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  小鳥の歌  昭和29年(1954)
 1  小鳥
(ことり)は とっても 歌(うた)がすき   
    母
(かあ)さん呼ぶのも 歌で呼ぶ
    ピピピピピ チチチチチ ピチクリピイ     

 2 小鳥は とっても 歌がすき
   父
(とう)さん呼ぶのも 歌で呼ぶ
   ピピピピピ チチチチチ ピチクリピイ
                                                母校下庄小学校・小鳥の歌の歌碑(朝日新聞より)

 作詞 与田凖一(よだ・じゅんいち)
 明治38年(1905年)8月2日生
 平成9年(1997年)2月3日没
   福岡県みやま市瀬高町下庄出身
 作曲 芥川也寸志(あくたがわ・やすし)
 大正14年(1925年)7月12日生(芥川龍之介の三男)
 平成元年(1989年)1月31日没
    東京都北区田端出身

   
与田凖一は生まれ故郷・福岡県みやま市瀬高町を生涯愛し情熱を注いぎ、戦後の童謡界を引っ張ってきた
児童文学者です。「与田凖一顕彰会」発足を記念して、経歴と作品を皆様に紹介したく編集しました。

与田凖一年譜 
明治38年(1905)6月25日(戸籍上は8月2日)福岡県山門郡(現・みやま市)瀬高町上庄本町166番地・上庄祇園宮前、東方の浅山与太郎、母スエの次男として生まれる。
家族は他に祖母マツ、兄政市、姉ヨシイチチヨノ、(後に妹マツノ)。
祖父忠蔵同町本郷の豪農で江戸末期までは酒造業を営んだ家柄の嫡子であったが分家して呉服商になり、父の代に失敗して前記上庄本町に移転した。
明治39年(1906)1歳 親戚の與田家の養子となる。この年2月、養母タマ(祖母マツの妹)の死去、つづいて元藩家茶職であった養父与三郎5月に死去し、半年で戸籍上の孤児となる。そのために実家の浅山家の実の両親の元で育ったが與田の姓は引き継ぐことになる。後世の作品には与田の漢字を使用している。なお旧漢字の凖と一般的に使用される、準の同意味の漢字があるが戸籍では與田凖一である。
町内の東に4軒おいた酒造家薩摩屋(菊美人)江崎氏は、北原白秋の姉の婚家なることを後の10歳代に知る
明治45年・大正元年(1912)7歳 数年来の実父の大病と叔父不行跡のため與田浅山の家産を整理して同町下庄矢部川(瀬高)駅前に転居、菓子店舗を営み実父は青果業を始める。義絶となった叔父は長崎に去ったが趣味として書き残していた書画の類に幼時影響を受ける。
この年下庄尋常小学校入学。7月31日、大正と改元。9月、新築の校舎に移る。担任の外河先生から学芸会に出よと言われ、内気でてれしょうの凖一は国語の絵掛図帳をめくりながらの語り役をやる。その後の学芸会でも土地伝承の民話や自作のつづりかたを読む演技者にあてられている。

現・瀬高駅
大正3年
(1914)



大正7年
(1918)
小学3年生に進級。
 ただし2・3年生は合体した複式学級と学年それぞれの単式学級に選別される。
 単式学級の級長となる。


3月下庄尋常小学校卒業。4月同校に高等科併合されるも教室不足の為1年間上庄校区の尋常高等学校に通学。姉イチ死去。父は毎晩のように借本を朗読するのを楽しみとした。何らかの影響を受ける。
準一
「日本少年」「少年世界」が愛読誌であった。
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大正9年
(1920)
3月下庄尋常高等小学校卒業。前年12月、兄政市死去につづいてこの年8月、祖母マツも死去。この頃より、のちに春陽会系画家となった薩摩屋(江崎酒造)分家の江崎元と親しくなる

大正11年
(1922)
17歳 柳川軌道職員や町役場臨時事務雇い中に尋常小学校准訓導の検定試験を受けて合格。北原白秋の詩集『おもひで』を知り、若い心に強烈な印象を残す。以来詩歌書および小説を読みはじめる。
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大正12年
(1923)
18歳から4年間、下妻尋常小学校(現・筑後市)の教員となる。初任給28円であった。現在の下妻小学校(筑後市下妻1317)の校歌は与田凖一が後に作詞したものでである。
赤い鳥』に投稿した詩が、選者北原白秋に採用され、4月号に掲載される。それ以後、巽聖歌(たつみ・せいか)佐藤義美らと競うように投稿をつづけ、詩作に励み童謡詩人を志す。
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小学校教員時代・大正12年
大正14年
(1925)
ラジオ放送が開始され、これにより音楽の普及に大きな力となる。
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大正15年
(1926)
8月 夏休暇を利用して初めて上京。谷中天王寺北原白秋を、府下長崎村の赤い鳥社に鈴木三重吉を訪問する。
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昭和2年
(1927)
1月、水田尋常高等小学校(現・筑後市)に俸給40円を支給され教員となるが健康を害し3月に退職とあり、凖一は、ノイローゼだか胃腸だかの病と語っている。
3月末「赤い鳥」の投稿仲間の(たつみ)聖歌(せいか)(童謡「たき火」の作詞者)が岩手から久留米市キリスト教会に転任の途中に瀬高町の矢部川駅(現・瀬高駅)前の凖一の家に立ち寄る

教員時代教え子の家庭訪問
大正14年

与田準一が育った瀬高駅前
北原白秋
巽聖歌(たつみせいか)は「大鹿卓詩集」などを手みやげに訪問してきた。当時の凖一の両親の浅山家は、矢部川(瀬高)駅前の駄菓子屋でガラス箱のケースと焼きいも釜があり、すぐ上の姉チヨノが養子をして家を継いでいた。反対側の角店である「可志久」料亭・旅館は上の姉ヨシが嫁いだ家で、自家営業のトラック輸送も手がけていた。その頃の凖一は両親の家より人の出入りがはげしく、開放的な姉の店が居心地がよかったようだ。また準一は『赤い鳥』に作品が八編(「ほうぜよ」「写真機」「木鼠」など)、白秋の詩の雑誌『近代風景』を加えると十編を上回って作家として優遇される立場であった。昭和2年4月9日スタンプの北原白秋からのハガキには、「君への返事おくれた。今度の家も手狭で、君の勉強部屋や寝室に当てるべきものがないため、窮屈だろうと思うが、とにかく上京してみたまへ。・・・入学のつもりで、かたがた私の助手なり書生なりの覚悟でないと失望するだろう。・・
* 巽聖歌は、「山茶花山茶花さいたみち〜♪たきびだ たきびだ おちばたき〜♪」の童謡「たき火」の作詞者で岩手県紫波町の出身です。本名は野村 七蔵(のむら しちぞう)。与田準一と同じく、北原白秋に師事し、赤い鳥出身の童謡詩人として、詩情あふれる童謡や童話を広めた。昭和48年 日野市立病院で死去。八王子喜福寺に埋葬される。昭和51年4月、聖歌忌のために与田準一は盛岡を訪れ講演している。

可志久料亭
絵雑誌 『コドモノクニ』における白秋選の童謡募集に「ナカヨシ」が佳作入選。4月号(第6巻第4号)に当選作「ステイション」が本田庄太郎の絵で掲載される。
コドモノクニ大正11年(1922)1月創刊、北原白秋野口雨情が童謡顧問、中山晋平が音楽顧問、編集主任は和田古江、絵画主任は岡本帰一が担当していた。23巻265冊を数えた昭和19年(1944)3月に終刊する。
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昭和3年
(1928)
22歳2月大森馬込村緑ガ丘北原白秋を頼り上京する。まず、近くにあった同郷の友人の江崎元の下宿に止泊した。
白秋家に住み込み、子息の家庭教師になり、児童文学者を目指す。
7月、朝日新聞の旅客機メルクール号で白秋一家とともに、矢部川の実家に帰省。帰途、久留米の教会の巽聖歌と共に上京する。

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昭和4年
(1929)
赤い鳥』休刊。 絵雑誌『コドモノクニ』第 8巻第13号掲載の当選作「たかいたかい」が岡本帰一の絵で掲載される。
与田は身体不調のため帰郷し「白秋全集」アルス発行白秋の弟の鉄雄が社長)の地方宣伝を手伝う。

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昭和5年
(1930)
巽聖歌の下宿に同居。白秋の後ろ盾を得て聖歌と同人雑誌『乳樹(のちに『チチノキ』)を創刊。
8月15日鈴木三重吉より主宰の児童雑誌「赤い鳥」で編集記者として採用したいとの手紙があり就職する。給料50円、弁当代10円(4年在社)。

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昭和6年
(1931)
赤い鳥』復刊。この間、赤い鳥には凖一の詩の掲載はない。荒尾市の天才少女少女詩人、海達公子の詩を採りあげ、白秋とのパイプ役となり世にだす。公子の父、貴文松一とは児童文芸誌「赤い鳥」を通じて知り合い、住まいも近かったことから知己の間柄であった。

ステイションが掲載さた4月号


赤い鳥編集記者時代
昭和6年
海達公子は詩人北原白秋に「珍しい詩才の持主」と称賛され、大正末期から昭和初期にかけ、児童自由詩の少女詩人として全国的に注目された。児童文芸雑誌「赤い鳥」では( )最上の作品を残してる。「おみや」、「白い朝顔」、「雨上がりの朝」、「お日さん」、「星」、「ぬくいおえん」( )「畠」などが「赤い鳥」で90編ほどが推薦作となり凖一が携わった復刊には「日の暮」が特選に選ばれている( )公子が短い生涯の中で作った児童自由詩は5千余編にのぼる。彼女は昭和8年、3月16日( )高瀬高等女学校卒業式の日に虫垂炎で倒れ、腹膜炎を併発したのです。16歳の若さでした。今だったら、簡単に治る病気なのに・・・。同月26日に死去した( )
  「夕日」
 もうすこしで ちっこう(築港港)のさきにはいるお日さん
 がた(干潟)にひかってまばゆいまばゆい
 「お日さん」
お山の上が 光り出した お日さんの 上る道
あすこ(あそこ) あすこ
  「すすき」
さら さら すすき お山のすすき おててのばして
なにさがす あおいお空に なにさがす
  「ばら」

まっかい まっかい ばらの花 目にはいってるうちに
目つぶって 母ちゃんに 見せにいこう
  「にじ」
にじがたった 三日月さんより 大きいな
三日月さんより きれいだな
 「ゆうだち」
ゆうだち ゆうだち
ばらのはが おどり出した 

雑誌赤い鳥大正7年(1918)児童文学者鈴木三重吉により創刊され、日本最初の童謡・童話を創作しました。「赤い鳥」には芥川龍之介有島武郎泉鏡花北原白秋高浜虚子徳田秋声らが賛同し、文学・美術・音楽などの広い芸術の分野で先駆的役割を果たし、日本の教育の歴史にも大きな影響を及ぼしました。北原白秋『赤い鳥』において自作の童謡の発表を行いながら、寄せられる投稿作品の選者として重要な役割を果たした。
 
昭和6年1月に復刊する後期「赤い鳥」に与田凖一巽聖歌は編集記者として籍をおく。在籍中、投稿する愛知県半田町の新美南吉の童謡・童話を支援、準一聖歌の同人雑誌「チチノキ」に加わらせる。昭和7年東京外国語学校に入学した南吉聖歌は、物心両面で支え、この若き3人は白秋門の童謡詩人として活動する。しかし南吉は結核病の為に帰郷したが準一は児童文学者新美南吉を励まし自ら関係する雑誌などに発表してあげ、原稿料を送り支えたが昭和18年29歳で喉頭結核で死亡した。代表作は「ごん狐」、遺作童話集として、「牛をつないだ椿の木」・「花のき村と盗人たち(帝国教育出版部)出版され、出身地の半田市に、新美南吉記念館が造られた。

新美南吉

昭和以降から戦後にいたるまで数多くの童謡がレコード会社各社によって何度も繰り返しレコーディングされ、ラジオでもさかんに放送される。コドモノクニ』掲載の与田準一の童謡大きくなるよのレコード盤もビクターより発売される。作曲は中山晋平・独唱は平井英子。 
平井英子大正7年(1918)1月生まれ。幼少より中山晋平に師事し音楽の指導を受け少女童謡歌手として活躍、昭和9年に変声期のため童謡歌手としての活動を終える。
昭和7年
(1932)
4月、詩誌「海図」を後藤敏子と発刊  
9月、童謡に関するエッセイ集真空管を出版。

右写真は凖一が最後の編集にかかわった児童雑誌『赤い鳥』昭和7年12月号
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昭和8年
(1933)
28歳 2月白秋鈴木三重吉の喧嘩により赤い鳥社を退く。
最初の童謡集旗*蜂*雲恩地考四郎棟方志功画)(アルス名義定価2円)を自費出版。

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昭和9年
(1934)
6月、富士の裾野須走へ白秋に従って「野鳥を聞く会」に行く。この頃生活安定せず。
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「旗・蜂・雲」


昭和9年富士裾野にて

凖介氏と与田先生
昭和10年
(1935)
童話童謡集猿と蟹の工場」(版画荘)(定価1円80戦)を出版。池袋2丁目の光明アパートに移る。
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昭和11年
(1936)
31歳、11月 帰郷して野田マサ子24歳)と結婚。
同時に化粧品会社の宣伝嘱託となる。
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昭和12年
(1937)
日本放送協会のラジオに関する放送台本作詞等の仕事を続ける
7月、実父、浅山与太郎の死去のため帰郷。

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昭和13年
(1938)
朝日新聞の「コドモアサヒ」のために童謡、科学絵話等を毎月書き定収となる。
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昭和14年
(1939)
牛込区原町一の新築借家に移住。
7月
 長男凖介生まれる。
月刊絵雑誌コドモノヒカリの編集を引き受ける
山羊とお皿」を発表する         
10月
、「牡蟻の旅行(定価90銭)を出版


昭和15年
(1940)
1月、日本文化協会から山羊とお皿(第一書房)その他に第1回児童文学賞を受賞。
 9月、童謡絵本ハタラク動物(定価50銭)を出版
12月、詩童謡集山羊とお皿(定価1円50銭)を出版

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昭和16年
(1941)
36歳 童謡集「戦う兵隊蟻(中央公論社)出版。
童話「コロチャントオートバイ」・「オモチャノクニ」を出版

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昭和17年
(1942)
2月、長女生まれる。
童話集「海の赤ちゃん」・カタカナ科学童話集「ヒカリトソラマメ」・「子供への構想 児童文学論集(帝国教育会出版部)出版

    

  本表紙



昭和18年
(1943)
11月 妻亡父の法要のため福岡県八女郡福島町に帰郷にあるとき、師の北原白秋逝去(57歳)の報に接し急遽帰京する

童謡「ヨイコノムラ(農山漁村出版所)・カタカナ童話「土ヲキセタタネ(大日本雄弁会講談社)・評論「童謡覚書」(天祐書房)・「幼児の言葉(第一書房)出版

与田凖一

昭和19年
(1944)
3月、家族を郷里、瀬高の姉の家「可志久」旅館に疎開させた。
戦時統制のなか内務省図書課の「指示要綱」に余儀なく従い、苦闘にまみれ、
童話「海の少年飛行兵(大和書店)・「伊勢参宮詩集(大成出版)・詩集「海の少年飛行兵、青少年におくりて(大和書店)・「少国民のための大東亜戦争詩(続)(国民図書刊行会)を出版 
12月、東京空襲始まり牛込区の家を焼失、同町内の下宿屋三桝館に移る
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昭和20年
(1945)
3月 郷里の瀬高町上庄土居町に疎開。
4月 福岡県筑紫郡安徳村に家族と共に再疎開。 8月15日戦争敗戦終結。
10月
 筑紫郡二日市町に疎開。
11月
 生誕地瀬高町上庄に疎開、12月に次男の直世が誕生した


檀一雄・ヨソ子の結婚披露宴にて
昭和21年(1946)瀬高町下庄矢部川の歌人松島正夫(松島カメラ店の弟)の紹介で文学志望の待鳥京子を知り、遠来の作家中谷孝雄(.)伊藤佐喜雄檀一雄に師事して福岡市で同人誌『午前』を出していた眞鍋呉夫(.)また佐賀高校の学生で盛んに詩作していた山本太郎北原白秋の甥(.)など下庄上町待鳥(現・甲木宅)に集合し、文学のサロン化となる。小説家檀一雄は当時(.)リツ子を亡くし、長男の太郎小田の善光寺に間借りし、「リツ子・その愛」を執筆していた(.)
文学サロンの待鳥京子檀一雄(.)柳河高等女学校(現・伝習館高校)時代の同級生で上庄山田ヨソ子さん(酒造家山田賦令妹)を紹介し(.)2人は善光寺の筑後平野や有明海を見渡せる高台などでデートを繰返して結婚を約束している(.)11月24日檀一雄の実母トミの住む松崎(現・小郡市)にて(.)凖一の仲人で結婚式が行われた(.)
親交のあった下庄矢部川の歌人・松島正男氏(松島カメラ店の弟)による回想(昭和48年取材)
与田さんは、先生と呼ばれるのが大嫌いで、自分の名を売ることは考えない。だから虚栄的な言動をする人や、理解できない人の前で話すことを絶対にしない。率直で、純真ひたむきな人とは時を忘れて話し込む。このような性格だから、故郷でいきなり公演を頼まれる事を避けるため、ひっそり瀬高を訪れては、ひっそり帰ることがたびたびあった。上庄土居町に疎開している氏は、作品の選や批評などを雑誌社に送り、つつましい生活であった。清水山に登っては、自分の感激を、それこそ子供のように大声を上げて叫ぶし、のん気と神経質、厳しさとたわいなさが、いつも同居している態であった。豊な庶民性と、きびしい芸術への心が、純真さの中に溶け込んで一つになっている人と言えよう。」松島氏は与田氏の疎開時代にこの人物に惚れ込んで、家業を忘れて連れ立って回ったりして親交があったと言う。
10月童話集『海のなかの歌』(川流堂)出版

昭和22年
(1947)

4月
童謡集「二つの地球」(育英出版社)を出版。
8月に上京した。三鷹市井の頭3−4−7に住いを構える。
亡くなる平成9年まで住んだ。
ここで代表作「五十一番めのザボン」「十二のきりかぶ」を書いた。

昭和23年
(1948)

43歳
、「父の手紙」・童話詩「たのしい町」・ひらかな「山の大男」
幼年童話「おとこごはんおんなごはん」「ふしぎなチビちゃん」
「ねこさんのれこーど」などをを出版。
童詩「はる」・季刊誌「幼年」を出版。
月刊雑誌「少女クラブ」3月号にも「ポストの心」の童話を掲載している。
11月 恩師の北原白秋の最後の詩「帰去来」の文学碑が白秋の母校矢留小学校横の白秋詩碑苑に創建される
     【帰去来(ききょうらい)北原白秋最後の詩)

山門は我が産土 雲騰る南風のまほら、 飛ばまし、今一度。

筑紫よ、かく呼ばへば 恋ほしよ潮の落差 火照沁む夕日の潟。

盲ふるに、早やもこの眼 見ざらむ、また葦かび、籠飼や水かげろふ。

帰らなむ、いざ、鵲 かの空や櫨のたむろ、 待つらむぞ今一度。

故郷やそのかの子ら 皆老いて遠きに、 何ぞ寄る童ごころ。

  矢留小学校横の白秋詩碑苑にて
 
昭和24年
(1949)


昭和25年
(1950)
童話「レールの歌(廣島図書)さんたろうもも」新選童話集(人文書房)出版


日本女子大学児童学科講師となり、10年間児童文学の講義を続ける。
童話「だってさんともしもさん(西萩書店)ころちゃんとオートバイ
チューリップ の町(国民図書刊行会)出版

昭和26年
(1951)
童話「赤い電話器(西萩書店)・評論「私達の詩の勉強(広島図書)出版
 1月
から4月まで五十一番めのザボン」を毎日小学生新聞に連載。
11月
、「五十一番めのザボン」を光文社から出版(当時の定価220円)現在¥1575で再版購入可。

内容〜学校建設予定地のザボンの木を切るかどうかが問題となった。
子どもたちの願いで木は片側の枝を切り落とされるだけで済み、
やがて51個の実をつける。敗戦後の子どもたちの胸に未来の灯を点じた
日本児童文学の名作です。

昭和28年
(1953)
日本児童文学全集童話編七」と「詩・童謡編九」に与田凖一集を掲載出版
幼年童話集「おかあさんおめでとう」「光と影の絵本」を出版。
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昭和29年
(1954)
童謡小鳥の歌」発表。
一年ブック(学研)10月号に詩「つばめさん さようなら」を掲載

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昭和30年
(1955)
50歳 母校の下庄小学校の校歌を作詞する。
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昭和31年
(1956)





4月 童話のはなし日本童謡たあんきぼうんき(定価190円)
初の絵本童話ヒップとちょうちょう(定価30円)

10月1日与田凖一は文芸家協会の文化代表団として『リツ子 その愛』や夕日と拳銃」・「火宅の人」で名を馳せた小説家の檀一雄や詩人の草野心平、写真家の浜谷浩など、中国の国慶節に招かれる。この時に檀一雄は仲人である与田準一の部屋でヨソ子との離婚を相談している。を諫めたあとホテルの夕食会で「郷里へ疎開していた時、奥さんを亡くしたあの人が自転車に子供を乗せて買い出しにいく姿が哀れで、紹介したのでしたがね」と落胆して語っていたという。
檀家とは自宅が近いこともあって、疎開後、瀬高から上京したあとも、家族同士の付き合いを続けている。

12月 翻訳本まりーちゃんとひつじ(定価130円)出版。
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昭和32年
(1957)
 8月 母死去(88歳)帰郷する。
 9月
 からたちの花‐北原白秋童謡集を編者として出版
12月 日本童謡集(岩波文庫)を編集出版。この本に昭和5年26歳で自殺した金子みすゞの「大漁」「・・浜は祭の ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう」を掲載し紹介する。当時大学1年生だった童謡詩人の矢崎節夫は長らく埋もれていた大正時代の童謡詩人・金子みすゞ
(1903〜1930)の遺稿集を長年の努力により見つけだしている。昭和59年与田凖一により金子みすゞ全集が出版され再び広く人々に知られるようになる。
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友人の檀一雄

     下庄小学校正面玄関にて・上右から松島カメラさん・与田凖一氏・菊久司酒造川原社長・園乃蝶酒造大坪社長・阿部酒造の奥さん
        生徒は6年生男子達.。昭和34年3月の卒業式の時のスナップ写真です。
昭和33年
(1958)
下庄小学校の校歌(作詞与田凖一 作曲細谷一郎)が出来る。
昭和34年
(1959)
3月、下庄小学校に来賓として帰郷・校歌の発表会も兼ねる。
童話「ふうせんのおしらせ(福音館書店)出版。
昭和35年(1960)
日本児童文学者教会会長を2期にわたり歴任。その文筆活動は純真そのものの芸術的香気の高い作品で、鈴木三重吉坪田謙治らと共に、日本児童文学史に、不滅の足跡を残している。

昭和38年
(1963)
翻訳本ベルと魔物 ボーモン夫人(講談社)出版。
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昭和39年
(1964)
おはなしだいすき(童心社)出版。
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昭和40年
(1965)
童話クミの絵のてんらん会(実業之日本社)なにしているの?(童心社)
ビップとちょうちょう(福音館書店)出版。
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昭和42年
(1967)
与田凖一全集(大日本図書)全6巻は筑後の故郷にちなんで久留米絣を特織りした表紙を包んだデザインで出版
与田準一全集は第14回サンケイ児童出版文化大賞を受賞

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与田凖一全集の久留米絣表紙

昭和43
(1968)
翻訳本おひげのとらねこちゃん共訳(童心社)・「わたしとあそんで(福音館書房)出版
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昭和44年
(1969)
童話絵本ピアノのたまご(小峰書店)・「ももたろう(偕成社)
翻訳本あめのひってすてきだな(偕成社)・「にんぎょひめ」出版。

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昭和45年
(1970)
雨月物語;菊花のやくそく(小学生の日本古典全集11・学灯社)
赤い鳥代表作集(小峰書店)出版
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昭和47年
(1972)
童話「小さな町の六(あかね書房)日本幼年童話トムのまめサムのまめ(岩崎書店)出版。
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昭和48年
(1973)
少年少女詩集野ゆき山ゆき(大日本図書)第11回野間児童文芸賞を受賞
門下にはまど・みちおをはじめ、岩崎京子生源寺美子あまんきみこらがいる。 
        


昭和49年
(1974)
1979年まで『ポプラ星(講談社)の絵本を出版。
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昭和50年
(1975)
4月幼児雑誌めばえ』に童謡あっちこっち以降1ヶ年間新作童謡連載。
童話ばらのいえのリカおばさん」・「長者どんのむこえらび(あかね書房)
日本の民話5」・「ぼくがかいたまんが(国土社)
詩集おひさまがいっぱい」・訳絵本「まりーちゃんのくりすます
ばらのいえのリカおばさん(フレーベル館)などを出版。

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昭和51年
(1976)
71歳、評論詩と童話について」(すばる書房)出版


            柳川の川下りにて    
昭和52年
(1977)
童話「かえるのあまがさ」・「まいごのとむ(童心社)
うみひこやまひこ(岩崎書店)出版

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昭和53年
(1978)
翻訳本ちいさなとりよ(岩波書店)出版。
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昭和54年
(1979)
 
童話「きかいがしまむかし喜界島民話より(フレーベル館)
翻訳本
せんろはつづくよ」出版


昭和55年
(1980)
 4月 エッセイ集青い鳥・赤い鳥(講談社)
10月 赤い鳥を追って
11月 詩集ゆめみることば(教育出版センター)出版。
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昭和56年
(1981)
ハヨーとおじさん(童心社)・「いたずらぎつね福岡県(第一法規出版)出版。
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昭和57年
(1982)
童話「ははるだよ(金の星社)・童話「おばあさんとこぶたのぶうぶう(ひさかたチャイルド)出版

11月3日文化の日に郷里瀬高町の清水山の三重塔の西側に「与田凖一の詩碑」建立除幕式。

 毎年10月第3日曜日にこの碑の前で「与田凖一児童文学祭(まつり)(むっきっきまつり)が行われます。
 むっきっきとは、瀬高地方の方言で椋(むく)木のことで小さな実は甘く子供たちが木に登り食べていた。



与田先生夫妻と愛弟子
        与田凖一の詩碑
瀬高町本吉の清水山(きよみずやま)の清水寺、三重塔の向え西側展望場に建設され昭和57年11月3日文化の日に除幕されました。与田先生の詩が自筆で刻まれています。素人には難解なので、幼少から学生時代を過ごした実家のある、下庄矢部川上津原猛氏に解釈していただきました。三重塔前の詩碑を訪れて、景色を見ながら偲んでみませんか。
【解釈】
清水山高い所に立つと 悠久の矢部川の流れ
有明海のきらめきが
望まれ その向こうには雲仙岳の
勇姿が かすかに見ることが出来る

千二百年前に開基されたと伝えられる 
伝教大師
光り輝いていた、
ねむの木に一刀三拝して刻まれたと聞く
清水観音さんのこと 伝教大師を先導したという
きじの話を想い浮かべるのである
  
(一刀三拝とは一つ刻むのに3べん拝むこと)

春(花)
、夏、秋(月)冬と移りゆく 
ふるさとの時間と空間の中に父母の恩を想い 
また、静かに見守って頂いている
観音さま、
乳父観音の慈愛お声が聞こえるのである

昭和59年
(1984)

金子みすゞ全集
(JULA出版局)を著書・出版矢崎節夫金子みすゞ遺稿集の探し出しにより、作品を紹介し昭和32年日本童謡集』の「大漁」に続き、世間にみすゞの遺作512編の詩を再び知らせる機会を作る。その後、みすゞ人気は衰えることなく、書籍や演劇、映画が次々と作られ、03年の生誕100年を機に故郷の山口県長門市には金子みすゞ記念館が建てられた。


金子みすゞ
昭和60年
(1985)
 「しらゆきひめ」(フーベル館)を出版

昭和62年
(1987)
絵本「ねことごむまり(童心社)出版
.
平成2年
(1990)
4月 「ちくたくてくはみつごのぶただ(童心社)・「野ゆき山ゆき」新版出版。
児童詩人としての長年の業績に対し、
第25回モービル児童文学賞が贈られる。
.
平成4年
(1992)
87歳5月、童謡集「森の夜明け〜与田凖一集〜
絵本「
どこからきたの こねこのぴーた
(童心社)出版
.
平成5年
(1993)
10月、妻マサ子81歳にて永眠
翻訳本わたしと あそんで」(マリー・ホール・エッツ)出版。
平成9年(1997)2月3日(91歳)児童文学者与田凖一永眠

  日本基督教団吉祥寺教会にて告別式。
  現代のわが国における日本児童文学の中心的存在であった。

                  
  3月に昭和8年に手がけた最初の童謡集旗*蜂*雲の復刻版が出版される。


準介氏(左)と与田先生ご家族
長男の与田準介氏は「ネバーランドVol.3」の特集、与田凖一の世界‐その軌跡と全仕事−で父の介護の様子と死去の最後に凖一さんは福岡県瀬高町から来て三鷹市井の頭で生涯を終えた。島本牧師の祈りの言葉が胸に沁みた。準一さんの死に顔に張り付いた桃色の肌の色が拭いても拭いても目から消えない。その日は凖一さんには不釣合いなくらい怒濤の1日だった。骨は土に帰った。情熱は瀬高町に帰った。穏やかな凖一さんの最期の一時はとても好かったと思うと投稿されている。
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           .
    【作詞家 
橋本淳(与田凖介)の紹介】与田凖一氏の長男・東京在住)

与田氏の長男与田凖介氏は疎開時代に上庄小学校に1年生で在学していました。歌謡曲の作詞家として橋本淳の名で活躍。有名なヒット曲に
*前川 清  「よろこびの予感」・「愛を下さい」(発売中)

いしだあゆみ
ブルーライト横浜」「砂漠のような東京」・「さすらい天使・「太陽は泣いている」・「今日からあなたと」・「涙の中を歩いてる」・「おもいでの長崎」「まるで飛べない小鳥のように」「生まれかわれるものならば

欧陽菲菲
雨のエァポート」・「恋の追跡」・「夜汽車」・「雨のヨコハマ」・「恋の十字路

ザ・ピーナツ
ローマの雨」・「恋のロンド」・「愛への祈り」「離れないで

平尾昌晃畑中葉子
カナダからの愛」・「エーゲ海の旅」・「サンフランシスコの旅

ジャツキー吉川とブルーコメッツ
ブルー.シャトウ」・「六本木ララバイ・「草原の輝き」「白鳥の歌」・「北国の二人」「青い瞳」・「こころの虹」・「さよならのあとで」「雨の赤坂」・「涙の糸

ザ・タイガース
モナリザの微笑」・「僕のマリー」・「シーサイド・バウンド」・「君だけに愛を」・「銀河のロマン

オックス
スワンの涙」・「ガールフレンド」・「ダンシングセブンティン」・「
僕は燃えてる」・「ロザリオは永遠に

郷ひろみ
誘われてフラメンコ」・「あなたがいたから僕がいた」・「恋の弱味」・「20才の微熱

小柳ルミ子  「逢いたくて北国へ」・「思い出にだかれて

朝丘めぐみ  「恋にゆれて」・「映画のあとで

岡崎 友紀  
ママはライバル」・「さよならなんて云わないで」・「黄色い船」・「私は忘れない

森進一    「望郷

西田佐知子 「くれないホテル」・「星のナイト・クラブ

和田アキ子  「孤独」   *榊原郁恵 「私の先生(1977)

日吉ミミ    「男と女の数え唄」・「
失恋」・「未練の女」・「悲しい女と呼ばれたい

平山三紀   「真夏の出来事」・「ノアの箱舟」・「ビューティフル・ヨコハマ」など歌謡歌手やグループサウンドのヒット曲で全国の若者の人気を奪った。

佐々木功 「銀河鉄道999」・「青い地球のテレビまんがのアニメーション曲のヒット曲も生んでいる。










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平成18年(2006)10月、瀬高町にて第20回與田凖一児童文学祭
 10月27日
母校の下庄小学校で創立130周年行事と与田凖一先生の生誕100年の式典が行われました。


平成19年(2007)8月 みやま市図書館に與田凖一顕彰会により展示コーナー設置
              
 9月3日、母校の下庄小学校創立130周年の記念事業の与田凖一作詞の「小鳥の歌」の歌碑が校庭で除幕される。與田凖一顕彰会が設立する。

平成20年(2008) 与田凖一童謡CD(6曲)が完成。下庄小学校生徒により瀬高駅前広場にて発表会。現在、瀬高駅構内で流されている。
 10月21日 「第21回與田凖一文学まつり」が清水公民館で行われ、東山中学校3年生のペンカート・鈴風さんの詩が最高賞である與田凖一賞に選ばれた。

平成21年(2009)10月、みやま市図書館内に「與田凖一記念館」オープン             

                                             
                     父母ふぼのこえ 
      作詞 与田凖一  作詞 草川 信
   1 太郎は 父の ふるさとへ  
     花子は 母の ふるさとへ
     さとで 聞いたのは 何のこえ
     山のいただき 雲に鳥
     のぞみ大きく 育てよと
     遠くはなれた 父のこえ 

   2 太郎は 父のふるさとへ  
     花子は 母のふるさとへ
     さとで聞いたのは 何のこえ
     浦の松風 波の音
     命すがしく 生い立てと
     遠くはなれた 母のこえ
      
3 太郎は 父の ふるさとへ 
  花子は 母のふるさとへ 
  
さとできいたは 何の声 
  雲のすじひく 荒鷲(あらわし)
  夢も大きく はばたけと  
  空のはるかで 父母の声

4 太郎は 父のふるさとへ
  花子は 母のふるさとへ
  くわにさくさく 土の声 
  草もいわおも かたる声
  こころおおしく 生き行けと 
  遠いそせんの かたる声

この歌は戦争末期、米軍の大都会への空襲爆撃が激しくなり、児童を親元から離し田舎の祖父母や、親戚の家に住まわした学童疎開を詠ったものです。長男の作詞家・橋本淳(与田準介)氏からすばらしく良い歌だからと推薦されました。みやま市では市の文化祭や老人ホーム慰問などで「童謡を歌う会」の皆さんが合唱して披露されています。  
 森のよあけ作詞 与田凖一  作曲 中田喜直

1 くるみの おとで 
よが あけます
  もりの なかの  
りすの おうち
 ぽりん ぽりん
かりん かりん
ぽりん ぽりん かりん
 
2 おほしさま だれが  
けすのでしょう
 りすは くるみで  
あさの ごはん
ぽりん ぽりん
かりん かりん
ぽりん ぽりん かりん
 森のよあけ作詞 与田凖一  作曲 中田喜直

1 くるみの おとで 
よが あけます
  もりの なかの  
りすの おうち
 ぽりん ぽりん
かりん かりん
ぽりん ぽりん かりん
 
2 おほしさま だれが  
けすのでしょう
 りすは くるみで  
あさの ごはん
ぽりん ぽりん
かりん かりん
ぽりん ぽりん かりん
 
   スワンの つばさ
 
 作詞 与田凖一  作曲 中田喜直 

 1 あまの川(がわ)です ぎんがです
    スワンがつばさを ひろげます
   わたりなさい わたりなさい
   つばさの 橋(はし)です わたりなさい

 2 ひこぼしさまです わたるのは
   スワンのつばさの むこうぎし
   待(ま)ってます 待ってます
   おりひめさまです 待ってます
  
           

    たかいたかいしてよ 

    
作詞 与田凖一  作曲 細谷一郎

   
 母さま 母さま  たかいたかい してよ
    あおいあおい   あちらを 見せてよ 見せて
    お屋根の  あの空  見せてよ 見せて

    もっとよ もっとよ たかいたかい してよ
    ポプラの 向こうを  見せてよ 見せて
    ちらちら あの海   見せてよ 見せて

    母さま 母さま  たかいたかい してよ
    マストを けむりを  見せてよ 見せて
    いつかの あの船  見せてよ 見せて
 
コドモノクニ』第8巻第13号掲載の「たかいたかい」は、調子が整った素直な詩で、岡本帰一の絵が添えられリズムある楽しい歌である。
          種と泉
 作詞 与田凖一  作曲 山内 忠

1丘の畑のトラクター
 さわやかな
 この さわやかな土の香よ
     まきゆく種の
     まきよく種の
 あたらしい世界が
 芽をひらくのだ
     世界 世界
     あたらしい世界

2森の泉にいこうとき
 こころよい
 この こころよい水の輪が
      ぼくらの胸に
      みんなの胸に
 あたらしい泉を
 よびおこすのだ
      泉 泉
 あたらしい泉
*このほか童謡の作詞として「大きくなるよ」・「だれかがよんでる はる」「世界の希望」「ひなまつりの歌」「きみの うれるころ」・「かあさんいぬと こいぬ」・「あらいぐまのこウェイ・アッチャ」・「すねこたんぱこ」・たんじょうび」・「は、は、はるだよ」・「ジャングルジムのうた」・「きこうき ぶん」・「よきの こびと」・「たこよ」・「なぞなぞ」・「世界の希望(子どもユネスコのうた)「みえた はなし」・「でんでんむし」・「こどもの ひ のうた」・「空がある」・「風がそう言った」・「わかいおじさん」・「やぎとおさら」・「なぞなぞ」「風から来る鶴」などの作詞曲がある。


  【谷間のかくれんぼ】

    深い大きな谷底です。

     みどりいろのお日さん

      迷子になっているお日さんみィつけた。

 【ざぼん】

    ゆらりゆらりと 
    ゆれてます
    青い大きなざぼんです
    影が消えますうつります
    冬の日のさす裏戸です
    一つちぎってはいります
    学校帰りの子どもです

  【山羊(やぎ)とお皿】昭和15年「児童文化賞」

    山羊は、一枚のお皿をもっている、 かけてないセトビキのお皿を 
         いつのころ誰にもらったのか、山羊もしらない、皿もしらない


    夜あけに目がさめると、かならずお皿が目にうつる、
                      白い一枚のお皿が、山羊の目に

    ゆうかた、のらかえりの丘の道のぼったり、
                      山羊は一日はたらいてかえる

     どこもここも夕焼けが赤々うつり、 
                 山羊の家ではバラ色にそまった一枚のお皿が
                              山羊のかえり待っている。

                                             (NHKより児童文学賞受賞)
 【かきの実】
   つゆが しもに変わり、
   しもは朝ごとに白くなる。

   村のかきの実は、赤くうれ、
   赤く、赤くうれ、
   ひくい枝から、だんだんへっていく。     

   空は一日、青くすみ、
   青く、青くすみ、
   からすのむれが
   ごまをまいたように飛ぶ。

   そんな日が続き、
   同じような日が続き、
   こずえに残されたかきの実、一つ。

   実は赤く光り、
   赤く、赤く光り、
   冬が来た信号燈のように、
   村でいちばん早く、朝日をあびる。
 【おちば】   
    おちば おちば、
    きの はっぱ。
     
    やまの こざるが、
    ひろったら、
    おもちゃの おかねに
    するかしら。
                        
                       
    ならの き 、かしの き、
    きの はっぱ。
     
    もりの こりすが、
    ひろったら、
    でんしゃの きっぷに
    するかしら。
                           
    おちば、おちば、
    はっぱっぱ。
 


 【はるですよ】
              
            わらびの 太郎が
            目を さます。
          わらびの次郎が
            目を さます。

               はるですよ。
               はるですよ。

            かえるの 太郎が
            かお あらう。
            かえるの 次郎が
          かお あらう。

              はるですよ。
              はるですよ。
 【しゃぼんだま】


    しゃぼんだまは
    にじの たまごだよ

    おおきくなったら
    そらで まっているんだ きっと 

    ガラスの ひこうきに のって
    あそびに いこうね
             
      
                                                        .
 詩集や赤い鳥代表作集1〜6巻の出版物がある。
 「
三びきのこぶた」 「うみひこ やまひこ」 「かえるのあまがさ」 「おむすびころりん
 「
まりーちゃんとひつじ」 「はなさかじいさんおとうさん」 「ね おはなしよんで」 「ねことごむまり」 「イルカにのったハーヨ」などの童話や
 「
日本の神話」 「やまたのおろち」など少年出版物多数残す。他に「小さな町の六」「青い鳥赤い鳥」など
 多数の作品がある。

                                                              .
    【下庄小学校校歌】 作詞与田凖一 作曲細谷一郎
 一、花かすむ山  ひがしに  まどひらく町 瀬高よ
   あかるい学校 手をくんで 手をくんで
   足なみ そろえ すすむよ われら
   下庄(しものしょう) 下庄  下庄小学校

 二、風かおり野は みどりに 橋赤き水  矢部川
   たのしい学校 声あげて 声あげて
   こころも かるく きたえる われら
   下庄  下庄  下庄小学校

 三、空青く立つ けぶりと うず高く積む 生産
   かがやく学校 よびかわし よびかわし
   ゆたかに まなび はげむよ われら
   下庄  下庄  下庄小学校
.     【上庄小学校校歌】 作詞与田凖一 作曲平井保喜
                                     .
  一、 暖かな 南国の 美しい南の国
         わたしたちは ここに 生まれて
         わたしたちは ここにうたうよ
     なたねに すだつ ひばりの ように 
        上庄 上庄 小学校

                                         .
  二、 しあわせな 南の町 美しい南の町
         わたしたちは ここに 集まり
         わたしたちは ここに きたえる
     流れを のぼる 魚のように
         上庄 上庄 小学校


  昭和24年に校歌制定され昭和33年に郷土の与田凖一により校歌の作詞をされている。

 そのほか筑後市立下妻小学校・小平市立小平第十小学校・茨城県石岡市立園部小学校・秩父市立影森小学校 ・碧南市立棚尾小学校の校歌の作詞がある。
          
与田凖一年譜・写真資料・投稿記事は「ネバーランドVol.3」の特集、与田凖一の世界(発行所株式会社てらいんく)
長男・
与田凖介(作詞家・橋本淳)様から承諾、好意で、記事とさせてもらいました。瀬高町誌参考。


 
 庄福BICサイト           Email:shofuku21@yahoo.co.jp.