大竹村の起名は「大竹山二尊寺」によるとされている。大竹山二尊寺は平安末期、二尊仏信仰が盛んな頃に創建され、大竹が茂っている土地だったので大竹山の寺号が付けられとされている。二尊寺の歴史・文化財については平成22年(2010)に二尊寺の協力により調査研究を行いました。調査内容は大竹山 二尊寺を御覧ください。往古の大竹村は明治初期の古地図からでも想像できるように、薩摩街道沿いに前田の集落と飛岡(現・元町)の集落があり、二尊寺の参道に少しの民家がある。地図の上辺には下庄新町の薩摩街道から分伎した吉岡土居の上辺の道から樋口八幡神社の北側を通る畑ヶ田往還は下坂田村から北方面の下長田の矢部往還につながり、小田村〜立花町〜矢部村〜黒木町方面までの商業圏の物資輸送の往還が盛んであり、当時は樋口神社の鳥居入口は東側にあり、境内は通行人の休息・参拝の場所であったろう。 。 |
大竹山・二尊寺 |
「吉岡土居」の歴史は平安時代の農業本位の荘園封鎖経済は、鎌倉時代に至って手工業、商業の発展、人口増加などにより破壊され、広域経済、土地生産力増強のため河川の堤防工事が始まり、水田の拡大が図られた。吉岡土居も中世末期から藩政時代の初期に工事が進められ、下庄の町並とその南部の水田を水害から守る為に、高さ4m前後上幅4m、基底幅10m全長約1kmの矢部川の洪水用二重堤防が造られた。立花藩政時代から上辺の道路の両側の堤防敷には櫨(はぜ)の木が植林された。大正時代の回想によると、はぜが密生し、枝は道路に迫りトンネル状になり樹間から洩れる陽光、青葉を渡る風は通行人にとって、こよなき慰めとなったという。春には土居周辺の田畑は菜の花と蓮華草の花に埋まり、はぜの若葉に映えて、美事なたたずまいであった。秋には綺麗に紅葉し、羽犬塚方面から「はぜきり」の専門家がきて枝と枝に縄を渡しサーカスみたいに、はぜの実の収穫作業をしていた。現在は国道209号線や瀬高駅前通りの建設により往時の姿は新町や緑町の一部のみになった。現在、吉岡土居は削られ無くなっているが、下庄新町の阿部酒屋から北東に連なり、緑町の旧道を通り、国道と交わり吉岡信号から東に伸びた道であり、瀬高駅の北側にある、歩行者専用踏切から下坂田の集落に連なっている道が当時の名残である。明治9年(1876)に下庄町と大竹村が合併して下庄町村となる。明治22年(1889)下庄村町の一部(上庄側の矢部川沿いの土地が上庄に編入)が変更され下瀬高町となる。明治34年(1901)に上瀬高町と下瀬高町が合併して、瀬高町が誕生している。
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明治12年頃の測量地図(まだ鉄道も国道も敷設されていない) |
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樋口八幡神社 大竹樋口 |
樋口八幡神社の伝説によれば「神功皇后が山門の県の田油津媛を退治する為海路より船舶を着け上陸された地点を社地とした」または「神功皇后海路より本郷へ行幸された時この地に御船を着け上陸された地である」とある。古代からの宮で樋口庄が成立、朝廷が隣の堀池園に園池司を置いた大宝1年(701)頃には鎮座していたと推測する。貞観2年(860)頃には上小川の寺中神社(吉井の上小川八幡神社)ともに各荘園の行政事務と祭祀を行っていたとみられる。貞観11年(869)宇佐八幡宮の八幡神が勧請されている。筑後国政庁が高良大社に作らせた天慶神名帳(940年頃)に樋之口神とあるのは樋口八幡神社と思われる。「社領往古大竹樋口より下庄高柳、井出の上、泰仙寺、鷹尾、皿垣まで残らずその筋神領にて樋口千町と申事御候(鷹尾文書)」とある。瀬高庄は大治6年(1131)上庄・下庄に二分した年に、下庄八幡神社が分建されている。瀬高下御庄の人々の開発耕作により鷹尾郷の人口が急速に増加し、保元4年(1159)頃鷹尾別宮が出来、文治5年(1189)頃瀬高下御庄内の別区として鷹尾別府が成立した。筑後鷹尾文書によると11世紀後半は「高良玉垂宮別宮樋口社」と呼ばれ、高良別宮鷹尾社と兼帯していた。両社とも、元は八幡宮ではなく、久留米の高良玉垂宮の末社で「高良別宮」と呼ばれ支配されていた。高良別宮として永い歴史を持っていたが高良玉垂宮の支配から脱却する気運が、立花藩時代から急に高まり高良玉垂命主の祭神を現在の3柱の応仁天皇・仲哀天皇・神功皇后の祭神に変更したと思われる。現在の社殿は万治2年(1659)柳川藩2代藩主立花忠茂により造営、同時に神像も造られている。奥神殿の扉の上には、向かって左には重ね菊、右に五七の桐、中央に祇園守りの紋が彫ってある。五七の桐は瀬高庄に関りの深い黒木氏の家紋で、以前の時代の樋口宮の造営に尽くしたのであろう。瀬高庄の時代に樋口八幡神社の造営に尽くした明治6年に村社に定められ樋口の荘の宗社として地元民の多くの信仰の対象となり繁栄した。境内には稲荷神社や恵比須さんが、祀ってある。瀬高駅の東部の林の中に鎮座される瀬高町の古社である。祭礼は矢部川各町内と大竹・前田の氏子で11月5日に行われている。
(元樋口神社氏子総代故・上津原猛氏の「樋口神社と鷹尾神社」を参考に編集しました) |
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前田の天満神社・恵比須・お地蔵 JRの踏み切り傍にあり前田公民館の隣 |
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旧薩摩海道が通っていた前田は二尊寺の門前町であり、街道沿いには幾らかの商家があったと推測される。現在、天満宮はコンクリート造りのお堂で菅原道真を祀ってある。10月の第1日曜日に前田区5班を順番に御座の担当になり祭礼を行なったあと公民館で会食を行っている。左横には恵比須の石の祠があり10月20日に恵比須祭をおこなっい天満宮祭と同じく会食が行われている。敷地にはお地蔵さんもあり8月24日に小学生が、お地蔵まつりを行って参拝者の接待をしている。また南側にある道が昔の薩摩街道であり、二里石が踏み切東にあった。踏み切は廃止され行き止まりとなっている。 |
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地名のはなし |
樋口(小字名) 矢部川1丁目北 |
樋管や水門との関係地名です。樋口神社の傍にある土穴は奇妙な地名で、その起因は検討がつきません。樋口神社の付近には返済川と坂田方面からの水系が合流する所で重要です。おそらく両水系をつなぐ地下式の樋管でもあったかと想像しています。樋口神社の祭礼は矢部川各町内と大竹・前田の氏子で11月5日に行われている。樋口神社は氏子の町内に背を向け反対側に鳥居があった為に、昭和期に西側にも鳥居が建てられています。 |

東側の旧鳥居 |
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板敷面(小字名) 矢部川1丁目 |
現在の瀬高駅を中心とした周辺の地域です。寺院などの経営田で免税された土地の遺名です。
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北方(小字名) 大竹 |
「大竹山二尊寺」の寺領の北側を意する地名です。
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垣添(小字名) 矢部川3丁目 |
現在の1番街通り商店街付近の小字名で二尊寺の寺領境界の垣根らしき所に付けられた地名です。
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【矢部川停車場(駅)と矢部川商店街の誕生】 |
明治9年の町村合併により、大竹村は下庄町と合併して下庄町となる。上図の測量地図は当時のもので、主なる道路は薩摩街道と吉岡土居の上辺の道である。 明治18年に薩摩街道に平行して北側に、二尊寺の参道を横切るように旧国道(現・県道)の柳川・南関線が建設され、次いで前田から矢部川停車場への引込道路も建設された。明治24年には九州鉄道の「矢部川停車場(現・瀬高駅)」開設され、明治42年には柳川〜矢部川停車場間に柳川軌道が敷設され、目まぐるしく変化する。駅や軌道沿線沿いに商店が増え各商店街の名が付けられた。鉄道の停車場「矢部川」の駅名から付近の新興商店街を矢部川と起名された。のちに矢部川3丁目の西部が分割して恵比須町を造り交差点に恵比須像を祀り商売繁盛を願った。明治24年4月1日、高瀬(現在の玉名)まで開通し、下庄字矢部川に「矢部川駅」(昭和31年瀬高駅と改称)が開設営業を開始した。この結果、瀬高が大きく発展することになる。鉄道開通は、初めての「陸蒸気」を見るために弁当持参の郡衆が集まるほど人気があった。開業当初の駅名が矢部川駅だったのは、高瀬駅(現在の玉名駅)との混同を避けるためであった。この鉄道の開通により、人は日帰りで遠方に出掛けられ、談議所の浜からの船での荷物の輸送手段が鉄道便の利用に変化していくことになる。矢部川駅構内には人力車40輌があり、その他付近町村の分を合わせると300余輌があったという。車賃は一里15銭、1日貸切で90銭であった。また駅構内には乗り合い馬車31輌があり、6人乗りで、1人1里10銭であった。駅前の旭屋旅館の馬車は柳川や沖ノ端にも出張所をもっていた。この頃の馬車を高等馬車と呼んでいた。駅の付近に旅客相手の日新亭料亭・旭屋旅館・さかき屋旅館が開業している。宴会も多くなり、芸者さんの置屋も開業している。明治24年7月1日、九州鉄道はさらに延長され熊本駅まで開通する。8月20日には現在の長崎本線の1部である、鳥栖〜佐賀の間も開業する。明治27年、日清戦争が勃発し軍需景気が高まり鉄道の需要が増え高度成長に乗る。明治28年、熊本から八代まで延長開通し、佐賀〜長崎の間も延長開通する。昭和10年5月25日に佐賀線開通。昭和12年3月21日に駅舎改築。昭和17年4月1日に瀬高町駅と改称。昭和31年4月10日に瀬高駅と改称して現在に至る。
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本格的に柳川方面の旧国道沿いに商店街が建ち並んだのは戦後であり、特に衣料品販売業が目立った。昭和21年5月に矢部川3丁目に「山門映画館」が開館している。館主は野田義勝氏で東宝系の映画館であった。青い山脈・小次郎佐々木・森繁主演の社長シリーズ・7人の侍・ゴジラ・3人娘・天国と地獄など映写した思い出がある。昭和29年には旧国道沿いから入りこんだ一番街通りの元、重富材木置き場(現在のスーパーサンリブの場所)に東映系の「瀬高東映映画館」が落成し、歌手の小林旭などが来館ている。館主は牟田口定夫氏であった。ひめゆりの塔・笛吹き童子・新吾50番・水戸黄門・旗本退屈男・宮本武蔵などを映写した。昭和30年代には火災により休館し、後に復館したが、昭和41年に閉館している。昭和40年代の映画産業はテレビの発達普及により、入場者が減り劇場、映画館も姿を消していった。山門映画館も同時期に閉館し瀬高の娯楽のが場が消え去った。
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矢部川1〜3丁目 |

矢部川停車場(瀬高町駅)昭和7年頃 |

矢部川駅(現・瀬高駅)前の旭屋旅館自動車部・2階が旅館
大正15年 |

矢部川駅時代の記念スタンプ
昭和7年 |

駅前旭屋旅館の主人の葬儀(大正末か昭和初期頃)
現在の村石商店前あたりで左奥の3階建は天龍館 |

樋口八幡神社御遷座 昭和32年9月13日 |
人力車

高等馬車 |

昭和43年の瀬高駅・準急の停車駅でもあった |

矢部川1丁目の薗田産業のラムネ・サイダー工場 |
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前開(小字名) 矢部川2丁目 |
開とは開拓地を表わす地名である。薩摩街道の瀬高宿の入口で前田からの橋がかぎ形に架けられ、これを桝形という。道を90度に折り、さらにまた折り人馬の突進を防ぐため、警備上の道路普請の方法で各地の街道に造られた。今も現存しています。
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前田、(小字名) 矢部川2丁目 |
旧薩摩街道の南側を前田と呼ぶ。二尊寺の寺領の一部で二尊寺の前の田の意味があり政治的に優遇されて免税されていた土地である。かって二尊寺は、瀬高地方において、宗教界を牛耳る強大な権力を持っていた証が、寺領の広大さにも表われている。
前田のJRの踏切の東方に再建された二里石があります。柳川城の辻門から2里(約8km)の地点です。
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矢部川1〜3丁目 |
矢部川駅(瀬高駅)や軌道沿線沿いに商店が増え各商店街の地名が付けられた。鉄道の停車場「矢部川」の駅名から付近の新興商店街を矢部川と起名された。のちに矢部川3丁目の西部が分割して恵比須町を造り交差点に恵比須像を祀り商売繁盛を願った。
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大竹村飛岡 市場→松尾宮町→元町(元町行政区) |
江戸期の古文書には元町の寺院には大竹村とある。藩政時代では薩摩街道の宿場町で恵比須祠のある橋を渡った東付近に瀬高宿の出入口である飛岡の木戸門があり飛岡出口と称していました。旧柳川藩志には先の下庄渡上り木戸門(中町)まで471間(848m)とありこの道沿いが宿場街です。瀬高宿の下庄側の旅籠は、現在の元町に多くあったとされている。商業の繁栄した所で東市場と中市場(片平町とも言った)と西市場に分かれていた。職人・商人の商店があったと言われています。阿部文書の安養寺の御堂建設資金の寄付人名簿には、姓を名乗れる有力商人は居ないので、小規模の油屋(菜種)、紺屋、湯葉、豆腐、蒟蒻製造などの日用の品を売る家が建ち並び賑やかであったであろう。明治9年の町村合併により大竹村は下庄と合併して下庄の番地となっています。元町は大正時代まで商業が盛んで昭和初期まで市場と呼んでいた。元町は藩政時代から大正時代まで商業が盛んで昭和初期まで市場と呼んでいた。その後「松尾宮」があることから「松尾宮町」に変更、第二次大戦後は「元町」に改名された。 |
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松尾神社(きのどんさん) 元町(西市場町) |
元は大竹村の木野大明神(きのどんさん)とも言われた。祭神は大国主命の子、大山咋尊で酒の神さまである。寛永10年(1633)に肥後国(熊本)菊池郡木野村の松尾宮の分霊を背負って北高柳村に奉安された後、元町に遷座になり、背負って持って来た不動院さんは社殿の右の祠に祀ってある。肥後の分霊先である地名の喜野から松尾宮の名を昔の氏子は「きのどんさん」と呼んできた。瀬高の酒造家は良き酒の出来を願い信仰したでしょう。この宮は古来の山岳信仰の神仏集合の修験が行われていて、松尾宮社僧(神主)の弟子達は山法師として農閑期は農村を足繁く訪れほら貝を鳴らし豊穣と無病息災を祈梼し農民から歓迎されました。寒中の1月6日に行われていた早朝の水掛け神事は元町の各戸の前に桶、バケツに張った水を掛けられながら氏子・子供達が約300mある街並みを走りぬけていました。由来は江戸時代の天保年間(1831〜1844)に大火事があり東市場町が全焼し、火災除けの神事を行ったことに始まる。残念ながら現在は休止され、火の用心の祈願祭に変わっている。神宮の呪詞(のりと)は仏僧まがいの装束で行われ最終の段階の奇声というか裂縛の気合で大喝一声は空間を厚して、妖しく神秘的であり、ほら貝の響きは神が下って来られた合図ではないかと幻想したものです。祭礼は9月29日に行われていた。戦後の昭和20年代に酒造組合から奉納された、高さ1m程の「飾り鳥居」は酒名入りで、境内にあったが、出入に支障があり、奥に引込まれ、いつしか裏のコンクリート壁手前の土中に埋められていたが掘起して本殿東脇に展示されている。右から常薫(筑後酒造)・喜久司(川原大)・喜久栄(川原淳一)・一ッ松(武宮)・友瓢(星隈)・都の月(田中屋)・池泉(池田)・園乃蝶(大坪)・千代錦(野田)・白亀(久富)・富貴鶴(山下)・澤の光(松石栄三郎)・酔千両(野田)・菊美人(江崎)・流觴(株式、村石商店)・喜翁(村石本家)・日本菊(浜武貞吉)・壽觴(桜庭)・福栄(星隈幾嘉太郎)が刻まれている。阿部酒造の甘露は記載がないが、境内の寄進者でもあるので石柱に刻まれていたであろうか。神代の古きから人間は生まれても酒、死んでも酒、なんでも酒々で俗に「お神酒あがらぬ神はなし」と言われた通り日本人と酒、酒と神様は切っても切れぬ程なじみ深い関係であったものである。しかし昭.和30年代に入って.からビールの消費が増え、日本酒は低.迷 し、また大手酒造会社の銘柄が好まれる世相となり廃業する酒蔵が増えていった。 |
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本殿 |
不動院 |
本殿(東側より) |
地蔵堂・・恵比須さん・天満宮(高巣食品北向えから遷宮) |
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平成21年に掘起された松尾宮の飾り鳥居 |
大日寺(廃寺)(湯殿山中央院)元町松尾宮社内 |
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三宝院派。延宝年間(1673〜1680)の開祖であった。本院は初め大竹の椿原小路にあったが、しばらく無住の時、明和8年(1771)2月13日藩に寺地を差し上げて、大竹村市場町松尾宮内に借庵した。」とある。松尾宮の当主金納実栄氏は朝廷の勅願所である京都の三宝院で得度を受け僧の資格も得ている。昔は松尾宮でとなえる祝詞は仏式で行われていた。当家に残る仏僧諸国行脚に必要な関所手形(縦20cm横5cmの木製黒塗り)の表上部に菊の御紋をあしらい、「三宝院御用」裏は「筑後国中央院」とある。この大日寺中央院の寺紋は菊の御紋が許可されており、高い権威の程がうかがえる。
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崇福寺 (廃寺) 元町 |
寺院帳によれば、宝暦10年(1760)9月9日寺号御免。明和2年(1765)5月建立。宝聚寺の末寺であったが天明7年(1787)永興寺の末寺となった。現在は寺堂もなくなり民家となっている。境内には石仏群、供養塔も現存している。境内には天満宮の小堂があったが元町の松尾宮の東側に遷宮している。当寺の住僧は代々、立花藩の御免地、御本丸、御花畑の祈祷を勤め、月に2,3回は柳川に出かけていた。藩主御留守城年は二石6斗4升のお倉渡しを受けていた。当地の人々は、ここの寺僧を検校とよび、遺失物、病気などの相談、祈祷を依頼し信者も多かったので、この寺のことを元町では通称「新寺」と呼んでいた。記録にある崇福寺(天台宗延暦寺派、元禄2年(1689)、僧行春開祖)に対する呼称であろうか。だが、この古い崇福寺の所在は詳らかでない。 |
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元町の観音堂 元町中市場 |
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5、6坪の小堂ながら、堅固な構造。昭和27年の改築で絵馬の装飾があった。堂の裏手には数基の墓があり、往時は寺があったろう。現在は取壊され、平成19年に観音像は下庄新町の尊寿寺に引取られ、修復されて本堂に安置されている。旧薩摩街道沿いで信仰を深めた歴史あるお堂であったが維持できなくて残念である。 |
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飛岡・中飛岡(小字名) 元町 |
旧薩州街道の北側が中飛岡、南側に飛岡の小字名がある。元町の旧薩州街道の北側が中飛岡、南側に飛岡の小字名がある。周囲よりとび離れていた自然堤防の小高い所の意です。 |
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恵比寿町 |
各商店街の名が付けられました。矢部川3丁目から分町して恵比須町を造り交差点に恵比須像を祀り商売繁盛を願った。昭和15年に国道209号線(大牟田〜久留米間)が完成、国道443号線柳川−南関道路の交差点付近が交通の要所となり、加えて昭和10年に郵便局、警察署、金融機関がここに集まっくる。昭和20年頃の矢部川3丁目(一番街付近)は、まだ商店らしいものとしては南入口にあった広田傘屋(広田ビル)、金子時計店、熊川漬物、小柳漬物などを見る程度で雑草のしげる畑地が散見されていたが戦後、恵比須の縁起を担ぎ急激に商店が増えたていた。昭和26年に(株)山門魚市場が(現・福岡銀行の西側)新設される。左写真は昭和32年10月の恵比須さん祭りの旗が飾られている、久留米側から見た恵比須町の交差点である。遠くに見える鉄筋3階建は昭和31年9月1日に開局した瀬高電報電話局で、その南に公認瀬高プール(現・図書館)があり、当時古川・田中選手らが競技しました。写真交差点の右角は江崎建材店です。左角は恵比須神社の境内で芝居の舞台が川の上に仮設されています。10月10日の「十日えびす」と20日の「二十日えびす」祭りが行われ賑わった。恵比須町の氏神さんで商店街総出の祭りで、お参りには笹に鯛、米俵、えびす像の飾りや恵比寿の熊手を買い求め賞品の当たる抽選会があり、昔はたんす、今は自転車などが当たった。 |

昭和32年10月の恵比須祭日の交差点・左端に芝居舞台が見える |
昭和28年の洪水・右・瀬高警察署入口・恵比須神社(右木陰)・瀬高郵便局(神社裏手) |

交差点の石橋陶器や江崎建材や恵比須神社は立退き道路拡張された |
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恵比寿神社 |
恵比寿神社の縁起には矢部川3丁目を流れる水路横に恵比須神が流れ着いた場所に商売繁盛を願って恵比寿神社を創建したとある。創建当時の宮の建設領収書には矢部川3丁目と記載されていることから分町して誕生したのだろう。当初は1月10日に恵比寿祭りをしていたが、寒い時期なので10月10日の「十日えびす」と20日の「二十日えびす」祭りが行われてきた。恵比須町の氏神さんで商店街総出の祭りで、お参りには笹に鯛、米俵、えびす像の飾りや恵比寿の熊手を買い求め賞品の当たる抽選会があり、昔は整理たんす、今は自転車などが当たる。昔は現瀬高郵便局の場所にあったが、昭和50年頃交差点より北100mの国道沿いに遷宮して瀬高の恵比寿神社の総社みたいな貫禄がある。 |
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緑町 |
明治10年の測量地図には吉岡土居の道筋に薬師如来と十二神将を安置した蓮華寺と小さな宅地があだけで、周りは畑と田んぼで民家はない。国道が開通してからの集落であろう。
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蓮華寺 緑町 (廃寺) |
臨済宗妙心寺派で二尊寺の末寺であった。嘉歴元年(1326)8月僧鉄山が開祖した。堂内には目もくらむばかりの仏像(薬師如来と十二神将)が安置され一部は薬師堂となっている。このお薬師寺さんの周辺の集落を「薬師」と呼んでいた程住民のお寺の対する信仰は厚く、お寺と集落は深い絆によって結ばれていた。現在、建物取り壊しの為仏像は二尊寺の新しい納骨堂に安置されている。
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本長寺 下庄緑町 |
日蓮宗本国寺(京都)の末流。当初、上庄の堤防沿いにあり真言宗の寂光寺の廃寺に元文3年(1738)立花藩の家臣、矢島重知(矢島秀行の3代目)の娘が出家して尼となり「慧照比丘」と称し、本国寺日解僧正を招いて開祖とし、再建した寺である。
この矢島家の祖先は足利尊氏に仕え、近江国野州郡を与えられ矢島郷に居住したことから「矢島」を姓としていた。矢島秀行は室町幕府最後の将軍、足利義昭の子であり、その妻は公家の菊亭卿の娘であり、後に「恵照院」と称されている。
慶長元年(1596)に恵照院は息子(矢島秀行の2代目)の矢島重成が立花宗茂に仕える為息子に伴われ柳川に来てこの地で逝去して「恵照院」となったものであろう。矢島重知の娘「慧照比丘」は曽祖母にあたる「恵照院」の菩提を弔う為に開祖したのである。
享保2年(1742)に慧照比丘が死去した直後に本山の本国寺の一字をとって今の寺号の本長寺に改め恵照院殿妙成日芳尼が就任した。宝暦元年(1751)に開祖の唯妙院日解が本山から来て住職に就任していた。
宝暦9年(1759)には尼さんの円寿院殿妙応日慶尼が就任。
寛政5年(1793)当時は無住職の寺で「代恵」という留守居の僧侶に守られている。
文化元年(1804)「又玄院日真」から「泰翁院日行」と住職が就任しているが、江戸時代、無住職の時代が何世か続いたものと考えられる。
大正13年(1924)に矢部川堤防拡張工事のため上庄から現在地に移転した。本長寺移転前の現在地は大正時代に竹竿を組み合わせた垣とむしろで仕切られたお粗末な芝居小屋があり、当時の瀬高の娯楽の中心地であった。
現在は30世になり村越智研住職が就任し、本長寺開山258年(平成18年現在)になる。堂内の鬼子母神の祈願式典には多くの方を呼び盛大に行われる。(新藤東洋男氏資料参照)
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正楽寺(廃寺) 緑町 |
上町の引接寺の末寺であったが創建など明確でない。古老の話によると、寺の周囲には大きな堀があったという。現在小字名の正楽寺の地名のみが残り、寺跡を確認するものはない。
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金泥寺(廃寺) 下庄(場所不明) |
往時は二尊寺の末寺であったが、今は薬師堂のみ残っているとあるが所在不明。
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