庄福BICサイト                     【禁無断転載】             福岡県みやま市山川町重冨 
 
 下掲載の古地図に描かれている薩摩街道の街はずれには両脇には杉並木(地図の緑の両ライン)が植えられ待居川(まてご)には、江戸末期には木橋が架けられていました。西南戦争の後の明治18年(1885)に熊本司令部との軍事目的で(.)幅の狭い街道に沿って道幅を拡張された国道が建設された際に(.)待居川橋の辺りは「く」の字に曲がっていた為に(.)東側に直線に伸ばした道に造られ橋が架けられた(.)平安末期に扇のような形をした、ここ要川の河川敷で(.)「最後の源平合戦が始まる前に矢合わせ作法で両陣から鏑矢(かぶらや)が空高く()られた」との由来により、「射的橋(しゃてきはし)」と命名された。迂回で取り残された待居川橋の街道筋は狭い杉並木街道が残されてています(.)明治9年(1876)小倉・三潴(みずま)県が福岡県に吸収合併された。この時の町村合併制度で小萩村と三峰村が合併して重冨村(しげとみむら)が誕生しました。古地図は江戸時代の姿を残す貴重な当時の測量地図で三潴県(みずま)から山門郡役所に移管されたものです(.)明治18年(1885)に原田小学校として当時の甲田村(.)現在地に近い場所にあったという)に創建された。以来、北関尋常(きたのせきじんじょう)小学校・萬里小路(まてのこうじ)尋常小学校・第三山川尋常小学校・甲田(こうだ)尋常小学校・山川南部尋常小学校(.)山川南部国民学校と時代の流れと共に校名を変えつつも、 その伝統を引継いで来ました(.)昭和21年に山川南部小学校と現在の呼び名となりました(.)この間に5千数百人の卒業生を送りだしました(.)
昭和60年(1985)に創立百周年を迎え(.)校庭に記念碑が建立され、百周年記念誌も発行された(.)写真左は山川中学校の南部校舎とあったが南部小学校かもしれない。写真右は昭和28年のは昭和30年代のなつかしい小学校の遠景である。この頃から重機による山の開墾が始まり段々畑にみかん栽培が盛んとなる。遠くの煙突は福岡県陸産缶詰K・K山川工場で、地元特産のみかんや(たけのこ)の缶詰製造していました(.)
        【みかん缶詰】
 日本のみかん缶詰は昭和3年(1928)にイギリスなどに17函を見本として出荷したものが実り翌年には、140函をイギリスに輸出したのが始まりです(.)昭和8年頃には、薬品による剥皮法(はくひほう)と低温殺菌法が開発され、回転式連続殺菌幾の導入となり製造が急速に伸びた(.)昭和11年では全国で92万函を製造、うち78万函が輸出され外貨を稼いだ。戦時中は農林省の指示で県内の業者は合同して昭和17年に福岡県陸産缶詰Kkを設立し本社を白木(しらき)工場(立花町)に置きました。しかし戦況の悪化に伴い資材、労力ともに不足し軍納品を細々と製造する程度で操業不能の状態であった(.)戦後の昭和23年には合同していた、丸光缶詰(兼松)、不知火缶詰(のとの大東缶詰)、野中缶詰、中尾缶詰などに分離され独立しました。その後、みかん缶詰の製造意欲が強まり(.)昭和26年に福岡県陸産缶詰K・K山川工場が製造を始めたのを皮切りに、翌年に丸光缶詰と不知火缶詰が製造を開始しました。昭和35年には製造は順調に伸び、福岡県缶詰共同組合が組織され八女市に事務所が置かれた(.)昭和40年代になると、みかんの生産が特に九州では急増し、生産過剰のおそれの為にみかん缶詰の輸出が振興(しんこう)され、福岡県の21工場で48万4千函の輸出実績を挙げ、主にイギリス、西ドイツにに出荷された(.)昭和47年の変動為替に移行され1ドル360円が、しだいに円高となり新興国スペインや中国に価格面での競争に差を付けられ(.)海外市場から撤退を余儀なくされ、遂に昭和61年には組織的なみかん缶詰の輸出が役目を終えた(.)
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   大杉の並木      北原
  古地図に待居川から小萩の物見塚付近まで薩摩街道の杉の並木を緑のラインで表示されている。大正時代まで点々と大杉が残っていたと言われ、現在は国道と交わる手前付近に数本が残っている(.)樹齢300年以上にもなるだろう。この街道筋に杉の並木を造った理由は、敵の軍勢が、柳川領分に攻め込んだ時(.)この並木を切り倒して、交通運搬の妨害をなすの目的であったと伝わる(.)
  
 杉並木の旧薩摩街道 
    【小萩村】
 
 小萩村の天満宮のある小字物見塚は小高地で要川(かなめがわ)最後の決戦の時に平家軍の物見の指揮所跡の伝承の地(.)ここからは要川を眼下に遠く野町・飯江方面を一望のもとに見渡すことができる絶好の物見の場所である。この小高地の頂上には山川で最も古い文献に出ている長久3年(1042)建立の天満宮がある(.)北端にある小字北原は待居川と飯江川が交わる要川で、寿永4年3月壇ノ浦で滅んだ平家の残党はここ山川の地へ落ち延び、土豪僧徒(どごうそうと)の援助を得て、ここ要川付近で最後の決戦を試みたが、ついに利あらず,全滅の憂き目にあい、少数の生き残りは近郷や熊本方面へに落ちのびたとも言われる(.)西行法師が要川の古戦場を訪れ鎮魂の歌を詠んだ[敵味方供養]には 「小萩より ゆすり出でたる 要川 扇の高さ 波やたつらん」 平家(ぼう)氏の辞世の歌には「小萩より湯摺り出てたる要川扇の高さ血波立つらむ」(えい)じている。
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鳥居   天満宮 天満宮全景  物見塚下の道路脇の地蔵堂

 下記の古地図の小萩の貝称から飯江川の対岸、高田町・亀谷地区の谷川(たてご)や河原の湧水が傷や皮膚の病に特効がある噂の湯摺(ゆすり)や平家の落人村の伝承のある(でえら)に渡るのに川面に石飛が置かれた石塊の記入があります(.)石飛伝いに渡るのは昭和40年代まで続き、人々の唯一の交通路でした。余りに不便である為に谷川(たにご)の有志の方々が近隣に呼びかけ、募金をして、巾のせまい簡易な橋を架け、石飛びは撤去されました(.)平成4年3月河川災害復旧助成工事に伴い、堤防のコンクリ−ト壁化により欄干のある1m幅の鉄筋コンクリ−ト橋に改修され、少し上流の小さな森にある、若宮(わかみや)さんから名をとり橋の名を「若宮橋」と名付けられた。上流の小字の北川には水車小屋がありました(.)
     【三峰村】
 戦国期には国人田尻氏の勢力圏であったと見られ、天文19年(1550)の「田尻親種竹井原合戦手負注文」(田尻家文書)には当町真弓・三峰あたりの地侍層と思われる真弓助八郎三峰小四郎らの名があり、おそらく田尻氏の被官と思われる(.)江戸期では街道筋には旅人の休憩する茶屋がありました(.)
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 三峰の集落には道路角と公民館に地蔵堂が2か所あり、公民館のお堂内には3体の地蔵さんの右側の社に火災除けの「屋須多(やすた)神社」を祀ってある。公民館正面の「やぼ神さん」は「くど」(釜戸)や生活用品を捨てる前に世話になったことに感謝して清めてお参りする神様という。昔から道具を大切にした習慣から生まれた信仰であろう(.)
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地蔵堂   三峰公民館 地蔵堂と屋須多さん  やぼ神さん
 
    【高良神社と山神社】
 山神社の創建は山に(まつ)わる4つの神様を祀る宮である(.)創建は不詳だが三峰の産土神として古くから信仰されたお宮です。南方面にある高良神社は明治24年(1891)の創建で、例祭は10月9日子供相撲の奉納がある(.)
楼門 山神社  神殿の4社の神様  忠臣蔵の天井絵
 
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