庄福BICサイト     みやま市瀬高町の観光名所

        

福岡県山門郡瀬高町・山川町・三池郡高田町は平成19年1月29日合併しみやま市が誕生!
「みやま市の観光名所」として内容を充実させ更新いたしました。
H19・1・29日更新
瀬高町 高田町・山川町 山川町歴史散歩
  
        【卑弥呼の里】
みやま市瀬高町地域は、福岡県の南部、筑後平野の東端に位置し、東には九州山地に連なる清水山系を抱え、西には肥沃な沖積層の平地がひらけた田園地帯です。特にハウス栽培による「長ナス」と「セロリ」は、全国屈指の生産高を誇っています
謎の多い古代史のなかでも、特にひとを魅きつけてやまないのが、邪馬台国の女王卑弥呼。邪馬台国論争のなかで、邪馬台国九州説の有力候補地の一つが瀬高町の“女山(女王山)”です。ここにある古代朝鮮式山城「女山神籠石」は、卑弥呼に関係した遺跡ではないかといわれ、ほかにも周辺には古墳や遺跡などが数多くあります。また、国指定の新船小屋の大楠林、や最澄ゆかりの清水寺本坊庭園三重塔、戦国武将が愛好した国の無形民俗文化財の大江幸若舞など、史跡、名勝や文化財が豊かな歴史とロマンを秘めた町です。
中の島公園  瀬高町長田
矢部川河川敷にあり、元禄の造林より300年を過ぎた、幹廻り3m,樹高15m〜20mにおよぶ巨木の林はクスノキ林がうっ蒼と2kmに及ぶ遊歩道をおおい行楽客に森林浴を満喫させてくれる。このクスノキ林は元禄8年(1695)田尻総助総馬親子が柳川藩の晋請役として通称千間土居を築堤し、引き続き広瀬小田・長田に至る4km弱長田土居を築堤し、樹林を植えたものです。これが広瀬河端・小田野林・長田孤林と呼ばれ、現在に残る国指定天然記念物である。
公園の中央を国道209号が貫き散策道、野球場、ゲートボール場、遊具など、子供から大人まで楽しめる施設を整備している。春には菜の花や桜が咲き初夏には天然記念物の源氏ボタルが飛びかう景観は実にみごとである。夏は釣りや淡水水浴場で川遊びが楽しめる。。遊んだあとはそばの新船小屋温泉の鉱泉場でのどを潤わせては、いかがですか。

長田の鉱泉と温泉(新船小屋温泉)
徳川末期、元治年間(1864)熊本の勤皇の志士、中田多一郎が上洛の途中この地を通り、当時、不思議の水と恐れられ、だれも触れないようにしていた湧水(鉱泉)を飲んで持病の胃痛に特効を認め、村人に薬効ありと勧めたのが始まりといわれている。
別の説には、郷土の木本正蔵が慶応3年(1867)に発見し、明治3年(1870)旧藩(立花藩)に願い出て入湯場を開設した、とも言われている。
水質は、有馬温泉と同じ炭酸湧水で、その含有量は日本一との評がある。効能は、ロイマチス関節炎、胃腸疾患、便秘などと言われている。
鉱泉場には毎日、ペットボトルを持ち込み沢山の鉱泉水を持ち帰る方が多い、川を隔てた船小屋の鉱泉場より品質がすぐれていると常連の方の話を聞かされた。そばで田中羊羹本舗を営む奥さんの話によると、お茶や味噌汁、煮物など美味しく出来る料理の秘伝を教わった。田中羊羹店は佐賀の小城から来て開業された店である。水にこだわるブームが続いていますが、貴方も鉱泉水を使って研究しませんか。
春にはそばの矢部川堤防では桜の花見客でにぎわいます。

善光寺 (壇一雄ゆかりの寺)  瀬高町小田の平田部落     
平田の善光寺は作家・檀一雄が終戦後の昭和21年(1946)4月に腸結核で妻の律子を亡くし、沖ノ端の実家や朝日の親戚筋の村山家を転々、6月に貧困と失望のなか、3歳足らずの長男の太郎を連れ、住職宅の屋根裏部屋に半年余り身を寄せた場所です。
 
つくづく櫨
(はじ)の葉朱(あか)く染みゆけど 
                下
(した)照る妹の有りと云はなく
は善光寺の裏山で筑後平野を見下ろしながら死別した妻を想い、詠んだ悲歌とされています。師の佐藤春夫川端康成尾崎一雄から妻に対する追悼や文学的再起を促す手紙をもらい再起し、「リツ子・その愛」「リツ子その死」を書き更に「新説石川五右衛門」の構想を練った、ゆかりの地です。同年、瀬高出身の児童文学者与田準一の紹介で瀬高町の酒造家の娘山田ヨソ子と再婚。上京して妻律子を描いた名作にて文壇に復帰しました。昭和26年(1951)長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。のちに「少年猿飛佐助」「夕日と拳銃」「美味放浪記」など数多くの作品を執筆しました。昭和50年(1975)に悪性肺腫瘍で九州大学病院に入院。の床での口述筆記により20年にわたって書き継がれた代表作「火宅の人」の最終章を完成させ、翌年1月2日永眠。享年63歳。「火宅の人」は読売文学賞と日本文学大賞を受賞しました。筑後路の熟柿の赤き手に染まむ は善光寺の庫裏の玄関前の柿の木を眺めて詠ったとされ、傍には「リツ子その愛・その死 檀一雄執筆の地」の碑があります。太郎と2人で散歩した奥山の広場では春は桜咲き、秋には紅葉が彩り与田準一謹書「檀一雄逍遥
(しょうよう)の地」の碑が故人の遺徳を偲ばせます。
大観峠清水寺に行く、古曾都(こそつ)林道登り口(東山愛児園東側)の東側の山部が敷地で入口は山に沿って田んぼ道路を東に50m位の案内板(この先10mの所はしだれ桜の名木野入口)を右に登る(車で1分)


  りつ子その愛・その死
  檀一雄執筆記念碑
しだれ桜(町指定文化財)  小田の名木野

名木野にある「白一重しだれ桜」で、樹高15m、胴廻り2mの堂々たるもので、樹齢は約300年といわれている。しだれ桜には紅一重、紅八重、白一重の3種類があり、いずれも寒冷地に適する品種とされ、京都付近を中心に、せいぜい広島県の山岳地あたりが南限とされていて瀬高に古木として生き残っているのは珍しい。柳川藩の家臣吉田家の別邸があり、元禄時代(江戸期)に京都から苗木を取り寄せ庭園に取り入れたと思われる。近くに柿本人磨外を祀る祠があり、天保14年(1843)別邸の名と思われる「晴嵐亭」に於て催された、連歌の一巻と奉納の木札がある。また祠には嘉永4年(1851)に奉納された、吉田千秋の和歌三十二首の板の扁額も遺されている。
平田の善光寺東側近くの山道を登ったところにある。
日子神社の御田植え祭  下長田と女山
毎年3月15日には御田植え(おんたうえ)神事が男子小学生が早乙女姿に扮した10人余りの一団が長(おさ)の呼びかけに応じて子方が唄を斉唱しながら輪を画いて歩きその後松葉を早苗を境内を水田ににみたて、田植えの真似事をする。毎年参拝、見物者が増えて名物となり繁盛伝統行事となっている。同日、神殿にて粥占いも行われる。
女山(ぞやま)神籠石(女山史跡森林公園)
女山神籠石や古墳がある歴史のロマンいっぱいの公園です。神籠石は国指定文化財に指定されている。詳細は神籠石の謎 でご覧ください。展望台からの眺めは有明海.雲仙岳.佐賀.筑後平野が広がり絶景である。
梅野家歴史資料館  瀬高町女山
寛永2年(1625)から住んでいる旧家で仙崖和尚の掛軸など先祖伝来の品物が多く残っている。近隣から発掘された出土品を展示してあり、女山の中腹より昭和33年出土した貝製雲珠(県指定有形民族文化財)は貝はひも貝が使用され、笠形をした貝の中央に穴をあけ、金銅製の棒を通し、貝の上には花形の金銅製金具をつけている。古墳時代後期の古墳の副葬品である。木曜と日曜日に拝観できる。
敷地内北側奥には神籠石を横切る水門のひとつの長谷水門(ながたにすいもん)がある。横尾谷、長谷、源吾谷(破壊)、産女谷と4つある。近くの大塚集落には蜘蛛塚(老松神社境内)や権現塚(セロリハウスに囲まれている)の古墳がある。
八楽会・しゃくなげ園     女山
昭和21年八楽精神修養道場を小川耕一郎教祖が創立し、昭和31年宗教法人認証八楽会総本部となる。邪馬台国女王卑弥呼の霊を祀ってあり、神籠石史跡の南側山中には昭和56年建立の八楽奥之院の極楽院本堂と研修道場などがある。高速道路傍の卑弥呼の霊を祀った城域が本部である。山を少し登ると八楽奥ノ院があり「しゃくなげ園」(4月中旬〜5月中旬)もあります。
清水寺   瀬高町本吉
瀬高の観光地として一番有名な場所です。三重塔の向え西側展望場には児童文学者与田準一の詩碑がある。春の花見秋の紅葉の名所、ぼたん園、清水寺本坊庭園、清水寺、三重の塔、清水公園など数多い見所です。
清水寺本坊庭園(本吉)国指定重要
この庭園は東南北に山を囲らし心字の池を中心とする庭石の配置、植込み、池にそそぐ暖、急の滝など、自然と人工の美が溶け合い、春夏秋冬いつ訪れても飽きない名園である。特に正面の愛宕山からのぼる中秋の名月はすばらしく、その月が心字池の写るように工夫された借景式の泉水庭である。新緑と紅葉の頃はことのほか美しい。本坊前には大きな銀杏樹があり、紅葉時期には黄色のジュウタンで敷きつめられる。傍に北原白秋自筆による碑が立っている。「ちち恋し 母恋してふ 子のきじは と青とも そめられにけり」
清水寺本坊のぼたん園
ぼたん園は清水寺本坊の手前にあり広さ3000uの回遊式庭園で、30種2500本のぼたんが植えられている。4月の中旬から下旬が見ごろ。
諏訪神社   本吉
祭神は建御名方神で本吉の産土神である。境内に稲荷社大神宮、萩野森神社、屋須多神社地主宮がある。安産の神様として古来から信仰があり、安産のお守札を出されるので遠近からの参拝者が多い。境内は保育園になっている。詳しくは瀬高のお宮【北部編】で。
堤古墳群   瀬高町山門堤(朝日部落の西)
堤村落のいたるところに巨石が散在。中央に南北に走る道路に沿って、東方4ヶ所、西方8ヶ所に巨石が確認。大正2年(1913)発見されてから、邪馬台国の卑弥呼の墳墓説が唱えられ今日にいたっている。詳しくは古墳を訪ねて山門古墳群編をご覧ください。
西側の藤尾部落には前方後円墳の車塚がある。
どんきゃんきゃん (文広広田八幡宮・本郷香椎聖母(しょうも)神社)
広田八幡宮の秋祭りの時に本郷の香椎聖母神社からお迎えの人が芳司にやって来て行幸の式が始まる。この祭りは祭りのお囃子の音から別名「ドンキャンキャン」ともいわれ本郷、文広の芳司部落を中心に五穀豊穣を願い、鋏箱(はさみばこ)や毛槍を持った一隊と奴、笛、太鼓、かねの音を響かせ盛大に行われる。広田八幡宮の祭神は応神天皇本郷聖母宮は応神天皇の母神功皇后芳司の宮から本郷の母方の宮に御神興奉仕する行事であり、中世の神事と近世の大名行列を組み合わせた「どんきゃんきゃん」は昭和54年福岡県無形文化財に指定されている。祭礼は11月3日(文化の日)の行われている。
みやま市歴史資料館図書館と併設)  瀬高町小川
展示内容を「原始時代」「古代〜中世」「近世」に分け、みやま市内で出土した石器や土器などを展示するとともに、当時の暮らしや時代背景などをパネルで説明。また、みやま市の文化財、幸若舞や神籠石などについて映像で学ぶこともできる。みやま市立図書館に併設されている。詳しくはみやま市図書館まで。
大人形さん・大提灯     上庄八坂神社
大人形は江戸初期(1622年)立花宗茂により八坂神社改築され途絶えた祭礼を初め、神事も始めた行事です。地元では上庄の祇園さんで親しまれています。
大人形さんは白旗を小わきにはさんだ源義家(八幡太郎義家)を右に阿部宗任貞任)を左にそして中央に社壇を安置して祇園の神を祭ってある。今でも「うう人形さん」の名で人形の股をくぐりぬけると病気にならないと言われ盛大に7月24〜25日に行われる。
祭礼の前の
7月21日人物花鳥風月を描いた高さ2,5m直径1m大提灯が町中を練り歩きます。この大提灯は和紙に、布や魚のうろこ、虫、木の皮などを使って緻密な作業を重ね完成。まさに芸術といえる上庄の風物詩です。祭礼の期間中献灯されます。
祇園さんの東側には戦後の童謡・童話界を引っ張ってきた
児童文学者与田準一の生家跡があり東に4軒おいた菊美人酒造は、北原白秋の姉の婚家で玄関にはミニ展示場があります。

金栗遺跡(井戸県指定)   瀬高町金栗
この遺跡からは「刳り貫いた木を枠として使用した井戸」一基が完全に近い形で発見、全国でも珍しい奈良時代のものである。また青磁、土師器、須恵器、かまどなどの出土品がある。
広安の湯 大江小学校から南へこうわか苑の先の川を渡り慈久園手前を右に入り4軒目瀬高町広安
鎌倉時代、湧水で鶴が体を癒やしていたのを見て、人間にも効用があるのを発見したという。広安城の武士達がこの水を沸して浴し、戦傷を治していた。宮園城主、今村氏代々の「隠し湯」として始まった。700年の歴史をもつ湯治場である。鉄鉱泉の沸し湯で赤色の湯で皮膚疾患、アトピー、神経痛、リュウマチ、子宮痛に効能がある。現在はアトピーの若き方や午前から弁当持参で夕刻まで年寄りの方の社交場として賑わっている。
大江幸若舞        瀬高町大江
戦国時代に生まれ、織田信長豊臣秀吉徳川家康らの戦国武将が愛好した幸若舞。今では大江地区にしか伝承されておらず、国の重要無形民族文化財になっています。
日本最古の舞楽として約700年の伝統をもち、日本芸能の原点といわれている「幸若舞」が演じられる瀬高町大江の大江天満神社の舞堂で毎年1月20日に行われている。または、毎年11月の産業文化祭でも観賞できる。
こうやの宮(町指定)など古代の宮散策    瀬高町長島・海津・竹飯
祭神が異国風の服を着て、七支刀を奉持した男神と鏡を持った女神、カッパ像がある。周辺には自然信仰の時代からの多くの歴史ある宮がある。

瀬高町地域地図

瀬高町 高田町・山川町 山川町歴史散歩

                  瀬高町役場のHP・瀬高郷土史会の資料により作製しました。

  瀬高の歴史と文化