庄福BICサイト H24・10・10製作 福岡県みやま市山川町清水 |
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清水集落は、洪積期に形成された扇状地の台地,の上に広がる「みかんの産地」山川町の北斜面に位置し、山間部には古代ロマンを潜めた古墳群があります。山裾には清水集落が広がり、さらに北西に本吉から続く古代に条理制が施行された水田が広がり、古地図でも確認できます。東端の東清水春日社の裏脇には豊臣秀吉が薩摩の島津征伐の為に通った太閤道(九折〜虎坂〜面の上〜赤坂野町)が、藩政時代では薩摩や肥後の大名が参勤交代に利用した薩摩街道(西清水(旧南広田村)〜面の坂〜野町〜北関)が通っていました。清水村は明治9年に南広田村と在力村が合併して誕生したものです。明治3年の資料には南広田(耕作地49町)在力村(24,2町)の資料が残っています。当時、天満宮が南広田の産土神、春日神社が在力村の産土神とみられ、現在の清水は東清水(旧在力村)と西清水(旧南広田)の区割りがある。筑後平野の南端に位置した清水地区は、蒲地山→河原内→清水→宮園→海津に流れる大根川の流域にあたり、地下水(伏流水)が湧き出す堀が点在していました。軒先の井戸や小さな堀からも湧き水(夏は冷たく冬は暖かい)が、こんこんと出ていました。このことが清水の土地名の由来となったでしょう。明治22年3月には河原内村・清水村・大広園村・松田村を合わせて緑村となる。明治40年1月1日の大合併で緑村の河原内村と清水村のみが山川村に、緑村のうち松田村と大広園村は瀬高町に編入されました。
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明治15年頃の測量地図 |
【在力村と面の坂】 |
古代の清水集落は、有明海の海岸線が深く入り込んだ海岸であったろう。ここに住んでいた古代人は、樹木に覆われた山川町の台地を「面」と呼んでいたであろう。清水から竹林が覆いる切通しの坂道がある。今でも地元では台地に上がる坂道の麓付近を「面の口」、長い坂道を「面の坂」坂の頂上を「面の上」と呼ぶ。坂の途中にはクスワン塚古墳、面の上古墳、などがあり、東側には河原内の九折大塚古墳が存在している。中国後漢朝について范曄(398年 〜 445年)が著した歴史書『後漢書』東夷伝に「安帝の時代である永初元年(紀元107年)、倭の国王帥升等、生口(奴隷の意)百六十人を献上し、安帝に謁見(目上の人にお目にかかる)をお願いした。桓帝、霊帝の時代(146〜189年)の間、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も王がいなかった。」とある。古代遺跡の多い現在の河原内・清水・尾野地区一帯は邪馬台国成立以前の「倭の面上国」の所在地ではと、郷土史家の村山健治氏らは推理している。面上国とは邪馬台国の卑弥呼の時代より130年程さかのぼる時代に存在した国である。時代は下り、慶長5年(1600)9月、東軍の徳川勢と西軍の豊臣方は雌雄を決せんと関ヶ原で戦ったが東軍の勝利となり世は豊臣から徳川の世と変わった。敗れた西軍(豊臣軍)に味方した立花宗茂は柳川城を明け渡し、加藤清正の一時預かりにの身となり高瀬で蟄居し、正室の闇千代姫は母と肥後の赤腹村に移り住んだ。柳川城には関ヶ原の戦いで石田三成を生捕った功績で筑後国の藩主となった田中吉政が城に入った。不自由な生活を過ごす闇千代姫が住む肥後に松延村の樺島庄屋の嫡男樺島彦左衛門と本郷村の壇庄屋の嫡男壇七郎兵衛は旧主を慕い危険を犯して幾度も米や金品を仕送っていたが、ついに国境で警備役人に捕えられてしまった。そして「糧米を国外へ持出した罪」で面の坂刑場で樺島彦左衛門と壇七郎兵衛は磔の刑に処された。処刑された平地の「面の坂刑場跡」はその後「ハタモン場」と呼ばれるようになる。これはハタモノ即ち磔が訛った言葉である。大庄屋樺島式部もその刑場から北へ坂を下った、在力村からの坂と面の坂と合流した狭い平地で斬首された。後に、この坂は「首切り坂」と呼ばれる。本郷村の庄屋・壇大炊介も矢部川一本松の川原で同じく処刑されたが、その後、立花宗茂が再び柳川城主になると届けた恩義と忠誠心の褒美として元和7年(1621)に檀家は本郷組大庄屋職を樺島家は楠田組大庄屋職の永代世襲を賜った。 (木村精二著・田中吉政と「面の坂」の刑」参照)
寛文5年(1665)蜷藩主3代立花鑑虎の時、九州の大名の参勤道路となりました。古老の話しでは参勤交代時に、病死した武人がこの近くに埋葬されているとの事で無縁墓地も多くて寂しい所である。西清水出身の「小路」さんからの故郷の思い出のメールには「私は西清水の家から山川中学校(尾野・原町)までを自転車で、毎日、昼間でも不気味な坂を上り下りしていました。周囲は竹やぶに覆われていて部活で遅くなった日などは周囲は真っ暗闇でさすがに怖かった。子供の頃、面の坂、虎坂の周辺で「肝試し」をするのが夏の夜の恒例行事(子供らで勝手に)でした。」とある。
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竹やぶに覆われた面の坂 |
首切坂入口(東清水) |
首切り坂と面の坂が合流する付近 |
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春日社 東清水 |
応永34年(1396)11月20日の創建と言われます。境内に「天明二壬寅年」(1782)と刻まれた手洗い鉢がある。河原内の春日大明神と同じく御祭神は大日霊尊・天児屋根尊・経津主神。旧柳川藩志には,財力村の春日神社、祭神藤原鎌足。例祭11月20日、社地2反7畝15歩、村誌に社地東西9間、南北40間、面積360坪。とある。
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【虎御前の墓】 (伝承話し) |
鎌倉時代の曽我物語では伊豆地方のにおける領地争いで,伊東祐親(曽我兄弟の祖父)と工藤祐経の間にトラブルが発生し,そのため祐親の息子である河津祐泰が殺された。残された祐泰の妻は幼い2人の息子を連れて曽我氏と再婚した。その息子の兄は十郎、弟は五郎といったが成長するに従い実父の仇を討たんと工藤祐経を伺っていたが、 建久4年(1193)、源頼朝が富士の裾野で狩りを催したときに, 兄弟は工藤祐経の陣幕を突き止め、夜の風雨を突いて見事父の仇を討った。兄の十郎はその場で新田忠常に切り殺され、弟の五郎も生け捕りになった後、頼朝に直々に取り調べられて処刑される。兄弟が死んだ後、十郎の恋人、虎御前、19歳は曽我の母のもとを訪ね兄弟を弔い出家する。兄弟の霊を弔いながら諸国を回り、途中筑後の国まで来てしばらく女山に身を寄せていたが、同じ所に永く逗留もできず再び意を決して行脚に旅立ち肥後に向かおうとして通りかかった在力村(東清水)の坂道にさしかかったとき疲れから倒れ、それを知った村人が駆けつけたが、すでに息を引き取ったあとであった。その後はこの虎御前の死を悼み、倒れた坂道の脇に葬り、供養したとある。大きな案内板のある虎御前の墓とは明和2年(1765)と明和9年(1772)の墓石の後ろに建っている「天文元年」(1532)と刻まれた石塔の台座で、以前は台座上に地蔵尊があったが道路拡張工事の際に誤って道路下に埋められたという。曽我兄弟が父の仇を討ったのは建久4年(1193)で300年程の隔たりのある室町時代の墓であるので虎御前とは結びつかない。鎌倉・室町時代、こうした怨霊鎮圧の話を語りながら農村を回る尼僧姿で諸国を遊行して歩いた一種の女旅芸人「虎女」の”曽我語り”の唱導により全国に伝播し、御霊信仰と結びつき、曾我兄弟の供養墓や百堂・虎石などを建てられとも言われる。この地でも同じく地名までも虎ノ尾があり、坂の名称も虎坂と呼ばれている。
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九州の虎御前伝承
大分 |
小野鶴 |
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西光寺 |
虎御前石碑 |
虎御前 |
曾我兄弟供養のため,虎御前は観音像を背負い西光寺に落ちてきた。虎御前は,ここで没した。 |
大分 |
小野鶴 |
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西光寺 |
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虎御前 |
虎御前は,十郎を懐かしむ歌を詠んだ。岩間から綺麗な水が出て池になったため,小歌が池と名づけられた。 |
大分 |
北海部郡 |
佐賀関町 |
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虎御前石 |
虎御前 |
曽我十郎五郎の菩提を弔うため諸国を廻る虎御前が,この地を訪れ腰掛けた岩を「虎御前石」と呼んでいる。 |
大分 |
北海部郡 |
佐賀関町 |
志生木ケ浜 |
虎御前石 |
虎御前 |
曽我十郎五郎の菩提を弔うため諸国を廻る虎御前が,この地を訪れ,足跡を残した白石を「虎御前石」と呼んでいる。 |
大分 |
北海部郡 |
佐賀関町 |
虎御前山 |
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虎御前 |
虎御前にちなむ供養塔が建っている。 |
大分 |
直入郡 |
荻町 |
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虎御前の墓 |
虎御前 |
虎御前の墓がある。 |
大分 |
玖珠郡 |
玖珠町 |
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虎御前の墓 |
虎御前 |
虎は,大石で死んだ。墓がある。 |
大分 |
下毛郡 |
本耶麻渓町 |
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虎御前の墓 |
虎御前 |
虎御前の墓にさわると雨が降る。 |
大分 |
下毛郡 |
山国町 |
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虎御前の碑 |
虎御前 |
虎御前の碑がたっている。 |
大分 |
東国東郡 |
安岐町 |
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虎御前の碑 |
虎御前 |
虎御前の碑がたっている。 |
大分 |
大分郡 |
庄内町 |
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虎御前の墓 |
虎御前 |
虎御前の墓がある。 |
大分 |
速見郡 |
野田 |
七曲 |
虎御前塔 |
虎御前 |
虎御前の塔が立っている。 |
大分 |
別府市 |
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立石城 |
虎御前 |
虎御前は,善光寺に詣でた後に豊後に来た。大友能直は虎を迎え入れ,立石城に泊まらせた。虎は,ここを足場として各地を廻った。 |
大分 |
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天瀬町 |
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尼ケ瀬 |
虎御前 |
虎御前は天瀬町に住んで一生を終えた。尼が住んでいたため,「尼ケ瀬」と呼ばれていたが,後の世に「天ケ瀬」に変化した。 |
大分 |
別府市 |
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実相寺山 |
虎御前の碑 |
虎御前 |
実相寺山に,虎御前を偲ぶ碑が立てられている。 |
大分 |
別府市 |
北金輪 |
天神社 |
虎御前の松 |
虎御前 |
北金輪の天神社境内に虎御前の松があった。嘉永3年の暴雨風雨で倒れ,神殿を押しつぶした。この松は,立石城を拠点に諸国を巡り歩いたときに植えていったものである。 |
大分 |
別府市 |
扇山 |
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虎御前の松 |
虎御前 |
虎御前は,立石城を拠点に諸国を巡り歩いた。扇山の麓に松を植えたため,「虎の松」と呼ばれている。 |
大分 |
別府市 |
扇山 |
天神社 |
虎御前の松 |
虎御前 |
昔,雨の降る夜,扇山の松から白い光が出て,玉となり,実相寺の松を経て,天神社の松に飛び,そこで消えた。 |
佐賀 |
小城郡 |
小城町 |
岩蔵寺 |
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虎御前 |
虎御前は,鬼王や団三郎と大経会に参詣した。虎は書写した経を,団三郎は刀を納めた。 |
佐賀 |
小城郡 |
小城町 |
岩蔵寺 |
曽我殿の腰掛石 |
虎御前 |
虎御前が参詣したとき,石の上に曽我兄弟の姿が現れ,如法経会を聴聞した。 |
佐賀 |
武雄市 |
武雄町 |
八並 |
曾我兄弟供養塔 |
虎御前 |
虎御前は,武雄が源氏ゆかりの地であると知り,当地に逗留して曾我兄弟を供養するために塔を建てた。 |
佐賀 |
多久市 |
東多久町 |
渋木 |
曾我兄弟の墓 |
虎御前 |
虎御前と少将が,曾我兄弟の墓を建てた。 |
佐賀 |
多久市 |
東多久町 |
渋木 |
虎の清水 |
虎御前 |
曾我兄弟の墓のそばに,虎が汲んだという虎の清水がある。 |
佐賀 |
多久市 |
東多久町 |
渋木 |
虎の腰掛岩 |
虎御前 |
曾我兄弟の墓のそばに,虎御前の腰掛け岩があった。 |
福岡 |
みやま市 |
瀬高町大草 |
古僧都山 |
叡興寺・五輪塔 |
虎御前 |
古僧都山にある叡興寺の観音堂の前に大小2基の五輪塔がある。これは,虎御前が,この山の麓に草庵を結び曾我兄弟の菩提を弔うために建てたものである。 |
福岡 |
みやま市 |
瀬高町女山 |
女山・梅野宅 |
鏡の池 |
虎御前 |
曽我兄弟の菩提を弔うために諸国を遍歴した虎御前が,女山(ぞやま)に庵を結んだ。そこは,観音堂になっている。前に池があり,虎御前がその池の表に姿を映していたことから「鏡の池」と呼ばれている。 |
福岡 |
みやま市 |
山川町清水 |
虎坂 |
虎御前の墓 |
虎御前 |
現在,天文元年(1532年)の石塔1基と明和9年(1772年)の墓石2基が残っている。墓石の下半分は,地蔵尊の台座を使用。これらは,虎御前の墓と伝えられる。 |
福岡 |
福岡市 |
東区 |
蒲田 |
曾我兄弟の墓 |
虎御前 |
蒲田八幡宮の前に二つの大きな石がある。これは,曽我十郎祐成と五郎時致の墓である。祈願者は,木太刀を供える。 |
福岡 |
嘉穂郡 |
筑穂町 |
阿恵 |
虎御前の墓 |
虎御前 |
豊前の国から供の者と落ちてきた虎御前は,阿恵の里で病に倒れ没した。供の者はこの地に虎御前の墓を建てて,娘の百合姫と一緒に住んだ。昔,この森には火の玉が飛び交い,木を伐ると腹痛をおこした。 |
福岡 |
朝倉郡 |
三輪町 |
当初 |
虎御前の墓 |
虎御前 |
天忍穂耳神社境内に虎御前の墓がある。 |
福岡 |
浮羽郡 |
浮羽町 |
山北 |
虎の百堂塚 |
虎御前 |
虎御前が十郎の供養のため百堂を建てた。 |
帝京平成大学情報学部文化情報学科 講師 仲井 克己氏の資料による
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「虎坂」面の坂・清水方面を望む |
虎御前の墓(うしろの石塔) |
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面の上古墳 *古墳時代前期 |
旧道(太閣道)と国道443号が交差する地点にあります。洪積期に形成された扇状地の台地上にあり、まわりには20〜30基ぐらいの古墳があったと想定される場所です。これまで三基が確認されており2号墳からは、石棺、人骨、鉄剣、鏡、釧(首や臂(ひじ)につける輪状のかざり)などが発見され、特に人骨の左手に長さ61.8cmの両刃の剣が副えられており、その柄の部分は、貴人しか持つことができない“鹿角装の剣”の特徴があり、身分の高い人の墳墓ではないかといわれています。また1号墳は四匹の獣の形を肉彫りにした、古い時代の銅鏡(直径12cm)が人骨の手の間に伏せてありました。これは“四獣鏡”と呼ばれ、よく知られている“三角縁神獣鏡”よりも古い時代のもので、船山や沖ノ島から出土した鏡と同じ貴重なものです。この古墳は副葬品などから、古墳時代の前期のもので、山門郡のなかでも古いものと考えられます。だが現在1、3号墳は消滅しており唯一、2号だけが跡を残して公園整備化された。そのほか付近には古墳の積み土が観察できる面の口古墳、蛇谷古墳、竪穴系横口式石室の裏山古墳などがある。 (山川町教育委員会資料参考)
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発掘当時の面の上1号墳
勾玉 |
四獣鏡の写真(1号墳出土) |
展示中の四獣鏡 |
勾玉、古代の装身具 |
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面の坂地蔵尊 面の上 |
面の坂古墳がある国道に面した所に板碑(文字不明)と弘法大師の石像がある。右隣の地蔵堂には地蔵3体を祀ってある。建立年代いずれも不詳。 |
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【南広田村】 |
瀬高町誌には北広田村が藩政時代に南北に別れて南広田村が誕生したとある。集落は大根川の南の在力村と隣接した、西清水地区の農家で、当時の在力村との詳細な境界線は明らかでないが、大根川の北側の田んぼに鎮座する若宮八幡を産土神とする西清水の農家とされる。お宮の北方の田んぼの中には「けんか橋」とあり、古老の話によると、その昔、の南広田と北広田の集落との間で橋付近で乾期に水争い喧嘩があった所という。 ここの田んぼも昭和54年から昭和61年まで行われた圃場整備により堀や小川・あぜ道は壊され、直線化したコンクリート製の水路や道を備えた水田となりメダカやホタルの生息環境など身近な生態系が破壊された。 |
西清水の街筋(旧薩摩街道) |
西清水出身の「小路」さんから頂いた思い出メールには 「私の子供の頃に育った西清水は大根川から面の坂を登り原町方面へ抜ける道「茶屋店前の通り」には吉田商店という店(酒、たばこ、食品・駄菓子など)があって、そこを「茶屋店」と呼んでいました。この通りが昔は薩摩街道で吉田商店は街道の旅人が休憩する「茶屋」だったんですね。北小路と南小路の境に「シンボリ」(新堀?)(深堀?)という堀が、ありました。ちょうど25メートルプールほどの石垣で出来た堀で中は2段式になっていて、深さは1段目が3mほど、中央の2段目が5m程もあり、僕らは夏、その「透明で冷たい水」のシンボリで、潜ったり泳ぐのが日課でした。おかげで小学・中学と学年で1番速かった。。(小学校のプールは浅くてつまらないので・・・おかげで小学・中学と学年で1番速かった。)堀の傍に「お地蔵さん」があり、私が清水で暮らした昭和53年(1978)までには、深い堀でしたが水難事故はありませんでし た。そのお地蔵さんの御利益でしょう。堀の脇にはポンプ小屋があり、その涌き水を汲み上げ、西側や北側に広がる水田に流し込んでいました。清水にはポンプ小屋がいくつかあり、夏場は毎日、大量の地下水が出ていましたが涸れるようなことはありませんでした。私は子供の頃、魚釣りが好きで、父と一緒に清水から歩いてその田圃の周辺にある川や堀で大きなフナを釣ったものです。」とあります。
左の白黒写真は昭和41年(1966)に大根川から面の坂に向かう西清水の道筋で撮られた写真です。デコボコ道の向こうには面の坂の竹林が見えます。写真右奥に見える看板のところがメールにあった吉田商店(茶屋店)です。当時の道は舗装されている所は少なく山川町を通る国道443号さえも車両が通るたびに土ホコリが舞いあがり息もできなく視界ゼロになる道路でした。この国道443号は日露戦争の時代に「蜷南関道路」として建設されたという。昭和44年頃に写真の道路は舗装されました。国道443号線もその頃舗装されたかと思います。(山川が町制になった頃 です)現在は清水集落の南の山裾に東の虎坂から西の国道443号までの道路が新設され、さらに清水の国道から山川町の街筋の西側を迂回した甲田までの「山川バイパス」の建設が始まっています。 |
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【大根川の民話】
その昔、土地の娘が大根を洗っていると「そこの娘さん、腹がへって困っておる。愚僧に大根一本恵んでくれまいか」と破れ笠をかぶり、ほこりまみれの衣をまとった旅の僧が頼んだが、そのみすぼらしい身なりを見て、娘は、家の中へ引きこもってしまった。旅の僧は「かわいそうな娘じゃ」と言って西の方へ去っていった。翌朝、川を見てびっくり、流れているはずの水が干しあがっています。娘がお坊さんに大根をやらなかったことを打ち明けると、村の長老が「その人は行脚中の空海(弘法大師)とおしゃる偉いお坊さんじゃ大根一本を惜しんで、困っている人を助けなかった村に、戒めを下されたのだろう」。村人たちは手分けをしてお坊さんを捜したが見つからず、少し離れたところに、きれいな水がわき出ているのを見つけた。これは空海和尚が恵んでくれた水じゃと言って、このわき水が出た地域を清水と呼び、川の名を大根川として、いつまでも旅人に優しく、そして水を大切にするように心懸けました。 (「ふるさとの昔ばなし」引用) そのときから何百年かたって、土木技術の第一人者、田尻惣助・惣馬父子が蒲池山に周囲4`にも及ぶ溜池を造ることになるそれが今に残る蒲池山の大堤です。 |
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右写真は昭和37年(1962)に撮った蒲池山の大堤を源とする木橋の架かった大根川です。普段は水の少ない「水なし川」ですが、ひとたび大雨が降れば「暴れ川」となり人々を悩ませてきました。しかし大根川は今まで多くの恵みをもたらしてくれています。
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【八幡神社】
蒲池山堤から流出する大根川にそった堤防下に鎮座するお宮は西清水(旧南広田村)の氏神さんである。写真は応仁天皇を祀る御神体で、真ん中に衣冠束帯のお方で、左右には裸体朱丹を塗った警護の士があるが、どうゆう言われか解らない。神仏習合神の八幡宮だから仏法の守護者としての仁王にかたちどったものか。仁王即ち二金剛力士は、右側の那羅延金剛にしても、左側の密跡金剛にしても共に尺余の金剛杵を持っている。眼怒りで燃えるが如く、口大きく、いびつに開いて火を吐くが如く、筋骨を怒らし、見るもの、ことごとく畏れて近づかず、と言うようである。ところが、この裸像の仁王様?は目は半眼に、武器を持つ手のあくまでも柔らかく、腰を伸ばし、足踏みは力まず、無構えのうちの八方睨みとでも言おうか、全くスキがない。日本男子の理想像というべきか。(瀬高町誌より抜粋)境内には大黒さんと恵比須さんの2つの石の祠がある。 |
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参考文献 山川町指定文化財・山川教育委員会 田中吉政と「面の坂」・木村精二著 「ふるさとの昔ばなし」−瀬高の民話と伝説 瀬高町誌
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