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                  禅宗の歴史

達磨大師
 禅宗の歴史は西暦520年頃にインドから中国へ布教にやってきた、お釈迦さまから28代目の祖師、菩提達磨(ぼだいだるま)により中国に禅宗が伝えられ、発展しました。達磨(だるま)大師ともいわれ「だるまさん」としても、私たちには親しみ深い人であります。唐代末期、旧仏教は廃仏毀釈の嵐の中で衰退、禅宗だけが生き残り進出した。北宋(ほくそう)時代(960-1127年)の中国禅宗は、潙仰(いぎょう)宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗の五家、そして北宋中期に分裂した臨済宗系統の黄竜派と楊岐派五家七宗と呼ばれる分派ができたが、南宋時代(1127-1279年)には達磨以来の純粋禅を貫いた臨済宗・曹洞宗がますます禅の隆盛期を迎える。
しかし13世紀後半、元の時代(1271-1368年)になるとチベット仏教が国教となり純粋禅は生き残りの活路を求め多くの禅僧が来日しています。

日本には鎌倉時代に栄西(ようさい)が、南宋代の中国に渡って天台山の万年寺で禅宗を学び、建久2年(1191)に帰国し、初めて臨済宗(りんざいしゅう)黄竜派を伝えました。都での禅の布教は困難を極めたが、建久6年(1195)、博多に日本最初の禅寺・聖福寺(しょうふくじ)を創建しました。また栄西が持ち帰った茶の種を、筑前の脊振山の中腹にある霊仙寺(りょうせんじ)(佐賀県神埼郡東脊振村)に捲き、茶栽培(岩上茶)を推進し、お茶を飲む習慣を日本に持ち込んだのも有名です。宇治茶は、栄西が東脊振から送った種が始まりとされている。正治2年(1200)、鎌倉に出向き寿福寺や建仁寺の住持となり、建保3年(1215)、鎌倉の寿福寺にて没しました。

貞応2年(1223)道元(どうげん)は、栄西が没した8年後の貞応2年(1223)に中国(宋)に渡り天童山(てんどうざん)景徳寺で如浄(にょじょう)禅師の指導を受け坐禅を中心とした本物の修行し、安貞(あんじょう)元年(1227)に帰国して曹洞宗(そうとうしゅう)を広めた。中国に渡るまで修行した建仁寺に戻ったあと、宇治山田に興聖寺(こうしょうじ)を開山したが比叡山の圧迫などがあって信徒の一人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重から所領がある越前に移ることを勧められ、現在の総本山となっている永平寺(前・大佛寺)を開創した。建長5年(1253)、病のため、永平寺を弟子の懐奘(えじょう)に譲り、京都で治療したが54歳の生涯をとじました。そして永平寺に遺骨を持ち帰り寺の西側に承陽殿を建てて葬られた。

DVD禅ZEN(道元)

鎌倉時代には、仏教は一般民衆の信仰を集め、禅宗のほかに法然
(ほうねん)が浄土宗、弟子の親鸞(しんらん)が浄土真宗、日蓮が日蓮宗を開き、主なる宗派が出揃っている。南宗の渡来僧としては蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いちざんいちねい)などが来日している。 室町時代は座禅の考え方が武士階級に広がり、幕府の五山制度による禅院保護政策により隆盛を極めます。しかし室町幕府が滅びると日本の禅宗も衰退している。戦国時代には織田信長によりキリスト教布教のために仏教は徹底して迫害されている。

もう一つの禅宗・黄檗宗
(おうばくしゅう)は、江戸時代に臨済宗楊岐派(ようぎは)の流れを汲む隠元(いんげん)が中国より来日して開いた宗派です。万治元年(1658)徳川家綱と会見により山城国宇治郡大和田に寺地を賜り黄檗山萬福寺を創建した。インゲン豆はこの隠元が日本に持ってきて、禅の普茶料理の材料として普及させたものです。
郷土(福岡県柳川市)の旧柳川藩主・立花家の菩提寺、立花山福厳寺
(ふくごんじ)は、元は曹洞宗でしたが、寛文9年(1669)、4代藩主立花鑑虎の時に臨済宗黄檗派に転じ寺名を梅岳山福厳寺と改めたのもこの時期です。
また衰退していた臨済宗を再興したのは江戸中期の白隠慧鶴(はくいんえかく)禅師(1685~1768)とされている。古文書を調べると、江戸期までは臨済宗・曹洞宗・黄檗宗は、あまり区別されずに禅宗として扱われている。
        大竹山 二尊寺

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