庄福BICサイト H・24・10・20製作 【禁無断転載】 福岡県みやま市山川町大字尾野 |
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みやま市の飯江〜中尾〜清水〜河原内〜九折に続いて清水山にかけての丘陵地帯が古くから古代人が住みついていた場所でしょう。当時は主として山の鳥獣を追い求めて原始的な道具と方法で捕獲し、海に出ては魚を捕り、原始的な焼畑農業で暮らしていた。旧石器の出る場所は当時の人が住んでいた所で、飲用水として使用したと思われる湧水池が必ず近くにある。石器の時代から土器を作って使用する縄文そして弥生〜古墳時代へと移行していく。山川町の台地の北部に位置する尾野(中尾・野町)では山の上遺跡・中尾古墳群・野町古墳群など多くの古墳や住居跡が確認されています。また南に延びる山麓の隣村にも二本松・日当川の赤山・立山・原町古墳群が分布し400基をこえる数がみかん畑の造成工事前まではあったと言う。
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前畑遺跡 中尾 小字・前畑 |
昭和55年春、京都平安博物館考古学研究室が中心となり中尾中心に発掘調査がおこなわれた。標高22〜24mの扇状地の前畑・茶畑、等が調査され前畑には2基(土坑)が見られ、いずれも住居跡やたき火の跡なども見え人口的なものであることが確認された。された。遺跡からは石器、石核(石器を作る前の原石)類など35例。剥片類まで含んだ総数は265点にも及んだ。石質は殆どが黒曜石で1割程度の安山岩が含まれていた。また出土した土器は破片数で260点を数える。これらは縄文時代早期に属するもので楕円文の文様を主とした押型文土器が殆んどで無文土器片が数点混じっていた。 |
クワンス塚古墳 尾野 虎の尾93番地
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野町赤坂交差点から河原内方面に下ってすぐを右に入った竹林の中にある。古地図の虎ノ尾部分に墓地の茶色の部分であろう。ここの古墳は周濠を持つ県南部では有数の帆立貝型の前方後円墳である。直径約60m高さ約4m、周溝をいれると約80mになるという大型の古墳である。野町古墳群の中で最大だけでなく県南部でも有数の古墳と言われている。円筒埴輪の破片出土。周溝の外側に陪塚(主人の墓に伴う従者の墓)と考えられる小円墳が3基存在していたが、一基は破壊され、一基は封土が削除され、残る一基も家屋建設のため一部削除されている。5世紀の円墳とみられ盗掘はされていない模様。
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中尾古墳群 尾野1355 |
中尾集落の天満宮を中心に6基が確認されている。。裏山古墳は中尾天満宮の左前方にあり、天満宮創建時(江戸中期と想定)に開口したと考えられる。昭和30年に調査され5世紀築造の竪穴式石室を持つ、古墳で石室は近くで産する緑泥片岩の一種を小口積みに使用して、向きは東西に長く約2m西壁に鏡石を用いて幅は約0.8m。東端は約0.7mであることから、遺体は西向きに置かれた戸椎側される。副葬品はまったく無かった。山川で竪穴石室はここ一か所しか無く、貴重な古墳である。天満宮裏手に3基の古墳がある。この天満宮を中心に中尾地区には6基の古墳が確認されている。主なものは葉底古墳(神社裏)**直径約30m、高さ2m、未盗掘。玉泉坊塚古墳**直径約20m、高さ2m。未盗掘。 |
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中尾天満宮・裏山古墳入口 |
神社境内左斜面 |
裏山古墳 |
葉底古墳(神社すぐ裏) |
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【古代条理制跡】
筑後地方では霊亀元年(715)頃おこなわれました。瀬高町北大木から本吉、山川町中尾清水、河原内に至る地域一帯のもので官道想像線と一致します。古代条理制跡は新たな圃場整備事業によって消えましたが、掲載の古地図でも条理制を表す地名「七ッ枝」や「六ッ枝」が中尾集落の西に見ることができる。
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【古代官道・狩道駅】
大化元年(645)の大化の改新により、大和政権は地方に鎮守府・国府を設置、翌大化2年(646)には中央と地方の国府を結ぶ官道(官道とは現在でいう国道)が整備され始め、九州では大宰府を中心に軍事目的の道路を設け、地域支配の拠点である郡衛の役所とを、水路や陸路で結び30里ごとに駅を設けた。延喜式・諸国伝馬条によると大宰府から筑後国には3駅があって、久留米の高良山のふもとの御井駅(府中駅)〜筑後市の葛野駅(羽犬塚宿)〜みやま市の狩道駅〜玉名郡南関町の大水駅〜肥後の国府(熊本市)さらに九州南端の坊津まで整備された道である。みやま市での狩道駅は場所は確定できないが、@高田町海津の水路の駅と竹井の陸路の駅の両駅を1つにして狩道駅とした説とA竹井村野町(山川町野町)の説が推測されている。その道筋は、葛野駅からはっきりと解かっていなかったが、横断する高速道インター接続道路工事前の発掘調査では官道跡は発見に至らなかったので島津征伐のために豊臣秀吉も通ったとされる、矢部川を渡り、長田〜大塚〜女山〜本吉〜九折〜狩道駅(野町)のコースが濃厚となった。この官道は江戸時代になりと筑後市やみやま市山川町の、おおかたの道筋は変更・整備され薩摩(坊津)街道として参勤交代の道とされる。
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牡丹長者の居館址 尾野小字長者原 |
竹井村(現・高田町)との境に小字の長者原の地名があり、牡丹長者の居館址と言われていた。東西約350m、南北365mに及ぶ極めて広い範囲で。またこの地には小名に侍屋敷または鍛冶屋町の名が伝わる。柳川藩の学者が明和2年(1765)に著した「南筑明覧」は「牡丹長者は九州探題也」「長者原は牡丹長者の旧跡也」と記す。
南北朝期の 興国3年・康永元年(1342)5月、北朝方の九州探題一色道猷 (範氏)は竹井城に立て籠もる南朝頂方の中院侍従義定・菊池武茂・肥後武教・大城藤次(草野一族)・大木貞資を攻める。激戦の末、7月には南朝方は敗れて菊池に退いている。この戦いについての2・3の古文書があるが郡名が見えないので、山本郡(現久留米市山本町)にも竹井城があるので、いずれの城かと論議があれが、植田均氏の「純忠菊池史乗」にも書かれた、肥後との国境である山門郡竹井城と見るのが自然であろう。
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十三塚 尾野小字南十三塚・北十三塚 尾野1487(西野町) |
野町から竹井原(竹飯・長者原付近)のみかん畑の中に点々と続いているものを東西流れの十三塚と言う。造営の年代的起源や性格については、部分的な調査がされたが遺物は出土していない為に明らかでない。伝説では南北朝時代に探題今川了俊軍と菊池軍の死者が多数あったのを追加葬った塚、また田尻家譜によると「室町末期の永禄3年(1560)の秋に、竹井原に十三の塚を作り、1千人の僧に依頼して法華経1万部を読誦させて田尻家の親族以下家士、被官、雑兵などの戦死者の霊を祀った、これを十三塚というなり。」と書かれていることから、鷹尾城主の田尻親種が築造したと伝えられている。野町の小字福原から国道443号をはさんで東に1基、西に9基の合計10基が東西に一直線上に40〜50m間隔で並んで残されている。古地図でも小字の福原から南十三塚さらに北十三塚に墓の茶色の印が11カ所ある。あとの2カ所は高田町の竹井原にある塚で、牡丹長者の時代に宝物を埋めた所とも言わている。
またこの付近は明治から大正の初めにかけて行われた耕地整理の条理が見られる一帯です。よって掲載の明治初期の古地図の小字は失われて碁盤の目みたいな地形に変化しています。現在は昭和53年に完成した、山川町から高田町を経て大牟田市を結ぶ大規模な農業専用道路「オレンジロード」や、それを横切る国道443号バイパスの幹線道路が建設されています。
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太閤道そして薩摩街道 |
戦国時代の終りの天正15年(1587)4月豊臣秀吉の、薩摩の島津征伐のために軍を進めた街道は羽犬塚から尾島〜長田宿(筑後市)を通り徒歩により矢部川を渡り、長田小田村〜本吉宿〜河原内と清水山麓の道筋を通り野町にたどり着いている。秀吉は矢部川の増水のため渡河することができず、長田宿(筑後市)に数日間逗留を余儀なくされたと云われている。
寛永12年(1635)三代将軍徳川家光の時に武家諸法度が改定され参勤交代が確立され、野町から清水山麓の本吉の門前町の宿場を通り長田の渡しに出て尾島〜羽犬塚宿に至る道が参勤交代の街道として利用されていたが、60年後の参勤交代の道筋変更まで最も利用された街道で古くは別名、原町往還や南関街道とも呼ばれた。慶長6年(1601)徳川幕府は伝馬宿駅制度を設置、大名が参勤交代の際は必ず本陣又は脇本陣に宿泊することになっていた為に元禄9年(1696)柳川四代藩主に立花鑑仁が就任した時に薩摩街道は野町〜清水〜上小川〜下庄〜上庄(本陣)〜本郷〜尾島(久留米藩領)〜羽犬塚宿の西寄りのコースに変更された。野町には休息の為の御茶屋が置かれていた。野町上町(中村病院脇)には三里石が設けられていました。本吉・小田方面の昔の薩摩街道の交差点には追分碑があり「柳河道」(瀬高〜柳川方面)と彫り込まれている。
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野町の市日 |
柳川藩においては宿駅には商業を許したが、ほかに藩内の9か所の町に簡易な商業が許された。市日を定めたのは野町と三池町であったが、野町の市の日は4、5、8、9、14,15,18,19,24,25,28,29日で4・5・8・9がつく日で、三池町は1・2・6・7・10がつく日であった。この時は藩の役人が見かじめに出向いてくる。そして特殊な市として名高いものは馬市であった。江戸幕府の掟では、藩内に牧場がなければ開くことができなかった「馬市」。柳河第3代藩主立花鑑虎(英山)が、お牧山に軍馬・農馬の牧場を設けてから、この地では、元禄年間(1688〜1703)から藩の許可で春と秋の2回、野町で馬市が開かれ繁盛し運上金も課された。指定の馬喰さんが仲介して適当な価格で仲介世話する。薩摩街道筋の野町は宿屋が建ち、遊郭も出来、一泊、二泊の遠くからの客や街道を通る旅人の宿場としても大繁盛して賑わっていた。明るい火のゆらぐ行燈の光の下では盃が廻り唄も出る。そして大金が次から次へと動き野町の街は潤っていました。 |
馬市と馬喰・隈川鶴松 |
本町と中尾とに馬の獣医が2軒あり、赤坂には馬の足に付ける馬蹄を作る鍛冶屋があったと言う。馬市があった場所がはっきりしないが、野町では大きな堀ぬき井戸が地域の共同井戸が馬市用のものかは不明だが9か所確認されてるが、野町天満宮から福岡銀行山川出張所辺りまでに5か所も集中しているので、この付近にあったと思われる。駒馬の育成はその後衰退した為に、宝暦年間(1751〜64)7代藩主の鑑通の時に四ケ所藤左衛門が刷新して、種馬を肥後や薩摩から取寄せ、今村多治馬を主任に命じ、今までの築地原を荒木に代えて現場監督としたと言う。更に8代藩主鑑寿・9代藩主鑑堅の時代(1797〜1830年)になると良馬を出さぬようになったが、馬市は永く維持された。牧役所を原町に置き軍馬農馬の改良養成を目的とし、馬市を野町で開き他領からの馬の輸入を計り、藩主が牧場に臨んで駒(仔馬)の体格優秀なものを選び取る「駒取」も行事となっていた。明治維新(1868年)後に遂に廃止したと言う。藩政時代の流れを汲んだ最後の馬喰さんが隈川鶴松と言われている。この野町の馬市と隈川鶴松の功績を後世に残すために山門、三池、三潴の有志が寄金して建てられたのが、山川町清水から面の坂を登りつめ赤坂に入る左側、石段の上に建っている記念碑である。碑の文字は高田町出身の逓信大臣・野田夘太郎が揮毫されたもので、大正11(1922)年3月に顕彰碑を建立したものです。
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隈川鶴松の顕彰碑 |
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代官屋敷跡と野町 |
古老の話しなどを総合して思考するとん、野町南部の名花野にあった可能性が高いと思われる。馬市もこの付近にあった可能性が高いわけで、もう一つ野町では入性寺から竹井組のうち、河原内・在力・南広田・中尾・竹井・立山の各村へ法令伝達が行われていました。野町は当時竹井組に属していたが、在町として中心の役割を果たしていたののと考えられる。代官は車田氏であった。
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大字・尾野の誕生 |
明治9年に、中尾村と野町村が町村合併で各1字ずつを取って尾野村が誕生しました。次の町村合併は明治22年3月に尾野村・立山村・原町村が合併して富原村ができ役場は尾野村の野町にありました。明治40年に1月1日には万里小路村・富原村・緑村(そのうち河原内村と清水村のみ)(緑村のうち松田村と大広園は瀬高町へ編入)・竹海村が合併して、ここに一大新山川村が誕生しました。次に昭和34年4月10日に山川村のうち竹飯、飯尾、海津が分村し高田町へ編入し、昭和44年4月1日に町制施行によって山川町となりました。
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尾野尋常小学校 尾野736 免坂 |
明治22年(1889)3月町村合併で富原村が誕生したのに伴い明治25年(1892)に富原小学校が創立され、以来第一と第四尋常小学校が統合され尾野尋常小学校と尾野の南端(現・山川中学校敷地)にあった北部尋常小学校は北部国民学校・北部小学校と伝統を引継いでいるが、冷凍食品製造メーカー「八ちゃん堂」の本社工場東側には「山の上小学校」と呼ばれた尾野尋常小学校がありました。明治42年4月1日に従来の第一・第四山川尋常小学校を廃し、両校の学区を合わせ、尾野尋常小学校と改称し、位置を尾野にある元山川高等小学校の校舎・校地を受継ぎ設置されました。明治44年には生徒数も増え校舎を増築されている。工場内あたりが運動場で石の校門は八ちゃん堂の入口前に残されています。昭和33年(1958)に北部小学校と統合され尾野の虎ノ尾に新校舎が建設され現在の東部小学校が誕生しました。
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奥の八ちゃん堂工場敷地に山の上小学校の運動場があった |
山の上小学校校門(移動保管)・左奥の台地に校舎があった |
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【寺社仏閣】 |
入性寺(宝王山) 野町上町 |
宝永7年(1710)2月、僧越智玄了が開祖創建している。一説に寛永20年(1643)建立とも伝えられています。現在は文書もなく、本堂改修の際にあったと言う棟木札は失われ確証できない。寺地4反歩。村誌に寺地東西30間、南北13間半、面積401坪。とある。 |
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野町天満宮・祇園宮 |
創建年代は不詳。安政4年(1857)再建。境内の一対の灯籠には「明和元甲申年十一月吉日」(1764)と刻まれた、鳥居には「明和九年壬辰)(1772)の建立である。野町の祇園祭は7月23日が例祭で、子供みこしが出て賑わう。
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野町天満宮裏の地蔵尊 |
台座に「済度衆生」「弘化三年四月吉日」(1846)とある。
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赤坂横町の地蔵尊 |
4体が祀られているが、建立年代の解るものは1体で元治元年(1864)と刻まれている。 |
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中尾の天満宮 中尾小字裏の山 |
創建年代不詳。祭神は菅原道真。奉納鳥居には「文化六己巳年三月」(1809)とある。
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中尾の熊野宮 中尾小字道出 |
天正13年(1585)11月15日の創立。祭神は伊弉諾命・伊弉再命。縁起にはご結婚の後、共に力をあわせ、まず日本の国土をお生みになられ、次に家屋造営の神、風の神・海の神、川の神、木の神、山の神、野の神、土の神、水の神、造船の神、鉱山の神、食物の神、火の神など、計35神をお生みになられた。これらの神々は、人間に必要な大地、自然、文化を司る神々という。 和歌山の熊野よりご分霊を受け祭祀 。社殿棟木札には元和元年間(1615〜1624)に柳川藩家老、十時三弥・立花三郎右衛門などによって改築されたことが記されている。ただしここには、熊野宮由来記がある。
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来通寺 (中尾山) 中尾小字奥小路 |
真宗東派。明暦2年(1656)4月に原町に僧岩村善誓が開祖創建。村誌に寺地東西25間、南北24間半、貞享4年(1687)建立、寺地9畝9歩とある。火災に遭い原町から中尾の陳内と奥小路の中間辺りに移転したという。古地図にはまだ寺の表示が無い為に日露戦争の頃に敷地の北に国道が建設され時に寺の建物が造られたであろう。寺の隣には双葉保育園が併設されている。
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参考・引用文献 柳川藩志 山川歴史散歩 山川ゆずりは風土記20 山川史蹟案内板 地元有志の方の資料提供 |
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