庄福BICサイト    みやま市瀬高町の文化財
                                         H19・1・29更新

           福岡市と熊本市のほぼ中間に位置する山門郡の瀬高町と山川町、
          そして三池郡の高田町が1月29日に合併してみやま市が発足しました。

堤古墳群(山門字堤) 未指定
堤全体が古墳群地帯といわれ南北220m東西220m程の正方形の近い部落で、いわば方墳と言ってよい所である。中央を南北に走る道路があり東塚原と西塚原という。近年同地の人が巨石の下から金の腕輪を発掘して家宝としていたが、病気が絶えず祟りを恐れ埋めたという。また二人で発掘し埋蔵品を売り飛ばした話もあり、巨石にまつわる迷信も多く祟りを恐れ祀っている家もある。東塚原に道路下埋没を含め3ヶ所、西塚原に6ヶ所を確認した(平成17年5月調査)。大正2年(1913)大和町の郷土史家石田昌氏の発見により邪馬台国卑弥呼の墳墓説が唱えられ卑弥呼の墓とも思考されている。弥生土器や石棺等が発掘されている。まだ解明には程遠い。巨石は硬い緑泥岩である。
            古墳を訪ねて山門古墳群編
女山の銅鉾(大草字産女谷) 未指定
この中広銅鉾は、昭和30年3月6日女山神籠内郭、標高79mの舌状功洪積台地斜面で発掘された。出土状況は、崖斜面に2本重なって刃先を東向きにした状態であったという。このような銅鉾の型式および出土状況から、本来は武器であった細形の銅鉾が弥生時代後期になると大型になって祭器化し、農耕祭祀のあと土中に重ねた状態で埋葬されたものと考えられている。
貝製雲珠(大草字女山長谷 梅野記念館)県指定 有形民族S34
女山の中腹より昭和33年出土した。貝はひも貝が使用され、笠形をした貝の中央に穴をあけ、金銅製の棒を通し、貝の上には花形の金銅製金具をつけている。古墳時代後期の古墳の副葬品である。
「雲珠とは繋(つな)の交叉するところにつける馬具(辻金具)の一種で、特に尻繋(しりがい)の金具は装飾的に発展し、古墳時代には半球形のもの、透彫のある金銅製品で内部に鈴を入れたもの、中央に揺珞(ようらく)をつけた立飾(たてかざり)をそなえたものもある。朝鮮慶州の金冠塚出土例ではガラスを挿入している。
(尻の上部品が雲珠)


(尻の上部品が雲珠)
女山神籠石(大草字女山)国指定重要 史跡S28年
女山の古塚山を中心に、一辺約70cmの切石(一部自然石を利用)を山の斜面や丘陵の側面にそって馬蹄型に一列に並べ、その列石の横切る谷(横尾谷、長谷、源吾谷、産女谷)にはそれぞれ水門を設け、延長約3kmに及ぶ広大な遺跡である。隣の高田町の竹飯の山から1m内外もの長方形の石を、切り出して、山の上に運び上げ,延々3`近くも整然と並べるというのは、当時でも大プロジェクトであったろうと想像できます。それだけの権力を持った人物は誰だったのか、何の目的で作られたのか、妄想が膨らみます。女山ぞやまは古来女王山とも呼び邪馬台国の九州の山門やまと説で論戦の舞台であり、卑弥呼の里として注目されている。神籠石の謎
権現塚古墳(坂田字権現ノ1535)市指定 史跡S56年
坂田にある。周りに堀のある段付円墳で径50m高さ5m、の円墳で周囲を幅11mで深さ1.2mの堀跡が囲んでいる。魏志倭人伝に「女王死するや、大きい塚を作る。径百余歩、殉葬者百余人」とあり江戸時代の儒学者、新井白石が唱える山門説以後、その大きさから邪馬台国女王卑弥呼の墳墓と主張する人もいる。この塚の南の畑から弥生の合わせかめ丹塗りの高さ40cmの大きな高杯、神酒を献じたと思われる小さななどが出土し、堀の北東隅に合わせ石棺があるところを見ると、弥生式遺跡(墓地)の上に造られた古墳であろう。塚の西部の水田からは縄文後期の土器石斧など出土している。また、この古墳は神功皇后が田油津姫征伐の時、官軍戦死者の墓という伝説がある。いずれもまだ確かなことはわからない。
蜘蛛塚(大草字大塚300)市指定 史跡S56年
大草の大塚の南東、老松宮入口にある。玄室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降ると、この古墳から血が流れると言われていたが、これ石棺内の朱が流れ出ていただろう。伝説に景行天皇西征の時、葛築目と言う者がいて、朝廷の命に従わないので天皇はこれを征伐した。大塚はその古墳であると。又一説に田油津姫の墓であるとも言う。何女王の塚であるか不明である。大塚を蜘蛛塚とも言う。この墳の南18mばかりの田の中に小墳があった。これも大塚と呼び、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。大正2年春、田の中の小塚を崩して、その上に新道が作られた。昔は女王塚と呼んでいたが、後世になって大塚に改めたと言う。
車塚(山門字藤ノ尾車塚1409)市指定 史跡S56年
山門の藤の尾の東北にある。南北約55m、東西27m、高さ3,5m前方後円墳明治22年頃には周囲に幅3,6mの堀があり、昔は陪塚が左右にあったと聞くがいまはない。享保20年(1735)漢鏡三面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせがめ棺が十数墓出土している。また塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。周りなどを削り取られ田んぼや公園に使用、堀も埋められ車塚の元の形状を変えている。この古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
   
金栗遺跡(小川字西金栗66)市指定 史跡S33年
昭和25年4月15日より」瀬高中学グラウンド拡張の際、金栗より土を求め弥生中期〜奈良時代の環濠集落遺跡発見。
環濠集落の中央に貴重な奈良時代の木をくり抜き作った井戸を発見。町でコンクリートの側壁が施工され県指定遺跡となる。
奈良時代の釜戸(九大資料室に復元品あり)瓦、土師器、須恵器、鎌倉時代の宋青磁等が出土。
東西40m、南北30m環濠集落の住居跡である。
七支刀を持つ神像(大神字鬼木)市指定 有形民族S56年
七支刀(しちしとう)とは天理市の石上神社国宝の鉄鉾で刀身の銘文から中国から百済をへて倭国王に送られた刀とされている。刀の表 秦■四年五月十六日丙午正陽造百練鋼七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作  刀の裏 先世以来未有此刀百済王世■奇生聖■故為倭王旨造伝■■世 とある。最初の文字2文字については、中国の東晋の年号で、太和と音が共通するところから、秦和と見られている。で、西暦369年という説が有力である。
秦和4年、百済王の世子(太子らしい)が、倭王(つまり日本)のために、七支刀を造ったと解釈される。日本書紀によれば神功皇后52年9月に、百済から七子鏡1面と共に、七枝刀1口が献上されたとあり、この七支刀が、この刀と推測できる。日本書紀の神功皇后52年(252年)は、120年を加えて、年代を修正する方法によれば、西暦372年になり、その伝承が裏書きされることになるといいます。、 
こうやの宮の七支刀を持った神体は国宝七支刀が発見される以前から祀られており、この地に七支刀があったのを大和朝廷が安定後こうや宮から物部一族より石上神社に奉納されたと思考できる。長島部落の祭典は必ず一番に行うのがこうのや宮である

               瀬高町のお宮

清水寺本坊庭園(本吉)国指定重要 名勝S4年
この庭園は室町時代の作で、作者は雪舟(1420〜1506)であろうといわれている。東南北に山を囲らし心字の池を中心とする庭石の配置、植込み、池にそそぐ暖、急の滝など、自然と人工の美が溶け合い、春夏秋冬いつ訪れても飽きない名園である。特に正面の愛宕山からのぼる中秋の名月はすばらしく、その月が心字池の写るように工夫された借景式の泉水庭である。新緑と紅葉の頃はことのほか美しい。本坊前には大きな銀杏樹があり、紅葉時期には黄色のジュウタンで敷きつめられる。傍に北原白秋自筆による碑が立っている。「ちち恋し 母恋してふ 子のきじは と青とも そめられにけり」
          瀬高町のお寺
清水寺三重塔(本吉清水寺境内)県指定 建造物
三重の塔の前身九輪塔1779年の創建で、単層の塔上に青銅の九輪を備えたもので、瀬高地方出身の長崎丸山の遊女の寄進で建てられたと伝えられる。3重の塔は藩内各地の奉仕により棟梁の宗吉兵衛と息子の受け継ぎにより、1836年(天保7年)大阪の四天王の五重塔を手本に、14年の歳月をついやして完成された。美しい自然の中に、たたずむ朱塗りの塔は清水寺のシンボルとして広く知られている。昭和32年県重要文化財。この3重の塔も風雨とドウドシに食い荒らされ、倒壊寸前の所、町民と県下有志の浄財により昭和41年11月復元再建された。古代建築の九州最古随一のものである。
清水寺桜門(本吉清水寺境内)県指定 建造物
この山門は1745年柳川六代藩主立花貞則が願主となり建立されたものだある。当時の建築技術の粋を集めて作られ、階上の内部は見事な作りで、文殊菩薩、釈迦如来、四天王などが祀られている。
法華経千部逆修板碑(本吉清水谷 清水寺本坊入口左)県指定 有形民族S33年
縦横1m、厚さ22cmの安山岩の自然石で堂々たる罫線板碑である。中央上部に釈迦三尊を表わした梵字の種子を彫り、中央に「奉読誦(じゅ)法華妙曲1千部逆修所」と表示し、これをはさんで、上段に願文、下段に結縁僧尼の名がある。天正18年(1590)3月18日に建立されている。逆修碑は生前に自分のために仏事を修め冥福を祈るために立られたものである。
幸若舞(大江 幸若舞社中)国指定重要 無形民族S51年
瀬高町が誇る伝承芸能といえば日本最古の舞楽として約700年の伝統をもち、日本芸能の原点といわれている「幸若舞」である。1582年京都において朝廷警備の任に就いていた、山下城主蒲池鎮連と越前出身で幸若舞の達人大沢自助幸次の出会いから始まる。二人は幾度かの出会いを重ねる中、天正10年(1585)山下城に大沢を招請して幸若舞を伝授を開始した。蒲池家はその後零落するが、舞の方は家臣の手を通じて伝えられ、天明7年(1787年)松尾増墺(ますおき)に伝えられた。松尾増墺は大江に住んでこの舞の後継者を作り、代々松尾家を家元と称するようになった。1811年頃には幸若舞は大江村のみならず、下妻郡北長田.南長田.あたりにも伝承されていた。舞は中世に流行した語りを主としたものです。
明治維新後、禄を離れた越前幸若をはじめ各地の幸若舞は、早くその舞を捨ててしまったが、ひとり大江に残った大頭流の幸若舞のみがその芸統を守ってきたのである。
毎年1月20日に小雪降るほど底冷えする大江の天満宮境内の舞堂で五穀豊穣を祈って奉納されます。現在語り伝えられている曲目は10種余りで、「日本記」「扇の的」「浜出」「安宅」「八島」「和泉ヶ城」「高館」などの勇ましい軍記物がほとんどです。舞堂の背景に張られる幕には、菊、五七桐、下り藤の紋が大きく染め抜かれ、格式の高さを示しています。後世の歌舞伎をはじめ各種芸能の原形として注目されています。
                 
瀬高町の伝承芸能文化


大人形大提灯(上庄 八坂神社)県指定 有形民族S31年
治の実権は藤原からの平清盛の全盛へ移る頃(1156〜1167年)、平家の横暴から逃れ藤原中次は弟重国と京都の八坂祇園宮を分けて都をさり九州筑後国の上庄に山伏姿に身をかくしてたどり着いた。その地に信仰していた祇園宮を安置した。1176年(安元2年)6月11日宇都宮弥三郎によって建立されている。しかし美しい社殿も多くの戦火にあい大破され、荒れ果てた。1622年正月に立花宗茂により改築され途絶えた祭礼を初め、大人形の神事も始めた。大人形は白旗を小わきにはさんだ源義家(八幡太郎義家)を右に阿部宗任貞任)を左にそして中央に社壇を安置して祇園の神を祭ってある。今でも「うう人形さん」の名で人形の股をくぐりぬけると病気にならないと言われ盛大に7月24〜25日に行われる。同時に花鳥風月を描いた高さ2,5m直径1mの大提灯が町中を練り歩く。
どんきゃんきゃん(文広 広田神社)県指定 無形民族

天正の頃(1573〜91)
に本郷に城があり、秋の例祭には、本郷村の住人が神を迎えに文広にやってくる御神幸式が行われる。鐘や太鼓を打ち鳴らし、儀式は夜中まで続く盛大な祭りで、広田氏の武威を示すものである。その祭礼行事が「どんきゃんきゃん」と呼ばれ、本郷文広の集落を中心として、現在もな祭りで、広田氏の武威を示すものである。毎年10月3日(昔は旧暦11月19日)に御神幸が行われる。本郷聖母宮から行列を仕立て、神輿を迎えに来る有様は、奴半纏(やっこはんてん)、素足に草履履き姿の青年達が、長い御幣や毛槍を投げ渡しながら、古謡の調子にあわせて、矢部川堤防沿いに道中行をする。
神輿の後から獅子頭を冠した少年が、鉦や囃子の音頭に合わせて太鼓を打ち、神輿に共奉する。続いて神官.神事世話役の後方に文広の氏子連が続き、裃(かみしも)姿で横笛、「みゆき衆」、踊り太鼓を持った幼児を肩にした親の行列、更に文広区の男子住民は残らず、御神幸に共奉する。この神事は、中世の神事と近世の封建大名行列を組み合わせた独特の様式の神事で、五穀豊穣.無病息災を祈願するもので、威勢のよい大名行列である昔はこの行列に流鏑馬の騎士.騎馬も同行していたが現在は廃止されている。



下小川八幡神社の風流(大神字下小川)市指定 無形民族S56
1023年小河庄は宇佐の神領となり、1220年宇佐神宮の分身を遷宮する。この遷宮の行列を氏子の祭礼の行事とし、さらに徳川時代の参勤交代の大名行列のやり方を取り入れて、今日の祭礼の行事になった。現在行っている風流の中の鋏箱のおどけた文句の中に徳川時代の庶民生活が想像される。*若様の初上りションベンタコどみや片付けろサトサイサイ *鋏箱一代後家暮らし洗濯しゅうよりやボボさせろ、ボボしゅうよりや砂糖なめろ、三日も四日も寝てなめろサトサイサイ*オドンゲン、チャン達ちゃ飲みの助、天からオテテもまた飲ますサトサイサイ*段々畑のボンブラジョ(かぼちゃ)なるこっあ知らずに、はい回るサトサイサイ終戦より途絶えていたが先祖の伝承してきた文化遺産の消滅を憂慮し昭和53年風流保存会が出来10月19日の祭礼に復活。
唐尾八坂神社祭礼(小田字唐尾)市指定 有形民族S56年
社伝によれば、柳川領(田中藩主時代)より、安政4年(1775)6月10日、小田.平田.唐尾.中島4ヶ所に神事、風流、子供踊りをするよう仰せ付けられて始まった。その後領主の忌日と重なった為6月13日に変更された。風流奉納行列は、神輿(みこし)祠掌(ししょう)、奉楽と続き、その後に小田.平田.唐尾.中島集落の順に、鐘、太鼓、高張傘、鉾などの行列が続き、各集落を巡行して、最後に神殿前で演奏し終了する。(現在は御輿はない)寛政6年(1794)、子供踊りを中止したところ、文化11年(1814)5月、流行病が発生したため、再び従来の子供踊りを再開したが、明治5年以後踊りをやめ、風流のみを奉納している。藩政時代は、家老.寺社奉行等が出張していたが、明治時代から代役が務めたという格式の高い風流である。現在は7月13日に施行され、町長が参加している。
長田のイチョウ(上長田 老松神社境内)県指定 天然記念物H16年
江戸時代初期頃の創建で上長田の産土神である。境内には老松神社の建立と共に植栽されたいちょうの木が神木としてある。昔から愛称として「お宮さんのいちょうの木」と呼ばれていて、子供会や老人会などの皆さんが清掃活動などで大切にお守りしている。平成16年に県指定文化財、天然記念物に指定された。本の幹を1重に看立て、樹高25m枝張り東西24m、南北28m張り出して見事な、いちょうの木ある。
堀切玉垂神社の大楠(河内字堀切松原)町指定 天然記念物S56年
堀切集落の氏神、玉垂神社境内のある大楠は、延久2年(1070)同社創建以前からあったと伝えられている。樹高46m、枝下10m、根廻り25m、枝張り東西35m、南北30m、胸高周囲8m、である。
田尻惣助惣馬父子の墓(本郷字門前 九品寺)市指定 有形民族S56年
藩政時代、矢部川の治水.利水事業に大きな足跡を残した田尻父子の墓が本郷小路の九品寺(くほんじ)にある。父子ともに柳川藩士として元禄5年(1692)御書院番に登用された。元禄8年(1695)父惣助が普請役で今も残る北山の千間土居と呼ばれる堤防を新築した時、子惣馬が助手になり完成した。惣馬は父の指導もあってその後大きく成長し、30余年間水利土木にある限りの力を注いだ。惣馬の事業は本郷村権現のはね.磯島の井堰.浜武村崩道瓢箪(ひょうたん)門.高碇井堰.唐尾のはね.その他流水改善や回水路づくり等。惣馬は四代立花鑑虎公.五代艦任公に仕えた。享保5年(1720)藩内御普請役に任じられた。三潴御門(藩の干拓工事)や瀬高川堀替え工事などの功には、特別に数々の御褒美(ごほうび)も与えられている。宝暦10年(1760)7月16日死去、九品寺に葬られる。
文広笑酒板碑(文広)市指定 彫刻H14年
文永11年(1274)筑後に三大市場があり瀬高には芳司市場(文広)があった。15世紀頃になると、瀬高と天草、島原方面との取引が活発となり、定期市の回数も増え、常設の店舗もでき、工業と商業もしだいに分化し商人が出現したのであろう。それらに業者達は事業や生活を守る為に共同体の瀬高座をつくり生産、流通、生活全般を規制し、久留米の高良神社を本所とする連合体にも加入した結束の固いものであった。そうした、芳司市場の様相を伝えるのが恵比須神の石碑である。高さ2.4m幅85cm厚さ23cmの石碑で碑面上部には優雅な服装をした男女の酒宴の図と下部に「筑後国下妻郡広田庄 本郷村芳司町 笑酒、大永五年(1525)八月吉日、施主 板橋助種」と刻まれている。当時の地名を記され、板橋助種は市場の司であった。助種は天文16年(1547)田尻親種が豊後府内の大友義艦に会いに行った際に、餞別として砂糖2斤を贈ったという。
                  
瀬高町の地名の旅
勝海舟の額(上庄 八坂神社境内)市指定 有形民族S56年
住吉宮は海の守護神であり、その創建は不詳である。嘉応年間(1169〜70)瀬高庄が徳大寺家領であった頃、年貢米を京都に運搬する船の航海の安全を祈願する宮として、上庄の庄館の敷地に祀られたものといわれている。明治25年頃の改築にあたって鳥居も新しくなり、住吉宮創建にゆかりの徳大寺実則の承諾が得られず、高田町大字岩田の出身、衆議院野田卯太郎を介し、伊藤博文の口添もあり、明治初代の海軍卿(きょう)をつとめた勝海舟の書を得たのである。上庄、八坂神社に保管されている「住吉宮」の鳥居の額がそれである。
                 
  
玉垂神社の鳥居(河内字堀切松原)市指定 建造物S56年
平安後期1070年建立入口の鳥居古代肥前様式という珍しい形式で石鳥居で、柱穴や笠木、島木、貫柱など各部分が三部ずつの石材で組み立てられてる、特殊な構造です。高さ約2,5mとなります。下層材は荒打ちだけに留め、根本は生け込みとなり笠木、貫間はわずか18cm位しかなく狭隘な額部が出色である。ただ笠木と島木が明確に彫り分けられており笠木鼻は島木上部からすぐに突き出して長さに余裕がなく、丸みを帯びて包丁反りになっている点が特徴であろう。様式的には最も古い形を示しているから笠木、島木に古来の慣制を断ち切れなかった点が肥前一般のものとは違うところである。なお18cm角の額来に径15cmの円文を浮かしている。佐賀でも古遺構に類例がなく福岡県下では特異な存在であり造立年も桃山期を下ることはあるまい。
永興寺自然石梵字板碑(大草字古僧都 永興寺境内)市指定 有形民族S56年
台上の高さ188cm、幅87cmの凝灰岩である。中央部に二重円相中釈迦の種子を顕出し、その下全面に1行45字18行に及ぶ長文の碑名がある。碑文は摩滅し全文の解読不能だが、推考すれば、芬陀梨華(白連華)の功徳を喧楊し、次に永興寺の縁起に及び、最後に本願を述べたものの如くである。後世に作られた寺伝、記録はすべてこの碑文に由来するものと思われる。石塔群中、唯一の紀年銘あるものとして貴重な記念物である。
成合谷自然石梵字板碑(本吉字成合786)市指定 有形民族S56年
梅ヶ谷、真言宗成合寺前のみかん山に存在する。高さ1m、横75cm、厚さ20cmである。この板碑は、加持祈願が当所で盛んに行われていた名残りである。1種の塔婆で主として死者の冥福や生前信者達が供養したもの等がある。13世紀頃のものが最も古く、17世紀の頃まで及ぶ。形状は五輪卒塔婆(そとば=仏塔)が省略変形されたものと考えられている。
本郷馬場の碑(本郷 中土居八幡宮境内)市指定 有形民族S56年
宝暦9年(1759)7代藩主立花鑑通が、水御殿を本郷の下名鶴堰付近の矢部川畔に設けた。柳河藩士の軍事演習として騎射、流鏑馬、犬追物などの馬術訓練を行っていた。隣接する久留米藩に対して、柳川藩の軍事示威の目的の為や、藩の財政難で年貢の引き上げが行われ、それに耐え兼ねた農民の一揆を警戒する為とも碑文から解釈できる。藩士富士谷成章の和文体の碑と柳川藩儒者安東間庵の漢文体の自筆の碑、各1個ずつある。明治維新後洪水で流され所在不明になっていたが、後に発見され八幡神社境内に建立されている。水御殿も維新後養蚕所となり、その後、解体され本郷小学校の敷地となったが、昭和40年校舎新築移転して、現在畑地となっている。
二尊寺の板碑(はんぴ)二基(下庄字北方)市指定 有形民族S56年
門前西方に板碑がある。右の高さ146cm・巾52cm・厚さ18cmの自然石板碑には臨終の際、浄土へ導くため訪れる阿弥陀仏の姿、阿弥陀三尊来迎図を線刻で描いている天文10年(1541)の銘がある。二尊寺の板碑は、線彫の阿弥陀三尊来迎図を描き、本尊は座像来迎印を結び、両脇待の観音、勢至の二菩薩は、各斜面相対立像を雲上に刻している。

左の板碑は天和3年(1683)に住職春龍により二尊寺再興を祈願、伽藍の再興供養が行われたことを記念して建てられたものである。その供養の折、大乗妙典2部と血盆経300巻の石経を納められた事が刻まれている。女人信者が多かったことが窺える。

           

線刻阿弥陀三尊自然石板碑 の拓本
若宮神社奉納俳諧句合(くあわせ)碑(みやま市歴史資料館)市指定 有形民族H8年
この額は1844年(天保15)のもので、地元山中周辺の集落、上庄、下庄の俳人70余句が見事な筆跡で書かれている。額は船板を利用して造られた木製額である。縦47cm230cm、黒書で70余句と俳号が書かれている。奉納額に「巻中六卯之部」と表記されているから、本来は数枚の奉納額の一部であったと思われるが所在不明である。藩の東端の山村で、農民達が盛んに俳句を勉強していたことを証する遺品である。
妙光(みようこう)寺逆修板碑(下小川)市指定 有形民族H14年
この碑は、永年にわたり水中に放置されていて、保存状態は良好で、字句が判明しやすい。高さ94cm、幅60cm、厚さ8cm、石材は安山岩切石で、阿弥陀如来の種子と浄土縁起が刻まれている。紀年は1468年(応仁2)9月10日とあり、町内に存在する板碑としては最古のものである。
超勝寺地蔵板碑(大草 超勝寺境内内)市指定 有形民族H14年
この板碑の特徴は表裏二面が全く時代や内容が異なっていることである。高さ1m、幅50cm、材質は安山岩で、表には地蔵菩薩像が線刻され永禄4年(1561)に深町佐渡八が建碑したことが記されており、裏面に阿弥陀如来の種子が葉研彫で刻まれている。
彼岸しだれ桜(小田字名木野2417)市指定 天然記念物S56年
名木野にある「白一重しだれ桜」で、樹高15m、胴廻り2mの堂々たるもので、樹齢は約300年といわれている。しだれ桜には紅一重、紅八重、白一重の3種類があり、いずれも寒冷地に適する品種とされ、京都付近を中心に、せいぜい広島県の山岳地あたりが南限とされていて瀬高に古木として生き残っているのは珍しい。柳川藩の家臣吉田家の別邸があり、元禄時代(江戸期)に京都から苗木を取り寄せ庭園に取り入れたと思われる。近くに柿本人磨外を祀る祠があり、天保14年(1843)別邸の名と思われる「晴嵐亭」に於て催された、連歌の一巻と奉納の木札がある。また祠には嘉永4年(1851)に奉納された、吉田千秋の和歌三十二首の板の扁額も遺されている。
新船小屋のクスノキ林(長田字狐林)国指定重要 天然記念物
矢部川河川敷にあり、元禄の造林より300年を過ぎた、幹廻り3m,樹高15m〜20mにおよぶ巨木の林はクスノキ林がうっ蒼と2kmに及ぶ遊歩道をおおい行楽客に森林浴を満喫させてくれる。このクスノキ林は元禄8年(1695)田尻総助総馬親子が柳川藩の晋請役として通称千間土居を築堤し、引き続き広瀬小田・長田に至る4km弱長田土居を築堤し、樹林を植えたものです。これが広瀬河端・小田野林・長田孤林と呼ばれ、現在に残る国指定天然記念物である。
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