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       本吉山・清水寺(きよみずでら)の散策  福岡県みやま市瀬高町本吉


昭和6年の観光案内パンフレットの絵図


享和2年(1802)頃の清水寺の略絵図
まだ三重塔は建立されていなかった
                   清水寺散策
きじ車由来
伝説で伝教大師(最澄)が道に迷った時一羽の雌雉が現れ光明輝く合観の霊木を案内した」とある雉にちなんだ郷土玩具雉子車(きじぐるま)がある。本吉で最初に雉子車を作ったのは最澄が唐の国から連れてきた「竹本王」で日本名を竹本翁吉と名つけ清水に住まわせた。彼の子供が3人出来たので、三軒の家を作って分家させた。現在でも三軒家の地名がある。また天保時代に25代住職の隆安法印が創案して井上嘉平次が制作したのが始まりという説もある。明治時代は井上伝次が製作、明治15年には息子の末次が引き継ぐ。明治39年になると福田登三郎が背中に俵3表を乗せた雉子馬を製作している。北 原白秋の詩にも登場する瀬高のきじ車は、材料のマツやキリをナタ一本で削りながら形成した生地に絵付けを施している。 雄と雌とがあり、雄鳥は背中に鞍を乗せ、雌鳥の背中はくぼんでいる。世界玩具展で入賞歴もある民芸品である。
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 門前町本吉(清水山登山口、車は右、ハイキングコースは左旧道へ)
肥後(熊本)より筑後に至る交通の要所として昔から門前町商業町として繁栄したと思われ、清水参道の旧道には製粉用の水車小屋が七軒もありそこで働く若者や参拝客で旅館【明治頃に10軒あり)や、お茶屋、みやげ店、髪結、風呂屋(湯女)が繁盛した。鉄道の開通により本吉の歓楽街は瀬高方面に取られ大正には水車小屋も廃業に追い込まれた。昭和期にはおみやげ店が繁盛してきじ車など買い求めていた。道筋、民家の前には清水山の清水が流れていたが車の普及にともない現在ではコンクリートの蓋で覆われ当時の風情を失っている。でも山里の農家の風情は今も残って部落内を散策してはいかがでしょうか。
*車でおいでの場合は写真付近に駐車して左に一つ鳥居まで3分の散策をお奨めします。
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 旧参道(一つ鳥居)清水山遊歩道
自然と古代を偲ばせる旧の参道(遊歩道)は本吉入口の左側である。清水山にお参りするに水車小屋跡のあるこの道を歩いてもらいたい。農民が麦を中心する雑穀を食べるようになり製粉依頼者のために江戸中期頃に7つの水車小屋が設置された。今は鯉料理が美味しい「さと」の水車が昔を偲ばせている。新参道は女山梅野鉄太郎の寄進で明治後期に建設されている。
旧道をしばらく歩くと石の鳥居(一つ鳥居)があり神仏混合時代の名残りである。近年、100m手前のお土産屋の途切れる参道入口にあったものを道路拡張の為移設された。昔から鳥居の上に石を載せられたら願い事がかなうと伝えられた。だが舗装され投げる石がない。川向こう岸にはお地蔵さんが並び子供の願いごとを祈る人が訪れる。
横を流れる川に架かる石橋は大塚部落の石造の眼鏡橋が大塚部落の道路拡張でここに保存してある。鯉料理「さと」の水車の音を聞きながら歩くと川向こう岸に若宮神社のお堂がある。



 眼鏡橋大塚より移転(一つ鳥居脇)
現在の橋から北西1200mの大塚村と草場村の返済川に架かっていたが道路拡張もために移設された石橋です。文久4年(1864)の春に完成した。当時の村人は、大水のたびに橋がながされるにでりっぱな橋を架けたいとの願いから、女山(ぞやま)村の梅野六之平氏に資を請い、石材は、今の高田町田の浦にある飯盛山から、山道はきじ車(特殊運搬具)、平地では大八車によってはこばれた。夫役は村一帯から集められた。
大正14年、眼鏡橋のすぐ上にコンクリートの橋ができ、この橋が不要になり郡役所から取りこわしを命じられたが、お上から作ってもらつた橋でなく、村民全員で作った橋だから絶対取りこわすことはできないと村民一丸となり守りとおした逸話がある。

*車の方はここで戻り新道を車で案内板のある途中の駐車場まで登る。
 本坊庭園まで川沿いのハイキングコースで徒歩10分。
 清水寺本坊(新、旧参道の交わる左30m先)
川のせせらぎをききながら時には険しい狭い参道を10分ほど歩くと新道(車道)と並行する先の川の橋を左に渡るとボタン園と石段の先に本坊庭園(文部省指定庭園)がある。郷土の詩人北原白秋の「父恋し、母恋してふ、子のきじは、赤と青にも染められにけり」の句碑が前庭にある。
東南北に山を囲らし心字の池を中心とする庭石の配置、植込み、池にそそぐ暖、急の滝など、自然と人工の美が溶け合い、春夏秋冬いつ訪れても飽きない名園である。特に正面の愛宕山からのぼる中秋の名月はすばらしく、その月が心字池の写るように工夫された借景式の泉水庭である。新緑と紅葉の頃はことのほか美しい。本坊前には大きな銀杏樹があり、紅葉時期には黄色のジュウタンで敷きつめられる。傍に北原白秋自筆による碑が立っている。「ちち恋し 母恋してふ 子のきじは 赤と青とも そめられにけり」国指定名勝
*新道から車の場合は途中案内看板のある駐車場(無料)から歩いて左下の旧道に降り、流れる渓流を少し登り左側の橋を渡り20m位の処。
 魔羅(まら)観音(本坊前階段途中左側)
本坊庭園入口の左にある魔羅観音(まらかんのん)は別名「子授観音」と言い五穀豊穰、子孫繁栄、家庭円満、商売繁盛、無病息災を祈願すればご利益があるという。観音像は「ねむ」の木で作られた男性根を女性器を形作った台座に安置されている。魔羅観音とは、我々の内外にいる魔物を羅殺し守護してくださる観音像のことで、地方では一般に道祖神、猿田彦神、幸神、妻神、寒神、などと言われているが瀬高地方では「さやん神」とも言われている。
*本坊庭園を出てふたたび参道に出ると旧道と新道が交わる。この先の左手に千体仏堂がある。(徒歩5分車1分)
 称名庵(本坊より先で参道左側)

柳川藩主田中吉政の家来、林五郎左衛門の娘、(みさお)は婿養子の婚約者幾之助宮川右内に船小屋で鉄砲で殺されのを知り敵討ちを決断16才の時である。家を出て10年目元和7年(1621)四国の徳島で宮川右内を探しやっと亡き夫の仇を取った。仇を取ったのち柳川に帰り信仰のあった観音堂のある清水の中腹に称名庵を作り住みつき両者の霊を慰めるために千体仏を刻んだ。その仏像が今でも昔をしのばせている。
*さらに1分歩くと川をはさんで五百羅漢が見えてくる。
 五百羅漢(仁王門の先)
釈迦の弟子500人の「自覚」への道を志す修行僧たちの像、それが五百羅漢である。文化文政(1804〜)の頃から大正年間にかけて奉納。いつの頃からか、心ない者により首がことごとく落とされ「首なし地蔵」と呼ばれていたが、最近になって誰かの手で再び首がつけられ、新しい羅漢の復活となっている。
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 仁王門(千体仏堂先)
延享3年(1746)、藩主藩民の寄進によって建立された。右の仁王像は口を大きく開け「阿」を表しすべてのものの発生、根源を意味し、左の像は口を結んで「吽(いん)」を表しすべてのものの帰着を意味する。寺院浄域の入口にあり仏法を守護する役目を持つ「金剛力士」の像を安置した門で、仁王像の高さは、約二、四米ある。
仁王像は大力を授けるということから身体強健を祈って大きな草鞋を奉納し、又その草履に触れると脚が強くなるといわれている。
*車の場合はこの先の鳥居の手前の駐車場を利用でき、石段をのぼり本堂や三重塔など散策できる。
 石段を登らない場合は仁王門を右急斜面の道路を登り食堂茶屋傍の駐車場(無料)に停め案内板のある左側の下り坂を歩くとMLKJGHIと観光できる。
 山門(三門) (本堂手前石段途中)
鳥居の先には本堂に続く石段(235段)を登る途中山門をくぐりさらに音羽の滝の音が聞こえる石段をさらに登れば本堂と阿弥陀堂やなで仏さんにたどり着く

この山門は延享2年(1744)年柳川6代藩主立花貞則が願主となり京都の大工高田蕃蒸(ばんしょう)に命じて建立されたものである。山門は三門というのが本当で、木造入母屋二層、階上階下とも36.3u、高さ10.8mである。当時の建築技術の粋を集めて作られ、階上の内部は見事な作りで、文殊菩薩釈迦如来四天王などが祀られている。建築当初は傾いていたが、木材の乾燥とともに垂直になったと伝えられている。造営当時は桧皮(ひのきかわ)葺きであったものが現在では銅板に葺き替えられている。昭和36年県指定重要文化財

 清水寺本堂
伝説によると奈良時代の延暦23年(804)7月垣武天皇の命により38才の最澄は遣唐使として唐の台州竜興寺で天台宗を学んだ。最澄は帰朝の折千手観音像を刻まれ、大同元年(806)本吉山清水寺(本吉普門院清水寺)を創建したと伝えられている。天台宗のお寺で千手観音が安置されている。古来より、安産、子授け、縁結びの祈りが絶えない。「よがんのん、あさがんのん」は本尊開帳の大祭である。8月9日はら10日の朝にかけて大護摩祈祷が行われ、この日にお参詣ですると四万六千日お参りした功徳があるといわれ、多くの参拝者が訪れる。左側には阿弥陀堂の建物が鎮座してある。
   
   阿弥陀堂              弁財天          延命地蔵

 賓頭盧(びんずる)さん(愛称なで仏さん)(本堂脇)
「賓頭盧尊者」は、釈迦(しゃか)の弟子で、十六羅漢(らかん)の筆頭です。お釈迦様が在世のころ、特別の神通力の持ち主であった賓頭盧尊者が、病気の人や体の不自由な人を助けたり、欲の深い人や意地悪な人をこらしめたりしていました。しかし、神通力をもてあそんだとお釈迦様がお怒りになって、「お前は究極の悟りを得ず、この世にとどまって仏法を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救いなさい」と命令された。尊者はお釈迦様の言葉を守り、今に至っても人々を救う菩薩です。「びんずるさん」とか、「なでぼとけ(撫で仏)様」とも呼ばれ、痛いところを撫でると癒してくだると信仰されました。
高田町海津生まれの大城七右衛門は15才で瀬高の大竹の二尊寺に入門し修行します。つらい托鉢行脚(たくはつあんぎゃ)の旅から故郷の帰り、仏が苦しむ人々を救い、悟りの境地に導いてくれるようとの発願を立て、上庄の鋳物師、平井惣兵衛(菅原忠俊)も賛成して、賓頭盧尊者を作りあげ寛政元年(1789)5月落成式を行う。その後信者の寄進によりお堂を建立した。念願を果たした七右衛門はその後も、二尊寺で修行を積み1795年4月、33才でこの世を去った。台座は天保7年(1836)2月に清水三重塔が完成した時に制作されている。
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.社務所と石段の間の登り坂を歩くと40m程に三重塔がある。
 清水三重塔 (本堂先50m)
三重の塔の前身九輪塔1779年の創建で、単層の塔上に青銅の九輪を備えたもので、瀬高地方出身の長崎丸山の遊女の寄進で建てられたと伝えられる。
三重塔は藩内各地の奉仕により棟梁の宗吉兵衛により大阪四天王寺五重塔を手本文政5年(1822)に着工した。棟梁の死亡したあと弟子達が受け継ぎ、当初計画の五重塔を三重塔に変更して天保7年(1836)約14年間の歳月をかけて完成した。屋根の瓦釘(長さ60cm位)上庄の代々刀師(昭和まで)今村茂生宅の先祖、今村源衛門の作である。清水寺には今村家で打った刀も奉納されている。塔の入仏式は天保15年11月23日藩内の僧侶全員を集めて、盛大に催され、250両の費用を使っている。美しい自然の中に、たたずむ朱塗りの塔は清水寺のシンボルとして広く知られている。昭和32年県重要文化財。この三重塔も風雨とドウドシに食い荒らされ、倒壊寸前の所、町民と県下有志の浄財により昭和41年11月復元再建された。古代建築の九州最古随一のものである。三重塔に安置されている釈迦如来座像は昭和61年5月、三潴郡大木町の加島香清師により寄進され、その原木は樹齢500年を経た楠の銘木を上長田の横尾常雄氏が寄贈されたものである。

*さらに少し登ると右手に乳母観音がある。

清水公園の徳永食堂より三重の塔を望む(天保7年建立の旧三重の塔)
徳永食堂とは旧参道入口付近に自宅があり、主人は瀬高町の老人会の木工教室の教師をしていた
*車だとさらに登り大観峠まで4分。さらに永興寺に立ち寄ったり、女山史跡森林公園(女山神籠石)やさらに小田の壇一雄ゆかりの寺善光寺を観光できます。
 地主権現(じしゅごんげん)(三重の塔先30m)
清水寺の山伏達が修行する清水山周辺を守護する神様である。寛政2年(1790年)の古図(下図)には本堂から古僧都(こそうず)道を登った所にある。明治以降の日清、日露戦争、第2次世界大戦までは家族の無事帰還を願い多くの参拝者が訪れ本堂よりも参拝者が多かったそうです。また昭和10年代の戦時中には「戦の神様」として青年団の世話で毎日、夕食後に子供から大人まで清水校区の各部落から「ワッショイ・ワッショイ」と地主権現まで行進が続き、神主さんに戦勝の祈祷をあげてもらいお祈りしていた。その様相は壮観なものであったという。しかし昭和20年の敗戦後はまったく訪れる人もなく急に寂れたそうです。
.*この先の清水公園の峠の茶屋竹屋で南筑後平野と有明海の先に霞む雲仙岳を眺めながら休憩をおすすめ。公園の上には内部が石積みのドーム型の清水公園古墳がある。
   地元では乳観音さんと呼ばれ、信仰されてきたお堂です。
お乳が出るようになった祈願成就のお礼に、 絵馬が奉納されている( )
 
寛政2年(1790年)の清水寺の境内古図(活字は記載字の補助文字です)

享和2年(1802)頃の清水寺の略絵図
まだ三重塔は建立されていなかった

昭和30年頃の清水公園の出店

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