伊能忠敬は寛政12年(1800)から17年間にわたる全国測量を終え「伊能図」を製作しました。忠敬に従う測量団一行10人は先手、後手の5人づつ、2組に手分けして、江戸後期の文化9年(1812)2月と、同年10月の2回にわたって筑後国周辺の主要街道、寺社の調査を行なっている伊能忠敬の2月7・8日の日誌には府中(久留米)~羽犬塚(宿泊)~尾島(舟小屋)~本郷~上庄(お茶屋宿泊)~下庄新町の○高印(基点)より測量、東へ市場(現・元町)~大竹~前田、~築廻(現、東町)~吉井~北広田(現・松田)~在力(現・清水)~野町~原町~中原~三峰~北関と測量している。2001年3月に発見されたアメリカ議会図書館が所蔵する、伊能大図模写本で道筋を検証しながら肥後(熊本)と筑後の国境湯谷から山川~瀬高~羽犬塚~久留米~山家の薩摩街道の道筋を上りコースで検証しながら、ここでは柳川藩領内を紹介します。 |

伊能忠敬 |
  
(色彩線や彩色文字は後書き表示です)
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四箇村湯谷(しかむらゆや) 柳川領境界石 大牟田市大字四ヶ字湯谷 |
南関町大字関外目と大牟田市大字四箇(筑後柳川藩)の湯谷小字石原の県境①に新旧二本の境界石標が残っています。ここの新旧2本の境界石は、江戸時代に筑後領と肥後領の国境を示すために建てられたもので、古い方②は、一辺36cmの四角柱の花崗岩で、江戸初期に建てられたと思われ、それが折れたため、幕末の頃に新しく道路反対側に建て替えられたといわれる。古い方は3つに折れて中段と下段だけが残り3mで文字は判明しにくいが「従是西北筑後国立花飛弾守領内柳河札辻ヨリ四里二十町余」と推定される。新しい方③は一辺35cm、高さ3.7mの良質砂岩の四角柱材で、表面には肉太の文字で「従是西北筑後国柳河領従柳河札辻四里二十町余」と刻まれている。肥後側にも現在は無いが、木製の標柱があり「これより南 細川越中守領分 熊本札の辻より十一里八丁二十間」と書かれていたそうです。近頃、熊本県側に新しい豊前街道の標石④が建てられている。境川の下流と国道に達する場所に筑後と肥後の国境の「境木」が再現されて立っています。 |

①湯谷の柳河藩境界石碑 |

②古い境界石 |

③新しい境界石 |

④豊前街道標石
(薩摩街道) |
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湯谷⑤は大牟田市の東端に位置し陸の孤島ともいわれる山間の部落で、太古温泉が湧き出していた伝説があります。参勤交代の道、薩摩街道は集落の中心を通っております。部落の中心部には産土神である天満宮があり宝暦12年(1762)社殿再建の棟札が保存されていており、古くから建立された神社です。明行寺⑥は元和6年(1620)創建された風格あるお寺で街道から長い参道が延び、高い石段の上には文政4年(1821)に建立された楼門⑦がある。楼門内の階段を上ると天女が刻まれた梵鐘⑧が吊られています。明行寺の入口の向えには薩摩街道の旅人が泊まる藁屋根2階建の旅籠(福島宅)が昭和30年代まで残っていました。
長岡藩・河井継之助が残した、安政6年(1859)10月の道中日記には南関から「山を下りて休みければ、石炭多く積み置けり。「何れより」と聞くに、「三池より出づ」と。一度焼いて固めしもあり(コークスの事でしょう)、これは煙なき由。脇に小なるあり、これを焼固めし者の由。」とあり当時、湯谷周辺でも三池炭鉱で採掘された石炭やコークスが運ばれ、燃料として使用されている。
湯谷の北端の背戸(瀬戸)には、南北朝時代の頃から肥後領の関所が設けられて「松風の関」とか「大津山の関」といわれていた伝承がある。戦国時代の元亀2年(1571)肥後大津山資秋の娘、恵牟が、三池鎮実と結婚した時に化粧田(持参金)として湯谷、中尾、中原、川床の四ヵ村を持たせました。それ以来四箇村は関所ともに筑後領となりました。そこで肥後側は関所の役を勤める御番所を南関町上町に設けました。しかし、秀吉が九州平定の後の領地替のたびに幾度か返還の話しがありましたが、筑後領から変ることはありませんでした。
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明治27年(1894)の日清戦争前に佐世保国道(現国道443号)ができて旧薩摩街道(豊前街道)は利用されなくなり忘れられ、昭和47年には九州自動車道が地区の東側を通り、様相が変りました。 |
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コラム【松井章之の参府日記】 の紹介(湯谷~吉井)
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安政3年(1856)13代将軍に徳川家定が就任したとき、肥後藩細川家の筆頭家老で八代城(熊本県八代市)を預かる松井章之は3月11日参府のため八代を旅立ち、道中の出来事を日記に残している。3月15日の参府日記によれば、山鹿を出発した後「南関に入り、木下八太郎館宅にて昼休み。差上げ物は素麺・菓子である。町の出口に南関番所あり、御番人士席、高橋一郎右衛門である。ここを通過てほどなく外目の茶屋あり、これより楢行を過ぎてお国境の杭あり、熊本より12里8丁なり。これより筑後の国に入りゆや(湯谷)という所を通り、山間の左右の崖の上に北の関戦争の古墳あり、ここを過ぎて北の関の民家を通り、見詰、又原、貝塚、待テ子などの小字があり。原ノ町に着き柳川藩の茶屋にて小休止。ここに至るまでは、ざつとした所であったが、ここには町並がある。茶屋番は松尾伊兵。ここを立ち、また野町という町並がある。北の関よりこの所まで長き杉の馬場である。これより志水・広田などの出小屋を過ぎ吉井の町並を通る。 |
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北の関 松風の関 みやま市山川町北関または南関町関外目 |
古代からの筑後の国と肥後の国を結ぶ細い道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も嶮しい天然の要害の地でありました。
七世妃に作られた古代官通に関所を置いたものであろう。筑後国と肥後国の国境にある松風ノ関①は、関所越えのところが最も難所で坂といって、重荷を負って通行は出来なかった。寿永2年(1183)。源氏と平家の争乱の時代は既に関所として肥後の菊池氏によって守られていた。真弓公が松風の関に布陣したのは正平14年(1359)頃ではないかと思われ、当時の峻険な地形がよみがえります。その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしたが、江戸初期に田中吉政が、筑後国32・5万石の領主として柳河域に入ると慶長6年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。松尾龍城著より しかしながらその関がおかれた正確な場所は、いくつかの説があって現在もはっきりしていません。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や北の関と南の関の二つがおかれていたという説があります。
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①松風の関 |

脇道には地蔵堂がある |

ここから国道に交わる |
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北の関(高速道路南側)四里石 |
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筑後藩主田中忠政は父の意志をついで、全国にならって慶長17年(1612)柳河域下札の辻を起点に一里塚を詔けました。山川町には、追分石(道標・野町赤坂)三里石(野町上町)四里石(北関)が設けられました。国境からほどなく四里石(柳川札辻より4里)が高速道路建設時になくなっていた為、現在の高速道路に交差する国道443号南側に復元されている。 |

北の関(高速道路南側)四里石 |
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コラム 【太閤道のはなし】
山川町での街道筋は合戦ヶ淵の血波川(現・飯江川)という関内の川縁を通行していた。距離も遠くなるし、通行は多くなって、坂は少し切り下げて通りやすくして瀬戸坂と言っていたが、土地の有力者が道幅拡張の必要を考えているが、なかなかの難事である。相当の人工と日数と費用を要するからである。然るにたまたま、豊臣秀吉の竜造寺隆信を滅して、いよいよ島津征伐をすると云うことになった。
南関、大津山城主大津山家稜が、秀吉の本営太宰府に出向して、いよいよ先頭を務むる事と決まった。自分の領分であるから大津山家稜は早速道路の問題が起こり、この時とばかり大工事がはじまって、いよいよ太閤道と称するのが出来上がったのである。
野町も原町も、東うらに里道を改修して、点々適宜道が新たに出来たのであるが、原町の東うらに今でも太閤道といって部分的に残っているのである。その中にて、最も難工事と云うのは松風の関大巌壁で、峠の道幅約七尺幅を切り通したのである。
秀吉のカゴが易々と通るようにしたことが今の関所越である。天正15年のことである。こんなわけで、松風ノ関は大津山家稜の功績により大津山関とも言うようになったのである。 郷土史研究家松尾龍城著より |

豊臣秀吉 |
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原町 山川町原町 |
原町宿場には、旅人の便宜をはかるために御茶屋と宿駅(馬継斬・馬16頭が置かれた)が置かれていた。参勤交代の様子を「殿様行列の先頭の一人、行列の指揮者が下の町入口にて「下に下にといふ声」を聞けば、原町の人家は、皆一斉に表戸や窓を閉め切りて、路上にあるものは土下座する。人に見えないようにして行列を拝むのである。五十間ばかりの間隔をおいて、行列は進んでくる。むろん前日馬上にて原町お茶屋に来たり、翌日の行列の次第一切を打ち合わせて通行準備を整えて待つから心配はない。お茶屋にて行列は止まり、一時くらい休憩後出発する。」とある。
下に南関茶屋あり、上に瀬高茶屋上庄にあり。原町お茶屋跡は元郵便局跡にして徳川時代参勤交代の道中大名の休憩所であった。原町馬役場は原町一九五番地にありて、牧馬養馬場に関する事業事務を司る役所であった。原町修道館というは、この役所を改修して文武修研所としたところ・原町小町女郎屋跡は、お茶屋付近にあり、宿場の宿屋を営業となせしが、屋号を桜屋と称していた。(松尾龍城著参照)
原町宿場にある西楽寺は寛永14年(1637)の建立で原町宿を偲ばせる唯一のもので、江戸後期の文化9年(1812)2月に街道の測量の為に伊能忠敬一行が宿泊した寺です。同じく甲山寺は元禄7年(1694)、瀬高町にある清水寺の鍋島隆尚法印によって建立されたお寺である。現在は寺院の伽藍は構えていないが、本尊の千手観音は人々の信仰を集めている。
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コラム 【長岡藩・河井継之助の日記】の原町での紹介
越後長岡藩(現・新潟市)の河井継之助(33歳)は備中松山藩(現・岡山県高梁市)の山田方谷に入門遊学中で、遣いとして肥後の木下真太郎と会い、役割を果たし、松山藩への帰途の日記には安政6年(1859)10月23日 晴 原町泊の予定で、朝早く植木を立つ。山鹿を通る。ここには湯治場あり。甚だきたなし。我が国(越後)の「きらの湯」、かねて母上様よりお話に聞く所とよく似たり。それより南関とて、これは肥後の境なり。番所あり。その裏を通れば道も近く、難しくもなく、皆これを通ると言い聞かせける故、予も然りたり。熊本よりの道、小高き山にて平なるところ多し。南関より少し山坂あり。このあたりの事、しかと覚えず。何となく古風の存せるは、我が見るところにては第一か。これより山を下りて休みければ、石炭多く積み置けり。「何れより」と聞くに、「三池より出づ」と。一度焼いて固めしもあり(コークスの事でしょう)、これは煙なき由。脇に小なるあり、これを焼固めし者の由。この日、柳川(立花家、十万九千六百石の城下町)領、はる野町に宿す。日本図に「原町」「野町」とあるはこれか。はる野町は平地なり。これよりは山なし。
*地元では原町は昔から、「ばる」・「はる」の呼びかたがあり、古文書にも原之町とあり当時は、近辺を「はるのまち」の呼びであろうか。本郷(柳川藩・久留米藩境)での日記も最終章に紹介しています。 |
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原町宿場 |

甲山寺 |
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④野町 尾野 |
戦国時代の終りの天正15年(1587)4月豊臣秀吉の、薩摩の島津征伐のために軍を進めた街道は羽犬塚から尾島~長田宿(筑後市)を通り徒歩により矢部川を渡り、長田小田村~本吉宿~河原内と清水山麓の道筋を通り野町にたどり着いている。秀吉は矢部川の増水のため渡河することができず、長田宿(筑後市)に数日間逗留を余儀なくされたと云われている。
寛永12年(1635)三代将軍家光の時に武家諸法度が改定され参勤交代が確立され、野町から清水山麓の本吉の門前町の宿場を通り長田の渡しに出て尾島~羽犬塚宿に至る道が参勤交代の街道として利用されていたが、60年後の参勤交代の道筋変更まで最も利用された街道で、古くは別名、原町往還とも呼ばれた。慶長6年(1601)徳川幕府は伝馬宿駅制度を設置、大名が参勤交代の際は必ず本陣又は脇本陣に宿泊することになっていた為に元禄9年(1696)柳川四代藩主に立花鑑仁が就任した時に薩摩街道は野町~清水~上小川~下庄~上庄(本陣)~本郷~尾島(久留米藩領)~羽犬塚宿の西寄りのコースに変更された。野町には休息の為の御茶屋が置かれていた。野町上町(中村病院脇)には三里石が設けられていました。本吉・小田方面の昔の薩摩街道の交差点には追分碑があり「柳河道」(瀬高~柳川方面)と彫り込まれている。(現在道路拡張工事の為に保管中)
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野町 |
本吉方面の旧参勤交代の道(野町赤坂) |
野町上町の三里石 |
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面ノ坂 山川町清水 |
野町から街道を北西に下る面ノ坂は両側は竹林や小高い山である。面ノ坂は古墳や遺跡の多い場所で古代文化の栄えた場所です。江戸初期の田中藩主の時に、肥後の赤腹村の立花宗茂の正室・闇千代姫に米や金品を隠れて仕送った罪で、在力村の首切り坂との合流付近で、松延村の大庄屋樺島式部と嫡男彦左衛門と本郷の庄屋の嫡男壇七郎兵衛を磔の刑に処した所である。古老の話しでは参勤交代時に、病死した武人がこの近くに埋葬されているとの事で、無縁墓地も多くて寂しい所である。この先は南広田村で現在の山川町西清水である。明治9年の合併で在力村と南広田の両村が清水村と名を変えた。 |
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北広田村・松延村(まつのぶむら) |
南広田村(西清水)の北の村口から大根川の土居沿いに西に向かい県道手前で北に曲がるが、古老によると、この地帯の昔は湿地帯で中程に池があり側の道には旅人相手の「おつれ茶屋」があったという。旅人は、ここで足を洗い、茶屋の団子を食べたり、お茶を飲んで休息をとっていた。しかし明治以降に県道が西側に大根川から満福寺前まで街道に平行して建設され不要となり、農業改良事業等北のポンプ小屋までで田んぼ化して消滅している。
松延村は
天正12年(1546)に肥前の龍造寺の攻撃に備えて、樺島式部少輔により築城された松延城の城下町で江戸初期の「一国一城の令」で廃城になるが、1701年(元禄14)参勤交代の道が山川方面から瀬高の上庄廻りと変更となり、参勤交代の通る街道沿いとなり栄えた。 |

大根川土居の街道 |

二の丸橋 |
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⑤吉井町(よしいまち) 瀬高町小川・吉井 |
吉井の町は松延城から満福寺まで商家や蝋(ロウ)・さらし・酒などの製造場が建ち並ぶ街道筋で賑わいみせた。大庄屋の樺島家の屋敷があった所でもある。薩摩街道は満福寺正面から右脇(現・民家の裏)を北北西に築廻(つくもじ)に向っている。
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明治になり薩摩街道の北東側(赤いえんぴつ線)に満腹寺前を通り山川町方面に県道が建設された。
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⑥築廻(つくもじ) 瀬高町小川・上小川
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薩摩街道は吉井の満福寺から443号線を左に反れ民家の裏を通り、吉井宮(正八幡宮)の参道の石塔前を通り築廻の公民館の前に向っていたが道は現存していない。築廻は本吉の清水寺方面の分伎点でもある。伊能日誌に、上小川村築廻の追分碑とあるのは現在の東町郵便局より南に入った旧道路上に石燈篭があった付近をさすものと思われる。この石灯篭は現在、清水山千体仏横に移され保存されている。1812年(文化9)10月12日柳瀬(八女市)~北田村(柳川領)~山下町~山中村~小田村~大塚村~草場村~本吉村、吉印まで一里三十一町九間。そこから清水寺本堂までの参道を測量してもどり、また吉印よりはじめ、朝日村~藤尾村、それより薩州街道上小川村追分碑につなぐとある。ここからの薩摩街道は北側の国道443号と並行した旧道で上小川を通り大竹村に入ります。 |

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大竹村 下庄・矢部川 |
旧大竹村前田のJRの踏切の手前(東)に平成6年に再建された二里石があります。柳川城の辻門から2里(約8km)の地点です。踏切(現在廃止)を渡り川沿いに歩くと右(北方角)に二尊寺の参道が延びていた。現在は明治に国道の新道ができた為に解りにくいがきじ車かめやの脇の道である。古刹、大竹山 二尊寺は大竹が茂っている土地に創建されたいう。大竹山二尊寺の繁栄により大竹村の起名となる。中世では、多くの末寺を持ち、当地方の大部分の寺を支配していたと思われる。戦国時代には数度の兵火にあっている。明治9年下庄町村と合併して下庄町村となりました。前田の踏切からまっすぐに延びた薩摩街道は元町入口の恵比須祠のある橋を渡ると下庄側の瀬高宿です。 |
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【コラム 瀬高宿(下庄側) 飛岡・市場・新町・田代・中町】
交通の要地にあって、宿泊のための設備や荷物を運ぶ為の人足や馬を集めておいたところを宿駅と呼んでいた。鎌倉時代以降発達し、江戸時代には宿場町となる。慶長6年(1601)徳川幕府は伝馬宿駅制度を設置、人馬割付や公用飛脚のために問屋場が置かれ、大名が参勤交代の際は必ず本陣又は脇本陣に宿泊することになっていた。当然一般旅行者のための旅籠屋が多くあり遊女や飯盛女など、旅人の袖を引く女性もいて宿場は繁盛していた。したがってこれらの女性も多く「瀬高キツネに三池タヌキ、柳川ホトケはおがまれん」といわれたのも案外こうゆうところに起因があるのではないだろうか。柳川藩の時代の宿場は、柳川、上庄、下庄、原町、渡瀬、三池、山下(八女郡)などがあった。上庄、下庄両町を瀬高宿といった。(河野覚氏の瀬高宿より) |
市場(いちば) 下庄元町 |
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元町入口の恵比須祠のある橋を渡った付近を飛岡出口と称していました。旧柳川藩志には先の下庄渡上り木戸(木戸門)まで471間(848m)とありこの道沿いが宿場街です。下庄町村の旅籠は、現在の元町(旧、市場)にあったとされている。商業の繁栄した所で東市場と中市場(片平町とも言った)と西市場に分かれていた。職人・商人の宿場町があったと言われています。大正時代まで商業が盛んで昭和初期まで市場と呼んでいた。油屋(菜種)、紺屋、湯葉、豆腐、蒟蒻製造などの商家が立並び賑やかであったであろう。 |
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新町村 下庄新町 |
酒蔵が多くを占め、町屋のロウ製造、米屋、石灰(肥料)屋、塩物問屋が点在していた想定されている。道路に面した昔の商家はいずれも間口が狭く取られているのが特徴です。これは、当時の家屋に対する地租が間口の広さで決められたため、間口を狭く取って奥に長い敷地となっています。
新町の西端の現・菊久司の酒屋から南に三池街道が南に向って三池(大牟田)方面に延びる分伎点があり、伊能忠敬の三池街道測量の〇高の基点でもある。
詳しくは【三池街道をゆく】を御覧下さい。
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田代 下庄田代 |
この先の田代には駅伝所があり馬継所、人馬割付や公用飛脚の業務を行う「問屋」が設置され、馬継所には定馬として27疋(ひき)が配備されていた。
文政12年(1829)に大阪の商人が記した日記によると、大阪や江戸に向う上りの街道客には下庄の宿が利用され島原や天草・鹿児島の役人達が参勤交代などで頻繁に利用している。宿は武士と平民は別の宿に宿泊し、大名や高級武士は田代の光源寺で旅姿から正装の裃(かみしも)に着替えて矢部川を渡り上庄の公営屋敷の御茶屋に宿泊している。
元治元年(1864)の下庄町別当橋本仁一郎、馬散使直次の両名から小川組大庄屋今村嘉十郎を通じて郡役所に提出した「瀬高下庄駅人足継立書上帳」(柳川古文書館蔵)がある。これは、下庄駅に宿泊、通過した武士達の荷物の運搬に携わった人夫の賃銭明細書なるものには、特に薩摩の人々の名前が多くみられるのも、薩摩の人が上京の途中でいかに瀬高宿を多く利用していたかが解る。
明治9年には宿駅廃止され、田代の駅伝所には巡査屯所(瀬高警察署の前身)が開設されている。(河野覚氏の資料参照)
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【松井章之の参府日記】 の紹介(吉井~瀬高宿)
吉井の町並を通り、いよいよ瀬高の町に至る。中程に瀬高川の仮橋あり、川の左右に川方役人が麻の上下を着用し平伏(額が地面や床につくほど体を平たくする)いたし居候。町中に人馬方役人で帯刀の者も平伏いたし居り、通り筋は形儀砂を敷き詰め、ひときわ念の入れようである。夕七ッ半前(午後5時前)に柳川藩の御茶屋(上庄)に着き、直ちに宿泊する。茶屋番は中村直次という。」 と書かれており、翌朝六時(6時)に出発している。(現代風に解読)
この後、松井章之は長崎街道の山家(筑前)・飯塚(筑前)・小倉(豊前)に宿泊し、乗船して下関に行き宿泊している。さらに乗船し上之関(周防)と宮島(安芸)に停泊し二日市(安芸)からは陸路の山陽道を歩き、さらに東海道を通り4月25日に江戸に到着、実に43日間の道のりであった。6月1日には江戸城で将軍に「御目見」(おめみえ)している。 |
⑦瀬高の渡し 瀬高町下庄中町 瀬高の渡し船乗り場口 |

矢部川(瀬高川) |
中町の星隈酒屋の桝形(曲角)を右(北)に曲り、街道は松屋旅館(下写真)脇の木戸門をくぐり瀬高の渡しの坂を舟乗り場に降りていた。この付近を「ブネ」や「ワタリバタ」と呼ばれていた。
対岸の住吉の浜にある上庄御制場(高札場)に渡ったと思考される。旧柳川藩志には「上庄御制場(札所)ヨリ下庄渡上り木戸口マデ百三拾間(234m)。下庄渡上り木戸口ヨリ芳司橋(現・文広)迄百三拾弐間(238m)」とある。下庄側の瀬高宿から上庄への瀬高の渡しは街道と結ぶ要所であった。江戸末期頃には船出渡り、藩の船で渡守(船頭)は24石を貰っていたから船賃を払う必要はなかったとある。文政・天保(1818~1843年)の頃、粗末な橋が出来て渡り賃を取ったので「賃取橋」または「ガタガタ橋」と呼ばれた。洪水の時は、梁は橋脚から外れて岸に流され、減水すると元に返す橋であった。大名など高級武士の為には岸まで舟を並べ、つなぎ合わせた舟橋を架けていた。 |

橋ぎわから斜めに道が川岸向いて下っているのが船着場への坂道(右の建物は明治初期の松屋)
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明治6年の測量地図が発見され現在の瀬高橋に沿って川を渡り、菊美人酒屋の前の通りから出口まで直線に通っています |
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⑧瀬高宿(上庄側) 瀬高町上庄 |
瀬高の渡しを渡った住吉の浜には柳川藩の法令の公示に用いた高札(制札場)があり今町と称し、家屋が160軒あった(旧柳川藩志)。現在は河川拡張で川や堤防となり消滅している。祇園宮前を通り本町の福島屋には馬継場があった。 馬は上庄に29疋、下庄27疋、柳川53疋、小保10疋、原町16疋、三池26疋、山下9疋、藩内駅馬は169疋があった。これら大名の通過のたびに馬の割当や人夫に動員される農民にとっては相当苦役だったことが本郷組文書に見える。 身分の低い町人たちは西側の町人通りを利用し宿泊したと思える。西念寺前には昭和まで木賃宿の建物が残っていたという。この通りには刀鍛冶や筑後一帯の鋳物商を仕切った鋳物職人「平井家」があり柳河藩お抱えの職人の町でもある。
出口 瀬高町上庄出口 |
薩摩街道と柳川街道に分かれる上庄出口の三叉路に追分碑が立てられていた。(近藤氏宅中庭に保存)東面に「是(これ)より北 宿町(羽犬塚)通り」南面に「是(これ)より西、柳川通り」と刻まれている。(高さ186cm幅30×30cm)
文化9年(1812)伊能忠敬の測量日記に、「筑後山門郡瀬高町上庄村字出口、追分碑より初・・・・」とある。薩摩街道は祇園さん通りから出口の三叉路を北方向に曲がり瀬高御茶屋の表御門のある「宿町通り」を通る。 |
宿町通りには本陣の「御茶屋」があり、大名及び幕府の旗本、日田の代官等の高級武士の宿泊、休憩所として用いられた。大名の宿泊、通行は前もって南ノ関、又は原町から連絡があり、それによって町役人、別当、庄屋、問屋等は宿泊人数の割当、人馬の差配に追われ、町の警備を厳重にし、特に火の用心には町中で気を配った。当日になると、町役人、別当、庄屋は上下姿に威儀を正し渡し場まで出迎え、殿様から別当、庄屋にお目見えが許され、何がしかの御祝儀が下された後、本陣(御茶屋)まで案内する。当日の宿の使用人は食事、宿泊の世話で徹夜で、目の廻る忙しさであった。明和2年(1765)薩摩藩の大名行列の供揃人数は507人、寛政11年(1799)の人吉藩では202人とある。島原藩は多比良から有明海を渡り長洲~三池(三池街道)~瀬高~宿町(羽犬塚)~府中(久留米)-秋月街道を通過し小倉を通っていることが古文書に見える。瀬高宿は薩摩の島津藩や人吉の相良、肥後の細川などの参勤交代の宿に利用されている。
文化9年(1812)には伊能忠敬の一行が測量の為に2月と10月の2回宿泊した。本陣竹次郎、別宿喜三右衛門、平嶋屋、鉄屋に宿泊。
文政11年(1828)信州飯田郡新野村の広吉さんは四国巡礼のため手押車で諸国を巡るうち、熊本まで足を伸ばす為上庄までたどり着いたが病気になり、薬や食物,衣類を与え介抱してもらい、快復後、上庄庄屋、別当の世話で往来手形の手続きをしてもらい帰国しているが無事出来たかは分からない。昔の人の旅は命懸けであり、旅の途中で亡くなった記録は多い。
文政12年(1829)に大阪の商人が記した日記によると、熊本や鹿児島に向う下りの街道客は瀬高宿の上庄側に、上りの街道客は下庄側の宿を利用するのが通例であった。だが藩主や高級武士は上庄の「お茶屋」に宿泊している。また荷物を馬や人で運んでもらう場合、街道ごとに運賃がことなっていた。
天保4年(1833)1月に江戸高輪邸大奥寝所で89歳で死去した島津氏第25代当主、薩摩の第8代藩主、島津重豪(しげひで)の遺骨が薩摩への旅の途中、同年3月23日に宿泊その間、遺骨は来迎寺に安置された。通棺の節は火の用心や道、橋詰の掃除を徹底し、町内の沢山の職業を休止させ、店の魚、鳥の売り物・行商・見せ物・芝居を御出離れまで差し止めた。
天保9年(1838)幕府巡検使一行来る。正仕は御茶屋に目付は脇本陣にふく使は来迎寺で休む。
天保12年(1848)10月江戸の薩摩藩下屋敷にて69歳で死去した島津氏第26代当主、第9代薩摩の藩主島津 斉宣(しまづ なりのぶ)の遺骨は天保13年1月2日に薩摩への旅の途中に宿泊その間、遺骨は来迎寺に安置された。翌日3日の七っ半(朝5時)に高提灯やタイマツに火を灯し、薩摩に向け出発。(満福寺過去帳)第10代薩摩の藩主には長男の島津 斉興が継いでいる。
嘉永6年(1853)8月30日薩摩の第11代藩主島津 斉彬の養女、篤姫は第13代将軍徳川家定にに嫁ぐためにお泊りになる。
安政3年 の小川組大庄屋の「瀬高下庄駅人足継立書上帳」によると、薩摩から御先荷として蒲団20枚が運ばれ通過している。篤姫の輿入れ道具とも、考えられる。
安政6年(1859)越後長岡藩家老、河合継之助宿泊。
万延元年(1860)3月島津第29代当主、薩摩藩第12代藩主島津忠義は参勤交代のため、瀬高に止宿、翌日松崎宿に止宿中、江戸からの急使により3月3日に、桜田門の変を知り、元藩士有村治左衛門が加わっていた事を知り、引き返し再び上庄お茶屋に宿泊、その夜はお茶屋周辺の警戒は厳重であったという。翌日、早々鹿児島へと出立していった。当時、藩主忠義の父の島津久光は後見人として慶応4年まで藩政を代行していた。
文久2年(1862)島津久光は小松帯刀・大久保一蔵(利通)ら藩兵1000人を率いて上洛の途中に瀬高に宿泊して、800人が旅籠に宿泊している。200人は船を利用して上洛している。鹿児島~3/15瀬高~3/16松崎~3/17飯塚~3/18黒崎(大久保日記、文久2年天下の機勢風聞諜)文久2年4月23日(1862年5月29日)に薩摩藩尊皇派が、島津久光によって粛清された事件「寺田屋事件」を起している。
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島津 斉彬(なりあきら) |
島津久光(ひさみつ) |
大久保一蔵(利通) |
天璋院 篤姫 |
小松帯刀(尚五郎) |
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島津 忠義 |
西郷隆盛 |
長岡藩家老・河合継之助 |
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慶応2年(1866)に熊本藩家老、長岡監物(けんもつ)が宿泊している。
慶応3年(1867)新選組参謀の伊東甲子太郎、新井忠雄などと宿泊。
これら大名の往来もさることながら、一般の人々の往来こそ悲喜こもごものドラマがあり興味深いものがある。瀬高宿にはどの位の旅籠屋が存在していたか資料不足だが、宿泊日記、大庄屋文書、人馬継立帳などから100から200軒位かと想定するしかない。かくてにぎわった瀬高宿駅も明治初年宿駅制の廃止によってその使命を終えることとなった。(河野覚氏の資料より)
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【コラム御茶屋とは】
旅人が団子をたべたりお茶を飲んだりする、時代劇によく出てくるような茶店ではなく、藩主が参勤交代や領内の見回り、狩りなどの時に宿泊したり休憩したりする施設のことを御茶屋といいました。祇園通りから出口の三叉路を右に曲った宿町通りの東側に表御門があった。藩主・代官・巡検使など身分のある人が、宿泊や休息に利用し、特に藩主などの宿泊施設であった。表御門の右の長屋は使用人たちの家で早朝から晩遅くまでの宿泊客の世話には敷地内で住む必要があったであろう。殿様は玄関から左奥の専用の便所・風呂場付きの上間に案内れ、次間は付き添いの家来が警護していた。台所・土間で食事の用が行われ南側に使用人用の裏御門あり、下を流れる用水路は現在も残ってその位置を推測できる。敷地774坪、建坪158坪の御茶屋で周囲は塀で囲まれていた。明治4年廃藩置県後は一時知事の茶屋となっていたが翌年9月、用を終り入札され、御茶屋の一部が三橋町新村の浄蓮寺に移築され庫裏として使用された。 |

移築された瀬高御茶屋の上間
(H10年撮影) |
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旧柳川藩志には「本町入口ヨリ制札場迄519間(934m)家数143軒」とあり北側の瀬高宿の出入り口は現在の国道を横切り上庄小学校の北側の北原地区との境界にあったと推測される。
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中山 柳川市三橋町中山 |
薩摩街道沿いの閑静な農村、中山村は柳川城下の辻町から2里の所に二里石がある。一里石は国道443号の柳川市三橋町白鳥にある。江戸時代の享保頃(1716~1753)、中山集落の通称「万さん」と呼ばれる人が上方河内野田(現大阪府)から藤の実を持ち帰り自宅に植え、氏神の熊野宮に移植した南筑後地方最大の藤の花で有名である。
明治19年(1886)に旧柳河藩主立花家の14代当主立花寛治が、福岡県山門郡中山村(当時)に農業の改良進歩のために、大規模な「中山農事試験場」(後に立花家農場)を築き数多くの果実や野菜の試験を行い種苗交換会や品評会などを開催し、宮川温州みかんを全国に広めた。現在は「立花いこいの森」と呼ばれる公園に整備されている。 |

二里石 |
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本郷 瀬高町本郷 |
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本郷は886年(仁和2)頃には岩神将籃なるもの居城せりとあり(柳川藩志)古くから地方豪族の軍事政治の拠点であったと思われる。。天正12年(1584)山下城主蒲池家恒は檀大炊介に本郷城を築かせるとある。壇氏は代々立花藩内九組(山中・小田・長田・坂田・芳司・上庄・久末・沖田・吉開・中山・ほか)の大庄屋を勤め藩の公役などを職務とした。宝暦9年(1759)柳川藩主立花鑑通が四ヶ所藤左衛門に命じて建築された、陸戦隊の演習場の水御殿と館の南方に駒射ち・犬追物・流鏑馬の演習場を造らせた。久留米藩との境である本郷を軍事上重要な場所として造らせたのであろう。薩摩街道は本郷村の逆瀬の家並みを通り新茶屋~坂本~町並~岩神水路の行基橋を渡る。橋から少し下流の岩神には幕末・明治の激動期において藩主とともに、柳川藩家老として斬新な藩政改革を断行した立花壱岐が晩年を過した旧居跡がある。行基橋から東に折れ、北田~榎町~切目~今寺を通り久留米藩領の今寺番所に入った。北田の堤防上には柳川藩の北田番所があり、密貿易、人の移動を取締り、その間道として抜け荷などのために水田道が利用されている。
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【安政6年10月24日・長岡藩・河井継之助の日記】
原町に宿泊したのちに本郷で偶然行なわれていた田舎興業の相撲を見物している。「本郷というところへ出る。此処の様に覚ゆ。相撲あり。畑中に小屋あり、至って賑やかの様子、所の者の話に、十年程も右様の儀は一切禁止、万事倹約、近年漸くお許しありて、年に十ヶ所ぐらい御免あり。その場にて売り物は一切ならず。畳代もなし。銘々家より食物、敷物など持参、木戸五十文とか百文とかにて往く事なり。「それにてよければ相撲をたてよ(興業せよ)」との事にて、皆々喜ぶとの話なり。「相撲芝居」という。猶又、芝居の事を聞けば、やはりそれもあり。後境を過ぎてよりは、柳川領少しあり、久留米領となる。暫く土手道を通るに、僅かの中に度々領分が入り交じって「久留米領」「柳川領」あり。如何なる故か、肥後境より柳川領、並木の杉多くあり。夜五ツ(八時)すぎ、漸く松崎に着く。」とあり、下の地図の如く行基橋を渡っての堤防沿いの道が久留米領に変り、また柳川領から久留米領域内になる事を書いている。また。筑後地方の平担な地形、櫨の多さに感心している。 |


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薩摩街道(豊前街道・薩州街道.坊ノ津街道・) 湯谷~山川~瀬高 |
薩摩街道は江戸時代において、島津(薩摩藩)・松井(八代藩)・相良(人吉藩)・細川(肥後藩)・立花(柳川藩)・有馬(久留米藩)の諸公の参勤交代の道として利用された道です。久留米藩地域では薩摩の南端港、坊津に通ずる道から坊津街道と、柳川藩地域では薩摩に通ずる道から薩摩街道と呼ばれた。また熊本の肥後藩では熊本城を基点として薩摩へ通ずる道を薩摩街道と、江戸方向の豊前(小倉)までの道を豊前街道と呼び、時代と地域によって呼び方はいろいろあったようである。この薩摩街道は山家宿(やまえしゅく)(筑紫野市)で長崎街道に、または松崎宿(小郡市)で秋月街道に連なり小倉(小倉常盤橋)に通じ、さらに関門海峡を渡り、山陽道~西国街道~東海道を経て江戸まで約1ヵ月半を要した。この参勤交代道は宿場町の繁栄や街道の整備、江戸文化と地方文化の交流など、大きな役割を果たした一方、遠い九州の大名にとっては莫大な金銭を費やし藩財政の大きな負担であった。下欄右の古文書は播州室津本陣(兵庫)薩摩屋高畠家の柳川藩、初め九州四国各藩の旅籠代記録です。
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坊津街道(薩摩街道筑後市編)
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幕末から明治時代初頭にかけて、日本の交通手段が急激に近代化し、蒸気汽船や汽車による旅人が増え、更に明治維新で参勤交代制度が廃止されると街道筋の宿場町は衰退しました。あとの西南の役では三池街道と同じく官軍が、この街道を進行して南関や田原坂などで薩摩軍と戦いました。また明治20年代頃には詩人の北原白秋が幼少の頃、柳川から母の実家の南関へと通ったという由緒ある街道です。 |

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実測日本地図 西海(伊能図) |
享和4年(1804)
播州室津本陣(兵庫)薩摩屋高畠家の九州四国各藩の旅籠代記録 |
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参考・掲載資料
郷土史研究家 松尾龍城(山川町)資料・・河野覚(瀬高町上庄)研究資料・金子芳実(瀬高町下庄)資料・伊能大図模写本
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