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                                                                                                                        (往時の吉岡土居の想像画)

 吉岡土居の上辺を通る道は瀬高町下庄新町の東側の薩摩街道から分伎して瀬高町吉岡に延びて東部の清水山麓に向う畑ヶ田街道に接続していました。「吉岡土居」の歴史は平安時代の農業本位の荘園封鎖経済は、鎌倉時代に至って手工業、商業の発展、人口増加などにより破壊され、広域経済、土地生産力増強のため河川の堤防工事が始まり、水田の拡大が図られた。吉岡土居も中世末期から藩政時代の初期に工事が進められ、下庄の町並とその南部の水田を水害から守る為高さ4m前後上幅4m、基底幅10m全長約1kmの矢部川の洪水用二重堤防が造られた。立花藩政時代から上辺の道路の両側の堤防敷には櫨(はぜ)の木が植林された。大正時代の回想によると、はぜが密生し、枝は道路に迫りトンネル状になり樹間から洩れる陽光、青葉を渡る風は通行人にとって、こよなき慰めとなったという。春には土居周辺の田畑は菜の花蓮華草の花に埋まり、はぜの若葉に映えて、美事なたたずまいであった。秋には綺麗に紅葉し、羽犬塚方面から「はぜきり」の専門家がきて枝と枝に縄を渡しサーカスみたいに、はぜの実の収穫作業をしていた。現在は国道209号線や瀬高駅前通りの建設により往時の姿は新町や緑町の一部のみになった。
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吉岡土居は薩摩街道の下庄新町の阿部酒店前を北方面に分伎し東山方面に延びた土居を利用した往還である。新町の太田水路を横切りったあたりから栄町までは昭和40年初期までは両脇が田んぼで唯一堤防の形状を残していたが、現在は田んぼが埋め立てられ住宅や工場になっている。
栄町交差部分では明治42年の柳川〜南関道路の開通により上部を削られた為に洪水時には県道に土のうを築いて水を防いだという。

下庄新町基点

栄町交差点

栄町から緑町までは道路幅が拡張され、昔、両側の堤防敷にあった櫨(はぜ)の木は無くなり、わずかに北側に田んぼが残る風景である。緑町の集落手前南側には大正初期に矢部川拡張の為に上庄から移転した日蓮宗の本長寺がある。上庄から移転する前の敷地には竹ざおとむしろで建てた芝居小屋があり瀬高の娯楽の中心地であった。
緑町集落の昔ながらの細い道には昭和時代に秋原ガラス工場があった。民家を通り過ぎると二尊寺の末寺の
お薬師寺さん(現在廃寺)があり、集落を「薬師」と呼んでいた程住民の信仰は厚く、お寺と集落は深い絆によって結ばれていた。

緑町
 
 吉岡の五つ角に至ると、大正10年作出金栗の町道が貫通し交差部の土居が低くされ2m程切り開かれ石の「さぶた」の水門ができ両方向が凹凸の激しい急坂道に変化した。この場所を鬼門の坂道と呼ばれ農家の肥料の人糞尿の桶が荷車から落ち、くさい黄金の花が坂一面に散乱する事故も起きている。   .
また洪水の時には大竹住民により、この「さぶた」を閉める約束になっていたが、吉岡住民は水禍を蒙るので開けた為に、大竹吉岡の住民との間で藁切包丁を持ち出した喧嘩が起こっていたそうだ。この五つ角のある「おまき茶屋」アメガタ、オコシ、ウチキリをつまんで、お茶をすするお客で、ごった返していた。さらに瀬高駅方面に右折すると、大正12年創業の坂田煉瓦(レンガ)工場があった。その工場の東側に立花藩指定左官吉岡駒吉氏がいた。現在の吉岡集落の建設業の多くは吉岡駒吉の系譜を引く人達である。
中川ビル前・国道

吉岡五ッ角
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瀬高駅方面からは下坂田を通り、東山村方面に延長した畑ヶ田往還とにつながっていた。東山村はもとより、立花町矢部村黒木町方面までの商業圏の物資輸送の往還であった。吉岡土居は堤防そのものの名であり集落名(現在の緑町)でもありました。瀬高の談議所に陸揚げされた石材、石灰、魚類、から芋、薪が東行し、東方の山間部からは、竹材、木材を満載した車力が西行し吉岡土居を通過した。


下坂田・畑ヶ田街道跡
 昭和13年に産業道路(現209号線)建設に当って、吉岡土居の盛り土は、新道路に利用され殆ど取り壊された。約380年の長い歴史を持つ土居は、庶民の哀歓を秘めたまま生命を終り、一般道路に改修され今日にいたっている。
    
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  地元の吉岡久敏・田中博・坂田智幸氏の執筆による資料で制作しました。ご感想、御意見、ならびに瀬高町の資料、写真、情報をください。 

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