庄福BICサイト 【禁無断転載】 古地図に見る大広園の歴史 福岡県みやま市瀬高町大広園

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   平安末期から鎌倉時代に平家の残党征伐や蒙古襲来(もうこしゅうらい)の戦闘のために多くの関東武士が九州に下向しているが、大木村も現在の栃木県の宇都宮氏がやって来て大木城を築いています。その末裔で、宇都宮久憲(うつのみやひさのり)は蒲池(柳川)城の蒲池(かまち)の娘婿となり後蒲池として繁栄をもたらし、大木城を復活し、宮園城を築き蒲池の重臣として一族を肥後口の(まも)りとして配属し、宮園城は戦国末期には龍造寺隆信軍勢の侵攻に備えてました(.)
大木村の集落は北大木と600m程南にある、宮園に隣接する南大木がある。明治3年の合併で(おおき)村と(ひりやす)村と(みやぞの)村という隣接した3村の1字ずつをとって大広園村(おおひろぞんむら)となった。下図の明治15年頃の測量古地図を見れば現在のような幹線道路は無く江戸末期当時の有様(ありさま)です。明治22年には松田村と清水村と合併して緑村となり、明治40年の合併で瀬高町となる(.)

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    大木城(おおきじょう)
 大木城址は北大木の中央に位置し、周囲を壕に囲まれていた。この城は下野国(栃木県)の豪族で、初代の宇都宮弥三郎朝綱(ともつな)が源氏再興にあたり源義経(よしつね)に従って手柄を立て、筑後の国を賜った。その孫の第3代宇都宮頼綱(よりつな)治承年代(1180年頃)に、岩清水八幡宮の分霊ヲ奉じ,西下して大木城を築いた(.)面積は4000坪(13200uある。今も大木の内(本丸跡)、陣畑の字名やキンド(城戸)、寺屋敷(大木氏の菩提寺跡)の地名が残っている(.)城は外堀と内堀を巡らしている。(大江小学校百周年記念誌より)
 旧柳川藩志(上巻P26)には「宇都宮朝綱(ともつな)の末裔の知久知綱など宇治合戦に功労あり(.)よって筑後を賜り鎮西に下向し、大木村に住み、鶴岡八幡宮の分霊を同所に安置、鎮護神とする」とある(.)
 第6代の
宇都宮貞綱(さだつな)は元寇の弘安の役では山陽、山陰の6万もの御家人を率いて蒙古討手の総大将として九州に下向したが、同行した弟の宇都宮泰宗(やすむね)は大木城を継ぎ、大木氏を名乗り、ここを根拠地として徳大寺家の荘園(瀬高庄)の荘官としてその管理にも関わっている(.)瀬高町上庄の祇園宮は、この頃、京都祇園の分霊を奉護し、社殿を建てたと思われる(.)

大木城本丸(.)

宮園城主の末裔江崎龍男氏の著筑後武士より参照(,)

南北朝戦乱時代では第8代、宇都宮貞久(さだひさ)菊池氏と共に南朝方に就いて戦っている。肥後阿蘇神社の大宮司で武将の阿蘇惟直(これなお)や弟の惟成(これなり)や一族の恵良惟澄(えらこれずみ)菊池武敏と共に足利尊氏と戦った「多々良浜の戦い」(1336年)で敗れ(.)残兵200人余りを連れ肥前に退き、小城郡天山(てんざん)を超えて肥後に帰る途中、肥前 小杵山(おつきやま)で討っ手に追われ山中で自刃した。
惟直(これなお)の亡骸は遺言によって故郷の阿蘇山の噴煙が見える所、すなわち天山の山頂に葬られた。恵良惟澄(えらこれずみ)は負傷しながら唐津から海路で、大木城に辿り着き宇都宮貞久(うつのみやさだひさ)の手厚いもてなしを受け、暫く滞在した。惟澄(これずみ)は城主の誘いもあって、海津の古川郷に阿蘇神社の分霊(ぶんれい)を奉祀したのち肥後に帰って犠牲者の惟直や家来のことなどを報告した(.)のちに子孫が代々神社に奉仕して村民の信仰を集めている。高田町海津小字古川の早鷹宮(はやたかぐう)という小堂がそれで海津阿蘇神社の前身である。南朝歴の観応(かんのう)元年(1350)頃には貞久は大木城を廃して、一族は肥後(ひご)に移り、後醍醐天皇の命により九州をめざした懐良親王(かいらしんのう)擁護(ようご)し各地に転戦したとみられる()しかし筑後川の戦い」(1359年)では息子の懐久(かねひさ)や弟の貞邦も戦死し、孫の久憲(ひさのり)と転戦している()
 宇都宮久憲は九州に領地を持たない身であったが(,)三潴郡蒲池村(みずまぐんかまちむら)の領主の蒲池武久を多々良浜の戦いで亡くし、当主不在の蒲池家の娘の養子婿となり、名跡と山門郡、三潴(みずま)郡、上妻(こうつま)郡などの旧領地を得て、見事に蒲池家を再興させる。のちに長男の蒲池義久(かまちよしひさ)が蒲池城を継ぎ、次男の資綱(ともつな)の子、政長(まさなが)が大木城を復活して居城する。姓を大木と改め大木政長(おおきまさなが)とし大木氏の始祖となる。また義久の子、今村大隅(おおずみ)を宮園城を築城させ城主とした今村大隅と大木城の大木政長とは、従兄弟(いとこ)同士で、蒲池一族であり、蒲池家の重臣として支援した(,)
 最後の大木城主の大木統光(おおきむねみつ)は柳川城主蒲池鎮漣(かまちしげなみ)の老臣で、天正9年(1581)、鎮漣龍造寺隆信の招請に不審を抱き肥前・佐賀行きを止めるが(,)佐嘉城で誘殺され柳川城は攻め落され下蒲池は滅亡した。統光は肥前に移り佐賀藩の鍋島 直茂(なべしまなおしげ)に仕えている(.)
大木氏の末裔には元佐賀藩士である、明治の元勲(げんくん)大木喬任(おおきたかとう)(文部卿、文部大臣、司法大臣)、その子遠吉(えんきち)(鉄道大臣、司法大臣)がいる。大木城は400年の歴史から消え本丸城址には昭和57年に村民により建立された大木城碑が残る( ,) 

    広安館(ひろやすやかた)
 後蒲池の初代は蒲池に婿養子となった久憲だが嫡男の第2代城主蒲池義久の次男である今村大隅が、室町時代の応永34年(1427)頃に大江、広安、宮園の3村を知行し、住まいとして広安に(やかた)を構え、600m南の要害の地に宮園城を築いている(,)


広安館址
中世の豪族は(,)日常生活の居館と有事の際の要害とを、近い距離に有しており、広安館も中世豪族の城砦(じょうさい)的住居である。広安館の規模は、東西約100m、南北約200m。ほぼ長方形で堀が廻り、表屋敷と裏屋敷の間にも堀が通っている(.)現在では周囲の一部は開墾され、一部は雑木林となり(.)表屋敷と天満神社の間を県道松田大江線が横切っている(.)「広安の湯」は今村氏代々の「隠し湯」として始まり武士たちが、ここの鉄鉱泉水(てつこうせんすい)を沸かして浴し、戦傷を治療したことから広まったという。子孫は今村氏代々の居館(,)広安館址に住し、江戸期の安政年間の今村四郎兵衛の時に江崎氏に姓を(あらた)め、柳川藩に仕え、今日に至っている() 

 
   大木八幡神社  北大木
  柳川城主蒲池氏の祖先は、関東下野国(栃木県)宇都宮三郎左衛門尉朝綱(ともつな)である。治承4年(1180)宇治川の合戦のとき、強敵を討ち(,)その功にて筑後国を拝領した。その子兄弟3人は鎮西に下向した。宇都宮検校弥三郎頼綱と弟の泰宗(やすむね)は山門郡大木村に在城し、土中に七節ある八幡竹を持参して来て、社殿を建立し(.)周囲に竹を植えたものと言う(.)現在でも、社の境内四周に竹林がある。その末裔である大木知光(おおきともみつ)統光(むねみつ)は柳川藩主、蒲池鎮並の戦死後、筑前に往き、追腹しようとしたが、龍造寺に止められ(,)遂に、鍋島に仕えることになったと言う。社内に八龍社と天満宮があったが、八幡宮を崇拝(すうはい)し氏神に替えたので、その側に、天満宮を祀ってある(.)旧藩時代は八幡竹20本を蜷藩に献上していた。3代藩主立花鑑虎(たちばなあきとら)が愛育の鷹が無事戻る祈願が叶った礼に奉納した「松の上の鷹」の絵が最近まであった(.)
    
 
 阿弥陀堂(長福寺 大木山)(廃寺)  北大木
長福寺は旧大木城内にあり、大木氏の菩提寺として、臨済宗の巨刹であったが、天正8年(1580)肥前の龍造寺隆信(たかのぶ)に焼かれ、その後再建されなかった(.)当時同寺の墓地に小堂を建立し、弥陀・釈迦・観音の三体と宗祖の像を安置し後世に残したものである(.)それを阿弥陀堂と呼んでいる(.)その西方は寺跡で、俗に寺屋敷と呼んでいる。東南は城跡であったという(.)またその後方に井形墓(いがわはか)三基がある。高貴な人の墓といわれているが、あるいは当寺を菩提寺(ぼだいじ)とした大木氏の墓であろうか。大正13年の耕地整理のため、城濠を埋め、竹林、山林を開墾(かいこん)した。本堂はその時、東西約50mにあったのを現在地に移転したものである(.)昔からの習慣として毎年2回、村人により清掃と供養が行われている(.)
 子飼(こがい)観音(マリア観音)       北大木
マリア観音の申し伝えがある。遠近から参詣が多い時期もあった(.)山本越前守秀房の子、山本右京大夫秀出羽国(でわこく)から豊後に来て海部郡(あまべぐん)と大方郡を領し、田崎村に居城し、氏を田崎と改める(.)
田ア民部秀門天正2年(1574)8月島津氏と戦い()落城する。その子、田ア保時はクリスチャンであった大友義統(よしむね)(洗礼名コンスタンチノ)の正室菊子(洗礼名:ジュスタ)と子供たちにお供をして(.)瀬高町禅院の建仁寺に住まわせた。お供した田ア保時は近くの山下(立花町(.)に寄寓したが、末裔は幕末には大木にして漢方医となり定住している(.)菊子夫人の墓は瀬高町禅院の建仁寺にあるが(.)北大木の子養観音様(マリア観音)や地蔵尊は(.)病にかかった薩摩からの旅人の治療や死後の弔いを行った場所と伝えられている(.)
玉琳寺  北大木
  江戸期の寛文元年(1661)玄道により開基創建された。延宝元年(1673)肥後国和泉守遠藤頼遠の二男、三郎が出家し、今村氏と養子縁組をする(.)剃髪得度し、仏門に入り、筑後国大木村(現在地)に寺を建立した。真宗大谷派(.)  
 広安天満神社    広安
 創建は鎌倉末期の宝治2年(1248)2月建立。江戸後期、安永4年(1775)に再建された当天満宮の棟木には、一部不明だが願文が書かれている(.)奉再建筑後州山門郡本吉荘広安村天満宮宝殿一宇太守(.)従四位下立花左近将監家老」などが残されている(.)明治6年村社に被定。例祭は10月15日で社殿は権現造りである(.)
     
 妻の神(さやん神さん) 広安
 広安温泉場の西南50m位のこんもりとした森の中に「妻の神」と刻まれた石碑の祠がある。その神には男性根を奉納してあり、筑後地方にある「()の神」(筑後地区で言う、さやん神さん)のことと思われる。古代から五穀豊穣、家庭円満、子孫繁栄、無病息災を祈祷するために祀られたものである。清水本坊の前にも寒の神で佐与子姫社と書いた祠がある(.)古代人は人間創造の原動力は男性に限ってある力という観念から男性器像を創り祈願した様であるが(,)陰陽のバランスこそ家庭円満の基点になるものと思う。平安初期にカナが発明され(.)神のその字がサの字に見えるために太陽の神をサの神というようになったとも言われています(.)鳥居の形はサの字の上に屋根を葺(ふ)いた姿である。毎年、氏子の間では暮れの24日、神前にお強飯(こわいい)や酒肴を供えたあと、これを引いてたき火を囲みながら飲み交わす祭りがおこなわれる(.)
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    【宮園城(みやぞのじょう)
 後蒲池の初代蒲池久憲の孫にあたる蒲池(今村)大隅が肥後口から蒲池城を援護する目的で宮園城を築城している。城は宮園、南大木、海津字古川(ふるかわ)の3村にまたがっている。宮園には本丸西二の丸があり、古川に東二の丸があり、本丸の鬼門隅(きもんすみ)には守護寺として臨済宗の禅寺の東照寺が築かれていた。城の周りは縦横に水濠がめぐらされ、矢の射程(しゃてい)距離に区切られた迷路の(ごと)き島とされ、敵は橋を外されると孤立し、矢で射立(いた)てられ、斬り込みをかけられ全滅する仕掛けとなっていた。敵に包囲されると()蒲池山の溜池と清水山の上下2つの大谷の堤を切って落とせば、奔流(ほんりゅう)は攻囲軍を呑み込み、宮園城は水に浮かぶ「浮城」となる天然の要塞(ようさい)でした。今村大隅、第2代城主今村瀬兵衛、第3代城主今村薩摩、第4代城主(,)今村土佐(入道覚盤)第5代今村舎人天正12年(1584)には肥前の龍造寺隆信の軍勢から上蒲池(かみかまち)の山下城を防がん為に松延城・瀬高城・吉岡城・本郷城などと共に防戦した(,)天正7年から天正15年豊臣秀吉の九州征伐までの筑後国で続いた戦乱を「筑後9年の乱」と呼ばれている。激動の時代を戦いぬいた約200年間(,)秀吉の九州領地配当により廃城となるまで今村一族代々の城でした(.)現在は中山身語正宗の東照寺の境内となっているが、伝授社(でんじゅしゃ)の今村城主ゆかりの逆修碑と今だ残る城堀が宮園城の面影を残している。宮園城堀の石垣は柳川城築城の際に使用され、現在の石垣は後世に築かれたと言う(.)
 
 
明治15年頃の測量図

海津字古川の明治15年頃の測量図


宮園城址にある、今村一族ゆかりの逆修碑(伝之授社)
 

今村城主の末裔、故江崎龍男氏の資料による

城堀

城堀
本丸跡付近の慈母観音像
 東照寺  宮園
 宮園城の一部、本丸、西二の丸跡は現在の東照寺の境内となっている。東照寺は、もと臨済宗の禅寺で、宮園城の守護寺であったが、天正年間、龍造寺隆信の軍勢の兵火にかかり廃寺となっていた。昭和23年中山身語正宗(なかやましんごしょうしゅう)の東照寺となり面目を新たにしている。境内にある「伝之授社」には宮園城主、今村大隅の五輪塔、2代城主瀬兵衛3代城主薩摩、4代城主(,)土佐入道覚盤のそれぞれの逆修碑(生前に仏事を営み立てた碑)が合祀されている(.)

大悲殿

現・東照寺本堂

仁王堂
 宮園天満神社  宮園
創立は明らかでないが鎌倉初期の建久年間(1190〜1198)とも言う。嘉禄2年(1226享保8年(1723)に再建の記録あり。祭神は菅原道真、である(,)例祭は10月25日(宮前)10月15日に行われる。境内には社日(しゃにち)神社保食神=うけもちのかみ.穀物の神屋須田(やすだ)神社図象女神=みずはめ二五日神田の神様)田の中より遷神(.)(12月25日祭)の社もある。明治6年に村社に被定(.)
     
      地名のはなし
 広安(ひろやす)   )(通称名)(行政区名)       松田
 戦国時代に宮園城は戦の時に籠もり戦い、広安館は居住の役目を果たしていました。ここには鉱泉(こうせん)の浴場があり湧水は鉄分が多く、けが、打ち身、化膿(かのう)、はれもの、神経痛、子宮痛などに効くそうです。一度ためしてみませんか(. )静かな湯舟の中では、社会と家庭のトラブルから離れ、心の優しさを晴らす湯客の会話が流れています。ここは北大木集落の北側の(. )18軒位の集落ですが正確には大字松田(まつだ)になるそうです(. )
                  広安の湯     
  
 大木(おおき) 大木の内・キンド・寺屋敷(小字名)  北大木
 戦国時代には大木氏が居城していました。城は東西160m、南北90m面積4000坪である(. )大木の内(本丸)、陣畑の字名やキンド(城戸)、寺屋敷(大木氏の菩提寺跡)などの地名が残っている。
大木城跡のある地域を北大木で宮園城跡の東の地域を南大木の行政区となっています(. )

                
  陣畑(じんばた)   (小字名)
  大木城の菩提寺長福寺があった所です。
 (つじ)  (小字名)        北大木
 北大木集落の西端にあり辻の意味は交差路だがそんな所でないので、石垣(ついじ)などと音声が似ていることから垣添と類似の、集落の境界的意味をするものと思います()
 栗田(くりた)(小字名)           北大木
北大木の東方の水田にあります。ぐり石、つまり砂原ではなく礫がごろごろしていた原に付けられたものです。
 鮒取(ふなとり)   (小字名)     宮園散田
 大広園散田の北東にあり、条理制遺構の一画です。そこには東西に延びる大きな溝があり、鮒などの淡水魚が盛んに捕獲されたのでしょう。この地名は正しく鮒に起因するものです(.)
 村中(むらなか)  (小字名)           宮園
宮園城から村中に通ずる所の城外の土地です。現在大根川の村中橋があり東照寺の第3駐車場のある地域です。
 肥後町 (ひごまち) (小字名)         宮園
 宮園城跡の北側にある地名です。中世において、肥後(熊本)の菊池氏が度々瀬高地方で、大友氏等と戦いました。そうした関係で、肥後の人々が移り住んだか、一時的にも、菊池氏の館があったことによる遺名と考えられる。長田の山添(やまぞえ)付近にもあります。
 城畑(しろばた)  (小字名)      宮園
 室町時代の初期(1394〜)築城された宮園城があった所武士団の屋敷があった所です。周りには堀や石垣が現存している。豊臣秀吉の九州征伐。新領地配当により廃城になるまで約200年間今村氏の居城であった(.)宮園城の本丸の堀を挟んで南東の城内あたる()
 地薗(小字名)       宮園
 宮園城の本丸や二の丸の堀を挟んで北東の城内にあたる、南大木集落の中小路です()
 寺道 (小字名)       宮園
 南大木集落の南端、寺道小路、または寺道組と呼ばれた地区です()
 射場ノ元(いばのもと)  (小字名) 南大木
 中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。宮園城を防衛する武士達が、流鏑馬(やぶさめ)と称して、馬を走らせながら、次々に的を射る競技の訓練をした所です(.)
 武士町(ぶしまち)  (小字名)       南大木
 宮園城の武士に与えられた水田です。
 門田(かどた)  )(小字名)     南大木
 宮園城跡の東側にあり、名主などの有力者が、領主から免田として認められた肥大な土地の遺名です。その中には領主の直営田で、下人に耕作させていたのもあるようです()
 八ッ家(やつえ)   (小字名)    南大木
 開拓して出来た土地に8軒が移り住んで分村した地名です。現在2軒だけ残っていて、かっての住所跡は水田化されていますが、日当たりがよく、防風林なども残存して5,6軒の住居のあったことが推定されます(.)
 蓮輪  (小字名)         南大木
 南大木の北方の田んぼにあり。この付近の堀に、今でも少しは蓮の花が見られるから、(はす)と関係あると土地の人は話してくれました(.)   
 宮園(行政区名)
 行政区の名称で宮園は現在東照寺のある宮園城跡周辺の集落です(.)
 宮園散田(みやぞのさんでん)  (通称名) 宮園
 宮園散田は大広園の東端、松田集落に近い集落で、宮園の娘村ですが現在の土地台帳には記載が見当たりません。開拓により宮園から移り住んだ村で、散田は領主直属の経営で、公事を負担しない免税土地の意で小字名としてあったのでしょう()20軒以上の集落だが行政区は離れている宮園になっていて車で集会に行くそうです(.)
 (つくだ)  (小字名)       大広園
大広園の南東部にあります。語源字典には「佃」は作り田または中世領主の直轄地とある。ここの場合は地頭の直轄地で、年毎に農民に分与して耕作させていた土地の遺名です()
 
参考文献   瀬高町の地名の話(鶴記一郎)・瀬高町誌・大江小学校百周年記念誌・筑後武士(江崎龍男著)
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