神社下小川八幡神社など12の八幡神社がある。
全国では箱崎宮(福岡市)・岩清水八幡宮(京都)・鶴岡八幡宮(鎌倉)などがある。

                     宇佐八幡宮
若宮神社宇佐八幡宮境内
宇佐八幡宮の摂社、若宮神社は天長元年(824)同7年、御神託があって、仁壽2年(852)に造営使を派遣して造営創祀された。応神天皇の若宮であられる大鷦鷯命(仁徳天皇)外皇子を奉斎している。仁徳天皇は淀川の治水工事を完成させたことによって干拓事業の守護神として崇められていることから、御父、応神天皇をお祀りした神社を八幡宮といい、その御子をお祀りするところから若宮八幡神社という。また、「若宮」という名から、子ども・若者の守護神でもある。この神社から分社された記録は見つからないが、八幡信仰と一緒に広がっていったと考察できる。各地方に点在する若宮神社は、水の神様であることから、カッパ信仰が盛んに行われ、カッパ像を祀っている神社が多い。春日大社の若宮神社は祭神は天押雲根命であるので別格の神社であろう。
みやま市では有富の若宮神社が有名で、浜田の「野田の若宮神社」や藤ノ尾・朝日・本吉・山中に鎮座している。
印鑰(いんやく)神社
神功皇后の家臣武内宿禰(たけのうちすくね)蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね)親子は九州平定や三韓征伐のために長く天皇を補佐したことから印神社の祭神として祀られたという。総本社らしき神社はない。九州平定の任務で熊本の鏡町に立ち寄りここで亡くなった伝説もある。
印やく神社の「やく」は、「鑰」という難しい字を書きますが、これは
「かぎ」を表しています。国府の役人が交替する時、この官印とカギを社に納め帰国したという。印にゃくと発音する神社もある。この神社は熊本・宮崎・石川にあるが全国的に少ない。
筑後地方に於ける印鑰神社は初代筑後守の道君首名(みちのきみおびとな)を祀った神社といわれている。彼は和銅6年(713)初代筑後守として赴任し、条理制の施行に伴い、農政に力を注ぎ、灌漑事業に尽力し、農業生産安定に大きな役割を果たした。彼の死後、遺徳を慕い
印鑰神社として祀ったという。
福岡県では、みやま市に多く、瀬高に5社、高田に1社がある。堀池園・文広・上庄(八坂神社境内)下庄(八幡神社境内)久留米の高良大社にも印鑰神社がある。

大宰府天満宮  北野天満宮
菅原道真公は学問の家に生まれ、右大臣までなったが、昌泰(しょうたい)4年(901)左大臣の藤原時平の陰謀(いんぼう)により家族とも別れ別れになり九州の大宰府に左遷され謹慎の身となる。雨漏りする官舎でわびしい暮らしの末2年後に59才で亡くなり大宰府の安楽寺(現在の大宰府天満宮)に埋葬された。
道真が亡くなった
翌年から都で疫病がはやり日照りが続き清涼殿に落雷があって多くの死傷者が出た。藤原時平が急死醍醐天皇も亡くなった。朝廷は道真の怨念と恐れ元の位に戻し各地に流された子供達を都に戻した。さらに朝廷は火雷天神のある北野の地に北野天満宮を建立して道真の祟(たた)りを鎮めようとし、亡くなった大宰府にも大宰府天満宮が建立された。987年には「北野天満宮大神」の神号が下された。
平安末期から鎌倉頃には怨霊
(おんりょう)として恐れられなくなり天神様は慈悲の神、正直の神として信仰された。
江戸時代には道真が生前優れた学者・歌人であったことから、天神は学問の神として信仰されるようになった。
元々の火雷天神は雨をもたらす農耕の神である天神と道真と同一視されたことから各地の天神もまた道真であるとされるようになった。北野天満宮や大宰府天満宮からの勧請も盛んに行われ日本全国に約1万4千社の天満宮、天満神社などの道真を祀る分社があり数は第4位である。
みやま市では数多くあり19の社を数える。大宰府に続く九州第二天満宮として筑後市の水田天満宮がある。
      大宰府天満宮  北野天満宮
老松神社
大宰府天満宮系の神社で菅原道真を祀る。天満宮は全国に多く分社しているが、この老松神社は福岡県に多く、元は安楽寺天満宮領荘園のあったところに点在する。神社の名称の由来は不明だが、九州の太宰府に左遷された道真公は都を想い『東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ』と庭の梅を懐かしむ歌を詠みました。すると 都から歌に詠まれた梅が飛来して根付きました。これが飛梅、紅梅殿です。この梅を追って来たのが追松 転じて老松と言われます。この、能の題材「老松」にもなっている飛梅伝説から老松神社の名称が生まれたと考察できる。
みやま市の場合南北朝時代頃は長田荘と坂田荘は大宰府安楽寺領荘園で共に大塚集落と上長田集落と上坂田集落には老松神社が鎮座している。瀬高町には道真公を祭る天満神社は19社を数えるが老松神社は大宰府安楽寺領荘園だつた3社のみである。老松神社は思うに大宰府天満宮の分社と安楽寺天満宮領内の菅原道真を祀る末社を区別し寺領側を優遇したと考察できる。
宝満神社(竃門(かまど)神社が現在名) 宝満山(大宰府)
宝満神社とも呼ばれ福岡県に分社が多い。大宰府政庁ができた時、鬼門(東北)よけとして建立された。
天武天皇12年(683)心蓮という僧が山中で修行中、玉依姫を祭神にして、社を建てたのが上宮の始まりである。
宝満山のふもとに下宮、中腹に中宮跡、頂上に上宮がある。同じ敷地には、大山寺(有智山寺)、内山南谷、北谷に天台宗寺が370坊あって、修験山伏の道場として栄えた。多くの僧や山伏が戦国時代の戦乱で衰退した仏教色が強く明治には全部破壊されたが山中に石仏や堂跡が残っている。
みやま市では上庄の北原と小田唐尾に分霊が祀られ信仰されている。昔、北原の宝満神社は洪水んで五十町に流され、五十町にも宝満神社が祀られ、北原のお宮は五十町の信者で清掃されてきた。
                   
竃門神社(大宰府)
祇園社・八坂神社   京都市

京都市東山区祇園町にある。斉明天皇2年(656)高句麗の使い、伊利之使主(いりしおみ)が再来した時に新羅の牛頭山の素盞嗚尊を祀っり祇園祭が始まったと伝えられている。牛頭天王は武塔天神(厄神)とも称され祭神の素盞嗚尊と同一視され賀茂、松尾、稲荷などと同様に6世紀半ば頃には農耕の神として八坂郷の崇敬を集め素戔嗚信仰が盛んになり疫病除けの神にもなる。平安時代に流行した疫病の退散を祈り行われた祇園祭は、今でも京都を代表する有名な祭となった。明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称した。日本各地から広く崇敬を集め八坂神社・牛頭神社・八雲神社・八剣(やつるぎ)神社などの名で、約3千の分社がある。有名な祇園山笠」の櫛田神社は主神とは別に天慶4年(941)藤原純友の乱(大宰府を襲う)を鎮めるため、この地の者が京都の八坂神社に祈願したことから、素戔嗚神を京都から勧請し、奉斎したものである。
みやま市では上庄の八坂神社・唐尾の八坂神社・本吉の八剣神社・八坂神社・大和町(柳川)の八剣神社がある。




                    
京都八坂神社

日吉大社山王権現・山王神社・日枝神社などと呼ばれる
総本社は滋賀県大津市の日吉神社(日吉大社)である。山頂の磐座が原始の信仰の地で琵琶湖方向から立ち昇る太陽を地主神として崇め山王権現と称した。日吉神社の祭神は,大山咋神(おおやまくいのかみ)で和銅5年(715)の「古事記」には近淡海国の日枝の山に鎮座してある記述がある。国家鎮護・方除け・魔除け・災難除けの神でもある。
天智天皇7年(668)近江京遷都に伴い国と朝廷の守護神の大己貴神(おおなむちのかみ)を大和三輪大社から勧請されている。
延暦13年(794)の平城京遷都に伴い、平安京の表鬼門を守護する神社として崇敬を集めた。
延暦7年(788)比叡山に延暦寺ができたこともあって神仏習合が進み天台宗が全国に広がる過程で、日吉社も全国へ拡大し、山王神道の拠点となった。唐の天台宗本山の天台山国清寺の山王祠にならって山王権現と呼ばれた。比叡山の僧徒は,日吉神社の神輿を奉じて入洛し、しばしば朝廷に強訴したりして政冶的にも大きな力を持つ。
元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちにより日吉神社も焼け落ちた。現在見られる建造物は安土桃山時代以降に再建されたものである。
江戸時代に入ると天海による山神道が起り,幕府と深い関係をもち、家康没後天海は日吉東照宮建立を行っている。それで家康を大権現として祀られたのである。江戸時代の日枝神社は将軍家の産土神となり重きを成した。
慶応4年(1868)3月神仏分離令(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動)により最初に強行されたのが日吉神社で、神官たちが乱入し仏像・仏具・その他仏教的色彩のあるものはことごとく追放したり,焼いてしまっている。そして旧社名山王権現も日吉神社と改められた。この神仏分離政策は全国の寺院の破却はつづき、半分近くの寺院が廃絶され、数多くの古文書や文化財が失われる結果となった。明治4年(1871)頃からは、民衆の仏教の宗教心は断ち切れなく民衆の反発もあり挫折してゆき、多くの寺院が再興された。日吉神社は全国3千8百社の分社がある。
みやま市では北高柳の日吉神社山王社・南高柳の日枝神社・三ノ溝山王社がある。
                    日吉大社

西宮神社・えびす宮総本社
商売の神様のエビス信仰の中心、西宮神社(兵庫県西宮市)でがえびす宮総本社です。その祭神は蛭子大神とされている。夷、戎、恵比須、蛭子とも書かれる。釣り竿を持ち大きな鯛を抱えた姿の神で、大漁をもたらす神として漁民の間で信仰され商業の発展とともに商売の神様として信仰を集めた。創建は不明で平安時代にはえびす社として知られていた。「えびす」は「得不見(えみず)」がなまったものという説があり異邦人や辺境に住む人を意味し、えびす様は海の彼方から流れてやって来た神様であるとの伝説もある。室町時代以降七福神信仰によってえびす様が福の神の代表となり人形操や謡曲、狂言などの芸能をとおして全国すみずみまで御神徳が広まり、漁業・商売・農業の福の神 と崇められた。国の重要無形文化財に指定されている大阪文楽や淡路島の人形浄瑠璃は、西宮神社の「えびす舞」が源流となっている。西宮神社は、♪商売繁盛笹もってこい♪で知られる年始めの1月10日の「十日戎」があり 朝6時に開門し1番に本殿にたどりついたものが1番福男で3番福男までが恵比須像をもらえる。毎年もの凄いにぎわいを見せ100万人ほどの参拝客がある。
みやま市では北高柳の日吉神社境内に西宮大神を祀った形跡があり、昔はここの社を基点に庶民の神様恵比寿様をここの祠の形をまねて建てエビス様を祭り伝えて来た信仰が筑後一円に広がって行ったと思える。上庄(八坂神社境内)、上町、八幡神社境内、談議所、田代、新町、元町、樋口神社境内、本吉などに「えびすさん」が石の祠に祀られている。江戸期から明治の建立記載の石の祠が多い。また下庄恵比須町には、えびす神社が鎮座して10月に「十日戎」と「二十日戎」の祭礼を行っている。長島の釣天宮の境内にも西宮がある。

                      西宮神社
諏訪大社   長野県
諏訪大社は、長野県諏訪の地にある。「古事記」には出雲を支配していた大国主命に国譲り(出雲王朝の支配権を譲渡)を迫られ次男建御名方命は国譲りに反対して、諏訪まで逃れ狩猟農耕の神として国を造りの神話あるが大和朝廷の国戦略の影響が考察できる。祭神は上社が、その建御名方命(たけみなかたのみこと)と妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)を下社に兄の八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)が祀られている。神功皇后が三韓征伐に際し神の力を授け、鎌倉時代の文永弘安の役にも外敵蒙古を退けられたとの伝説あり。由来国家鎮護の守護神として。歴代武門・武将の崇敬篤く甲斐の国の戦国武将で諏訪地方も領有した武田信玄も守護神とし社殿を造営・祭祀を復興し、江戸幕府はまた社領1500石を奉献した。7年ごと行われる「御柱祭」は雄壮な木落としなどで全国的に知られているお祭りです。諏訪神社の分社は全国に1万有余社を数え諏訪さまと親しまれ、巾広く信仰された。
みやま市では本吉に古い歴史をもつ諏訪神社がある。長崎市のお諏訪さんも「おくんち」で有名です。
                     
諏訪大社上社
高良大社   福岡県
高良大社は福岡県久留米市御井にある。明治以前は高良玉垂宮(たますだれぐう)のち高良宮、高良社、玉垂宮、高良玉垂宮などと呼ばれた。高良玉垂命を主神とし、相殿に八幡大神、住吉大神を奉斎している。
仁徳天皇78年(390)鎮座と伝えられ、履中(りちゅう)天皇元年(400)の創建という。嵯峨天皇の弘仁9年(816)11月、名神に列し、貞観11年(869)3月従一位、宇多天皇の寛平9年(897)には正一位を授与された。筑後国一の宮・九州総社・鎮西十一ヶ国の宗廟と称えられた。
神主物部道麿(もののべみちまろ)の子、美濃里麿(みのりまろ)に神託があり、それによって大祝(おおはうり)家三男隆慶社僧にしたという。その子孫は江戸時代前まで48世続き、盛時には神宮寺御井寺(みいでら)の座主(ざす)として千余名の僧徒を支配した。
旧国幣大社。現社殿は
万治3(1660)年の造営になる権現造で、社宝の紙本墨書平家物語覚一本12冊とともに国の重要文化財に指定されている

みやま市では分社は堀切の「玉垂神社」がある。ほかに大分県日田市十二町・八女郡水田町・大刀洗町・大牟田市岬があり福岡県の筑後地方周辺に点在する。
                       高良大社
香椎宮
香椎宮は福岡市東区香椎にある。神亀元年(724年)の創立とされる。祭神は仲哀天皇と伝説の神功皇后であり、元来は神社ではなく、神社と陵墓の中間の廟(びょう)だった。古来から皇室の崇敬が厚く伊勢、石清水などとともに本朝四所の一つである。
古事記や日本書紀には仲哀天皇は、国の内外を平定(熊襲征伐・三韓征伐)するため、神功皇后と共に一時期この地に皇居を置いたといわれている。天皇が崩御された後も、神功皇后はこの地に止まって武内宿禰らと国の内外を平定された。香椎宮は古くから、皇室の宗廟として高い格式をもっていて、今の本殿は享和元年(1801)筑前藩主黒田斉清が再建したもので、「香椎造り」と呼ばれ国の重要文化財に指定されている。香椎宮の分社には香椎聖母宮・聖母大明神・聖母大菩薩・聖母神社・聖母宮の名称がある。
みやま市では本吉庄は平安末期から鎌倉・室町時代まで香椎宮の領地であったので草場の地に香椎聖母神社を創建したと考察できる。そのほか草場から分社された藤ノ尾の香椎聖母神社や本郷にもドンキャンキャンで有名な香椎聖母神社が鎮座している。泰仙寺にも聖母宮がある。

                       香椎宮
金刀毘羅宮   香川県
こんぴら様は金比羅・金毘羅・琴平などと書かれます。香川県の象頭山の中腹に鎮座する神社で江戸期まで金比羅大権現であった。祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)で相殿には崇徳(すとく)天皇が祀られている。昔から「こんぴらさん」と呼ばれて親しまれ農業殖産、漁業航海、医薬、技芸の神様として古くから信仰されています。長い参道が有名で奥社まで登ると1368段あり、昔を偲ばせる燈篭が多く残っている。境内の絵馬殿には航海の安全を祈願した多くの絵馬が見られる。
みやま市では上庄の藩政時代に船で大阪に米を積み出したお倉の浜のそばに金刀比羅神社がある
                       
金刀比羅宮

トップ   管理人 庄福  shofuku21@yahoo.co.jp