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【南筑後戦国史・田尻物語】H18・7・1作成 H18・11・24更新 H19・2・22更新(リスト指マーク部) 戦国時代の南筑後は下蒲池(柳川)・田尻(鷹尾)・三池(大牟田)・上蒲池(山下)・溝口(筑後)・黒木(八女)など祖先以来の在地を所有した国人が城郭を構えていた。一国支配はなく、豊後(大分)の大友・肥前(佐賀)の龍造寺・肥後(熊本)の菊池・薩摩(鹿児島)の島津の戦国大名らの戦況下において主人を選択、従いあるいは謀反し戦乱の世を渡りぬき自国領地を守っていった。ここでは鷹尾城を本拠とし浜田城・堀切城・江浦城・津留城・田尻城の支城を構え、三池北部、山門南部(福岡県みやま市)、上妻郡を支配した田尻一族の戦国物語を取上げました。 庄福 |
古 代 |
【田尻氏の起源】 田尻氏の祖先は、もと大蔵姓である。履中天皇、雄略天皇の頃(400〜479)に内蔵、大蔵を建て、諸国より納める絹を東西文史に命じて帳簿を記録させた。依って記録する者に姓を賜ふ。これが内蔵氏、大蔵氏である。 |
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平 安 時 代 |
【承平・天慶の乱】(じょうへい・てんぎょうのらん) 承平5年(935)平安中期の関東では桓武(かんむ)平氏の一族平将門が反乱を起こし関東8カ国と伊豆を平定して自ら新皇と称し、下総の本拠に王城を構えてここに独立の政府を立てた。 西国でも伊予国の前伊予掾(じょう)藤原純友が瀬戸内海で海賊の討伐を朝廷より命じられるも、海賊の集団の棟梁となり兵器庫を襲撃して兵器を奪ったり運搬船の略奪を行ない朝廷に恐怖を与えていた。 天慶4年(941)平将門の乱を征伐した朝廷は西国の「藤原純友の乱」に際し、大蔵春実(のちの原田・秋月・田尻氏の祖)・予国警固使橘遠保らの追討軍を派遣。藤原純友は壊滅に追い込れ捕らえられ、獄中で没した。この恩賞によって大蔵春実は対馬守に任ぜられ、一族の者が筑前国の内3700町を賜り、功績のあった大蔵春実の孫の大蔵種村は、大宰大監(軍事警察管轄)に任命される。大蔵氏の遠祖は後漢皇帝の末裔で、帰化人の阿智使主(あちのおみ)であるという。 【刀伊(とい)の入寇】 寛仁3年(1019)満州の女真族の一派である刀伊(とい)の入寇があるが、 刀伊は50余艘で北九州地方を襲い、殺害されたもの400人、 拉致されたもの1000人のほか、牛馬も数百頭を拉致していったと記録にある。、大宰権帥藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。大宰大監の大蔵種村も抜群の軍功があって、子孫は九州に土着し、大宰府の「府官」を世襲する。 【田尻の初祖】 寿永(1182)「田尻系図」(田尻家文書)では大蔵春実より8代目の種成に5人の子があり、長男種直が原田氏を継ぎ、次男種雄が秋月氏、三男実種が田尻氏を、四男種良が江上氏を五男五郎が高橋氏の祖となった。戦国時代の九州の武将、大蔵党一族と呼ばれ活躍した。田尻初代の実種は平安時代の末期頃に筑前国から筑後国三池庄田尻邑(高田町田尻)に移り住み田尻三郎と称したのが始まりで森山宮を勧請し、代々田尻家の氏神と尊崇ししたとある。居城とした田尻山の飛塚城(ひずかじょう)跡は昭和8年に開墾されみかん畑となっている。森山宮は城跡の下の北西の中腹に鎮座し桜咲く春に例祭が行われている。
「肥陽軍記」には田尻の初代を大蔵森房とあり大蔵春実の三男とあり天慶5年9月15日に森房と名づけたとある。系図に異本・異説があり正確なことは良く判っていない。
元暦元年(1184)「田尻系図」(田尻家文書)では実種の嫡男の田尻三郎敦種は源平合戦で戦死、のちに次男の田尻又三郎員種が2代目の家督を継いだとみられる。 文治元年(1185)平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した後、田尻氏の膝元の要川で源平最後の激戦が行なわれ平家は破れたが、田尻氏は肥後の菊池氏と同じく戦いに関わらなかった思われる。 建久3年(1192)源頼朝は鎌倉に鎌倉幕府を成立した。筑後にも関東の宇都宮氏などの武士が入り込む。 初祖、田尻三郎実種は源氏の大将源範頼(のりより)に対する過言(悪口)の罪で鎌倉に召喚されたが、その罪を許されて、三池に帰されたという。 |
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鎌 倉 時 代 |
建永3年(1206)6月に鎌倉の将軍御所南庭での相撲大会で「鎮西住人三毛大蔵三郎」の武者が出場している(吾妻鏡)。田尻の祖と思えるが確証はないが、まぎれもなく三毛(三池)大蔵氏の一族である。 3代目田尻運種〜4代目通種〜5代目英種〜6代目守種〜7代目考種〜8代目宣種〜9代目基種〜10代目種吉〜11代目種範〜12代目種重とされている。この期間の田尻氏の動向の記録が乏しく不明であり、家系図の確証はない。 9代目の飛塚城主の基種(左京亮)は本吉梅ヶ谷の成合寺(現廃寺)を祈願所としている。 【蒙古襲来・文永の役】 文永11年(1274)来襲した元、高麗軍が北九州に上陸し、進んだ兵器と戦法によって日本は負け戦だった。暴風雨により幸い危機を脱することが出来た。田尻種継は文永の役勲功地、三潴庄藤吉村の地頭職を賜る。 建治2年(1276)再びの蒙古襲来に備えて、上陸をくい止めるために、博多湾岸に石の防塁を築きことにした。 筑後からは田尻種重・神代良忠・黒木・星野・河崎・西牟田永家・草野永綱・酒見教員・末安兼光らが参加している。 【弘安の役】 弘安4年(1281)再び蒙古軍は大軍を率いて九州北部の各地に押し寄せた。西国の御家人たちは総力を尽して防戦に努め、双方に死者が続出したという。このとき田尻種重と弟種光は討死し、嫡男の田尻種長が13代目を継いだ。 蒙古の軍船が壱岐に現われた5月20日以来各地で激戦が繰返されたが、7月晦日の台風で一夜のうちに数千といわれた蒙古の船は一隻も残らず打ち砕かれたという。 ![]() ![]() 弘安9年(1286)弘安の役の勲功人として田尻次郎種光子息、田尻三郎種重子息、同四郎種継跡が恩賞地として薩摩国鹿児島郡司職十分の一が給されるとある。 この勲功人に米生又三郎種守、同九郎種有の名があり大牟田南部の米生(よねお)の同祖の大蔵一族で三毛(三池郡)南部の属し勢力を持っていた。そして三毛(三池郡)北部を田尻が属していた。 この頃、北条(得宗)一門とその家臣の勢力が伸び恩賞も充分には行き届かず御家人の不満が高まって、各地で反幕運動が展開されて、鎌倉幕府の終末が近づいていった。 |
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この頃の筑後の守護職は、豊後の守護の大友氏が兼務していた。本領の豊後国所職以外は、一門支流(庶流)や譜代の家臣を目代(国司の代理)・守護代・郡代・地頭代として任地に派遣して年貢の進納や領民支配に当たらせた。 正平14年(延文4、1359)に皇子・懐良親王を奉じた菊池武光、赤星武貫、宇都宮貞久、草野永幸ら南朝勢約4万の南朝勢と、大宰府を本拠とする北朝・足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時ら約6万と戦った(筑後川の戦い又は大保原の戦い)。戦いのあとに菊池武光が、刀についた血を川で洗った場所が、筑後国太刀洗(たちあらい)と呼ばれ現在の大刀洗町の地名ができたそうだ。 この戦いで両軍2万6千人余が討死にしたといわれ、足利軍は敗れ、九州は南朝の支配下に入ることとなる。 正平16年(1361)肥後の菊池武光は懐良親王を奉じ、大宰府へ進出。大宰府を征西府として本拠地とし、南朝勢力の全盛時代が到来した。懐良親王は日明貿易(勘合貿易)を行い明王朝の権威と勢力を背景に独自に九州に南朝勢力を築く。だが10年後に南朝の征西府は幕府の九州探題、今川了俊に敗れ、征西将軍の職を良成親王に譲り筑後矢部で病没したと伝えられる。 この頃の田尻氏は、14代目田尻種秀〜15代目種顕〜16代目種茂〜17代目冬種と続いたと思われる。 この期間の田尻氏の動向の記録が乏しく不明であるが、田尻種継の曾孫に当たる田尻種家が少弐貞経に従い天皇方の菊池武敏と戦い戦死していることから、当初は北朝方であったであろう。内乱末期には良成親王の軍勢に田尻氏が加わっていた史料(五条文書)があり南朝方として行動した時期があった思われる。 |
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室 町 時 代 室 町 時 代 |
応永3年(1396)南北朝が合一され室町時代に入っても、豊後(大分)の大友親世(ちかよ)と肥後(熊本)の菊池武朝(たけとも)とが筑後において筑後の勢力を競い戦った。菊池に味方する国人蒲池.問註所.田尻.草野.西牟田などは山川要川(山川町)や竹井原(高田町)で大友勢と戦ったが破れ降参する。 【大友氏の筑後領守護職】 応永23年(1416)大友親著(ちかつぐ)が室町幕府の足利義持(よしもち)より筑後守護職を安堵され大友家が筑後を支配する。 【菊池氏の筑後領守護職】 永享4年(1432)室町幕府八代将軍足利義教(よしのり)は豊後の大友親世(ちかよ)の嫡男、大友持直(もちなお)の筑後守護職を改易し、これを肥後の菊池持朝(もちとも)に与えた。これにより32年間筑後は菊池氏の守護領国下に置かれる。 宝徳年間(1449〜51)、田尻氏は菊池氏より所領の安堵を受けているから、この頃は菊池氏に忠誠を誓っていたとみられる。 寛正3年(1462)幕府は肥後国の菊池19代当主の菊池持朝の家督を継いだ20代当主菊池為邦氏は筑後半国の守護職に降格され、残りの半国を大友親繁氏に与えている。この事により前の筑後守護職であった菊池氏と大友氏の対立が始まることとなる。 寛正6年(1465)2月、筑後半国の守護職に不服とした菊池為邦(ためくに)は弟菊池為安(ためやす)を大将として筑後の出兵したが高良山で戦死し敗北する。この時筑後の国人のうち三池、溝口、黒木、川崎、辺春らの諸氏が菊池方に参陣しているが田尻氏の動きは定かでない。菊池為邦は朝鮮との貿易を行うなど対外貿易を盛んに行ったが、この為邦の時代より菊池氏の衰退が始まるのである。 室町幕府は大友親繁(ちかしげ)に筑後一円の守護職を与える。 応仁元年(1467)から文明18年(1486)の間、田尻は豊後の大友氏の支配下で、所領を拡大し行く。 文明10年(1478)菊池為邦(ためくに)の家督を継いだ21代当主菊池重朝(しげとも)は筑後半国の守護職を競望、筑後に出兵して筑後守護職を引き継いだ嫡男大友政親と争うが幕府の仲介で徹兵、以後菊池氏は筑後から撤退する。 文明11年(1479)18代目田尻恒種(つねたね)は正月11日に森山宮(田尻家の氏神)に長田村7町・岩津村5町・農志村(濃施)3町・山門郡小河12町の神領を寄附している。 文明16年(1484)1月、田尻恒種(つねたね)は山門郡上小河12町(山門郡瀬高町上小川)を守護代田原親宗から預けられる。3月、田尻郷の森山宮に文明11年に続き、再び三池郡岩津27町の内7町を神領として寄進する。 この時期から、豊後の大友政親に属し、忠誠を誓い筑後国内171町を安堵されている。その後の19代目嫡男田尻種久(たねひさ)に跡目を継ぎ、山門郡大塚・波江・浦の所領が増え250町を安堵された。 【豊後参り】 大友家には豊後参り(八朔太刀馬の儀式)といって大友領国内の大小名は毎年八朔(陰暦8月1日)の日に、府内に上り、大友家当主の検閲を受け諸豪たちはあらためて、大友家の威風にひれ伏し、忠誠を誓ぅた。大友家にとっては支配地の大小名たちに、武威を示す絶好の場所であり、儀式を無視して、もし参府の礼を欠けば、異心ある者として、たちまち誅伐した。 筑後には上蒲池(上妻郡)・下蒲池(山門)・問註所(生葉郡)・星野(生葉郡、竹野郡)・黒木(上妻郡)・河崎(上妻郡)・草野(山本郡)・丹波(高艮山座主)・高橋(御原郡)・江上(三瀦郡)・西牟田(三瀦郡)・田尻(山門郡)・五条(上妻郡)・溝口(下妻郡)・三池(三池郡)の大身15家があって、これを筑後の15城といった。天文年間、筑後15城の旗頭蒲池鑑貞はこれを怠ったため、府内に呼び出されて斬られている。 明応8年(1498)4月、田尻種久の嫡男、又三郎は大友親治(ちかはる)から「治」の一字を貰い、種久の跡目を継ぎ20代目田尻治種(はるたね)となり、数度の合戦勲功により筑後国内7村300町を加領された。 永正5年(1508)11月3日に21代目田尻親種(ちかたね)に筑後守護大友義長より三池郡の田尻12町・岩津29町・山門郡の海津66町・波江6町の地を知行された。 天文3年(1534)、大友義鑑(よしあき)は弱体化した肥後の菊池氏に実弟重治(菊池義宗に改名)を養子に出し、肥後国の支配を目論んだが、弟に反逆され窮地に立つが、幕府の仲介で克服する。この時、田尻親種は起請文を送り大友義鑑に忠誠を誓い、この戦いで三池、西牟田、蒲池、溝口、河崎ら筑後の有力国人が、反大友同盟を組織し菊池方に味方する中、終始大友氏を援け、恩賞として山門郡の鷹尾(大和町)に250町の知行地を与えられ飛躍的な所領の拡大となる。 「田尻文書・今度の御忠義より」 【田尻親種代の所領】 田尻45町・岩津27町・海津66町・竹井33町・大塚12町・波江6町・浦6町の従来の所領に鷹尾250町・本吉北12町・下妻郡の中牟田5,5町が増え総計462,5町の歴代最大の所領となる。 天文5年(1536)、田尻親種は田尻城の不便を感じ、大規模な守りの堅い城を考え、恩賞地の鷹尾村に築城申請を大友義鑑(よしあき)に行ったと思われる。また、田尻山の居城の飛塚城(ひずかじょう)が風水害の被害のために鷹尾城の築城を申請したとの説もある。 ![]() 【鷹尾城の築城】 天文6年(1537)、田尻親種(ちかたね)は大友から承諾を得て、この年の暮れ頃から鷹尾村に築城をはじめ、城の規模から多年を経て完成したのではなかろうか。築城年については天文3年説・4〜5年説・2〜16年説・17年説などや永禄年間(1558〜66)説がある。田尻文書には鷹尾城の築城に関する6点の古文書があるが無年号で年代が特定できていない。 ![]() ![]() ![]()
天文12年(1543)、ポルトガル人が種子島に鉄砲を伝えた。東シナ海では海賊、私貿易、密貿易を行う倭寇が活躍する。 ![]() 天文16年(1547)11月、田尻親種(ちかたね)は嫡男宮七郎(鑑種)を伴い豊前府内(大分市)の大友義鑑(よしあき)に子息宮七郎への家督相続の許しの御礼と義鑑より元服させてもらう祝いのため府内城に参府した。参府の人数は、親種親子をはじめ一族郎党31名、人足46名、矢負衆、僧侶1名で、馬29疋により旅たっている。参勤に行く際、近在の衆からの餞別の古文書(田尻親種豊後府内参府日記・「佐賀県史料集成」古文書編第7巻)があり、蒲池本家の蒲池鑑盛は太刀一腰と銭1万文を上蒲池の蒲池鑑広は縞織物2端を、蒲池伊豆守・蒲池肥前守・安徳氏(島原の安徳城主)・名和氏(熊本の宇土城主)など遠方からの贈答者もあった。地元では板橋氏が選別として砂糖3斤を贈っている。田尻氏が大友義鑑に贈った進物は、太刀類二十一腰・馬二疋・征矢こう百・鷹の羽二・扇二・黄金半数・黄金杯一・和銭千疋・嶋織十五端・北絹五端などで、府内の重臣・恩顧の人々にも多彩な贈答品をあげている。「参府日記」には親種一行が道中や府内において、義鑑および家中関係者に対して鷹尾周辺地域で栽培されたと思われる木綿のほかに中国船やポルトガル船によって東南アジア、南アジアから日本に輸入された大量の「嶋織」「嶋木綿」を贈っていることがみえる。これは16世紀中頃以降、東南アジア、南アジアから日本に輸入された木綿布で、左の地域からもたらされたことから「嶋渡り」の木綿、「嶋木綿」と呼ばれたとみられる。染め糸による鮮やかなストライプが織り込まれており、上質で珍重された。
跡目相続した宮七郎は若干9歳で元服し、大友義鑑より鑑種の名をもらっている。天文15年(1546)には田尻親種は脳卒中になり中風の病となり、成人(15歳)前の宮七郎の家督相続を急いだと考えられる。 10才の鑑種は氏神である森山宮を始め、高良大明神・海津の阿蘇大明神・竹井の八幡宮・鷹尾大宮司に家臣38名と参拝している。 ちなみに、この田尻鑑種の姉が、柳川の蒲池鑑盛の妻となっている。蒲池・田尻両家は家臣に至るまで親類縁者が多く、親しい間柄だった。だが34年後の天正9年(1581)の田尻鑑種が柳川や塩塚の蒲池一族を攻める惨事が起きる・・・ 天文17年(1548)田尻親種は矢部川河畔に新しく完成した鷹尾城にに移ったとあるが永禄年間の説もあり定かでない。旧飛塚城(高田町田尻山)には、一族の田尻左京を入れて城番とした。 田尻鑑種の姉は蒲池城主(柳川)の蒲池鑑盛(かまちあきもり)に嫁ぎ、妹は大木城主(瀬高町北大木)の大木統光(おおき むねみつ)に嫁ぎ田尻・蒲池・大木の3家は義兄弟にあたる。 【大友・二階崩れの変】 天文19年(1550)2月、大友義鑑(おおともよしあき)は、家督問題で家臣に襲撃され死去(二階崩れの変)のお家騒動が起こり分裂し弱体化する。 再び肥後の菊池義武(義宗改め)が隈本城で挙兵する。菊池に味方する筑後の三池・溝口・西牟田の各氏に、鷹尾城を攻められ田尻は籠城して対戦する。 田尻親種の弟の田尻鑑乗は溝口(現筑後市)の陣に討って出て勝利するが、肥後の和仁氏などに攻められ危うくなり、下蒲池の蒲池鑑盛の援軍で無事に鷹尾城にもどる。 大友義鑑の子義鎮(よししげ)(後の宗麟(そうりん))が家臣を統率し、菊池義武(よしたけ)を倒し、筑後国内の抵抗勢力をことごとく屈服させ、肥後・筑後の分国化を完成し、戦国大名として確立する。 この戦いで田尻親種は肥筑境の竹井原・三池・今福の大友陣営で活躍。特に菊池方の三池親員(ちかかず)を倒し、三池郡内の所領を拡大し462町を所有し最高の繁栄をもたらす。 天文20年(1551)、大友義鎮はイエズ会宣教師のフランシスコ・ザビエルが豊後に布教の為にやって来てキリスト教に出会っている。 天文21年(1552)正月15日の田尻鑑種15才の元服(げんぷく)の御参上日記には「馬一疋(ひき) 鷹尾大宮司 ・太刀一腰銀 森山宮大宮司 ・紙一束 竹井八幡宮 ・さくら二十 梅津大宮司 ・馬一疋 万願寺 ・馬一疋 東林寺」とあり、共奉の家臣46名で、盛大なる元服の儀式を想像できる。 天文22年(1553) 大友義鎮(よししげ)は知行預状を発給し、大友家の老臣小原遠江守の反逆に対する軍功を賞し、田尻鑑種(あきたね)に筑後国内の30町を与える。鑑種は当年14歳でありこの戦いが初陣であったかもしれない。 永禄年間(1558〜69)田尻親種(ちかたね)は筑前、肥前方面で大友宗麟(義鎮)旗下の国人として戦い、大友氏老臣の戸次鑑連(べっきあきつら)・吉弘鑑理・臼杵鑑速・田原親堅らと連携し宗麟(義鎮)体制の維持に貢献する。 永禄2年(1559)豊前の大友義鎮は、将軍、足利義輝から、豊前、筑前守護に正式に任命される。 この年、肥前の龍造寺隆信の兵が本吉清水寺や長島中小路の養福寺を焼き払った。
永禄5年(1562)、大友義鎮は大友宗麟(そうりん)と号している。 ![]() 【永禄十年の戦乱】 永禄10年(1567)9月、高橋鑑種(あきたね)が大友氏に反旗を翻すと秋月種実(あきづき たねざね)も同調し、休松にて大友軍を叩きのめした。この戦いで戸次鑑連(べっきあきつら)の一族は大打撃を受け、鑑連は無事だったものの、その弟らは討死した。この筑前休松(やすみまつ)合戦(甘木)で大友の老臣の戸次鑑連が秋月種実に敗れ、大友方の田尻軍(鷹尾)は59人戦死、29人負傷の犠牲をだした。田尻の親族の田尻鎮広・鎮忠・鎮光・鎮賢が戦死している。敗戦はしたが、激戦で田尻鑑種は敵首15を討ち取って戸次鑑連より感状と黄金5両を与えられた。 永禄12年(1569)正月11日大友は龍造寺を攻めた。この時龍造寺隆信は田尻鑑種に依頼状を送っている。同年5月、大友は高良山に陣し隆信はこれを攻めた。田尻鑑種(あきたね)は大友方のため、粉骨の働きを示し、その功によりて感状をうけた。 同年7月13日に、田尻親種(ちかたね)の息女および嫡男鑑種(あきたね).次男鎮種(しげたね)らが、それぞれ「妙忍大姉」の二十五回忌に当たって、大乗妙典1千部看読の大法要を営んだことを記念して海津阿蘇神社脇の阿弥陀堂に造立している。妙忍大姉とは鑑種兄弟の母親であろうか。
永禄13年(1570) 博多での決戦により、ようやく安芸国(現広島県高田)の毛利 元就(もうり もとなり)が九州から撤退。大友義鎮(おおとも よししげ)は豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前、日向、伊予半国を領する、強大な戦国大名、最盛期が出現。また、海外貿易の拠点、博多を支配し、朝鮮貿易をおこなっていた。 3月大友宗麟は造反する肥前の龍造寺隆信を討つため、豊後から押し寄せ高良山に本陣を置き、弟の大友親貞(ちかさだ)を総大将とした6万の大軍を龍造寺領に送り込み肥前の佐嘉城(後の佐賀城)の5千の兵力と戦うが長引く。 同年4月23日(1570年5月27日)元亀に改元 【今山の戦い・田尻親種の死】 元亀元年(1570)5月この佐嘉城の戦いで田尻親種は重傷を負い6月23日鷹尾城で死亡したとある。だが持病の中風を長年患い限界がきて病死したとも推測できる。親種の墓は今も鷹尾城の北本丸跡とみられる矢部川河畔にある。地元の人は、親種の墓を「大墓(ううばか)さま」と呼ばれ、高さ1m50cmの自然石の表面に元亀庚午年 松木市郎兵衛建立 損館前伯州守大倫龍喜大居士神儀 六月二十三日 田尻源親種 の文字がかすかに読まれる。 22代目に三男の田尻鑑種(あきたね)が跡目相続をする。
田尻氏は龍造寺氏を攻撃する大友氏から兵船を準備して榎津(現・大川市)に在陣するよう命じられており、この頃、鷹尾は田尻氏の水軍基地も担うようになったと思われる。 同年8月19日、高良山に本陣を置く大友宗麟は佐嘉城に援兵を送って弟の大友親貞に総攻撃命令を下した。総攻撃開始予定日の前日の夜、親貞は今山の本陣で勝利の前祝いとして酒宴を開き、軍の士気を緩めてしまう。今山の本陣に対して龍造寺の武将鍋島信生の奇襲部隊に夜襲をかけられ、大友軍は総崩れになり総大将の大友親貞はこの乱戦の最中に戦死、大友軍の死者は2000人以上に及び大敗を喫した。 8月20日大友軍は肥前多久城にて肥前軍とも合戦、田尻鑑種は抜群の戦功あって大友より再度の感状をうける。高峯口の戦争でも軍功あり感状をうけた。 |
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安 土 桃 山 時 代 安 土 桃 山 時 代 |
天正元年(1573)中央では織田信長は足利義昭(よしあき)を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。 【大友勢力の衰退】 天正4年(1576)大友宗麟は家督を長男の大友義統(よしむね)に譲り、府内城から臼杵城(別名、丹生島城・現大分県臼杵市)へ隠居する。 大友と龍造寺との和平の事ありし時、田尻鑑種は使節として重任をはたした。大友よりその功により、幕の紋章を許され、また太刀一腰を授けられた。 天正5年(1577)鷹尾城主田尻親種(たじりちかたね)の二男田尻大助は、剃髪(ていはつ)して教圓(きょうえん)と号し、親種の子大安のために供養塔を造った伝えられられる。南筑後平野に分布する丸彫式(まるぼりしき)の典型的な六地蔵塔のひとつ。高さは2.27メートルあり、竿(さお)と基礎とを一石造りにしたもので、下張り、上細り方柱である。竿の上部には、梯形(ていけい)の龕(がん)を穿ち、中に僧形坐像(そうぎょうざぞう)を浮彫し、龕の回りに刻銘があり、龕下に蓮台(れんだい)を造り出し、左右にも刻銘がある。現在、大和町鷹尾の因福寺に現存する。 【耳川の合戦】 天正6年(1578)4月、薩摩の島津から圧迫されていた日向(宮崎)の伊東義祐を救援するため、大友義統は日向に大軍を送り耳川以北の北日向を制圧した。しかし11月、島津軍の援軍と高城を中心として戦ったが、島津に耳川まで追撃され4千の戦死者を出し大敗する。隠居した大友宗麟も出陣したが重臣をはじめ4千人余が戦死した。 大友宗麟は家督を譲った大友義統と、二元政治の確執から対立が深まり、大友氏は衰退し、肥前の龍造寺隆信は大友宗麟に敵対するようになる。これにより龍造寺・島津・大友の三強が並立して覇権(はけん)を争うことになる。 この年、大友宗麟はキリストの洗礼を受けてポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。戦国時代のキリスタン大名として知られている。 【田尻鑑種の大友から離反】 田尻鑑種は耳川合戦には加わっていないが衰退した大友宗麟・義統から離反をして、龍造寺隆信の配下となる。これには亡くなった田尻親種の弟の田尻宗達(鑑乗改め)が若年の田尻鑑種の後見人として、龍造寺氏に内通し起請文を交して、龍造寺方となる働きをしたであろう。 ![]() 【田尻の龍造寺配下による領地支配拡大】 天正7年(1579)3月、龍造寺隆信は田尻鑑種に三池鎮実(しげざね)、小代宗禅を攻めさせ敗北させた。その勲功に対し、三池郡の内豊水・野々宇田(怒縄田)・岡・坂井・楠田・新開・江ノ浦など合計187町を与える。 4月、肥前軍は山下城(立花町)の上蒲池を攻める。鑑種は案内役となり忠節をつくす。9月、再び山下城を攻め、大矢原三溝にて激戦する。さらに長田堤、松延に陣をとり連戦する。冬には肥後国の辺春氏を攻め、鑑種は戦功を立てる。 12月、龍造寺隆信と田尻鑑種の間で下蒲池滅亡の企てをし、鑑種に津留村と浜田村、その他1000町の所領を約束する。(天正7年12月9日付けの起請分) 天正8年(1580)3月、龍造寺隆信は柳川の蒲池鎮並に謀叛の疑いで攻めるが籠城され容易に陥落できず和睦。田尻鑑種は功あり、隆信より神文状が来たり津留、浜田30町を与えられる。 日向国米良郷(ひゅうがのくにめらごう)の米良安岐守信之(めらあきのかみのぶゆき)は、主従(しゅじゅう)数十人とともに、鷹尾城主田尻鑑種を頼って鷹尾の地に来た。米良信之は、海岸のよし洲を拓(ひら)き、島堀切村数十町を開拓し、名を島十右衛門(しまじゅうえもん)と改称した島氏の祖(そ)で、慶長11年(1606)、死去した。現在、島信之の碑があり高さ1.5メートルの自然石の墓には、「深諦院殿法誉善海大居士慶長十年丙牛三月二日」と銘(めい)が刻(きざ)まれている。 【下蒲池の滅亡】 天正9年(1581)6月、龍造寺隆信は蒲池鎮並を佐賀に招き騙し討ちにし、田尻鑑種は甥の間柄の蒲池鑑並の柳川城を攻略させ、下蒲池を滅亡させた。蒲池一族最大の悲劇が柳川周辺の支城、塩塚城などで行われた。田尻鑑種は6月1日塩塚城を肥前軍と攻める。6月3日には佐留垣城(皿垣)を攻める。戦功により9月4日に塩塚村130町・肥後合志郡夜門13町・同 金亀村2町・同 橋田村45町・玉名郡伊倉小島10町を、ほかに鎮並の本地 塩塚村130町・たな町村100町・黒木領 ひらき村25町・同 をさ島25町・豊後領 井手の上6町・同 松延村33町・鎮並本地 大き村6町・同 三池亀崎45町・同 野志(濃施)45町・同 上内村3町・豊饒領 尾尻村15町・ふすべ6町・ふか倉6町・ふか浦13町・をか松5町の以上478町を賜る。 天正10年(1582)8月2日龍造寺隆信は瀬高上庄で瀬高川(矢部川)を舞台に川狩り(鵜飼遊び)に事寄せ田尻鑑種の離反(りはん)を感じて謀殺(ぼうさつ)未遂事件が田尻に発覚する。龍造寺政家と家老鍋島信生が上庄の瀬高川の鵜仕の遊山に鑑種を誘い、川中で謀殺しようとする陰謀であった。肥前方からの特別な恩顧(おんこ)もなく、数度の天罰起請文の往復あり。 謀殺未遂の真相だが龍造寺隆信は柳川城を奪い、そこを拠点に筑後国と肥後国の領地獲得を目論んでいたであろう。元々田尻鑑種に領地をあげる気はなく、翌年には嫌疑をかけ、鷹尾城を奪う策略とも考えられる。または謀叛(むほん)が鑑種自身の意思であったか定かでない。 【鷹尾・江ノ浦合戦】 遂に鑑種に対する疑いは解けず同年10月、油の乗り切った男盛りの田尻鑑種45才は龍造寺と手を切り鷹尾城に籠城し鉄砲を撃ちかけ頑固に抵抗した。支城の江浦城の田尻但馬入道了哲・浜田城の田尻大蔵助鎮富・津留城の田尻石見守鎮直・堀切城の田尻彦左衛門鎮水の4城も必死に防戦し、籠城は500日に及んだ。 ![]() 【田尻鑑種(あきたね)の所がえ】 天正11年(1583)1月、島津勢の伊集院若狭守の300人余の兵が兵糧を乗せて船で鷹尾城に着き一緒に戦う。肥前軍は鷹尾城の支城の江浦城も攻めるが田尻了哲は奇略をもって肥前軍をなやます。 11月田尻は同じ大蔵の血をひく秋月種実の仲介で、蒲池鎮並の二の舞いになっては、せっかくの籠城も意味がない。それに鍋島信生は田尻のそれまでの軍功に対して亡びさせるのに忍びないので、田尻への和平を強く進めた。龍造寺と和議が整い、鑑種は鷹尾城から堀切城に移される。 田尻鑑種は身柄の安全と、筑後の旧領に代る新地の保障を約束され、後継ぎの長松丸に肥前佐賀郡巨勢のうち200町の知行地を与えられ所がわりを命じられ佐賀に移る。 中央では豊臣秀吉が大阪城をきずいて、織田信長の後継者としての地位を確立し関白に任命された。 【龍造寺隆信の戦死】 天正12年(1584)3月24日、龍造寺隆信は有馬晴信の離反の知らせに怒り、島原半島に自らが兵を指揮し出陣する。有馬晴信は島津義久に援軍を要請し、義久の弟島津家久(薩摩)との連合軍にて島原北部の沖田畷(おきたなわて)で戦う。龍造寺隆信は島津軍の川上忠智により討殺され、重臣の鍋島直茂は隆信の遺骸を放置したまま、かろうじて佐賀へ逃げ帰る。 九州の政情はは大きく変わり、すかさず大友義統は筑前で協力する立花道雪・高橋紹運両将の軍事力を筑後に派遣し、失地回復を図る。 これに対して鍋島信生は、鷹尾開城後帰服して佐嘉に在番した田尻鑑種を筑後守備を命じ、田尻、亀尻、海津の三村を従前のように与えた。田尻鑑種は手勢を率い筑後に渡り海津城に入り防衛戦を行い防ぎ軍功を重ねた。恩賞に江上400町・倉永45町・濃施45町などの恩賞地を貰っている。 龍造寺隆信が戦死したあとは、跡目相続は隆信の嫡子の龍造寺政家となるが能力がなく、鍋島直茂が龍造寺氏統率の実権を掌握し、それがその後の、鍋島氏の佐賀藩の第一歩となり勢力を得るようになる。 【豊臣秀吉の九州平定】 天正15年(1587)、豊臣秀吉は肥前より筑後に入り高良山(久留米)に陣する。瀬高を通り山川村(通った道に太閤道と名がつく)を経て5月、薩摩の島津義久を降伏させ九州統一した。 豊臣秀吉は国割り(大名配置)を行ない肥前7郡が龍造寺政家に与えられた。その時、鑑種にも御朱印地の配当がなされようとしたが、鑑種は鍋島信生(後の直茂)との主従の契約を理由に固辞した(田尻氏由緒書出)。 その後の田尻鑑種は佐賀藩鍋島直茂に仕え、肥前国下松浦郡山代の内(伊万里市東山代町)に1659石の封禄を得てこの地に移り住んだ。 天正16年(1588)筑後の山門・三潴・下妻は秀吉に功があった筑前、立花城の立花宗茂が柳川城に入る。弟直次は江浦城主となった。 天正17年(1589)田尻鑑種によって、鷹尾城の菩提寺・親種寺を移し、郷土の逸材、名僧不鉄柱文和尚を開山に請い、田尻家の菩提寺とし、現在の伊万里市東山代町(ちょう)大久保に親種寺(しんしゅうじ)を創建した。現在、寺には田尻家歴代当主の墓石を始めその一族の五輪塔や歴代和尚の無縫塔などがある。現在、田尻に関する古文書や古図が寺に所蔵されている。 ![]() 【田尻鑑種・朝鮮での死】 文禄2年(1593)4月、田尻鑑種(たじりあきたね)は豊臣秀吉の朝鮮出兵の「文禄の役」に出陣して55歳で朝鮮国で戦死し異国の花と散った。その時に「高麗日記」を書き残しており、現代(1982年)になり北島万次氏によって鍋島家元が「歴史評論」紙上に翻刻紹介されている。(朝鮮日々記・高麗日記) 同年2月21日逝去の田尻種貞の供養塔が飛塚城の見える山川町北関にある(山川町文化財)。田尻因幡守種貞/圓寂鎮了安大居士/文禄二癸巳年春二月二一日/明暦二年忌日造立焉末孫田尻種元/と4行に刻まれている。逝去から43回忌の明暦2年(1656)に造立されている。文禄役で朝鮮で戦死したと考えられ、鷹尾城に移る前の飛塚城(支城)が城番として居城していたであろうか。田尻種貞の事跡については明らかでない。 文禄3年(1594)9月、戦死した田尻鑑種の嫡子、田尻家和も同じく朝鮮国で戦死した。23代目には弟の松亀丸が相続した。後に房種に改名する。 |
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江 戸 時 代 |
慶長5年(1600)鍋島直茂は関が原の戦いで徳川の東軍に寝返り、さらに柳川城主の立花宗茂を討伐した。 慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を成立させた。 龍造寺政家は肥前国佐賀藩35万7千石を安堵される。 その後、龍造寺政家が病死し、徳川家康は鍋島直茂、勝茂父子を肥前国の佐賀藩主とした。田尻房種も佐賀藩の家臣として仕え鍋島直茂の娘を妻としている。 慶長12年(1607)肥前では鍋島直茂が勢力を得、その子鍋島勝茂は龍造寺の所領を継ぎ鍋島氏の支配が確立された。 【小城藩主・鍋島元茂に仕える】 元和3年(1617)勝茂の嫡子、鍋島元茂は父が徳川家康の養女(菊姫)と結婚したとき、廃嫡されてしまった。 これは、家康の養女との間に生まれた子供(忠直)を後継ぎにしようとした為とも言われている。この為、家督を継ぐことができず、肥前国小城に73000石を与えられ初代小城藩で佐賀藩領内の佐嘉郡・小城郡・松浦郡を治める。 元和4年(1618)、田尻の子孫は肥前に住し、江戸幕府の徳川家康の没した2年後に初代小城(おぎ)藩主の鍋島元茂の家臣となり小城に代々住んだという。 寛永4年(1627)6月に田尻房種は春種と改名する。 【島原の乱】 寛永14年(1637)10月27日に島原の乱が起こり、徳川家光の幕府軍として佐賀藩主の鍋島勝茂に従い、島原の原城跡で籠城する戦闘員2万3000人、女子供1万4000人の計3万7000人の一揆軍と戦う。 翌年、2月27日、幕府軍の総攻撃で落城した。この戦いで幕府軍は戦死者1051人、負傷者6743人の損害を受け、田尻春種の親類も7人の戦死者を出している。 寛永17年(1640)7月、田尻春種は58歳で亡くなる。嫡子の田尻昌種が家督を相続し、24代目を継ぐとある。 寛永18年(1641)昌種は佐嘉城下本小路へ移る。 寛文4年(1664)8月、昌種55歳で逝去、嫡子の田尻興種(こうたね)が25代目を継ぐとある。小城藩2代藩主鍋島直能の側室の娘を妻にしている。 元禄11年(1698)5月、田尻興種63歳で逝去、26代目を嫡子の田尻輝種(てるたね)が家督を継いでいる。 正徳3年(1713)4月、輝種45歳で逝去、27代目を嫡子の田尻庸種(ようたね)が13歳で家督を継ぐ。 |
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明 治 時 代 |
【佐賀の乱】 明治7年(1874)、征韓論分裂で政府を去った征韓党の江藤新平らが,郷里の佐賀で不平士族を集め反乱を起こす。 小城城の鍋島家の元家臣であった田尻一族らも佐賀の乱に加わり佐賀城を占拠し、県境の朝日山(鳥栖市)では小城の田尻種博と唐津の井上考継が政府軍に応戦したが佐賀城下に侵攻され敗れる。新平らは鹿児島の西郷隆盛の援軍を求めに行ったが得られず、四国の高知に逃れる。江藤新平ら11名は阿波で捕らわれ処刑された。四国に逃れていた田尻一族はその後、各地に離散しており動向は定かでない。大正8年、特赦が行われて佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。現在(2007年)、伊万里市東山代町の親種寺の檀家には山代町と福岡市の2軒の田尻家が存在している。 ![]() |
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参考資料・柳川市史の田尻資料・大城美知信氏の解説文・高田町誌・戦国時代の柳川の蒲池因幡守鑑憲と田尻親種(木下浩良著)・日本中世社会の流通構造(鈴木敦子著)・伊万里市東山城町の親種寺の古文書掲載承諾・好意により作成致しました。田尻家系図には確証できない部分もあり、解明のたびに更新し掲載します。 |
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