庄福BICサイ

    大竹山二尊寺(おおだけやまにそんじ)         福岡県みやま市瀬高町下庄字大竹   平成22年作成 30年1月更新
  大竹山二尊寺は、本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)阿弥陀如来(あみだにょらい)の二尊佛で、これが寺名の由来である。古い由緒のある寺で戦乱の世に幾度の兵火にあい旧記は無いが寺院帳には開基年号不明なれど、往古は天台宗とある。二尊寺の名の由来は平安時代に浄土へ「遣」わす発遣(はっけん)の釈迦、浄土で「迎」える来迎(らいごう)の阿弥陀の二尊仏信仰によるものとされている。鉄山士安(てつさん しあん)禅師が開山以来、信仰を集めて七百余年となります( ) 
    
 

 [肥後・大慈寺の鉄山士安の開山と竹井又太郎の開基]
 二尊寺は鎌倉末期に鎌倉幕府より所領80町を拝領され(史料)延慶(えんきょう)3年(1310)に筑後の檀越(だんおつ)により、肥後国(熊本市)川尻にある曹洞宗の名刹、大慈寺(だいじじ)の三代目住職の鉄山士安(てつさんしあん)を招待して開山しました②③(資料)筑後の檀越とは筑後国山門郡竹井の竹井又太郎とみられる(.)寛文7年(1667)に熊本藩の北嶋雪山が藩主に命ぜられ編集した肥後国史料叢書の「國郡一統志」には「筑後州山門郡勅賜(ちょくし)大竹山二尊寺鉄山創之」と記し(史料)大竹山二尊寺は勅賜の寺院であったと記してある(.) 元寇研究会(福岡市)の佐藤鉄太郎会長=中村学園元教授、日本中世史=によると北嶋雪山の「國郡一統志」の内容は正確であり大竹山二尊寺は花園(はなぞの)天皇(1297~1348)の勅賜より開かれた寺院であったことは事実であろう(.)その勅賜の称号の大竹山二尊寺には山号の大竹山も含まれているが(.)これは竹井氏の苗字の竹に由来してしており、開祖が「筑後の檀越」とはみやま市高田町竹飯(たけのい)の「牡丹(ぼたん)長者」伝承のある竹井城館跡(山川町尾野長者原)に住んでいた、北条氏の則近の得宗被官で、竹井庄を領していた竹井又太郎一族とみられる(.)当時の大竹山二尊寺は南の街道筋(のちの薩摩街道)から北に直線に伸びる参道には塔中(たっちゅう)の庵や小院が立並び広大な境内を持ち七堂伽藍(しちどうがらん)と勅使門を配した寺院であったと考えられています(.)
 14世紀の初めの得宗専制下に於いて(.)御内人である竹井氏が得宗と極めて親しかった事を物語っている。竹井庄の実質的な領有者であった竹井氏政治的、経済力を背景に勅賜の称号を得たであろう。(資料)
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 竹井氏の招請に何故に鉄山士安が応じたのであろうか。熊本県宇土市花園町三日地区にあった相当大きな規模の七堂伽藍を配した寺であった三日山如来寺(さんちさんにょらいじ)は、文永6年(1269)、古保里越前守の娘と伝えられる素妙尼に請われ寒厳義尹(かんがんぎいん)が開いた九州最古の曹洞宗寺院であった*1(.)寒厳義尹はその後、弘安元年(1278)に現在の熊本市南区川尻地区(旧川尻荘)で緑川に大渡橋架橋の架設に成功すると、河尻荘地頭、川尻泰明(かわじりたいめい)招聘(しょうへい)を受けて、弘安6年(1283)、その近くに大慈寺(だいじじ)を開き、そこに活動の拠点を移した。さらに、同寺は正応元年(1288)後深上皇勅許(ちょっきょ)を得て曹洞宗最初の勅願寺院となり、永仁6年(1294)には紫衣勅許の寺格を認めれれた(.)けれども寒厳義尹永仁6年(1298)に大慈寺の住職を退き如来寺に戻り2年後に亡くなる⑦史料(.)徳治2年(1307)8月、如来寺2代住職となった鉄山士安は朝廷や幕府からの恩裁(おんさい)を受けていない如来寺を御願寺(ごがんじ)とする為に北条時定定宗、その後室に働きかけや依頼を、直接行うことは出来ず、彼らに仕えている御内人(みうちびと)を通してでしかできない。大慈寺の三代目住職になっていた鉄山士安竹井の招請を受けたために、大竹山二尊寺の開山となったであろうか(.)

 二尊寺を開山した
鉄山士安禅師は寛元4年(1246)の生まれで、肥後出身の鎌倉時代の僧で、京都東福寺の南山士雲(なんざん しうん)や肥後(熊本県)寒巌義尹(かんがん ぎいん)に如来寺(宇土市花園町)において寒厳義尹(ぎいん)の法を学び受け継ぐ。如来寺2代住職および大慈寺3代住職を務める傍ら、延慶3年(1310)に二尊寺を開山(かいさん)している。建武3年(1336)2月12日91歳で死去。鉄山住職は正中3年(1326)に下庄緑町蓮華寺(れんげじ)を建立、建武元年(1334)に金栗の宝塔院(ほうとういん)を建立ししている。その外、末寺(まつじ)に大広園の東照寺、朝日の朝日寺、吉岡の長宝寺、下庄の金泥寺( )大木の長福寺、坂田の長命寺など、数多くあり、本吉の清水寺(きよみずでら)でさえ一時は曹洞宗二尊寺の支配を受けていた。二尊寺の二代目住職は大慈寺十二代目住職の義海性(りょうかいしょう)大和尚である③50P(.)

 
 *寒厳義尹鉄山士安ゆかりの如来寺は南北朝の動乱期には、政治的な重要性を失い、永正1年(1504)に上古閑村(現宇土市岩古曽町)に移転し、それ以降衰退したようである。現在は本堂すら現存していないが岩古曽町の公民館に所在します(.)同所には火災の厄を逃れた本尊の釈迦如来,阿弥陀如来,薬師如来のほか寒巌義尹(かんがん ぎいん)の木像と両脇に
東州至遼(大慈寺14世住持)と鉄山士安史料⑧木像が安置されている(.)鉄山士安の木像は最近まで如来寺開祖の素如尼像とされていたが(.)17世紀の記録「古今肥後見聞雑記」の史料から鉄山士安と言われる(.)
        
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【二尊寺の古来末寺無職地】曹洞宗時代の二尊寺の塔中と末寺。延慶3年(1310)~天正14年(1586)
                        
慶長二〇年(乙卯)(1615)三月吉日10組の大庄屋により往時の寺社を調査

  塔中(たっちゅう)というのは元来は高僧の死後、弟子が師の徳を慕い、大寺に寄添って小庵や小院を構えて守っている寮舎や寺院。 

 一乗院(塔中)  洞泉菴(塔中)  两足院(塔中)  桂昌菴塔中)  梅隣軒塔中)  一得軒塔中)
 仁業寺(大竹村)  常楽寺(大竹村)  勝月菴(大竹村)  少林寺(大竹村)  傍楽寺(大竹村)  福王寺(下小川村→小田村)
 清水寺(東山)  西方寺(東山)  千手院(東山)  安養寺(瀬高八幡町)  長寶寺(瀬高)  来凰寺(瀬高)
 金泥寺(きんでいじ)(瀬高)  正苔寺(瀬高)  善福寺(瀬高)  建徳寺(有富村)  玉泉寺(大江村)  新奥寺(真木村)
 長江菴(真木村)  善勝菴(下小川村)  因通寺(下小川村)  吉祥寺(下小川村)  養福寺(長島村)  黙止菴(岩津村)
 西光寺(岩津村)  清産?寺(原村)  林江菴(古賀村)  流水寺(田尻村)  法寿寺(田尻村)  聖法寺(田尻村)
 通輪寺(海津村)  徳法寺(濱田村)  浄西菴(濱田村)  泉福寺(津留村)  京福寺(高柳村)
 魚浗寺(高柳村)

風光菴(江曲村)  龍守院( ?   )  法寿寺(問口村)久留米  法光菴(小保村)  長楽寺(坂口村) 成金寺(坂口村)
 桂照菴(長田村)  九品寺(長田村)
奏?通寺(大塚村)

 令井寺(竹井村)  賽聚菴(中尾村)  朝日寺(山門朝日村)
  
【記載漏れの末寺】

 堀切の寺屋敷(寺名不明、三池氏の墓)  長福寺(大木村)大木城跡  東照寺(宮園村)  清光寺(山門堤村)
 長宝寺(文広村・吉岡)  長命寺(上坂田村)  神宮寺(竹井村→立山村)  
   
 
         (柳川藩内寺社申上(一部抜粋) 由布家(昭2)文申A35より)古文書館所蔵 

 (二尊寺ゆかりの大慈寺とは)
 熊本市の南部、野田地区にある大梁山大慈寺(だいりょうざんだいじじ)弘安元年(1278)曹洞宗(そうとうしゅう)本山・永平寺(えいへいじ)を開山した道元(どうげん)禅師の弟子で寒厳義尹(かんがんぎいん)禅師(順徳天皇の第3皇太子)によって開山。開基当時から川尻荘の地頭川尻泰明(かわじりたいめい)の特別な保護によって多くの寺領を持ち敷地4町の寺域内には殿堂僧房が建ち並んでいたという( )かつて紫衣着用の官寺とされ、亀山天皇の勅願所であった(.)曹洞宗の九州本山として寒巌派の拠点となって九州各地に教線を拡大していた( )二世住職は斯道招由(しどうしょうゆ)禅師で三世住職が瀬高の二尊寺を開祖した鉄山士安(てっさんしあん)禅師である。境内には七堂伽藍の山門、仏殿、法堂、経蔵、鐘楼、坐禅堂などが整然と並ぶ(.)戦国期からの度重なる火災や明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で衰退していたが、昭和60年にかけて再建され鎌倉期の旧態に近くなっている( )寒厳義伊文書四幅と寒厳義尹禅師書の寺の縁起(えんぎ)の印刻の梵鐘は国の重要文化財となっている。大正期に種田山頭火を出家させた望月(もちずき)和尚がこの大慈寺に在住していたので、山頭火(さんとうか)を偲ぶ人達の手で昭和27年に建てられた「まったく雲がない笠をぬぎ」の句碑(くひ)もある( ) (写真は二尊寺のルーツを旅する勉強会21年7月4日)
    
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大慈寺の仏殿

大慈寺の仏殿内

大慈寺法堂

鉄山士安の墓のある歴代住職墓地
 




  【禅僧柱庵玄樹(けいあんげんじゅ)雪舟(せっしゅう)の来訪】
 二人は
応仁元年(1467)遣明船(けんみんせん)で上海の南
(中国浙江省)寧波(ねいは)の天童寺や北京に滞在して中国の禅と水墨画の修業をした。博多に帰国後、応仁の乱で焼野原になった京を避け、、彦山、日田、府内(大分)・筑紫・筑後と絵筆を携えての流浪の旅をしている( )柱庵玄樹(けいあんげんじゅ)(1427~1508)文明8年(1476)6月に、二尊寺の源東谷を訪れ京都南禅寺で学んだ以来11年ぶりに再会している。雪舟(せっしゅう)も同行したであろう。そのあと雪舟は禅院の建仁寺に滞在している間(.)二尊寺の和尚と友情をあたためながら仏道精進の修行のかたわら好きな絵筆に親しみ十六羅漢画像(らかんがぞう)を描いたという( )その時に建仁寺の庭園も雪舟が造ったと伝えられている。柱庵玄樹雪舟と別れ、肥後の鹿本郡の隈部城主、隈部忠直(くまべただなお)に招かれて宋学を講じる。つぎに薩摩の11代島津忠昌(しまずただまさ)に招かれ桂樹院(島陰寺)を建てて、島津氏をはじめ家臣,僧侶たちに朱子学を講義した。その学系は近世朱子学(しゅしがく)の源流となっている( )

 

  
[戦乱を物語る室町中期の梵鐘]
 
永享7年(1435)4月23日に鋳造した二尊寺の梵鐘の原銘( )には
「大日本国鎮西路筑後州山門郡瀬高下庄大竹山二尊禅寺洪鐘一口」筑後州山門郡瀬高下庄の二尊禅寺の洪鐘(梵鐘)とあり「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」涅槃経(ねはんきょう)を刻し「永享七年乙卯四月廿三日 願主各々衆 大工平朝貞」寄進日と信者衆が寄進したことを刻し(.)大工とは鋳物師の総統のことで、平朝貞が鋳造している。平朝貞とは筑前の鋳物師と考えられるが研究を要す(.)しかし梵鐘は、応仁文明の乱(1467~1477)以降の戦国時代において襲撃兵にあい奪われた事を物語る追銘文が残されている(.)
(梵鐘の追銘文( )
 永正15年(1518)5月に三池(現・高田町今福)の今福城主の三池親員(みいけちかかず)に奪われ、梵鐘の池の間に?奉寄進日域関右道 筑後州三池北郷今福原村 若宮八幡大菩薩(.)大檀那常陸守源親貞(.) 施主弥次郎親信 願主平永主殿助貞家 時永正十五年戌寅孟夏十三(.) 勧進法珍」と追銘されて三池郡今福原村(高田町今福)の若宮八幡宮に吊るされている奪った三池親員(みいけちかかず) は筑後三池郡を治めた地侍(.)もともと三池氏は筑後の多良木衆と呼ばれる国人(こくじん)で肥後の相良氏の家臣の一族であったが(.) 相良氏の衰退にとって代わって台頭した豊後の大友氏に主家を代えている(.)若宮八幡宮は現在は残されておらず的確な所在は不明である(.)孟夏十三日とは夏の初め初夏の意であり旧暦の4月13日で新暦の5月7日頃である(.)
 その後の
天文7年(1538)に肥前の蓮池城(佐賀市蓮池町)小田政光(おだまさみつ)が奪い「謹奉掛大鐘一口大日本国西街道肥前州河副庄大堂村六所(.) 三宝証明 諸天同鑑者也 于寺天文七年戌戌正月二十八日 願主 小田駿河守藤原資光入道覚(.) 大檀那 小田九郎 藤氏政光 敬白」と追銘(ついめい)して肥前、大堂(佐賀県諸富町)の六社宮(現・大堂(うーどう)神社)()るされている(.)
 小田政光少弐氏の家臣となるが、主家の衰退と運命を共にし、龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に降伏したものの、後に調略により死地に追いやられ、子達も隆信に暗殺され滅亡している(.)
 二尊寺の梵鐘は、三池郡を治めていた今福城の三池親員奪われ( )追銘されて高田町今福の若宮八幡宮に吊るされ20年後には、ふたたび肥前の蓮池城主の小田政光に奪われ(.)さらに追銘されて佐賀県諸富町の六社宮(現・大堂(うーどう)神社)に吊るされた運命をたどっている(.)*(この梵鐘の記録は「佐嘉郡(さがぐん)大堂社鐘銘 一鐘七枚」に記載あり、この鐘は「明治維新神仏混交廃止之節旧座主宝成院へ附属の処今はなし」と付記されている(.)
    [線刻阿弥陀三尊自然板石逆修塔婆( )
 梵鐘を奪われた2年後の天文10年(1541)4月線刻(せんこく)阿弥陀三尊来迎図の板石逆修塔婆が建てられている( )板石逆修塔婆は生前に自分のために仏事を修め冥福(めいふく)を祈るために立られたものであり( )鎌倉時代中期頃から造られ始めているが郷土では室町時代末期のが多くみられる(.)戦乱の続く世に武士達は、戦により常に死と直面していた。いつ死ぬかわからない不安のなか( )阿弥陀信仰の思想と結び付いて武士の間で 盛んに造られたのであろう(.)
 二尊寺の鐘楼門前の西側笏形(しゃくがた)の高さ146cm52cmの板石逆修塔婆には、臨終の際、雲に乗って山を越え、風を切りながらやって浄土(じょうど)へ導くため訪れる阿弥陀三尊来迎図を線刻で描いている。阿弥陀如来(あみだにょらい)は坐像、来迎印を契び、下部には月輪内に4名の法名(浄庵 守西 心月 妙圓)を刻み( )それを挟んで本尊左に観音(かんのん)右に勢至(せいし)の二菩薩を各斜面相対の立像を雲上に刻してある(.)
碑右端に「一念弥陀佛即滅無量現受無比楽後生清浄土」とあり(.)(読み下しは)一たび弥陀佛を念ぜれば( )ただちに無量の罪を滅し、(まのあたり)に(現世)に無比の楽を受け、(のち)(後世)清浄土に生ず(生れる)観世音菩薩往生浄土本縁経が刻され(.)左端に「天文拾暦辛丑四月吉日河野藤左衛門尉越智道継願主鑑白」とある(. )天文10年(1541)4月河野藤左衛門越智満継が建立している(.)
下に[(それ)、逆修塔婆取得の功徳は、別して魂魄の菩提をたすけ、惣(そう)じて法界の群類を度するなり。まさに建立し供養する功徳者は(.)我心にキリーク字有り。・・・・必ず臨終に弥陀尊が来迎せるなり(.)・・・現世に百年の仙齢を保ち、当来には弥陀佛(あみだぶつ)が待ちうける・・・]の意味の逆修塔婆(ぎゃくしゅうとうば)建立の功徳を称える銘文が刻してある(右図)(.)
左下部に「佛師周陽(しゅうよう)」とあり(.)仏師周陽周養が制作している(.)
 同じ方式に大牟田市三池町の劫月院跡の板石塔婆があり(.)左右に各一行、下部に1行10字13行半の長文がある(.)仏像彫刻師周陽室町時代(1504~55)後期に北部肥後から筑後南部にかけて活躍した石造工匠で(.)本碑以外の遺作の作者銘には周養の刻字を使用している(.)本碑は彼の遺作中、描画細緻を極めた最も優秀な作品である(.)


解読・拓本は高知県の岡村氏

二尊寺本堂 

鐘楼門前東側の地蔵堂

鐘楼門前西側

 
   (黒木城主黒木鑑隆の墓)
 同所にある石の卵塔(卵形の墓)は矢部川2丁目の中程の黒木八幡屋敷にあった戦国武将、 黒木城(くろきじょう)(猫尾城)(黒木町)城主の黒木鑑隆(あきたか)の墓で明治18年に黒木八幡屋敷の墓は、柳川、南関(なんかん)道路の用地にかかり、仕方なく二尊寺の門前に卵塔の鑑隆の墓と供養塔が移されたもので「黒木城二十一代城主黒木鑑隆の墓」と刻まれている(.)供養塔の刻字によると鑑隆永禄8年(1565)大塚村で戦死したことになる。肥前の龍造寺軍が瀬高城(瀬高町上庄)に侵入された時に息子の城主黒木兵庫頭実久(さねひさ)家永)に僅かな手勢にて援軍として駆けつける途中、鑑隆は龍造寺軍と大竹原において交戦、不運にも戦死したのではなかろうか(.)息子の兵庫頭実久は黒木猫尾城に逃走した後であった。天正12年(1584)に大友軍に包囲(ほうい)され、部下や家族の助命を条件に切腹し猫尾城を明渡した。秀吉の九州征伐後に廃城となった。息子の延実(匡実)は立花藩に召抱えられ子孫も仕えた。(.)
古老の話しによると、鑑隆死骸(しがい)が大竹川をぶかぶか流れていたのを部落の人々が引上げ、黒木八幡屋敷に葬り大竹の人々により今日まで供養されているという。墓の左横の供養の墓碑は、黒木鑑隆が戦死してから170年後の享保(きょうほ)20年(1735)頃に子孫の黒木睦実(むつざね)の時、建立されたようです。施主は賀右衛門(がうえもん)とありますが、賀右衛門は、鑑隆と共に討ち死にしたゆかりの者ではなかろうかと思われます(.)4月15日の黒木八幡のお祀りは神仏習合(しんぶつしゅうごう)で墓前には御幣が立ち、神酒、米、大根、野菜などが供えられ、二尊寺の和尚と座組(ざくみ)の人々によって墓前において読経の供養が行われていた。墓前行事のあと座祭の直会(なおらい)で神酒(みき)のおろし物を参加者が分かち飲食する行事です(.)昭和12年、黒木の殿さんの子孫によって卵塔に家型の石の覆いが作られました。黒木家は、二尊寺の古い檀家で、過去帳は天正(てんしょう)18年(1590)より始まり(それ以前は兵火により焼失)本堂裏の黒木家の墓所には23代匡実延実)、24代祐実、など代々の墓がある(.) 
 (黒木氏末期の系図)    ―為実(ためざね)之実(ゆきざね)親実(繁実)鑑隆実久(さねひさ)家永)―延実匡実祐実 

 
黒木鑑隆の墓(右)
 
供養碑(左)と墓(右)
安土桃山末期天正6年(1578)から天正14年(1586)に郷土は戦乱が続き(.)近隣の寺も度重なる兵火により衰退し、二尊寺の建物・寺宝は焼き尽くされ荒れ果てた(.)本山の大慈寺も同じく幾たびも兵火にあい荒廃甚しく衰退している。江戸期の二尊寺の梵鐘の縁起にも「応仁文明の乱以降の戦乱の世に堂宇(どうう)は兵火により烏有(うゆう)(火災ですべてなくなるの意)となる」と刻されている(.)

 
  
【二尊寺の江戸期の末寺】(慶長~元和年度(1623)の資料)
佛勅寺(小田村) 大祥寺(松延村・元鷹尾村))    蓮華寺(大竹村・現・二尊寺内)  宝塔寺(金栗村・お堂のみ)
 神宮寺(竹井村・元、立山村)  新興寺(真木村)  福王寺(小田村元、下小川)
   (柳川藩内寺社申上 由布家(昭2)文申A35より)





           [肥後・泰勝寺(たいしょうじ)春龍(しゅんりゅう)による中興]
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 江戸時代(.)になり、70年程過ぎた延宝年間(1673~81)に肥後藩主細川家の菩提寺、臨済宗妙心寺派(りんざいしゅうみょうしんじは)の泰勝寺三代住職・乾明竺(けんみょうじく)和尚の弟子、春龍(しゅんりゅう)が寺を建て、二尊寺を中興している。当時から現在まで、二尊寺は臨済宗妙心寺派であり、寺紋の細川九曜(くよう)の紋は中興されたこの時代からのなごりであり、寺の屋根瓦に見られる(.)
 春龍は再興供養をし堂宇を建て盛んとし、二尊寺の第二世住職・了嶽東修(りょうがくとうしゅう)となる。勧請中興の者としては師匠の乾明竺和尚を奉じている(.)この頃に二尊寺の末寺として松延の大祥寺、江浦の仁業寺などを開山している(.)
 

 二尊寺の鐘楼門前の西側板碑(いたび)には天和3年(1683)二尊寺住職の春龍により衰退した二尊寺再興を祈願、伽藍(がらん)の再興供養が行われたことを記念して建てられたものである。「天和三癸亥(みずのとい)年 大乗妙典(だいじょうみょうてん)二部 納石経(のうせっきょう) 為如■■空禅尼 現住春龍志 血盆経三百巻 八月十有二日」とある(.)この碑文から二尊寺の再建に尽力したことが想像できる(.)その供養の折(.)大乗妙典2部と血盆経300巻の石経を納められた事が刻まれている。血盆経(けつぼんきょう)とは、女性が女性特有の出血のために、死後、血盆池(血の池)地獄に()ちることを説く短文の仏教経典で、室町時代から江戸時代の女性たちは死後に血の池地獄に落ちないために、(わら)にでもすがる気持ちで血盆経に救いを求めたであろう。女人信者が多かったことが(うかが)える。
 

元禄13年(1700)春龍は二尊寺住職のかたわら(.)戦乱期の九州の武将の会話を交えた戦闘場面などを書いた軍書「九州記(きゅうしゅうき)」18巻を出版している。(鹿児島大学付属図書館所蔵・公開中)「九州記」に序文を寄せ(.)校正を担当し京都の版元、田中庄兵衛(しょうべえ)に出版の援助をしたのは、次の師匠である泰勝寺四代住職・性天禅旭(しょうてんぜんきょく)である。春龍は二尊寺を退いた後は福田山仏勅寺(ぶつちょくじ)(瀬高町小田)・飛形山大光寺(立花町北山)を開山している(.)

  [貞享3年(1686)殺生禁断(さっしょうきんだん)の碑]
二尊寺参道入口の石門の西側に「殺生禁断貞享三丙寅年七月吉日(.)彫られた石碑が建立されている( )貞享2年(1685)に五代将軍徳川綱吉(つなよし)が、「自分に子が出来ないのは前世において動物を虐待したことが原因であるから(.)動物を愛護しなければ子は望めない」という僧隆光の言葉を真に受けた母桂昌院(けいしょういん)の勧めで発令し、犬猫・鳥類を慈しむ政策を出した( )よって全国の寺では「殺生禁断」の碑が建てられ、仏教の慈悲(じひ)の精神に基づいて、動物を採ったり、殺したりすることを禁じた(.)魚屋などは寺に入ることを禁じていた。悪法と言われた生類憐(しょうるいあわ)れみの令は宝永6年(1709)1月徳川綱吉の死によって廃止されました(.)この碑が残されている寺は少なく、歴史を物語る貴重な碑である。現在は二尊寺の愛犬「勘助(かんすけ)」が行商の魚屋が境内に入ると吠え続け警告を発している(.)

殺生禁断の碑

     江戸中期享保2年(1717)梵鐘]
 春龍の退任後、享保2年(1717)に京にある本山の妙心寺から二尊寺第三世住職に着任した物田禅利(ぶつでんぜんり)の時に樺島家から梵鐘が寄進されている(.)
 この梵鐘の銘文には「筑後州瀬高荘大竹山二尊寺者 鉄山士安(てっさんしあん)禅師之開基而延慶元年間出古叢林也 師者肥之大慈寒巖(かんがん)和尚之的嗣而洞上之名哲也・・應仁文明之後?罹兵災悉為烏有・・延寶之交吾首座了嶽(りょうがく)占隠約地隅至千斯不忍見厥廃七遂留志於恢復稍宏佛宇新庫厨構門廡浩於官廰隷寺於京之妙心其徒物田(ぶつだ)相継而住頃日新鋳鳴鐘而欲重興禅規遠来乞銘余為」「教之體枢之利・・・享保二丁酉春二月日 前妙心性天(しょうてん)叟誌 樺島益正益永益家 樺島益吉益利益成 志樓妙須幼泰 妙子妙秋 瀬高上荘治工 平井惣兵衛(ひらいそうべえ)尉保仭」とある。
二尊寺鐘楼門
 熊本の大慈寺の寒巖義尹和尚に学ん(.)三代目住職の鉄山士安延慶年間に二尊寺を開基した。応仁文明の乱以降の戦乱の世に堂宇は兵火により烏有(うゆう)となる(.)延宝年間了嶽(春龍和尚が寺を建て再興し、その後に京の妙心寺の物田和尚が引継ぎ寺を盛り立てたとある(.)鐘銘文は二尊寺第二世住職、春龍や第三世住職物田の師匠である性天禅旭(肥後の泰勝寺の四代住職)の執筆による(.)
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 寄進した樺島家の先祖は戦国の天正時代に山下城の蒲池鎮運(上蒲池)に従った松延城の城主樺島式部少輔益運)であり( )立花宗茂藩主の時代には庄屋となっている(.)慶長5年(1600)、関が原の戦いで西軍について敗れた立花宗茂(たちばなむねしげ)公は柳川城を開城し肥後の高瀬(熊本・玉名市)に寓居の身になりと夫人は腹赤村(玉名郡長洲町)に住んだ(.)庄屋樺島式部の嫡男彦左衛門益義)は本郷の壇七郎兵衛忠重と旧藩主を慕い危険を犯して糧米などを届けていたが、慶長(けいちょう)7年(1602)7月10日北関(きたのせき)(山川町)で捕われた。藩主田中吉政(いか)りをかい(.)野町の面の坂(山川町)で処刑され、両家の親は斬首とお家断絶という重い刑に処せられた。18年後立花宗茂が再び柳川藩主になり、届けた恩義と忠誠心の褒美(ほうび)として元和7年(1621)に檀家は本郷組大庄屋職を樺島家は竹井組庄屋職の永代世襲を賜る(.)樺島家の末裔には楠田組や田隈組や垂見組や蒲池組の大庄屋職も賜っている(.)
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 寄進された梵鐘の銘の樺島益正は松延村(竹井組)の樺島家5代目であるが、途中、楠田組(高田町)大庄屋(おおじょうや)を賜り、弟の益吉が松延村(竹井組)を相続し、その娘が益正の養子の益永と結婚して楠田組の大庄屋の家督を継いでいる(.)益家は親族であろうか調査中。松延村(竹井組)を相続した樺島益吉であるが益利益成は親族であろうか調査中(.)益吉の嫡子は松延村7代目の益俊であるが、まだ誕生してなかったのか記載はない(.)梵鐘は瀬高上庄の平井家の鋳物師平井惣兵衛保仭が鋳造している(.)この梵鐘は第二次世界大戦時の昭和17年に金属回収令で供出され失われているが銘の記録は残されている( )近所の古老の話では現在の梵鐘より少し小さめだったが、すばらしい鐘の音色で近所に響いていたと言う(.)

二尊寺を再興した春龍物田の師匠である
性天享保4年(1719)7月14日に亡くなり、墓と位牌は熊本の泰勝寺にあったが明治2年の廃仏毀釈で廃寺(現・立田自然公園)となった為に、位牌が法縁により二尊寺の本堂に安置されている(.)
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 (二尊寺ゆかりの泰勝寺(たいしょうじ)とは)
 肥後藩の加藤清正(かとうきよまさ)の死後、家督は子の忠広が継いだが、寛永9年(1632)に改易された後を受けて小倉藩の細川忠利(ほそかわただとし)が熊本藩の初代藩主となり、熊本大学の北西部にある立田山の麓に寛永14年(1637)に細川家の菩提寺泰勝寺(たいしょうじ)が創建された。初代の細川藤孝(幽斎)公夫妻、二代目夫妻、忠興(ただおき)(三斎)公と正室ガラシャ夫人(玉子)の菩提が弔われ「四つ御廟」がある。初代熊本藩主忠利の母、ガラシャ夫人は明智光秀(あけちみつひで)の三女で父の光秀織田信長(おだのぶなが)を本能寺で討ったために、丹後に隔離・幽閉されている。のちに夫の忠興は細川家の大坂屋敷に戻したが玉子は密かに洗礼を受け( )ガラシャ」という洗礼名を受けた。関ヶ原の戦いが勃発する直前、慶長5年(1600)7月石田三成(いしだみつなり)の人質を拒否してキリスト教では自殺は大罪である為に家老に依頼して殺害され爆破されている。38歳。辞世(じせい)の句として、「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」と詠んだ。泰勝寺は京都から高僧、大淵(だいえん)和尚を招いて開山。寛永17年(1640)熊本城主細川忠利に客分として招かれ、2代藩主細川光尚(みつなお)にも同じく処遇された宮本武蔵(みやもとむさし)は二代目春山和尚(しゅんざんおしょう)交流があった。三代目乾明竺(けんみょうじく)和尚と四代目の性天禅旭(しょうてんぜんきょく)が瀬高の二尊寺を中興した春龍(しゅんりゅう)物田(ぶつでん)の二尊寺住職の師匠である。庭内には、「四つ御廟」をはじめ歴代藩主の墓や泰勝寺の歴代住職の墓と宮本武蔵供養塔などがある。歴代住職の卵塔(無縫塔(むほうとう))は鎌倉期に禅宗とともに大陸宋から伝わった形式で当初は高僧、特に開山僧の墓塔として使われていた。千利休(せんのりきゅう)の高弟、忠興(三斎)公が愛用したとされる茶屋「仰松軒」もある。現在は熊本市が管理している立田(たつだ)自然公園となっている( )(写真は二尊寺のルーツを旅する勉強会21年7月4日)


泰勝寺境内

細川ガラシャの墓

歴代住職の墓地・武蔵供養塔(左塔)

乾明竺と性天禅旭の墓

  江戸末期文化3年1806の半鐘]
 二尊寺には梵鐘のほか本堂外廊下左に半鐘がある(.)陰刻銘に「大日本國西海路 筑後國山門郡大竹邑・・・女人浄財而千人今鋳小鐘欲・・・」「?文化三丙寅春三月(.) 大竹二尊禅寺 見住専圓瓊誌」「瀬高住 鋳物師 平井宗兵衛尉 菅原俊保」とあり(.)文化3年(1806)に上庄の平井家鋳物師
平井宗兵衛菅原俊保により鋳造されている(.)女人信者千人らが浄財を集め、再鋳されたとみられる。半鐘は読経出頭や、座禅開始の合図に使用されている(.)

文化3年の半鐘

 
 【観音堂】
 観音信仰は往古から、「観音経」を称えれば、姿を千変万化させて、この世のあらゆる場所に現れ、災いから救済される功徳(.)があると信仰をあつめました。江戸末期に西国三十三箇所の観音霊場(近畿地方)をまね(.)遠方で行けないので筑後にも「西国三十三札所を回ったのと同じご利益が得られる(.)と言う事で「筑後三十三ヶ所観音霊場」が創立された。さらに瀬高町周辺での(.)ローカルの三十三観音霊場が作られたと見られる( )その観音さまを巡る道は庶民のレクリエーション的色彩も強まって、盛んになりました(.)二尊寺の観音堂の創建もその頃であろうか。春と秋のお彼岸には善男善女(ぜんなんぜんにょ)の巡礼姿がみられます(.)観音巡礼は21世紀の今日でも人々の心のよりどころとして、私たちに連綿と受け継がれています(.)二尊寺の観音堂は平成10年に建替えられ(.)今も近隣の信仰者により清掃・献花されている(.)堂内には巡礼一行を描いた奉納板絵や大正・昭和の信仰者達の写真が掛けられている(.)

   【薬師堂】
 下庄緑町にかってあった二尊寺の末寺の蓮華寺は嘉歴元年(1326)8月僧鉄山が開祖した歴史ある寺であった。堂内には目もくらむばかりの仏像(薬師如来と十二神将(じゅうにしんしょう)が安置され一部が薬師堂となっていた。このお薬師寺さんの周辺の集落を「薬師(やくし)」と呼んでいた程、住民のお寺の対する信仰は厚かったが老朽化して廃寺となっていた(.)このお薬師堂が納骨堂として二尊寺の境内に平成24年に再建されている(.)十二神将は薬師如来を信仰する者を守護する武神(ぶじん)である。


   【明治時代】
 禅宗の戒律は特に厳しく、出家は釈迦の出家のように家族と絆を断ち、私有財産を捨て(.)求道に生きることで、もちろん結婚も許されませんでした。しかし 明治5年に「僧侶ノ妻帯ハ勝手タルベシ」という布告があり(.)僧侶が妻子を持てるようになったが、多くの僧侶からは、この法律は僧侶を侮辱(ぶじょく)するものとして喧々囂々(けんけんそうそう)の論議が起き、この法律が定着するのには数十年の歳月が経ち、僧侶も結婚するようになる(.)二尊寺でも池上智門和尚から結婚して住職を子息に継承している。
 帝国議会が開設されたのち、自由民権運動が盛んな明治25年(1892)、二尊寺檀家総代の宮本房吉(みやもとふさきち)や柳川町の富安保太郎・下庄の阿部酒造の阿部一太郎・小川村村長の成清博愛(なるきよひろえ)(のちの馬上金山鉱主)の諸氏と山門郡東部の中堅党員は瀬高の大竹二尊寺に立憲改進党の本陣を構え、柳川町の岡田孤鹿(おかだころく)候補の支援活動して、政府よりの吏党(りとう)の権藤貫一と戦った(.)この時の住職が檀家総代の宮本房吉の親戚である池上慧澄(いけがみえちょう)である。
池上慧澄(1856-1928)安政3年(1856)2月29日宮本善兵衛の3男として誕生(.)11歳にて近所の二尊寺に出家し、霊隠和尚の弟子となる(.)修行をかさね、明治22年から明治36年まで二尊寺の住職をつとめた名僧である。京都の本山妙心寺に出世し越渓守謙(えっけいしゅけん)に、さらに小林虎関宗補に師事し、その印可(師が、弟子が悟りを開いたり、宗教的能力を得たことを証明認可すること)を受ける(.)

   i池上慧澄(えちょう)
 11歳の時、近所の大竹山二尊寺に出家(.)本山妙心寺に出世し越渓守謙、さらに小林虎関に師事し虎関の印可を受ける( ) 明治36年(1903)虎関の跡を継ぎ天授僧堂に入り師家(しけ)となり弟子の育成に務める( )大正7年(1918)4月に禅を中心とした教育(.)研究を行う文系大学の臨済宗大学(現・花園大学)の学長となり( )7月にはは妙心寺派顧問となる。大正8年5月に花園中学長に任ぜられる(.)7月、臨済宗大学長、兼花園(はなぞの)中学長を辞任する。多くの弟子を育成し、妙心寺派末寺三千ヶ寺の半分位は弟子だった時代があったといわれる(.)妙心寺の管長に推薦されたがいつも固辞した(.)大正11年(1922)の引退して大阪府富田林市の楠妣庵観音寺の再興のために住持となる(.)多くの弟子を育成し、仏教哲学者久松真一の参禅の師でもある。俗性は宮本、法諱は慧澄であるが道号は湘山(.)室号は柏蔭室池上湘山柏蔭室湘山老大師とも呼ばれる(.)

池上慧澄
 百科事典には「僧侶が受戒するときに受ける法名のことを仏弟子として新たに身につける真の名前として(いみな)(厳密には法諱(ほうい)といい、禅僧などは中国の例にならって号・字などと呼ばれるものを諱と別にもった(.)」とある。慧澄老師は昭和3年9月22日に亡くなる。73歳であった(.)

 二尊寺の住職は
池上慧澄和尚が本山に出家したあと明治36年檀家(だんけ)から入門した池上智門(ちもん)和尚が就任する。その頃には寺の住職も結婚をして務めるようになる(.)他界する昭和5年まで務められた。その後は奥さんが寺を守り、職務は本郷の九品寺の宮本住職が兼務している。子息の池上無門(むもん)和尚が住職に就任したのは徴兵から戻った戦時中の昭和19年である(.)昭和24年(1949)には鐘楼門に馬場家の寄進により鐘楼が納められ法要が行われた(.)昭和55年には晋山式(しんざんしき)が行われ子息の池上慧門(えもん)和尚が二尊寺の住職に就任している。平成3年2月に前住職の無門和尚が他界されている(.)平成10年には本堂と観音堂が檀家信者の寄進により落成し、落慶法要が営まれた(.)

【昭和24年の梵鐘】
 
享保2年梵鐘鋳造(ぼんしょうちゅうぞう)から232年後の昭和24年(1949)に再び400年の歴史をもつ上庄の平井家十九代鋳物師平井國吉(ひらいくにきち)鶴勝治浜武守太郎ほか工員45名により梵鐘が鋳造された(.)福岡懸山門郡瀬高町大竹区大竹山二尊禅寺 者肥之大慈寒巌之的嗣洞上名哲鉄山士安禅(.) 延慶年間開創古叢林也厥提拂之日堂舎(.) 々尋衆済々可想見焉應仁文明以後?々罹兵災悉為烏有唯遺一丱堂而己延宝之頃済門(.) 了岳和尚偶隠?千敗恢興寺門隷寺於(.) 之妙心後其上口之物田禅師董席享保二丁酉(.) 門鋳造洪鐘来遍教群生浴微妙法音時乎 昭和十七年依命供出法器了絶音七星霜(.) 素深慨之矣然宿願願所感遂現住無門力生得篤信檀徒立志傅中士馬場寛語(.)之寄進再鋳造寶鐘平和妙音通徹十方爲唯願憑比大功徳力馬場家一門並檀信(.) 縁微刹界情興非情同入餘涅栄 の印刻があり二尊寺の縁起が記されており昭和24年10月に鐘楼は稚児(ちご)行列にて運ばれ馬場寛語氏の寄進により二尊寺の鐘楼門に掛けられている(.)



昭和24年の梵鐘
 参考文献
①渡辺村男「旧柳川藩志」中巻 ②嶺南秀如「日本洞上聯燈録」巻第二「肥後州大慈鐵山士安禅士」、P248による ③北嶋雪山「國郡一統志」青潮社、P48 P306 P308  ④南筑明覧 ・ 太宰管内志(中)  ⑤木村文輝「宇土市如来寺に残る三師をめぐって」 ⑥「古今肥後見聞雑記」の「開山寒巌之木像并ニ鉄山之木像あり」の記述 ⑦世界大百科事典

       禅宗の歴史

毎日、二尊寺では暁の座禅(午前6寺)が行われています。坐禅を組むことで、心の迷いが晴れて何かが見出せたり、日本の精神文化を学ぶ、機会となるでしょう。      
                     
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