庄福BICサイト               故・近本喜續(ちかもとよしつぐ)著「矢部川流域の文化財」より     H21・3・7更新

 
    柳川市の文化財  
松濤園(しょうとうえん)(新新町一(株)御花)国指定 名勝S53年
立花邸「御花」の大広間と本邸の正面に池泉と岩石を主材料とし、松一色の樹木によって構成し、仙台の松島を模して築造された庭園である。池の形は短形で東西に長く、東と南東の一部は岩組や乱抗で形とっている。池の深さ1.5m、面積2400㎡で全面積の七割を占めており、池水は外堀から引水し増減できる仕掛になっている。水池には左右二つの大きな島があり、ほかに五つの小島があるが何れも多数の石組によって構成し、1500個の庭石が使用され、それに14基の石燈篭を配している。池のまわりに200年以上の黒松の古木380木が植えられ、池水、木石が見事に調和し造園美を見せている。御花の起源は「柳川明証図絵」によれば、初代藩主宗茂が現在地に遊息所を築造したのを、安東省菴がそこを集景亭と名付けたと云われているが、一般的には、元禄15年(1702)3代藩主艦虎が現在地に別荘を建てて池庭を作り「お茶屋」と呼ばれたことが、今日の「御花」の起源と云われている。
明治時代になって旧藩主の所有となり、現在は洋風建築物が建ち並んで国指定名勝となった。
また、この池には10月から翌年4月上旬まで500羽余に及ぶ野鴨が飛来し、一段の風趣そえることで有名である。
短刀(銘吉光)(新新町一(株)御花)国指定 国宝 S38年
刀鍛冶吉光は、鎌倉時代中期、京都栗田口に住んでいた名工で、栗田口藤四郎と云った。室町.桃山時代から日本三作の一つに教えられていた。
享保4年(1719)将軍徳川吉宗の命を受けた本阿弥が、全国のの銘刀を調査登録した「刀剣名物牒」には記載されていないが立花家がこの銘刀を秘蔵して外部に公表しなかった為である。700余年まで保存の状態がよく、刀剣界では現存する籐四郎作品中で第2位に降るまいと評価を得ている。筑前国立花山に居城した立花左近鑑貞載、足利尊氏に従って上洛し、建武3年(1336)。京都東恫院楊梅ヶ辻で、敵の大将結城親光と取り組み重傷を受けながら、これを討ち取った賞として、尊氏から賜ったものと云われている。
戦国時代勇名をはせた立花道雪宗茂らの子孫が、累代の家宝として継承してきたからである。短刀の長さ23.3cm、元幅2.6cm、平造、庵棟、内反り、身幅広し、地は小坂目、刃文は中直刃、表裏に刀桶彫。

            短刀(銘吉光)

  資料館のある西洋舘
剣(銘長光)(新新町一(株)御花)国重要 工芸 S12年
刀工長先文永年間(1264~75)、鎌倉時代中期に備前長船にいた名工で、光忠の子である。作品は太刀.短刀.薙刀.剣がある。本品は長光作として優秀な者と評価されている。その由来は、天正9年(1581)の秋、高橋紹運の子統虎(宗茂)が、立花山城主戸次道雪の養子になった時、父、高橋紹運が護身用と父代わりに贈与したと云われる。
長さ25.3cm、地鉄板目鍛、刃紋小乱刃。
戸島氏庭園(鬼童町 戸島貞男)国指定 名勝32年
庭園は戸島邸の茶室奥座敷の南全面にあり、掘割から引き水した築山山水型の庭園である。山は二石組で配置され、人造池は瓢形の池を作り、その水辺に玉石がゆるい勾配でしかれて州浜観を造り、左手前の乱杭を並べ、前方に岩組で水辺を仕切り変化を呈している。
池の左手奥の水取東口近くに石造の小堂があり、中央にある雪見燈篭と沢渡りを配した景観は庭の中心として、全体観を引き締めていて、狭小ながらも優雅な庭園を形づくっている。この石燈篭の後方は、小渓で、手前は石組みで岬を表現している。庭園の面積は、320㎡、築山三ッ、池の面積約70㎡深さ1.3m、使用されている岩山は、秩父古生岩.石灰岩.安山岩など130個、庭園は水流を主眼とし築山を基本とした。珍しい座観式茶室庭園である。
立花文書(隅町、柳川古文書館)国指定重要 書籍H16年 所有者御花
徳川幕府時代、柳川藩主であった立花家伝来の古文書群。藩政に関する資料を中心とした「立花文書9113通」と日記.記録類の「柳川藩立花家文書5511通」からなるものである。刀狩り令や有明干拓に関する文書など、室町時代から明治にかけての文書類である。
鷹尾神社大宮司家文書(大和町鷹ノ尾鷹尾神社)国指定重要 古文書H11年柳川古文書舘寄託保管
大和町の鷹ノ尾に鎮座する、平安時代には瀬高下庄の鎮守社であった鷹尾神社に由来する古文書で、同社の大宮司であった紀氏の子孫である鷹尾家に相伝されたもの(鷹尾家文書)と、一部、現在の鷹尾神社に移管されていた(鷹尾神社文書)です。国指定重要文化財に指定され、これらを一括して鷹尾神社大宮司家文書と呼ばれている。鎌倉期87点、南北朝期11点、室町期8点、で年代が確実に確認でき、平安末期から鎌倉時代の遷宮や仏神事.祭礼などの記録がある点である。その中でも鎌倉期の史料が多い。この文書で解ることは、鎌倉期の鷹尾神社の祭事・祭礼の記録や、社殿の修理・造営のかかる費用や用途の注文、いろいろな社役の負担や番役の配分など、当時の神社の実態やこの地域の様子を生き生きと今に伝える貴重な資料です。
旧戸島邸住宅(鬼童町49)県指定 建造物S32年
戸島家住宅は寛政年間(1789~1801)に建築されたと伝えられているが、庭園に残る石碑などから文政11年(1828)、柳川藩中老職吉田かねもとが、隠居後の住宅として庭園と併せ建てた数奇屋風の意匠をもった茅葺入母屋造りである。後に柳川藩主立花家に献上され、明治時代に戸島氏の所有となり、平成13年にこの建物は柳川市に寄付された。座敷棟と仏間棟、武家住宅の造りをもつ茶の間棟からなっている。
北原白秋生家(沖端字石場町55)県指定 史跡S43年
白秋生家の建設年代は不詳であるが、建築様式から幕末から明治初期のものであろう。白秋の四代前に沖の端に移住して、酒造業と精米業を開業し、「油屋」と称し、この地方の豪商として繁盛していた。
三尊預修板碑(本城町柳川高校庭)県指定 考古資料S44年
室町時代大永6年(1526)の造立で、柳川では最も古く、欠損の無い石造板碑である。この碑は、昭和3年城跡開田の際に発掘されたもので、土中に埋没の脚部を含むと総高203cmの大碑である。
碑面には如来形座像三尊を鼎座の構図で彫られている。
安東省菴(あんどうしょうあん)の墓(旭町浄華寺墓地)県指定 史跡S33年
安東省菴の墓は、浄華寺の墓地にある高さ1m弱の質素な石材を利用して造立されている。
表面に「柳川安東省菴先生之墓」とあって、表面にはその行状の大略が刻まれている。その子侗菴(とうあん)の筆によるもので、文字は風化して読み難いものである。
省菴は、元和8年本小路に生まれ、28才で上京し、舜水(しゅんすい)と交わり、不遇の彼に自分の俸禄の半分を送り続けて扶養した。
省菴は、舜水(しゅんすい)に楠公伝を書きおくったので、舜水は初めて正成の誠忠を知り、この楠公伝が、水戸光圀舜水に命じてつくらせた「鳴呼忠臣楠氏之墓」の碑文のもとになった。舜水は東上途中、柳川に立ち寄り、孔子像三躯を贈った。この像の一躯、高さ38cmは、伝習館高校へ、他の二躯は安東家と湯島聖堂に保存されている。省菴は立花宗茂忠茂鑑虎(あきとら)の3代に仕え、また8代の子孫にその道を伝え、柳川藩儒学を築いた人である。
省菴の書中、最も広く読まれた著書は、貞享元年(1684)、初めて出版された三忠伝である。上巻の平重盛.藤原藤房伝は林羅山、下巻の楠正成.正行は省菴の筆である。
伝習館文書(隅町、柳川古文書館)所有者伝習館同窓会 県指定 書籍S27年
藩政資料.対山館.典籍.彫刻.額など約二万点と立花家古文書からなる。
中山の大フジ(三橋町中山熊野神社境内)県指定 天然記念物S52年
伝承によれば、江戸時代享保頃(1716~1753)、中山集落の通称「万さん」と呼ばれる人が上方河内野田(現大阪府)から藤の実を持ち帰り自宅に植えたことによると伝えられている。数十年後、見事な花が咲く頃になると、見物人よりも多くなり酒に酔って抜刀して乱暴をする武士達もいたため、氏神の熊野宮に移植したと云われている。被覆面積425㎡。樹勢旺盛。
樹齢約300年。開花期には多くの見物人で賑わう南筑後地方最大のフジである。
おにぎえ(どろつくどん)(保加町.蟹町.京町三丁目)県指定 無形民族文化財S41年
三柱神社の秋の大祭。京都祇園祭の山鉾を摸した「どろつくどん」と呼ばれる山車が町内を練り歩きます。太鼓やドラ、スリガネを持った囃子方の独特な調子に合わせて、神々の面をつけた舞方が踊ります。能をルーツとした舞といわれ、人間の善悪、喜怒哀楽を表現するといわれています。
今古賀風流(三橋町今古賀三島山神社)県指定 無形民族文化財S48年
今古賀地区で、毎年10月に一年の感謝と豊作祈願をこめて、村の守護神である竜神に奉納する今古賀風流は、別名「どんきゃんきゃん」と言う名で親しまれています。 かねや太鼓を打ち鳴らし舞いながら、行列が田園をねり歩く風景は、この地方の秋の風物となっています
日子山神社風流(古賀246日子山神社)県指定 無形民族文化財S33年
日子山神社は、社伝に寄れば天文年間(1532~55)に創建したと云われる。10月12日願成就野行事として、筑後系の楽打ちの風流が奉納される。
柳川城本丸跡(本城町88柳城中学校庭)市指定 史跡S53年
城跡は、柳城中学校運動場の東部の一角にあり高さ約4mの高台である。高台は東西47m、南北129mで、本丸の一部である。高台の南半が天守閣の跡といわれている。
沖端水天宮船舞台囃子(稲荷町 水天宮)未指定無形民族文化財 
水天宮には、稲荷神社祇園社水天宮の三神が合祀されている。稲荷神社は、天正15年(1587)立花宗茂豊臣秀吉から柳川藩主に封じられて入府後祀られたもの。祇園社は文化年間、京都弥剣神社の分霊を勧請して創建。水天宮は、明治3年久留米水天宮総本社より分霊を勧請して合祀した。
年5月4~6日に3日間、水天宮横に浮ぶ三神丸の船上で演奏されるはやしを船舞台はやしという。この船舞台は6隻の船を繋ぎ合わせたもので、文化年間からの葦船の形を取り入れている。その舞台で伝統の囃子を演奏する。
蒲池城跡(西蒲池字池渕)未指定 史跡
西蒲池集落の中心に位置し崇久寺の近くにあり、字池渕を中心として蒲池城内であったが、現在は住宅と水田となり、城跡としては何ものこされていない。
石鳥居(大和町鷹ノ尾)市指定文化財 建造物S53年
鷹尾神社は、平安時代貞館11年(869)清和天皇の勅願により祭祀されたと言う由来ある神社である。
源頼朝の命により文治元年(1189)、鷹尾郷地頭職に藤原家宗が任命された。鷹尾神社本殿前の県道沿いに、貞享元年(1689)藩主立花鑑虎によって寄進されたものである。
雲龍久吉(大和町皿垣開)未指定
雲龍の館
横綱雲龍久吉は、文政5年(1822)9月、矢部川畔旧山門郡皿垣開村塩塚久平治の長男に生まれた。
天保13年、相撲道入門を志し、大阪相撲の陣幕のもと、相撲の修行に精進することになった。師匠陣幕のもと5年半ほど修行した後、弘化4年(1847)江戸に上り4代目追手風部屋に入門し醜名(しこな)を雲龍と名乗った。
30才で結婚した翌年新入幕し、5場所連続優勝し、柳川藩の抱え力士となり、嘉永7年春場所で小結となり三役入りした。
35才で大関に、文久元年(1861)40才で横綱になり「雲龍型」土俵入りを披露した。雲龍型の創始者である。左手を胸に当て、右手を斜め前方に出して、重い物を支える感じでせり上がるもので、「攻め」と「守り」を同時に表現する型である。
横綱として4年間8場所務め、元治2年(1865)44歳で引退した。明治23年東京本所自宅で69才で死去。
雲龍型の土俵入りは、角界二大土俵入りの一つとして、現在も継承されて、わが国の相撲の伝統美を表現している。
平成5年、雲龍久吉を記念し、雲龍の郷、雲龍の館、相撲ドームを建設し、相撲全般にわたる資料や、各種イベントの会場を提供している。
枇杷園(びわその)遺跡(大和町鷹ノ尾枇杷園)
昭和31年(1956)5月、鷹ノ尾枇杷園の発掘調査によって、東西10m.南北20mのこの遺跡から弥生時代から平安時代の住居跡と遺物が出土した。
遺跡全体の解明は地下工事の終期であったためできなかったが、弥生時代の14~15の住居跡が確認された。出土品は、弥生式土器.須恵器.青白磁.滑石などがあった。
このページでは筑後市の故・近本喜續(よしつぐ)様の平成17年出版の「矢部川流域の文化財」の11ヶ市町村の(332ページ)柳川市三橋町、大和町の一部を抜粋編集して紹介してみました。不足の記事は本書(価格は3500円問い合わせはは近本税理士事務所0944.57.4726)を、お読みになり先人達が、ふるさとの筑後地方に残した貴重な文化遺産の存在を知り、矢部川流域に愛着をもって頂ければ幸いです。販売受付中。

近本喜續さんは大正7年筑後市(旧水田村)に生まれる。
昭和11年八女中学卒業、昭和17年早稲田大学法学部卒業 同年、応召、終戦により復員。
昭和23年大蔵省職員となり昭和51年退職後大牟田市に税理事務所開業。
筑後市の文化連盟会長.郷土史研究会長.文化財専門委員長を役職
平成17年3月「矢部川流域の文化財」を出版。7月死去、多大な研究と功績に感謝し、ご冥福を祈ります。

主な著書 久留米藩.柳川藩租税制度の概要。西南の役戦跡紀行。
        花宗川水利誌。松永水利誌。筑後農民生活史など
 

   写真.マーク.文章は柳川市企画部および「矢部川流域の文化財」著者.近本様から承諾、掲載しました。