庄福BICサイト           H・28・9・25編成開始                   【禁無断転載】 

                                                                                                 栁川さげもん


                                                                                     
 
 西原一甫宝暦11年(1761)、筑後柳川で父の西原種正と母(白井久慶の娘)との間に誕生する。通称は新左衛門。実名は公和、晩年に公助(きみすけ)と改める。また梭江(さこう)南野とも号した。家号は松蘿館(まつらかん)と称する。耽奇漫録では、この号(梭江)と家号を使用している。,隠居の後に国元の柳川に帰り「柳河明證図會」著した西原一甫と改称した名が著名である。幼き頃に父が藩命により江戸詰の側用人となり父に従い江戸に上り、そこで成長した(.)幼少より、文武を修め、諸芸に熟練していた(.)安永2年(1773)、13歳の時、7代藩主・立花鑑通の長男で家督継承予定者の立花鑑門(あきかど)(1755-1789)の稽古指南役など(そば)に仕えた。鑑門寛政元年8月(1789)に家督を継がず35歳で早死した後は留守居の家臣となる(.)西原は相撲好きで、日記やその漫録中にも色々書かれているが、柳川から江戸に出た力士で田子の浦、佐野由白石、相生などは数年間西原の江戸住宅に寄食(きしょく)させ雑談することを楽しみにし、力士の属する部屋の土俵でとる稽古相撲に伴い推奨されたのみでなく勧進力士あれば10日間休まず修行を励ましたという(.)また古い時代の事物を好み相当な古書画や古器物の収集は人も知る所であったという(.)書・絵などの文化に趣味が洗練された当代一流の文化人たちと交遊を重ね、最先端の文化に触れた人物として柳川藩にあって際立った存在であった。曲亭馬琴(きょくていばきん)もその一人である。西原の雑学・好古・考証好きは藩主の長子である若き立花蘭斎(らんさい)にも刺激をを与え,興味を持たすことになる。西原はあまり著作を遺さなかったらしく、諸書を抜書きした写本「一甫漫集(.)10冊(早稲田大学図書館蔵デジタル公開中)が残されている。文化12年(1815)正月54歳の時に風聞(風評)宜しくないとの理由で幕府の(とがめ)めを(こうむ)り、大目付から、柳河藩に西原の役を解き江戸を撤去するように下達されたが、8代藩主の立花鑑寿(あきひさ)(1769−1820)は留守役を免じたのみで、栁川に帰さず、江戸中屋敷に謹慎させた(.)2年後の文化14年には用人助役小性格に復職を果たし、下谷上屋敷に住することを許される。寛政11年(1799)9月、藩主の鑑寿は亡兄・鑑一の遺児である立花鑑賢(あきひさ)(1789−1830)鑑賢を次の藩主継承予定者として養嗣子とする。文政3年(1820)立花鑑寿が逝去し、養嗣子の鑑賢(あきひさ)に9代藩主の家督を相続するに及び(.)その翌年、立花鑑寿の長子の立花蘭斎は柳河に移り西三の丸に屋敷を拝領した。そして西原一甫(60歳)も息子の公幹(まさよし)に家督を譲り、勤めは従前のまま小姓や小納戸役を統括する小姓頭となり隠居して隠居料10人扶持賜る(.)      
      
     【耽奇会の発会】  .
 西原梭江(さこう)一甫)隠居後の64歳の時に、参加者が毎月それぞれ自分の興味を、そそられた珍品・奇物を持寄って論評し合う好事家会合の「耽奇会(たんきかい)」を発会した
(.)文政7年(1824)5月15日その初回が西原一甫の主唱で、娘婿の海棠庵(かいどうあん)こと思亮( し きょう) ・ 薬商・随筆家・雑学者の好問堂(こうもんどう)こと山崎美成(よししげ) ・ 画家の写山楼こと文晃(ぶんちょう)1763-1841) ・ 旗本の梅園こと戸田美濃守光弘の5人が(.)江戸上野不忍池の畔にあった「淡々亭」において第一回の集まりがあり(.)その記録の冊を「耽奇漫録」と命じ、耽奇会の規約を作成したのは松羅館こと
西原梭江だった(.)出品は各会一人あたり、5品程とし各自、出品物あるいは写生図と説明を書いて回覧した。版木で印刷して複数枚の配布は行ってはいない為(.)写生の苦手の者は仲間の絵師に書かせ「耽奇漫録」を作成したと思われる(.)当時、西原一甫は当時、西原梭江と名乗り、松蘿館(まつらかん)として耽奇会に出品している。藩命で筑後柳川に帰国する前の、として耽奇会に出品している。藩命で筑後栁川に帰国する前の文政8年(1825)3月13日迄の12回に出席し、(.)耽奇漫録」12集(.)を作成した。各出品物の絵を独自に模写し、あるいは絵を贈呈してもらい、説明書きを写し「耽奇漫録」を編集した本は山崎美成の家に伝わる全20集と(.)曲亭馬琴の「小集展覧」5巻の中に耽奇漫録が収集された本が残されている(.)西原の「耽奇漫録」12集は柳川古文書館に移管され保存されている。これらの本の序文および出品物の挿絵や添書きが独自に書かれた出品物写生図を見かける(.)編集した出品物も取扱わなかった物もあり、若干異なって独自性が見うける(.)

   
    .思亮( し きょう)1796−1830
 江戸時代後期の書家で常陸(茨城県)土浦藩士。号を海棠庵と称する。父の克明(こくめい)に学び、藩の右筆手伝などをつとめる。書法や金石学(金属,石に刻まれた古文字の研究)などに通じ父の「行書類纂(るいさん)」の編集を手助けして完成。義父である西原梭江主催の耽奇会に加入し、翌年1月に西原曲亭馬琴(ばきん)主催の奇事異聞を披露し合う「兎園会」にも加入したのは、そんな義理の親子関係からであろう(.)耽奇会には海棠庵として出品している。出品物には妻の郷里である柳川藩領の品も多くみられる。しかし文政13年9月27日に35歳で若死にしている(.)未亡人になった西原梭江の娘は西原が郷里の柳川に帰国した時には同行して一甫の生活の面倒を見たであろうか(.)


     【山崎美成1796−1856
は江戸下谷長者町の薬種商長崎屋に生まれ(.)学業を卒し、家業を継ぎ長崎屋新兵衛と通称したが、学問に没頭しすぎて破産し28歳で隠居し、古奇物や書画の鑑賞を好んだ。号を好問堂(こうもんどう)と称した(.)小山田与清の門人となり、著作は多数に及ぶ。随筆集には、「赤穂義士随筆」「海録」「金杉日記」「疑問録」「三養雑記」「世事百談」などがある。「耽奇会(たんきかい)」では中心人物として活躍している。耽奇会は各会ごと「耽奇漫録」を書き会員に回覧した。山崎美成の家に伝わる全20集(国立国会図書館蔵)の図録がある。(.)第一集の序文は西原梭江が書している。平成5年に「耽奇漫録・国立国会図書館蔵版」上・下2冊が吉川弘文館からセット2冊、5万円で発行された(.)


     
文晃(ぶんちょう)1763-1840 
 江戸下谷根岸の生まれ。号は
写山楼・画学斎・無二・一恕。幼少より画技を好み(.)四条派、土佐派、洋風画からも影響を受け、さまざまな様式の作品を残し、江戸文人画壇の重鎮となる。画塾写山楼には多くの弟子が入門。門下に渡辺崋山(かざん)立原杏所(たちはらきょうしょ)らを輩出する。天保11年(1840)78歳で世を去る(.)

     
屋代 弘賢(やしろ ひろかた)(1758-1841)
 幕臣の子に生まれ、幼少から書を学び、天明2年(1872)に江戸幕府の書役として登用される。寛政4年(1792)に御祐筆所詰支配勘定役、のち表祐筆勘定格となった。諱は詮虎、のち詮賢・弘賢・詮文、号は輪池。江戸生。国学を塙保己一に学ぶ(.)また書道を森尹祥に師事し、松平定信に認められて幕府右筆となり、『寛政重修諸家譜』『古今要覧』等の編集に携わる。一方和漢典籍の収集に努め(.)その蔵書を〈不忍文庫〉と称した。蔵書は5万巻といわれ、和漢を問わず多方面にわたって豊富であった。不忍池近くの宮下に書庫があったことから「不忍文庫」と呼んだ(.)著書に『参考伊勢物語』『輪池叢書』等がある。天保12年(1841)84歳で世を去る(.)

     荻生維則(おぎゅう いそく)(不詳ー   
 荻生徂徠(そらい)の孫の鳳鳴(ほうらい)の養子となり,20余歳で大和(奈良県)郡山(こおりやま)藩の儒官をついだ。文政10年(1827)荻生徂徠百年忌をひらいた。本姓は浅井。字(あざな)は式卿。通称は惣右衛門。号は蘐園(けんえん)(.)

     中村仏庵(ぶつあん)1751−1834
 江戸時代中期-後期の書家。梵字にすぐれた。宝暦元年生まれ。江戸の人(.)幕府畳方の棟梁をつとめる。名は蓮,連。(あざな)景連。通称は弥太夫,吉寛。別号に至観。号は著作堂耽奇会には7回に加入し、14回まで出席している(.)天保5年1月7日84歳で世を去る(.)


    
曲亭馬琴(1767- 1848)
 読本作者として知られる.。本名は
滝沢興邦(おきくに)、号は著作堂と称す(.)馬琴の長女の(おさち)16歳は、嫁ぐ前の文化4年((1807)に江戸・立花家の鑑寿公の夫人である天寿院殿に8年間仕えていた事で、西原梭江と親友の度を増したとみられる(.)そして文政7年(1824)3月馬琴吉田新六滝沢清右衛門勝茂)を婿養子として長女のを結婚させ(.)家財職役などを与え、4月に傘翁と改号。5月に剃髪(ていはつ)し、元飯田町の旧宅を去り、神田明神下の病弱の長男、宗伯(号は琴嶺(きんれい))家を増築して同居した(.)神田明神下といえば、下谷の御徒町にある立花家の上屋敷も近い距離である。同年11月西原の誘いで耽奇会第8回から加入している(.)参加後の12集会中欠席したのは3回で不参加の時は息子の琴嶺を出席させている。(.)西原梭江文政8年(1825)1月馬琴が発起した、当時の文人が毎月一回集って(.)見聞きした珍談・奇談を披露し合った「兎園会(とえんかい)」に柳川に帰国する3月まで西原公和と称して出席している。馬琴天保3年11月文政7年8月から文政8年11月までの耽奇漫録を元に「小集展覧」五巻の図録を作成している(.)序文に「耽奇漫録は、文政甲申の春松蘿館主人・西原好和、その女婿海棠庵(かいどうあん)関思亮、南無佛庵・中村景運などと相謀りて、社友5・6名各自所蔵の古書畫(.)古器材を相携て来会し、且各々その図本を作り、考を付録して、これを耽奇漫録という。・・・この会は甲申の春より乙酉の冬十一月まで、すべて二十会にして終わる(.)その一回毎に図本を合して二〇巻にして臓弄せらるものは、亡友海棠庵以下多くあらずと云。ここには十会計の図あり。今合して五巻とす」とある(.)江戸を去った西原梭江とは手紙で交流する程に親密な友人の間柄であった(.)曲亭馬琴の「小集展覧」5巻と国会図書館蔵の山崎美成所蔵の耽奇漫録20集を参考にした(.)耽奇漫録」が昭和3年4月に東京市京橋区の吉川弘文館から2円50銭で発行されている(.)
     

     滝沢琴嶺(きんれい)(1797- 1835)
 江戸後期の松前藩の医者・画家。読本作者曲亭馬琴の長男。名は興継(おきつぐ)、号を琴嶺と称する。通称は宗伯・鎮五郎、別号に玉照堂。画を金子金陵に学ぶ。耽奇会には15回に加入し、16回を除き最終の20回を出席している(.)19回は父の馬琴と一緒に出席している。父の「小集展覧」五巻の図の絵を手助けしている(.)天保6年(1835)38歳で亡くなっている。画家友達であった渡辺崋山(かざん)は葬儀の場で琴嶺の父・曲亭馬琴琴嶺の、肖像画の作成を依頼され(.)棺桶のふたを開けて琴嶺を覗き込んで素描し、さらに顔に直接触れて描いたという。 下記の「滝沢琴嶺像」は渡辺崋山の琴嶺、没した天保6年(1835)の作品(.)

      亀屋久右衛門(1768- 1829)
 明和5年生まれ。江戸飯田町の茶商。大田南畝(なんぼ)(初代蜀山人)に書と狂歌をまなぶ。江戸時代中期-後期の狂歌師(.)姓は今井。通称は亀屋久右衛門(.)別号に食山人,散木,蜀山人(2代)など。号は文宝堂耽奇会には12回に加入し、13回は欠席しているが最終回まで出席している(.)文政12年3月22日62歳で世を去る(.)
 
 
文晃(ぶんちょう)(絵師)

屋代弘賢(ひろかた)(国学者)
 
中村仏庵(書家)
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曲亭馬琴(読本作者)

滝沢琴嶺(きんれい)(医者・画家)

 一集(文政7年5月15日)5名参加 ①山崎美成(随筆家。号北峯・好問堂)・ ②西原梭江(柳川藩留守居。号松羅館)・ ③梅園戸田美濃守)・ ④関思亮(書家。号海棠庵)・ ⑤谷文晁(絵師・号は写山楼)                        
 二集(同年6月13日)  6名参加   屋代弘賢(ひろかた)(1758-1841)(国学者・号輪池)加入。 美成・梭江・梅園・思亮・文晁出席
 三集(同年7月13日)  7名参加   荻生維則(郡山藩儒官・号、蘐園(けいえん))加入。 美成・梭江・梅園・思亮・文晁・弘賢出席  
 四集(同年8月13日)  7名参加   三集と同じ。美成・梭江・梅園・思亮・文晁・弘賢・維則出席  
 五集(同年閏8月13日) 7名参加                〃
 六集(同年9月13日)  6名参加  美成・梭江・梅園・思亮・文晁・弘賢出席
 七集(同年10月13日) 9名参加  中村仏庵(書家、梵字が得意。畳職の棟梁。号至観、)(1751-1834)加入。谷文二(絵師。谷文晁の長子)加入  
 八集(同年11月14日) 9名参加  曲亭馬琴(号、著作堂)加入。美成・梭江・梅園・思亮・屋代弘賢(号、輪池)・維則・仏庵・文二出席  
 九集(同年12月8日)  8名参加  美成・梭江・梅園・思亮・弘賢・維則・仏庵・馬琴出席
 十集(文政8年1月20日)6名参加  美成・梭江・思亮・弘賢・維則・馬琴。(戸田美濃守(梅園)はこれ以降欠席)
 十一集(同年2月1日)  6名参加  美成・梭江・思亮・弘賢・仏庵・馬琴出席  この会は会場を田字亭とし、茶と果物とで、酒と肴を禁ずる。
 十二集(同年3月13日) 8名参加  亀屋久右衛門(好事家・号文宝堂)加入。美成・思亮・文晁・弘賢・仏庵・馬琴・梭江出席 (
西原梭江は筑後柳川に帰国、これ以降欠席)
  この会から会場を輪池堂とした。
 十三集(同年4月13日) 6名参加  美成・思亮・弘賢・維則・仏庵・馬琴出席。仏庵は出品のみ。
 十四集(同年5月13日) 6名参加  美成・思亮・弘賢・仏庵・馬琴・文宝堂出席。青季庵(未詳)は出品のみ。
 十五集(同年6月13日) 5名参加  琴嶺(馬琴の長子)加入。美成・思亮・弘賢・文宝堂出席
 十六集(同年7月8日)  6名参加  龍珠館(未詳)加入。美成・思亮・文晁・弘賢・文宝堂出席
 十七集(同年8月24日) 7名参加  美成・思亮・文晁・弘賢・文宝堂・青季庵・琴嶺出席
 十八集(同年9月13日) 8名参加  美成・思亮・文晁・弘賢・維則・文宝堂・龍珠館・琴嶺・馬琴(出品なし)出席。 この会は会場を龍珠堂とした。
 十九集(同年10月13日)7名参加  清水赤城(兵学者・儒学者)加入。美成・思亮・弘賢・文宝堂・青季庵・琴嶺出席
 二十集(同年11月13日)7名参加  美成・思亮・文晁・弘賢・文二・馬琴・文宝堂・龍珠館出席  

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      【耽奇漫録に見えた郷土史料】
      【(.)石人像】海棠庵(関)出品・広川町大字一條字人形原1435
 石人山古墳は、その名の起こりともなった武装石人が立っていることでも有名で(.)石人は古墳の前方部と後円部の、ちょうどくびれの部分に立っており、主体部の石棺に埋葬された被葬者を守っているかのようです。この石人は背丈が約1.8mで、(よろい)(短甲)を身につけて、(ゆき)と呼ばれる矢入れを背負った、武装した姿に彫刻されています。この石人は江戸時代の中頃には地面に倒れていましたが(.)その当時、広川谷21ヵ村の大庄屋であった稲員孫右衛門安則という人が、地面を平にならして基壇を築き、石人を起こして顕彰しました(.)その後、手足や腰、肩などに痛みがある人が、石人の同じ所を打つとそれが治ると信仰され、打ったりなでたりされてきたために現在見ると、石のかたまりにしか見えず(.)脇に赤色と裾が確認できる。耽奇漫録には石人の簡単に模写した絵を出品されている。「継體天皇廿四年筑後州一条村國造磐井(いわい)氏の墓 畔所建石人今猶存 ■文政七年一千三百四年 絹本」と記してある(.)さらに後の久留米の先人 矢野一貞著 の「筑後将士軍談」(文久3年1863年)にはまだ、顔の表情や甲冑の詳細が描かれています(.)近年、これらを参考にレプリカが制作され屋外に展示されている。みやま市髙田町の石神山古墳にも武人石人像が残されている(.)
 
耽奇漫録
 「筑後将士軍談」の石人  
「筑後将士軍談」の石人(背後)


レプリカの石人

石人山古墳の石人像
         
        【筑後国上妻郡釜屋宮水難除守護】 八女郡立花町田形と同郡黒木町湯辺田
 
 釜屋大明神は嘉応年中(1169−1171)に、薩摩国の「黒木大蔵大輔源助能と云ふ人」によってまつられたとあります(.)この田形・釜屋神は「罔象女神、瀬織津姫命、速秋津姫命の三柱」で、その神徳は「河伯(かはく)(河童)の難を除き、且つ牛馬の病に奇応あり」とあり、また水徳広大で「水祖の神」ともされます。現在の神社由緒板には(.)瀬織津姫神とともに大祓神の一神と通説される「速秋津姫命」の名は表示されておらず、大正期から戦後現代にかけて祭神の変遷があったようです(.)その上でいいますと、では「水祖の神」とみられていた神とは「罔象女神、瀬織津姫命(.)のうちどちらの神なのかといった問いも浮かんでくるところです(.)
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 この田形・釜屋神社からは、矢部川の北対岸に大きな樹勢の木の神域がみえます。ここに湯辺田(黒木町)・釜屋神社が鎮座しています(.)湯辺田・釜屋神社の創建は寛永2年(1625)と大楠の樹齢からすればはるかに新しく(.)寛永2年以前は、対岸の田形・釜屋神の神木だったのでしょう(.)ここの宮にみやげの龍の卵が岩になった「浦島伝説」が、矢部川のほとりにも現存した(.)竜宮に通じているとなれば、釜屋淵はその入り口として、絶好の景観である(.)
       .
  耽奇漫録には釜屋宮で配布された水難除けの紙と麻糸を紙縒(こより)りした、その形状の尋常ならぬ点に興味を感じたらしい。馬琴の図には輪の下にオレンジのリボンが付いている(.)これが正しいのでは。当時の神主は大石伊豆守と記してある(.)
 
立花町の釜屋神社

黒木町の釜屋神社

 
馬琴の耽奇漫録の耽奇漫録  部分拡大図 山崎の耽奇漫録  部分拡大図
 
       【建仁寺の古瓦】海棠庵(かいどうあん)出品  みやま市瀬高町禅院
  建仁寺の古瓦は西原梭江の娘婿の関思亮(号は海棠庵)の出品で下妻郡山中村と接する禅院村の歴史ある建仁寺跡から(とれ)たというものである。建仁寺は庭僧の雪舟(せっしゅう)作の庭があったというので有名である。建仁寺跡は余程山から流れこんだ石くずと苔で埋もれ、今は庭の跡も(はたけ)となって一木一石すら残っていない(.)この建仁寺の瓦欠片は柳川藩士武藤陳亮から贈ったもので耽奇会で拓本にして記録している。鬼瓦の残片であろうか定かでない。9回目の耽奇会の出品者の海棠庵とは亮明(りょうみょう)の子思亮のことで有名な江戸の書家である(.)現在の建仁寺の場所は享保5年(1720)に立花家により菊子の墓がある山の下(現在地)に小規模な建仁寺が再建された(.)
   




 
     【車塚神鏡】好問堂(山崎美成)出品、みやま市瀬高町藤の尾
  瀬高町山門の藤の尾の東北にある。南北約55m、東西27m、高さ3,5mの前方後円墳」で以前は周囲に幅3,6mの堀があった(.)昔は陪塚が左右にあったと聞くが今はない。享保20年(1735)漢鏡三面が掘り出され(.)この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない(.)塚の南西部から弥生中期の合わせがめ棺が十数墓出土している(.)また塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している(.)周りなどを削り取られ田んぼや公園に使用、堀も埋められ車塚の元の形状を変えている(..)この古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる(.)
            .
        

 耽奇漫録には、「筑後国柳河領山門郡藤尾村といへるところに車塚とて、その傍に小社あり、傅へいふ景行天皇の御車を埋めし塚といへり。近き年其処(そのところ)くずれたるより古鏡三枚堀出たり(.)戓は破裂戓は欠損いずれも全てからずといえども朴厚古醜甚だ愛すべし(.)(直径5寸5分の漢式鏡)其のあたりの人々より集ひいと珍しきものに思い神職に告げたりければ(.)やがて鏡背を打し好古の人ふたりみたりに与へしとぞ。其の頃村中に疫みのはやりたるを誰とはなしに神鏡の(たたり)にこそなどいひ触らしかるまま聞き捨て難くその鏡を元の塚に埋めぬ(る)(.)その後彼方の土を穿(うが)ち(穴を掘り)鏡は誰れ(かが)奪い去りけん見えずなりぬ。いとをしきりことなりと安藤ぬしの物語なりき。されば今榻本(とうほん)も再び得べからざるものにて真鏡にも劣らぬ珍重のものにならん。」と記されている(.)
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 車塚を車を埋めた塚とは間違いであって、車塚の名は神功皇后は肥後の熊襲(くまそ)を討たんため、山門郡大和村の高尾の地(鷹尾神社近く)に上陸された(.)当時、土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)は女山に(こも)り、肥後の熊襲(くまそ)と提携して(.)南筑一帯の良民を苦しめ、勢いはなはだ盛んであった。皇后はまず之を血祭りに挙げんと考えたまい(.)高尾より車駕(しゃが)を東方に進められ、現今の東山村の藤尾に車駕を留められ(.)田油津姫を討つ軍議をした所と伝説がある(.)また塚の形が御所車の車輪に似ていたからの説もある( )鏡は3枚あり謄本を写生したとある。鏡発掘の祟りとして村に疫病が流行した為に(.)元の塚に埋めたとありその後に盗掘により奪い去られたとある。現在では鏡の資料は皆無でしたが(.)この耽奇漫録にて1枚の鏡姿が確認することが出来ました(.)この耽奇漫録の車塚神鏡は日本考古学史・第1巻(著者: 清野謙次)にも紹介している(.)



塚上部の鏡堂と藤棚
 
      【雉子車】松羅館(西原)出品、7集    みやま市瀬高町本吉
 北原白秋の詩にも登場する瀬高のきじ車は、材料のマツやキリをナタ一本で削りながら形成した生地に絵付けを施している(.)雄と雌とがあり、雄鳥は背中に鞍を乗せ、雌鳥の背中はくぼんでいる。世界玩具展で入賞歴もある民芸品である(.)伝説では天保時代に25代住職の隆安法印が創案して井上嘉平次が制作したのが始まりという説があるが、間違いである(.)
この耽奇漫録によれば(.)すでに文政7年(1824)の7月には松羅館(西原)出品として雉子車の画が写され、しかも題して「雉子車 筑後栁川産 子供たちの遊びもの 先の頃(.)梅園君の出し給わる獅子頭と同軌のものなり。古雅愛すべし」と記されている(.)耽奇漫録記載には「筑前博多町にて小児のあそびの獅子頭 松木地細工」と記載あり(.)三池の春の農具市として知られる三池初市でも、そっくりの、きじ車が売られていた(.)鞍を中心に丸木の前後を削り、鮮やかに彩色したもので、清水山寺のきじ車が途絶えていた明治の初め頃、かつて作られていたものとそっくりな三池のきじ馬を手本に再興が果たされたと言う(.)
 
              耽奇漫録・山崎本より                   
 
清水山雉子車の雄鳥(上)と雌鳥(下)


三池初市のきじ車
     
              小集展覧・馬琴本より
 【筑前博多町児童翫獅子頭】梅園(戸田)出品 福岡市博多       【霧島山頂逆鋒図】松羅館(西原)出品三集 鹿児島県霧島市
 耽奇漫録で清水山の雉子車が同軌のものなりと紹介された
博多町の児童が、もて遊ぶ獅子頭。現在は継承されていない(.)
 
天逆鉾(あまのさかほこ)は、日本の中世神話に登場する矛である。慶応2年(1866)坂本龍馬とお龍(お りょう)が新婚旅行で高千穂峰を訪れた際、大胆にも引き抜いて見せたというが、それより42年前に西原により東西2本の鋒を抜取って写生と寸法が調べて出品されている。現在は噴火で折れ紛失の為に山頂に鋒三本のモニュメントが立ってている。 
   
 
        【大隅産鯛車】       霧島市隼人町
   鹿児島神宮で授与されていた。現在は観光客の民芸品お土産として売られている。厚さ5cmほどの木材を20cm×13cmほどに荒削りして魚の如き形に作り、目や口、尾やひれを描き、赤く塗ったもの。直径3cmほどの枝を輪切りにした車が取り付けられ、小さな正八幡(鹿児島神宮)の札が貼ってある。ご神体である山幸彦が海神の宮を訪れ鯛ののどから釣り針を取り戻すという海幸・山幸伝説にもとづいたものが鯛車で子どもの疱瘡除けのまじないとされています。前後の車の大きさの違いで頭を下げている様に動くさまは山幸彦にお礼をいっているところだそうです。
   
鯛車の胴体、真ん中あたりに鹿児島神宮の印がある
 
       【日向産雉車】 宮崎市佐土原町
  耽奇漫録に「高岡法華寺の祭祀で売られ百済人が帰化して百歳まで造った・・・」とある。佐土原町伝統的工芸品保存会の説明では、うずら車の発祥については、500~800年前と言われ、落人達が伝えた、木材を扱う木挽(こびき)達が伝えた、また渡来人が伝えた、久峰観音の開基に伴う百済の僧が伝えた等々、多くの説がありますが、熊本県湯前より久峰地区に住んでいた木挽衆によって(.)山から里への土産として持ち帰られていたものを、名前をキジからウズラに変化させて、久峰観音の縁日に合わせてお守りとして売り出した、という説が有力とされています(.)
 宮崎市佐土原では徳川時代より「うずら網猟」が盛んだった。4、5軒に1軒は飼育し(.)その鳴き声を楽しんだと言う。そんなところから、うずらは生活の中に入り込み、いつしか子供の玩具として登場。「久峰うずら車」は延命長寿、無病息災の縁起物として(.)全国に知られた。タラの木で作られ、彩色は赤と青。うずらの顔に描かれた「の」の字は厄払いを意味する(.)材料は、本体がタラの木、脚代わりの車として小松の丸木を輪切りにしたものを使用します。作り方は多少異なり、 法華岳うずら車が焼火ばしで穴を開け(.)車の心棒をつけているのに対し、久峰うずら車は、切込みを入れて竹をはめ込み、その竹に心棒を通して車が回るように作ってあります(.)男性的な力強さがある、国富町の法華岳薬師の「うずら車」に対して、久峰のものは明るく女性的な情緒が漂う(.)
   
宮崎市佐土原の法華岳薬師のうずら

宮崎市佐土原の久峰うずら車
 
        【太郎稲荷参詣印鑑】松羅館(西原)出品・江戸の下屋敷(現・入谷2丁目19−2))
 西原梭江江戸で麻疹(はしか)が流行した享保年間は江戸留守居であった。古書画・珍物奇物の品評会(耽奇会)の文政8年(1825)2月の耽奇漫録の記載で「浅草田圃下屋敷の参詣の群衆は(.)享和3年(1743)6月末よりの事にてありし。藪の内に(きつね)2匹いて、子を育てても、何処に行くこともなく、古くから行方知らずや盗難などに()った人が、その狐に願掛けをしてきたという。しかし太郎稲荷が有名になったのは、当時流行していた麻疹(はしか)が時間経過して治ったのを太郎稲荷の御利益と勘違いしたのが原因である。その太郎稲荷参詣で授かった印鑑(お札)は数万におよび、常識では考えられないほどである(.)よって取り集めたたる反古(ほご)(不要となった紙)2巻と朱印をこの度の一品に充てるなり。」と冷静に分析している(.)立花家紀には疱瘡の御利益のほか、盲人が目が見えるようになったとか「腰ぬけ」が立てるようになったという尾ひれが付いていたと記載されている(.
 
 
西原本
   
好問堂「山崎本)の太郎稲荷
 
          【筑後柳河鳴雷(なるかみ)大明神祭事用菊傘鉾】海棠庵(関)出品・ 柳川市三橋町百丁ほか
 鳴雷大明神の菊傘鉾は高さ高さ三間(5、4m)余、花径一尺二寸(約36Cm)とした紙造り、菊花数百余り下に紅白梅(.)その解説に「鳴雷は柳河城下を(へだて)る一里ばかりあり。その傘鉾は毎年九月11日(新歴の10月11日)祭祀の時、そ近村五、六村より各一本づつ出す菊は雷除けになるという(.)としてある。明和2年(1765)戸次求馬が著した「南筑明覧」に「上百丁村の雷神の森は来歴詳ならず(起源解らず)。人々雷を恐れるる者、この神に神誓すれば恐れず(.)祭礼には作花を供え、之の花をもって室内に置き、雷を除く」とある(.)昭和7年2月13日の柳川新報の岡茂政先生の投稿には、「鳴雷神社は今の三橋町百丁にある村社である」とあるが今は無く(早馬神社に合祀されたか?)(.)早馬神社の祭礼の風流に登場していた。。旧柳川藩志に「氏子の者、雷を恐れざるのみならず、この地方に落雷なしと伝える」(.)三橋町の「故郷を知る」に掲載記事によると、百丁村の早馬神社の秋の祭りで風流で菊傘鉾が登場していたと言う(.)風流に使われた東西2本の菊傘鉾は、華やかに飾り付けられ、動きは勇壮そのものであった(.)この傘鉾を中心に古老たちの謡に合わせて、笛、太鼓ではやし、踊り、村落の要所を廻り祈願したという(.)菊傘鉾を作っての風流の行事は、子孫に受継がれ、だんだん立派なものになったが、大東亜戦争(第二次大戦)の激化と共に材料不足もあって廃絶した(.)今や各地で文化遺産の見直しがされる中、復興を望んでやまない。」とある。平成6年頃菊傘鉾が再現した風流が行われたが、また途絶えている(.)町おこしの為にも継続的な風流再現で福岡県無形文化財の指定を目指してもらいたい。また他の村での鳴雷神社の風流を調査する必要があり(.)
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   山崎の耽奇漫録写し
馬琴の耽奇漫録写し
 
          【魚化石】松羅館(西原)出品
  筑後柳川より発見された魚の化石である。重さ85匁(318.75グラム)()5円玉が1匁なので、5円硬貨85枚の重さである。右図の魚化石は曲亭馬琴の烹雑記 に載されたものである(.)これは本郷(みやま市瀬高町)の田尻宗助の所有していた魚頭シャクチ(ボラ)の頭の化石とある(.)
 
馬琴の耽奇漫録写し
 
 
 辞典によると「石炭」は、主に3億6700万年前から2億8900万年前、大森林が広がっていた石炭紀といわれる時代(古生代ペルム紀とデボン紀の間の時代)に、たくさんの植物が腐ることなく地中に埋もれて、最終的に石炭化した物質ですが(.)耽奇漫録の記載には埋木とあり、「埋木」とは樹木の幹が、地殻変動や火山活動、水中の堆積作用などによって地中に埋もれ、長い年月をかけて圧力を受けたために変成し(.)半ば炭化したもので、亜炭の一種である。「埋木」「埋もれ木」の幹が、地殻変動や火山活動、水中の堆積作用などによって地中に埋もれ(.)長い年月をかけて圧力を受けたために変成し、半ば炭化したもので、亜炭の一種である。とある。三毛郡とは三池郡の事で、三池炭鉱は昭和40年代まで石炭の町として発展してきた(.)石炭の採掘中には埋木や珪化木が産出したであろう。馬琴本の耽奇漫録の「埋木」には朱文字で是より下七張 書画琴嶺堂(馬琴の長子)謄写とある(.)
    【筑後州三毛郡埋木】海棠庵(関)出品      【石墨】筑前石炭・越後媒炭
 馬琴本の耽奇漫録の「埋木」には朱文字で是より下七張 書画琴嶺堂(馬琴の長子)謄写とある(.)  耽奇漫録にはタキツチとある。
 
馬琴の「小集展覧」掲載の耽奇漫録
 
            その他の 耽奇漫録の珍品
 【大清上官像】   【大清上官婦人像】 【銅鐸】 
 
 

「佐渡の金鑛・同鉛鑛】  【石各種】   【化石・鯨の牙・針の魚・  】

 
 
   
明人無名氏画蛮人図】
 【綾藺笠(あやいがさ)
武士が狩猟・旅行・流鏑馬(やぶさめ)などの際に着用した
【北越雪具雛形】  
 
   
 鳥居清忠画新吉原仲之町図絵 紅毛磁器薬入と煙菅(きせる) 
肥前長崎辺の在りて用いられたという
【新渡香嚢】  
 

 
 

 
 
      大名樫貪】
   そばのほか汁次(しるつぎ)や薬味箱などもいっしょに収める移動用(出前箱)を贅種々の蒔絵を施し贅沢に作られたのを大名樫貪(大名けんどん)という。内部は吹きぬき(仕切りのないこと)で、付属品としてそば椀、汁入れ、薬味入れがつく(.)
   
馬琴の耽奇漫録写し
 
                    【海獣図】
 
山崎美成の耽奇漫録の海獣図(アシカ)である「文政2年4月上旬、柏崎浜(新潟県)より水揚げ。
水虎のよう、毛色つやあり」とあり、異様に手足先が爪だって描いている。 

馬琴の耽奇漫録の海獣(アシカ)図は体系は似ている。当時江戸の人は見たことが無いゆえに海獣と表記している。
捕獲した柏崎浜で描いた絵を元に作成したであろう。「海獣の類なるか、毛色つやあり、四足五指、各水かきあり」とある
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【歌舞伎古画肖像】 

【雲慶作達磨木像】

【員外松風独楽】
 
 
 
【下御霊神社什物・神代の鈴】  【住吉人形】  【算盤】 
 京都の下御霊神社は平安時代に冤罪を被り亡くなられた貴人の方々の怨霊を御霊(ごりょう)として、その当時からお祀りしてまいりました神社。疫病災厄を退散し、朝廷と都をお守りする神社として崇敬されてきた(.)  摂津一の宮・住吉大社は全国津々浦々にある住吉神社の総元締め。航海安全の神様として古くから港湾関係者や漁業者の信仰を集めている。巫女が手ずから授与してくれる干支の動物。右向きの鶏、蛇、兎は流し込みだが、それ以外は型抜きで出来ており、住吉大社と刻印されている。   こは むかしより家に伝れるものにてあり(.)
  今のものとは その製作やゝ異なり
 
 
   
 
 
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 郷土の史料となる部分や彩色の綺麗な部分を掲載したが、このほか名家の筆跡、古文書、古図像、彫刻物、文房具、珍奇なる動植物、その見取図、地方の舞踊の図、古時流行の器具、その他発掘品など、(いやしく)も当時珍奇と目された物の限りを図録してある。この「耽奇漫録」12集は国立国会図書館で閲覧するか、デジタル公開を御覧いただきたい(.)
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         【柳河明證圖會の制作】 
 文政8年(1825)柳川に帰り一甫を名乗る。4年前に帰柳していた、元藩主の長子の立花蘭斎に懐かしい同好の師として歓喜して迎えられる。蘭斎は翌年、一甫に最も影響を受けた「蘭斎閑好」を、2年後には「太平談話」・「永夜物語」など考証随筆を次々と著した(.)一方、一甫文政8~10年(1825~27)の間に「柳河明證図會」を著したと思われる(.)この本は」都名所図会」など当時各地で作られた名所図会にに(なら)って作られました。明證図會の絵は柳河外町の画家で古賀富次郎南汀と号する(.)仙蝶斉素峰の門人で、この画は、実地について描写したもので貴重である(.)一甫は当初柳河藩全域を対象と考えられていたが、何かの理由で城内、柳河、沖端とその周辺一部にとどまったと言われている(.)城制にについては山崎美成に問い合わせた記述も見え、江戸での交遊もこの本の作成に一役買っている(.)柳河明證図會は生前には上木されず、立花家に秘蔵されていたものである。昭和53年に百数十年の後に立花家の承諾を頂き(.)栁川郷土研究会により、ほとんど原形のままを印刷製本された。史料によると「天保十三壬寅十一月改侍帳寺社(.)(1842年頃の史料)に「同(隠居料十人扶持)小姓頭格 西原一甫」とある(.)天保年間(1830-1844)は祖先の拝領地の柳河藩領南野(現在の柳川市大和町栄で西鉄塩塚と中島の中間・南野交差点付近))に隠居家を新築して住み、牛を買って農耕に従事する(.)栁川城下には牛車に乗って通っていたと言う。弘化元年(1844)に84歳で病没し、柳河・恵美須町の西方寺に葬られた(.)

柳河明證図會
 ・柳河城
 
柳河明證図會・瀬高門、水門

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引用・参考・使用文献  栁川史話  岡茂政 西原一甫、著「柳河明證圖會」文政8~10年(1825~27)・ 耽奇漫録  西原 ・ 山崎本  沢馬琴「小集展覧」五巻

         

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