古代の日本の様子はは中国の後漢書や魏志倭人伝の記録で知ることができるが邪馬台国誕生以前の 2世紀初めの後漢に生口(せいこう)160人を献上した倭の面上国王、帥升のく国の否定地 古代ロマンをもとめ、まだ知られていない福岡県みやま市山川町清水 面の上の地を訪ねててみた。 *福岡県山門郡の瀬高町と山川町、そして三池郡の高田町は合併してみやま市が発足しました。 . |
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紀元 57年 | 「漢委奴国王」の金印が「奴国」の王に後漢の光武帝から贈られた。(『後漢書』東夷伝 建武中元2年) 「奴国」は北九州にあった小国と見られる。『魏志倭人伝』では「マツラ国」の東南にあると記されている。 |
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紀元107年 | 『後漢書』の倭伝に「安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う」とある。倭の面上国王帥升等が後漢に160 人の奴隷もしくは技術者を献上し請見を願っている。 |
紀元239年 | 耶馬台国女王卑弥呼の使いが中国を訪れた。(『魏志』倭人伝) |
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弥生時代の中細形銅剣 (飯江川の舞鶴出土) |
面の上古墳 | |
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四獣鏡(面の上1号墳出土) | 勾玉、古代の装身具 |
ここで取り上げるのは『後漢書』東夷伝に安帝永初1年(紀元107年)に記録された「倭の面上国」の所在地に古代ロマンを繰り広げてみよう。邪馬台国の卑弥呼の時代より130年程さかのぼる時代に存在した国である。 邪馬台国の九州山門説である福岡県山門郡瀬高町女山に神籠石のある卑弥呼の居城から山並みに南へ3kmの所が山門郡山川町大字清水面の上付近である。(現在合併でみやま市瀬高町・山川町・屋形町となる) ここには大塚、面の上、面の口、面の坂、などの地名が残っている。面の上は洪積世に形成された扇状地で山川町尾野より高田町竹飯方面に連なって北西に展望が開けている。 この台地に20〜30基の古墳群があり、昭和41年11月に発見された小円墳からは石棺、人骨、鉄剣、鑑、釧などが発見され、特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣が副えられており、その柄の部分は、貴人しか持つことができない“鹿角装の剣”の特徴があり、身分の高い人の墳墓ではないかと云われています。 また、四匹の獣の形を肉彫りにした、古い時代の銅鏡(直径12cm)が人骨の手の間に伏せてありました。これは“四獣鏡”と呼ばれ、よく知られている“三角縁神獣鏡”よりも古い時代のものである。 石棺は疑灰岩の4枚の板石を組み合わせて棺身を作り、底部には小石が敷きつめてあり、上部はカマボコ形の石でおおわれていて古墳時代前期の貴人の墓を物語ってている。 この近くにはまたも注目できる周濠をもつ南北径約44mの九折大塚古墳がある。。昭和54年4月、この古墳から「蓋(きぬがさ)」の破片が発見され、その重要性が見直された。この「蓋(きぬがさ)」とは埴輪の列に、要所要所ひ配した威儀を示す用具として用いられている。「蓋」は、一般の列を示すものでなく、「貴人の列」を示すものである。単なる示威の表示に止まらず、列を作り最も重要な区域を画した。この蓋の出土する古墳は、およそ王侯貴族のものと云われている。 面の上古墳、クスワン塚古墳など、それに大塚古墳が近くに散在しているから、面上国の王の墓ではないかと云われている。 因みに、この蓋が古墳に出土したのは、全国では11ヶ所で、この大塚古墳のものが、11番目の貴重な存在である。 ここから東800mの河原内では弥生の製鉄所「タタラ」の跡が発掘され、西に4kmには渡来人が有明海から上陸して住み着き始めたとする海人族の里、大神(おおが)があり古代信仰の宮が建ちならんでいる集落がある。 有明海から女山(女王山)までの山裾の中間地、山川町の「面の上」の地こそ2世紀始め邪馬台国成立以前の「倭面上国」と想定するに適した遺跡の数多い「面上国の里」である。 「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とある。 |
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