下庄校区のお宮 |
【渡来人上陸の芳司の周辺の宮】
文広芳司は矢部川瀬高橋上流700mに縄文時代の晩期より舟の係留地、芳司の浜は大陸からの渡来人の上陸地として栄えた。渡来人達は壮烈な航海に耐え、深緑の清水山、肥沃な平野を目の前にし感無量、幸運な安着に感泣し海神に尽きぬ感謝の誠を捧げたのでしょう。部落の発展にともない、芳司市場が繁盛し中世記、談議所の交換市と共に瀬高座に発展してきました。1131年に建てられた恵比須の石碑や印鑪神社が中世の市場の繁栄を物語ります。樋口の八幡宮も古代からの宮で鷹尾の宮より以前にあった事を物語っている。瀬高庄の発展に伴い商人や手工業の街、高柳、下庄、元町(市場)も見逃せない。 |
@潮斎(しおい)神社(朝妻神社) 文広(矢部川堤防東下) |
祭神は瀬織津彦姫神、瀬織津姫と奈良平安時代に追祀された豊玉比古、瑞玉比売神は海神、水神である。景行天皇がこの地の朝妻河の畔にたたれ、清く澄んだこの流れを見てみそぎをやられた記録がある。例祭には前の矢部川清流も「御汐井汲」があり、遠くは八女、福島から多数の参拝者が杉を挿した竹筒にお水を汲み潮斎神社でお祓い参拝をすまして家の浄め家内安全の為に持ち帰っていた。平安の荘園時代に下庄の名主職が開墾した土地とみられ、明治時代までは下庄町の領域でした。地元では「せんかみさん」と呼ばれ崇められてたり、「眼の神さん」と言われ眼病に悩む方も参拝されていた。
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A印鑰(いんやく)神社 文広 本社の由来は【総合編】へ |
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祭神は宇多能大宗称奈命を祀ってある。御神体が鍵と印鑑を奉持してあるところから財政の神様ともいわれている。
和銅5年(712)道君首名(みちのきみのおびとな)は新羅(朝鮮)大使に任命され、帰国後の和銅6年(713)筑後守となって肥後守兼任し農業生産をあげるために尽力する。首名の加賀国(現在の石川県)の祖先が取り組んだ農業政策をまねて、田んぼの畦(あぜ)を活用し果樹(桃・みかん)や野菜(春の七草のたぐい)を植えさせ、鶏や豚の肉を干し肉にし保存することや、骨を釣り針などに加工して利用する方法を教えた。干ばつ対策の為に筑後国や肥後国の各地に溜池や用水路を造らせ水田開発のため盛んに灌漑治水事業を行なうなど数々の功績から、農民の信望は高く、名国司として仰がれた。その功績をたたえる意味から道君首名を祀ったとも云われている。 |
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B広田八幡神社(広田大神) 文広芳司(文広部落北西部)本社の由来は【総合編】へ |

無形民族文化財.芳司.本郷のドンキャンキャン(広田八幡宮から矢部川を渡り本郷聖母宮に向かう行列) |
宇佐八幡とは養老4年(720)大隈・日向(現在の鹿児島・宮崎)の隼人、川上静が朝廷に反乱、征伐の皇軍も何度も破れていた。宇佐(大分県宇佐)の豊前守宇努首男人を将軍に、再度賊徒征伐の勅命を受け宇佐大神に祈願して戦い、宇佐の軍衆が勝利し征伐をなしとげた。凱旋したおり聖武天皇の勅願により八幡神(応神天皇)を祀り創建されている。この時、廣田速彦麿は朝廷より廣田県の500町の田地を賜り、筑紫廣田原に遷宮して祀るのに宇佐小山田に八幡神の仮宮を建て廣田県主と神主を兼ね、初代神官となる。養老7年(723)3月死亡し息子速胤(はやたねが受け継ぐ。
神亀元年(724)2月に豊前(大分県)の宇佐八幡宮(応神天皇)の分霊が遷宮され、まず本郷の仮宮に安置され神亀5年(728)2月広田庄惣社として芳司に宮殿を建てられたと縁起にはある。宇佐八幡の分霊の遷宮に際し、亡き廣田速彦麿の長男速胤(はやたね)は神主として、次男彦信は勅使役として御神体の跡詰を、三男速具(先祓いの神として守護し奉りました。次男彦信は宮の壇を築き壇性を、三男速具は瀬渡し板橋を架け、板橋性を名乗り、氏の氏祖となった。今でも部落の「壇」「板橋」の姓は残って引き継いでいる。「廣田宮」の創建は後に出現する芳司市場の発展につながり繁栄をもたらすことになる。文化5年(1808)石鳥居新規建立の際、その額面に「八幡宮」と刻記され、昭和27年12月に宗教法人「廣田八幡宮」となる。境内には住吉宮と春日宮も祀られている。
◎芳司・本郷のドンキャンキャン(県指定文化財 昭和54年3月6日)
毎年文化の日11月3日(以前は11月19日)、芳司広田」八幡宮と本郷聖母宮間の送迎の御神幸の神事が行われる。この神事は聖母宮は、かって広田庄へ八幡神を宇佐より勧請するとき、仮行在所として鎮座された故地と言うことから、先ず本郷の氏子衆が文広の八幡宮へ御神輿を迎えに行き、御神輿を本郷の聖母宮へ、拝殿で神事の後、文広の氏子衆により御神輿は広田八幡宮へ帰還の行幸の式が行われる。祭神は応神天皇で本郷聖母宮は応神天皇の母神功皇后で芳司の宮から本郷の母方の宮に御神興奉仕する行事である。前方の行列は江戸時代の大名行列を模したものであり、神興の後方の行列は、すぐ後ろに「楽打」が付き、さらに「田楽太鼓」(胴長大太鼓)・鉦3面が、みゆき衆(横笛・楽太鼓)及び高張提灯を挟んで前後に2組編成される。そして獅子頭(しゃぐま)を載いた少年達が鉦や囃子声に合わせて舞いながら太鼓を打ち鳴らす。この太鼓・鉦などの音から、祭りの名称「ドンキャンキャン」と名ずけられ本郷、文広の芳司部落を中心に盛大に行われる。中世の神事と近世の大名行列を組み合わせた独特の様式のものと言われ昭和54年に福岡県無形民族文化財に指定された。
◎ドンキャンキャン行列の内容
本郷氏子方 鼻長天狗・風流旗・獅子頭・挟み箱・すっぽ・台笠・ばんばら・毛槍・御神輿・神興傘・田楽太鼓・鉦(かね)
文広氏子方 田楽太鼓・横笛・高張提灯・田楽太鼓・鉦・ぼてぼて
◎流鏑馬
由来は天正16年(1588)柳川藩主立花宗茂が冠位昇進の際奉納したことによるとされ、騎手は小学生高学年、中学生の中から1名選ばれ3ヶ所の的を撃っていたが現在は廃止されている。 |
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屋須多神社 文広橋口 |
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上町橋から橋口集落に入り右に曲った車1台が通れる路地の真中辺の右側に鎮座してある。火災除けの神様であるが屋須多さんのお宮として小規模だが立派なお堂である。文広の信仰心の深さを知ることができる。 |
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お地蔵さん・猿田彦大神 文広 |
文広の橋口の屋須多神社の通りには3ヶ所に建立時代が違う地蔵さんが祭られ部落の歴史を感じる通りである。土居近くの地蔵さんは年代的には新しく、右の自然石は古来信仰されたものであろう。屋須多神社の道端の2箇所の地蔵さんは、顔の表情がすり減り、かなり古い時代のものと思わせる。井上宅の屋敷地蔵さんは家内の健康と安全を祈ったものであろう。今町の「ヨダレクリ地蔵さん」は多くの方に信仰されているらしく、多くのお供え物で祭られている。道路向えには猿田彦大神の石碑がある。日本神話の猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けの神として信仰されているので、部落の入口の守り神様として建立されたであろう。
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弘法大師堂(おこぼさん) 文広 |
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文広の今町の通り道にあり、お彼岸にはお遍路さんのお参りで賑わう。 |
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C吉岡八幡宮 吉岡 |
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昔から、祭りが芳司本郷祭りと同時に行われていたので、一応広田八幡の分神として祀られたと考えられる。境内の槇の大木から推定すると400年は経た宮と思う。鳥居の年代は明和7年(1770)で、当時立花藩の藩医であった吉岡久遷の名と氏子中の字が見える。拝殿の右に天神さま、左側が屋須多さまは東京在住の不破氏名義の土地にあったものを遷宮してを祀ってある。不破氏の先祖は立花藩の前の領主、田中吉政公の時代、ここ吉岡城(城といっても砦)主の不破伝衛門は、豪男の反面慈悲深く、罪人といえど頼って逃げ込んだ者は罪をとがめず、捕らえさせなかったという。世人この砦の内を「藪の内」といい、現在でも古老は「やぶのうち」とよんでいる。 |
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子持ち地蔵堂 吉岡東屋敷(中道南橋そば) |
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吉岡の石鶴水路から吉岡川に分流した川の橋のたもとに地蔵堂がある。この地は昔竹薮に覆われ幽霊が現れ皆に怖がれていた。その幽霊を供養するために地蔵堂を建てたと言い継がれている。現在は本郷方面に行き交う道で民家が建ち並び往古の面影はありません。お盆すぎの8月24日には男子小学生が地蔵祭りを行ない、お参りする人に地蔵豆を差し上げ、集まったさい銭を皆で山分けしています。 |
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吉岡家の生目八幡・地蔵さん 吉岡西屋敷 |
吉岡西屋敷一帯は戦国時代の吉岡城の跡でもあり、立花藩お抱えの目のお医者さんであった吉岡氏の屋敷があった。その祖先をもつ吉岡宅の裏の畑に目の病気に御利益があると伝えられる生目八幡を祀ってある。祭神像の両胸には吉岡家の家紋がある。吉岡家は代々、目医者の家系であるので屋敷内に先祖の供養と共に祀ったであろう。宮崎に本社がある生目(いきめ)八幡の祭神は壇ノ浦で敗れ宮崎に住んだ平景清(たいらのかげきよ)であるが、ここの祭神は目の病を治してきた吉岡家の先祖であるかもしれない。15代目、吉岡久敬(きゅうけい)氏まで目のお医者をやってた。患者さん達が早く目が治るように、生目八幡にお参りしていたそうです。昭和43年に吉岡病院は後継者なく廃業されている。16代目は吉岡久敏氏に当たり、17代目は吉岡久正氏になる。
南隣には明治期に吉岡久敬氏に立花家から嫁いできたリョウさんが周辺のかなり歴史あるお地蔵さん2体を集めて、祀ってある祠があり。8月24日に女子小学生で地蔵祭りを行っている。
生目八幡 地蔵さん |
観音堂 吉岡やぶのうち |
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「やぶのうち」と呼ばれる地名にある観音堂で安達家の屋敷内に祀られたものと言う。北側を流れる水路には3mの長さの石橋があり下が水門になっており、代々続く吉岡家が吉岡周辺の水利を取り仕切っていた。現在は水路整備工事の為に取り去られている。 |
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D樋口八幡神社 大竹樋口 |
樋口八幡神社の伝説によれば「神功皇后が山門の県(あがた)の田油津媛を退治する為海路より船舶を着け上陸された地点を社地とした」または「神功皇后海路より本郷へ行幸された時この地に御船を着け上陸された地である」とある。古代からの宮で樋口庄が成立、朝廷が隣の堀池園に園池司(えんちつかさ)を置いた大宝1年(701)頃には鎮座していたと推測する。貞観2年(860)頃には上小川の寺中神社(吉井の上小川八幡神社)ともに各荘園の行政事務と祭祀を行っている。貞観11年(869)宇佐八幡宮の八幡神が勧請されている。筑後国政庁が高良大社に作らせた天慶神名帳(940頃)に樋之口神とあるのは樋口八幡神社と思われる。「社領往古大竹樋口より下庄高柳、井出の上、泰仙寺、鷹尾、皿垣まで残らずその筋神領にて樋口千町と申事御候(鷹尾文書)」とある。瀬高庄は大治6年(1131)上庄・下庄に二分した年に、下庄八幡神社が分建されている。瀬高下御庄の人々の開発耕作により鷹尾郷の人口が急速に増加し、保元4年(1159)頃鷹尾別宮が出来、文治5年(1189)頃瀬高下御庄内の別区として鷹尾別府が成立した。筑後鷹尾文書によると11世紀後半は「高良玉垂宮別宮樋口社」と呼ばれ、高良別宮鷹尾社と兼帯していた。両社とも、元は八幡宮ではなく、久留米の高良玉垂宮の末社で「高良別宮」と呼ばれ支配されていた。高良別宮として永い歴史を持っていたが高良玉垂宮の支配から脱却する気運が、立花藩時代から急に高まり高良玉垂命主の祭神を現在の3柱の応仁天皇・仲哀天皇・神功皇后の祭神に変更したと思われる。現在の社殿は万治2年(1659)立花藩二代藩主忠茂により造営、同時に神像も造られている。奥神殿の扉の上には、向かって左には重ね菊、右に五七の桐、中央に祇園守りの紋が彫ってある。五七の桐は瀬高庄に関りの深い黒木氏の家紋で、以前の時代の樋口宮の造営に尽くしたのであろう。瀬高庄の時代に樋口八幡神社の造営に尽くした明治6年に村社に定められ樋口の荘の宗社として地元民の多くの信仰の対象となり繁栄した。境内には稲荷神社や恵比須さんが、祀ってある。瀬高駅の東部の林の中に鎮座される瀬高町の古社である。祭礼は矢部川各町内と大竹・前田の氏子で11月5日に行われている。(樋口神社氏子総代上津原猛氏の「樋口神社と鷹尾神社」を参考に編集しました) |
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E前田の天満神社・恵比須・お地蔵 JRの踏み切り傍にあり前田公民館の隣 |
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コンクリート造りのお堂で菅原道真を祀ってある。10月の第1日曜日に前田区5班を順番に御座の担当になり祭礼を行なったあと公民館で会食を行っている。左横には恵比須の石の祠があり10月20日に恵比須祭をおこなっい天満宮祭と同じく会食が行われている。敷地にはお地蔵さんもあり8月24日に小学生が、お地蔵まつりを行って参拝者の接待をしている。また南側にある道が昔の肥後街道であるが踏み切が無くなり行き止まりになっている。 |
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大竹の社日さん・恵比須・ かめや菓子舗の西側 |
江戸時代の大竹村は二尊寺の門前町であるが、農業の村でもあった。薩摩街道から二尊寺の門前までの参道の川端に江戸期の建立と思われる社日さん(食物の神)の石碑があり、春と秋のお彼岸に近い戌の日に田畑の神を祀って祈っている。右側には大正時代に造られた祠があり、左に恵比須さんと二体の神様(調査中)が祀られている。
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F恵比須神社 恵比須町 |
創建は不明だが歴史的には新しい宮で矢部川3丁目から分かれて恵比寿町となり商店街として発展した昭和年代と想像する。明治24年九州鉄道矢部川停車場(現瀬高駅)が出来て、薩摩街道に沿って北200mの田圃や荒地に新道が建設され、駅周辺には旅館や商店が出来始める。さらに明治42年に柳川(高畑)から柳川軌道が矢部川駅まで開通し、現在の中町〜栄町〜矢部川の軌道道路沿いに商店や住宅が建ち始まる。昭和15年に国道209号線(大牟田〜久留米間)が完成、国道443号線柳川−南関道路の交差点付近が交通の要所となり、加えて郵便局、警察署、金融機関がここに集まってる。昭和20年頃の矢部川3丁目(一番街付近)は商店らしいものとしては南入口にあった広田傘屋(広田ビル)、金子時計店、熊川漬物、小柳漬物などを見る程度で雑草のしげる畑地が散見されていた。神社の縁起には矢部川3丁目を流れる水路横に恵比須神が流れ着いた場所に商売繁盛を願って恵比寿神社を創建したとある。創建当時の宮の建設領収書には矢部川3丁目と記載されていることから分町して誕生したのだろう。当初は1月10日に恵比寿祭りをしていたが、寒い時期なので10月10日の「十日えびす」と20日の「二十日えびす」祭りが行われてきた。恵比須町の氏神さんで商店街総出の祭りで、お参りには笹に鯛、米俵、えびす像の飾りや恵比寿の熊手を買い求め賞品の当たる抽選会があり、昔はたんす、今は自転車などが当たる。昔は現瀬高郵便局の場所にあったが、昭和50年頃交差点より北100mの国道沿いに遷宮して瀬高の恵比寿神社の総社みたいな貫禄がある。
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G下庄八幡神社 下庄字宮脇栄町 443号線沿い |
大冶6年(1131)8月に瀬高庄が上庄、下庄の両庄に分かれた時、樋口宮より分建されたという。樋口と同じく応神天皇、仲哀天皇(父)、神功皇后(母)の三柱を祭ってある。平安末期から鎌倉初期にかけて、山門郡鷹尾郷の開発が進み、保元4年(1159)頃鷹尾別宮が出来て、瀬高下庄の別符(べっぷ)となる。
文治5年(1189)には、これらの宮は高良宮(久留米)の別宮となり、同じ神格として取り扱われ、鷹尾宮は瀬高下庄の西部鎮守として祭礼神事をおこない、樋口宮は東の鎮守として、下庄八幡宮は鎮守本体がおかれて、社務政事(まつりごと)を行なっていた。宮のある中町を「府内」と長年の間、呼んでいた由縁である。
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下庄八幡神社の社紋は肥後の菊池家の紋と同じ「並び鷹の羽」である。菊池持朝(1409〜1446)は室町時代の永享4年(1432)に足利幕府に協力し大友持直と戦い、筑後の守護職となり、寛政6年(1465)までは筑後は菊池氏の所領であった。 当八幡神社が菊池持朝の寄進の恩恵を受けたことにより菊池家の家紋が使用されている。鷹の羽紋は武威を象徴し武家に多い紋で、菊池氏・阿蘇氏の一族をはじめとして、武士の間に広まっていったようで、戦の武運長久を願う八幡宮でもあったであろう。 |
文政5年(1822)2月、上庄で大火が起こり下庄までおよび社殿、宝物類はことごとく焼失した。その2年後に氏子の手により社殿が建立された。さらに弘化3年(1846)本神殿が建立された。
明治6年には村社に定められた。現在の社殿は明治44年新築されている。大工棟梁は江上末次郎氏(八幡町江上寿氏の祖父)である。八幡神社入口の大鳥居は阿部酒造の先々代、阿部辰次郎さんにより大正2年奉納され当時の酒造家の繁盛ぶりが思考できる。境内に老木の樟の樹があり、神木となっている。
屋須多神社の信仰もあり氏子中に屋須多座を設け座祭りも行って火災防止を祈っていた。現在は印鑰(いんやく)社の社に合祀されている。
910坪の境内には正面左端より恵比須の祠、その傍には庄村源太郎・初太郎氏の日露戦争出征時の武運長久を願う大砲の弾丸2基が台座に祀ってある。次には印鑰(いんやく)社。中央正面に八幡宮の本殿があり、右に多賀神社。三光院。七社宮。天満宮。宮地獄神社が並んで祀ってある。
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【八幡神社の祭り八朔(はっさく)とは】 八月朔日の略で、旧暦の8月1日 のこと。この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。このことから、田の実の節句ともいう。この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。また、徳川家康が天正18年8月1日(1590)に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた。明治改暦以降は、新暦8月1日や月遅れで9月1日に行われるようになった。
9月1日の下庄八幡さんの八朔は上庄の祇園さんの祭りと共に、瀬高の二大祭りで、近隣の村からも沢山のお参りがあり、境内も道路も押すな押すなの人波であった。昭和30年代の八朔は境内いっぱいににサーカス団のテントが張られ興行され、お化け屋敷等の小屋が設けられ、前の県道沿いを人や屋台で埋めつくすほどに賑っていた。さらに戦前は各町内に八朔人形が飾られ、踊り山笠が披露されて、境内では相撲が奉納されていた。
現在では、早朝の氏子衆による矢部川にお潮水汲み(昭和17年開始)から始まり、女子小学生の浦安の舞、子供みこし、子供剣道が奉納され、夜は雅楽による祭礼が行われている。余興としてカラオケ大会も行われている。仲絶で江戸後期から八朔祭り時に恭(うやうや)しく神を迎える門「ちょうぎり」が部落に建てられたものが、現在は八幡神社前に祭りの時に建てられている。仲絶・八幡町・談議所・田代・新町・栄町・中町の氏神さまである。
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恵比寿神社 下庄八幡神社境内 |
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八幡宮社殿の左境内にある。中町の商売繁盛、海上安全を願う恵比寿さんである。昔は中町の道筋にあり、道路工事などの事情で八幡神社境内に遷宮されたものである。 |
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印鑰(いんやく)社・屋須多神社 下庄八幡神社境内 |
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印鑰社は当神社の金庫番として鎮座され、勝運守護の神でもある。契約成立、証文印鑑作製時の信仰がある。
和銅5年(712)道君首名(みちのきみのおびとな)は新羅(朝鮮)大使に任命され、帰国後の和銅6年(713)筑後守となって肥後守兼任し農業生産をあげるために新しい技術を伝え廻って尽力した。その功績をたたえる意味から道君首名を祀られたともいわれている。
屋須多神社は上庄の屋須多神社の分社で印鑰(いんやく)社に合祀されてある。修験山伏が一夜の宿をこい、それに奉ゆる為の礼として万一火を発したる折には我が名を呼べ、我は屋須多なり云々の物語と共に屋須多信仰はひろまり、下庄八幡宮には氏子中に屋須多座を設け座祭りを行い、文広橋口、吉岡など各々祠を構えて祭りをとり行い、火災除けの神事として信仰されている。 |
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多賀神社 下庄八幡神社境内 |
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祭神はわが国土、山川草木、もろもろの神を生み成された伊奘那岐尊(いざなごのみこと)、伊奘那美尊(いざなみのみこと)。夫婦円満の神徳あり長寿の神としても信仰されている。
御神体の外歓喜天(かんぎてん)も併祀されている。夫婦和合、子授けの神として信仰されている。 |
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三光院・火伏稲荷神社 下庄八幡神社境内 |
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三光院は一切の食物を司る神である。火伏稲荷神社は火事、防災の神としても信仰がある。
昭和7年建立の鳥居には「火伏稲荷神社」の額がある。 |
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天満宮・七社宮 下庄八幡神社境内 |
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天満宮は学業の神様、菅原道真を祀る。昭和初期頃までは手洗い場東の大楠木の下にあったが、多賀神社、火伏稲荷神社その他を新築合祀した折、現在の社殿に遷宮した。
七社宮は下庄上町の乙姫神社の東側にあったが、昭和初期頃、下庄八幡神社境内に遷宮された。
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宮地獄神社 下庄八幡神社境内 |
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八幡町にあった武田蝋屋は大変、商売繁盛の神様の宮地獄神を信仰され、明治13年(1880)4月に下庄八幡神社の境内の東側に神社を建立されている。毎年正月22日の祭には奉納相撲や鷽(うそ)という鳥の木型に番号を書きミクジの鷽替(うそかえ)行事で商品が当たっていた。昭和44年に社殿と鳥居が新築奉納されている。 |
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H観音堂 下庄上町 |
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創建は不明だが、金箔の堅牢な厨子の中に輝くばかりの仏像が安置されている。昭和32年地元の方によって修築されているが、創設は相当古いらしい。この観音さんの御利益は水害、交通事故、病気などいろいろあり、地元の信仰は厚い。仏恩に感謝して、毎日花、線香、水がたえない。お堂は子供、老人のたまり場である。 |
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H乙姫神社 下庄上町 |
御神体は玉依姫命(たまよりひめのかみ)(神武天皇のお母さん)とカッパ像である。ここも昔は矢部川の船着場で近くの酒蔵の酒の積み出しで賑わったであろう。現在では社殿が老朽した為コンクリートの小さい祠に造り替えてある。鳥居も古いものは取りはずして横に積んである。矢部川の浜に鎮座し航海の安全と水難事故除けを祈願された神社である。上町は酒造家の大坪酒造・池田屋酒造・田中屋酒造(廃業)・明治時代までは松尾酒造・瀬高酒会社・上田酒店の酒蔵6軒が建ち並ぶ古くからの酒蔵の町です。商売繁盛の神様エビスさんの祠が左側に祀ってある。この裏には豊漁、海上安全の神、七社宮があったが、昭和時代初期に下庄八幡神社境内に遷宮している。
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I観音堂・清高稲荷・恵比須 田代 |
明治14年の大火災で田代は全焼し、談議所の一部を焼いた。その後、火除けの神様として祀つて以来、田代には火災はない。祭った当時は火伏稲荷と呼んでいたが、何時の間にか清高稲荷になった。多分祠の前の旗が風雨で色あせてしまったのを、新しく旗を奉納した人が柳河三柱神社内の清高稲荷を思い出し、旗に清高と書いて奉納してから清高稲荷となったであろう。本社の京都の伏見稲荷の神が降りた旧暦の2月初めての午(うま)の日(現在は新暦の日)に初午(はつうま)さんの祭事を行っている。横には恵比寿の祠も祀つてあり。昔は小学生で恵比須祭りを行ない参拝者の接待をしてお賽銭を分け合っていたが少子化で廃止され現在は大人が10月20日に祭礼を行っている。左側のお堂は観音像を祀り春と秋のお彼岸に祭礼が行われ、巡礼者が訪れお参りされる。
稲荷社はほかにも新町の大城さん宅の玄関脇に太郎稲荷、平田稲荷と二体ある。元町の松本運送店の裏にも立派な稲荷の社があったが今はない。 |

観音堂 |

清高稲荷と恵比須宮 |
J生竹(いくたけ)天神 域樹(いきたけ)神 下庄新町公民館奥 |
現在の下庄新町は昔、行武(いきたけ)という集落であり、奈良時代の和銅8年(715)の班田制の実施により班給された土地のなごりであり、行武という人が開拓した土地とみられ、下庄の荘園の一集落であった。
高良大社の天慶4年(941)の筑後地区の神様の登録帳の古文書天慶神名帳に「域樹(いきたけ)神」の記載があり行武の名(集落の意味)の鎮守の神様で現在の生竹天神に該当するとみられている。
寿永元年(1182)8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名(集落)に「餐膳酒肴」の調進が課されていることから、下庄の荘園は現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯に広がっていたと考えられる。現在の大和町の鷹尾神社は瀬高下庄の鎮守の宮であった。
南北朝初期の暦応2年(1339)の「鷹尾文書」の田畠譲状によれば「一所八反三丈 まき 元行武(いきたけ)」とあって真木は、もと行武に、入っていたらしい。行武の集落は下庄新町の鎮守神、「生竹天神」周辺の栄町から真木までかなり広範囲の土地であったのが伺え知れる。高良神名帳が作られた平安時代では天神・水神・地神・竜神系の神を小さな社で祀り穀物の成長を祈りまたは収獲に感謝した信仰であった。生竹天神は鎌倉時代以降より菅原道真公を信仰する民衆的な講が始まり江戸時代には天神信仰が深化し天神講社が盛んになり菅原道真公を祀る宮と神格が変更されている。イキタケの地名は行武から、良い字を付けよとの改名政策に応じて生竹の漢字が宛がわれたと思われ、現在、栄町の筑邦銀行付近に小字名として残っている。昭和39年までの天神さんは栄町古賀ユースホステル裏にあり、二間四方の板間の拝殿があり北側に廊下をまたぎ本殿があり菅原道真公の像が扉の中に鎮座してあった。毎年秋の祭礼時に下庄八幡宮の外川神主が次の御座元をお祓いの紙くじで決め、天神祭りと八須多さんの祭礼やお座の世話宿になって1年間神棚に祭神を祀っていた。またムクの大木がある境内では新町の子供相撲の奉納が行われていた。神社の管理清掃は戦前までは金子小三郎氏が戦後は庄村六郎氏が行っていた。現在、参道の石段が北側の太田水路側道に残され栄町に神社があった名残である。現在地に遷宮され境内の公民館内には八幡・印鑰・八須多・天満宮4社を祀り12月の第1日曜日に班ごとの順番制で祭礼を行い会食を行っている。遷宮前は天神さんの祭りは10月八須多さんは12月にお座元の世話で新町全所帯で祭礼を行っていた。

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永運堂 下庄新町尊寿寺境内 |
昔から「清正公さん」と親しまれ、お参りしたり遊び場とした、加藤清正公を祀るお堂である。尊寿寺は柳川藩主の立花宗茂の叔母、大友菊子の霊を納める立花家とゆかりのある寺である。よって朝鮮征伐時の宗茂の戦友の加藤清正を祀ったであろう。早朝からドドスクドンとお勤めの太鼓が鳴り響く。お堂内は正面が加藤清正公、左に開運の御守神妙見大菩薩、右に最上位稲荷大明神33番の神様を祀る。平成11年に南向きが西向きに新築再建されている。毎月23日に祈祷祭を行っている。
清正公 |
K一本松天神・天満宮 八幡町一 |
この神社は古代の天慶神名帳(944)に記された五百木部蛇臥神(いほこべだぶせんのかみ)であろう。明治以前は一本松天神と称して水の神で竜神で男の神様と信仰された。横を川が流れ犬ゴロ土居があり上を三池街道が通っていた。以前ここに大きな松が一本あっていたので一本松天神の名もこれからつけられたものと思われる。終戦前頃から廃業した武宮酒造の名前「一本松」もこの由来から取り入れ付けられたようである。天満宮は明治19年に一本松天神を祀ってあつた所に造営され小さい天満宮鳥居が当時の敷地巾を物語り、右側敷地は昭和年代に武宮酒造から寄贈され新しい鳥居が建設された。拝殿の西脇の旧鳥居の奥にはえびす祠(左)と並んで修験者のような姿の地の神様(右)を祀ってあるが、この神様は昭和25年頃まで安養寺境内東側に鎮座してあったのを現在地に遷宮奉置したものである。本殿東側の石祠は印鑰(いんやく)社は当神社の金庫番として鎮座され、勝運守護の神でもある。契約成立、証文印鑑作製時の信仰がある。祭礼は5月と9月に八幡町一の8班の持ち回りで行われている。昔(昭和以前)の祭りは、お座元(宿)がきめられ、おこもり(会食)が行われたり境内でのど自慢など行われ華やかであった。 |
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一本松天神 |
本堂 |
旧鳥居と恵比須と地の神(右)の祠 |

印鑰(いんやく)社 |
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藁葺き屋根の旧本殿・石灯篭は現在新鳥居の両脇に移転されている |
L弘法大師堂 八幡町一 |
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八幡町天満神社の南側にある。昭和26年、八幡町の二十一日会のメンバーで改築されている。お堂の屋根は銅板葺きで立派な建物で堂内には弘法大師の像が安置されている。境内には十三仏の石像がある。ここから南側は七生寺という寺の敷地であったので、十三仏の石像などは七生寺跡の面影を残すものであろう。
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M一つ堂天神(婦計(ふけ)天神)八幡一(中央公民館と役場の間西側の一つ堂水門(徳永宅東)にあったが廃宮) |
この神社は古代の水の神で竜神で女の神さんであった。用水路の分伎点に鎮座してかわの守り神として崇められ、逆らうと祟りがあるとされていた。公民館や役場用地造成で所在が不明のままになっている。 |
N天満宮 八幡町二 |
下庄新町の尊寿寺地内に鎮座しておられた由緒ありげな神様(多分天神様であろう)を迎え祀って天満神社を建立したという。現在の拝殿脇に旧鳥居が、半ば埋まって置いてあったが、その銘刻に明治十年という字があった。現在の鳥居は昭和42年に建立されている。鳥居の左には八幡町一出身の書道家原田観峰先生の碑がある。八幡町二の公民館用地を寄贈されている。 |
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O松尾神社(きのどんさん) 元町(市場町) 本社の由来は【総合編】へ |
瀬高の酒どころに、ふさわしく祭神は大国主命の子大山咋尊(おおやまぐいのみこと)(山咋のクイは杭の意、「山から流れる清水」の意味)で酒の神様で国家鎮護・方除け・魔除け・災難除けの神様であり、北高柳の山王宮日吉神社と同じ祭神である。
京都市右京区嵐山宮前にある松尾神社が総本社である。総本社の由来は太古の昔から、この地の住民が松尾山の磐坐(いわくら・神の御座所)を守護神として崇めていた。いわゆる山岳信仰である。5〜6世紀、日本の古代国家が成立した頃に日本と朝鮮半島の交流が盛んな時に秦の始皇帝の子孫(最近の研究では新羅の豪族)と称する「秦(はた)」氏の集団が朝廷の招きによって来住、帰化する。この秦氏の首長が松尾山の神を氏神と仰ぎつつ、大陸伝来の新技法で土地開発や絹織物、陶器製造また松尾山からの湧く神水を使い美酒を醸造した。大宝元年(701)秦氏の祭神の社殿を建てられ、神水が湧く松尾神社が日本一醸造神と崇められ「酒の元水」として醸造家が持ち帰り用水に混和して醸造し信仰した。また秦氏はのちに豊穣を祈って伏見に稲荷大社を祀った。伏見稲荷である。
この京都から遠い昔807年(大同2)に肥後の国、木野の里にその分霊を奉祀したとある。
さらに1633年(寛永10)肥後国(熊本)菊池郡喜野村の松尾宮の分霊を背負って北高柳村に奉安された後、元町に遷座になり、背負って持って来た不動院さんは社殿の右の祠に祀ってある。
吉井から大江に流れる川を、喜野殿川と言うのは、この清流の水で酒を醸造したことによるものである。即ち禅院、吉井は旧藩時代の酒造地であった。江戸後期に入って上庄、下庄の町部に酒造業が移ってきたのである。
昔の酒造地の近くを流れる「喜野殿川」の名から、又は分霊先の地名木野から松尾宮の名を地元では「きのどんさん」と呼んできた。瀬高の酒造家は良き酒の出来を願い信仰したでしょう。この宮は古来の山岳信仰の神仏集合の修験が行われていて、松尾宮社僧(神主)の弟子達は山法師として農閑期は農村を足繁く訪れほら貝を鳴らし豊穣と無病息災わ祈梼し農民から歓迎されました。
寒中の1月6日早朝の水掛け神事は元町の各戸の前に桶、バケツに張った水を掛けられながら氏子・子供達が約300mある街並みを走りぬけていました。由来は元町(市場町)に江戸時代から火事が多く、火災除けの神事を行ったことに始まる。残念ながら現在は休止中。神宮の呪詞(のりと)は仏僧まがいの装束で行われ最終の段階の奇声というか裂縛の気合で大喝一声は空間を厚して、妖しく神秘的であり、ほら貝の響きは神が下って来られた合図ではないかと幻想したものです。祭礼は9月29日に行われる。
昔の高さ1m程の「飾り鳥居」は酒名入りで、松尾宮、建立時の酒造家の歴史を探る貴重な遺産であるが、境内北コンクリート壁手前の土中に埋もれている。神代の古きから人間は生まれても酒、死んでも酒、なんでも酒々で俗に「お神酒(おみき)あがらぬ神はなし」と言われた通り日本人と酒、酒と神様は切っても切れぬ程なじみ深い関係であったものである。
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天満宮・地蔵堂・・恵比須さん 松尾宮境内東側 |
松尾宮本殿右の小堂に肥後国(熊本)菊池郡喜野村の松尾宮の分霊を背負って北高柳村に奉安された後、元町に遷座になり、背負って持って来た不動院さんを祀ってある。
後の川淵には左に国道209号沿いの瀬高製作所の裏の塚の横の井戸の傍にあった地蔵堂を昭和20年代に移転されたものである。お堂の周りにも3体のお地蔵さんが祀られている。真中には飯田畳屋の脇にあった商売の神様、恵比須の石祠もここに昭和後期に遷宮している。
右端の社殿は元瀬高警察署裏にあった東元町の天満宮を昭和30年代に新築移転してある。
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不動院 |
地蔵堂・・恵比須さん・天満宮 |
元町の観音堂 元町中市場 |
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5、6坪の小堂ながら、堅固な構造。昭和27年の改築で絵馬の装飾がある。堂の裏手には数基の墓があり、往時にはもっと大きなものではなかったりうか。現在は雨漏りで天井・床が壊れ早急な修理を要する。
平成19年に観音像は下庄新町の尊寿寺に引取られ修復されて本堂に安置されている。旧薩摩街道沿いで信仰を深めた歴史あるお堂を残したいものだが・・・・・・ |
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P金栗八幡宮 |
昔の鳥居には文久三癸亥(みずのとい)年(1863)と銘刻があり、さらに丸い鳥居一面に、銘文を刻み込んである珍しい鳥居で、さすがは漢学者西田先生が住んでおられた金栗のお宮である。なお神主石川信濃守藤原敬徳と銘刻あり、この神主石川信濃守とは、現下庄八幡宮の薬局だった三小田幸吉さんの先祖で、現在の神官外河家の着任前の代々の神主さんであったことが記録にある。三小田家の系図並に各種の古文書は、同家に所蔵されている。平成元年9月に新しい鳥居に建て替えられている。鳥居の脇には猿田彦の石碑がある。道の神、境の神でもある道祖神とされた猿田彦神は、江戸時代の中期頃から庚申信仰とも習合して信仰されるようになった。これは「猿と申」の共通性から、神道家によって結びつけられたものといわれている。
社殿の北側には高良さんを祀ってあるが久留米の高良大社の分社であろう。 |
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高良さん |
猿田彦碑と鳥居 |
宝塔院 金栗 |
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鎌倉時代末期、建武元年(1334)名僧鉄山士安禄師が開基創建した。大竹の二尊寺の末寺であった。その後世代は幾変遷して周辺部落の寺とともに衰退し廃寺同然となり、大日堂を残して細々と今日に至った。大正5年建立されたお堂は朽果て、昭和51年仏像の修理、お堂の新築され金栗部落の人々により信仰されている。 |
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Q水天宮 談議所矢部川堤防沿い |
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終戦後の昭和20年代に矢部川での水難事故を守るため、部落民により、久留米の水天宮より分霊され川岸に新しく建立された。5月鯉のぼり行事の祭礼時は河川敷地に舞台まで設けられ賑やかに行われた。かっては子供の水難事故も多くまた部落漁民の舟の安全を願ったのであろう。竹竿(たけさお)に藁(わら)で「つと」を作り「米、塩、イリコ」を入れ、酒を竹筒に入れて堀岸に差し立てた「カッパまつり」は今日珍しくなった。古来この付近は談議所の浜があった場所でここから商人の荷役の運搬を行っていた川辺であり、瀬高の酒や談議所の瓦などを島原、長崎に運んでいた由来のある場所である。明治以降は鉄道や自動車運搬に変り、港の役目を終わり静かな街並みに変化している。
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水天宮(本社)の縁起 久留米市瀬下(せのした)町 (参考資料) |
祭神:天御中主神・安徳天皇・建礼門院・二位尼(平時子) 例祭:5月5-7日、河童祭、川祭とも称す。 源平合戦で平家が敗れたのち、女官按察使伊勢局(ニョカンアゼチイセノツボネ)がこの地に逃れ来たり、 千歳川(筑後川)のほとりの鷺野原に安徳天皇の霊を祀ったのに始まると伝える。 伊勢局は剃髪して千代と名を改め、加持祈祷を行った。人々は尼御前と称し尊崇した。 (ちなみに、源氏は、平家の女官たちを処分しなかったので、それぞれ親戚縁者などを頼って生き延びた。)
以後、水天宮の神は、筑後川の水神となった。また、安産祈願で有名。 「筑後誌」によると、慶安3年(1650)に久留米第二代藩主有馬忠頼公が社地社殿を寄進し、現在地に鎮座。 それまでは、江南山海林寺の山上にあり、山下には神池があったという。 江南山は、御霊系統の母子神を祀る霊場であり、そこで密教修法の水天供を修したために、
安産祈願の神としての性格付けが行われたか? 久留米藩主有馬氏の崇敬を受け、文政元年(1818)には江戸の芝赤羽に勧請。 以後、赤坂・日本橋蠣殻町(カキガラ)に移築され、1878年からは一般の参拝も許された。 安産のまじないとして、戌イヌの日に腹帯をわけたため東京都民の信仰を集めた。 (水天宮神徳記より) |
R北高柳日枝神社(山王宮日吉神社)) 北高柳矢部川堤防そば 本社の由来は【総合編】へ |
北高柳の産土神で山王宮日吉神社ともいう。 神紋が丸に横一であることから比叡山のある滋賀県大津市の日吉大社の分祀神で、祭神は大山昨命、大山祇命である。国家鎮護・方除け・魔除け・災難除けの神様である。
寛和元年(985)にはすでに祭礼が行われ、その祭典に要した御供物を克明に記した記録が鷹尾文書にある。
千珠、満珠のまん丸い二つの石のご神体が安置されてある(現在紛失中)から古代から天神信仰的な祀りの場と思われる。
(天文16年(1547)立花宗茂柳河城主に封じられた折、その一族立花三太夫が高柳の地で知行一千石を拝領する。
彼の手で文禄3年(1594)日吉宮を再建し、当時の祈願棟木板「山王十禅師権現御社」が残っている。三太夫は宗茂に従い豊臣秀吉の朝鮮出兵や関が原の戦いに出陣したが天下二分の戦国動乱期に大川八院の合戦で討ち死する。
宗茂も奥州棚倉の小大名になり田中吉政が藩主になる。再び宗茂が柳河城主になる二十数年間村人が日吉神社を守り続けた、いきさつがある。
後に宗茂が北高柳までいちいち詣でるのが遠いにで、分霊を柳河に移し建立したのが城内の山王宮神社であるという。
この宮は川岸に鎮座してあるので遷宮をかさねて現在の社殿で3回目の鎮座であり、通称弘法さん寺の養安寺と同居するようになっている。
高良文書や鷹尾文書に出てくる高柳三大夫事件等の記録によれば、この北高柳の河辺は交通、物資集散の要地であった事も裏づけるものである。
境内左手のお堂(御弘法)には皇族紋の付いた神体が祀られて奥にも御神体がある。右手には仏像が並び奥には仏教の祠がある。また古い塞の神を形取った木彫の像・お観音さん・二十三夜さんもある。堤防工事で切り倒された大楠の木の切り株のそばに角源蔵稲荷社がある。下小川宮のだんざぶろう、高柳の角源蔵と瀬高の代表的な稲荷の主役をつとめた、たのしい民話も残されている。 |
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鳥居(日吉宮) |
本殿・角源蔵稲荷・大師堂 |
淡島社(栗島) 北高柳日枝神社境内 淡島社の由来は【総合編】へ |
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淡島神社は淡島様とも呼ばれ,住吉神の女房神だった。この神社には女子が人形を作って奉献する風習が古くからあって雛祭りのはじめといわれている。元禄年間に淡島願人という行者がでて,淡島様の縁起を唱えて諸国を巡歴した。このため婦人病に霊験あらたかな神として,民間特に花柳界の女王に信仰されるようになったともいう。婦人病に悩む女性達がお参りする神様である。
北高柳日枝神社境内に祀ってあるが余り知った人はないようである。紀州和歌山の加太神社を本宗として近世淡島願人という乞食坊さんが婦人たちからいろいろの物を集めて歩く風習があり、淡島様の縁起を唱えて諸国を巡歴して堂を建ててきたのが、何時からか婦人達の信仰につながった。淡島神の由来については天照太神第六の姫宮が16才で住吉の一の宮の后となったが、婦人病に苦しみ祈願の為、綾の巻物その他二、三の品をそろえ、空舟に乗せて堺から流した。舟が3月3日に淡島に着いたと言う故事から舟に乗せたという品にあやかり髪や衣類を持って参拝し、それを持ち帰ると婦人病が治るという信仰になった。 |
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二十三夜塔 北高柳日枝神社境内東奥 |
月待ち行事「二十三夜講」は旧暦の十五日、十六日、二十二日、二十三日に同信者が祭神の前で月が出るのを待ちながらお勤めや飲食を行われ、主に、「三夜待ち」「産夜」とも呼ばれて、多くは女性の講であつたようで、これを記念した塔が造られた。室町時代からあった記録もあるが、江戸時代に盛んになり全国に普及し関東でも信仰されていた。瀬高町では北高柳の二十三夜塔が確認されている。
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西の宮大神 北高柳日枝神社境内 西の宮本社の由来は【総合編】へ |
南尤(無)大黒神 西ノ宮大神宮と扉にあり 法華経の石刻 柳河講中、 三池講中とあり調査の結果、西の宮大神とは恵比寿のことであり比叡山西の宮から分祀された宮で柳河藩三池藩の総本社的立場にあったことが判明した。日枝神社と共に矢部川改修工事で何回も移転した為うっかり見過ごされ玉垣脇に土台もなく地べたに祀られている。恵比寿大黒二体並んで祀られてあるのが印象的である。昔はここの社を基点に庶民の神様、恵比寿様をここの祠の形をそのまま建てて恵比寿を祭り伝えて来た信仰が筑後一円に広がって行ったと思える。大人は座祭を行って親睦の場とし子供は前述のように楽しい行事を続けながら成長して行った。ともあれごく最近まで続いていた子供達のえびすさんの呼び声もだんだん部落から消え遊ぶも単純化し、そっけなくなって、夢のある遊びから遠のいてゆくのは寂しいことである。
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角源蔵稲荷 北高柳日枝神社境内 稲荷大社の由来は【総合編】へ |
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北高柳弘法さんの大楠木といえば下庄八幡宮の大楠よりもっと大きな楠であった。その根本近くに小さな祠の角源蔵稲荷が昔あった。民話狐の角源蔵もこの宮の名前であり、土地の小字地名も角源蔵である。ほかに八幡町思案橋横にも稲荷さんが祀ってある。稲荷信仰は京都伏見の稲荷を各地に分霊、祀ったというが、もともと農耕の神であり、狐が神の使いであることと結びつけ水商売の人々が信仰したり、鍛屋さんが狐の力をかりて名刀小狐丸を打ちあげたという物語からフイゴ祭に稲荷を祀った、長い風習があり人間の都合で都合の良いように仕立てられて来たことは、恐れ多いことながら仕方がない。現在は日吉神社の東側に赤い鳥居と赤屋根のお堂に祀られている。 |
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弘法大師堂 北高柳日枝神社境内 |
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廃寺になった養安寺で通称おこぼさん(御弘法)の跡地である。大師堂内に大師像・薬師如来・石仏・阿弥陀仏・脇侍十二神将がある。日吉神社西側には観音堂・魔羅観音・地蔵堂がある。春と秋のお彼岸にはお遍路さんが訪れ参られる。 |
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S地の神様 北高柳堤防脇大城宅傍 |
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矢部川堤防下にあり北高柳の地の神様(産土神か)として五穀豊穣・水難除けを願い祀られている。お堂の中の御神体は5神で中央が主神であるが誰か判明しない。その左右両脇に女性の鎌を持つ像と稲穂を持つ女性の農耕神2体が祀ってある。。また赤と青のカッパ像2体が併祀してあり、カッパ神は守護的役目をもっている様である。 |
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21観音堂 北高柳の久富博己宅敷地内 |
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久富宅の観音堂で、先代より信仰され現在に至っている。個人宅で祀られているには、めずらしく先代からのの深い信心がうかがい知れる。
東隣の久富宅には屋敷神さんが北東と北西に2社祀ってある。 |
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22恵比寿の祠 上庄(八坂神社境内)、上町、八幡神社境内、談議所、田代、新町、元町、樋口神社境内など数多い |
掛け声三、四、えびすさんにめーってくだはれ(詣って下さい)を3回くらい繰り返しながら低学年を先頭に四、五年生がつづき自分の村中を、町内を唱和しながら、お参りを勧誘して廻り、お賽銭が多くあがる様に、そして自分達がやっている祭が町内の人々にわかってもらうよう努力した子供達による伝統行事であった。
1uの小さい石垣の積み上げ土台の上に小さい祠、どの恵比寿様の祠も規格品と思える位いよく似ている。
古い年代銘は文化文政時代(1813〜1829)から明治初年頃に出来たものが多い。同じ町内で下庄新町は東西2ヶ所、元町のように東中西と3ヶ所祀ってある町内もあるが、大体、村に1ヶ所、町内に1ヶ所は祀ってある。鯛を抱いて釣竿を片手に笑顔の御神体、家内円満、家業繁盛の神様として民衆の中に定着し、最も親近感のある神様である。
現在は10月20日が祭日、以前は旧暦10月20日であったので、夜遅いと霜がおり、ぶるぶる震えながら子供達の団らんの夜であった。この素朴な恵比寿様の本家ともいうべき祠が北高柳日枝神社山王宮の一隅に祀ってあるのを見出した。 |
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元町のえびすさん |
新町のえびすさん |
23牛の御前 金栗鹿児島本線より東50m田んぼ |
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鉄道線路の近くの田園のちいさな境内(30坪余)に石の祠に自然の団子石が祀られているだけで午頭(ごず)大王(スサノオノ命(みこと))が祀られています。941年(天慶4)の天慶神名帳にも記されている「己止真神」の宮で金栗集落の人々の大自然の神として深い信仰のもと守られています。この地は金栗遺跡の中心部に位置し弥生時代から奈良時代の住居跡、甕棺、磁器、井戸、分銅器、鏡など発掘されており広大な集落地帯であった所である。またここにまつわる民話もあり一つは明治に鉄道が敷かれ当時汽車がこの付近にさしかかりと線路に大入道が立ちふさがる話。二つは牛を大変酷使する百性さんが牛が暴れ狂い飼い主を角で突き殺す寸前村人多数で牛をとり押さえ助けられた。それから飼い主は深く反省して「牛の御前」に参り深く信仰した話がある。 |
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【牛の御前の謎】
牛の御前(うしのごぜ)変な呼び名で、一体何だろう。瀬高に金栗、上庄、真木の3ヶ所に昔から何の変哲もない小さな塚がある。自然崇拝の古代の人は日の出の太陽を拝み自然石などを大地の神に見立たりして感謝のお祈りをしていたでしょう、その後支配者や権力者に利用された神殿をもった宗教に変化しましたがそのなかでも「牛の御前」はあい変らず水田地帯の真ん中で今日まで部落の人の信仰の対象となり守られていると思います。昔より何の神たるか知らず信仰され、「牛」とはその地の主をも意味し大地主の神であって鎮守の神さまで村落の入口にたち、すべての疫神や悪人の進入を防ぐ役目と捉えておこう。でも「昔から何の神か明らかでない」とあるようにそんな謎につつまれた神さまはそっとしておいた方が夢があってよいのではと考えます。
御前という呼び名は一千年も昔の天慶年間の神名帳に神社を表わすのに「前」を使っていて十社を十前と記録している。一説には「御前」は大人の夫人を尊称して使った向きもあり、例えば「静御前」と呼んだような表現の方法である。また西暦860年(貞観2)僧円仁が牛頭天王を勧請した記録もあり当時は神仏も混合して信仰されてたようである。上庄の牛の御前江戸元禄時代に石塔に神体を刻み奉納されておりこの時代信仰が盛んだったことを物語っている。鷹尾神社の牛の御前も見逃せない。 |
24夜鳴き観音さん 中絶旧公民館 |
江戸初期の貞享4年(1687)の観世音菩薩の石像と十坪余の仏堂がある。夜鳴きが治らない子供とお参りすると直ちに治ると伝えられ「夜鳴き観音」と呼ばれ近隣からの参拝客で賑わった。以前の仏堂は道から奥にあったが道沿いのほうが御利益が増すと移動されている。前の道が旧三池街道(大牟田街道)で行き交う旅人も参拝し休憩したであろう。北400m地点に柳川から二里石(部落では「いちりき」と呼んでいる)が西道脇にある。お彼岸には巡礼者が訪れる。祭礼は12月第1日曜日村内のお座で行われている。 |
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25地蔵堂 中絶 |
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国道209を交差する旧三池街道沿いにある。以前は下の横の水路脇にあったものを、上の道路沿いに移動された。由来は不明だが川で水難事故にあった人を供養しる為に鎮座されたものであろう。 |
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牛の御前 上庄字牛御前 |
昔から何の神であるか明らかでない。上庄の北原の県職アパートの西北約500mの所に小字名を牛の御前という所の田んぼの真ん中の杉の木立ちの寂しい森に石祠に神体を彫んだ(元禄時代の奉納)牛御前さんが西方を向いて鎮座しています。現在でも献花はもとより、酒、お菓子、果物など奉納され上庄の人に愛され、おまいりに来た方々が清掃され生き生きと信仰の対象となり守られています。この付近から平安鎌倉室町各時代の磁器片や古代土器が発掘され上庄の中心部であった証である。 |
牛の御前 真木 |
真木の部落民で昔から引きつづき祭事を行っている。 |
@鷹尾八幡神社 大和町(柳川市) |
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貞観11年(869)に宇佐神宮の別宮として、清和天皇の命によって建立されたと社伝には伝えられてる。
平安末期には、筑後一の宮高良神社の別宮として徳大寺大納言家を領家とする瀬高下庄の鎮守であった。1185年(文治元年)藤原家宗が地頭に任命され、4年後京都の円勝寺領の鷹尾別府と呼ばれるようになっても下庄の鎮守であった。社の造営、修造は、朝廷および鎌倉幕府、執権、室町管領、鷹尾城主田尻氏、柳川藩主立花氏などの命令によって行われ、南筑後有数の社として栄えた。
沖祭りは旧暦に6月13日に秋祭りは10月20日前の日曜日に行われる。 |
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A牛の宮(大和町文化財) 大和町鷹尾神社境内 |
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藤原氏の守護神で、祭神は、その祖天児根命です。鷹尾神社の古文書「瀬高下庄領家公文書下文」に「牛宮祭料二石6斗」とあり、「健保4年(1216)閏六月十六日」の日付と「前対馬守藤原朝臣(花神)」の名があります。いずれの時か、九州に赴任した藤原氏が、この神社の境内に守護神として祭ったと思われる。昔、境内に藤が松にまつわり咲きあまりにもみごとでしたので藤原の姓を「松藤」に改名した。元禄8年(1695)に、松藤の姓を名乗る村人50人が祖先の祠として建立した。地元では「松藤さん」と呼んでいる。 |
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