庄福BICサイト   【禁無断転載】                          福岡県みやま市瀬高町大江
    【古代からの大江郷】 
  古文書に大江の名が現れるのは、平安中期の承平年間(931~938)に20代の源順(みなもとのしたがう)が日本最初の和名(わめい)を加えた百科事典として編纂した「倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」に全国4041の郷のなかに、筑後国山門郡の太神(おおが)、山門、草壁、鷹尾、大江の五郷が記載されている。古代の大江郷は大根川の右岸一帯に広がる松田条理区にあったと推定されている。天保12年(1841)伊藤常足(いとうつねたり)による「太宰管内志」には、「太神、山門、草壁(くさかべ)、今は廃されてその名伝ハらず」とあり、鷹尾と大江が受継いで大字名として現在に至っている。太神、山門については明治初期の合併で該当地(がいとうち)として推測され新大字名として受継いでいる。天和3年(1683)に著した郷土史、「筑後地鑑(ちくごちかがみ)」中巻には「山門郡大江村あり。」とある。大江郷の名は藩政時代の小川組大江村に引き継がれている。元和(げんな)6年(1620)、検地によって定められた村の総石高(こくだか)真木村626石2升大江村357石6斗5升有富村335石9斗7升7合で、この石高で年貢(ねんぐ)・諸役が負担させられた。明治5年(1872)の村高は真木村678石大江村370石有富村409石で多少の増加の記録あり( ) 明治8年(1875)金栗村に「麗川小学校」、上小川村に「修省小学校」が出来る( )明治9年(1876)には、新たに「金栗小学校」、「小川小学校」ができ、土曜半休、日曜全休となる。真木村、有富村、大江村の合併で大江村となる。明治18年(1885)金栗に( )小川小学」が創立する(学区は有富・金栗・上小川・堀池園・大江・真木・高柳)。明治22年(1889)には( )大江村、大神村、小川村が合併して小川村となり真木に(奥園春光宅)小川村役場ができる( )明治25年(1892)12月に金栗の「小川小学」が大江小字川上に改築移転し、小川村立「大江尋常小学校」となり高柳を分離する(.)明治39年(1906)5月に、現在地に移転する( )明治40年(1907)に瀬高、河沿(かわぞえ)、小川、緑、本郷の各村が合併して瀬高町となり町立の小学校となる。同時に緑小学校の松田・大広園の児童を編入し現在に近い校区域が定まりました( )大正2年(1913)金栗児童は近い下庄小学校に就学することになりました( )
 
明治10年頃の大字大江の測量地図


    【有富村】
 有富の大江北遺跡(小字石原栗ノ内・B・C海洋センターから線路沿いに南に600m))で東西の幅は100~300m程で(.)蛇行した旧河川の自然堤防上(標高5,5m程)であり、弥生時代の甕棺墓が多数発見された金栗(小字鉾田)の鉾田遺跡(ほこたいせき)の南に連なった部分である。昭和31・32年の地下げ工事に伴った調査で(.)平安時代から鎌倉時代にかけての92基の土坑墓・副葬品の土師器・瓦器・白磁・青磁椀・銭(治平元宝)が出土している( )

 有富の大江南遺跡からは弥生時代中期後半の竪穴遺構、古墳時代中期の竪穴住居跡3軒、後期の竪穴住居跡7軒を発見出土し遺物は土師器の杯、小型丸底(つぼ)、椀、小型(かめ)、甕、高杯が出土している(.)弥生時代から鎌倉時代と長い歳月、金栗から南に真木まで広範囲の集落の存在があったとみられる( )

有富集落は公的にはアリドミと呼びますが通称はアッヅミと促音にします。この呼び方が本来のものでしょう。そのよび名は安曇(あずみ)からでたということが定説になっております。アズミとは安曇氏からでたもので(.)安曇氏は律令制以前の社会において、大和朝廷に対して海産物を貢納していた豪族名です。諸国の海人はこの安曇にひきいられ、海部(あまべ)として下働きをしていたものです。したがって、この地方にも、海産物を取り扱つていた人々が住んでいて、安曇の支配下にあったのでしょう(.)有富集落には、海部、海人族のシンボルとされるカッパを祀った有富の産土神・若宮八幡神社があります。ほかにもカッパを神体とした小堂が瀬高の南部地域にあちこちあります(.)この海人族とは南方系の人種とされております( )

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江戸期の地図
     若宮八幡神社 
  有富地区は今から二千年も前に海人族が渡来し、縄文人(原住民)と交流同化して(.)新しい渡来文化、技術を教えながら、部族の勢力を拡大してきた土地とされている。この宮には干珠、満珠の玉を棒持した女神を囲んで19体のカッパさん像が安置されている( )カッパ像は腰に布を巻き、一人ひとり色々は品を持ち、各像とも変った表情をした珍しい神像群である(.)女神は綿津見神安曇族の祖)の娘、豊玉姫(姉)と玉依姫(妹)で( )カッパ像が一門の部族男子を表現したものという。有富地区名は安曇のなまった呼び名と言われている(.)古来この宮一帯は大江神の鎮座する所であったが、後に大江(.)真木、金栗に各々お宮を建てたので現在は有富のみのお宮だが元来は元神であると村内では言われている。大江神から庄園時代ではこの地は宇佐八幡宮領となり(.)干拓事業の守護神である仁徳天皇を祀る若宮八幡宮に寛和2年(982)頃に変更させられたと思われる。寛政10年(1798)旧柳川藩神社帳及びその他には、(.)有富村若宮神社云々、祭神・仁徳天皇荒神社(産土神)一反二畝御免地・小社春日神社天満神社云々、例祭九月十八日( )社地面積五二九坪ありと云々」とあるが、祭神の仁徳天皇御父、応神天皇をお祀りした神社を八幡宮と言い(.)その御子をお祀りするところから若宮八幡神社とも言う。春日神社天満神社には藪の社地があった。明治6年村社に被定( )小字森添に無資格社若宮神社(祭神は仁徳天皇)としてあったが(.)明治45年に小字日出春日神社(祭神・天児屋根命)と天満神社(祭神・菅原道真)の社殿と合併した( )大正2年に神社改築に伴って森添にあった、元の若宮神社の拝殿は大江天満の境内に幸若舞堂として移築された(.)昭和5年には社殿を改築。昭和8年天満神社より若宮八幡神社と改称( )同神社境内に春日神社としてあったが昭和8年合祀された( )神殿には中央に若宮神、右側に春日神、左に天満神が安置されている( )社殿の梁は、奇神とも思える彫刻で支えられている。これは「カッパ」と言う説もあるが、「力神」とも言われている(.)天井絵は太閤記が描かれている。例祭は10月25日(宮前)10月15日( )
  

有富の若宮八幡神社


拝殿と本殿の中間
幣殿天井梁の力神

古来からの神像
   健徳寺(真宗大谷派)  有富
 健徳寺は天台宗の寺であったが南北朝時代に兵火により廃寺となったが(.)慶長元年(1596)善教師が開祖した。寛政年間(1789年頃)旭城が中興した(.)当時は天台宗で敷地2000㎡ばかり、立花藩から寄進されたと伝えられている( )寛政5年(1793)の柳川藩の寺社奉行の備付けたる神社寺院帳の(.)寺号欄に建徳寺とある( )享和元年(1801)真勝寺(柳川)の配下に帰参する(.)文政2年(1819)4月に正覚寺(瀬高町上庄)の末寺になるとある。本尊は阿弥陀如来。寺の畑地と藪の御免地があった(.)
     不動尊堂
  公民館の東にある不動尊堂は(.)時代は不明だが村内に年々悪疫が流行し不動明王の御怒りなりと村民は協議して(.)宮の杉でお堂を新築し、入仏供養し不動明王を奉拝し村内の安全を祈った(.)たいへん御利益があることが遠近の村人に知れ渡り諸人の信仰を集めてきた(.)本尊・不動明王像は立花飛騨守宗茂公の武運長久を願ったものとも言われ背面に文字が書かれている(.)昔、健徳寺が天台宗の時代は世話されたと思われるが、浄土真宗に改宗されてからは、宝聚寺(下庄)や永興寺(大草)の天台宗住職が出張してお経をあげてもらい(.)村内全員で参詣して供養をしてきた。(渡辺村男調査帳参照)(.)
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 日出(ひーで) (小字名)          
 有富集落の場所です。
 宮ノ前(小字名)     有富
 有富集落の北側にあります。現在の若宮神社の北側にあった元神である若宮神社の入口周辺を示す地名です。明治45年に天満宮と春日神社のあった宮に合祀され、建物は大正2年(1912)に大江天満宮境内に幸若舞堂として移し建てられた(.)
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  森添 (小字名)
  若宮神社の昔の元神さんの神領のあった田んぼです。神事の費用はここの収穫で賄わられ、旧柳川藩神社帳及びその他には「一反二畝御免地」とあり免税地であった( )
 鳥元(小字名)      有富
 鳥=鳥居のことで、鳥居のある所の意の地名で、現在の若宮神社の所在地を示す地名です。
 栗ノ内(小字名)     有富
 古代の有富集落の所在する所です。屋敷名でなく武士団の屋敷または領地の栗ノ内の名があり古代から豪族が住み続けた証でしょうか。
        【大江村】 
 
   【幸若舞の歴史( )
 源義家七代の孫、桃井直常(もものいただつね)の孫直詮(なおあきら)(幼名、幸若丸)南北朝が合一され室町時代に入った明徳4年(1393)越前国(福井県の朝日町)に生まれ10才にて比叡山で修行した。生まれつき音曲に巧みで、物語に節をつけて歌い幕府のあった京でも評判になり( )その舞を幼名の幸若丸から幸若舞と呼ぶようになった。幸若丸の孫弟子の山本四郎左衛門が「大頭舞」で一流を極め( )さらに孫弟子で越前出身の幸若舞の達人で京の町人大沢治助幸次へと続くが、上蒲池家の山下城主の蒲池鎮運(しげゆき)父は鑑広)が京都で朝廷警備の任に就き、京の町人で大澤次助幸次に出会い、二人は幾度かの出会いを重ねる中( )天正10年(1582)山下城(立花町山下)大沢を連れ帰り、小田村に俸禄(ほうろく)を支給し住まわせ幸若舞を家臣達に教えたと言われる。下妻郡溝口村(筑後市)に住んでいた蒲池鎮運の家臣の田中直久後藤兵衛)から代々( )直種そして直俊によって受け継がれていった( )なかでも直久の子直種は、幸若舞の天才と言われ大沢から伝授した大頭流(だいがしらりゅう)の舞にさらに六番を加え、四十三番とし、節調子に磨きをかけて人々に教えたという。直種大澤次助幸次より、舞装束・源 満仲(みなもとのみつなか)を題材にした自筆本「多田満仲(ただのまんじゅう)」・系図を継ぐ( )天正15年(1587)豊臣秀吉の西下により従い、蒲池鎮運は山下城を開城し( )三池郡のうち200町を給わり海津館に移り住む。それまで上蒲池の配下として従っていた宮園城主の今村土佐入道覚盤は所領の一つ大江村に( )幸若舞の人たちを引き取り庇護(かご)し、ここ大江村でも幸若舞が継承されていったと言う。一方、溝口村の田中家から小田村に移り、猪口善右衛門直勝が家元を受継いでいるだとみられる( )直勝は久留米の人とある。18世紀初めには、小田村において櫻井次左衛門直那と、さらに重富次郎直元が受継ぎ小田村( )において幸若舞の全盛を極めた( )江戸中期を過ぎた天明7年(1787)に小田村の重富次郎直元から大江村の松尾平三郎増墺(ますおう)重富次郎吉直の元弟子)が系譜、装束、直伝正本を継承した。その後は代々、松尾家を中心として村内に継承してきた( )伝わった舞曲は主に軍記物語で「平家物語」「曽我物語」「太平記」等を題材としている42番がある( )1722年に書かれた「八島」が一番古く室町時代の言葉を伝えており仏教用語が多い。鎌倉の地のすばらしさを謡う「浜出」や那須与一(なすのよいち)の「扇の的」、曽我兄弟の「夜討曽我」、天地の始まりと神々出現の次第,日本国の始まりを語る。「日本記源義経が奥州の高館で討手の軍勢を待ちうけながら開いた宴の最中(さなか)に,熊野より鈴木三郎が到着する。義経より佐藤兄弟の残した(よろい)をたまわった鈴木は、たずさえた腹巻の由来を物語り,これを弟の亀井六郎に譲って(.)翌日の合戦では兄弟ともに奮戦して果てる。弁慶は舞を一番舞って,(かたき)の中を斬ってまわるが、やがて痛手を負い,義経と辞世の歌をかわした後,衣川(ころもがわ)のあたりで立往生する。・・・の「高館(たかだち)」など八演目が大江で舞われる。文政2年(1819)6月6日、柳川藩主8代の立花鑑寿(たちばなあきひさ)の前で大江の舞人6人が幸若舞を演ずる。その後、毎年正月21日、柳河藩主の(よろい)の祝に、国家安全・武運長久を祈って、大江天満神社の神前でこの舞を演じていた。慶応(けいおう)2年(1866)からはその前日に繰り上げられ、現在の1月20日に奉納することが恒例になった。明治維新後、(ろく)を離れた各地の幸若舞は後を絶ったが、大江に残った大頭流の幸若舞のみがその芸統を守ってきた。大正2年に有富の若宮神社が大江天満宮境内に幸若舞堂(こうわかどう)として移し建てられた。大正14年(1925)東京放送局にて放送上演。国学院大学および靖国神社境内能楽堂において上演する( )昭和15年(1940)熊本放送局主催、紀元二千六百年奉祭記念事業、郷土古舞踊民謡大会に出場(.)九州各県巡回公演する。昭和45年国の記録すべき民族芸能として選択される( )12月、舞堂増改築工事完成。昭和51年国の重要無形民族文化財に指定された( )幸若舞堂に張られた幕の紋章は、陰陽の菊は大頭の百足屋(むかでや)善平衛後柏原(ごかしわばら)天皇の天覧に供した時に賜ったもので、桐紋章は桃井家の紋章で幸若舞の分流桐大蔵座の紋章です(.)下り藤は山下城の上蒲池家の紋章です( )

 

昭和4年10月、閑院宮、梨本宮の台覧を賜る
 
  
 幸若舞の「敦盛」について
 室町時代に一世風靡(いっせいふうび)した幸若舞は歌舞伎をはじめ、すべての芸能や文学に大きな影響を与えました。室町初期の頃に武士道鼓吹(こすい)の舞曲として始まり信長秀吉をはじめ、家康らにも庇護(ひご)され全盛期をむかえ、多くの武将や諸国大名に愛好され舞われた。江戸幕府は越前幸若五家に合わせて、ほぼ一千石程の扶持(ふち)(給与した俸禄)と旗本待遇を与え、これは明治4年まで続いたという( )織田信長桶狭間(おけはざま)の戦いを前に舞い謡ったとされる幸若舞の『敦盛(あつもり)』が大江幸若舞保存会で復元されて平成20年から舞われるようになりました( )物語の内容は源平合戦の一戦である一の谷の合戦で平清盛の(おい)平経盛(たいらのつねもり)の子平敦盛(たいらのあつもり)(16歳)は源氏の武将熊谷直実(くまがいなおざね)に捕えられます。直実の同じく16歳の子熊谷直家(くまがいなおいえ)は、この一ノ谷合戦で討死したばかり、我が嫡男の面影を重ね合わせ、一度は敦盛を助けようとした直実も、味方の手前、無残にも若き首を落とさなければならなかったのです。(しかばね)を平家方に送り届け、平経盛からの感謝の手紙を読んだ直実は、我も人もかかる()き世に永らえて、こんなつらい目に二度とあいたくないと思い「思えばこの世は常のすみかにあらず…」と嘆き、「人間五十年、化天(げてん)の内を(くら)ぶれば、夢(まぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)(しょう)を受け、(めつ)せぬ物のあるべきか。」と、これを菩提へのきっかけと思い定めぬは、後悔(こうかい)すると決意し都に上り、敦盛の首を獄門から盗んできて葬った。世の無常をを感じ高野山に登って出家し、蓮生房(れんしょうぼう)と名乗り、黒谷に、その後は出家して敦盛菩提(ぼだい)(とむら)うのです。幸若舞「敦盛」は熊谷直実の視点から描かれたその時の模様を室町時代に流行した語りで( )左右のシテ、ワキが地揺を勤め、中央の太夫は謡いつつ足踏み鳴らして前後左右に足を運び頭を動かさず小鼓(こづつみ)の音色で武士的気風で舞われる( )
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  思えばこの世は常のすみかにあらず、草葉におく白露、水に宿る月よりなおあやし(はかない)、金谷に花を(えい)じ、栄花は先立って無常の風に(さそ)わるゝ。南楼(なんろう)の月を、もてあそぶ輩(ともがら)も、月に先だって、有為(うい)の雲に(かく)れり。人間五十年、化天(げてん)の内を(くら)ぶれば、夢(まぼろし)のごとくなり。一度(ひとたび)(しょう)を受け、(めつ)せぬ物のあるべきか。これを菩提(ぼだい)の種と/思ひ定めざらんは、口()しかりきし次第ぞと/思ひ~定め、急ぎ都に上りつゝ、敦盛の御首(おんくび)を、見れば者の()さに、獄門(ごくもん)よりも盗み取り、我が宿に帰り、御僧(おそう)を供養し、無常の煙となし申し。御骨をおっ取り首に掛け、昨日までも今日までも、人に弱気を見せじと、力を()へし白真弓(しらまゆみ)、今は()にかせんとて、三つに切り折り、三本の/卒塔婆(そとば)と定め、浄土の橋に渡し、宿を()でて、東山、黒谷に住み(たも)ふ/法然上人(ほうぜんしょうにん)を/師匠(ししょう)に頼みたて(まつ)り、元結(もとゆい)切り、西へ投げ、その名を引き変へて、蓮生房(れんしょうぼう)と申す。花の(たもと)墨染(すみぞめ)の、十市の里の墨衣(すみごろも)、今きて見るぞ(よし)なき。かくなる事も誰ゆへ、風にはもろき(つゆ)の身と、消えにし人の為ならば、(うら)みは更に思われず。( )
毎年1月20日、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈って大江天満宮で幸若舞保存会により奉納され、パンフレットが配布され、難解な語りをフリ仮名付で紹介してあるが、素人にはそれでも理解しにくく( )口語訳と物語内容の解説がほしく、それをたどりながら舞を鑑賞し、理解できれば、もっと身近に興味を持つことができるではないだろうか( )
    大江天満宮    
 天慶7年(944)の神名帳に「大江神」があり、古代からの宮で天満宮の本来の祭神は大江を流れる川(.)すなわち水の神様だと思う。平安時代の寛和2年(982)に大江の神が大江天満宮の名称に改められ、祭神が菅原道真になったとある( )古棟木札には、治歴7年(1067)11月建長7年(1255)12月天文21年(1552)8月延享2年(1745)正月、の再建の記載あり( )拝殿扁額には、大宰府神社とあり、明治5年6月に大宰府天満宮から改称した大宰府神社の御分霊を奉祀した証として(.)明治9(1876)年4月大江村の庄屋職や戸長職を勤めた瀬高町大字小川字金栗の西田幹治郎とその父寛忠により(.)文字はを伝習館の超一流達筆家安武厳丸(やすたけいずまる)揮毫(きごう)を依頼して完成し掲示された。昭和22年2月に大宰府天満宮と再改称されている。昭和12年11月12日有富の若宮神社と合祀され水波真命も並祀された( )大江天満神社の例祭は12月15日に行われる。正月は直径60cmの大しめ縄が飾られる( )太平洋戦前は青年団により直径1m程の大しめ縄であったが現在は座組で製作されている。鳥居の右側には馬頭観音さんと恵比須さんが石の祠に祀ってある( )境内の幸若舞堂有富の元のお宮(若宮神社)の建物を大正2年に移し建てたもので、毎年1月20日に幸若舞が奉納される( )
 
 

 松尾正幸氏のの大江天満宮に関する報告書によると、、「大宰府天満宮は明治新政府の布告により、明治5年6月に大宰府神社と改称された。そして、再び昭和22年2月に大宰府天満宮と再改称され現在に至っている(.)大江天満神社拝殿扁額(へんがく)は、大江村の庄屋職や戸長職を勤めた瀬高町大字小川字金栗の西田幹治郎とその父寛忠(かんちゅう)により、明治9年(1876)4月に完成し掲示された。文字の揮毫者(きごうしゃ)は柳河12代藩主立花鑑寛(あきひろ)の侍講で、伝習館助教授兼寺社方を命ぜられた安武厳丸(やすたけいずまる)であり、達筆家として知られた当代超一流の学者である。扁額『大宰府神社』の扁額掲示の意義は( )平成19年9月、大宰府天満宮側と大江天満神社側との協議の場に於いて( )大宰府神社(現大宰府天満宮)の御分霊を奉祀した証として掲示され大宰府神社(現大宰府天満宮)の直属御分霊社である」として確認された( )」とある。
 

拝殿扁額
      【天井絵】
 大江天満宮の天井絵は平成8年(1996)から翌年にかけて修復・復元がなされた(.)松尾正幸氏の報告書によると、「修復の過程で原画絵師は町絵師と思われる光臨斎(こうりんさい) 経信(つねのぶ)であることが解り、山門郡内の居住して、画業に従事した絵師と想定されている( )「絵解き板」によると、天井絵は豊臣秀吉の生涯を(つづ)った太閤記で、1列12枚で、1つの物語となっています。奥の大宰府神社の扁額の上の12枚はは小田原城攻めから(あり)のいでたる隙間もないほど取囲み( )その軍勢30万と称します。しかし長陣の為、ややもすれば士気が沈滞するのを防ぐため、秀吉は幸若太夫を招き士気を鼓舞したと太閤記に記されています。その後は柴田勝家(しばたかついえ)雌雄(しゆう)を決した賤ヶ岳合戦(しずがたけのたたかい)の模様が描かれて秀吉を始め加藤清正(かとうきよまさ)福島正則(ふくしままさのり)片桐且元(かたぎりかつもと)などが描かれています。南筑後域の天井絵の奉納は江戸後期から、明治、大正、昭和に渡り、明治時代が最も盛んとされ、江戸後期の永俊斎(えいしゅんさい) 章重(あきしげ)、明治時代では一輝斎(いっきさい) 真義(まさよし)、山門郡の一得斎(いっとくさい) 玉光(たまみつ)光唯斎(こういつさい) 昭宝(しょうほう)などの絵師が確認されている。娯楽や情報の少ない時代、参拝に訪れた文字の読書きを知らなかった庶民は村々の天井絵を解説して歩く「びわ法師(ほうし)」ならぬ「絵解き法師」も存在したし、住職や神主、村の有識教養人を絵解き人に仕立てて天井の物語る絵の鑑賞力を高め楽しんだであろう。」とある(.)また大正2年に有富の若宮神社の拝殿が幸若舞堂として移築されるまでは、この天井絵のある拝殿で舞われていました(.)
 
大江(おおえ)(大字名)(行政区名)
 本来、「江」は中国の「楊子江」「黒龍江」など大海の入り江の名称に用いられていたが、転じて「かわ」の総称となって、上海周辺の江南文化と共に渡来し、北方文化は後に渡来した。大江周辺は古代、有明海がこの辺まで侵入した( )矢部川の河口と考えられる「大」は大きいの意味だが、これは尊称、美称、敬称で自分達の土地(.)村を誇りとし、敬い尊んでいた証である。古老は大江を「うーえ」と昭和初期までは呼んでおった( )多いことを「ウーカ」大変な事になった、は「ウーゴチ」なつたなど「大」は多いの意味もある( )
湯ノ上、湯尻(小字名)      大江
 大江集落の所在する所で大江天満宮の東入口に湯ノ上橋があります。平安末期から中世にかけて、地方豪族、小領首、名主などの血族、使用人が住んでいた所です。大江では中世が名主、近世では庄屋の住居ということになります( )湯の付く地名なので過去に温泉が湧き出しているとか、温泉場と考えられる(.)それから集落の東側に峯の元(水のもと)などあり、大江は聖なる水が豊富に湧き出し生活を潤していた村です( )
宮脇(小字名)      大江
 神社の(大江天満宮)の所在を示す地名です。
三条府
 奈良時代の和銅8年(715)、土地区画整理として条里制の施工の関係役所があった所でしょう。大江集落の東の十字路の橋に三条府橋が存在しています(.)
小森(小字名)      大江
 大江天満宮の傍の湯ノ上橋の東の所です。地名語辞典には「コモリ」は湿地・干拓地の意とあります。湿地を開拓して水田にしたのでしょう。小さな森の存在を想像していましたがコモリに小森を宛がった地名でした( )
平木(小字名)      大江
 大江集落の東側にある所です。地名語辞典には「ヒラキ」は新開地の意とあります。やはり湿地か荒地を開拓した水田です。
過田(小字名)      大江
 大江集落の東側にある所です。これはガタ(湿地)地を開拓した水田です。
      【真木村】     
 真木遺跡(小字西屋敷付近)は、水道管埋設工事で発見され昭和59年11月に発掘調査され、古墳時代後期(6世紀末)の溝とピットの堀立柱の建物跡を発掘された。溝内からは水筒として用いた須恵器の提瓶(ていへい)、酒器、壺、杯、土師器の杯、(かめ)、高杯と平安時代の白磁椀などが完全な形で出土し、古代から連綿と生活を営んできたことが証明された。真木村領主の直系牧場で年貢の減免された所です。(まき)の制度は律令時代に始まり中世、近世おいても、軍馬、駅馬を飼育していました。(まき)であったことから真木(まき)の集落名となったのでしょう。真木村の西方には三池街道が通っています( )明治24年(1891)国鉄鹿児島本線の線路が敷設された(.)大正13年(1924)松田東~大広園~真木南を通る松田~大江線の県道が供用される。昭和15年(1940)、産業道路(国道209号)ができた( )
    【郷土の人物伝】
 真木出身の「御所ヶ浦磯右衛門」が250年ほど前の宝暦(ほうれき)10年(1760)に江戸番付けの最高位の東大関として活躍しました。大関が最高位であったのは、当時はまだ横綱制がなかったからです( )寛延・寛歴(1748~60)の全盛期には「相撲にかけて仙なり(.)と評された名人で、173cmの小兵ながら、11年間7敗しかしなかったという( )御所ヶ浦は本名を倉吉と称し、享保3年(1718)に山門郡牧村(瀬高町真木)の大庄屋・九郎左衛門(きゅうろうざえもん)の五男として生れたが、20才で親が亡くなって没落したので元文3年(1738)に相撲界に入門している。九州相撲の呉服織右衛門の弟子で( )上方が勧進相撲の中心だったころから取り、大灘荒灘と名乗っていた()江戸には宝暦10年(1760)10月御所ヶ浦礒右衛門( )大関として登場。 宝暦11年10月小結に下って下の名を平太夫と改める。数え52歳まで取り、晩年は二段目に落ちるなど負けが込んだ( )力あくまで強く、頭を胸に付けて牛のように押す戦法を考案し「牛の押しきたるごとし」と絶賛され( )関東方御所殿の牛首という異名があった(「相撲今昔物語」)。親が質入れした田畑を倹約の末に8年で取り戻したと伝わる。旅中でも( )いつも氏神さまに詣り、師匠の恩に感謝していたので(.)心掛けに皆が感心していたと伝わる。明和6年(1769)11月前頭で引退( )御所ヶ浦(筑後)部屋を設立している。真木の倉吉家では御所ヶ浦磯右衛門から引き継いだと思考される相撲軍配(ぐんぱい)を形取った「片胴うちわ紋」の家紋を継承しており( )踏み切りの東の共同墓地(明治初期に移転)には片胴うちわ紋の倉吉家先祖の墓があります( )真木の北西の田圃には江戸期まで利用した墓地跡が残っています( )
 

北牧(小字名)真木(行政区名)  
 真木集落の北西の所です。北牧(きたまき)の地名は、真木として集落名になっております。これは領主の直径牧場で年貢の減免された所です。
屋敷内、東屋敷(小字名)    真木
 真木の集落の所在する所です。東屋敷は屋敷内で分家した結果でしょう。平安末期から中世にかけて、地方豪族、小領首、名主などの血族、使用人が住んでいた所です。大江では中世が名主、近世では庄屋の住居ということになります( )瀬高では、ほかの集落でも屋敷地名があるが多くは大宰府などの荘園だった所であった( )
長田・竜田(小字名)       大江・真木
 大江集落の東方に長田(ナガタ)、真木集落の西方に竜田(タッタ)の地名があり、雨を呼ぶ竜神、水神との関係地名です。長は蛇の意でインドから東南アジアを経て日本に上陸したのであろう。竜は中国か( )朝鮮半島経由して日本に上陸した。インドのナガが中国に上陸して竜に変化したものであるので日本には長より遅く上陸している。有明文化圏の稲作民族は水を恵む竜神、水神を信仰( )インド、東南アジア、中国江南地方の文化を継承した竜文化の宝庫である(.)蛇踊り、竜船競争大蛇の眼玉取り、竜の変形とされるカッパの伝承など、きりがありません( )
五反田・八ノ坪(小字名)  真木
 奈良時代の和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工され、班給された水田の遺名です。     
初田(はつた)(小字名)     真木
 大江の西方の水田です。「ハツ」は開拓を意味し、湿地帯の開拓による水田の意です。
榎町(小字名)     真木
 ここは三池街道の通る所で街道の真木集落の道しるべに植えてあったのでしょう。水路を横切る国道209号の橋が榎町橋です。「榎」を字典には「ニレ科の落葉高木。高さ二〇メートルに達する(.)葉は非相称の卵円形。初夏、淡黄色の雌花と雄花をつけ、秋に橙(だいだい)色で小豆大の甘い実を結ぶ。江戸時代には街道の一里塚に植えられた。」とある( )
井釜口(小字名)     真木
 真木集落の北西三池街道沿いにあります。奈良時代の和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工され、班給された灌漑用水の遺名です。
芙蓉(ふよう)(小字名)          真木
 真木の東端の水田地帯の一画で芙蓉は蓮の別名です。湿地帯には蓮が良く栽培され蓮の地名が生まれた。その後、蓮地名が芙蓉地名への転化は、大江の学ある方が村の発展を念じて、美的地名に創意決定されたであろう( )その外、湿地帯名として、過田(ガタ)、深町、フケ、牟田、鉾田など数え切れない程の種類があります( )
 野田酒造(真木)
 明治21年(1888)には酒の東京の品評会に出品していた酒屋である。当時のレンガ造りの酒蔵が残っている。千代錦は広大な田園広がる自然豊な真木(まき)の酒蔵で造り上げられた銘酒です( )入口の倉には二紀会員北原悌二郎画伯の200号絵画十数点(耶馬台の卑弥呼シリーズ)を展示公開されている( )社長の野田公明氏は十数年前に古代米の一種、赤米などの栽培を始めた(.)約6ヘクタールの田んぼには、緑米や黒米など十数種類が育つ( )古代米人の背丈ほどまで伸びたり、稲が倒れたところを収穫したりする品種もあるという( )10月初めから11月にかけて刈り取り、明治の土蔵で醸造している赤米酒を出荷されている( )
     真木天満神社      
  菅原道真を祭神とする、創建は不詳。例祭は11月15日に行われる。明治6年村社に被定。境内の一隅には、古くから祀られていた「天神さん」が( )昭和9年内屋敷より遷祀されている。神社の東北に塚がある( )10月16日塚さん祭りが行われている。9月の第二日曜日(.)子供相撲三十三番が奉納されている( )
   
    地蔵堂・観音堂   
 野田酒造の東側にある地蔵堂で石造の古さから百年以上昔からから信仰されたものだろうか。8月24日に男子小学生により地蔵まつりを行っている( )女子小学生は近くの観音堂で観音まつりを行っている( ) 
           地蔵堂
     馬頭観音  
 真木集落の東部の旧道沿いにある馬頭観音さんである。昭和30年代頃までは田畑の農耕を馬で農具を引かせて行ない。家族同様、大切にしていた( )天和3年(1683年)、柳河藩主第3立花鑑虎(あきとら)が設けた馬の放牧場のある山川町お牧山の山頂の馬頭観音にお参りしていたもので、その分霊を祀ったである( )
        
 雲照寺  
 永禄5年(1562)肥後の武人、菊池武次が出家して僧鎮栄と号して開祖した。万治3年(1660)に建立された。入口の楼門は中国のお寺の風格をもつ珍しい建物である( )真宗大谷派楼門右手には天文年間1532~1552)の安山岩の石面全体に雲に乗った阿弥陀如来三尊を線刻した板碑がある( )        
楼門 阿弥陀如来三板碑尊
 
  庄福BICサイト 参考文献 幸若舞保存会「幸若舞」 松尾正幸「大江天満神社に関する調査研究報告書」  江崎龍男「筑後武士」  大江小学校の歩みと郷土  永井新「古典芸能・幸若舞」 
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               小字地名解説文は故鶴記一郎氏の承諾で「地名の話し」を引継いで編集いたしました。本ホームページ掲載記事の無断掲載はお断りします。