蒲池物語(かまちものがたり)
筑後国三潴郡蒲池村(福岡県柳川市東蒲池と西蒲池)は戦国時代に筑後を統轄した筑後十五城筆頭大名である蒲池氏発祥の地であり、蒲池(かまち)姓の由来の地とされている。本城を蒲池城から柳川城を建て移した16世紀には下筑後20万石の勢力を持つようになり、秀吉や徳川の天下統一で藩主立花宗茂や田中吉政に受け継がれるまでの約400年余の乱世を生きぬいた蒲池一族の物語である。下蒲池・柳川城主蒲池鎮並の娘、徳姫の子孫が、江戸期に著した蒲池豊庵の『蒲池物語』を探ってみました。

貞観11年(869)に新羅の海賊が、博多湾に侵入し豊前の国の年貢を奪つている。
                  
博多湾  
    【承平・天慶の乱】
(じょうへい・てんぎょうのらん)
承平5年(935)平安中期の関東では桓武(かんむ)平氏の一族平将門が反乱を起こし関東8カ国と伊豆を平定して自ら新皇と称し、下総の本拠に王城を構えてここに独立の政府を立てた。
西国でも伊予国の前伊予掾(じょう)藤原純友が瀬戸内海で海賊の討伐を朝廷より命じられるも、海賊の集団の棟梁となり兵器庫を襲撃して兵器を奪ったり運搬船の略奪を行ない朝廷に恐怖を与えていた。

    【蒲池城の築城】(蒲池氏の起源)
天慶2年(939)蒲池城は平安時代の大宰少弐筑前守藤原長範の子供で藤原純友(すみとも)の弟藤原純乗築城したとされている。
当時の博多湾や大宰府は、隣国と接する軍事的拠点であると同時に、大陸の唐との貿易をおこなう私商船が来て貿易・文化交流をおこなっていた。大宰府から瀬戸内海を通って京の貴族に唐渡りの品々を売り利益を得ていた海民がいた。藤原兄弟の父の良範は大宰小弐の役人で壮年で死んでいるが、兄弟は大宰府に滞在して唐渡りの品々の買い付けに係わったり、それを輸送していた海民との繋がりがあった役人と思われる。兄の純友は伊予掾(いよ の じょう・令制で国司の第三等官)として伊予国(愛媛県)に赴任して瀬戸内海の海賊を鎮圧する側にあった。しかし朝廷に不満を持ち 任期を終えても京に戻らず船1000艘以上を率いる大集団の武装集団をつくり瀬戸内海の海賊の棟梁となって周辺の海域を荒らしていた。弟藤原純乗有明海沿岸の、潮の干満が激しく周りを潟地で囲まれた天然の要塞、蒲池村の蒲池城を本拠地として、兄と共通の行動を取る水軍の集団豪族であったであろう。 

天慶3年(940)朝廷は乱の鎮圧に手をやき藤原純友を従五位下の位を与え時間稼ぎをする。東国では朝廷の追討軍平貞盛と下野の豪族藤原秀郷に急襲され戦死し「平将門の乱」は終結した。朝廷は次に西国の藤原純友の征伐にかかる。

藤原純友は日振島(愛媛県宇和島市)を本拠に自らの武装集団を構えていた。海賊を従え瀬戸内海に航行する官船や商船から調庸(ちょうよう)物を略奪、讃岐の国府大宰府も攻撃していた。朝廷は追討軍を差し向け鎮圧にかかり藤原純友の軍勢は次第に追い詰められていった。

天慶4年(941)
2月藤原国春に破れ九州大宰府に敗走。同年5月、大宰府政庁に不満を抱く豊後・日向の勢力や弟の純乗を率いて、藤原純友は博多 湾に上陸し、大宰府を急襲した。 そして府内の財物を奪い建物を炎上させ占領に成功したが朝廷の追討軍、大蔵春実(のちの原田氏の祖)・予国警固使橘遠保らに壊滅に追い込れ捕らえられ、獄中で没した。一方、蒲池城に戻った純友の弟の藤原純乗の軍勢は蒲池城で橘公頼と息子の橘敏通に迎え撃れ「藤原純友の乱」は終結した。
朝廷は「藤原純友」の乱の功績により橘敏通に三潴郡蒲池を領地を与え、敏通の子孫が蒲池城に拠り蒲池村の領主となった説があるが柳川地方では藤原純友の末裔が領主を引き継いだ説が伝承されている。蒲池氏初祖誕生まで244年の歳月の間の古文書の記録は残されておらず、藤原純友の末裔が盛り返し蒲池に再び住みついた可能性も残されている。彼杵郡(長崎)の大村氏や島原の有馬氏も藤原純友の末裔だといわれており。北部九州の沿岸や瀬戸内海で純友の末裔が海民として活躍していたであろう。江戸期に蒲池豊庵の書いた蒲池物語には、「筑後夜明庄三潴郡蒲池之邑城の濫觴を尋ねるに、往昔天慶の初、伊予付掾純友が一族の築きたる城也と云伝ふ。その後、邑長某(むらちょうなにがし)と言ふ者、此古城に住して近郷を従へ人を懐けて次第に家富み勢あり」とあり、藤原純友一族の後の一族の名は書かれていない。

                  

 
 【刀伊(とい)の入寇】
寛仁3年(1019)満州の女真族の一派である刀伊(とい)の入寇があるが、 刀伊は50余艘で北九州地方を襲い、殺害されたもの400人、 拉致されたもの1000人のほか、牛馬も数百頭を拉致していったと記録にある。、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。

【三池郡・田尻氏の起源】
同じく「藤原純友の乱」の功績のあった大蔵春実の孫種村は大宰大監(軍事警察管轄)に任命され、刀伊の入寇の時、抜群の軍功があって、子孫は九州に土着し、大宰府の「府官」を世襲する。戦国時代の九州の武将、原田氏、秋月氏、高橋氏、田尻氏は大蔵春実の子孫で大蔵党一族と呼ばれ活躍した。田尻氏は大蔵春実の孫の実種田尻又三郎と名のったのがはじまり。三池郡(高田町)・山門郡(瀬高町)南部で鷹尾城を本城とした田尻一族の武将の初祖で戦国時代には柳川の蒲池一族と活躍している。

蒲池氏の初祖(前蒲池) 
仁安3年(1168)
の平安末期に源融
(みなもとのとおる)の後裔の嵯峨源氏の源満末(みなもとのみつすえ)京都から九州の肥前国の天皇家直轄荘園の神埼荘(鳥羽院領神埼荘)に荘官として下向。神埼の豪族である松浦党の一つ山代(やましろ)氏の力を背景に武士として土着した。嵯峨源氏の初代は、『源氏物語』のヒーローの光源氏の実在モデルとされる源融である。

神埼荘
(佐賀県神埼郡)は日宋貿易に着目していた平忠盛以来、平家が知行しており、源満末が下向した頃は平清盛全盛期であり満末山代氏や他の松浦党と同じく平家の傘下に置かれる。また嫡子の源貞宗は壱岐の賊徒追討をおこなっている。源満末の、ひ孫の源久直(みなもとのひさなお)は松浦党の山代氏と壇ノ浦で源氏軍と戦うのだが・・・

文治元年(1185)の源平合戦の「壇ノ浦の戦い」源久直は山代氏の属する水軍・松浦党
(まつらとう)は共に平家勢として戦ったが途中寝返りして源氏勢につき平家軍を破る。その手柄で源久直鎌倉幕府の西国御家人になり蒲池の地頭職として肥前神崎荘から赴任をしてきた。その後、三潴郡蒲池村の領主藤原純友の末裔あるいは橘公頼の子孫の筑後橘氏の娘婿となり、その勢力を背景にして本拠地として蒲池の名田から蒲池久直と名のり初代蒲池氏となる。2代目蒲池行貞3代目蒲池行末4代目蒲池行房と続く。

健保2年(1214)5月、筑後奉行宇都宮朝業(ともなり)下ると「旧柳川藩志」にあり、下宇都宮氏が筑後地方に登場している。兄の頼綱(弥三郎)も瀬高町上庄の祇園宮の縁起に登場している。これから7代後の宇都宮久憲が蒲池家に婿養子に入り再興し、「後蒲池」と称されている。
         
松浦党山城圓(婿養子・圓つぶら
承久3年(1221)
4代目の蒲池行房「承久の乱」に後鳥羽上皇側に関係し、幕府からの一族断絶に近い処分を受け薩摩の所領の黒島平島で終生流罪となり、松浦党の山代圓(やましろつぶら・源圓・源三圓)を婿養子に迎え名跡と領地を譲り、が新たに5代目、蒲池と名のる。蒲池物語には「承久のころ、松浦党の枝裔(しえい)、源三円と言ふ者を養子の聟(むこ)として家を附属す。是前蒲池の祖也」とある。6代目久氏7代目蒲池諸8代目蒲池久家と続く。初代の久直以来、松浦党の山代(佐賀県神埼郡)と蒲池(福岡県柳川)とは有明海の沿岸で同族同様のつながりを持ち続け水軍として活躍したと思われる。

文永11年(1274)元寇が襲った「文永の役」と弘安4年(1281)の「弘安の役」では松浦党の一族として代目の蒲池諸久と8代目蒲池久家が出陣し、執権北条時宗からの感状を受けた。蒲池物語には「弘安四年蒙古襲来の時、唐津に於て軍忠あり。此時、北条相模守、同武蔵守の感状あり。とある。

                 
元寇(文永の役)
蒲池家系の危機9代目蒲池武久の討死)
建武3年・延元元年(1336)
菊池氏を中核とする九州南朝方と「多々良浜で戦い」で北朝方の足利尊氏は、で勝利をえて、ふたたび京都に攻め上り摂津湊川で楠木正成を討ち取り、新田義貞を破り京都を制圧、足利幕府を開いた。

この多々良浜の戦いで
9代目蒲池武久はに九州南朝方に属して菊池阿蘇星野の軍勢と共に足利尊氏の軍勢を迎え撃ったが討ち死に宇都宮久憲を婿に迎え跡を継ぐまで約20年間、蒲池氏は主不在のままになり、その間、武久(たけひさ)の幼少の娘が「女地頭」として家を守った。ここまでの時代の蒲池氏を【前蒲池】と呼ばれている。
                 
南北朝時代
延元3年・暦応元年(1338)足利尊氏足利幕府を開いた光明天皇を擁立(ようりつ)した北朝と、吉野に脱出した後醍醐天皇(南朝)に二つ並んで争う。この頃の筑後は南朝方の征西将軍懐良親王を支援する肥後の菊池氏を中核とする勢力と北朝方足利尊氏の派遣した九州探題一色範氏(道猷)と争っている。この頃の蒲池家の歴史資料はないが、南筑後での「九州治乱記」の史料3ヶ所を紹介する。

興国3年・康永元年(1342)5月、北朝方の九州探題
一色入道道猷(どうゆう)は竹井の萱津城に立て籠もる南朝頂方の菊池武茂肥後武教大木貞資(さだすけ)を攻める。7月南朝方は敗れて菊池に退く。

興国6年・貞和元年(1345)南朝側の菊池武敏菊池武茂名和長生宇都宮貞泰は筑後へ討ち出で、北朝方一色入道道猷と戦う。

正平6年・観応2年(1351)9月
菊池武茂赤星三池星野宇都宮は筑後へ討ち出で、直冬朝臣の少弐頼久と合戦する。
                
下野宇都宮氏とは(次に蒲池10代目に養子になる宇都宮久憲の系図を紹介)
姓は藤原、関白
道兼を祖とする。兼房は比叡山の僧(宗円)となり石山寺の座主の時に源頼義に従う。下野国(しもつけのくに)(栃木県)宇都宮において安部氏の調伏祈祷を行ない、その功により社務職となり宇都宮城を築く。宗綱の嫡男朝綱源頼朝に仕え、下宇都宮初代とされている。3代頼綱の妻は、第一代執権北条時政の娘である。嫡男の泰綱は鎌倉幕府の最高職の評定衆を寛元元年(1243)から18年間、執権と政務・裁判の要職についている。5代景綱文永10年(1273)から25年間評定衆であり、引付頭人の訴訟の審理の要職についている。妻は安達義景の娘である。義景の妹の松下禅尼は第4代北条経時の生母である。経時の妻は、宇都宮景綱の娘である。
鎌倉時代初期の
平家追討の命を受けて一族達は九州に下り、
豊前城井谷の宇都宮・筑後柳川の下蒲池・筑後山下の上蒲池・肥後木の葉郷の宇都宮・肥前彼杵郡宮村の宇都宮の4家は九州での宇都宮氏として活躍する。一般に下野宇都宮を嫡流として、朝綱を初代とし、豊前宇都宮を分流とし、宗綱の弟の嫡男、信房を初代とする。景綱の次男の資綱は瀬高町北大木に大木城を構えている。その4代後の久憲が蒲池10代目の婿養子に入り蒲池家を再興する。久憲の次男資綱は大木城を再興している。
             
蒲池家再興(養子に久則・後蒲池)
正平13年・延文4年(1359)
足利尊氏が亡くなった翌年、筑後大久保原の「筑後川の戦い」で南朝方の菊池勢は北朝方少弐氏の軍勢をを破り、勢力は大いに振るうようになる。
この筑後川の戦いで宇都宮久は南朝勢の父親宇都宮懐久と伯父の宇都宮貞邦を亡くし、九州に領地を持たないは、蒲池家に婿養子に入ることになる。23年前の筑前の「多々良浜の戦い」9代目蒲池武久を亡くし、当主不在で滅びかけていた蒲池家の婿養子に入り娘と結婚し再興する。蒲池氏の「地頭」職を継ぎ、蒲池久憲と名のり10代目を継ぎ蒲池家の勢力を拡大し、筑後随一の「国人」へと発展し戦国大名に等しい勢力となる。次男の宇都宮資綱とその嫡子の大木知長(政長)は、瀬高町北大木にある宇都宮泰宗大木城を再興して大木氏の祖となる。
       
正平16年・康安元年(1361)
南朝側の菊池勢は太宰府を支配下にし征西府をおき以後、10年にわたって全盛期を現出した。

建徳2年・応安4年(1371)南朝側の征西府は室町幕府が派遣した今川貞世(了俊)に敗れ、少弐氏は大宰府を回復する。

文中2年・応安6年(1373)10月大友親世菊池武朝が肥後で戦い、大友軍勢の蒲池久憲田尻鑑安ら筑後諸将と竹井(高田町)に陣を構えたが、戦いは菊池氏の勝利で終わる。

元中9年明徳3年(1392)南北朝の合一がなる。
戦国時代(室町時代)
戦国時代の筑後15城は領国経営にあたり、大名的な独立性を持ちながらも、より勢力の強大な戦国大名の幕下(家臣ではないが臣下の礼をとり軍事的に従属する)となり
戦いに参戦する。
応永3年(1396)南北朝が合一され室町時代に入っても、豊後(大分)大友親世と肥後(熊本)菊池武朝とが筑後において筑後の勢力を競い戦った。菊池に味方する国人
蒲池.問註所.田尻.草野.西牟田などは山川要川(山川町)で大友勢と戦ったが破れ降参する
蒲池久憲大友親世の味方となり竹井原(高田町)に出陣したが、一夜のうちに隈府から駆けつけてきた菊池勢によって筑後勢は敗北を喫した。菊池勢の勢いに大友軍は後退し、久憲ら筑後の国人衆は菊池氏に降参した。その後、蒲池氏は菊池氏と連合して大友氏を撃ち破ったが、大友氏は防府(山口県)大内義弘と結び菊池氏を撃退したため、蒲池久憲と子の義久らは大友氏の幕下となった。
応永5年(1398)九州の南北朝の争乱も終わりをむかえる。
          
11代目
義久が継ぎ弟、則房は豊前宇都宮を継ぎ城井則房
(きいのりふさ)となり名跡を継いでいる。
12代目繁久が継ぎ、次男の大隈は山門郡の今村氏を継ぎ宮園城主となる、三潴郡においては三男の
家久(鎮貞)犬塚氏を、四男の久種(泰秀)酒見氏を、五男の親房城島氏を名のり、それぞれの在地豪族の名跡を継ぎ、蒲池氏の勢力を拡大させた。
13代目親久は豊後、 筑後の守護の大友政親から「親」の字を下賜されている。これ以降、大友氏は蒲池氏に 対する優遇策として蒲池氏当主に一字を与えることを通例とするようになる。
           
        
柳川城の築造 

文亀年間(1501‐1503)14代目蒲池治久は蒲池から西3km先の土地に柳川城の築造に着手し蒲池城の支城とした。
下蒲池と上蒲池に勢力分散 本家・左三巴 
分家・上蒲池家紋下り藤
15代目蒲池鑑久の頃には下筑後地方に約2万町(約20万石)という大勢力を持つようになり、筑後守護の大友氏は、蒲池氏が筑後を統括し、大友氏に対して反抗し独立することを警戒していた。
永正元年(1504)筑後守護の大友氏は、本家15代目蒲池鑑久の領地(下蒲池)1万2千町(12万石)と、山下の山奥に(立花町北山)に本家の鑑久弟の蒲池親広大名分として分家させ(上蒲池)8千町(8万石)に勢力を分散させた。
後に柳川の本家の鑑久の子の鑑盛は娘を分家親広(2代目)の子の鑑広に嫁がせ、婚姻による同盟関係を結んだ。蒲池本家が蒲池親広の分家と統制を図った。分家、山下には蒲池鑑広が山下城を築城し別名を人見城と称していた。家紋は下り藤使用する。                           

永正3年(1507)足利10代将軍足利義尹(よしただ)上洛
(じょうらく)が決まり九州の諸侯に和平を命じ、そして大友義長従4位下に叙し、豊後守護に、少弐資元肥前の守護に、菊池義国肥後の守護に、大内義興豊後の守護に任じた。

永正4年(1508)5月蒲池家14代目蒲池治久が足利10代将軍
足利義尹(よしただ)が上洛の折、お供している。筑後に他に、田尻種久草野親永・星野親実が、筑前には秋月種貞・原田興種・立花親載・宗像氏重が、肥前には少弐資元・龍造寺家和・同家兼・渋川尹繁・千葉介興介、他に平戸の松浦興信・肥後の菊池義国・薩摩の島津忠昌・日向の伊藤祐秀・豊後の大友一族・豊前の城井長門がお供した。
天文年間(1532〜55)筑後十五城の旗頭
蒲池鑑貞(蒲池鑑久?)はこれを怠ったため、府内に呼び出されて斬られたと「西国盛衰記」にある。当時は毎年、八朔(旧暦8月1日)に筑後守護職大友家当主の検閲を受け忠誠を誓わされており離反する者は征伐された。

天文17年(1548)
田尻親種
(ちかたね)筑後守護の大友義鑑(よしあき)から山門郡の鷹尾(大和町)250町の知行地を与えられると、矢部川河畔に新しく鷹尾城を築き、これに移った旧田尻城(高田町)には、一族の田尻左京を入れて城番とした。田尻親種の妹は蒲池城主の蒲池鑑盛に嫁ぎ、姉は大木城主の大木統光に嫁ぎ3家は義兄弟にあたる。

天文19年(1550)蒲池鑑盛、同鑑広田尻鑑種星野鑑乗らとともに大友勢に属し、西牟田や肥後の菊池義武は大友の従属下から離反し、筑後は緊張状態となったが、豊後勢が進出してきたことで西牟田氏は降伏し、菊池義武も殺害され事件は落着した。

天文20年(1551)
九州進出を目論んでいた防府(ほうふ山口県)大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反により亡くなると、少弐氏が佐嘉城を包囲龍造寺隆信は一時、家臣たちによって肥前を追われ、肥前から逃げてきて助けを求めた。蒲池鑑盛は2年近くも一木村に住まわせ、3百石をあてがい保護した。蒲池鑑盛は仁愛の徳にあふれる武将であった。2年後の1553年龍造寺隆信は佐賀城を奪還し、主筋の少弐氏を滅ぼした。
柳川城を本城に改築  比翼鶴
永禄2年(1559)16代目蒲池鑑盛は、筑後守護の大友氏の幕下にあり、独立した戦国大名ではないが、山門郡、上妻郡、三潴郡など数郡を支配して事実上、戦国大名に等しい勢力であった。この年に柳川城を改築拡張を行ない、蒲池氏の本城とした柳川城の別名の舞鶴城と称し、家紋の左三巴のほか比翼鶴の家紋も使用していた。
                     
耳川の合戦
(島津氏VS大友氏) 
天正6年(1578)
10月薩摩(鹿児島県)の島津軍勢と豊後(大分県)大友宗麟(義鎮)は日向(宮崎県)の領土争いで日向の耳川で戦う。この戦いで大友軍勢方の蒲池鑑盛は三男の統安と共に勇猛果敢に戦ったが、壮烈な討死を遂げたついに大友宗麟(義鎮)軍勢は敗北し、多くの重臣を失い家督を譲られた大友義統(よしむね)も、身内の混乱から対立が深まり、大友勢は衰退してゆくことになる。豊後・豊前・筑前・筑後の大友領内では国人衆(こくじんしゅう)の謀反が頻発し、肥前の龍造寺隆信も大友氏に敵対するようになる。蒲池鑑盛の家督を継いだ、次男鎮並龍造寺隆信に通じて、大友氏を見限って離反し龍造寺勢になる。このとき蒲池鎮並は次男だが長男の鎮久は側室が産んだ子であったため家老職となり、城主には鎮並がなり蒲池家を継ぐ。
                 
龍造寺隆信の筑後侵略(大友氏VS龍造寺氏) 
同年11月、龍造寺隆信2万余人の軍勢をもつて筑後に出兵し大友氏幕下
(ばくか)の国人衆を攻める。下蒲池(柳川)蒲池鎮並は草野の草野鑑員、下田の堤貞之、西牟田の西牟田鎮豊安武酒見城島の諸氏と共に龍造寺の陣に参じた。
一方、大友氏に忠義を尽くしす上蒲池(山下)の
蒲池鑑広山下城に立て籠って対戦し他の国人も対抗して戦う。しかし
大友氏国人衆の抵抗に手を焼いた龍造寺隆信は、鉾先を変えて筑前に転進していった。
瀬高では龍造寺氏国人の下蒲池の老臣
大木城大木統光は南500m先の大友軍勢の上蒲池を支援する宮園城主今村舎人
(とねり)を攻めたが逆に瀬高下庄まで追い討ちにかかり、大木統光は大江村で捕らえられそうになったが逃げた。今村舎人
は瀬高川(矢部川)に追い込み川中で追い付き、統光の右足を切り落として帰った。同じ下野宇都宮の血を引く同族の戦いである。

白鳥の合戦(大友氏VS龍造寺氏
天正7年(1579)5月筑後勢(大友方)の田尻鑑種三池鎮実・上蒲池の蒲池鑑広・肥後援軍の大津山和任の連合軍瀬高庄
(瀬高町上庄)に陣を取り、肥前の龍造寺隆信1万余の軍勢と山門郡の白鳥(三橋町)で戦ったが勝負つかずに終わった。9月下旬隆信は再び2万3千人の大軍を率いてふたたび筑後に出陣し久留米一円を抑え、山下城には3000余人の軍勢が向かい山下城主蒲池鑑広は城の半里西側に500余人の陣をはり、密かに家人を遣わし敵の陣に火をかけた奇襲作戦で羽犬塚村あたりまで追い払った。さらに隆信は鷹尾城や今賀城(三池郡)向ったのでそれぞれ、籠城して抵抗した。この時、蒲池鎮並は叔父(母親の弟)の鷹尾城主田尻鑑種に降伏をすすめ、龍造寺隆信の配下になった。

鑑並の柳川城の籠城
この頃蒲池鎮並
龍造寺の残忍性に不審をいだきながらも龍造寺に随身して田尻鑑種と共に、鎮並はたびたびの合戦に戦功を立てていた。だが離反(りはん)を思うようになり薩摩の島津側に付こうと考えるが田尻鑑種により隆信に報告されてしまう。この頃薩摩の島津は肥後の北部まで進出し、密かに筑後を目指していた。
天正8年(1580)
2月龍造寺隆信は嫡子龍造寺政家1万3千人の軍勢を与えて柳川城を包囲した。鎮並は佐嘉勢の侵攻を予期して、柳川城に防防衛対策をし籠城する。龍造寺軍は攻めあぐみ、攻防は300余日に及んだが田尻鑑種が仲介にたち、鎮並隆信の間に和平が成立した。この時に龍造寺隆信は娘の玉鶴姫蒲池鎮並に嫁がせた(側室)といわれる。
                  
龍造寺隆信の陰謀・下蒲池の滅亡
天正9年(1581
蒲池鎮並は島津勢に就こうと再び離反(りはん)を考えていた。これを知った龍造寺隆信は激怒し、謀略(ぼうりゃく)をもって討ち取ろうとして、佐嘉(佐賀県)で猿楽の興業を行い、隠居を祝いたいと鎮並を招待した。鎮並は渋ったが母と伯父の左馬大夫鎮久に説き伏せられ、ついに佐嘉行を決意し5月26日200名を従え城を出る。それを知った鎮並の従兄弟大木統光大木城
(瀬高町北大木)から馬を馳せ筑後川で追いつき「隆信の陰険なる世人の熟知する所、これ擧君を誘殺せんが為なるを知らざるか」と肥前行きを中止するよう説得したが無駄であった。佐嘉城に入った鎮並龍造寺政家に会い、和平の礼を述べ、互いに挨拶を交わしおおいに、もてなされた。翌々日、隆信の居城、須古城を目指した一行が与賀馬場で、待ち伏せていた龍造寺の軍勢に取り囲まれ、郎党173人と共に鎮並鎮久らは謀殺された
大木統光は肥前で蒲池鎮漣が謀殺されたことを知り、佐賀へ馬を走らせ、鍋島直茂の元へ行き、主の鎮漣の後を追い切腹しようとしたが、止められ、浪人になる。下蒲池滅亡後大木城を出て母の実家の兄、田尻鑑種のもとに身をよせ、宗繁入道と号す。3年後、龍造寺隆信が戦死した後、統光の人物を見越した鍋島信生により鍋島の臣となり肥前の神崎郡横田村に移り、大木城は廃絶した。その子孫は鍋島藩の大物頭となり、明治の大木喬任も子孫の一人である。
                     
柳川の惨劇
(柳川の合戦)
 時を移さず蜷城には龍造寺の家臣鍋島直茂の督戦の下、鷹尾城にいる田尻鑑種が柳川城に兵を進め一族を抹殺(まっさつ)させ城は落城した。
田尻鑑種にとって
蒲池氏は姉の嫁入り先であったが、逆らえば隆信に討たれることは明白であり、柳川の残党征伐に乗り出した。柳川城内にいた鎮並の弟蒲池統春は城を明け渡し、田尻領の佐留垣城へ引き退いたため、討伐は一時中止された。
しかし支城の
塩塚城蒲池統康豊饒鎮連ら男女5百余人が籠り必死に防戦したため田尻鑑種により討伐された。蒲池鎮並夫人の玉鶴姫はじめ女、子供も追手に捕まり城外にて討たれ悲劇の場となる。そばの宝樹寺に玉鶴姫と108名を供養して地蔵尊に祀られている。戦国の習いとはいえ同族、親族を相打ちした残忍な悲劇の終末であった。鎮並夫人とは龍造寺隆信の娘、玉鶴姫で父の元へ帰ることを拒み、蒲池氏の支城の塩塚城の近くで、鎮並の後を追うように自害している。なお鎮並の嫡男の
宗虎丸はようやく逃れ小仙と言う山伏に連れられ鎮並の正室の実家の肥後の隈部城主赤星統家(むねいえを志したが中島(大和町)で敵に囲まれ舟上で自殺した宗虎丸の姉の徳姫と弟宮童丸は、家臣に守られ柳川落城から逃れる。つづいて、佐留垣城(大和町)いる統春討死された。筑後最大の勢力を誇った下蒲池氏家は滅亡した。田尻鑑種は下蒲池追討の賞として隆信から、新恩地1000町のうち680町を賜わる。だが・・・・
蒲池氏の一族に塩塚氏があるが蒲池鑑盛(宗雪)の三男の蒲池統安の子の蒲池鎮貞は、蒲池氏の支城の塩塚城を守り、その経緯から塩塚鎮貞とも名のっていた。龍造寺隆信蒲池鎮並を謀殺し、田尻鑑種に鎮並一族の殺戮(さくりく)を命じた時、
塩塚城を守り蒲池鎮貞は討死している。

  
下蒲池氏(柳川城)のその後
*@蒲池鎮漣(しげなみ)の兄でと同じく肥前須古城で討死した家老の蒲池鎮久の子の熊千代は柳川落城の時は塩塚の農家に逃れ、成長して貞久と名のり、柳川城にいた龍造寺家晴(隆信のまたいとこ)の家臣となるが公文兼久隆信の探索を恐れ公文姓を名のっている。家晴は非道の龍造寺隆信とは異なり、大恩ある蒲池鑑盛の血筋を残し恩義に報いている。佐賀の実権が鍋島氏に移った後にも、龍造寺家晴の子孫が諫早に移り諫早家となると、貞久の子孫も諫早に移っている。

*A本家(柳川)の下蒲池の方は、徳姫は肥前の有馬氏の元に落ち延び、後に豊後に移り、大友氏重臣の朽網鑑康(たくみあきやすの次男の朽網鑑房の妻となる。宗壽(そうじゅ)を生みますが、鑑房の兄の朽網鎮則が島津氏側についたため朽網氏は滅び、鑑房は浪人となり死去。子の宗壽は母の生家の蒲池氏本家の菩提寺の崇久寺の食客となり、鎮武鎮明宗常の三人を生み、鎮武は福岡藩に仕え宗常が朽網氏を、鎮明(しげあき)は、鶴鎮明と改姓して蒲池氏の名跡を継いでいる。この鶴姓の由来は、蒲池嫡流の本城の柳川城の別名が舞鶴城であったことによる伝承がある。子孫の筑後の朽網氏も江口氏も氏も隆信の探索を恐れ姓を変えて武士となっている。末裔に肥後の江口道場の江口鎮勝 江戸に出て窪田家の名跡を継ぎ窪田鎮勝と名のり、旗本となる。そして日田16万石を預かる西国郡代となり、晩年に蒲池鎮克に復姓。その子の窪田鎮章は、備前守で2千石の旗本で鳥羽伏見の戦いで戦死している。

*B蒲池鑑続殺害された長男の宗虎丸(蒲池久鎮)の跡を継ぎ隆信の探索を恐れ母方の首藤姓を名のる。のちに蒲池に復姓し、筑後の医師の一族として栄え、また久留米市三潴町の銘酒「池亀」や城島町の「比翼鶴」など 造酒業の一族として現存している。

*C
宮童丸こと蒲池経信のその一族は豊後日田で大庄屋となり、日田に子孫を伝え、今日に到っている。
*D統安
の次男、応誉統安の次男)耳川の合戦(1578)で、父と祖父鑑盛が共に討ち死にした時に弔うために僧籍に入っている。応誉は姓を藤と名のり13歳の時、瀬高上庄の来迎寺第2世誠誉上人に従事して剃髪している。東京の増上寺で仏法を修学し、帰郷して来迎寺第4世となる。
元和7年(1621)
柳川藩祖の立花宗茂は正室ァ千代の菩提寺、良清寺をを営建され、来迎寺の応誉が招かれ
良清寺第1祖となる。その後、子孫が還俗して蒲池の家を再興し、寺侍として寺を守り、立花家の家老格の待遇となる。歌手の松田聖子(蒲池法子)さんの先祖も本家の下蒲池の一族で、柳川の良清寺の寺侍の家で、幕末の蒲池鎮之が高祖父で、曾祖父が塩塚に分家し、塩塚の学校教師の次男で、公務員の管理職になり、久留米市荒木町に新居を構えたのが聖子の父親。TBS歌番組のザ・ベストテンで紹介され話題となった。ちなみに良清寺は松田聖子さんの生家の菩提寺でもあり、父上の葬儀は良清寺で行われた。

筑後の争乱
蒲池鎮並を謀殺した隆信に対して、諸豪たちの間にその非道さを憤る声があがり、筑後国の諸将の田尻鑑種・黒木益種・蒲池(黒木)家永などの離反を招き、龍造寺氏没落の起因ともなる。

天正10年15822月、
猫尾城主黒木兵庫頭家永が反旗を翻した。龍造寺政家鍋島信生(直茂)は肥・筑の兵5000人で、猫尾城(黒木町)へ押し寄せ、兵糧攻めにし、家永
嫡子四郎を人質にして和議を結び陣を解いる。

 この年、中央では6月に
織田信長は京都の本能寺で、明智光秀の軍勢に襲われて自害している。


同年8月2日龍造寺隆信瀬高上庄で瀬高川(矢部川)を舞台に川狩り(鵜飼遊び)に事寄せ田尻鑑種離反(りはん)を感じて謀殺(ぼうさつ)未遂事件が田尻に発覚する。龍造寺政家と家老鍋島信生が上庄の瀬高川の鵜仕の遊山鑑種を誘い、川中で謀殺しようとする陰謀であった。

また、
田尻と時を同じくして、辺原城主
(立花町)辺原入道紹真佐嘉に敵意を表わし大友軍を引き入れようとした。筑後の叛将討伐に追われる龍造寺田尻攻めをそのままにして、辺原の攻略にかかった。上蒲池の蒲池鎮運西牟田城主家親等筑後衆も鍋島の手に加わって戦ったが、辺原の猛撃を受けて多くの損害を出して退いた。しかし、辺原城は火攻めにあい落城し城主辺原紹真は、ついに城を脱出して落ちのびていった。

同年10月田尻鑑種龍造寺と手を切り鷹尾城に籠城し鉄砲を撃ちかけ頑固に抵抗した。支城の江浦城田尻但馬入道了哲浜田城田尻大蔵助鎮富津留城田尻石見守鎮直堀切城田尻彦左衛門鎮水の4城も必死に防戦し、籠城は500日に及んだ。

天正11年1583)1月、島津勢の伊集院若狭守300人余の兵が兵糧を乗せて船で鷹尾城に着き一緒に戦う。隆信は肥後の隈部城主、赤星統家
(むねいえ)の離反を察知し、嫡男の新六郎14才と8才の娘の人質2人を山門郡竹井原(長者原)で磔にして殺した。赤星家蒲池鑑並の正室(妻)の実家である。  
11月田尻同じ大蔵の血をひく秋月種実の仲介で、蒲池鎮並の二の舞いになっては、せっかくの籠城も意味がない。それに鍋島信生田尻のそれまでの軍功に対して亡びさせるのに忍びないので、田尻への和平を強く進めた。龍造寺と和議が整い、田尻鑑種鷹尾城から堀切城に移される。後に田尻鑑種肥前佐賀郡巨勢のうち200町を与えられ所がわりを命じられ後に鍋島の家臣になった。
龍造寺隆信の戦死島津氏VS龍造寺龍造寺隆信
天正12年(1584)
3月島津勢は龍造寺隆信の侵略を受けていた肥前国島原のキリシタン大名で藤原純友の末裔の有馬晴信の救援を決定する。島津家久を総大将にし、肥後赤星統家も昨年息子と娘を磔にして殺された恨みをはらす為島津勢の先手として加わり、龍造寺隆信龍造寺正家・鍋島信生を率いる総勢5万7千余兵と戦う。(沖田畷の戦い)島津の侍大将川上左京亮によって討たれて龍造寺隆信(56歳)死んだ
龍造寺氏没落後は大友軍勢が同年7月肥前方の黒木家永上妻郡猫尾城を攻め落とし、筑前立花城主戸次道雪岩田城主高橋招運の2軍が大軍を率いて加わり、下筑後の肥前方を従える為侵攻した。

天正13年(1585)
筑前戸次道雪高橋招運
が加わった大友勢は久留米の
高良山に陣を構えた。4月隆信の嫡子龍造寺政家は後を継ぎ筑後川を越え大友勢と戦ったが負け去った。筑後勢は山下城主蒲池鎮運山門郡宮園城今村の一族・同郡松延城樺島式部同郡瀬高の邑城に蒲池兵庫下妻郡吉岡村には吉岡加賀守同郡本郷村の館には檀大炊介
(おおいのすけ)同郡下妻村の営所には蒲池一族・同郡中牟田の館には大友の配下・三潴郡大藪村大木資永中村末吉同郡福田村には蒲池一族・上妻郡知徳村には一条和泉守兄弟。この11ヶ城の布陣しそれより本郷・瀬高・海津・田尻と打ちまわって9月には龍造寺家晴田尻鑑種と戦い鷹尾城と4支城を攻め落とす。龍造寺勢が陣をはる柳川城のは難航不落の為を攻めずに立ち去る。

秀吉の九州征伐(上蒲池、山下城の開城
天正15年(1587)
豊臣秀吉の西下により従い、分家の上蒲池の城を開城する。藤原純乗の蒲池城築城から始まり柳川城及び山下城開城まで約400年間筑後の戦国時代に合戦を繰り広げた蒲池氏勢力の終焉となる。
     
上蒲池(山下城)のその後
*E鎮運秀吉に三池郡のうち200町を給わり海津館に移り住む。その後、藩主立花宗茂
蒲池鎮運を弟の立花直次(高橋統増)3千石の与力として立花藩に抱える。豊臣秀吉の朝鮮遠征に 参陣し、文禄元年(1592)に釜山で31歳で病死している。墓は高田町楠田の亭釈寺にある。
関ケ原の戦いでは、鎮運の子の蒲池吉広立花与力として西軍に属して戦うが、石田三成率いる西軍(豊臣方)は敗北している。
慶長5年(1600)上蒲池家は徳川家康により領地没収されるが嫡子の蒲池吉広は、黒田長政福岡藩に召抱えられる。後にその子の蒲池重広5百石を与えられている。その息子蒲池正広も後に郡奉行となり、上蒲池家を受け継がれて行く。
*F上蒲池の分家の鎮行の嫡子蒲池正定は、肥後細川藩の中老になり9百石を与えられている。

藩政時代の柳川城 立花宗茂  田中吉政
天正15年(1587)豊臣秀吉
の九州平定に功績があった立花宗茂は柳川城に入城し柳川
13万石のを拝領するが、慶長5年(1600)関が原の戦いで西軍に加わり敗戦し、柳川を追われる。翌年田中吉政石田三成を捕らえた功績で筑後国30万石を与えられ入城した。吉政は柳川城の掘割の改修、石垣を組み、5層5階の天守閣を築造した。水門や樋管を整備し、現在の掘割の原形となった柳川城を完成した。田中吉政は後継ぎが次々と夭折し忠政の代で断絶した。現在、柳川市坂本町に吉政の銅像が建立されている。元和7年(1621)再び家康に実直な人柄を認められ立花宗茂が柳川城主に返り咲いた。慶応3年(1867)大政奉還至る約250年間柳川藩は13代立花鑑寛(あきともで藩政を終る。
文亀年間
蒲池治久による築城開始され戦国時代・藩政時代を通り過ぎ明治5年(1872)柳川城災上まで
370年間役目を果たし柳川城の歴史を閉じた。天景2年(939)藤原純乗が蒲池城を築城してから933年の歳月が過ぎている。
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引用文献等文書文献 九州治乱記蒲池正紀蒲池物語・筑後国史・旧柳川藩志・筑後の武士。江崎龍男著・城島町誌・吾妻鏡
              福岡県の歴史・
南筑明覧・正覚山聖衆院来迎寺縁起・柳川市勢要覧・下野宇都宮系図、田崎人也著

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