庄福BICサイト         福岡県みやま市瀬高町(水上校区) 平成18年2月3日更新
総合編
お宮とお堂
水上校区
清水校区
上庄
本郷校区
下庄校区
大江校区
南校区
水上校区のお宮(神社名クイック)
@老松神社  上坂田 A若宮神社   上坂田 B豊前坊磐座 下長田
C長田日子神社 下長田 D不動院  長田大谷口 E社日さん 長田字下山添
F弁天さん 下長田字上山添 G八竜神社   下長田 H下長田若宮神社下長田
I屋須田さん 下長田 J天満宮    下長田 Kお弘法さん  下長田
L薬師堂    下長田 M老松神社   上長田 N稲荷大明神上長田 
Oお弘法さん 上長田交差点角 P八坂神社   唐尾 Q稲荷神社 八坂神社境内
R恵比須さん   唐尾 S薬師堂    唐尾 21宝満神社   唐尾
22七社神社   小田小坊谷 23社日さん    小田 地蔵堂    平田
25宮地嶽神社 平田字小田 26熊野神社   禅院 27藤の木さん  禅院
28水神     広瀬堰傍 29恵比須さん 広瀬 30金毘羅神社 山中
31天満神社     山中 32地蔵堂     山中 33若宮神社    山中
34観音堂と地蔵堂 山中、
@汐井神社  立花町山中 A水天宮 立花町山下

          水上校区のお宮         
@老松神社   上坂田
菅原道真公を祀った神社で上坂田部落の産土神である。この地は平安時代安楽寺大宰府領であり老松神社の社名は菅原道真の両親を祀る大宰府天満宮の老松社からの由来であろう。本殿にはには若宮神社、清神社、日吉神社、秋葉神社なども合祀ってある。文政元年牛原氏が田1反2畝29歩を本社に寄付している。祭礼は9月25日で昭和58年頃までは境内で屋台舞台が建ち浪花節や芝居が行われ賑わった。現在は本殿前で子供相撲が奉納されている。鳥居の左手前に道祖神の石碑があり、右奥には恵比須の祠と食物の神社日さんの石碑がある。また上坂田には分家などで坂田姓が多く7割を占めている。  

道祖神

恵比須さん

社日さん
A若宮神社   上坂田中小路
応神天皇の若宮であられる大鷦鷯命(仁徳天皇)外皇子を奉斎している神社である。水難、五穀豊穣、家内安全の神として信仰されてきた。中小路24軒の氏神さんであり社殿は立派な彫刻で飾られて自慢の宮であったが平成16年の台風で倒壊、平成17年に新築され10月9日に落成式を行われた。5月3日10月3日に祭礼を行い本祭りは12月13日以前の日曜日に行う。座元は毎年当番制で回る。本祭りは昼と夜に渡り祭りの会食が行われる。
  
B豊前坊磐座(いわくら)   下長田
女山横尾谷水門を東進、登ること約500mで巨石そびゆる通称豊前坊と呼ぶ神域に達する。巨岩の手前に小さい祠社があり法螺貝を奉持した山法師姿の御神体が安置してある。霊験静寂な神域は弥生時代卑弥呼の祈りの場として最もふさわしい所として自慢出来よう。また弥生時代の人々は太陽や、月、星など天体を神としてあがめるとともに巨石巨木などを神が天降り鎮座します聖なる領域として恐れかしこみ拝み祭ってきたといわれている。その聖域としても相応な場所とみてよい。社屋左側に横たわる巨石は社殿裏側14mと、そそり立つ巨岩をどんな方法で割りどうして、ここまで動かして置いたのか、古代人の知恵に驚くばかりである。割った跡が4畳くらいの磐床になっていて祭祀の場にふさわしい。ここの周辺には縄文時代から中世紀へち続く遺跡が発見されているここを豊前坊というのは後年仏教隆盛期に創建された叡興寺、横尾寺、各々が抱えていた数多い僧坊の一つの名前と考えられるが、弥生時代遺構として検証するに何ら差し支えない呼び名である。
C長田日子神社(長田の権現さん)  下長田(女山粥餅谷より入る)
現在の長田日子神社周辺は神の降臨を偲ばせる豊前坊の巨石が厳存し卑弥呼の居城を彷彿させる神籠石列石の横尾谷水門を配した古代自然崇拝信仰の場でありました。
平安時代初期の
弘仁元年(810)に伝教大使・最澄により横尾寺が創建された。横尾寺は安土桃山時代に兵火にあい廃寺となり江戸期になり再興され寛永9年5月豊前国彦山の別宮を勧請し「彦山大権現」を創建し寺の守護神として神仏習合して江戸末期まで共存した。藩政時代は立花藩の支援を受け横尾寺の山伏達は春は田植え前に田の神を祭り、夏は祖霊祭りの儀礼をし、無病息災と豊作を祈祷し農村を歩き回っていた。明治元年の明治政府の神仏分離政策により廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により廃寺へと追い込まれていった。横尾寺の守り神でありながら農耕神であった彦山大権現は明治16年に下長田世話人により新穀の豊穣と国家安泰を祈願して長田日子神社として再建され神事を行うようになった。
       
  【
御田植え祭
毎年
3月15日には御田植え
(おんたうえ)神事が男子小学生が早乙女姿に扮した10人余りの一団が長(おさ)の呼びかけに応じて子方が唄を斉唱しながら輪を画いて歩きその後、松葉を早苗に境内を水田ににみたて、田植えの真似事をする。終りに近づいた頃、子方は植え残りの松葉を長の顔面に投げつけ野次を飛ばし追い立て平素のうっ憤を晴らす習わしになっている。唄の全文を掲げておきます。
  
神まつる滝の白糸打ち映(は)えて御田植急がん 御田植急がん 
    そもそも今日は如月
(きさらぎ・旧暦2月の事)十五日当社の御神事にて候(そうろう)ほどに
    早乙女
(さおとめ)を呼び出し御神田を植え初めばやと存じ候(そうろう) 
    如何
(いか)に早乙女達これに来たり候(そうろう)
  
(いよいよ)高き日子の山並み豊かにて実取代(みとしろ)御田植の為
   早乙女の袖を連ね笠の端
(はし)を並べつつ、いざ御田植急がん御田植急がん 
  
いかに早乙女達御神田を植え初(そ)めばやと存じ候
  
苗代取ろうと整(なら)しつつ水も豊にて水口(みなくち)を祭りおさむる神の御田
   実取るぞ程なかりけり

  
植え植え早乙女笠買(こ)うてやるに
  
笠買(こ)う賜(たも)るなら尚田を植えに
  いかに早乙女襷(たすき)買うてやろに
  襷(たすき)買うてたもるなら尚田を植えに
  植え植え早乙女化粧文(ぶみ)をやろうに
  化粧文にもるなら尚田植えに
  化粧文もろうとも何しょうと目(め)みやろ
  いや、憎いや男の言うたこと腹が立つ
  誠に腹が立ち苗代の隅々の水鏡を見よぞかし
  早乙女の影を写して苗代の隅々の水鏡を見よか
  いかに早乙女あの山に花が咲いたよ、見さいな
  実(げ)にきっと見てやれば黄金の花が咲いたり
  あら目出度いな目出度いな
  かかる目出度き御田植
  千町
  万町
合唱
 御田植て民も豊かに国土安泰、治める御代こそ目出度かりけれ 

毎年参拝、見物者が増えて名物となりNHKのニュ−スにも報道され繁盛伝統行事となっている。下山にある分社の女山の日子神社も御田植えの神事が行われ賑わう。
     粥占い+
                            (写真は大草物語さまより借用)

  
粥占い
前年の秋に収穫された稲の初穂の米で
祭の1ヶ月前に粥として炊き、方位を印した銅鍋に入れ、祭当日神殿内でお祓いの後、蓋を開け粥に発生したカビの形状・場所により占い役が粥に発生した「カビ」の色や形状でその年の気象農作物の作柄を慎重に判定する。藩政時代には柳川藩に報告していた。
                     
D大谷の不動院   瀬高自動車学校・九州ポラコンの東側の川上流
昔から正月などは特にお参り者が多かったという。大谷から流れる川岸にあり、後ろは竹やぶが茂っている。不動尊の他に地蔵像も祀られている。3月17日が供養祭を行う。
      

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 大谷の弁天さん  不動院境内
不動院の境内の上に大岩の上に弁天さんを祀ってある。祭礼は3月17日と9月17日に信仰者の皆さんで行われる。
E社日さん 下長田字下山添    本社の由来は【総合編】へ(社日さんの由来)
国道沿いJAみなみ筑後東山支所を東に入った山添地区37軒(昔は8軒)の氏神さんで祀る。野菜共同集荷場を南に入った曲がり角に鎮座して穀物の神、社日さんを祀ってある。石の祠を全面部分だけ木造のお堂に入り込み祀られている。3月と9月(日にちは不定期)に祭礼が行われている。堂内には御大師さんも祀ってあるのでお彼岸時期は巡礼者が訪れる。創建は不明だが少なくとも120年以上の歴史があるそうだ。
F上山添の弁天さん 下長田字上山添
長田の交差点を東に入り消防小屋を南に入った東山中学の裏手になる上山添の牛島さんら6軒(昔は3軒)が祀る弁天さんである。昔、2坪位の土地を買い求めお堂を建て、現在6軒で信仰している弁天さんである。10月18日に祭礼を行っている。ほかに下長田部落内(八竜神社)や平田の善光寺傍の山にも祀ってある。弁財天は元はインドの古代神話に登場するサラスバティというインダス川の神様です。サラスバティは「水を持つもの」と訳されます。したがって池や川など水のある所に祀られます。水の流れは音楽やよどみないおしゃべりに結びつき、芸能の神様としても信仰されています。八竜部落と同じく8つの手を持つ弁天財で、宝珠・宝棒・宝箭(矢)・宝刀・宝弓などを持っています。        
G八竜神社(弁天さん)  下長田字八竜
国道209号から河野食品を入り部落手前の鬼丸宅を左(南)に入り込み右側に鎮座してある。地元では弁天さんとして信仰され豊玉比女命を祀ってある。ここの所在地八竜は宗教的水神思想から生まれた地名である。下長田には2社の弁天さんがあり、瀬高地区では本吉の清水寺本堂左側にも信心深い方の寄進で戦後建立し祀られている。    
H下長田若宮神社 下長田
祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)。で水の女神で神水を司る神・雨乞いの神 として祀られている。伊邪那美命が亡くなる時にその尿から生まれた神とされています。古事記では弥都波能売神と書かれ、日本書紀では罔象女神と書かれています。神社の傍には矢部川が流れ周辺は水田で、水害や干ばつに苦しみ作物の豊作を願って建立されたであろう。例祭は上長田にある長田全域の氏神さん老松神社と同じ10月15日である。当日は老松神社から祭りの招待がある。古老によると上長田の老松神社は古来下長田の船小屋病院付近にあり、洪水で流され上長田に移転されたとの言い伝えがある。それが由縁か神主さんの祭礼の始まりは下長田から行われる慣習がある。本殿右に屋須多神社の小堂と鳥居の左側には恵比須の祠がある。        

恵比須の祠
I屋須多神社  下長田若宮神社本殿東側の小堂
古き時代から火災が多く、麦わら屋根の家屋だった時代では延焼が速く恐れられていた。民衆の願いで火災除けの神さま屋須多神社を建立、火災の多い12月に部落民が集まり祭礼を行い火の用心を誓いあった。いただいた屋須多さんの御幣札を自宅の台所に飾り火の元に注意してきた。
   

小堂内の御神体
J天満宮  下長田
学問の神様、菅原道真公を祀る。下長田集落の中心にあり下長田集落でも天神講社が盛んであったであろう。集落西部の大坪久男宅の北側の大坪天満宮と南部の横尾宅の横尾天満宮の3ヶ所がある。祭礼は8月25日に行われていた。    
Kおこぼさん(弘法大師)
下長田にはめずらしく自宅で弘法大師を祀る家が2軒ある。集落西部の鶴一次郎宅と若宮神社東三軒目の釘島弘宅である。お彼岸になると、お遍路さんが参拝できるように玄関先に祀られる。
L薬師堂   下長田

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集落の西部の田中宅横にある。近年建て替えられている。厄病退散、病気回復を願い永く信仰されている。堂内には薬師如来像を祀る。
M老松神社  上長田
安土桃山時代後期頃の創建で長田全域の産土神である。祭神は菅原道真公で無病息災、子孫繁栄、五穀豊穣や学業成就などを願って建立された。老松神社の社名は菅原道真公の両親が祀られている老松社から由来されたものであろうと推察される。菅原家は元来、学問にすぐれた家柄であり、その一方その先祖は相撲の神様を崇敬されている。よって祭礼には奉納相撲が行われ無病息災、五穀豊穣を祈願する。長田や坂田周辺は平安時代には道真の墓がある安楽寺大宰府領であった。祭りの時は下長田、上長田の世話人を招待して、カマボコなどのごちそうで持て成している。境内には老松神社の建立と共に植栽された、いちょうの木が神木としてある。昔から愛称として「お宮さんのいちょうの木」と呼ばれている。7本の大幹を一重と見たてたと思われる。子供会や老人会などの皆さんが清掃活動などで大切にお守りしている。平成16年に県指定文化財、天然記念物に指定された。7本の幹を1重に看立て、樹高25m枝張り東西24m、南北28m張り出して見事な、いちょうの木ある。祭礼は10月15日に行われる。新嘗祭(にいなめさい)は11月の第4日曜日に新穀を供えてその年の収穫を感謝する祭儀をおこなう。伝統的に引き継がれ秋に神を祭る稲作儀礼である。        
N稲荷大明神   上長田      本社の由来は【総合編】へ(伏見稲荷大社)
老松神社の道路向え側にある稲荷大明神は稲作の神様として信仰されている。旧暦の2月初めての午(うま)の日(現在は新暦の日)に初午(はつうま)さんの祭事を行っている。昭和初期にお西(宮の西側集落)の世話役の板井氏が新船小屋温泉の繁盛を願い、佐賀の祐徳稲荷を勧請して祀られたものです。左の祠は昔からの地の神様などが祀られている。    
O観音堂    上長田交差点角

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観音菩薩を祀る。お彼岸にはお遍路さんが訪れる。以前は50m南、国道209号沿いにあったが道路拡張で交差点角に移転した。周辺住民の集会所としても使用されている。お彼岸にはお遍路さんの参拝がある。
   
P八坂神社 小田唐尾    本社の由来は【総合編】へ
社伝によれば、立花藩主時代の安永4年(1775)6月10日、領主の命により筑後国柳川領上妻郡山下町の八坂神社から分霊、唐尾の地に勧請された。これに伴い同年の6月10日、領主が小田.平田.唐尾.中島の4地域に対し、神事、風流、子供踊りをするよう命じたのが始まりです。山下の場合はそれよりずっと以前、長崎からとの伝聞がある。御神体は素盛鳴命(すさのうのみこと)が中心で大己貴命(おおなむちのみこと)少彦名命(すくなひこなのみこと)の御三体を安置され、社地は河村九右衛門から寄贈された。その後領主の忌日と重なった為6月13日に変更された。風流奉納行列は、神輿(みこし)祠掌(ししょう)、奉楽と続き、その後に小田.平田.唐尾.中島集落の順に、鐘、太鼓、高張傘、鉾などの行列が続き、各集落を巡行して、最後に神殿前で演奏し終了する。(現在は御輿はない)寛政6年(1794)、子供踊りを中止したところ、文化11年(1814)5月、流行病が発生したため、再び従来の子供踊りを再開したが、明治5年以後踊りをやめ、風流のみを奉納している。藩政時代は、家老.寺社奉行等が出張していたが、明治時代から代役が務めたという格式の高い風流である。明治の初めに唐尾八坂神社の祇園祭に、唐尾の人々が余興として1ヶ月前から稽古して唐尾座主催の芝居が上演された。明治4年の上演が大変評判になり常設舞台が2ヶ所でき明治28年(1895)頃には全盛期を迎えた歴史がある。詳しくは【瀬高町の伝承芸能文化】唐尾座で紹介。以前は7月13日に施行され、町長が参加していた。        
Q稲荷神社 小田唐尾八坂神社境内   本社の由来は【総合編】へ(伏見稲荷大社)
八坂神社本殿の右側に祀られている。農耕の神様であり、御神体はきつね様にまたがって乗っている神様である。民衆のの願い五穀豊穣商売繁盛・家内安全を願い建立されたであろう。本社の京都の伏見稲荷の神が降りた旧暦の2月初めての午(うま)の日(現在は新暦の日)に初午(はつうま)さんの祭事を行っている。この日を蚕や牛、馬の祭日とする風習もあった。
        
R恵比須さん   唐尾の八坂神社道路向え・唐尾公民館
恵比須の祭礼は10月10日に石祠の前に旗を両脇に立て氏子で行われる。唐尾は東の立花町からの県道沿いと北の八女市からの道路が交わる所で、昔は商店や旅籠が並び栄えた集落である。また江戸初期再び立花宗茂が柳川藩主になった1621年和紙の製造を溝口(筑後市)から唐尾周辺部に移し山中で60軒唐尾で30軒位の家内手工業があった。江戸時代は柳河紙と評価され、奉書尾紅花紙、松皮紙、色奉書、小菊色、半切壇紙、繪透紙などの優良品が製造され、特に柳河半切は水に濡れても破れず、文字が判明に書けると賞賛された。九州全域に伝幡拡散はもとより唐尾の紙は全国に名をはせ栄え瀬高港から積み出され販売された。和紙製造でも繁盛した唐尾で商売の神様、恵比須さんは欠かせない祭りであった。唐尾の八坂神社道路向えの東の恵比須さんと唐尾公民館の西の恵比須さんが鎮座してある。
     
S延命地蔵      唐尾南築橋
矢部川に架かる旧南築橋の東たもとに延命地蔵さんが鎮座してある。台座には、僧地蔵形像焼香供 養憺礼賛嘆是人住 處即得十種利益願 天保五年仲冬摩訶吉祥辰是立 とあり天保5年(1834)に建立されている。
お染地蔵とも言われ古老によると江戸時代半ばの元禄年間(1688〜1704)に千間土居の完成後に、唐尾の瀬に水流を対岸の久留米藩側に押しやる為の刎
(はね)を造る工事が、相次ぐ大雨で進まず、普請奉行の田尻惣助の命令で水神さまに無垢の娘を差し出すことで人柱になった与吉の娘、お染の分身として延命地蔵を建てられたと言う逸話がある。今後は水難がかからないように、また福島道を行く人々の旅が安全でありますようにと、村人はお染の分身である延命地蔵を刎(はね)の傍に建立したのだった。像の後には樹齢300年の楠の大木が立っている。平成22年に、西側に南築橋も架けられ幹線道路は唐尾集落を通らなくなり静かになったが、今後も延命地蔵さんが唐尾周辺の人々の安全と幸せをお守りすると思います。
           
  
 薬師堂         唐尾
南築橋から唐尾に入って右の路地を入った森宅の横にある薬師堂である。男子小学生で8月20日に祭礼を行っている。接待豆を用意して賽銭をあげた参拝者に差し上げ、集まった賽銭を分け合う昔からの子供の伝統行事である。
            
 地蔵堂      唐尾
集落の方が持ち寄り世話をしている。お彼岸にはお参りに来るお遍路さんの接待を行っている。
          
   
21宝満神社 小田唐尾     本社の由来は【総合編】へ(宝満神社・竃門神社)
祭神は玉依姫命、住吉明神、春日明神の3柱を祀ってある。唐尾・平田・中島の集落の氏神さんである。山伏の修験道太宰府の宝満山の竃門神社の分霊を祀る神社である。宝満山は山伏の山岳仏教の竃門山寺などの修験道場であった由来からか参道東には観音仏を祀る木造の仏舎がある。ここ唐尾にも宝満山の山伏が訪れ加持祈祷のほか各地の文化・芸能などを伝えていたであろう。文化13年(1816)11月領主である柳川藩主立花鑑寿が神社の造営をしたと棟札が残っている。9月15日に「よど祭り」が行われている。11月23日新嘗祭(にいなめさい)がある。新嘗祭(にいなめさい)とは天皇が五穀の新穀を天神地祇(てんじんちぎ)に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀であるが地方の神社でも秋に新穀を供えて神を祭る稲作儀礼(収穫祭)をやっている。        

観音さんの木造仏舎
宝満神社参道入口の左端に火災除けの神様、屋須多神社の家型の石祠がある。
右隣は社日(しゃにち)さんの石碑で食物の神で五穀豊穣を願って参拝している。
その後には日露戦争で使用してた機雷を出兵者の方が戦勝記念に奉納されている。
参道入口左には集落の境界守り神庚申天の石碑があり和合の神で疫病や災厄をもたらす邪霊・悪神を防ぐとも云われる。治病にも霊験あらたかで、願をかける人も多い。

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屋須多神社

社日さんと日露戦争の機雷
庚申天
22七社宮 小田小坊谷
天照大神,国常立尊、大玉命、細女命(いずめのみこと)、天児屋根尊、、、などの7柱、永正3年(1506)小田城主溝口太郎弐資によって創建その後慶応2年に柳川藩主、立花鑑寛公が改築した棟札も残っている。溝口弐資は鷹尾文書には応永年間(1394〜1409)の人のようで、創建年が歴然としない。境内右手前にある薬師寺(1518年創建)の守り神の役を果たし宗教も混合して小田集落のの人々は七社宮の氏子であり、薬師寺の衆徒でもあった.溝口氏は小弐氏の一族となっているが、藤原氏を唱えたこともある。社頭の献燈には菊水の紋があしらってあるので菊池氏に味方をしたもようです。平安末期から天正年間まで約400年続き大友氏によって武運つたなく亡ぼされている。戦国時代の200年間はこの地域で小田城.溝口城を根城として長田河原、禅院の合戦などを演じ活躍し溝口常陸介時代は500町を領し一時は下庄.水田方面まで勢力を張っていた。溝口氏出陣に当たっては精神的よりどころの氏神の当社で幾度か武運長久が祈願されたことでしょう。祭礼は10月15日に行われる。
 地蔵堂    小田
七社宮の手前に小田の地蔵堂がある。車がやっと通れる入り組んだ路地を集落の山裾までくると地蔵堂・薬師堂・七社宮がある。
     
 観音堂     小田
集落南方の原・塩山宅を山に上がった所にある10数軒で祀っている観音堂である。
23社日さん     小田
小田部落の社日さんで五穀豊穣を願い祀られている。食物の神様である。8月小田の男子小学生で祭りが行われて参拝者にお茶請けを振る舞い賽銭を集め、あとで高学年が多く分け合っている。
地蔵堂      平田集落
平田部落の地蔵堂で地蔵像と道祖神の猿田彦神を祀る。お堂手前左には社日さんの石碑がある。9月4日地蔵まつりが行われている。ゆかた姿の女子小学生がお金を家庭から集め駄菓子(昔は地蔵豆)などを買いお賽銭をあげた参拝者にお茶請をふるまっている。平田の家を廻り「地蔵さんに参ってはいよ〜」と参拝を促し夜9時まで行う。祭礼のあと集まった賽銭を高学年順に多く分け合いカレーライスなどで会食をやる。弘法大師も祀られ「おこぼさん祭り」は北組1班と西組2班の3組の順番制で旧暦3月21日と旧暦7月21日に朝9時から夕方4時まで食事を持ち寄りお堂で供養が行われている。お彼岸の時期にはお遍路さんが訪れ賑わう。3月と9月には千人参りが行われている。社日さんの祭りには周辺の農家からお金が上がっていたが現在は上がらない。
25宮地嶽神社  平田字小田

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平田の善光寺入り口の東側20m位から山に向かい急石段を登ったところにある。太平洋戦時中までは必勝祈願で参拝者がおとずれていたが、現在は数少ない。8月と正月には神主さんが訪れ祭事を行っている。
26熊野神社 禅院(吉開宅から南に登る)
山間の禅院の建仁寺(1201年創建)の上の方にあり守護神として祀られ禅院区の氏神である。禅院は十数戸の小さい区であるが隣の唐尾や山中区と一緒にならず日高一族の誇りと独立を守り続け熊野宮に仕える任務についていた伝統を保持していた。
    
27藤の木さん 禅院
藤の森古墳の中央部に、身の巾2m以上の立石と臥せ石が一個ずつ他にも数個の石が組まれています。大石は、長さ5.m、高さ3.m、ある。これは2つの巨石を中心とする古代信仰の磐座いわくらではなかろうと思われます。古来私達は石をあがめるという習わしを受け継いで神苑など自然石の巨石にしめ縄を張って祀ったり陰陽石といった女性の性器(陰)男性の性器(陽)に似た自然石または人石的に彫刻した石で男女の和合、妊娠、性病などの治療を祈願した俗信の対象ともされていた。この藤の森も夜尿症が治るという言い伝えがあり最近は遠近から参拝が多い。雑草が覆い茂ったこの古墳も大正2年秋に公園にして大石にしめ縄を張って尊崇しています。現在も名残りをとどめている。
 こくんぞさん(虚空蔵さん)   禅院 熊野神社下の鳥居の脇
星に乗って舞い降りた智慧と福徳の仏様と伝説がある。、虚空蔵菩薩は、大宇宙の如く大きな功徳で、悩める全ての人々を救済する力を備えた菩薩であり、不思議な力により窮地に陥った者を救う菩薩であることから、能満諸願(厄払いその他、諸々の願いを良く満たしてくださる)、身体健全、家内安全、交通安全、商売繁盛、水子供養祈祷、等が特に信仰されてきた。荒尾市の四ツ山神社も同じ神格である。
    
 庚申神   禅院
熊野神社の山裾の鳥居の手前にある集落の境界守り神・庚申神である。 
    
28水神   広瀬堰傍堤防沿い
矢部川、広瀬堰水門傍の堤防にあり、本田川の取水口を守る水神さんである。左には享保2年(1716)創設の広瀬井堰記念碑を昭和42年堤防改修工事のために改修された記念碑がある。
 
    
29恵比須さん   広瀬
広瀬堰の堤防沿いにも民家が建ち並んでいたが昭和47年堤防の改修工事で移転し現在は堤防に利用されている。堤防の水神さんから30m東の南道路面に唐尾方角を向いた石の祠に恵比須を祀ってある。以前は商店も点在し商売の神様として信仰されてきた証である。現在は敷地にある溝口宅でお花をあげている。
金毘羅神社   山中の山の山頂
昭和の初め頃、ここの横穴古墳から刀剣類などが出土された事からこの地を崇め、金毘羅神社を祭ったと伝えられている。金毘羅さんの祭りは3月10日に毎年行われている。昔は子供達も参加して神社前で景色を眺め一緒に食事をしていたが現在は大人のみの祭りである。
31天満神社   山中、県道から田中酒店を入り80m先左
山中部落の氏神であり祭神は学問の神様菅原道真公である。天満宮の祭りは9月25日の早朝に天満神社から近くの矢部川に行き汐井汲み神事を行います。氏子代表が矢部川に入り体を清めたあと桶に汐を汲んで神社の拝殿に捧げ祭典が始まる。傍にはゲートボール場や公園の広場がある。1月の第1日曜には山中集落の小学生が集まりホンゲンギョが行われている。竹のやぐらを組み藁や正月の飾りを入れ込み火を入れパンパンはじける竹の音で盛大に行われている。火が落ち着くと餅を焼き皆で食べあう伝統行事が今も続いている。
      
32地蔵堂   山中
堤防沿いの民家の東はずれの田中安次宅の前のあぜ道を南に入る。集落の東の田んぼの真中にあり、近所の10軒ほどの田中家が祭る地蔵さんである。最近新しく6人ほど入れる小堂が再建されている。8月24日に地蔵まつりがあり、御馳走を持ち寄る「おこもり」で供養を行う。
33若宮神社   山中、山下との境界に近い県道沿い
山下(立花町)の水天宮の手前に鎮座している。創建は不明だが室町時代頃の宮と推測する。現在は静かな山里の村だが戦乱の時代は山下城も近く、戦いに出る武士達の勝利祈願の宮であった。また柳川藩内から矢部方面への幹線道路の中央で休憩するには風光明媚で絶好のお宮で近隣一帯の参拝者を集めていた。真下の矢部川の深い淵には「えぼし岩」と呼ばれた大石があり江戸中期の絵地図にも書かれている。戦国時代が過ぎ平穏な江戸時代に変ると一般庶民に親しまれ、新たな参拝や交流の場になり神社の天井に、忠臣蔵の物語四十七士が活躍する模様が奉納されたり、見事な俳諧(俳句)を書した額(町指定文化財)も奉納されている。額は1844年(天保15)のもので、地元山中周辺の集落、上庄、下庄の俳人70余句が見事な筆跡で書かれている。額は船板を利用して造られた木製額である。縦47cm横230cm、黒書で70余句と俳号が書かれている。ほかにも沢山の色んな絵馬が奉納されてきた。近年では五穀豊穣を祈った後、こうした絵馬などを見上げながら、持ち寄ったご馳走を囲んでくつろぐ田植え直後の「お宮ごもり」が行われてきました。
  
    
34観音堂と地蔵堂    山中、若宮神社境内
昭和48年(1973)広瀬堰周辺の河川整備事業により矢部川の内側堤防(広瀬字川端)より立ち退きにより若宮神社の鳥居傍に移築された。昔から旧暦の7月17日に部落青年団手製の花火で盛大に参拝の司祭を行っていた。本尊は京都の仏師によるものと伝えられている。処女会の娘さんが紙で作ったお花がお堂を飾っていたが現在は老人クラブの皆さんが飾っている。また広瀬堰の堤防にあったお堂のお地蔵さんが移動され観音堂正面左側の祠の中で2体、仲良く立っている。地蔵まつりは9月14日に行われている。

    
35お地蔵さん 山中
若宮神社の境内のインフラテック(株)の駐車場を南に道を上がると川野宅の近くに地蔵像がある。昔の竹林の山街道に建立されたと想定する。蓮の台座には発願主 相模国天下和順同尼・大乗妙天日本○国の経典文の刻印が見える。相模国とは神奈川県にあたり、東隣の山下城の関東武士に関わる尼さんがお経筒を納めた供養塔を建てたものと推察できる。現在この山に寺院か庵があった記録はないが存在の可能性がある。今後の調査が楽しみである。
    
 維新の志士・淵上郁太郎(ふじがみいくたろう)の供養碑  山中

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筑後国八女郡水田村に生まれ。久留米藩校明善堂の教官をしたが維新志士として幕末、京都に上り池田屋の変にも身をもって逃れ、長州藩に潜匿した。幕府に捕らえられたがすぐに釈放され、久留米藩に戻るが幕府のスパイと疑われ、ここ山中に潜居中、慶応3年(1867)殺害された。殺害者は伊東甲子太郎犯行説があるが遺族は広田彦麿一派犯行説を信じている。
    
 立花町のお宮
@汐井神社   立花町山下県道沿い矢部川堤防上、水天宮むかえ
由来不明だが矢部川の汐を汲み神前に供えている。矢部川のエボシ岩に鎮座して洪水除けや水利に感謝して穀物の豊作を祈った自然信仰時代からの神さまであろう。石の祠に石像の神体が祀ってある。文広の潮斎(しおい)神社と同質の宮とも思える。
 
A水天宮     立花町山下、県道沿い立花町境
山下城のあった集落の入口で、鳥居をくぐり石段を登って矢部川を眺望する所に社殿がある。水難よけに祭った水神様であり、安産、子育てなどの神様でもある。この前を通る道は肥後より筑後に至る街道沿いである。
 
 

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瀬高町誌・瀬高町文化財専門委員故田中照男氏の著書「郷土のむかし」・板井義直氏の資料・現地取材・撮影により製作しました。地元関係者の功績と協力に感謝いたします。
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