庄福BICサイト   福岡県みやま市瀬高町(南校区)  18・3・88更新

合編
お宮とお堂
水上校区
清水校区
上庄
本郷校区
下庄校区
大江校区
高田町
                 南校区のお宮(神社名クイック)
①こうやの宮  長島 ②田中の神      長島 ③御幟の杜     長島
④鉾楯の杜  長島 ⑤釣殿宮        長島 ⑥西の宮  釣殿宮境内
⑦太神宮    長島
⑧宇津良姫社    宇津 ⑨天満神社     宇津
⑩天満宮    古島 ⑪天満宮        古島 ⑫若宮さん    古島
弘法大師堂長島 ⑭乙姫宮       下小川 ⑮天道社      下小川
⑯下小川八幡宮 ⑰猿田彦大神下小川八幡神社境内 ⑱稲荷神社 下小川八幡神社境内
⑲天満神社下小川八幡神社境内 ⑳閻魔堂    下小川公民館 21八幡神社    井出ノ上
22玉垂神社 堀切 23荒仁宮 垂神社境内 24若宮神社 玉垂神社境内
25太神社 玉垂神社境内 26疱瘡の神さん 玉垂神社境内 27天御前神社玉垂神社境内
28天満宮 玉垂神社境内 29六地蔵菩薩 玉垂神社境内 30観世音菩薩 玉垂神社境内
31現仁宮     堀切 32八歳宮         堀切 33宗高神社    堀切
34木玉宮     河内野 35山森神社   堀切小路 36龍宮神    堀切小開
37金毘羅神社 小開・船津 38天満神社        開 39聖母宮       泰仙寺
40六体神       浜田 41野田の若宮さん 浜田 42天満神社    沖田
43天満神社   南浜田 44平高天満神社  北浜田 45観音堂       北浜田
46観音堂    浜田西 47観音堂         浜田 48天満宮       東津留
49石橋神社    東津留 50日枝神社      南高柳 51山王社       三ノ溝
52地蔵堂     高柳東 53観音堂・地蔵堂 西高柳
                  高田町のお宮
①熊野神社 ②天満神社 ③八剣神社
帝神社     海津 ⑤水天宮  海津字海門 ⑥阿蘇神社  海津
⑦竹飯神社  竹飯
  【南校区のお宮】  カッコ内の赤文字は天慶神名の名
古文書(和名妙)にみる太神と言う地名は於保美和(おほみわ)とも言い、すべて神様の鎮座まします所で、筑後国政庁が天慶(てんぎょう)七年(944)に作らせたわが国最古の天慶神名帳(じんみょうちょう)が高良神社(久留米市)に残っている。古代山門郡については「正六位上」に位置づけされた二十六前(まえ)の神々の名が列記されている。太神区内に十五前あり、昔は高田町海津も太神のうちだったと思われるが、それ等を加えると三十社以上も在りそうである。我が大和の国日本の神々の発祥の地は、この瀬高町の太神であるという説を唱える考古学者さえある。
【海人族物部一族の神】
太神長島(おおが おさじま)の祭例は
二十年に一度御遷宮祭して取り行われる。祭りの行列は大太鼓打ち30名、鐘打ち6名でハヤシと唄われ文句はソンヂャサ(太鼓)‐ホリキリバヤシ(鐘)-カマンガク(太鼓)-カンニヨムドン(鐘)-トリガトツサン(太鼓)-ドンデンガイドンデンガイ(鐘)-トコテンニヤ(太鼓)-ヤマンガク(鐘)で行進して回り各小路で家前で4組踊り唄の文句の意味は古老でも解らず、興味ある唄である。現在は休止されているが祭の詳細記録が残されているので復活を望みたい。(故河村子路作氏著)
すでに( )内の宮名は西暦
944年頃の天慶神名帳高良神名帳)の山門郡内の26神名が記されていて①~⑫が長島にあり弥生時代からの渡来人の集落の可能性がある。各社の祭神はほとんど海神である。海人族の流れを神々であることは、大陸との航海技術を持つ部族さらに戦に必要な鉄器技術をもつ部族の本拠地が古来この地であつて天智天皇の行事があることから水軍の祖、兵力の旗頭であった物部一族の本拠地がここにあったが故に、その点を話合いに見えたと推定できる。
  高良神名帳   
こうやの宮(磯上物部神社) 栗の内(小字鬼木)保育園そば
太神鬼木(おおがおにき)部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている小さな祠がある。中に五体の御神体が安置されていて異国風の服を着て「七支刀」を持った男神と鏡を持った女神、カッパ像などがある。奈良県天理市で七支刀が発見される以前からこうやの宮に七支刀をを持つ神像を祀っていたことからマスコミで話題となり見学人で賑わったこともある。町指定有形民族文化財に指定されている。
七支刀とは、現在奈良県天理市石上(いそのかみ)神社に国宝の鉄鉾で刀身の銘文から泰和4年(369)百済太子貴須から倭軍派兵によって高句麗を討つた御礼に倭国王に献上された刀である。「日本書紀」に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮・百済(くだら)から献上されたとしるす「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたると考えられている。七支刀は、いったん邪馬台国の発祥の地として有力視されているみやま市太神の「こうやの宮」(磯上物部神社)に安置され、大和朝廷が安定後、物部一族により天理市の石上神社に奉納されたものと一部の郷土史愛好家の中で推定されている。
こうやの宮 七支刀をもつ男神 七支刀 建替え前のこうの宮
 地蔵堂  栗の内(保育園前)
こうやの宮の西、三池街道筋にある。以前は小学校の運動場のあった場所であり、地蔵堂はその東の堀脇にあった。栗の内集落の皆さんによりお彼岸の巡礼者などのお世話を行っている。木造の地蔵さまで近年、塗る変え立派になっている。創建は古く、江戸時代かと想定する。 
            
            
②田中の神(物部の田中神  太神 長島東(字日出)
古代信仰のごとく、御神体は石を3つ並べてあるのみ、12月25日に長島東の田中昭宏家が祭典を行っているが、昔は北の端の鬼木組6,7軒の人が中心にある各宮に出向き祭事を続けたが民俗行事として興味ある伝承である。祭祀方式は稲藁と青竹のみで神前の飾りをし御供飯はご飯5合を黒と朱色の盆にのせ梅の新枝を黒盆には垂直に朱の盆は水平にさして供える。お供え物として米、酒、野菜、果物をそえる。古代稲作住民が天地自然の恵みを神に感謝の心を捧げる古来の祭りの形式である。ここをを中心に西に野田天神(金錠の神)南に出店天神(大神社)東に日出天神(田中神)北に中小路天神(田中社)の天道さまが祀られている最も古い信仰形式である。現在は青竹と稲藁による屋形造りは管理の手間がかかるので、金属製の祠で祀ってある。場所は長島東の部落中央のあり、飯江川の安手橋から瀬高方面に100m小さな畑北側を西に(用水路の平町橋方向)曲りお堂の手前左、田中正信宅の西畑にある。道路の北向えの田中昭宏宅で、毎年祭事を行っている。
                      
御幟の杜(みはたのもり)(太神神)   太神 長島東
この所は天智天皇、御幸の時に御幟を奉祀(し)した所である。現在も毎年例祭の時には釣殿宮の御幟を建て祭祀を行っている。

場所は長島東部落の飯江川の安手橋から瀬高方面に150mの東の道路沿いにある。釣殿宮はここから田んぼの先東100mに見える。
   
鉾楯の杜(ほこたてのもり)(ひろたけさん)(野神)
昔、高貴な方の行列には鉾と楯と旗を奉持してお供をした。その神鉾をご神体として祀つた宮。戦国時代、島津の武士が持ち去った「金の鉾」があり宮元家の先祖、荘丹八段が奉納した記録がある。神紋は八弁の菊花紋
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釣殿宮(長島国玉神)  太神 長島東(字釣殿)
釣殿宮は昔には腹赤宮(はらあかみや)と呼ばれた。天智天皇(皇太子の時)が西国修業の折、筑後江の崎(大和江崎)より船で小佐島(長嶋)に着かれた時、里人が網を引き赤い腹の魚を食事に出し気に召され名を尋ねられたところ、にべ(鰚はらか)と答えた。天皇になられてから毎年、大宰府にこの魚をを献上し、また祝いの魚とした。後年に天皇の行在所の地に釣殿を建立し、付近に旗を立てられた所を御幟(みはた)といい、鉾をたてられた所を鉾立の宮森(ひろたけさん)と称して今に残る。例祭には漁民の参拝者多く御神幟を神体として崇めた。社記には天皇の御親翰(ごしんがん)一軸を社殿に納めたあったが鹿児島の島津家の手にはいり家宝となったと記されている。また東方の古島には神籠水を安置された。腹赤魚をめぐる古文献があるほど由緒深い土地柄で見逃せない。社には豊漁を祈願し、これを象徴したとみられる日月と釣針をえがき「次 宮元土佐守 文明十九年(1487)之八月吉日」と書かれている旗が伝えられている。10月19日の祭礼には、この旗をたてて宮入りをする。長島地区の産土神である。  場所は飯江川の安手橋を大根川にさかのぼり170m先管理堰(釣殿二又)の西堤防下にある。
⑥釣殿宮内 西の宮(阿志賀野神)  太神 長島東(字釣殿)
釣殿宮境内にあり、古文書(天慶神名帳)に残る山門二十六前の一つ「物部阿志野神」(大黒さん)と思われる。
太神宮(だいじんぐう)(太神国玉神)  太神 長島東(字宮ノ前)潟橋東50m道路北沿い)
 天智天皇、小佐島(長嶋)に行幸の時、仮の御室(むろ)として神籬木(ひもろぎ)を建て毎朝東方の朝日を拝まれた地。三宅連得許(むらじ)が奉祀し、のち宮元長者が崇拝してきた。祭神は天照大神で、社紋は八つ日足(ひもろぎ)である。
  
場所は釣殿宮の脇の大根川を北に80mさかのぼり潟橋を東に渡り二軒先の北側にある。
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⑧宇津良姫社 (宇津良比女神)  太神 宇津
景行天皇、筑紫国巡行の時黒崎より宇津に至る航路を守護した女酋長、よって浮島に墳墓を営んだ。飯江川、緑川の合流点、宇津海域を領有する大地主神の娘である。塚の手前の石塔が宇津良姫、地蔵尊が父神、大地主神を祀る。飯江川の安手橋を南(高田)方向に渡ると左が天満神社があり右の奥20mにこんもり木が茂った場所で鉄板の架け板を渡る。

宇津良姫塚
宇津天満神社    太神 宇津
飯江川の南岸側にある。学問の神様、菅原道真公を祀る。宇津部落の産土神である。
⑩若宮さん    太神 宇津
南方300m位の小川の岸に若宮さんの小堂があり、ここにカッパさんを祀ってある。
⑪天満宮 長島古島(おさじまこと)
天満宮は長島古島地区の産土神である。以前は下小川のお宮の系統で、下小川祭礼の風流行列の座組に入ったと聞く。現在は12月10日に古島だけのお祭となっている。
若宮さん 長島古島(おさじまこと)
村の中心部の林に若宮神社の小堂がある。若宮さんよどひめさんカッパさんの三体を祀る。天満宮と一緒に祭礼を行っている。お祭りの日は昭和30年位までは、お座(宿)の当番の家で朝食の会食が行われ、天満宮の境内では鉦や太鼓をならし賑わっていた。
旧暦の5月が「水の神」を祀る月で、現在春の彼岸に古島地区では「河童まつり」300年以上続いている。わらで作った大たこ大いか盃、と、竹作りのひさご(徳利)、を笹竹に吊るして川岸から川上にたらすように供える。村人はお宮で彼岸ごもりをして河童まつりをする。秋彼岸を過ぎると河童は山に行って山童(やまわっぱ)となり、春になると川へ帰って来る河童さんから人々がひかれないように(水難よけ)との願いをこめ、酒肴をお供えしてお祭りをする。

河童まつりの河岸の飾り

 *長島の周辺の民家では井戸神のことを水神様と呼ぶ。5月5日はその祭で、「河童さん祭り」と呼ぶ。川や各家の井戸、汲場に篠のついた竹を立てて、藁苞に塩・イリコ・米を包んで下げ、酒を竹筒に入れて祭るという。
         
弘法大師堂   長島
お堂の中には御釈迦さんと観音さんも祀ってある。昔のお寺の跡地であり、弘法大師を祀り昭和初期頃までは8月の「よど」の祭りで浪花節などの興行が行われて賑わっていた。現在は春と秋のお彼岸にお遍路さんがお参りに訪れる。
   
⑭乙姫宮(小河神) 下小川八幡神宮合祀 
由来縁起によると、海神の宮に詣でて赤玉、白玉を奉持して帰り箱に納めて祀っていると、雨乞い、航海の安全、五穀豊穣などの祈願が届いた。のち玉は紛失、箱のみを祀ったところ、同じような霊験があったといういい伝えがある。海神の宮はどこか不明。戦前、戦後の「統制合同」により下小川の西南の端にあったが八幡さまに合祀された
その社(やしろ)の跡地が古墳で石棺が見えたので早速この上に小さなお堂を建て観音様を安置して供養を続けている。1822年(江戸後期)の宮の記録によると、944年の高良神名帳に「六位上小河神」とあり、古代からの宮である。小河組の総社であり、下庄校区「文広を除く)、大江校区、南校区にわたる広い区域で、その乙姫宮だ、あったとすると長島の「こうや宮」などと共に重要な地位の神格であったろう。文政5年(1822)時の神職中島主膳の文書には八町(小字八丈)鎮座、祭神は豊玉彦命.豊玉姫命とある。
天道社(天下皇神) 下小川 
昔は乙姫宮と並び古来より6~7軒で古くから祀っていたが乙姫宮は八幡宮に合祀され、天道社は現在中嶋親俊宅の裏手に祀ってある。古代からの自然崇拝の神である。地元では「おてんとうさん」と呼ばれ太陽に感謝し五穀豊穣の願をを古代から祈った場所である
。場所は下小川の南端に位置して太神長島(おおがおさじま)の古代からの宮と連なっている。こうやの宮の宮司であった中島越中藤原重光が慶応4年、明治新政府に乙姫宮の由来縁起を上告提出した文書中に「川上名神、祭神罔象女(みずはめ)神.瀬織津姫神」とあり、天道社で神名帳にある天下皇神ではないかと思える。川上名神とは肥前風土記にある、肥前一の宮川上神社与止日女神(よどひめかみ)の勧請神ではないかと思考できる。
⑯下小川八幡宮 下小川     本社の由来は【総合編】へ
下小川の産土神である。平安時代の治安3年(1023)小河庄は豊前国、宇佐の神領(宇佐八幡宮の社領)となり、鎌倉時代の承久2年(1220)宇佐八幡宮の分身を遷宮する。境内の参道両脇に御分霊を宇佐神宮まで御迎えに行き、お供をして帰って来た人達にゆかりのあるといわれる四軒の家で屋根替えをする小宮さんが四体あり古来の作法で竹と藁で毎年、祭礼日、前に作られる治安3年に小河庄が太神郷と呼ばれ宇佐八幡宮の神領となったのは当時、年貢を払うのに神領のほうが、なにかと都合がよかったと思われる。これは他の本吉庄など神領になっているが同じ理由であろう。参道の中程にある楼門の龍の彫刻は参拝者を食い見るようで立派な作品である。以前はもっと彫刻があったが心無き者に持ちされれている。社殿の両脇に立っている新旧の塔に鳥が停まっている石造物は神話に倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇の神霊が黄金の鷹となって飛び去り、その止まったところに鷹居社を造立し、八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりとされる。こうしたわけで神話の黄金の鷹を神殿脇に祀ったと思われる。八幡神社は本殿・楼門が昭和10年代に再建され、天満宮も下小川東から境内に遷宮している。下小川風流の画が平成元年に原田訓介氏により奉納されている。
神殿には、下小川西八条にあった乙姫宮を合祀してあり、また神苑の西北端杉林の中に稲荷神社がある社前大鳥居の横に猿田彦大神を祀る。

楼門の彫刻

小宮さん(西側)
分霊をお供した先祖の小宮 下小川の風流 鳥の塔
 下小川風流(瀬高町無形民族文化財)
宇佐八幡大社の分身を下小川八幡神社に遷宮の行列を氏子の祭礼の行事とし、後世にさらに徳川時代の参勤交代の大名行列のやり方を取り入れて、今日の祭礼の行事になった。現在行っている風流の中の鋏箱のおどけた文句の中に徳川時代の庶民生活が想像される。
*若様の初上りションベンタコどみや片付けろサトサイサイ *鋏箱一代後家暮らし洗濯しゅうよりやボボさせろ、ボボしゅうよりや砂糖なめろ、三日も四日も寝てなめろサトサイサイ*オドンゲン、チャン達ちゃ飲みの助、天からオテテもまた飲ますサトサイサイ*段々畑のボンブラジョ(かぼちゃ)なるこっあ知らずに、はい回るサトサイサイ終戦より途絶えていたが先祖の伝承してきた文化遺産の消滅を憂慮し昭和53年風流保存会が出来10月19日の祭礼に復活。町の無形民族文化財に指定されている。現在の祭礼は11月の第2日曜日に行われる。
  下小川風流   下小川風流奉納画
猿田彦大神  下小川八幡神社鳥居左側
鳥居の左脇には猿田彦の石碑がある。道の神、境の神でもある道祖神とされた猿田彦神は、江戸時代の中期頃から庚申信仰とも習合して信仰されるようになった。これは「猿と申」の共通性から、神道家によって結びつけられたものといわれている。
⑱稲荷神社 下小川八幡神社本殿西側
 本殿の西側の杉の林の中に稲荷神社が鎮座する。稲荷信仰は京都伏見の稲荷を各地に分霊、祀ったというが、もともと農耕の神である。
 本殿の東側には下小川東にあった学問の神様・菅原道真公を祀る天満神社を遷宮して小社を建立して祀つてある。
⑲天満神社  下小川八幡神社境内
 八幡神社の本殿の東側には下小川東にあった学問の神様・菅原道真公を祀る天満神社を遷宮して小社を建立して祀つてある。
            
閻魔(えんま)     下小川公民館
 公民館の広場の入口西側にお堂がある。8月16日に男子小学生により、まつりを行う。
21井手の上八幡神社   井手ノ上
井手の上の産土神。境内に天満宮の小社を祀る。南方100m位の所に木立ちに囲まれた池あり。大日如来堀と呼ばれている。木立ちの中に石の碑があり、以前、大日如来を祀ってあつたと思われる。
22観音堂     井手ノ上  
 南瀬高駅から西に60mの所に地蔵さんと観音堂がある。近年、観音像の心無い盗難があり新しく安置され、厳重に管理されている。
23玉垂(たまたれ)神社(鳥居と大楠) 堀切    本社の由来は【総合編】へ 
玉垂神社は久留米市御井(みい)町の高良大社(昔は高良玉垂神社)の分社で高良玉垂命(神功皇后の家臣武内宿弥といわれている)を主神として春日大神、住吉大神を祀る。
延久2年(1074)
後三条天皇の御代に建立されたもので屋根は「よしぶき」であった。祭日は、古来旧9月9日(現在新暦9月9日)に行われていた。お祭りは七組に分かれ座元が9月1日におみくじがあって決まる。神社は神田をもち、稲作・麦作の収穫でお祭りの費用にして行われる。酒、米、柿、栗、魚、野菜などを座元からつりふねに乗せて2人で荷なって神前に供えていた。参道入口の大鳥居は堀切に養子に来られた人達で奉納されたものである。境内入口には平安後期1070年建立の鳥居古代肥前様式という珍しい形式で石鳥居がある。境内の大楠は高さ25m枝張35m胸高周囲8mという巨木です。神社建立以前からあったと言い伝えもあるそうです。二つ共、町文化財指定である。社殿のまわりの彫刻は堀切の名工(名不詳)により彫られたとのこと。再建は嘉永2年8月、昭和4年神殿を銅葺に拝殿を瓦葺に改修され、さらに昭和54年銅葺に改める。昭和54年神殿の大太鼓を下庄の野田(河野)巌さん(堀切出身)が奉納された。
境内には荒仁宮(あらひとぐう)のほか、太神さん六体地蔵若宮さん天満宮天御前(あまごぜ)社日さん観音様大日如来堂神馬石像を祀る。
24若宮神社  玉垂神社境内
 百科辞典などの文献のによると若宮さんの神格は二つの解説がある。一つは大きな神格を有する神の御子神(みつかみ)が新しく土地を拡めた所(干拓地)に合霊を勧請して新宮を創るのを若宮と呼ぶ。二つは特に平安に流行した呪術で、災害異変が起こると神の御霊、怨霊のたたりとおそれ巫女の祈祷を行ない社を建てて悪霊を祀るこの時建てた社を若宮という。野小路にあった若宮は前者でなかろうかと思われる。玉垂神社境内に移され御神体の前には木の鳥居が作ってある。祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)の神で水を司る神、雨乞いの神である。祭礼は10月3日に行われる。
    
25太神社  玉垂神社境内
 太神さんは以前は南の飯江川の近く川田にあった。古代、川田の地は海で低い所が川になり高くなった所は州となり船着場があったという。大和政権時代西暦660年頃天智天皇の西征の時筑後の江の崎(大和町)から船で八才宮にお参りになり川田の州に船をとどめ仮の御室(おもむろ)で航海安全を感謝され東に向って天照太神を拝み小祠(ほこら)をお建てになったという。後にお堂になり13人の関係者がお祭りをしていたが農地整備の為、玉垂神社境内に移されている。本尊は木像で弓を持たれた立像である。祭神は大日霎尊(おほひるめのみこと)で祭礼は9月17日に行われている。
26疱瘡の神さん 玉垂神社境内・現仁神社拝殿前
 昔は疱瘡が流行して感染すると大熱が出て顔にむくみが出て治ってもジャンコ肌になっていた。この頃は疱瘡の神様は大繁盛で大事に尊敬され人助けの神であった。御神体は大日如来で昔は神仏混同の時代であった由縁である。昔は黒崎山の大日如来に疱瘡が流行したらお参りしていたのも、うなずける。大正11年の山門郡に天然痘大流行したときは大勢の参拝者で繁盛したそうである。如来とは「光明があまねく一切の所を照らす。」密教の根本教主で宇宙の実相を霊化した仏格である。予防接種で疱瘡の病も無くなり信心するひとが人が少なく、薄らいだが大事に見直し残してゆきたいものである。
27天御前(あまごぜ)神社   玉垂神社境内
創建の年代は不明。「昔堀切村お開き御築立築き止め成就されたので上筑後天ノ御前海辺に勧請を初められた。これで御開地が成就した。御開地の内3町3反が御供田となり庄屋代々御帖面に毎年さし上げている」と記録がある。堀切村の干拓工事が完成して天ノ御前の分霊を祀りお宮に土地を持たせ庄屋が代々出来た作物を祭りに供えたとのことである。昔は今の小開の水門の所から中堤防ができ潟より下畑に通ずる「潟ん土居」と言って内側を河の内と言っていた。はぜの木土居で馬を運動の為に走らせていた。船津樋管(といかん)のそばに天御前神社があった。堤防拡張の為玉垂神社境内に移転された。祭神は旧暦の9月11日で天災を防ぎ新開地を護る天水分神の鎮守の神として祀った。
28天満宮  玉垂神社境内
 菅原道真を祀る本尊は大宰府天満宮で昭和初期頃までは歩いて参ったのは水田天満宮であった。天神信仰が堀切でも盛んに行われたお宮である。堀切の天満宮も受験シーズンには学生の合格祈願を4月の入学式にはランドセルを背負った子供と共に両親が参りられてきた。
天御前神社と天満宮(右)
29六地蔵菩薩  玉垂神社境内
 地蔵菩薩は梵名はクシチガルブハにて佛の附属を受けて弥勒仏の出世に至るまで五濁悪世において六道の衆生を教益する能化の尊なりと伝えれている。由来を解り易くいうと、六地蔵とは六道(前世の6つの困難・苦痛)に現れて苦しみを救うと言われている。人間の様々な悩み苦しみをお参りすることで地蔵様が身代わりになり災難からのがれることができるとの教えである。
毎年お盆には小学生が地蔵さんの供養をする。地蔵さんに新しい胸掛けけさをかけ、祭棚を作り、すすきを切って棚の周りに囲いをして準備する。村の家々から寄附を集めお供えや接待の地蔵豆を用意する。低学年は村内を回りお参りを促しす。15日は精霊が西方浄土に、お帰りになるから参拝人も夕方から増え子供達は御賽銭が増えるのを楽しみに客を呼ぶ。十五夜の月が川の水に浮かび精霊送りの人達が帰る9時頃には終り子供達は分けあった賽銭をもち名残り惜しげに帰路につく。遠い昔から受け継がれきた子供のまつりである。

     
30観世音菩薩  玉垂神社境内
 松原組の人達が十七夜のお観音さま祭り、お彼岸の巡礼さんの、お接待やあるいはお説教を行っている。観世音菩薩は大慈大悲をもって人々を救済することを本願とする菩薩である。迷える人を救う為に色々姿を変える阿弥陀仏の脇士(きょうじ)となる。供養をすることによって我々は救われるのである。
31荒仁宮(あらひとぐう) 堀切
文治3年(1187)河野四郎通信(みちのぶ)を祭神として御鳥羽天皇勧請により建立されたと云われる。社説によると伊予国得能弥三郎の嫡子河野伊予守が筑紫に下向し堀切村に築城した。その子孫の河野出雲守道弘大永年間(1521)後柏原天皇に祖神を祭祀したという。この神社に伝説があり、源平争乱に伊予水軍を率い、源氏方として河野四郎通信は息子の通貫と共に堀切の庄に来たが病にたおれ死去した(文治3年)。その後家運も衰え路傍の墓となった。ある時墓の傍を武士が馬で通り掛かり家来に古びた墓を馬鹿にし笑い過ぎた時にこの墓がたちまち鳴動して殺気が起こり人馬とも息絶えた。それより殺気が絶えずその地に宮を建てその霊を祭り四郎大明神と号し、後に荒仁社と改める。通信の嫡子河野彦三郎通貫は河原内の庄に住み、次男の兵衛介通頼は堀切に帰居す。以来後世の通清は立花藩の儒官となし後に肥後国玉名に居住し肥後第一世となり。。十二世の河野司さんは現在大牟田に住まれ代々医者の家であった。例祭には出席され、毎年10月20日におごつくさん(もち米4升白米4升)をお供えし祭を行っている。祭事後村全戸に配られ、災難・魔よけに頂く習慣がある。玉垂神社境内西側にも社殿があり祀られている。
道一つ隔てた南の竹やぶの中に、刀匠三池典太の弟子の墓と言い伝えられる石碑10基分位がある。


荒仁社の鳥居 荒仁社の塚  玉垂神社境内の荒仁宮
32八歳宮(はっさいぐう)(初年宮) 堀切字八歳島
長島の各宮と同時代この地、八歳島は大陸からの渡来人船着き場でここに滞留、生活を始めた地に縄を張り榊を立て神の降臨を願った自然崇拝の宮であったろう。西暦944年頃の天慶神名帳「初年宮」とあるのは八歳宮のこどである。1716年社殿が建築されたの記録有り。矢部川の合流点から飯江川を200m上流の堤防傍、河野栄宅に祀られ、氏子七戸で9月12日(本来は9月3日)に祭典が行われ地元では八歳島を「はっせじま」八歳宮を「はつせさん」と呼んでいる。創建は白雉5年(654)の飛鳥時代である。祭神は豊玉姫命「綿津見国の姫で神武天皇の祖母」である。寛永15年(1638)矢部川が堀りかえられた。当時の和歌に次のように詠まれている。「すみの江の岸による波千代かけて神こそまもれ言の葉のみち」当時は三反五畝(役1千坪)の神田があったそうだが飯江川改修工事があり移転され現在の祠となっている。本尊は鷹尾の楢尾宅にある。綿津見は海(わだ)つ待つ、または海住(わだずみ)の意である。上古の海岸部族であり海の神様である。当時矢部川は泰仙寺と浜田の間を流れ「島」「中島」間を曲りくねって流れていた。往時矢部川を往来する船は必ず八歳神社に参り海上の安全を祈願したと伝えられている。寛永15年(1638)矢部川が掘りかえられた。当時の和歌に「すみの江の岸による波千代かけて 神こそまもれ言の葉のみち」とある。当時は3反5畝の神田があったそうであるが飯江川改修工事があり現在河野栄氏の宅地の東に移転している。毎年9月12日に祭典を行っている。本尊は現在大和町鷹尾の楢尾氏宅に祀られ左右にカッパと社日さん(穀物の神)が安置されている。詳しくは楢尾氏宅に記録残る。
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33宗高(むなかた神社    堀切竹葉
祭神は柳川藩20代藩主立花鑑茂の重臣で鳥見役であった竹迫(たかば)種重である。勤め後半病身になり、4丁6反を拝領して堀切村に居住す。現在竹葉という字名がこれである。剃髪して浄哲と号す。宝永3年(1706)11月22日に92才で他界している。その墓松原の地にあり、宗高神社に祀られ松原の氏子祭りを続けており竹迫家より祭料が送られている。現在土地名が字竹葉として現存している。昭和56年に275年祭に当たり竹迫家の子孫で熊本市の内科医をされている竹迫三也夫妻により社が銅葺に改築され毎月命日に参拝される。
堀切公民館南側にある。境内に樹齢500年以上のクスドイゲの神木が茂り地元で文化財級と話題になっている。専門家は九州に植えてあるだけで本数も少なく珍しい木だと解った。幹の周りは1m位で針のとげが出ており樹皮はうろくの様にかさなって、いかめしい形をしている。社前に天保年間に建てられた地蔵様があり、竹迫家の人が不治の病にかかり毎月21日にお参りしていたら夢枕に神木の葉を煎じて飲ませよとお告げがあり飲ませて病気が治ったと言い伝えがある。最近では願事が叶う噂で、受験合格の祈願の神さまとしてお参りする人が多くなりクスドイゲの葉を合格のお守りに持ち帰る受験生もいる。祭礼は8月28日である。
34木玉宮(キダマグさん)   堀切 野
祭神は句句迺馳神(くくぬちのかみ)(木を司る神でククは木々の意、ノは助詞、チは霊威、精の意味)で堀切の野地区に祀ってある。木玉さまと呼んでいる。木玉は子玉である。おなかが大きい神で柔和な神である。子授け安産の神様として参拝者多く、子供のできない人がお願いまいりして子供が授かったと言って、お礼まいりにみえるとの事。この野地区には1年中誰かが妊娠して御腹の大きい女性が詣るそうです。お堂の天井横に木玉宮と書いてあった。昭和63年度に小路の人達が同位置にお堂を新築された。小路一同相集まり改築祝いをして神霊の供養をし子供達の安全を祈願された。祭礼は9月14日である。
                
35山森神社(やんぼっさん) 堀切 裏小路(堀切集落の西部にある)
英彦山権現の修験場本山の山伏さんが堀切の裏小路を宿として一生を終ったので、お堂を建てて霊を祀ったもので、堀切の村人の温情の厚さによる建立である。。山伏はごまをたき呪文を唱え祈祷を行ない、山中で難行苦行をして神験を修得して地方に下りほら貝を吹き、家々の厄払いをして災難がないように家内安全を祈祷して廻る。その為に堀切に宿を持ち、頭に兜巾(ときん)をいただき篠懸(すずかけ)及び結び袈裟(けさ)を着け笈(おい)を背負い金剛杖をつき、ほら貝を鳴らして周辺の農家を訪れながら祈祷していたであろう。現在はその姿を見ることができなくなった。山法師さんは裏小路の護り神である。祭礼は11月25日で大正時代は浪花節の興行を行ない霊の供養をしていた。
        
       
36龍宮神 堀切 小開(川土手にある)
小開の水門のそば飯江川の岸に海神さんの石の祠があった。川の改修工事の際、元の石で組み立て直し祀られている。竜宮さんは雨を意のままにし水族を支配すると言う海神すなわち竜宮神である。旧藩時代に海面を埋め立て、一つの新開を造ると必ず海神を祀った。川や海で魚をとったり海苔をとりに行く人達はこの神にお神酒を捧げたり魚をお供えしてお祭りをしている。祭礼は9月13日である。
37金毘羅神社  小開・船津
本社は香川の金刀比羅宮で海上の守護神や五穀豊穣を祈る、仏教の伝来に伴って我が国のも伝来した神様である。海の船着場の船津に船の安全を祈願して建立された。現在は公道脇に遷宮して、小開の田を作っている人達で9月16日に祭りをされている。小開も海を干拓して水田に変わっているので家内安全と五穀豊穣を祈る神として崇拝している。祭神は崇徳天皇である。天保7年建立・明治42年7月再建・昭和25年2月新築・平成4年10月新築の木札がある。
               
38天満神社  (ひらき)
 開の産土神、古くから伝わる奉納子供相撲(初相撲)は、その昔、年代は不明だが村に伝染病がはやり多くの子供が亡くなり、藁をもすがる思いで天満宮に祈願をかけた。一切を男衆の手で3升3合の米に増米を加え、小豆をつけ、稲わらの穂で33本のくじ(1組の相撲毎に折り曲げて手の内に納める)を作りお供えする。生後1ヶ月から15才までの男の子の相撲を奉納し健康を祈願したのが始まりである。境内に若宮神社の小堂・お大師堂十三仏・社日さん・猿田彦を祀る。 東方、線路傍に天草さんの小堂がある。旧柳川藩誌にみる「吉里の天満宮」は昭和の始め頃、開の天満神に合祀されている。
           
39泰仙寺の聖母宮  泰仙寺
天保2年(1645)鷹尾村が矢部川の堀り替えで二分され泰仙寺の産土神、神功皇后を祀る。以前は鷹尾神社から御神幸の行事があったが現在では矢部川西岸の城跡に祀ってある聖母宮まで御神幸がある。
40六体神(ろくたいさん) 浜田南
浜田南の氏神として旧暦の11月15日(現在12月15日)に赤旗を立てる習わしであった。。白鶏、赤旗というと平家の落人でもあろうか昔(年月不詳)ここで老婆の手で養育されていた6人の姉妹がある時白鶏から井戸の追い込まれて死んだという。その6人の霊を祀ったのが六体神といわれている。その命日の供養が毎年9月15日に塚の上で仏式で行われる。現在は六体神の御神像は、天満宮に合祀されてあり、石碑だけが建てられているが、その像は緋(あか)の袴(はかま)を着け平家の落人か落城の悲哀を思わせる。
また一説には浜田部落の南の方向に小高いところに六体屋敷という付近に天正年間、浜田城があり、田尻氏の家臣、田中大蔵が城番として住んでいたが鷹尾城の田尻氏が没落、その落城のおり、城に6人の姫が井戸に身投げされ6人の霊を祀ったのが六体神とも言われている。
41野田の若宮さん  浜田西
浜田の西端、堀をめぐらした竹藪の中にあり、カッパさんの姿が雄々しく、珍しい。斧(おの)と竹筒らしきものを持っている。
          
       
42沖田(おぎだ)の天満神社  
 5月第2日曜日10月第1日曜日に祭礼が行われる。秋の祭礼には4kgのもち米で「おごつくさん」(先のとがったおにぎり)を作る。宿と神主と世話役には特大のおごつくさんを、沖田50所帯には祭礼後配布して家庭でありがたく御利益を頂く。また田植えあがりには野菜と塩さばをささげ豊作の祈願が行われる。8月15日にも沖田の小学生により各家庭から小銭を集め駄菓子を買って参拝者でお賽銭をあげた人に駄菓子をふるまう。祭りの後集まったお賽銭を山分けして小使い銭をかせぐ。伝統的子供の祭りである。境内には沖田公民館がある。北浜田にある平高天満神社の支社になり本社の氏子である。
                      
43南浜田の天満神社  南浜田
南浜田の産土神である。六体神(ろくてさん)の御神体も合祀してある。鳥居は天保3年(1832)建立。面積328坪ある。
44平高天満神社   北浜田
北浜田・西浜田(野田)・沖田の産土神である。鳥居は天明元年(1781)建立。境内に社日さん(穀物の神)の石祀があり西方に観音堂がある。祭礼は5月の日曜日に行われる。また北側の墓地でも5月に先祖祭りが行われている。
    
 平高(へいたか)神社    北浜田(公民館)
浜田北の氏神として信仰されてきた。浜田北公民館・平高神社会館に祀られている。
浜田の若宮さん・六体神と同様、平家の落人伝説にまつわる神社とされているが詳細な由来は不明である。祭礼は4月9日に行われている。
45観音堂   北浜田
 北浜田の天満神社の西側に田んぼの傍にある観音堂である。
    
   
46観音堂   浜田西
 浜田西公民館の横にある観音堂である。
        
47観音堂   浜田
 龍本寺の前の道路の南東にある観音堂である。
       
48天満宮       東津留
江戸初期に矢部川の堀替えで津留村が分断され西側が対岸の大和町側になり東津留が瀬高側に残った集落である。菅原道真を祭る天満宮で鳥居や狛犬が二基もあり歴史を感じる境内である。社殿の彫刻も立派な装飾である。昭和期までの祭りには子供奉納相撲があって、夜は東津留の「よど」で浪花節、夜店が並んで賑やかであった。
        
 観音堂      東津留北
 天満宮の参道入口前付近にお堂があり、中央に観音像、右には地蔵像、左には不動明が祀られている。後ろには矢部川が流れており、藩政時代までは津留の渡し舟があり対岸からの通行人のお参りも盛んであったろう。
            
 恵比須さん    東津留
 津留の渡し舟場から通じる道路端にある。古くからから津留の浜から天草や島原の海産物の塩物が陸揚げされていた。この付近には商店はなかったが、集落の人達は筑後は勿論、肥後付近まで行商人して塩物などを売りさばいていた。よって商売繁盛を願い建立されたという。現在の祠は明治42年5月に再建されたものであり、寄進者名と再建日が基台に彫り込んである。
        
49石橋神社(ひやぞうさん) 東津留643
 ひやぞうさん(おふぞうさん)とは石橋家一族の祖先石橋重四六という人の思いつきが言い伝えになり、今日まで残っている。江戸時代初期、重四六は柳河十二万石の立花藩主宗茂の家臣であり、津留の渡しの目付け役で矢部川の左岸、東津留の柳瀬野に住んでいた。現在その地を「ヤナ城」と呼ぶのも、そこから起ったものと思われる。寛永14年(1637)島原の乱が起り、時の藩主から重四六が緊急に登城せよ、との下命を受けたのは、旧暦12月29日の暮れもおし迫った時のことであった。「ヤナ城」の重四六の家では、正月を迎えるためのすす払いも終わり、餅をつくために五段せいろうで餅米をむしていたそうだ。下命を受けた重四六は、至急に出陣の用意をして登城せねばならないから、餅をつく余裕などなかった。彼はとっさの思いつきで、大きな「ばら」にきな粉をしき、その上に「おこわ飯」を乗せ、またその上にきな粉をふりかけ、手でそれを叩いて袋の中に入れ、馬に乗って登城の道々、自分の家来も、それを手でひきちぎって食べながら行ったとのことである。それ以来、石橋家一族は毎年旧12月29日に「ひやぞうさん」をつくり、先祖をしのびながら正月三ヶ日は御飯を炊かず鉄キュウ(鉄網)でそれを焼いて食べた、ということである。「御先祖様は、三ヶ日は温かい御飯も食べないで『ひやぞうさん』を食べながら富を築いて来られたにだから、これを食べないと、バチカブル(罰になる)」と母から言われて無理に食べさせられた子供の頃を思い出す。重四六の墓は石橋広喜氏宅の裏庭に屋敷神、石橋神社として祀られ、春と秋のお彼岸に祭礼を行っている。祠の下には重四六夫妻の遺骨が埋葬されている。( 東津留の石橋弘氏の史記より)右奥の墓石の文字は風化して読取れないが左奥の墓石には享保2年(1717)6月7日、繹教因 の文字がある。
   
   H・22・10撮影

              
    
50高柳日枝神社(山王宮日吉神社)) 南高柳  本社の由来は【総合編】へ
南高柳の産土神、北高柳のの日吉神社と同系列のお宮で、滋賀県の日吉大社から山王権現を分霊された神社である。享保21年(1726)、安東一角の筆なる「山王宮」の額がある。平成4年の不審火で本堂を焼失し、氏子衆の寄進でコンクリート造りの本堂が再建されている。再建が早くできたのも南高柳の氏子達のお宮に対して昔から信仰が深い証拠でもある。
境内に稲荷神社天満宮の祠がある。
社日さん(食物の神)の石碑があり、春と秋のお彼岸に近い戌の日に田畑の神を祀って祈っている。神社の左道路脇に観音堂六地蔵を祀ってある。
神社西方に西小路に不動明王堂があり、境内に荒仁宮を祀る。荒仁さんは久富家の祖神、山王宮の祭神を背負ってきた人と言い伝えられている。
新社殿 南高柳の子供達 社日さん
51三ノ溝(さなみぞ)山王社  高柳三ノ溝
三ノ溝(さなみぞ)の産土神、北高柳と南高柳の日吉神社と同系列の神社。滋賀県の日吉大社から山王権現を分霊された神社である。祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る。国家鎮護・方除け・魔除け・災難除けの神様である。
三ノ溝(さなみぞ)の地名の起源は和銅8年(715)以降に実施された条里制の遺構によるもので中絶から始まり三ノ溝、高柳散田の五ノ溝で終わっている。1200年位前のことである。
52地蔵堂     高柳東
 東高柳に鎮座しているお地蔵さんで8月にまつりがある。
    
53不動院・地蔵堂    西高柳
矢部川堤防の近くにある不動院と地蔵堂がある。1月・5月に祭礼を行い8月は小学生がおまつりを行う。8月28日は大日如来の化身、不動明王の縁日がある。昔、村内の火災が多かった為に火伏せ不動とも呼ばれる不動明王のご祈祷が行われるようになった伝承がある。

     
瀬高町誌・南小学校創立50周年記念誌(H16)・玉垂神社記念誌・故田中広次氏・故河村子路作氏の資料・現地取材・撮影により製作しました。地元関係者の功績と協力に感謝いたします。
         
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