![]() 九州鉄道・柳河軌道・東肥鉄道から自動車輸送への変革 H18・10・0編成 H22・10・5更新 |
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柳河軌道 | 東肥鉄道 | 自動車輸送の出現 |
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郷土の往年からの矢部川の浜から船での天草・長崎・大阪へ ここでは柳川からの接続を図る目的で明治42年から昭和7年ま . |
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【九州鉄道会社】 明治20年(1887)、九州鉄道会社が創立し高橋新吉とドイツ人技師ヘルマン・ルムシュッテルにより事業を開始。博多−久留米間を着工した。久留米以南は羽犬塚〜水田〜柳河を経て渡瀬「に行く計画の鉄道が柳河町(現柳川市)の反対論者多く、路線を東方にずらした瀬高に変更した。(当時、大宰府でも反対され二日市に変更されている) 明治22年12月11日 、九州初の鉄道として博多〜千歳川仮停車場(筑後川北岸)間開業し片道1時間23分かけ1日3往復の営業運転する。7月の集中豪雨が筑後川の橋梁工事を襲ったため予定駅の久留米の手前の仮駅で開業する。当時、蒸気機関車も、車両も、レールも、すべてドイツ製でのスタートだった。
![]() 昭和7年頃の瀬高駅 . |
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柳河軌道 柳河径由の九州鉄道敷設に反対していた柳川の地元民も、いざ実現してみると、急に不便を感じて九州鉄道を利用する為の柳河〜矢部川駅間の軽便鉄道敷設に乗り出した。 明治42年6月、資本金8万1千円で開業、初代社長は立花親信で、機関車5台、客車5台、定員45人、貨車3台で、その中に6トン積があった。 瀬高〜柳河間4マイル(7.6km )を30分で運転していた。運転手は14時間勤務であった。線路の軌間(レールの間隔)には九州の軽便鉄道で広く用いられていた、914mmを用いた。 矢部川駅〜下庄〜上庄〜御仁橋〜三橋〜蒲船津〜柳河を普通4往復で、旅客運賃は1区間2銭で矢部川駅から柳河まで12銭であつた。停車場以外でも、手をあげると乗車させてくれた。 小荷物(米・酒・抗木、花むしろ・味噌・缶詰・瓦など)1区間1銭であった。 |
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![]() 明治42年頃の松屋旅館と木造の瀬高橋 |
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![]() 柳河駅の出発点・後方に国道橋と本社建物・右建物は柳河駅舎(明治後期) |
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![]() 現在の跡地・奥に三柱神社の欄干が見える |
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檀一雄の回想文「コウモリ(凧)とホンゲンギョ(焚火)」には次の柳河軌道の文節がある。 実は私の母が、私の数え年十歳の時に家出した為に、私の妹達3人は柳川の祖父母の家にあずけられており、その妹達と一緒に正月を暮らす目的で、父は私を連れながら、毎年、無理な帰省をつづけていたものだろう。・・・・・・私の少年の頃は、例えば足利から、柳川までだと、乗りかえ、乗りかえ、たっぷり、二昼夜はかかっていたのである。しかし、その二昼夜の旅の果てに、関東とはがらりと変わってしまう風物と方言と食物と人情を経験することが出来るのも、やはり、幸福であったといえるかもわからない。例えば、瀬高から軽便鉄道に乗り換えて、柳川の三柱神社前の柳川駅に降りる。すると、「おうー、一雄ボッチ、帰り召したバイのも」車曳きの吉さんは、目ざくと私を見つけ出して、その人力車に乗せられる。・・・とある。 |
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![]() 大正9年落成の旧瀬高役場(栄町)前の柳河軌道の線路・ 左門柱に瀬高町農会の表札もある |
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![]() 矢部川出張所(矢部川駅前)・吉岡方面をのぞむ・ |
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チンチン電車のような、小さな木製の電車だった。電車の残骸が、昭和30年代中頃まで西鉄柳川駅の、車庫の西側に放置されていた。![]() 乗務員一同 |
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柳河軌道の運転手・上津原浅吉氏(瀬高町大江)の回想 上庄の橋が高くて、4両連結すると登れなかった。ある時、橋を渡っていると、徐行状態なので駅と間違え、川へ転落した大牟田の人がいたが、不思議とケガはいていなかった。平坦地でもスピードが今のようにないので、よく飛び乗る人がいたが、柳川市宮永付近の若い女の人は飛び乗り損ないケガをしたことがある。 乗客は、中には入らずデッキにぎっしり乗っているので、中に空いているのに、狭い機関車の中にお世話になりに来る人が多かった。毎日機関室に乗って細かい機械を覚え、伝習館の先生の実地知らずをいじめる学生さんもいた。その人は、後に東京方面で私鉄を始められ、社長さんになられたという。 今の学生さんはどうだか知らないが、当時伝習館に通っていた学生さんの悪癖は、無茶で、平気なものだった。当時、女学生はハカマをはいて通った。そこで、ポケットからとんでもない物を取り出しては中に押し込む始末。止むなく本社では、採算がとれなくても(定員の半分ぐらいの乗車になっても)学生のために男女2両にしていた。 今は交通事故が多いが、当時は少なく、軌道の前を平気で横切ったりしていたが、もし跳ねてケガをさせれば、軌道車が叱られる。巡査さんは、実地検証してブレーキのかけ方をやかましく調べた。鉄道であっても、今の自動車並であった。 (昭和43年・82才の時に聞き取り) |
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![]() ![]() 上津原浅吉機関庫主任時代 明治44年7月の機関見習い・大正10年5月の機関手・機関庫主任時の会社解散による解職 各3通の辞令写し 柳川軌道機関見習いの明治44年7月の日給が34銭、 東肥鉄道機関士の大正10年5月の日給が1円50銭、 柳川軌道解散の機関庫主任時の昭和7年退職金が407円です。 |
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![]() 木造瀬高軌道専用橋(昭和6年完成の鉄橋2連、コンクリート脚の新しい瀬高橋の南側の木橋を走る汽車) |
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.![]() 下庄方面から矢部川の橋を渡る機関車(昭和6年) |
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.![]() 駅員保線部員一同 |
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大正5年 柳河軌道社長 元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去 当時の記録が残されている 柳河軌道株式会社 山門郡柳河町 電話26 設立 明治42年6月 資本金 15万円 一株50円 払込高 8万7千円 諸積立金 5千7百円 当期利益金 6千580円(4年末現在) 社長 山崎 断 取締役 樺 勝次郎 薗田 徹夫 藤島 豊太郎 川原 大(ふとる) 監査役 内山田 民治 柳河軌道社長 元衆議院議員 立花親信(紀伊 柳河藩後断隊長)逝去 成清博愛 馬上金山主 元衆議院議員 逝去 2代瀬高町長 立沢久雄辞任 衆議院議員は富安保太郎(山門郡三橋村)、吉原正隆(大川町)、永江純一 |
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【東肥鉄道開業】 明治24年に東肥鉄道会社が設立されたが、この区間に国有鉄道が敷設されるといううわさが立ち、解散する。 矢部川駅から清水寺のある本吉までは4人乗りの高等馬車が走っていた。 大正8年(1919)11月30日に東肥鉄道K・Kが設立される。社長に南関町の河端浅次が就任。資本金200万円であった。鹿児島本線が海沿いに敷かれたため、鉄道から取り残された。経済の発展を期待して、玉名郡南関町の石井家(北原白秋の母の生家)が中心となり、この地区に鉄道を引くのを決断し路線建設に取り掛かった。熊本、福岡両県にまたがる為、手続き、その他のため手間どり着工が柳河軌道より10年余り遅れた。当初は矢部川駅より本吉、山川、南関、山鹿より隈府へ行き、それより大牟田に通じる予定であった。 大正9年9月15日 東肥鉄道が資本金二百万円、本社南関、出張所瀬高町下庄八幡神社境内で矢部川駅基点、山川経由、南関行きの軽便鉄道である。社長・村山一松(朝日) 本吉駅長・東原キテ(本吉) 機関手・上津原浅吉(大江)江崎熊市(朝日)とあり、社長の村山一松は明治27年25才で山門三池製茶組合長になり明治33年31才で清水村村長になる。その後柳河軌道社長、東肥鉄道社長を務めている。よって柳河軌道の機関手・上津原浅吉氏を両会社で採用していたのであろう。 大正10年(1921) 矢部川駅〜朝日(仮)〜本吉(もとよし)駅 〜 野町駅 〜ちくご原町駅 〜 北関(きたのせき)駅 〜外目(ほかめ)駅 〜南関(なんかん)駅の13.6kmを営業開始。矢部川駅とは現在のJR瀬高駅で、清水小学校付近に本吉駅、山川の野町駅は庄山博氏宅付近にあり、筑後原町駅は沖謙二氏宅付近に設置された。 ![]()
昭和2年(1927) 明治初期に新橋ー横浜間で活躍した5号機関車(160型)英国シャープ・スチュアート社製造(1871年(明治4年)製造)が東肥鉄道に売却され再び東肥鉄道の軌道を走る。機関車が残っていれば文化財級であるが消息は不明である。
昭和4年 九州肥筑鉄道と改称し、全線の測量も終わって、工事は南関より山鹿へと進まれていたが、トンネル工事の設計ミスによる手違いから工事が中止となり、南関〜隈府(菊池)間は計画線から経由地を大幅に変更して建設に着手されたが、こちらは志なかばにして頓挫して南関が終着駅となった。 この年、東京〜下関に特急「富士」(公募で名付け)が運行される。 昭和5年には東京〜神戸を特急「つばめ」が走る。 昭和13年(1938)山間部の人口の少ない農村をを走る東肥鉄道は沿線上の利用客が伸びず営業不振で開業19年目で解散となる。国の補償買収を期待して線路をそのまま残していたが、結局実現には至らなかった。 昭和16年国鉄バス山鹿線(鹿児島本線と豊肥本線を結ぶ鉄道連絡線)として全通し運行されるようになる。(平成18年2月(2006)国鉄バス山鹿線は68年の歴史を閉じ産交バスに移管された。) @リンク廃線跡のページ【東肥鉄道】 A九州肥筑鉄道を訪ねて 現在、東肥鉄道の面影を残すのは、瀬高駅北東の吉岡川、河原内の大根川、日当川、待居川、大谷の飯江川などに鉄橋の橋脚が残されている。 |
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自動車輸送の出現 明治45年に国内での快進社(日産自動車の前身)の創立で国産のガソリン車の生産が始まった。 矢部川駅前旅館旭屋が明治30年頃から人力や馬車を使い営業をしていたが、旭屋の金子兼吉氏は大正12年頃瀬高町で最初の自動車運転免許修得者し、自動車3台を購入して自動車運送の営業を開始している。下の写真は当時の自動車T型フォードで、ナンバープレート23は福岡県内23番目の車であることを示している。自動車が珍しい時代、旭屋は下庄小学校の校庭を利用して自動車学校もやっていたという。 ![]() 瀬高町で最初の自動車(大正10年)(金子しずの氏提供) 大正15年には旭屋旅館自動車は瀬高〜沖端〜両開路線を、12人乗りと11人乗りの小型バス2台で運行を開始している。昭和6年頃には大型バス2台で営業していた。 ![]() 瀬高駅前の旭屋旅館自動車部・2階が旅館(大正15年)(金子しずの氏提供) 昭和2年には、下庄恵比須町の佐野慶一氏が瀬高で2番目に自動車運転2種免許修得し、翌年の昭和3年に甲種運転免許を修得している。当時は甲種免許は全車種運転が出来、2種免許は単一車種しか乗ることが出来なかった。佐野氏は貨物運送業を始め、その後、免許証を取る人が増え、瀬口トラック、湯江トラック、大江トラックの運送業者が増えていった。白菜、酒、レンガ、瓦などの生産品輸送が、鉄道貨物と競合しながら発展し、各企業や商店も自家用運搬車を購入し始め、車の台数が急に増加していった。 ![]() ![]() 昭和3年頃から「柳河軌道K・K」もホロ型乗り合い自動車を軌道に沿って走らせた。柳川〜大牟田間と矢部川駅〜柳河間の2路線であった。トラックも2台あったが、荷が少なく改造してバスにしていた。 ![]() 柳河軌道自動車部、定期乗合は沖端〜矢部川駅と沖端〜柳河〜中島〜黒崎〜大牟田の看板 豆自動車は柳河町内50銭均一・何時でもいきます・どんな山道でも行くとある。 矢部川駅の乗降客を相手に旭屋自動車と柳河軌道K・Kが同時期に客の争奪戦が派手に行われ、クラクションを鳴らし合い、駅の待合所に近い停車位置の奪い合い、はてには用心棒を雇って喧嘩まで発展する始末に駅長がしばしば叱責に及ぶ状態であった。 昭和6年に旭屋自動車の可志久旅館跡にあった車庫のバス3台、ホロ型3台、が不審火により全焼したが、1台修理に出していたバスと、あと1台を2万2千円で購入して20日後に再び営業している。 当時は修理の部品が簡単に手に入らず、ギヤーやシャフトは大牟田の製作所に依頼していた。 ![]() 柳河軌道自動車部、自動車格納車全景 |
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柳河軌道株式会社・解散 昭和7年2月20日 柳河軌道K・Kは、佐賀線開通により国が金額25万円で補償買収することになり解散する。調査団の収益調査をして割り出したもので、余分に判明したことは、料金が日本一高く、収益の多い会社であったことである。下庄の川原仁三郎氏(写真後列左から2人目)は旧制中学卒で昭和5年入社、初任給25円であったが、これは楽に米4俵(240kg)以上買える額であった。 |
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![]() 昭和7年(1932)・会社解散前の会社全員の記念写真(当時社長は川原大・監査役の壇幹一の姿あり) |
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![]() 昭和7年頃の瀬高駅 |
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昭和7年 柳河軌道K・K解散後、自動車部の運転手であった、平山満、上田鶴来(代表者)、坂梨喜一郎、田中喜一の4氏が自動車を買い取り「大和自動車」を営業開始した。矢部川駅〜沖端間をバス5,6台で運行した。 昭和10年佐賀線が瀬高(鹿児島本線)〜三橋〜百町〜筑後柳河〜東大川〜筑後大川〜筑後若津〜諸富〜光法〜南佐賀〜東佐賀〜佐賀(長崎本線)の24.1km全線開通する。佐賀駅・瀬高駅はそれぞれ佐賀線用の0番ホーム出着していた。(昭和62年3月(1987)に廃線された)
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柳川にも鉄道の恩恵 昭和14年7月1日九州鉄道線(現在の西鉄の天神〜大牟田線)が全線開通して柳川にも鉄道駅ができる。11月には急行運転開始される。 昭和17年五社合併して西日本鉄道K・Kが設立・昭和18年2月にプロ野球球団「西鉄」が誕生している。 昭和39年国鉄で瀬高駅から東京駅までは急行で24時間を要していた。正月やお盆の帰省時期には、席には座れず立ちっぱなしで、あった。新幹線の東京〜大阪間の「こだま」が開通したのも、この年で6時間を要した。 |
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