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盲人福祉運動家 大城雪造
大城雪造は明治19年12月28日に福岡県山門郡瀬高町北高柳の城ノ内151−2(現・みやま市)に生れる。地元の河沿小学校を卒業し、明治32年6月、河沿高等小学校(瀬高高等小学校)第3学年在学中に眼病の為に失明し退学する。明治37年官立東京盲唖学校普通科及鍼按科に入学。明治42年福岡県若松町立若松病院のマッサージ師を経験。明治43年教員練習科にて免許取得。この頃に上庄の江崎酉之助の娘ヨシと結婚。明治44年私立香川県盲唖学校教諭となり、大正3年には私立福岡盲唖学校訓導員となる。大正13年福岡県立福岡盲唖学校教諭となる。昭和21年同退職するまでに多くの視力障害者に鍼灸按マッサージ指圧師として世に出して自立し生きる喜びと幸せを与えさせた。
教職を退いた大城は残る人生を盲人福祉の運動にささげた。福岡県盲人会を設立し初代会長となり、会館の建設企画、募金から用地取得と幾多の困難を乗り越え昭和24年に福岡市東薬院に会館を完成させ胸に潜めていた理想と計画を実行させていく。10月には女性視力障害者のために「青鳥寮」を設立し、教養・生活能力の向上、生きる喜びの体得を図った。12月には自宅に収集された点字図書を提供し点字図書館を開設した。翌年には、あん摩師養成施設「福岡光明寮」を創立し、初代寮長として教科指導を担当した。昭和34年には「九盲連」の会長となる。昭和39年11月に「勲四等旭日小授章」を東京皇居で受賞される。光明寮を国立とする策を考え国立施設誘致運動した。光明寮の国立移管は達成できなかったが、昭和44年に「国立視障センター」の福岡設置が実現した。昭和47年5月病気の為に役職を退き、7月29日に亡くなる。享年85才であった。後年、多大な功績を称えて大宰府市の「光明園」に大城雪造先生の銅像が建立された。子供は息子3人・娘1人で息子さん達は修猷館高校で成績優秀で大城三兄弟として有名になり、3人とも九州大学を卒業され各界で活躍されている。平成23年現在、4番目の娘さんは85歳で福岡市で元気にお過ごしです。 |
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教官時代 |

明治43年結婚当時
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雪造・ヨシ夫妻 |

昭和39年皇居で天皇皇后陛下より授与 |

昭和39年受賞式後の皇居前記念写真
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家族記念写真 |

雪造夫妻と子供達 |
雪造翁の銅像 |

昭和49年・雪造翁の銅像除幕式にて |
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東京湾横断道路元社長 大城金夫 |
大城雪造翁の3男の大城金夫氏は昭和15年に福岡の修猷館を卒業し、九州大学航空課に入学、終戦に伴い土木課に変更して卒業されている。終戦後に混乱の中、思った就職先は少なく、福岡市水道課に就職したが、のちに自衛隊に入隊した。昭和31年(1956)に日本道路公団が設立され、大学の恩師から優秀性を買われ推薦され道路公団に入社する。日本道路公団の技術部門の仕事から、のちに理事となり、神奈川県川崎市から東京湾を横断して千葉県木更津市を結ぶ東京湾横断道路株式会社の社長に就任し活躍された。東京湾横断道路は昭和41年に調査が開始され、昭和61年に東京湾横断道路株式会社が設立され、翌年に日本道路公団と建設協定が締結された。平成元年5月27日に東京湾横断道路建設工事鍬入れ式が行われ、平成4〜5年に川崎人工島と木更津人工島が造られ平成6年から掘削用のシールドマシンが発進した。完成に近い平成8年6月12日には皇太子殿下が視察にお見えになり、案内役をした。平成9年公募により道路名称を「東京湾アクアライン」、木更津人工島を「海ほたる」に決定され、4月21日にはトンネル貫通式が行われた。平成9年12月東京湾横断道路株式会社から日本道路公団に道路施設が引渡され、皇太子夫妻をお招きして開通式が行われた。平成15年11月12日、金夫氏は転移性肝がんのため東京都新宿区の病院で死去、80歳。大城家と東京湾横断道路の合同葬は18日葬儀委員長は石井清東京湾横断道路社長、喪主は妻衣子さんで東京都港区芝公園の増上寺大殿で行われた。
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海上ボーリング地質調査 |

平成元年5月、鍬入れ式 |

大城金夫社長のときに完成する東京湾アクアライン |

平成8年皇太子殿下を橋梁部に案内する大城金夫社長 |

皇太子殿下をトンネル内に案内する大城金夫社長 |

平成9年4月21日、トンネル貫通式 |

平成9年12月日本道路公団に引渡し式右が大城金夫社長 |

海ほたる |

平成9年12月開通式のあと
皇太子殿下御夫妻に「海ほたる」を案内 |
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庄福BICサイト 写真・資料は大城家親族様より協力頂きました。
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H・23・5・12製作 shofuku21@yahoo.co.jp
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