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@住吉宮 上庄八坂神社境内左 本社の由来は【総合編】へ |
古書には福岡市博多区住吉を「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されている。住吉宮の由来は十四代仲哀天皇の妻である神功皇后 (しんぐうこうごう) が新羅(しらぎ) に出兵する際に、住吉大神の力をいただいたことがきっかけとある。新羅遠征により、大いに国の安定を築くことができたため、住吉大神のお告げによって、この住吉の地に祭られることになった。俗に「海の神」とされ大和政権の玄関口にあたる大阪市住吉区や海路にあたる下関市一の宮住吉や福岡市博多区住吉(この三社が日本三大住吉)や壱岐に鎮座して、遣唐使をはじめ大陸との渡航を守り、奈良時代以前より外交・貿易、またあらゆる産業を守護する神として称えられてきた。安曇一族や宗像一族も大和朝廷に依頼されてかれらを支援して先導したり護衛したりしていたのではないでしょうか。全国に2129社もの住吉神社がある
さて上庄の住吉宮の祭神は綿積見神(安曇族の祖先神)であり、創建は不明だが平安時代末期で、この神社には古い伝説が今も伝わっている。
嘉応年間(1169〜1170)「瀬高庄」が徳大寺大納言家領だった頃、京都に年貢米を運ぶ船の航海の安全を祈願する宮として庄館の敷地に祀られた。
以前この地は海が近く、海岸には白砂が遠くまで続き、波打つ潮も清く、青松も茂り、景勝の地であった。住吉館は首名が曲がりくねった矢部川の水流を利用して貯水場を築いたものであった。
それが「庄の余」であり、池の中には祇園宮をまつってあつた。庄の池は当時の灌漑用水の役目を果たし下流の住民に多くの恩恵を与えたであろう。
明治25年頃の改築の際に鳥居も新しくなり、その額を地元議員を介し、伊藤博文の口添えもあって、海軍卿を務めた勝海舟の書を得たました。宇池の周辺には勝泥寺、白毫寺、青泰寺、青光寺、金剛勝寺などがあった。
昭和41年の矢部川拡幅工事で八坂神社に遷宮し、保管されています。他に山岡鉄舟の双幅も保管されています。藩政時代には、藩主の乗船や、藩の米倉のあった「お倉の浜」から米などの積み出しの際、航海の安全を祈願して、お守り札を献上したということです。 |
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住吉宮 |
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勝海舟の直筆の鳥居 |
矢部川沿いの元の地 |
A上庄八坂神社(祇園さん) 本社の由来は【総合編】へ |
地元では「上庄の祇園さん」と親しまれている神社で、祭神 須佐之男命(素戔嗚尊とも表記・すさのおのみこと)・応神天皇(おうじんてんのう)・武内宿禰命(たけうちすくねのみこと)を祭ってある。
上庄八坂神社の社記によると安元2年(1176)6月11日に、この地に鎮座されているが、祭主は宇都宮弥三郎の子小太郎藤原中次と弟の重国とある。この両人は京都祇園の分霊を奉護し、筑後へ来て持参した藤鞭を3つに切り、久留米、柳川、瀬高に植えたところ、瀬高のものが繁ったので、この地に社を建てて祀ったという。郷土史家の堤伝氏によると「宇都宮小太郎藤原中次と弟の重国というのは宇都宮系図にはないが、宇都宮朝綱(うつのみや ともつな)の子朝重の兄弟と考えられ、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)により藤原氏は勢力を失い、世はまさに平清盛の全盛の時に九州に下ることは不可能であり、平家没後の寿永2年(1183)に下ったのではなかろうか。あるいは瀬高庄は往時嘉応年間(1169〜1170)徳大寺実定の領地であったから、庄館に仕える庄司か雑掌として下ったとも思える。」と説明している。戦国の乱世には美しい社殿も多くの戦火にあい大破され、荒れ果ていたが、文禄5年(1596)に藩主立花宗茂は社頭30石を寄進し、宗茂改易後は、慶長7年(1602)に田中吉政が50石を寄進している。元和7年(1621)立花宗茂が柳川城に再封され、翌年の正月には社殿などを新築された。現在の鳥居も立花宗茂の寄進であり、途絶えた祭礼を初め、大人形の神事も始めた。旧暦の6月15日は多くの参拝者が集まるので上庄街道の一般の通行を禁止することを幕府に願いを出す程に盛大であったという。立花宗茂が柳川再城の時、この社の社殿を新築して祀ったのは宗茂奥州棚倉在城の元和6年(1620)正月元旦の夢の御告げ(祇園神ノ符扇上ニ在リ)によって再度柳川に帰れたことによるものである。(堤伝著・柳川の民話・上庄祇園社&瀬高町誌参照)
大人形は白旗を小わきにはさんだ源義家(みなもとのよしいえ)(八幡太郎義家)を向って右に安倍宗任(あべのむねとう)もしくは安倍貞任(あべのさだとう)を毎年交互に左にたて、そして中央に社壇を安置して祇園の神を祭ってある。
立花宗茂の奇夢に現れたる徳川家康を宗任に、宗茂公自身を八幡太郎義家に擬し、武運長久を祈願せられたるに基づくものとする。
7月24〜25日の祭日は「うう人形さん」の名で人形の股をくぐりぬけると病気にならないと言われに行われる。本郷の古老の話しによると、毎年祭礼が近くなると昭和初期頃までは、八女の福島の人形師が制作した大人形が運ばれ本郷の行基橋のたもとで休憩して上庄に運ばれていたそうです。
祭礼の前の7月21日には「大提灯まわし」という献灯の神事大提灯(おおちょうちん)は人物、風景等が描かれ、材料に、魚鱗・魚皮・虫の羽・貝殻・木皮等が使われている高さ2,5m直径1mの大提灯(県指定有形文化財)です。大提灯の由来は、安元2年(1176)上庄に祇園宮が勧請された際に、白武三郎兵衛という貧しい武士が、雨の降る闇の夜に粗末な提灯と破れた傘をさして御神霊を迎え、崇拝したという話がある。心から神を崇敬する彼の行為に感激して、後世彼が使用した提灯や傘にちなんで大提灯を作成し祭礼の初日(7月21日)に大提灯は氏子の若者によって町内を練り歩き祇園の祭礼期間(7月21日〜25日)に献灯されるようになったとある。 |

県指定有形民族文化財 大提灯 |
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祇園宮鳥居 |
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祇園宮 |
大人形さん |

祇園宮と新宮の鳥居は現存・周囲の堀は一部あり。現在新宮跡には屋須多宮がある。
金剛勝寺は明治5年廃仏毀釈運動により廃寺となり現在空地・末寺の円鏡寺が北側に現存する |

明治期の二百丁の有志による祭礼参加の祭り囃子の人びと |

大正期の祭りハッピ姿の町内のみなさん |

大正期の造花・提灯・人形で飾られた祭礼山車 |

昭和34年踊山巡幸に集まった本町の子供達 |
 昭和42年の大人形さん |
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八坂神社の境内の西側には矢部川堤防にあった住吉宮が遷宮されている。また境内には末社に1596年に諏訪神社が建立されて現在は印鑰(いんやく)、宮地獄、生目八幡、天満の神社などが合祀してある。 |
B屋須多神社 上庄八坂神社境内 |
元文2年(1737)12月1日に屋須多宮建立。御神体を木元村のかくたに頼み彫刻し鎮座し奉る。14年後の寛延3年(1750)8月に新たに筑前国福岡の仏師の左田ノ文蔵により御神体を製作、鎮座して奉ったとある。藩政時代は家中の武士は馬上より御幣を受けて帰るのを慣例としていた。明治維新後、罔象女神(水神)、國狭槌神を合祀。神額は12代藩主であり伯爵の立花寛治書である。社殿は元祇園宮と新宮の間にあったが、大正12年祇園宮改築の際、新宮跡に移築され現在に至る。
伝説によれば昔、修験山伏が上庄を訪れ、老婆に一夜の宿を請いました。老婆は貧しかったけれども快く労をねぎらい丁重にもてなしました。翌朝、修験行者は老婆に「この地に火事があった時の為に、水神様のお守り札を納めておきましょう。もし火災が発生したら我が名の『屋須多』を唱えると火が消えるであろう」と言って別れを告げたので祇園宮の大楠の辺りまで見送りましたが、いずれともなく行方がわからなくなったということです。そのあまりの不思議さに、祇園宮祭神の再現であろうと今日まで語り伝えられています。その後、町内に火災のたびに、屋須多さんと呼べば鎮火したので不思議な語り草として広まり、お札や御幣を家々に祀って信仰し大難を免れてきたと言われている。旧藩時代の家中の武士は、馬上より御礼、御幣を受けて帰るのを慣例としたということです。(樺島不二夫書より)
火難除けの神として12月1日の祭礼には参拝者で賑わう。屋須多神社は瀬高は勿論、筑後・筑紫・肥後などに広まり祠や分社に祀られて信仰されている。昭和55年には朝倉町に当社の御幣を受けて分社が建てられ崇拝されている。なお下庄八幡宮でも氏子中に屋須多座を設け祭りを行い、文広橋口、吉岡など各々祠を構えて祭りをとり行っている。 |
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屋須多さん由来 |
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屋須多宮 |
合祀の各神社 |
C新宮社 上庄八坂神社に合祀 |
創建は鎌倉時代中期頃と考えられる。1340年(南北朝時代)の古文書(大善寺の梅津家)に瀬高新宮に関する文書がある。久留米高良玉垂宮の別宮として祀られたもので祭神は玉垂宮、八幡宮、住吉宮又は春日宮で故に新宮三社と称した。
大正12年祇園宮改築の際取り壊し八坂神社に合祀された。慶安4年(1651)に柳川二代藩主立花忠茂公の寄進の鳥居だけが昔の名残りを止めている。銘文に「奉彫建石華表雙国主左近将監従四位下源朝臣忠茂」 「慶安四年辛卯九月上澣氏子中建立」とある。祇園宮の鳥居も新宮社の鳥居も三百数十年の星露を経た肥前鳥居の様式をそなえている。 |
印鑰社 (八坂神社境内西に合祀) 本社の由来は【総合編】へ |
当神社の金庫番として鎮座され、勝運守護の神でもある。契約成立、証文印鑑作製時の信仰ある。昭和初期に西側の宮地獄神社に合祀された。 |
諏訪神社 (八坂神社境内西に合祀) |
長野県諏訪の諏訪大社の分霊を祀る。大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に共に宮地獄神社内に合祀された。 |
宮地獄(みやじだけ)神社 (八坂神社境内西に合祀) |
福岡県福津市宮司の宮地獄(みやじだけ)神社の分霊を祀る。 |
生目神社 (八坂神社境内西に合祀) |
本社は宮崎市生目にあり、創立年代は不明だが宇佐八幡宮崎荘の神社として発展したものといわれている。目の神様として信仰されている。昭和初期に西側境内に合祀された。 |
天満宮 (八坂神社境内西に合祀) |
学業の神様、菅原道真を祀る。大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に西側境内に合祀された。 |
八鉾神社 (八坂神社境内西に合祀) |
祭神は八鉾神である。大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に西側境内に合祀された。 |
稲荷神社 (八坂神社境内西に合祀) 本社の由来は【総合編】へ |
祭神は宇賀魂神(うがたまのかみ)である。天明6年4月に塩谷吉兵衛によって勧請された文書があり、現高光稲荷神社がこれであろう。新宮社境内神社として祭祀ありしを大正12年8月印鑰神社と合祀、さらに昭和初期に西側境内に合祀された。 |
D金刀毘羅神社 上庄新町 本社の由来は【総合編】へ |
崇徳天皇、大己貴命(おおなもちのみこと)を祀ってある。創立年代は不明だがお倉浜に出入りする船の航海安全を祈念するために建立されたものと思われる。1840年(天保11)に大風の被害にて11年後再建、1866年(慶応2)には大洪水で流され1872年(明治5)に再建され現在に及んでいる。(外川文書)境内の右側には民衆を救う神さま権現神社と奥隣には大黒・恵比須神と矢部川水神さんが祀られている。 |
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金刀毘羅神社 |
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大黒・恵比須と矢部川水神 |
権現神社 |
観音堂・十王堂 土居町 |
来迎寺の納骨堂の西側にある。もと井泉山智善院と称した。開祖不明。柳川三代藩主鑑虎(英山公)の代より、院内より藩主の飲料水を献上す、ゆえに米5表を寄附されている。観音堂には本尊の如意輪観音、左右に不動尊、毘沙門天が祭られている。如意観音とは観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、六観音の一つでもある。如意とは如意宝珠で全ての願いを叶えるものであり、輪とは法輪を意味し、煩悩を砕く宝輪で衆生の苦しみを救い、福と智慧を授けて下さる。像容は、東大寺の大仏脇士像や石山寺像などの、二臂像も、まれには造られたが、平安時代あとは普通見る六臂像が多く造られたという。当堂のものは二臂像である。写真の左の大きいお堂が観音堂である。右側の小堂は十王堂(閻魔堂)である。
十王堂とは仏教では、人が死ぬと地獄や極楽などの世界に行くと信じられているが、その行き先を決定するのは閻魔(えんま)大王を筆頭とする十人の王たちが勤める裁判官である。この十王をおまつりして自分たちも極楽へ行きたいと願うのが十王思想である。判決は、6段階の刑になっており、最悪は「地獄」、次は「餓鬼」、「畜生」、「阿修羅」の順で、人間世界の「人道」と天人の住む「天道」が善人の行く世界である。再審制度が完備しており、地獄や餓鬼道に落ちたものは百日目、1年目(1周忌)、3年目(3回忌)に救われる道が開けている。この3回の裁判官を合わせると十人の王となる。お彼岸にはお参りするお遍路さんで賑わう。 |
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E観音堂 上庄西新町 |
天保年間に三潴郡の方が五十丁村(三橋町)の筑後33観音霊場のお堂の分霊をこの地に持って来た観音堂である。春と秋のお彼岸には観音霊場巡りの方が訪れる.
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F浜王宮 上庄土居町 |
創建年代、由来など明らかではない。この祠に男女二体の像が祀らてている。明治4年の「新宮三社之由緒覚」に浜王宮とあり、この祠が明治4年以前からあったものと考えられる。この祠の中には「め」の字をいくつも書いた紙が納められており、眼病に対する民衆の信仰もあるようである。郷土史家の大江考祥氏によると祭神はおそらく真言宗の守護神、観喜天を祀っていると思考できるそうだ。富を司る現世利益の神様として、また学問の神様として祀られ、
特にお仕事やお金に関してはありがたい神様である。元はインドの神ガネーシャで日本に仏教とともに渡って来た神様であるが御神体は日本風に祀られ信仰されている。
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G愛染明王堂 上庄瀬口土居町 |
来迎寺の東門脇にある小堂で昔の共同井戸があり、周辺住民の井戸端会議の場所であったろう。傍の大城宅の先祖が京都より持ち帰り祀った社で彫刻が素晴しい。小堂には石造に着色した愛染明王が安置されている。愛染明王とは梵名をラガラジャの意でラガとは赤色愛情、愛欲貧染をそのまま浄菩提心にせしめる明王で、煩脳(ぼんのう)即菩提の本尊とみられるものである。明王は空海が唐から伝来したもので、平安時代にもしばし制作されたが現存する像は少ないという。また愛を授ける神として信じられている。愛染明王は、”藍を染める”と愛染をかけて染物業者に信仰された例があります。上庄には秀吉の時代には高良玉垂宮の市の座があり紺屋(染物座)も存在して、染色業者に愛染明王信仰があったかもしれません。 ご真言
おん まかあらぎゃ ばさら うしゅにしゃ ばさら さたば じゃうん
ばんこ ウウ-ン オン マカラギャ バゾロウシュニシャ バザラサトバ ジャク ウン バク オン マカラギャ バゾロウシュニシャ バザラ サトバ ジャク ウン バンコク |
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十王宮 横道 |
創建年代は明らかではないが、かってこの祠の側にある井戸を掘った時、土中から一体の像を掘り出し、これを十王として祠を建て祀ったものという。十王とは冥界にあって亡者の罪業を裁断する。没して後、7日ごとにそれぞれ泰広王(初七日)・初江王(十四日)・宗帝王(二十一日)・五官王(二十八日)・閻魔王(三十五日)・変成王(四十二日)・泰山王(四十九日)・追加の裁断が平等王(百ヶ日忌)・都市王(一周忌)・五道転輪王(三回忌)・の10人を十王と称し、仏事の法要は大抵7日ごとに七回あるのは十王に対し死者への減罪の嘆願を行うためである。それは唐の末期(中国)に道教の思想から十王信仰は成立したと伝えられてる。日本では平安時代後期頃より信仰されて、鎌倉時代には思想的にも作品にもきわめて充実した。江戸時代には数が増えて(七回忌・十三回忌・三十三回忌)十三仏信仰なるものが生まれる。
ここの祠の主も十王の1人であり、この地がかって青光寺の境内にあり、そこに祀られていたものと考えられる。 |
H高明(こうめい)神社 上庄横道 |
堤防の上に鎮座していたが矢部川堤防改修工事の為、下にこの場所に移設された。。地元では「こうめいさん」と呼ばれ信仰されている。その左に石碑があるが水難事故で亡くなった方の霊を祀る為に建立されたと思われる。左側には珍しい夫婦像のエビス神を祀る石の祠がある。古い時代から矢部川を舟で渡り柳川に行く街道の入口で商店や宿が建ち並び、賑わっていた時代を思わせる。さらに左の石碑には末広大神跡・高明大神の銘がある。末広神社の存在していた事を表している。 |

高明神社 |
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恵比須神 |

末広大神跡の碑 |
I薬師如来堂 出口、上庄小学校前信号西寄り川口食品隣 |
江戸時代の建立と言い伝えがある。疫病が流行し、厄除けのために薬師如来堂を建てたという。入口左には榎木の神木があり、お堂裏に古墳がありそこから移植されたという。古墳からは鎧や兜が発掘されているが創建時代は不明。近所の彫り師によるお堂の彫刻の獅子は他にない、めずらしい他にない、たて髪のある雄のライオン像である。お賽銭箱を積み立てお堂の補修をされている。お堂左側には弘法大師の石の立像や13仏像が並び、お彼岸にはお遍路さんが参拝に訪れる。西隣の小柳元之宅では、お花を上げたり、毎日お堂の扉の開閉をおこない賽銭により建物も立派に管理、補修されている。 |
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お地蔵さん 二百丁 |
上庄二百丁のお地蔵さんである。往時には向え側の水路には桜庭酒造の酒造米を精米する4連水車があったという。

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J乙丸さん 出口 |
出口集落の西の田んぼの中に小さな祠があり、古墳の上に造られたと思われる。平安時代上庄には乙丸の名(部落名)の庄園があったことから、それに関係ある名の祠で自然信仰されたと思われる。乙丸の小字名は現在も残っている。 |
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K八坂神社 上庄御前橋 |
素盞鳴命(すさのおみこと)を祀ってあり、境内は12坪で上庄の御前橋にある。 |
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L宝満神社 北原 本社の由来は【総合編】へ |
大宰府政庁ができた時、鬼門(東北)よけとして竃門(かまど)神社が建立された。宝満山のふもとに下宮、中腹に中宮跡、頂上に上宮がある。別名を宝満神社と呼ばれ、玉依姫命を祭神としている。天台宗の修験道があることから、福岡県にあるこの神社の多くが修験者により勧請されたものであるといわれているが、荘園制によるものもあると言う。北原の宝満宮の創建年代は明らかでないが、三橋五十丁の宝満宮の旧記によれば慶長2年(1597)の創建と言われ、同社の楼門の棟書に瀬高五十丁とあり、北原の宝満宮の創建は慶長以前にさかのぼるものと思われ荘園時代に創建されたと思われる。また五十丁の宝満宮は昔北原の宝満宮が矢部川の氾濫によって流され止どまれたので、五十丁に祭られたとゆう伝説がある。戦前は五十丁の人々によって境内の掃除、供花などをされていたとゆう。 |
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M牛の御前 上庄字牛御前 |
昔から何の神であるか明らかでない。上庄の北原の県職アパートの西北約500mの所に小字名を牛の御前という所の田んぼの真ん中の杉の木立ちの寂しい森に石祠に神体を彫んだ(元禄時代の奉納)牛御前さんが西方を向いて鎮座しています。現在でも献花はもとより、酒、お菓子、果物など奉納され上庄の人に愛され、おまいりに来た方々が清掃され生き生きと信仰の対象となり守られています。この付近から平安鎌倉室町各時代の磁器片や古代土器が発掘され上庄の中心部であった証である。
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N天満宮 上庄三軒屋 |
三軒屋集落の氏神さんで公民館横、県道沿いに天満宮がある。菅原道真公を祀る。 |
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O山免の神 上庄西新町 |
山免と言う古地名が上庄の矢部川下流端にある。免とは税を免ぜられた所で山とは古墳の意味ではないだろうか。古老によると昔は古墳があり神を祀ってあり、恐ろしく祟りのある場所として人々は寄り付かなかったという。神格は不明だが墓の守り神的存在であろう。そばに新しく置かれた山神・水神・地神の石碑がある。 |
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