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                  八女古墳群編(八女市.広川町.筑後市三潴町.立花町.)

岩戸山古墳(八女市大字吉田.福島高校徒歩3分)

石人
北部九州最大の前方後円墳で墳丘長約135m、後円部径約60m、前方部幅約90m、高さ約17m、周堤を含めると185mにもなります。古墳の東北部には祭祀が行われていた別区を持っています。その規模や内容が筑後風土記の逸文とほぼ合致することから、古事記や日本書紀にも登場する「筑後国造磐井」の生前に造った墓といわれ、築造者と築造年代が判明している貴重な古墳です。昭和30年に国指定となりました。未調査のため古墳内部についてはあまり分かっていませんが、電気探査により小型の横穴式石室らしきものの存在が確認されました。100点以上出土した石人石馬などの阿蘇凝灰岩製石製品は、現在は岩戸山歴史資料館に展示されていますが、江戸時代福島城の城壁などに石材として使用された悲しい過去もあります。
石製品(石人・石馬・石盾・武装石人頭部)
阿蘇凝灰岩で造られ、通称石人石馬と呼ばれています。主に岩戸山古墳から100点以上発見されており、円筒埴輪と一緒に古墳に立てられていたようです。1古墳1個体または数個体という常識を大幅に破る量で、岩戸山古墳の威勢が伺えます。石製品は、土で造っていた埴輪を石で、しかも基本的に実物大で造った所に特徴があります。種類も人物(武装石人・裸体石人など)動物(馬・鶏・水鳥・猪など)器材(靱・盾・刀・坩・蓋・ など)と豊富で、赤や緑の彩色が残る物もあります。現在は岩戸山歴史資料館で展示保管されている。国史跡
乗場古墳(八女市大字吉田.福島高校徒歩3分)
墳丘長約70mの前方後円墳で、6世紀中頃の装飾古墳です。大正11年に国指定となりました。後円部に南に開口する複式構造の横穴式石室があります。石室内部には赤・黄・青の3色を使った三角文や同心円文などの文様が描かれていますが、保護のため現在は閉鎖されています。出土した環頭大刀柄頭・人物埴輪・玉・馬具などは岩戸山歴史資料館に展示されています。国史跡
丸山塚古墳(八女市大字宅間田.西鉄バス福島高校前から徒歩20分)
直径33m、高さ5.3mの大型円墳で、かつては周堤があったということです。昭和53年に国指定となりました。主体部は複室構造の横穴式石室で、玄室の奥壁、羨道、玄門の袖石に赤・緑・黄の3色を使った円文・三角文・蕨手文が描かれています。6世紀後半のものと思われる装飾古墳です。春には桜が咲き誇り、お花見に最適です。
丸山古墳(八女市大字本.八女勤労者体育センタ−入り口)
八女古墳群の最も東に位置する全長約48mの前方後円墳です。昭和53年に国指定となりました。発掘調査は行われていませんが、墳丘の形やくびれ部から発見された円筒埴輪などから6世紀中頃のものと思われます。北方には金製垂飾付耳飾りや埴輪が出土した立山山古墳群があります。
茶臼塚古墳(八女市大字詫間田・豊福福島高校前から徒歩20分)
直径約24m、高さ5.3mの円墳です。昭和53年に国指定となりました。墳丘頂部は盗掘により陥没していますが、石室に関連した石材は確認されていません。発掘調査は行われていませんが、出土した円筒埴輪や墳丘の規模・形状などから6世紀後半ごろのものと思われます。
立山古墳(八女市大字本字立山)
昭和56年から58年にかけて3次にわたる発掘調査が行われました。調査の結果、5世紀から6世紀にかけての古墳が発見され、総数40基以上が確認されることとなりました。その中でも、8号墳からはわが国での発見は大変珍しい朝鮮半島からの伝来品と見られる金製垂飾付耳飾りや、馬・猪・人物などの形象埴輪が発見されました。また13号墳からは馬に乗る貴人埴輪・人物埴輪などが発見されています。
鶴見山古墳
前方後円墳。後円部は現状のまま保存、公園となっているがが前方部は果樹園で北側は盛り土されているのか輪郭がはっきりしない。後円部南側に盗掘跡があり石材が1個露出、国史跡。
童男山古墳(八女市大字山内、福岡県立ふれあいの家南筑後南)
直径約48mの大型円墳です。昭和31年に県指定となりました。主体部は複室の横穴式石室です。玄室には凝灰岩製の巨大な石屋形があり、中にはくり抜きの石棺が納められています。6世紀後半のものと思われます。地元では古来から、徐福伝説より旅の安全祈願の対象として、童男山(とうなさん)という名称から耳の神様として祀られてきました。毎年1月20日には、「童男山ふすべ」が行われます。
岩戸山4号墳(下茶屋古墳)(八女市大字吉田)
岩戸山古墳の西方150mに位置する直径30mの大型円墳です。平成6年に市指定となりました。内部主体は大型古墳には珍しい三室構造の横穴式石室です。石室に使用された石材は非常に大きく、丁寧な加工が施されています。石室が開口していた鎌倉時代には地場信仰の対象となっており、奥壁に「卍」が刻み込まれています。7世紀初めのものと思われます。
石人山古墳(広川町大字一條字人形原1435)
石人
標高35m前後の丘陵の一部を利用して築造された前方後円墳です。古墳の規模は、墳長約107m、前方部正面幅約63m・同高さ11m、後円部直径約53m・同高さ約12mです。北側くびれ部に「造り出し」を持っています。内部構造は、後円部のほぼ中央付近を現在の墳丘面から約4m掘り下げて長さ約3.9m・横幅約2mの竪穴系横口式石室が設けられています。石室内には、阿蘇溶結凝灰岩製の「妻入り横口式家形石棺」が置かれています。
石人山古墳は、その名の起こりともなった武装石人が立っていることでも有名で、石人は古墳の前方部と後円部の、ちょうどくびれの部分に立っており、主体部の石棺に埋葬された被葬者を守っているかのようです。この石人は背丈が約1.8mで、鎧(短甲)を身につけて、靫(ゆき)と呼ばれる矢入れを背負った、武装した姿に彫刻されています。この石人は江戸時代の中頃には地面に倒れていましたが、その当時、広川谷21ヵ村の大庄屋であった稲員孫右衛門安則という人が、地面を平にならして基壇を築き、石人を起こして顕彰しました。
弘化谷古墳(広川町弘化谷)
弘化谷古墳は、6世紀中期(古墳時代)に築造された装飾古墳。高さ7m、直径40m、2段築成の円墳の横穴式石室の内部に彩色されている。石室は片岩の割石を積みあげ、埋葬施設として家形に組立てた石屋形が設けられている。その墓室の奥壁、両側石、天井石内面に赤・緑で幾何学文の三角文と円文、双脚輪状文、靱(矢筒)、が描かれている。線刻文様もみえる。被葬者はわからないが、「磐井」など筑紫君一族を支えた有力者ではないかといわれている。
善蔵塚古墳(広川町大字六田字善蔵塚340番地)
墳丘は2段で後円部に大きな盗掘坑があるが比較的良好のようだ。「前方後円墳集成」では前方部は消滅となっているが。国史跡。
馬場古墳群(広川町大字水原中馬場)
3号墳:径10mの円墳。石室は全長約6mで、複室両袖の横穴式石室。封土・石室共に完存。
4号墳:径12mの円墳。石室は全長約6mで、複室両袖の横穴式石室。封土東側は農業用道路により一部削られているが石室は完存する
欠塚古墳(筑後市欠塚)
昭和27年に一度調査が行われ、平成元年に再度調査が行われた。全長約50メートル、後円部の直径は約29メートル、の前方後円墳で、前方部と後円部とのくびれ部分に「造り出し」と呼ばれる施設を持つ。古墳は概ね北東から南西にかけての主軸に沿って築かれており、昭和27年に調査された石室の入口は西方を向いており、築造年代は5世紀末と考えられる。時期的には石人山古墳(5世紀前半〜中頃)と岩戸山古墳(6世紀前半)の間に入る古墳である。現在、古墳は公園として整備されている。
御廟塚(三潴町高三潴)
弥生時代中期の塚。貝塚を再利用している。表面は牡蠣殻や黒耀石で覆われていたが、随分以前から心無い愛好者の土器収集により、随分少なくなってしまっている。「三潴郡誌」によると、江戸時代藩命により百姓善兵衛の発掘にて、石棺上から銅剣二口が確認されている。うち一口は町の指定文化財(有形文化財・考古資料。平成8年指定)となっている。一口は現在その所在は明らかでない。表面の牡蠣殻や地形から見てこの地は当時海岸線の突端に位置していたものと考えられる。
十連寺古墳(:三潴町西牟田)
町内でも最高所に位置する。東側にある病院建設の際、石室の一部が露出し、小口積みの石室であることが確認された。現存長は南北16m、東西12m。推定径30mの円墳であったと考えられる。この規模の円墳なら福岡県下でも有数の大型に類するであろう。墳丘は盛土による造成のようである。正式に発掘調査したものではないため、出土品等が確認されていないが、石室の状況・盛土の関係などから考えて、少なくとも6世紀中葉を下るものではないと考えるが、詳細は今後の調査に期待したいところである
裏畑古墳(三潴町玉満)
私有地中の庭先に続く竹薮に囲まれた小丘。生茂る草木のため見えにくいが、南側の斜面に一枚の板石が露出していて箱式石館(家形石棺との説もある。)の一部ではないかと言われている。周囲を開墾により一部削られており原型は不明だが、隣接地で行われた発掘調査の際確認された円墳の状況などから同様の円墳ではないかと考えられる。現存する墳丘は径20m、高さ2m余りである。この遺跡も今後の調査が待たれる遺跡である。
大塚古墳(立花町北山上ノ原)
町内の円墳では最大のもので、外周からの直径は38m、1段目は盛り土をせず、2段目は1.9mの高さがあり、幅約2mの平坦部になっています。さらにその上に3.8mの高さの3段目があり、頂上は現在の地表面から5.85mあります。石室はほぼ南西に開口する横穴式石室です。石室は全長11.9m、後室、前室ともに川原石を用いた敷石が一面にしかれていました。後室の平面の形は長方形で、奥の壁、両側の壁に大きな一枚岩が用いられています。石室内から光沢のある装身具の金環、刀子の小片、大刀の一部分、鉄鏃の小片が出土しています。築造は6世紀後半と考えられます。
浦田古墳(立花町谷川455-2)
東西に走る丘陵の南側斜面の裾部近くに造られており、墳丘を造る際に丘陵の斜面を一部削って墓域としています。墳丘の中心は玄室の中央部に位置するものと思われ、墳丘の規模は直径14m、現存する墳丘の高さは3.3mです。東西に走る丘陵の南側斜面の裾部近くに造られており、墳丘の頂上の標高は63.3mです。墳丘を造る際に丘陵の斜面を一部削って墓域としています。墳丘の中心を玄室の中央部と考えると、墳丘の規模は直径14mの円墳です。現存する墳丘の高さは3.3mです。内部は複室の横穴式石室で南南東方向に開口しています。全長8.3m、玄室は奥行き2.6m、幅3m、高さ2.55m、で前室の長さ1.7m、幅2.4m、高さ2.45m、羨道の長さは2.9m、幅1.5mです。
鬼隈横穴群(立花町山崎字鋤崎日枝神社裏丘陵)
鬼隈横穴群は標高49〜61mの硬質砂岩の山腹を掘って造られ、間に一段、二段の高さで17〜18基あると思われます。昭和61年11月の調査で第1号から第13号までの調査が行われました。ここでは6世紀中葉から7世紀中葉にかけて埋葬が行われたと考えられます。

    このページは八女市史.八女古墳群保存整備連絡協議会の資料により製作いたしました。
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