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                                       矢部川流域の文化財近本喜續(ちかもとよしつぐ)著書より

                                 
このページでは筑後市の近本喜續(よしつぐ)様の平成17年出版の「矢部川流域の文化財」の11ヶ市町村の筑後市の一部を抜粋編集して紹介してみました。不足の記事は本書(価格は三千五百円問い合わせはは近本税理士事務所0944.57.4726)を、お読みになり先人達が、ふるさとの筑後地方に残した貴重な文化遺産の存在を知り、矢部川流域に愛着をもって頂ければ幸いです。販売受付中。

近本喜續さんは大正7年筑後市(旧水田村)に生まれる。
昭和11年八女中学卒業、昭和17年早稲田大学法学部卒業 同年、応召、終戦により復員。
昭和23年大蔵省職員となり昭和51年退職後大牟田市に税理事務所開業。
筑後市の文化連盟会長.郷土史研究会長.文化財専門委員長
平成17年3月「矢部川流域の文化財」出版。7月死去、多大な研究・功績に感謝し、ご冥福を祈ります。
主な著書 久留米藩.柳川藩租税制度の概要。西南の役戦跡紀行。
        花宗川水利誌。松永水利誌。筑後農民生活史など

                                 

朝日新聞記事より
筑後市は県南の自然豊かな筑後平野の中心にあり、矢部川中流北岸に位置している。面積41.8k㎡、人口4万7600余り名で、九州新幹線の船小屋駅が設置されることが決定しているから南筑後の交通の中心となることが予想される。
縄文.弥生時代裏山遺跡をはじめとして、多くの集落遺跡が存在するから、肥沃な筑後平野の中心として、往古から自然に恵まれた環境であることを証している。
平安.鎌倉となれば、この地でも源平戦南北朝戦があり、多くの史跡や平家伝説が伝えられている。
幕藩時代は、領主有馬氏の支配を受けるが、交通の要衝の筑後三宿の一つとして羽犬塚宿が設けられ、人馬継立や休宿施設が設けられた。
水田天満宮坂東寺などの文化財が存在し、船小屋鉱泉も湧き出している農村都市である。
石人山古墳. (広川町一条 筑後市一条) 国指定重要文化財史跡考古資料S13年
八女丘陵の西端に位置する古墳で、築造年代は古墳時代中期(5世紀前半)で、被葬者はふめいであるが、これだけの規模の大きい前方後円墳を築造するだけの勢力を有す豪族の墓であることは間違いない。詳細は古墳を訪ねて八女古墳群編で説明。
武装石人    (広川町一条 筑後市一条) 国指定重要文化財考古資料S51年
石人山古墳の後円部と前方部のくびれの部分に一体立っている。
詳細は古墳を訪ねて八女古墳群編で説明。
欠塚古墳(筑後市大字前津1784-8)市指定文化財指定H4年
昭和27年に一度調査が行われ、平成元年に再度調査が行われた。全長約50メートル、後円部の直径は約29メートル、の前方後円墳で、前方部と後円部とのくびれ部分に「造り出し」と呼ばれる施設を持つ。古墳は概ね北東から南西にかけての主軸に沿って築かれており、昭和27年に調査された石室の入口は西方を向いており、築造年代は5世紀末と考えられる。時期的には石人山古墳(5世紀前半~中頃)と岩戸山古墳(6世紀前半)の間に入る古墳である。現在、古墳は公園として整備されている。
水田天満宮 本殿(旧称老松宮) 県指定文化財建造物S36建造物S36年

写真水田天満宮提供

水田天満宮ホームページ
起源は祭神菅原道真延喜3年(903)2月25日、死去すると直ちに水田に祠を建てたと言われる。神社として菅原道真を奉祠したのは、当社が最初であり、大宰府天満宮は墓所で、その後墓所参拝に来る人のため神社を建立したと言われている。その後、本殿は、後堀河天皇の嘉禄2年(1226)菅原為長が勅願により再建した。本殿は、大宰府天満宮の様式をそのまま生かした荘厳な社殿である。正面に妻入り唐破風向拝、大屋根は千鳥破風、拝殿の左右に車寄せがあり、屋根は唐破風向拝付きである。本殿の内部は、手前から拝殿、外陣、内陣に分かれている。正面三間の拝殿は、中央に三ッ折りの両開き桟唐戸で、両脇が蔀戸(しどみど)側面に車寄せが舞良戸まいらど)天井は化粧屋根裏、両妻は虹梁(こうりょう)でつなぎ、組み物は三斗(みつと)、床は外陣より一段低く畳敷きである。
外陣は、正面5間で内法長押はあるが建具はない。床は長押だけ拝殿より高い。正面中央に唐戸の神座を構え、欄干付きの三段木階を設けている。両脇は祭具室としている。
石造鳥居 (筑後市大字水田) 県指定文化財建造物S36
水田天満宮の神橋の手前にあり、構造は通称肥前型石造鳥居で、材質は花崗岩で構築されている。
柱.笠木.鳥木とも三本継の、極めて素朴な形式の明神鳥居である。
高さ 4.58m 幅6.32m   
鳥居の柱に刻まれた銘は  右柱 大檀那田中筑後守橘忠政(田中吉政の四男) 

左柱 慶長19年甲寅(1614)11月吉日 水田天満宮留守 大鳥居法印信岩敬白   なお、左柱の背面に  安永7年(1778)修理銘あり  安政7戌戌7月吉祥日  奉再興鳥居 別当延寿院信貫  この石造鳥居寄進の由来は、花宗川開通の願成就を記念して建てられたものであると言われている。
千燈明  (筑後市大字水田46水田境内内)県指定文化財無形民族文化財S51年
8月25日に行われる千燈明花火祭は、天満宮の直接神事でなく、氏子による奉納行事である。このため神社側の行事記録はなく、その由来や起源にかんすることも確認できない。口伝によれば、神社創設以来約700年間、続けられてきたとも言われている。千燈明は、集落毎の氏子が楼門や清水池など数ヶ所に、燈明台や、花火用の櫓を建てていたが、櫓は終戦後廃止されている。千燈明は、数100個の貝殻やカワラケに種油を満たし、点火して、その形を表わし、仕掛や大小とりどりの花火と共に点火(現在花火は火災防止上別場所)、光の大饗宴を出現する。筑後地方における真夏の代表的風物詩である。千燈明は、毎年8月25日の例祭の夜に奉納されるが、花火も江戸中期頃から千燈明戸同時に奉納されるようになった。千燈明のかたわら硫黄消石灰などに鉄片緑青等を混合する幼稚な製法で硫黄花火や吹きだし花火を製造して揚げていた。戦前までは、氏子若者が各集落毎に高さ15mも或花火櫓を組み立て、盛んに打ち上げていたが、戦後人手不足と危険防止のため廃止された。千燈明は従前どおり行われている。
稚児風流  (筑後市大字水田46水田境内内)県指定文化財無形民族文化財S11年
起源は不詳で、相当古くから口伝によって伝承してきたが文献による裏付け資料がない。「星野ハンヤ舞」の掛け声に相通じる「ハーエンヤーアイ」の掛け声などは、言語学的に室町時代のものであると言われている。現在使用している古い太鼓に慶安元年(1648)の年号が記入されていたが、現在は摩滅して不明となっている。寛文7年(1667)、または、萬延.文政の年号が記載されているものがある。
風流は大太鼓一締太鼓四鐘四(つづみ)笛六個で編成されている。総勢36名の少年によって編成される。古い肩衣(かたぎぬ)は、安政4年(1857)のものが現存している点からしても、稚児風流の古い歴史を物語っている。稚児風流は、御神幸祭(例年10月25日)に奉納され神興の渡御前に町内を練り回り、舞楽による祭の前触れの役を果たし、御幸祭には神興に供奉して、御神慮を慰め、また、天下泰平、五穀豊穣の秋を祝うものである。稚児の服装は、頭に赤黄色の長い髪のようなシャグマを冠り、きらびやかな陣羽織を着、鮮やかなフングミ(袴)、白足袋.草鞋(わらじ)、手甲脚絆のいでたち姿で、威勢よく風流を奉納し、神輿が約2km離れた「下の宮」まで稚児を多数従えて神幸行事に随行する。水田天満宮の稚児風流は史料が豊かに残されている。元治元年(1868)の神幸絵巻があり、江戸時代末期の稚児風流を知ることができる、筑後地方の少年達による代表的な風流である。  
木造火王水王面 (水田天満宮)県指定文化財有形民族文化財S36年
火王水王両面ともに木製漆箔、鼻尖は接ぎ合わせで彫深く、鼻の尖端の角度も穏やかで、古面の面影をよく残した室町時代のものである。
しかし、火王面の鼻先部は後補されており、鼻高も水王面より高く反りがあり形も異なっている。
材質は檜材で、火王面は(阿)相水王面は(吽うん)相をなし、耳の上に小孔をあけ吊紐を通す仕掛けになっている。両面とも表部の漆が処々剥脱している部分がある。
この両面とも記銘が天文10年(1541)となっているから、室町末期の製作であることは明確である。
木造獅子頭 (水田天満宮)県指定文化財有形民族文化財S36年
木造獅子頭は赤黒一対あり、構造は頭の上あご部の裏面をくり抜き、下あご部分は別材で上あごの下に入れ、鉄材心棒を通じて、下あご部分を開閉できる仕組みに工作されている。黒獅子頭と赤獅子頭は、彫刻法に多少の差異する点があるが、黒獅子頭に対して赤獅子頭は、表現がやや誇張されている。両頭とも漆塗りである
黒赤一対とも保存がよく漆箔の剥脱もほとんどなく、県下における代表的獅子頭一対である。
記年銘あり  大願主快国同赤女敬白  水田老松宮御宝殿  獅子頭一対
作者 年嶋家政  千日之 永正15年(1518)戌寅菊月吉日
石造狛犬 (水田天満宮)県指定文化財指定文化財有形民族文化財S36年
疑灰岩の石材に彫刻された一対の石造狛犬で、高さ54.5cm、幅36.5cmのものである。桃山時代の作品で、貴重な有形民族資料の石造文化財である。狛犬の各部分は極めて簡素化して、全体的造形を直交する四肢の直線と円弧をなす背部の曲線からなる大胆な構図で表現されている。顔貌は角ばった平坦な顔に大きな眼球が隆起し、鼻翼も大きく、その表現は、祭礼に用いられる獅子頭に似た形式をとっている。背部に陰彫された銘があり、慶長十五年庚戌四月廿五日 肥前国佐賀 長安 (1610年銘)
石造狛犬 (水田天満宮)県指定文化財指定文化財有形民族文化財S37年
水田天満宮の慶長狛犬とともに、肥前型一石造りの狛犬で、材質は疑灰岩からなり、前肢間や腹部をくり抜かず、浅く彫りくぼんでいる。これが民族資料として県指定されたもので、優れた作品でないが、在銘があることが貴重なものである。形態は高さ20cm、幅13cmの最も小さな狛犬である。かくの如き小型の石造狛犬は、県下には存在しないであろう。
水田の森(水田天満宮)県指定文化財天然記念物S36年
約4000坪の境内には、楠とイチイガシ(樹齢400年~600年)十数本を主幹とした森で、イチイガシは県下第一級の大木です。平地の森としてこのように旺盛な成長を維持し、美観を保っており、参拝者の森林浴の森として親しまれています。
船小屋鉱泉(筑後市大字尾島字東古賀原)未指定文化財 天然記念物
写真筑後市役所提供
久留米藩が矢部川の河川工事用の川舟を格納する目的で、元禄2年(1689)に、藩御用小屋を設置したことより船小屋の通称が生じた。この地点は、松永川の余水吐が、矢部川本流と合流する所で、ここに地下からブクブクと湧水する炭酸泉があり、雀や蜂等の小動物がその上を飛来すると墜死していたから、土地の住民は怖れおののき「雀地獄」と言い名を付けた。
文化年間(1802~17)、ある農夫が疝癪(せんしゃく)に苦しみ、医薬でも治らないため、試験的にこの湧水に水浴したら、数日間で治癒したから、その評判も近隣に広まり、病人達が、次々とこの鉱泉の水浴飲水のため来所し宣伝したため、筑後一円に知れわたった。
文政7年(1824)大庄屋新庄組は、各村の協議のうえ、松永川堤防上に井戸を開削した。各村の協力によりそこに鉱泉の多量の湧水をみた。
明治28年、大正11年の検査分析によれば、わが国における屈指の優良なる含鉄炭酸泉と推賞された。
坂東寺の石造五重塔(筑後市大字熊野、坂東寺境内)県指定有形文化財建造物S36年
五重塔といえば、奈良県法隆寺の五重塔が有名だが、筑後地方で最も古いとされる石造五重塔が、市内熊野の坂東寺にある。坂東寺桜門を潜れば、参道両脇に石造五重塔新旧二基が対峙して建立されている。左塔が「貞永の塔」と言われるもので、右塔は天保年間に建立された新塔である。貞永の塔の建立は、中原為則の肝いりで信者の寄付金により、貞永元年(1232)建立された。県指定有形文化財は左側の旧塔で、材質は疑灰岩。総高276cm、高さ30cmの基壇上に五重塔として建てられた。
この貞永の五重塔(貞永塔)には、ひとつの逸話が残されています。参道を挟み、貞永塔の反対側に立つ貞永塔そっくりの塔。この塔には「天保3年(1832年)、久留米藩第9代藩主有馬頼徳公(月船公が、複製品(天保塔)をもとの場所に建てた」と刻まれています。月船公は多様な趣味の持ち主で、柳原園や江戸藩邸の庭などに、藩内の古い寺や神社から由緒ある石造美術をたくさん収集したことで知られていますが、おそらく貞永塔もその一つとして集められ、代わりに天保塔が立てられたのではないかと考えられています。しかし、現在の貞永塔が果たして柳原園から戻ってきたものなのか、もともと2つの塔があったのか定かではありません。柳原園で使用された貞永塔は、その後「もとの坂東寺に帰りたい」と、夜な夜な泣いたといいます。この逸話にちなんで、貞永塔は「夜泣き塔」とも呼ばれています
光明寺の石造九重塔(筑後市大字津島西)県指定文化財建造物S36年
叡興山光明寺本堂前に高さ3.3mの石造九重塔が、新旧二基参道の左右に対峙して建立されている。その右側の旧塔が文化財である。材質形状は、花崗岩で、初層屋根74cm、初層塔身の四方に梵字が刻んである。
熊野神社の眼鏡橋(筑後市大字熊野730)県指定有形文化財建造物S58年
境内の放生池に架けられている。県下では大牟田市早鐘眼鏡橋に次いで、永宝2年(1674)の刻銘のある石造太鼓橋として、2番目に古い橋である。
寛元寺文書(筑後市大字西牟田1791)県文化財指定S50年
寛元寺は西牟田氏によって開山され、その菩提寺となり、同寺は開基以来保護維持されてきたから、開基以来の貴重な古文書が保存されている。
滑石経(かつせききょう)筑後市大字水田 筑後市郷土資料館県指定文化財考古資料S11年
出土地は筑後市大字若菜神社本殿東側で幕政末期若菜区民が発掘。滑石経とは温石(おんじゃく)製の屋根瓦のようなもので、完全な形はなく、長さ21cm、幅18cm、厚さ3cmのもので、湾曲した面に、四掛線を引き法華文を陰刻している。用途不明で珍しい出土品である。
熊野神社の鬼の修正会(しゅしょうえ)(筑後市大字熊野)県指定文化財無形民族文化財S44年
毎年1月5日の夜に行われる悪病退散、五穀豊穣を祈願する熊野神社の火祭礼行事である。
久富の盆網曳き行事(筑後市大字久富)県指定文化財無形民族文化財H8年
千蘭盆行事として、子供達の「盆網曳き」の奇祭がある。これは、地獄に落ちた亡者達を盆の3日間だけ、地獄から極楽に引き揚げるための綱を引き回る行事である。
山梔窩(さんしか)筑後市大字水田242-1県指定文化財史跡S44年
山梔窩(さんしか=くちなしのや)は、幕末の勤皇志士・真木和泉守保臣が久留米藩の藩政改革に失敗して謹慎させられ、9年9カ月を過ごした家です。
1852年5月17日、水田天満宮に勤める直弟大鳥居理兵衛のもとに謹慎させられることになった和泉守は、大鳥居家の一隅に4畳半と4畳の家を建て(大工は尾島の茂吉で、完成は翌年8月6日)移り住みました。1862年2月16日、藩の許可なく薩摩へ脱出するまで、この地で門弟教育に従事し、多くの倒幕・尊王運動家を世に送り出しました。
山梔窩という名の由来は、庭にクチナシ(梔)が植えられたことからとも「口なし」(藩への発言を止められた自分の立場)からとったともいわれています。

もっと詳しく知りたい人は、「矢部川流域の文化財」をご覧ください
木造仁王像一対(筑後市大字津島光明寺境内)市指定文化財彫刻二軀
光明寺境内南端の矢部川堤防北側に仁王門があり、二軀野木造仁王が造立されている。仁王像は、本来、金剛杵を持った夜又の像である。偉大な力をもつ金剛杵を手にし、二体ならんで寺門の入口を守り、右を那羅延金剛、左を蜜迹金剛と呼ぶ。
羽犬伝説と羽犬の塚(羽犬塚521)
市役所前、山の井交差点、羽犬塚小学校正門南にあるブロンズ像やJR羽犬塚駅前のモニュメントといえば・・・。そう、「羽犬」です。市のマスコットキャラクター「チク号」もそうです。なんで実在しない動物を筑後市は・・・。そんなみなさんへ、約400年前から語り継がれている「伝説」を2つ紹介します。
ひとつは、昔この地に羽の生えたどう猛な犬がいたというものです。「羽犬は旅人を襲ったり家畜を食い殺したりして住民から恐れられていた。天正15年(1587年)4月、天下統一をめざす豊臣秀吉は薩摩(さつま)の島津氏討伐のため九州に遠征、この時羽犬によって行く手を阻まれた。大軍を繰り出しやっとの思いでそれを退治した秀吉は、羽犬の賢さと強さに感心し、この犬のために塚をつくり丁寧に葬った」。
もうひとつは、九州遠征に羽が生えたように跳び回る犬を秀吉が連れて来たというものです。「その犬は、この地で病気にかかり死んでしまった。大変かわいがっていた秀吉は悲しみに暮れ、それを見かねた家来たちは、その犬のために塚をつくり葬った」。
いずれも「羽犬伝説」といわれている話で、これから「羽犬塚」という地名が生まれたとされています。市は、この伝説をシンボル化し、まちづくりに取り入れているというわけです。歴史的な裏付けなどはない伝承ですが、実は「羽犬の塚」があるのです。どこに・・・。宗岳寺(上町)にです。


 (筑後市広報より)
 順次更新追加いたします


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