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               山鹿の古墳群編熊本県山鹿市

石器時代から縄文、弥生時代を経て、古墳時代と呼ばれる四世紀から七世紀、八世紀初頭ぐらいの間に盛んにつくられた、祖先が残した貴重な文化遺産なのです。菊池川流域にはその貴重な装飾古墳が集中し、まさに宝庫です。
菊池川流域には古墳が286も点在している。2位の福岡でさえ58。全国屈指の文化財の宝庫。
装飾古墳とは、古墳内部の石室や石棺に彩色や彫刻で装飾されたもの(洞窟式の古い墓の「横穴」の壁面にそれらの文様や図柄をもつものを装飾古墳と呼んでいる)幾何学模様が特徴を表し、正方形ドーム式が肥後型。122もの装飾古墳がこの一帯に眠っている。さらに、122群・3000基を越える横穴墓群がひしめきあっている。菊池川流域に日本の装飾古墳の約4割が分布していることになる。
(写真・資料は山鹿市立博物館より)

岩原古墳群 (山鹿市鹿央町大字岩原字塚原)
岩原古墳群は、美しい双子塚古墳を中心に、周りに9基の円墳があります。木立の中の遊歩道を下りると100基以上もの横穴が並ぶ「岩原横穴群」を見ることができます。
右の写真では、中央の前方後円墳が双子塚古墳で国指定史跡になっています。全長が107メートル、後円の直径が57メートル、高さ9メートルの県下最大級のものです。古墳時代中期の築造と推定されています。
その後方に見える円墳にもそれぞれ「塚原古墳」・「寒原古墳」などの名前がついています。右上に見えるのが「県立装飾古墳館」とその実習棟です。
岩原横穴群(山鹿市鹿央町大字岩原字塚原)
双子塚古墳のある同じ岩原大地の北側絶壁には、100基以上の横穴があります。まるで神秘の国へ導いてくれる入り口でもあるかのようにぽっかりと口を開けて並んでいます。穴の中から先人の声が聞こえてくるようです。床面の構造は、平坦な平床のものと、三体の遺体を納める「コ」の字型の屍床を造り出したものがあります。又、小型の横穴墓や造りかけたまま放置されたものも見られます。
このほか、6基については装飾が見られます。風化が進みきれいに見ることはできませんが、連続三角紋や、悪霊の進入を防ぐ目的で掛かれたであろう画が入り口付近に描かれています。右下の写真は横穴墓内部の屍床です。
チブサン古墳  (山鹿市大字城字西福字)
熊本県山鹿市にある全国的に有名な装飾古墳で全長44mの前方後円墳(後円部径24m、前方部幅15.7m)である。横穴式石室内に石板をたてた家形の石棺状施設があり、内側に同心円文や連続菱形(ひしがた)文などが描かれている。これは現況を忠実に再現したレプリカである。近くにはオブサン古墳、鍋田横穴群、弁慶が穴などが点在しています。古墳時代6世紀頃に造られたもの。石棺の正面の石板装飾の絵柄が女性の乳房に似ているところから「乳の神様」として現在も信仰が続いている。特徴は
 @彩色壁画である
 A盛り土をした高塚である
 B絵が墓室の内部に描かれている
 C二つの部屋があり奥室(玄室)に石屋形がある
 D6世紀半ばの代表的古墳
 E群集墓ではない
最大の魅力はその不思議な壁画にあります。斬新な構図と、猛々しいまでに鮮やかな色彩はまさに六世紀のデザイナーです。奥棟室の石屋形、内壁の三角や菱形、同心円などの幾何学文様は、見方によって鳥にも原始の仮面にも連想できます。また、乳房にも見えることから「チブサン」という名がつき、「乳の神様」としての信仰を集めました。しかし、この名前の由来は、横穴式石室のルーツが朝鮮半島南部にあることから、韓国語と思われます。チプ(家)とサン(墓の尊称)の組み合わせが変化して、チブサンになったと元山鹿博物館館長轟木 正斗氏は推理する。
また、死者の枕元の右側の壁には、白い人物像が。悪霊の前に立ちふさがる番兵です。頭上の白い八個の円文は冥界を照らす星。また、これらの二つの壁画のように、赤青白黒黄を使った絵は呪術的意図をもつ「除魔辟邪」と呼ばれます。この二点から、葬られた人は、卑弥呼のような霊感をもった人物と推測できます。
オブサン古墳  (山鹿市大字城字西福字)

オブサン古墳は、チブサン古墳の北西約200mに位置する円墳で、直径約22m、高さ約4mで、内部に複室の横穴式石室がある。オブサン古墳の特徴は、連続三角文などの装飾があり、また、石室の前面に突堤を持つ構造となっていることです。出土遺物や石室の構造などから、6世紀後半の築造とみられるもので、6世紀前半に造られたとみられるチブサン古墳からオブサン古墳への変遷を知るうえで重要である。入り口から八の字に広がる突堤があり、このため古墳全体が「足を広げて寝ている女性」に見立てられたらしい。その様子はつまり「出産時の様子」に見られ、安産の神様として信仰がある。。

鍋田横穴群(山鹿市大字鍋田字東)
古墳時代後期(6世紀中頃)の墓地で、阿蘇溶結疑灰岩(あそようけつぎょうかいがん)をくり抜いて築かれ、61基が確認されています。このうち10基に装飾文様を施してあり武器類、人物像、馬、鳥などの壁画が施されたものも数多い。とくに27号の横穴の壁画は多彩で、弓や盾や鞘などの武器を身に着けた人物像が詳細に渡って描かれている。、横穴入口には浮彫、内部には線刻による施文(せもん)が多く見られます。このすぐそばには「鍋田水遊び公園」があり、とくに夏場は市民の憩いの場となっている。
弁慶ヶ穴古墳(山鹿市熊入町字竹の下)
山鹿温泉街の北方、熊入台地の上に弁慶ヶ穴はある。弁慶のような力持ちでないとあげられないような巨石に、写実的な絵が描かれている。石室の巨石が県内一の大きさを誇る装飾古墳です。ここの装飾古墳の特徴は、舟や馬が多く描かれているところです。赤い顔料で描かれたゴンドラ型の舟に、馬が乗せられている様子がはっきりわかります。馬は菊池盆地のステータスシンボル、舟は菊池川を現している。現在、保存状態が良くないため、実物を見ることはできませんが、この石室のレプリカは熊本県立装飾古墳館に常時展示しています。

臼塚古墳 山鹿市大字石字臼塚
円墳(直径約29m)で複室構造の横穴式石室で石屋形、玄門内壁をもち文様は赤、青、白の彩色で円文、連続三角文、人物が描かれている。石室入り口は石垣で塞がれ、玄室は天井石を失っている。墳丘上にあった石人は県立美術館で展示されている。


辻古墳  旧所在地:山鹿市方保田辻
        現所在地:山鹿市鹿央町岩原(熊本県立装飾古墳館横・中庭)
昭和40年、牧草地造成に伴い山鹿高校考古学部によって発掘調査された円墳で墳丘に複数の埋葬施設(石棺4基)を有する。1号石棺は舟形石棺で、館内からは人骨(男女2体)・内行花文鏡・管玉・勾玉・刀子・直刀が出土した。2・3号石棺は共に家形石棺で、2号石棺からは鉄刀2・直刀2・人骨、3号石棺からは直刀・刀子・鉄鏃・人骨がそれぞれ出土した。4号石棺は箱式石棺で、鉄剣・刀子・人骨が出土。5世紀代の築造と推定されている。一つの墳丘に複数の石棺等の埋葬施設を持つ同様の例としては宇土市楢崎古墳などがある
長岩横穴墓群
双子塚古墳(山鹿市鹿央町大字岩原字塚原)
丘の長さが107m、後円部直径57m、高さ9mの前方後円墳で、日本有数の姿形をもつ国指定の史跡です。
城横穴墓群
御霊塚古墳   (山鹿市鹿本町津袋広江307)
円墳(直径12m、高さ3.5m)で横穴式石室がある。玄室内壁、袖石があり文様は赤の彩色で靱、鞆、円文、×状門が描かれている。

茶臼塚古墳(津袋古墳群)  (山鹿市鹿本町津袋)
津袋古墳群にある一辺25メートルの規模をもつ台地上に立地する方墳である。、幅2.9メートルの周溝が巡る。墳丘東側の周溝には陸橋が設けられ、周溝底から土師器(壷)が出土。
小町塚古墳(津袋古墳群)  (山鹿市鹿本町津袋)
7基から構成される津袋古墳群の一基。現状では墳丘周囲が大きく削平され直径9メートル程となっているが、平成3年の調査で直径23.7メートルの規模を持ち幅1.9メートルの周溝が存在する事が明らかとなった。内部主体は『肥後國史』の記述から石棺の存在が判明しているが、未調査のため詳細は不明。築造年代は5世紀代と推定される。現在、一本松公園内に位置しており整備されている。墳丘の形状は旧来のままだが、周溝に礫を敷き詰めて当時の規模を復元表示している。
下原塚古墳(津袋古墳群)  (山鹿市鹿央町大字岩原字塚原)
塚坊主古墳(清原古墳群) (玉名郡菊水町大字瀬川字清水原)
長刀1号横穴墓  (玉名郡菊水町大字瀬川字長刀)
野津古墳群(熊本県八代郡竜北町)  *6世紀初〜中頃
熊本県のほぼ中央部、九州山地西麓部の標高90から110mの台地上に立地する古墳時代後期の4基の前方後円墳からなる古墳群。物見櫓古墳は墳丘長62mで、周濠は伴わない。埋葬施設は複室構造の横穴式石室と推定され、陶質土器や垂飾付耳飾などが出土した。姫ノ城古墳は墳丘長86m、周濠を含めた総長は115m。多数の石製表飾品を伴い、その量は福岡県岩戸山古墳に次ぐ。中ノ城古墳は本古墳群の中では最大であり、墳丘長102m、周濠を含めた総長は117mに達する。端ノ城古墳は墳丘長68m、周濠を含めた総長は80mで、埋葬施設は横口式家形石棺または石棺式石室であったと考えられる。4基の古墳は6世紀初頭から中頃にかけて築造された。
 中九州地方において、総長60から100mの古墳が密集する古墳群は他になく、被葬者を「火の君」一族に比定する説がある。『肥後国風土記』には、筑紫国造磐井の乱の後、「火の君」は自己勢力の温存と伸長を図ったと記されており、当該地域における古墳時代後期の政治状況を知る上で重要である。
竜北町提供

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