庄福BICサイト       【禁無断転載】    H26・9・1製作           福岡県柳川市三橋町下百町
 
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  下百丁現在は町の字を使うが昔は丁の字を使用していた。下百町の近世以前の史料は、ほとんど見あたらないが、東北部に上百町村(百町)があるのことから、瀬高に政治の中心があった平安時代に形成されたと思われる()荘園のあった頃に出来た瀬高往還は、村落の北側を東西に走り、重要な交通網であった(.)三池街道には、江戸期の元禄時代までは、柳川城下から二ッ河の川に沿って東の船場に至り、ここから南へ下百町の村落を南に抜け塩塚川の堤防の上に出て(.)そして逆井出を通って徳益の街道に出ていたようだ(.)寛永の頃(1624〜1643)下百町村は、矢島主水正の知行地で、石高三百石であった。福岡県史資料には、安政年間(1854〜1859)二百三十五石、十一町歩とある(.)明治22年(1889)に近村合併して「宮の内村」が出来(.)その役所が下百町4ッ角の阿志賀浅一さん宅の前に置かれた。明治42年6月に柳河軌道が走り始め(.)下百丁4ッ角傍の広松タバコ屋の前に停留所が出来ていた。明治43年(1910)8月に柳川地方に電灯が点き始めた(.)下百丁村は大正5年(1916)以降のことで、ほとんどの家が10燭光1灯だけで(.)電気代が約1円、電球の代金は、1個約1円(8燭光から16燭光まで)でした(.)当時の農家の人達は「電気が点くと夜中まで仕事をすることになるのでは」と心配の声があがったという。大正11年(1922)にはラジオ放送が開始された(.)その頃船場には塚本材木店があり、日田から(いかだ)で運ばれた材木が沖端川の港である明王院(宮地嶽神社の東)の所で、満潮時に道路を越して運ばれて来ていたと言う(.)そのほか、刀鍛冶の武藤信濃守久広の子孫、武藤鍛冶屋や、茶店などがあり(.)瀬高往還は乗合馬車も通り、船場は賑やかであった。村落の人々の精米製粉は、木下亥吉氏の水車(.)現在の磯島橋付近)を利用していたが、時には天びんで担ぎ(.)泊まりがけで、本郷岩神水車、清水の本吉水車まで行ったと言う。下百町の利水は蒲船津夕手にある今古賀の水取口から取り入れ、田島堰を経た水で灌漑されるが、旱魃(かんばつ)の時は今古賀・下百町・蒲船津の間で堰の開閉で水争いが度々起こっていた。下百町は柳川に近く、昭和19年(1944)頃には60戸位であったが、西鉄電車の開通で急速に発展し(.)本町と昔は田んぼであった西鉄通りに分離して商業の中心地と変貌している(.)さらに平成24年頃には有明縦貫道路建設と柳川駅東側再開発の為に、区画整理事業の為に新しい商業地や新興住宅と変化してお宮やお堂以外は新しい街に変貌していくだろう(.)
 
 
 
   神社は東部に百町と同じ、早馬神社があり、大山祇神(おおやまずみのみこと)を祀り、社紋は菊花紋で大変珍しい。村落の中心には、少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る久志神社や国土開発の功労神を祀る春日神社がある(.)久志神社は他所にはないが、春日神社は山川町清水と川原内にもあり(.)下百町と何らかの繋がりがあるのではないだろうか(.)ほかに、水天宮、薬師如来や十二薬師を祀る薬師堂、弘法大師を祀る堂宇、地蔵堂、恵比須堂がある(.)南の方には塚があったと言われるが、今は西鉄電車の車庫などがあり面影すらない(.)