庄福BICサイト 福岡県みやま市瀬高町 平成18・11・20朝日部落更新

総合編
お宮とお堂
水上校区
清水校区
上庄
本郷校区
下庄校区
大江校区
南校区
清水校区のお宮とお堂
瀬高の東山地域にも古代からの自然崇拝の歴史を持つ部落ごと氏神様が鎮座され村人の厚い信仰のもと、毎年祭りが行われている。、清水山の麓の農村風景と古代「邪馬台国の卑弥呼の里」を連想してみてください。
清水校区のお宮(神社名クイック)
@香椎聖母神社 藤ノ尾  若宮さん    香椎聖母境内   天満宮・恵比須さん 香椎聖母境内
A観音堂     藤ノ尾 Bお地蔵さん 藤ノ尾、掛畑橋 C鏡堂      藤ノ尾車塚
D天満神社    下坂田 E天満神社        F観音堂     堤公民館脇
Gお地蔵さん 堤公民館脇
H天満神社      朝日 I若宮神社      朝日
J諏訪神社     本吉 K宮地獄神社     本吉 L八坂神社     本吉新町
M八坂神社  本吉南町 N八剣神社       本吉 O恵比須さん     本吉
P稲荷神社     本吉 Q若宮神社   本吉旧参道 R天満神社          草場
S草場聖母宮(しょうもぐう)草葉 21女山日子神社    女山 22地蔵堂・えん魔堂・釈迦堂 女山
23若宮神社    女山 24弘法大師堂    女山 25老松神社         大塚
N熊野神社  大草字山田 27豊政福稲荷大明神 大草

@香椎聖母神社  藤ノ尾
明治3年草場の産土神を離れて新しく車塚に建てられ、その後明治16年に堤八郎氏の寄進により現在地(藤ノ尾公民館横)に移っている。祭礼は草場の聖母神社と同じ11月第2日曜日。境内には若宮神社・天満神社・恵比寿の祠が鎮座している。
       
 若宮神社 藤ノ尾香椎聖母神社境内
祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)で神水を司る神・雨乞いの女神・田んぼの神 として祀られている。祭礼は10月の第1日曜日に行われる
         
 天満宮・恵比須さん    藤ノ尾香椎聖母神社境内
若宮神社の左側に石の祠が2社並んでいる。右側が商売の神様・恵比須さん左側が祠の屋根頭に梅の紋がある学問の神様天満宮である。昔はそれぞれ祭礼の日があったが現在は若宮神社と同じ10月の第1日曜日に変更されている。 
        
A観音堂    藤ノ尾
県道本吉・小田線沿い南側にある。清水寺の夜観音さんと同じ日にまつりがある。
      
  
Bお地蔵さん  藤ノ尾・掛畑橋
東町から旧道の藤ノ尾の集落の入口、掛畑橋のたもとに道行く人の安全を守り鎮座している。昭和38年頃までは農耕馬を川まで降ろして洗っていたので「馬洗い川」とも呼んでいた。昭和20年に筆者の母も自転車ごと赤ん坊を背負い橋から下の川に落ち流され、近所の方に助けられ命拾いしたエピソードがある。地蔵さんが居てくれたから助かったと、この道を通るたび、地蔵さんにお参りして母の実家の堤に歩いて行ったものだ。科学が発展した現代でも人の運までは動かせない、生活に悟りの心ををもって暮らしたいものだ。地蔵まつりは9月15日に小学生達で行われていたが、平成16年は小学生が1人だけとなり、大人が手助けして行われた。
C鏡堂    藤ノ尾車塚
藤ノ尾の車塚は神功皇后が朝廷に従わない田油津姫を征伐するために立ち寄り作戦を練った所と伝えられている。戦場は草場で田油津姫の墓は大塚の蜘蛛塚と言われる。享保20年(1735)に車塚から漢鏡三面が掘り出され、塚の霊を祀るため塚の中央に鏡堂を建て車塚出土の漢鏡が収められた。漢鏡は現在は残っていなく石を祀ってある。明治3年から明治15年まで香椎聖母神社があったが藤ノ尾集落の東部に遷宮している。
       
D天満神社    下坂田
下坂田の産土神で例祭は、9月25日頃に行うなわれる。。
鎌倉時代以降より民衆的な講が始まり江戸時代には天神信仰が深化し下坂田集落でも
天神講社が盛んになる。新年には大宰府天満宮に詣で
大麻頒布式(御札を頒布するお祭り)を終え、自宅神棚に大麻札をお供えて信仰していた。近年まで、天神信仰の「飛梅講社」は続いていた。(森神官談)鳥居の右側には巨石の道祖神があり、参道の狛犬はみやま市では一番大きいであろう。境内には稲荷神社の祠がある。裏手東側に九州新幹線が通り、静かな田園に近代の車両が走ることになる。
     
 地蔵寺    下坂田
創立年代及び開祖不明で、本尊は地蔵菩薩であった。道路脇に三界万霊塔がある。「三界」とは「欲界・色界・無色界」のことで、この世界すべてという意味です。この世界に生きる「万霊すべての精霊に対する供養塔が「三界万霊塔」です。
この寺の本尊は地蔵菩薩であり、昔は庵寺で僧がお住みになっていた。お御堂は平成年代になり新築され、婦人会で清掃など管理されている。右脇の小堂には弘法大師を祀ってある。

        
 観音堂    下坂田
国道209号の下坂田信号から樋口宮通りに入り中華料理の瀬高飯店を入り込んだ場所にある。清水の観音さんと同じ日に祭りを行っている。
E堤の天満神社(堤大国玉神)
堤部落の産土神で堤大国玉神の神を祀るとある。天慶7年(944)の「天慶神名帳」に神名があり「正六位上 堤大国玉神」とある。 「の字がつけられた宮は堤だけである。郷土史家の村山健治氏は、「これこそ邪馬台国の大国魂を祀った御社でありその大国玉神とは卑弥呼その人であったとも想像できる。日本書紀神代紀に記載されている。堤は卑弥呼の墓と推測される古墳群の上に部落があり東に位置するこの宮の聖地のおいて卑弥呼は聖なる太陽の出を崇め祈祷したり、天体観測した地と考えられる。」と力説していた。堤のお宮は邪馬台国、卑弥呼のロマンを漂わせる古代からの自然信仰の霊地である。古い氏神「古護神」は西側の小堂から神殿に合祀されている。
天満宮になったのは
江戸時代になって松延の天満宮の分霊を祀らされたと伝えられている。祭礼は11月28日に行われていた。

          
F堤の観音堂   堤公民館脇
8月の夏休みに観音堂で女子小学生が祭りを行う。新盆の家などから頂いた盆提灯をお堂の前にさげ各家庭から豆を持ち寄り接待豆を作って賽銭をあげた参拝者にふるまう。お堂から「観音さんに、めーてはいよ〜」の子供の声で賑わう。集まった賽銭分けは子供達の一番の楽しみであつた。
          
G堤のお地蔵さん 堤公民館脇
観音堂脇には旧公会堂(現、堤公民館)の左脇を入った所にあった延命院(廃寺)の地蔵さんが移転されている。江戸期の延享の頃(1744〜1747)から長州の人、僧玄要が居住していた。石の地蔵仏の下の角柱側面に延享4年(1767)11月吉日と長пi長州)阿部郡長泉山・延命院とあり山口県阿部郡から玄要上人が堤の集落に庵寺を開いた事を証明する。地蔵祭りは男子小学生達は女子とは8月の別の日にを行う。こちらは「お地蔵さんに、めーてはいよ〜」の声が部落に響く。近年最後の庵寺の住職は日本画の絵描きで有名な河島一二氏である。依頼あれば襖絵も書かれていた。昭和42年亡くなり、その後に延命院も廃寺になっている。
         
H天満神社   朝日
祭神に大国玉神(おおくにたまのかみ)を祀る神社で朝日部落の氏神さんである。筑後神名帳に、当社に寛平9年(897)正六位上を賜うとある。村誌に社地、東西13間、南北18間、面積230坪とある。 天満宮になったのは堤と同じく、江戸時代になって松延の天満宮の分霊を祀らされたと思われる。
例祭は11月28日だったが現在
10月25日行われている。本殿の右には古天神2宮屋須多宮(東端)の3つの祠が並んでいる。
この古天神さんは部落内の東小路と西小路に祀って信仰していた御神体である。鎌倉時代以降より民衆的な講が始まり江戸時代には天神信仰が深化し朝日の集落でも天神講社が盛んあったであろう。道路拡張工事などの都合で遷宮されている。古天神の祠内の手前に力神、あるいはカッパの像と女神があるが、やはり稲作の豊作を願った水神か田の神として信仰されてきた神であり、やはりこれも田んぼや小路に祀ってあった神である。東側の
屋須多さんは火災除けの神様で上庄の祇園さんにある屋須多宮が本社である。

鳥居 天満宮本殿 3つの祠
屋須多宮 古天神さん 古天神さん
      
I若宮神社   朝日(県道沿い北側)
祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)で水を司る田んぼの神として信仰されてきた。境内6坪と「瀬高町誌」にはあるが現在は、半坪の敷地に石台の上に祠としてある。旧バス停そばの北側の道路に面し、祭礼は7月に朝日部落の方がしめやかに祭りを行っている。
 観音堂(朝日寺)       朝日公民館
朝日寺は臨済宗妙心寺末派で延元2年(1337)僧鉄山開祖、二尊寺の末寺であった。本尊は観音仏、33ヶ所巡礼所であったが廃寺となる。境内に弘法大師堂があった。現在、朝日公民館にお堂が残りお彼岸には巡礼者が訪れる。
J諏訪神社 本吉(清水寺参道入口200m程入った所)
創建の由来は神功皇后田油津姫を征伐するために勧請されたとも伝えられている。諏訪神社記によると元禄16年(1703)に創建1200年の行事を行った記録が残っていることから、大和時代の西暦502年が創建となるという。江戸期以前は梅ヶ谷の山の中腹に鎮座していたそうだ。真言宗の成合寺の守護神社の可能性もある。鎌倉時代になると関東武士が北九州に守護や地頭として送り込まれ諏訪信仰熊野信仰板碑の文化も移植したことから、この時代に長野県の諏訪大社を本宮とする諏訪神社に変化したとも思考できる。江戸時代は柳川藩主の立花宗茂らの寄進の恩恵を受け南筑後地方の産婦は必ず参拝して祈願をなしたという。柳川藩政時代に参拝の便宜をはかり山腹の梅ヶ谷から現在地に遷宮している。現在の社は立花藩3代鑑虎(あきとら)(1664〜1695)の寄進による建物である。
祭神は
健御名方神
(たてみなかたのみこと)で本吉の産土神である。神社の境内には稲荷社、大神宮、地主宮、屋須多神社、萩野森神社など七社宮がある。安産の神で遠方からの参拝者も多く、参拝祈祷し神社祭殿の安産のお守り石をお産まで預かり持ち帰りお産の後お礼の参拝をしてお守り石を返す習いがある。石に願いを祈る古代自然崇拝の継承ではないか。祭礼は2月4日に行われる。境内は清水保育園の遊び場である。
       
K宮地獄(みやじだけ)神社 本吉(諏訪神社参道脇)
創建は不明であるが福岡県福津市の総本宮から勧請された神社である。祭神は神功皇后である。開運・家内安全・商売繁盛に御利益あり。昔は宮地獄神社の社領の水田を持ち、その収穫金で祭礼をまかなっていた。1月と9月に10軒の氏子で祭礼を行っていたが現在は三軒で正月に祭礼を行っている。
L八坂神社(祇園宮)   本吉新町
本吉新町の氏神さんである。寛保2年(1742)の柳川藩の記録に「本吉村に20軒の商家を新設し、清水参拝者の便に供す。これを本吉新町と称す」とある。女山の梅野六之平は私財を投じて清水寺参詣人の便宜をはかるため、旅館20戸を山下より移し、本吉新町と名ずけた。同時に祇園宮を建立し産土神とした。梅野六之平はそのほか私財を投じて享保年間の度重なる飢饉(ききん)に当り、500人余の人を救助した。また田畑を売って作馬50頭をあたえ、なお貧困者のため長崎の富豪より千両を借用し4ヶ村を救っている。
門前町本吉は江戸中期には旅宿10余軒となり巡礼や行商人を中心に肥後より筑後に至る街道の宿場町として繁栄した場所である。
古老によると7月1日のお祭りには地主の梅野宅から鏡餅があげられ、祭りが終わった後お返しに行くと半分お裾分けしてくれたそうだ。境内には屋須多神社も祀ってあり祭礼は11月1日。毎月1日と15日には当番でお供えをあげている。境内は公園として利用されている。

        
M八坂神社    本吉南町(本吉公民館前)
本吉南町の氏神さんである。木造の小堂の前にゴザを敷き祇園さんのお祭りが行われる。昔は本吉の三軒屋の八剣神社と新町の八坂神社と南町の八坂神社が合同で7月1日に祇園祭が行われて賑わっていたが現在は各町内で個別に祭礼を行っている。左側には石祠の屋須多神社も祀ってあり祭礼は11月1日
N八剣神社  本吉三軒屋(県道小川本吉線から真直ぐ本吉の町内に入り込んだ三差路)
八剣神社と呼ぶが八坂神社と神格は同じで祇園祭が行われている、本吉三軒屋の氏神さんである。京都八坂神社の分霊を祀る分社です。創建は不明だが鎌倉時代以降京都から、この肥後より筑後に至る街道沿いの本吉宿に勧請したものだろう。本吉新町の八坂神社は江戸時代寛保2年(1742)に宿屋街を造り出来た神社である。本吉集落の入口に鎮座してある神社で右には恵比寿の祠も祀ってある。右端は日露戦争忠霊碑がある。本吉で始めて雉子車をを作ったのは最澄が中国の唐から連れてきた竹本王で日本名を竹本翁吉と名付け清水の地に住まわせた。彼の子供が3人出来たので、それぞれ三軒の家を作って分家させたのがこの地であり現在も三軒屋の由来の地名が残る。大和町(柳川)にも八剣神社があり祭礼日は大蛇祭りで賑わっている。南東に3軒先を左に路地を入ると境内が公園の八坂神社がある。
      
   
O恵比須さんお稲荷さん  本吉 
本吉の商売の神様、恵比須と稲荷さんの祠は八剣神社境内と集落中央の杉酒店の横にある、往時、本吉が門前町として栄えた証である。

手前・稲荷さん奥が恵比須さん

       
手前・稲荷さん奥が恵比須さん
P源徳稲荷神社(廃宮)   本吉     本社の由来は【総合編】へ(伏見稲荷大社)
伏見稲荷大社の分霊を祀る。創建は不明だが、昔は小さな祠で祀ってあつたそうだ。願い事がかなう神社として有名だった。明治末期、現在の大和町(旧山門郡)の大坪氏は目が悪くこのお稲荷さんに目の病が治るようお参りしていたら願いがかなった。その後大坪氏は北海道に渡り材木商で大成功した。事業を息子に受け継がせ、郷里に戻り昔、目の病を治してもらったご恩返しに、昭和7年に現在の社殿を建立し寄進された。その後も瀬高・柳川周辺の人達の参拝者を多く集め、梅ヶ谷方面からの山の参道からも参拝者が訪れた。車で本吉から清水寺に行く参道の中腹の右に赤いお稲荷さんの木の鳥居が目を引き、寄進した人達の名が目立つ。社殿は鳥居から歩いて15分位登った所にある。毎月1日と15日には参拝者が訪れていた。
Q若宮神社   本吉旧参道
清水寺の旧参道をはいり一の鳥居の近くにあり、川を渡った川岸の木造のお堂である。若宮さんの祭神は罔象女神(みずはのめのかみ)でここを流れる川の水を司どる神様である。江戸期から大正時代初期まで麦などの粉をつく水車小屋が建ち並んで、そこに来る農民などに水の神様と信仰されてきたのだろう。祭礼は12月13日諏訪神社の神主さんから御幣をもらい祭壇に祀り近所の方数軒で行われている。
  七社神社   本吉梅ヶ谷 本吉南端の山側
 7柱の神を祀る神社です。農耕・狩猟の神さま@御名方神(みなかたのかみ)A息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(のちの神功皇后)、B大山津美神(おおやまつみのかみ)、穀物の神さまC宇賀神、D大国主命、E菅原神、F素盞鳴命の7柱です。毎年12月1日に神主さんを呼んで行事があります。小田集落では村の氏神として祀られています。
R天満神社    草場
大場公民館の北側堤宅の右側に鎮座する菅原道真を祀った草場のお宮さんでここでも江戸時代から「天神講社」をもち天神信仰が盛んであったろう。
S香椎聖母宮(しょうもぐう) 草葉   本社の由来は【総合編】へ(香椎宮)
草葉、朝日、藤尾の三部落の産土神で神功皇后応仁天皇,武内宿弥が祭神となっている。荘園時代の本吉庄(本吉・草葉・朝日・堤・藤尾)は平安末期から鎌倉・室町時代まで香椎宮の領地であったので本社の香椎宮(福岡市)から勧請し草場の地に香椎聖母神社を創建したと考察できる。
藩政時代に移り柳川藩主・
立花宗茂の領地となる。立花宗茂は生まれ故郷(豊後国)玖珠郡筧
(かけひ)村の神主、吉弘艦理の次男高橋招運の嫡男で1568年に生まれた。同所の産土神は香椎聖母八幡宮で宗茂は、かねてから厚く信仰していた。天正16年(1588)立花宗茂は柳川拝領入り城以来、草場に社殿を造営し社領を与え保護をした。また、堤、藤ノ尾の氏神でもあった。その後廻廊楼門など氏子中によつて修理がなされている。
この宮の祭礼は、
旧11月19日(現在は11月第2日曜日)で、祭の座元から行列は太鼓、鐘で賑やかに行われていた。行列の順は、先頭が露払い、猿田彦大明神(赤、青の面を持つ)、神職、座元、御弓、薙刀、鉄砲、村人、お馬四人、鐘、小太鼓、人重部、傘鉾、鋏箱、道化(5,6人面を付ける)大太鼓(主役で飾りつけをする)、打つ人4名(シャグマ、タスキ)で総勢61名である。ドン、ドン、キャン、キャン、ドン、キャンキャン、と大太鼓にあわせ、鐘、小太鼓が一体となって、行列はお宮に向って進む。お宮に到着と同時に、騎馬武者が出てきて流鏑馬(やぶさめ)を行ないお祭は終わる。この草場行列(ドンキャンキャン)昭和45年(1970)まで行われていた。
現在は草場の産土神であり祭りの風流に使用した大太鼓は神殿に保存されている。昔の参道はもっと長く
松並木であった。太平洋戦時中に燃料用として松脂を取る為傷つけられその後全部の松が枯れて無くなっている。境内には観音菩薩を祀ってあり、お彼岸時は巡礼者がお参りに訪れる。   
    

香椎聖母宮

香椎聖母宮鳥居
 
若宮神社 香椎聖母宮外西側
 
       観音堂 香椎聖母宮外東側 
    草場村内の祠


五穀神社 草葉部落内


若宮神社 草葉部落内

弘法大師 草葉部落民家内
 

地蔵菩薩 草葉部落内
  
 屋須多神社 香椎聖母宮・東の田んぼ     屋須多・御神体
21女山日子神社(権現さん)女山
明治12年行政区域の変更によって日子神社(旧権現さん)が下長田の行政区画となったため、女山地区では神社をもたなくなった。その後、女山地区では不作が続いた為、分神を英彦山神宮より勧請して女山の南方の椎拾谷(しじゅうだに)に神社を建立し祭礼を行ったが参拝人も減少したため、明治44年10月に梅野家の所有地の女山粥餅谷(ぞやまかゆもちだに)に宮を造営した。女山の日子神社を地元では「新権現さん」と呼んでいる。
 
【御田植え祭(おんたうえさい)
(おさ)1人、早乙女8名計9名の男の子(現在は女子も参加)小学生が女装して、五穀豊穣を祈り田植えの儀式が行われる。おさは裃(かみしも)を着、御幣を持ち、早乙女は化粧して花笠をかぶり、絣の着物を着て手ずきん、ケハンをつけて田植えの動作をする。その際、御田植えのことばを唱える。当日使われる松葉(田苗にみたてたもの)は神官によりお祓いされたもので、その松葉を田んぼの隅に刺しておけば病、害虫除になると言い伝えられている。
女山部落の氏神で部落宅を1〜4組に分けお座の当番を決め定期的にお花を手向けている。山裾の鳥居から石段を登って行くが足に自信がない方は他の参拝者にお賽銭を渡し、代理参りをしてもらっている。祭礼は旧の2月15日だったが現在は長田の日子神社と同じ3月15日に行われる。鳥居から左の山道を30m入った所に女山神籠石の粥餅水門がある。
                                
22地蔵堂・えん魔堂・お釈迦堂   女山日子神社入口
長田日子神社の鳥居の手前に並んでいる。えん魔堂は8月16日の夕方から小学生がまつりを行って集落の人がお参りに来る。春と秋のお彼岸にはお遍路さんが訪れお参りされるので女山の方は接待の準備をされている。
地蔵堂 えん魔堂 お釈迦堂
23若宮神社    女山
旧街道沿いの東側にある。日本神話の猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けとして信仰されている。女山部落の用水路東の田んぼの中に鎮座する。創建由来は不明である。昔は南側を流れる小川には水が流れ子供達の水泳の遊び場であった。この宮が遊び場の方に向いていたので特に子供達の水難防止や田んぼの水の神として信仰されてきた。現在は整備され水田には電動ポンプで流され、この川は枯れている。
24弘法大師堂     女山
女山集落の南に外れの道路脇にあり、地元では「おこぼさん」と呼ばれている。春と秋のお彼岸にはお遍路さんの巡礼で賑わう。
  猿田彦大神        女山
旧街道沿いの東側にある。日本神話の猿田彦神がニニギの先導をしたということから、交通安全・方位除けとして信仰されている。
25老松神社 大塚
大宰府天満宮系の神社で菅原道真を祀る。天満宮は全国に多く分社しているが、この老松神社は福岡県に多い。瀬高町の場合南北朝時代頃は長田荘と坂田荘は大宰府安楽寺領荘園で共に大塚集落と上長田集落と上坂田集落には老松神社が鎮座している。瀬高町には道真公を祭る天満神社は19社を数えるが老松神社は大宰府安楽寺領荘園だつた3社のみである。老松神社は思うに大宰府天満宮の分社と安楽寺天満宮領内の菅原道真を祀る神社を区別し寺領側を優遇したと考察できる。神社の名称の由来は菅原道真の両親が老松社に祀られているからとの説と、九州の太宰府に左遷された道真公は都を想い『東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ』と庭の梅を懐かしむ歌を詠みました。すると 都から歌に詠まれた梅が飛来して根付きました。これが飛梅、紅梅殿です。この梅を追って来たのが追松 転じて老松と言われます。この、能の題材「老松」にもなっている飛梅伝説から老松神社の名称が生まれた説もある。

大塚・女山の産土神である。昭和16年頃まではお祭りの時は立派な千灯明で境内が飾られ近隣からのお参り客で賑っていた。境内に老松が数本あって宮地獄宮若宮の両社も祀ってある。祭礼は11月25日平成17年の台風の被害で屋根が無く雨ざらしの状態(写真)であつたが、平成18年に小規模ながら社殿が再建された。入口の楼門は他のお宮に無い立派な建物で大塚部落民の自慢である。
境内入口左にはに
蜘蛛塚があり、この塚が大塚の地名の起こりである。神功皇后が征伐した田油津姫の墓とも伝えられている。この墳の南18mばかりの田の中に小墳があった。これも大塚と呼び、もとは一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。大正2年春、田の中の小塚を崩して、その上に新道が作られた。昔は女王塚と呼んでいたが、後世になって大塚に改めたと言う。塚の上に地蔵尊を祀つてある。
   
蜘蛛塚延壽地蔵大菩薩由来
この地蔵尊は古代から祀り受継がれて来たのであるが、特に
享保17年(1732)より6年間も、毎年連続して起こった洪水・凶作・大飢餓・火災などの災害の折には度々土砂に身を埋め、あるいは火に()かれ、人々に代わって苦難を受けられたと伝えられている。台座の正面には三界萬霊、左面には大塚村中と彫ってあり(.)工事の際台座の下から、お題目(南無妙法蓮華経)と書いた小石82個が出土した事を見るにつけても(.)当時の人々が如何に深い信仰心を、この蜘蛛塚地蔵尊に寄せられていたか明らかに知ることが出来る。(村山健二資料
(.)       

旧社殿

地蔵尊

新社殿
26熊野神社   大草字山田
永正3年(1506)に領主溝口太郎藤原弐資が建てたとものであるという伝えが残っている。境内には、正保3年(1646)に建立したという東照宮があったが、明治8年11月の火災にあって今はない。御神体は永興寺にある。熊野信仰は鎌倉時代に関東の武士が下り(下り衆と称し西遷御家人)持ち込んだものである。
27豊政福稲荷大明神  大草・永興寺境内
永興寺の境内観音堂前に正一位豊政福稲荷大明神が祀られている。創建は不明であるが江戸期の寛政2年(1790)の絵図面(お寺編の叡興寺参照)には現在の位置は東照宮の鳥居があり、急な石段(一部下段が残る)を登ると立花忠茂が建てた東照宮(御神殿)があり北側に稲荷宮がある。明治になり、焼失した後に現在の場所に移動されたであろう。
        .
瀬高町誌・清水小学校創立記念誌・元瀬高町文化財専門委員故村山健治氏の著書「誰にも書けなかった邪馬台国」他資料と諏訪神社元神主、森茂芳氏の資料・現地取材・撮影により製作しました。地元関係者の功績と協力に感謝いたします。管理編集者 庄福
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