庄福BICサイト 【禁無断転載】 福岡県みやま市瀬高町大字太神長島
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ヤマトの国造りの時代、宇津集落には景行天皇が巡行され、航路案内をした宇津の女酋長宇津良姫の伝承話、長島東の釣殿宮」には天智天皇の巡幸の伝承話が残されている。注目される鬼木集落には謎の七支刀をを持つ神像のあるこうの宮(磯上物部神)があり、長島の中心には物部氏の一族の系譜を継ぐとされる物部田中神や物部阿志賀野神が鎮座する神秘的な神話が残された古代のロマンに満ち溢れています。 |

明治9年-13年頃製作の測量地図 |
1章 【景行天皇の航路案内した宇津良姫の伝承】 (太神宇津)
日本書紀には13代景行天皇は、4世紀に九州遠征をして、熊襲を討伐したとある。邪馬台国の卑弥呼が亡くなってから、およそ100年後のことです。天皇は、まず福岡県京都郡みやこ町に到着し、大分県竹田市で戦をし、高千穂から日向の高屋に宮を建て、6年過ごされたとある。熊本県八代市高田から有明海を渡り島原半島に行き、また玉名に渡り、阿蘇に行き従わない族を征伐なされた。秋7月4日には有明海の神崎より仮宮である高田行宮(高田町岩津村高木)に滞在されたという(大牟田市三池町高泉の説もある)。太神の宇津地区の宇津良姫社地図①には黒崎から岩津の高田行宮に至る航路を宇津の女酋長の宇津良姫が守護し案内した伝説が残されている。「時に倒れた木があって、長さは九百七十丈(1880m)、役人達はその木を踏んで往来していた。天皇が何の木かを御尋ねになると、一人の老人が答えて申し上げた。『この木は歴木といいます。昔まだ倒れていない時は、朝日に照らされて佐賀県の杵島山を隠し、夕日にあたって阿蘇の山を隠しました。』(そんな巨木は実在しないので火の国(肥後国・肥前国)、いわいる阿蘇から吉野ヶ里遺跡のある佐賀まで制圧したとの意では?)天皇は「この木は神々しい木だ。これからはこの国を御木の国(「御木」~「三毛」~「三池」の地名説ありと呼ぶがよい。」と言いました。7日に八女県(八女市)に着き、「東の山々は幾重にも重なってまことに美しい。あの山にだれか住んでいるか」と尋ねられた。そのとき、水沼の県主 猿大海が「山中に女神あり。その名を八女津媛といい、常に山中におる」と答え、これから“八女”の地名が起こったと言われる。その後、うきは市浮羽町高見を経て景行19年(89)9月に都へ帰られたとあります。
宇津良姫社 (太神宇津)
宇津良姫は飯江川と緑川の合流点、宇津海域を領有する大地主神の娘である。景行天皇を守護して高田行宮まで案内した、宇津良姫は当時、女酋長であった。よって世を去ったあと浮島に墳墓を営み、姫を祀り宇津良姫社とする。古墳は宇津の天満宮の西側の浮島にあり周りには堀で囲まれている。塚の手前の石塔が宇津良姫を祀る祠です。地蔵尊は後世に古墳に建てられたもので、父神、大地主神を祀るとある。 |
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奈良時代の初めに書かれた歴史書『古事記』『日本書紀』に書かれた神話では、景行天皇の子供であるヤマトタケルノミコト(日本武尊・倭建命)は、父に命ぜられ一旦平定した九州の熊襲征伐をやりとげて、国づくりの為、出雲の国、さらに東国12カ国の遠征を重ねるが最後は悲劇的な最期を遂げている。また日本武尊の子供が仲哀天皇で、妻となったのが神功皇后である。二人は熊襲征伐のため、兵を率いて筑紫国の香椎の仮宮に住まわれた。しかし仲哀天皇は病死され、このとき神功皇后は仲哀天皇の御子(後の応神天皇)を身籠もっておられたのですが、熊襲を討伐し九州を平定した後、住吉三神を守り神として軍船で朝鮮半島に渡り、新羅・高句麗・百済の国々を平定(三韓征討)され、帰国されて筑紫国で無事子供を出産された。この子供が、のちの応神天皇(八幡大神)となっている。
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2章 【七支刀と物部氏】 (奈良県天理市・石上神社)
大和朝廷の創生期に貢献した、古代豪族・物部氏は邪馬台国を構成する有力氏族と考えられる。奈良県天理市に物部氏の氏神で、武器庫であった石上神宮は神剣と十種神宝に宿る霊威を祀っている。明治6年に菅政友宮司により、当時の七支刀と気づき、学会に発表された、国宝の鉄鉾である。全長75cmで刀身の左右に互い違いに3本枝刀が出て、先端をあわせ七支刀と言われた。鉄剣の表裏に金象嵌の115字の銘文、表に57字、裏に58字が記されている。
(表)泰和四年五月十一日丙午正陽造百練銕七支刀生辟百兵宜供供侯王□□□□作
(裏)先世以未有此刀百滋□世□奇生聖音故為倭王 造伝不□世
錆による腐食がひどく、読み取れない字もあるが、銘文から学者により推理しながら2説が唱えられた。1説目は「七支刀は魏の明帝時代、太和4年(230)に造られ、景初2年(238)に倭の使いに託して倭王卑弥呼に贈られたものである」2説目は「『日本書紀』の神功皇后摂政記に、「百済の肖古王が摂政52年(372)に日本に遣使して、七枝刀1口、七子鏡一面を献上したとあり、この七枝刀ではないか」という説である。、しかし『日本書紀』の編纂者は、3世紀の卑弥呼の時代、倭の女王は神功皇后のことであるとする一説を紹介するような記事になっていたり、神功皇后の子供とされる第十五代の応神天皇の時期が4世紀末ごろと推定されるため、時代が合わないので架空の人物ではと疑問が持たれている。 |
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【こうやの宮の七支刀を持つ像】
ところが、天理市の石上神宮で七支刀が発見される以前から、邪馬台国発祥の地と思われる瀬高町の南端にある太神字鬼木にある「こうやの宮」地図③に七支刀をを持つ武人像を祀ってあった事から、マスコミで話題となり七支刀をもたらした百済の使者、それとも、磯上物部神の武人かと古代歴史愛好家の話題となった。では七支刀をを持つ武人像と石上神社の七支刀がどのように結びついているだろうか。天慶7年(944)頃の『筑後国高良神名帳』の山門郡の条を見ると26神あり、太神地区には磯上物部神(こうやの宮)・物部阿志野神(釣殿宮境内の西の宮)・物部田中神(中小路の田中の宮)2社の物部に由来される宮が4ヶ所もあり、その数が多いことに驚かされる。七支刀が発見された奈良県の石上神宮と鬼木にある磯上物部神が「イソノカミ」と呼び方で符号し、どちらも物部氏に関係があります。地元郷土史家の村山健二氏は「こうやの宮」の武人像が七支刀を持っていることから、この武人像は同じ七支刀が発見された石上神宮の、「イソノカミ」に通ずる磯上物部神と推定しました。さらに次のような仮説を立てた。「魏王から贈られた七支刀は物部氏によって保管されていた。だからその氏神に七支刀を持った武人が祀られた。魏から持たされた霊刀だから、それを手にした神のいでたちや容貌は、中国風に作られた」と解説している。また「神遊びから日本建国史の謎を解く」の著者の鶴丸英雄氏によると、「横に対等に置かれた鏡を持った女性像が卑弥呼(ヒミコ)で武人像は七支刀を与えた魏の国王であり、両者が磯上物部神と思われ、物部氏から見れば神の存在であり、奈良県の石上神宮も同じ存在であったろう。国力が充実した2世紀末から3世紀初めにかけて、ヒミコの命で大和の地に移住したと思われ、魏王から与えられた七支刀も、のちに持ち去られたとと思われる。武の棟梁と言われた物部氏の軍事力は、当然、南の隣国で仲が悪かった狗奴国の押さえとなっていたが、物部氏の大和移住が、後になって狗奴国との戦いに敗れる原因となり、ひいてはヒミコの死につながったことも充分考えられる」と解説している。

再建前のこうやの宮の中央の厨子 |

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『筑後国高良神名帳』の山門郡廿六前、正六位上(礒上物部神・大神神・大神社・田嶋神・大江神・物部阿志賀野神・鴨下神・城樹神・立野神・飯江神・物部田中神・堤大國玉神・佐樹神・窪福神・小河神・三沼神・物部田中神・樹原神・五百木部蛇臥神・郡三宅門神・廣田泉澄神・巳止眞神・金錠神・垂水三宅門神・壬生部玉照神・萱■息部神) |
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言い伝えによると、昔のこうやの宮は社田が相当広くあり、周りは堀に囲まれ龍門があり、立派な石の鳥居があったという。御神体の由来は伝わっておらず、代々「こうやの宮を大事にせよ。こうやの宮の屋根を葺き替え、その後で田中の宮、西の宮の屋根を葺き替えよ」の遺訓が残っている。祭礼は代々こうやの宮の神職である因幡家だけで行われていたが、藩政が終わり神田(宮の費用を賄う田畑)はなくなり、祭礼が出来なくなったので、鬼木地区で行うようになった。さらに明治の大風で社殿が倒れ、昔のように復元も出来ず、藁葺きの小規模の宮となった。神職である因幡家には、刀剣・烏帽子・かみしも・他種々のものが長持いっぱい保管されてあった。その中の剣は、異様な形をしていたと聞く。昭和5年(1930)に因幡家が火災に遭い、跡形もなく焼失してしまったという。太神字鬼木には因幡姓が数軒ある。因幡家には「先祖は遠い昔、山門から太神に移ってきた。山門(瀬高町大字山門付近)には因幡の地名が残った」さらに「大国主命は太神の長島から出雲に移った」との口伝が残っているが何を意味するか解らない。因幡といえば因幡国(鳥取県)の白兎が騙したワニサメに皮を剥がれ、大国主神が助ける有名な神話がある。また太神の地名の由来となった「宇佐宮雑徴」から推測すると太神に住んでいた太神(オオミワ)氏は宇佐(大分県)まで進出して弘仁13年(821)8月に宇佐八幡宮司の家柄になったとの関連があるという。
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こうやの宮の現在の祭殿配列 |
当時の宮の神棚には5つの御神体が3個の御厨子に分けられて祀られ、中央の御厨子には、卑弥呼の像と推測される鏡を手にした女神像があり、その右に異国風の武人「七支刀を持つ神像」が並び、向かって右の御厨子には、こうやの宮の当主であろうか他の神像よりも大きく、胸には「五七の桐」の紋があり、この像は物部氏の祖神・饒速日尊(ニギハヤヒ)であろうか。左の御厨子には、裸姿で両腕に金の輪をはめ、手にひも状のものをさげている像は南方の使者であろうか。その右に北方の大陸の使者像であろうか、想像をかきたてる。 物部氏の本貫・本拠地は瀬高の太神辺りにあって、陸と海洋で活躍し、中国、朝鮮、インドなど手広く海外との交易をしていたであろうと、こうやの宮の神体―人形などを見ると推測される。
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謎の裸姿の像 |
北方の大陸の使者像? |
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五七の桐」の紋がある神像 |
こうやの宮に不思議な姿の神像が安置されていることは、戦後になって地元郷土史家の地道な調査活動によって偶然発掘されたものである。平成14年(2002)、太神地区の皆さんの寄付金でこうやの宮が再建されたが、その折に厨子も一つにまとめて造り替えられ、今は並び順が変わっている。 以前の並び順は左から
1番目 赤い河童らしき神像
2番目 マントを着た男神像
3番目 鏡を持った女神(あるいは少年神)
4番目 七支刀を持った男神像
5番目 五七の桐の神紋の男神座像
長島集落の秋祭りは11月3日。その祭典にあたり神官の祭典行事の初めは必ず、「こうやの宮」の神事から行われる。これから推測しても、このこうやの宮が当地区で最上位の宮であることが判る。
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藁葺屋根時代のこうの宮 |
建替え前のこうの宮 |
建て替えされたこうやの宮 |
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【物部氏一族の系譜を継ぐ物部田中の宮】
長島の北の端の鬼木部落の方が「こうやの宮」(磯上物部神)の祭祀のあと、村の中心にある「田中の神」(物部田中神)や釣殿宮の「西の宮」(物部阿志野神)にも出向いて祭事を代々続けたきたのが長年の疑問であった。資料調査により、磯上氏より物部氏が出て、物部氏より田中氏・阿志賀野が系譜を継いでいる事が解り、それらの宮が先祖である磯上物部一族の神を祀る宮であった。田中の宮地図⑤は物部田中氏の先祖を祀る物部田中神を中心に西に野田天神(金錠の神)、南に出店天神(大神社)、東に日出天神(田中神)、北に中小路天神(田中社)の天道さまが祀られているが詳しい由来は解らない。古代から、物部氏の系譜を継ぐ田中氏がこの森を神籬の場所とし、先祖の神を招くために天神屋敷と言われる森の巨木の周囲に玉垣をめぐらして青竹と稲藁で仮宮を建て、注連縄で囲んで神聖を保ち、天下るのを待ち、祭事が行われた場所です。毎年、稲藁と青竹のみで片屋根の屋形が造られ、古代信仰のごとく、御神体は石を3つ並べてあるのみである。祭祀方式は祭壇には藁を二つ折りにねじって青竹にはさんだ御幣、1升の飯を5合づつ御供飯として黒と朱色の盆に載せ、梅の新枝の箸を2本作り、1つの御供飯に縦に刺し、他の御供飯には横に刺して供え、御初穂1升3合、お神酒1本、野菜果物、魚を供えて住民が神さまに感謝の心で祭礼を行う。最も古い信仰形式であり民俗行事として興味ある伝承である。昔は欝蒼とした森だったが多くが伐採され、毎年管理の手間がかかるので、祭壇らしくない金属製の祠に祀ってある。12月25日に傍の田中昭宏宅が祭典を行っている。長島には田中姓が多いのは田中の宮によるものとされている。
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長島南部に野田という小路がある。殆んどが三栗野姓で鍛冶屋ばかりであった。飯江川を隔てた岩津、海津まで入れると20数軒の鍛冶屋さんがあり、毎日トンテンカンの音が聞こえる地域であった。
学説によると、「カッパ」は太古の昔、黄河上流のタクラマカン砂漠タリム盆地に住むカッパー族と呼ぶ1つの部族で、カッパの原形となるものは厳粛な神像をさし、龍神の使いとして尊ばれ驚く程の技術を持っていたという。中国江南の「呉」の」国が280年に滅びるとき水軍3万人と共に銅鏡や鉄刀の工人が道教の天使と日本にやってきたという記録がある。
これが有明海から上陸したのをカッパと呼んだ。鉄の刃物を作る加治屋さんの技術は河童伝説のある長島にも、何千年の昔、中国からカッパさんが伝えた技術ということになりそうだ。
【南校区まちづくり協議会資料の河村子路作記参照】
西の宮(物部阿志賀野神) (長島東(小字釣殿)) |
釣殿宮の西の境内にある西の宮も天慶神名帳(高良神名帳)に記載された山門二十六前の一つ「物部阿志賀野神」に比定されている。物部氏氏族の系譜を継ぐ物部阿志賀野氏の先祖神を祀る宮で、長島の北の端の因幡家一族が、藩政以降は鬼木部落の6、7軒の方々が、こうの宮の祭事のあと、祭祀をつかさどった。御神体は葉っぱの化石、あるいは浮彫の人物かと思える模様がある石である。昔の屋代は田中の神と同じく最も素朴な稲藁と青竹のみで屋形が毎年田中の神と共にこうやの宮氏子によって造られた。鉄器が生れる前は石が最高の道具を作る材料として包丁、やじり、矛、斧など色々な物が作られたが、古代人はこのような石に神が宿ると感じ御神体として祀りました。現在は木造瓦葺の簡素な社に石の御神体を祀ってある。
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昔の青竹と稲藁の屋形 |
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石の御神体 |
【古代豪族、物部氏族とは】
物部氏の発祥の地は長島であり、邪馬台国の有力氏族あるいは王の親族であったろう。2世紀末から3世紀初めにかけて、ヒミコの命で、朝鮮半島への遠征の将軍として、また駐在の使臣として活躍し、のちに瀬戸内海を東遷、畿内にも勢力を持ち、ヤマト王権に臣従したと説明しましたが、その頃には八十物部と呼ばれるほどに物部一族は数多くの家に別れ繁栄したことで知られる。

物部氏の祖神饒速日尊 |
日本書紀や古事記によれば、物部氏の祖神・饒速日尊(ニギハヤヒ)は、神武天皇と高天が原から畿内に天下ったことが書かれている。これは北部九州から畿内に東遷したと解釈できる。さらに物部の国造について詳しく書いた「先代旧事本紀」(901~923)によれば、ニギハヤヒは、天の磐船に乗って船長・舵取り・船子などを引き連れて(畿内に)天下ったという。そしてニギハヤヒが天下った時に、 供に下がってきた物部一族のなかには、その氏族名に、北九州の地名と関係しているものが多いのは北部九州人が東遷した証拠である。 |
平安時代の延喜年間(901~923)に編纂された「先代旧事本紀」には物部氏族は河内、大和、摂津の畿内と筑前・筑後、豊前など北部九州を中心に、各地に勢力を張っていたことが書かれ、「25部人」のなかで北部九州の一族と比定され、筑紫贄田物部(鞍手郡)・筑紫聞物部(大分県直入郡)・狭竹物部(鞍手郡)・赤間物部(宗像郡赤間)・浮田物部(遠賀郡)・嶋戸物部(遠賀郡)・馬見物部(嘉穂郡嘉穂町)・田尻物部(高田町)の記載がある。帝の指令を待受け、朝鮮半島への遠征、八女地方の「磐井の乱」を平定など、大和朝廷の地方豪族の征服活動に貢献したとみられる。長島地区は日本書記などに景行天皇や天智天皇の巡幸説話があることから水軍の祖、兵力の旗頭であった磯上物部氏の陸海軍事指令本部がここにあり、協議あるいは要請に見えたと推定されている。 . |
3章 【古代の日本と朝鮮】 .
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”謎の4~5世紀”を解くのに明治初頭に発見された、高さ6.2メートル、幅2メートルの自然石の高句麗の第19代の「好太王碑」(中国・吉林省)がある。好太王の業績を称えるために息子の長寿王が414年に建てた純粋な漢文1802文字が刻まれてた碑である。碑文には、倭が391年に海を渡り百済・新羅を破り臣民(王に支配される人民)とした。倭と結託した百済は連合して新羅を破り臣民とした為に、400年に高句麗は新羅に救援軍を出し新羅の倭軍を撤退させ、伽耶(任那 または加羅ともいう)に追っていった。ところが阿羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。404年、倭軍が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。とある。『日本書紀』や、中国や朝鮮の史書にも倭軍がを伽耶を本拠に活躍したことが書かれている。伽耶はもと弁韓と呼ばれ朝鮮半島南部の諸国で金官伽耶・大伽耶・小伽耶・阿羅伽耶などから成り立ち、製鉄の産地である。倭人は5世紀末まで伽耶に軍事を主とする外交機関を持ち鉄の供給地として、新羅・百済・高句麗と共に活躍ししてきたであろう。532年に新羅や百済の攻撃を受け、金官伽耶は滅亡し阿羅伽耶に軍事機関を移したが、562年に大伽耶の滅亡で新羅に併合されたのちに倭は活動拠点を失った。
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発見当時の好太王碑 |
5世紀末頃の日本と朝鮮 |
朝鮮半島南西部の遺跡の発掘調査では日本の糸魚川産の勾玉が出土したり、元金官伽耶であった全羅南道に11基、全羅北道から2基の日本と同じ前方後円墳の発見が相次ぎ、小伽耶の松鶴洞古墳群からは日本の古墳と同じく、石室全面に赤色顔料が塗布され、遺物には鉄剣・鉄鏃(やじり)・玉類のほか新羅や百済系の陶質土器が出土し、さらに日本の須恵器も出土しているなど、倭人が任那地域に移住し、倭の文化も移入している事が解っている。歴史を遡れば、南部朝鮮の、この地から渡来人が北九州に渡り(亡命)、稲作・土器・兵器・金属製品などの弥生文化を齎した発祥地であり、同一の文化圏であったとみられる。
【仏教伝来と百済の滅亡】
538年、百済の聖明王の使いで訪れた使者が欽明天皇に金銅の釈迦如来像や経典、仏具などが献上され仏教が伝来した。55年後の593年に史上初の女帝33代推古天皇は聖徳太子を摂政とし、百済僧の観勒や高句麗僧の曇徴を来日させ朝鮮文化・技術を導入、大陸に遣隋使を送り、先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収した。冠位12階の制定、憲法17条を発表し、政治の改革や仏教を積極的に保護し、法興寺、四天王寺、法隆寺などを建立し仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせた。
645年6月、飛鳥で中臣鎌足(藤原の祖)や中大兄皇子は蘇我入鹿を暗殺し、「大化の改新」を実現し改新政治を推し進め、律令体制の基礎を築き、中大兄皇子が政治の実権を握った。655年、朝鮮半島北部では、かねてより対立していた唐(617年建国)と高句麗が戦いを始めた。南部では,百済が新羅へ侵攻したため,新羅は唐に救援を求めた。唐の皇帝・高宗は新羅の軍とともに百済の都であった扶余に攻め入り,百済の義慈王は降伏する。こうして660年7月、百済が滅亡した。
【白村江の戦い】
日本書紀によると滅亡した百済の元有力貴族である鬼室福信は、30年間人質として倭国にいる王子豊璋を国王位につかせるため送還し、百済復興のための援軍を要請する。37代斉明天皇(中大兄皇子の母親)は百済王朝の再建を約束し、救済準備のために飛鳥から多数の従者と筑紫(福岡県朝倉郡朝倉町)朝倉宮へ遷都とも考えられる大移動をした。しかし、斉明天皇は2ヶ月後に朝倉宮で急死されたので息子の中大兄皇子(のちの38代天智天皇)が指揮をとられた。
国運をかけた百済への大出陣の動員には、筑紫、肥・豊国など、西日本全域に及び、国造の指揮のもとに多数の農民がかり出された。天智2年663年3月までに百済に軍船400隻と3万2千人の兵を送る。8月23日倭国軍は白村江(「はくすきのえ」とも読む。錦江の河口)で唐の水軍によって挟み撃ちにされ一昼夜にして軍船の大半を炎上壊滅される。白村江は日本軍の血で赤く染まったという。百済は滅亡し百済の王族や貴族など数千の人たちは日本に亡命した。唐軍の捕虜なった倭国軍の上妻郡の大伴部博麻は長安(西安)に連行されると、遣唐使として来ていた筑紫君薩夜麻・土師野富杼・氷連老・弓削連元宝の4人は捕虜とされていた。捕虜生活のなかで唐が倭国を攻める計画を知り、倭国に知らせるために大伴部博麻は「奴隷」として身を売り、入手した帰国資金を4人に渡した。天智10年(671)ごろ4人は対馬に着き唐軍の来襲計画が倭に伝えられた。 |
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九州王朝があったとする学者の説では『 筑紫君薩夜麻は九州王朝の天皇で、総司令官として戦いに挑み唐軍の捕虜になり、九州王朝側の敗北が決定した、これにより、日本国内での九州王朝の権威は失墜し、衰退に向かった。飛鳥時代と呼ばれている時代までは、ヤマト王権は、まだ日本を代表する政権ではなく畿内の地方政権にすぎなかった』とある。
中大兄皇子は唐・新羅の連合軍の反撃に備え、大野城(糟屋郡宇美町外).基肄城(佐賀県基山町外)金田城(長崎県美津島町)鞠智城(熊本県菊鹿町)などに、朝鮮渡来の技術者に、水城(大堤に水を貯える防御策)、土塁(土を高く盛上げて柵にする)、朝鮮式山城などを次々に構築させる。高良山(久留米)や瀬高町女山の神籠石も当時、築いた山城址と推定されている。外敵上陸を想定し、博多の官家など公的施設を内陸の大宰府に移転します。中大兄皇子は飛鳥に帰り天皇に即位し、万一の場合 に備えて東国に逃げやすい近江大津宮に都を移したが幸運にも唐の遠征軍は襲来しなかった。最終的に、唐、新羅とも和解し平和を取戻した。 .
【釣殿宮と腹赤の魚】
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瀬高町長島の釣殿宮(通称名・つってんさん)の「腹赤の魚」の伝説は中大兄皇子がに白村江の戦いで破れ、663年から668年の間、筑紫において唐軍の来襲の備えで各地を巡行され、疲労困憊して長島に滞在された時の話であろう。鎌倉時代末期に書かれたとする著者不明の「源平盛衰記25巻」に長島において「赤腹の魚」を中大兄皇子に供御(くご)として献上した、腹赤(はらかの)奏の記載がある。「腹赤(はらかの)奏とは魚也。天智天皇のいまだ位に即給はざりける時、君は乞食の相御座(おはしま)すと申ければ、我帝位につきて乞食すべきにあらず、備へる相又難(レ)遁歟、御位以前に其相を果さんとて、西国(さいこく)の御修行あり。筑後国、江崎、小佐島と云所を通らせ給けるに、疲に臨み給(たま)ひたれ共、貢御進する者もなかりけり。網を引海人に魚をめされて、御疲を休めさせ給(たま)ひ、我位につきなば、必貢御にめされんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)、其名を御尋(おんたづね)ありければ、腹赤(はらか)と奏し申けり。帝位につかせ給(たまひ)て思召(おぼしめし)出つゝ、被(レ)召て貢御に備けり。其よりして此魚は、祝のためしに備ふと申。」とある。
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38代天智天皇(626~71) |
民話においては「天智天皇が皇太子(中大兄皇子)の時(7世紀)、ある時、占師が皇太子の顔を見て、「あなたは大変良くない相が現れています。」と申しあげると皇太子は「そんなに良くない相があったら、天皇の位についた時、都合が悪いことだ。良くない相を無くしたいものだ。」と申され、即位前にその相を除く為に供人を連れて西国(中国・九州地方)に修業に出られた。旅を続けられ、筑後の江の崎(大和町江崎)より船で小佐島(長島)に着かれたが夜になり疲労激しく、お食事を差上げる人は誰もいませんでした。
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その時海岸で網を引いていた村の人たちがいたので、皇太子が魚を求められると、村の人たちは快く赤い腹の魚を獲って食事に出したら、大変喜ばれ食され、しばらく滞在して旅の疲れを癒された。皇太子は、心温まる親切に深く感心され、「自分が天皇の位についたなら、今日のことを忘れないで、必ずこの魚を食事の材料に調えて置くようにしよう。」と思われたのです。そこで、「この魚は何という魚か。」と尋ねられたので、村人は「この魚は腹赤と申します。」と答えました。皇太子は西遊を終え都に帰られ、即位され天皇となられたからは、あの時のことを忘れず、この赤腹の魚(ニベ)を取り寄せになられたと言われています。 |
この腹赤の魚は、聖武天皇の天平15年(743)から朝廷の正月の行事にはなくてはならないものとなり、筑後(瀬高町長島)と肥後(熊本県長洲町赤腹)の二国から大宰府を通じて朝廷に送られることになった。その魚が到着すると、内務省の役人が天皇に申し上げる「腹赤の奏」が、1月14日に行われた。鎌倉時代の末期まで続いた儀式である。(河野覚・釣殿宮と腹赤の魚より) 唐との戦いで敗れた倭国は天智天皇の弟である天武天皇(673年即位)の時代になって唐の優れた政治制度を学び、律令国家を目指した。天皇を称号とし、「日本」を国号とした、最初の天皇と言われる。『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始めた事業で死後に完成しました。
【釣殿宮】 (太神長島) |
「ふるさとの昔ばなし」-瀬高の民話と伝説―瀬高町教育委員会発行では。今(2018年)から約1350年ほど前、天智天皇(663~671年)がまだ皇太子(中大兄皇子)だったころの「あなたにはいま、たいへん良くない相があらわれています。」と申しあげたのです。皇太子は非常に驚かれました。「そんなに良くない相があったら、後に天皇の位についた時、都合が悪いことだ。天皇の位につく前になんとかこの良くない相をなくしたいものだ。」と思われて、西国(中国・九州地方)に修業の旅に出かけられました。旅を続けられ、そのうち、九州の筑後の国(福岡県南部)の江ノ崎(大和町江崎)にお着きになりました。そこから舟で小佐島(瀬高町長島)を通られた時は、夜になってしまいました。皇太子はたいへんお疲れになっていましたが、食事を差し上げる人はだれもいません。その時、海岸で網を引いていた村の人たちがいたのです。
皇太子が魚を求められると、村の人たちは快く魚を差し上げたのです。皇太子はたいへん喜ばれ、それを食べて旅の疲れをいやされた後、しばらくこの小佐島におられました。その舟を着けられた所が、現在の釣殿宮(つってんさん)のある所と言われています。皇太子は、この村の人たちの心温まる親切に深く感心され、「自分が天皇の位についたなら、今日のことを忘れないで、必ずこの魚を食事の材料に調えて置くようにしよう。」と思われたのです。そこで、「この魚は何という魚か。」と尋ねられたので、村人は「この魚は腹赤と申します。」と答えました。
さらに、中大兄皇子は瀬高町長島の釣殿宮から熊本県玉名郡長洲町へと下られます。「即位前にその貧相を除く為に供人を連れて西国に修業に出られた」とありますが、これは、白村江の戦いの後、疲労困憊して南九州へ下向される過程を語っているのではと想定するのです。
長洲町には「宮野」の地名が「腹赤」の北隣にあります。熊本県長洲町にも「腹赤の魚」の伝説があったことになります。天智天皇の「筑紫の長洲宮」は、この時の熊本県玉名郡長洲町ではないかとなります。中大兄皇子は瀬高町長島から熊本県玉名郡長洲町へと下られ、そこが「長洲宮」と想定される。
その後、皇太子は天皇の位につかれ天智天皇となられた後も、あの時のことを忘れず、この魚を取り寄せになられたといわれています。この腹赤の魚は、聖武天皇の天平15年(743)から朝廷の正月の行事にはなくてはならないものとなりました。
筑後(瀬高町長島)と肥後(熊本県玉名市)の二国から、大宰府を通じて送られることになりました。その魚が朝廷に到着すると、中務省(なかつかさしょう)の役員がそのことを天皇に申しあげたということです。これを腹赤の奏と言っていました。
この腹赤の魚は、古来、学者の間では「ます」のことだといわれています。普通には「にべ」(爾部・丹部)の魚だと考えられています。現在、熊本県島原地方では、はえなわ漁法という方法で獲られているそうです。お祝いの魚だといわれています。また、西行法師(1118~1190年)の『山家集』という本に、筑紫(九州)にハラカという魚を獲って都に送っている。その魚を獲るために海に綱を引き渡しているので、そこを通る舟がその網にさわると漁師たちがやかましく騒ぐ、とかかれています。そして
はらか釣る おおわたざきのうけ縄に 心がけつつ過ぎんとぞ思ふ
という歌を詠んでいます。
皇太子が船をつけられ、しばらくおられた釣殿宮には、天智天皇をお祭りしてあります。初めは腹赤の宮と呼ばれていました。その後、宮本(宮元)家の先祖である牡丹八段という人が、釣殿宮をたいへんうやまい、神鉾を奉納しました。その時のお祭りは、音楽を奏でるなどたいそう賑やかだったそうです。
文明19年(1487)、宮本土佐守という人が奉納した旗には、「上部に日と月が、その下に釣り針(魚を釣る針)を描き下部に、文明拾九年 八月吉日 宮元土佐守」 とあり現在もなおお宮の宝として宮本家に残されています。このお宮の祭りに使われる御幣の苧(麻の一種で、そのすじを使って網や着物を作る植物のこと)の一片をもらい、糸に混ぜて網を作ると魚がよく獲れるといわれています。
そのため、近くに住む漁をする人たちが多く参拝します。また、皇太子がしばらくおられた時、朝夕ひもろぎ(神が宿っていると考えられた森や老木のまわりに、常盤木・ときわぎ(年中、青々としげっている木)を植え、玉垣をつくり神聖な所としていました。その常盤木を室内や庭の中に立て、神の宿る所としました。その所のことです。)を立て、東方にむかってお祈りをささげられた所が、古島の大神宮といわれています。
矢部川を遡り江ノ崎(大和町江崎)に着き、舟で矢部川を下り飯江川に入り、小佐島(瀬高町長島)を通られています。長島の東には古島が存在しています。
腹赤(はらか)が朝廷に送られたのが、筑後(瀬高町長島)と肥後(熊本県玉名市)の二国からと出ています。
現在、熊本県玉名郡長洲町腹赤という地名があります。腹赤小学校や腹赤郵便局があります。また、江戸時代始めに立花宗茂公は関ヶ原の合戦で西軍が敗れたため領土を没収され、浪人生活をします。その時に、残された家来は加藤清正に預けられることになりました。宗茂の妻、誾千代も肥後玉名郡腹赤村(玉名郡長洲町)に留まっていましたが、慶長7(1602)年に35歳で亡くなっています。
釣殿宮地図②は腹赤魚(別名ニベ)をめぐる古文献があるほど由緒深い宮で天智天皇を奉祀されている。昔には腹赤宮とも呼ばれた。社記には「皇太子が船を着けられ、しばらく滞在された所に釣殿宮を建立し、御幟と御鉾を立てた。天皇の御親翰一軸を社殿に納めたあったが鹿児島の島津家の手にはいり家宝となった。」と記されている。」宮の周辺の地には御幟の杜(太神神)と鉾立の宮森(ひろたけさん)として今でも祀られている。古くは宮本家の先祖の荘丹八段の崇敬あつく神鉾を納め、音楽を奏して賑々しき祭典であった。室町時代の文明19(1487)年に宮本土佐守が奉納された釣殿宮を象徴したとみられる「日月と釣針」を描き、「次 宮元土佐守 文明十九年之八月吉日」と書かれた御神旗を奉納している。後年の例祭には豊漁を祈願する隣村の漁師の参拝者多く、御神幟を神体として崇めた。現在も10月19日の祭礼には、この御幟をたてて宮入りをする。神紋は一六弁の菊花紋である。
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鉾楯の杜(廣武宮)(ひろたけさん)(野神) 長島 |
鉾楯の杜⑦は長島中小路から少しはなれた北の民家傍にある。中大兄皇子の行列に鉾と楯と旗を奉持してお供をした。その神鉾をご神体として祀つた宮。戦国時代、島津の武士が持ち去った「金の鉾」があり宮元家の先祖、荘丹八段が奉納した記録がある。神紋は菊花紋。
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御幟の杜 |
釣殿宮の西方にある道路脇にあり、中大兄皇子の行列に旗を奉持してお供をした。その旗をご神体として祀つた場所です。 |
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【太神宮】 (長島潟) |
釣殿宮の北東にある太神宮地図④は西暦944年頃の天慶神名帳にある太神国玉神に比定されている。天智天皇が皇太子(中大兄皇子)の時に小佐島(長島)に行幸の時、仮の御室として神籬木を建て、毎朝東方の朝日を拝まれた地とされている。この宮は筑紫三宅連得許が奉祀したとある。三宅連得許は 天智3年(663)の白村江の戦いで捕虜となり天武13年(684)に21年ぶりに、唐から帰還した人である。慶雲4年(707)にも山門郡の許勢部形見、上妻郡の大伴部博麻、肥後国合志郡の壬生諸石が捕虜生活、44年ぶりに、遣唐使粟田朝臣真人に随行して帰国したので、その苦労に対して衣・塩・穀を賜ったということである。太神宮のその後の奉祀人は宮元家の先祖、宮元長者の祈願所として往時は繁華な霊場であった。神紋は八弁の菊花紋である。 |
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長島の神社とお堂(つづき)
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若宮さん (長島古島) |
村の中心部の林に若宮神社の小堂がある。若宮さん、よどひめさん、カッパさんの三体を祀る。天満宮と一緒に祭礼を行っている。お祭りの日は昭和30年位までは、お座(宿)の当番の家で朝食の会食が行われ、天満宮の境内では鉦や太鼓をならし賑わっていた。旧暦の5月が「水の神」を祀る月で、現在春の彼岸に古島地区では「河童まつり」が300年以上続いている。井戸神のことを水神様と呼ぶ。5月5日はその祭で、「河童さん祭り」と呼ぶ。川岸や各家の井戸、汲場に篠のついた竹を立てて、わらで作った大たこ、大いか、盃、と、竹作りのひさご(徳利)、を吊るして、藁の両端を結んで(藁苞)中にに塩・イリコ・米を包んで下げ、酒を竹筒に入れて祭るという。村人はお宮で彼岸ごもりをして河童まつりをする。秋彼岸を過ぎると河童は山に行って山童となり、春になると川へ帰って来る河童さんから人々がひかれないように(水難よけ)との願いをこめ、酒肴をお供えしてお祭りをする。長島や海津周辺の民家では井戸神のことを水神様と呼ぶ。5月5日はその祭で、「河童さん祭り」と呼ぶ。川や各家の井戸、汲場に篠のついた竹を立てて、藁苞に塩・イリコ・米を包んで下げ、酒を竹筒に入れて祭るという。 |

河童まつりの飾り
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【恩を忘れぬカッパ】 「ふるさとの昔ばなし」-瀬高の民話と伝説ー瀬高町教育委員会発行より】
あぜ道の花を枕に昼寝していた狐は、目を覚ましあたりを見回していましたが、「やあ!カッパ君、久しぶりだね。相撲をとろうや。」と、水の上に顔だけ出して休んでいたカッパに話しかけました。
「よかろう。久しぶりに一番取るか。」とカッパは頂水(ちょうすい)をこぼさぬように岸にあがりました。
悪がしこい狐は、南は宇津の橋(長島にある橋)から北は瀬高まで、東は広安から西は栗の内あたりまでを縄張りとして、花嫁さんに化けたり、おじいさんに化けたり、明るい月夜に雨を降らせたりしていたずらをしていました。そんなことは、頭の良い狐にとってはたやすいことでした。
カッパは、釣殿宮(つりてんぐう)付近の飯江川に住み、長島、古島(ことう)、新川すじをわがものとして恐れるものもないようなふるまいをしていました。
人の足音がすると、ドブーンと深みに飛び込んでおどし、驚いて一目散に逃げる人を、柳の根元から眺めてニヤリと笑ったりしていたずらばかりしていました。
さて、相撲が始まりました。狐のずるいやり方で、カッパにとっては命より大事な頂水がこぼれてしまい、力が尽き果て殺されそうになりました。
その時、岸に腰をおろして眺めていた白ひげのおじいさんが、杖をたたいて大声でどなりました。
「狐よ待て!そんな技は相撲の禁手だ。やめろ!」と狐とカッパは飛び上がって驚きました。
狐は森へ、カッパは水の中へ逃げ込みました。
白ひげのおじいさんは、これでよしとばかり立ち上がり杖をついて帰っていきました。
彼岸の弓張月(弓を張ったような上弦・下弦の月)は、御牧山の上の白雲の中にかくれています。
家に帰ったおじいさんは、すすけた行燈(あんどん)の芯をかきたて、しぶ茶でのどをうるおし、晩酌を楽しみ、塩づけににぎりめしに、おくもじ(高菜漬)で食事を終えると風呂に入り、弓張り月を心ゆくまで眺めて床につきました。
後は高いびきです。ぜいたくを知らないおじいさんは、自然を友として心の向くまま歩き回るのが毎日の楽しみでした。
夜中のことです。さまんこ(外からの侵入を防ぐ窓)の外から声がします。おじいさんは目をさまし
「だなたかのう。」と、言いながら火打ち箱を引き寄せ火をおこし、付け木に移して行燈に火を入れ、声の主を招き入れました。
現れたのは真面目そうな青年でした。青年は、両手をついて
「私は、今日の夕方、たわむれ相撲が本気になり、危うく狐に殺されそうになった時、おじいさんの大かつ一声で命を助けていただいたカッパです。そのお礼にあがりました。
それから、私の願いを聞いてください。その願いとは、世の中にはいろいろな不幸を持つ人がおられます。その不幸な人々をお助けてください。」と言いました。
おじいさんは「不幸な人とはどんな人のことか。また、どうすれば助かるのか。」とたずねました。
青年は、かしこまって言いました。「手や腕や足の骨を折ったり、腰を痛めて仕事ができずに苦しんでいる不幸な人々を、一日も早く元気にしてあげてください。その秘伝は”○○○”です。
この秘伝の”○○○”は、あなた様の子孫の方へ次々におゆずりください。」と言うと、ていねいにおじいさんを拝み、カッパ青年は姿を消しました。
後年、ある村に骨折の名医として知られたお医者さんが出られましたが、このお医者さんは、白ひげのおっじいさんの子孫だと言われています。
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地蔵堂 (鬼木)(保育園前) |
こうやの宮の西、三池街道筋にある。以前は小学校の運動場のあった場所であり、地蔵堂はその東の堀脇にあった。栗の内集落の皆さんによりお彼岸の巡礼者などのお世話を行っている。木造の地蔵さまで、近年塗る変えて立派になっている。創建は古く、江戸時代かと想定する。
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薬師堂 (栗の内) |
西側に権明寺(浜田村権明)という大きなお寺があって境内に稲荷社と薬師堂を祀ってあった。戦国末期に佐賀の龍造寺隆信の兵火により、中小路の養福寺と同じく消失してしまった。元境内を発掘すると弥生時代の、お椀や皿が出てきた。祭田が5畝ほどあって4,5人の世話人さんが毎年作付け廻しとして耕作し、その収入でお堂の維持管理をしていた。終戦後、農地解放で祭田が農家に移り、その代金でお堂を藁葺から瓦屋根に改修した。昔から目の病気に御利益があると目・・・と書いた紙を供えて信仰されてきた。また栗之内という字名はお寺の「庫裡」に由来していると言われている。
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宇津天満神社 (太神 宇津) |
飯江川の南岸側にある。学問の神様、菅原道真公を祀る。宇津部落の産土神である。
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若宮さん (太神宇津) |
南方300m位の小川の岸に若宮さんの小堂があり、ここにカッパさんを祀ってある。
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天満宮 (長島古島)(おさじまこと) |
天満宮は長島古島地区の産土神である。以前は下小川のお宮の系統で、下小川祭礼の風流行列の座組に入ったと聞く。現在は12月10日に古島だけのお祭となっている。
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弘法大師堂 (長島 潟) |
潟地区の弘法大師堂で、数百年は経ち老化が酷く、15年程前から地域11戸で費用を積立てお御堂が新しく建替えられた。平成23年7月18日に落成しました。大日如来像や大師像が鮮やかな色に復元された。お御堂内には90体程の石像が安置されています。これは大きな石の台座を含めて、すべて潟地区の人達の人力で並べられました。潟地区の人々の結びつきと信仰心の深さに感銘します。
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弘法大師堂 (長島中小路) |
お堂の中には、不動明王と弘法大師が祀ってある。現在は春と秋のお彼岸にお遍路さんがお参りに訪れる。
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養福寺 廃寺 (長島中小路) |
長島中小路にほんぞん(本尊)さんというお堂が養福寺跡です。永禄2年(1559)戦国時代肥前竜造寺隆信が本吉清水寺を焼き払った時と同じ頃、焼打ちに合いに、仏像や石仏などは近くの堀に投げ込んでしまったと伝えられている。現在は柳川の七つ家に移つているが現在交流がある。焼失後、付近の住民が木材や藁を持ち寄り小さなお堂を建て守り拝んでいた。南小路、先祖供養由来帳に記載してある。昭和30年頃今の瓦ぶきに改築された。中央に御本尊、右に大日本如来、左に釈迦誕生仏が祀ってある。今残っている小さな釣鐘に「大神長島名養福寺、明治13年」の銘がある。釣鐘の吊手にはいかめしい武人の顔が外向きに対となってあり、また菊花牡丹の模様が彫られている。8月21日この小路のおにぎえとして舞台がかかり浪花節、夜店が出てにぎやかだった。
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地名のはなし
大字の太神は「おおが」と読み、北東に下小川集落、北西に井出ノ上集落と南側には長島集落があります。長島は「おさじま」と読み、古文書には小佐島とも書かれている。周辺には岩津・宇津・海津・中島・古島など海に関する地名があるのは、古代では有明海が入りこみ周りは海だったと言われている。「釣殿宮」から、大根川の上流側にある「潟」「上ノ潟」の地名は当時からの名残りです。
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太神 (大字名) |
郷土史家の鶴記一郎氏によると、「宇佐八幡宮の神職には宇佐氏、太神氏、辛島氏がありました。瀬高に来られたのは、そのうちの太神氏だったのです。太神氏は舟で当地方に上陸したが、長島地方で、当分そこで居を構えていたので、一族の氏神として、今の太神宮を創建したのだと思います。その太神氏は次第に広田県と称していた地方に勢力を延ばすに及び広田姓を称したものです。今の大字太神の地名は広田氏の改姓前である太神氏の遺名でしょう。時代は降りますが、律令時代において、一般庶民は口分田として一定の土地を班給されましたが、広田氏は功田として270町を与えられました。これは神亀元年(724)で、この年に広田八幡宮(文広)も創建されています。」と解説されている。
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長島(おさじま)(行政区名) 大字太神 |
古文書には小佐島とあり、古代は島であったろう。瀬高町の長島は古代史跡多く、七支刀を持つ御神体のある、こうやの宮・自然石を祀る田中の宮、神話漂う釣天宮などがある神々の住む所とされて来たが、神を祀る村の意がぴったりであろう。
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神楽田(小字名) |
鬼木の西側の土地名で神を司るための水田(神田)の意であろう。
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稲荷(小字名) |
戦国末期の兵火により焼失した権明寺(浜田村権明)の元境内であって稲荷社を祀ってあったの所の地名です。現在も稲荷神を祀ってあるそうです。
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栗の内 (小字名) |
豪族一族の住む屋敷の意味もあるが、戦国時代の戦火により廃寺となった権明寺(浜田村権明)の元境内にあった住職の住いである「庫裡」に由来していると言われている。栗の内の集落の地面下には弥生時代の遺跡が眠っている。
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鬼木 (小字名) 栗の内 |
辞書には「鬼」は姿が見えない意の「隠」の字音「おん」の転という。地上の国つ神。荒ぶる神。人にたたりをする怪物。とある。鬼木は正月用の薪。年木。とある。南校区の鬼木は神を司る場所の意と推測する。こうやの宮がある所で異国風の服を着て「七支刀」を持った男神が祀られて鬼木部落の人達が先祖代々氏神として祀り続けている。 |
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馬渡(小字名) 栗の内 |
鬼木集落の南方にあり馬でなければ渡れなかった湿地帯だった所です。
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天神(小字名) 長島 |
長島の南端にあり、三栗野鉄工所の傍に野田天神がある。日出との境にも出店天神がある。東方の近くには田中の宮を祀る祠がある。 |
中小路 |
弘法大師堂や 田中の宮の通りであり、長島集落の中心となる小路の意味である。
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日出 小字名) 長島 |
飯江川の北側にありよく乾燥する微高地に付けた地名です。日がよく当たるなどの気象的地名ではありません。この地は大木が茂り森に田中の宮が祀られていたそうです。現在は伐採されています。
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釣殿(小字名) 長島 |
飯江川と大根川の合流点の西側一帯の釣殿宮のある地名です。古書には「釣殿宮の鎮座ます地名は古島の崎潟の宮と呼ぶ」とあるほ場整備により釣殿宮の西側の境内が削られ田んぼとなり、東の田んぼが埋立てられ町内の運動場となっている。
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石佛(小字名) 長島 |
中小路にある養福寺の寺領の田んぼであったであろう。養福寺は永禄2年(1559)戦国時代肥前(佐賀)の龍造寺隆信が本吉清水寺を焼き払った時と同じ頃、焼打ちに合いに、仏像や石仏などは近くの堀に投げ込んでしまったと伝えられている。その後再建されなく柳川に移っている。現在はお堂と石仏や墓石が残っている。
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宮ノ前(小字名) 長島 |
太神宮の南側の水田一帯の地名です。神社領に付けられた地名です。
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茅津(小字名) 宇津 |
宇津集落の小字名です。茅とは「屋根をふく材料とする草。イネ科のススキ・チガヤやカヤツリグサ科のスゲなどの総称」とある。ツ(津)とは舟着場、港のことで、開拓前の茅(かや)が茂った舟着場の意です。 |
道 山 (小字名) 宇津 |
宇津集落の南側にあり高田町の岩津の山沿いに道路のある地名のことです。
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大江前(小字名) 宇津 |
宇津集落の南端にあり飯江川の河口の前の土地の意です。古代、すぐそこまで海が入りこんでいた頃の起名と推測します。
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庄福BICサイト |
故村山健治著・誰にも書けなかった邪馬台国、鶴丸英雄著・「神遊び」から日本建国の謎を解く、河野覚著・釣殿宮と腹赤の魚、
故田中広次氏・故河村子路作氏の長島の文化財研究資料・古代を考える日本と朝鮮(武田幸男著)、高田町史、故鶴記一郎著・地名の話し
現地取材・撮影により製作しました。地元関係者の功績と御協力に感謝いたします。
本ホームページ掲載記事の無断掲載はお断りします。 H・23・8・1製作 |
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