庄福BICサイト 【禁無断転載】 H・254・20制作 H26・5・6更新 H30・5・16更新 福岡県みやま市瀬高町大字下庄
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清水山公園より撮影 |
【古代】 |
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昭和7年3月16日付、大阪毎日新聞福岡版や昭和13年発行の大牟田市史(本木栄著)によると、「矢部川畔に巨大な怪獣の化石、マンモス以前化石、爬虫類中の恐竜の骨」と記載されている。矢部川の中流の川岸から10m離れた所の瀬高町下庄上町、左官業の松石貞吉さんの敷地で昨年、井戸掘り中に、地下7.5mの箇所で巨大な獣類のものと推定される化石の歯や顎骨の一部が発掘された。もっとよく掘れば、胴体などの骨も現れたかもしれないという。県郷土教育資料調査委員、大牟田第5小学校訓導の本木栄氏によると歯は1本の長さが8cmもあり、円錐形の先が少し内側に曲がっているが、こんな特徴の歯は爬虫類中の或種の恐竜に似ている。研究の余地があるために九大等の鑑定を求めた。現在、発掘された場所は河川拡張の為に川渕となっている。また上庄・下庄一帯では井戸を掘ると地下から貝殻の欠片がよく出ていました。それは縄文時代では海面下か湿地帯で、晩期に海面が低下し始めたと推測されている。 元町・新町・田代・中町の旧薩摩街道筋は古き時代の自然堤防の微高地で川の水害を受け難い為に人が移り住んで稲作を始めたようです。和銅8年(715)には条理制の実施をみた。金栗・仲絶・高柳・垂見は条理制の実施をみた所で、山門郡の条理に属する。
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【奈良時代~荘園時代】 |
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瀬高庄の成立の時期は不明であるが、瀬高庄の領域は旧山門郡の三橋・柳川・大和にまたがる大庄園とみられる。瀬高庄が大治6年(1131)に上庄と下庄に分割した。のちに瀬高下庄の分は俊忠の娘・豪子が相続した。ここ迄は「古地図に見る上庄の歴史」を参照してください。瀬高下庄の鎮守社であった鷹尾神社に由来する古文書は建暦3年(1213)に宝殿の火災があり古文書は焼失しているが、その以降の平安末期から鎌倉時代の遷宮や仏神事.祭礼などの記録がある点である。その中でも鎌倉期の史料が多い。この文書で解ることは、鎌倉期の鷹尾神社の祭事・祭礼の記録や、社殿の修理・造営に掛かる費用や用途の注文、いろいろな社役の負担や番役の配分など、当時の神社の実態やこの地域の様子を生き生きと今に伝えている文書を探ってみよう。
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鷹尾神社大宮司家文書 |
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下の御庄(下庄)は平安末期にかけて、山門郡鷹尾郷の開発が進み、保元4年(1159)頃に鷹尾宮が瀬高下庄の総鎮守社となる。
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平安末期の寿永元年(1182)8月16日付(平安末期)の鷹尾神社公文所下文(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里(瀬高町河内字吉里)・稲富(三橋町江曲字稲富)・行武(瀬高町下庄字生竹)・重富・小熊丸・太郎丸(三橋町久末字太郎丸・瀬高町高柳字太郎丸・大和町鷹尾字太郎丸・同塩塚字太郎丸))・楽定(瀬高町松田字十)・弥乙丸・小太郎丸・乙丸(瀬高町上庄字乙丸・大和町塩塚字乙丸・三橋町久末字乙丸)・久富(三橋町正行久富)・武富・友吉・有富(瀬高町大江有富)・新名熊丸(三橋町棚町字熊丸)・吉富(三橋町新村字吉富)・吉武・吉成・枝光(三橋町枝光)・北鴨荘(三橋町棚町鴨角)・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名(名とは集落の意味で( )内は比定地)に鷹尾神社の饗膳酒肴の調進が課されているとから、現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯にその荘域が広がっていたと考えられる。
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寿永2年(1183)の同文書「下荘公文所下文写」によれば、下荘の鎮守社である鷹尾社の神人集団(神人とは神社に従属して社務や祭祀に奉仕する人)の中に、金栗・高柳・上庄・下庄・吉里・馬木などの村落名を苗字としている者が見られるが、彼らは瀬高荘内に名主職を持つ開発領主であり、それらの集落は彼らの屋敷村であったと思われる。代々の朝廷、および鎌倉幕府の尊崇厚く、造営は朝廷および鎌倉幕府によって行われ、その都度造営奉行が任命された。往古盛大な時は、大竹、樋口、下庄より高柳、井出の上、泰仙寺、鷹尾、皿垣まで残らず神領で樋口宮の地は鷹尾宮造営までの神霊を安置した仮宮でもあった。鷹尾宮は瀬高下庄の西部鎮守で樋口宮は東の鎮守であったろう。
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建久2年(1191)に特別行政体の鷹尾別府という役所が置かれ、この地方を治めるとともに、矢部川を上下する商船に対して課税していた。有明海も鷹尾海と称して沖合いの方まで神領とされていた。
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鷹尾文書によると11世紀後半には鷹尾郷を「筑後國下御庄鷹尾」と、鷹尾社は「高良別宮鷹尾社」と久留米の高良玉垂宮支配を受ける末社であった。
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暦応2年(1339)(南北朝初期)の「鷹尾文書」の田畠譲状によれば「一所八反三丈 まき 元行武」とあって真木は、もと行武に、入っていたらしい。行武の比定地である生竹集落は下庄新町の鎮守神、「生竹天神」周辺の栄町から中絶・真木までかなり広範囲の土地とみられる。現在の下庄は古くは「下御庄」と書かれており、今でも「しもんしょう」と発音している。これは庄園時代の呼び名の名残である。
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【南北朝時代~戦国時代】 |
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南北朝時代になると庄園は次第に武士に侵略され、室町時代には、筑後は宇都宮、大友、島津、今川、大友氏らが筑後守護職となっていくが、永享4年(1432)には菊池持朝が筑後守護職となっている。その後の応仁3年(1469)には豊後の大友 親繁が守護大名となり、その過程で筑後の荘園は殆ど大友の掌握下に置かれ、応仁・文明の乱を契機に庄園制度は崩壊した。戦国末期には柳川城の蒲池鎮並は佐賀の龍造寺隆信の謀略を受け滅び、瀬高も度重なる戦いで寺や民家は焼かれて焼野原となる。
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.【藩政時代】 |
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豊臣秀吉の九州征伐により天下統一され、柳川城には戦功のあった立花宗茂が入城する。関が原合で西軍の宗茂は敗れ、徳川時代では田中吉政が藩主となるが元和6年(1620)には柳川城主に宗茂が再びなる。
享保17年(1732)12月、下庄駅(駅とは宿場のこと)、出火、ほとんど灰になる。藩政期でも台風、大洪水、凶作は頻繁に起きた記録があり、酷い年には飢餓、餓死の記録あり。
寛保3年(1743)、下庄町で官の許しなく踊りを催したので大庄屋は遠慮を命じられ、庄屋は釘付けにした。そして町内には銀10枚の過料を出させたとある。下庄八幡神社の祭礼の踊りであろうか。藩政時代では催し事は大庄屋を通して藩への願いでが必要とされていた。 .234m)。下庄渡上り
文政5年(1822)、上庄の瀬口より火事が起こり、本町の大部分が焼け、川の対岸の下庄の中町に火が飛び込んで来て、上町、中町、田代、新町、市場(元町)入口まで焼けた。上庄の民家200戸。寺社では本長寺、青光寺、往吉宮が焼失し、下庄の民家250戸。寺社では光源寺、宝聚寺、尊寿寺、八幡宮、松尾宮が焼失している。。
下庄八幡宮の記録には「上庄で大火が起こり下庄に及び社殿、宝物類はことごとく焼失した。その2年後に氏子の手により社殿が建立された。さらに弘化3年(1846)本社殿が建立された。」とある。
天保8年(1837)、4月29日午後2時頃に風雨雷鳴らし東津留より瀬高両庄(上庄・下庄)に降りしきり、さらに松延に氷(ヒョウ)が降る。瀬高川(矢部川)付近では1尺2~3寸(37cm位)積もる。大きさは梅の実くらいのが降り、瀬高・中山・吉岡・大竹では、里芋、大豆、小豆、は、皆消えてしまい、小麦、辛子(菜種のこと)など、皆落ちる。木の葉も落ち、状態が秋冬の景色になった。3日間は氷が消えなかった。村々には辛子(菜種)の藩への上納を免じられた。
安政6年8月に筑後地方でも大悪病(コレラ)が流行、あっという間に死ぬのでトンコロリンと呼ばれた。郷土の寺でも幼児や16歳の子供の弔いを8月だけでも50人余りを行った寺の記録が多く残っている。子供のコレラによる死亡が多く、治療法はなく神仏に祈るのみであった。前年に米艦ミシピー号が清国から長崎に入港し、同号のコレラ患者が長崎に流行させて2千人余が死亡し、翌年まで及び東進して江戸にも侵入し、住民だけでも、その死者は10~26万人と言われている。この年から3年にわたり全国各地を襲った。
明治12年(1879)にも、山門郡内でコレラが流行した記録が残っている。 昭和18年、栄町の「 丸久 」 デパート」に 山門 保健所開設される 。昭和26年(1951)、上庄に山門保健所新築落成している。
下庄町は小川組(属する村は下庄町・大竹・北高柳・南高柳・東津留・北浜田・南浜田・堀切・吉里・開・長島・下小川・井手上・真木・有富・大江・泰仙寺・広安・宮園・金栗・上小川・堀池園・北海津・南海津の24ヵ村)に属ししており、貞享2年(1685)頃の大庄屋は下小川の鍋田助右衛門であったが、江戸末期の文化8年(1811)では吉沢宗右衛門、天保4年(1833)今村瀧治、嘉永2年(1849)今村修蔵、元治元年(1864)今村喜十郎と変わっている。立花家文書の郡郷によると柳川藩領小川組に属す村高は,「元禄国絵図」1,436石余,「天保郷帳」1,469石余,「旧高旧領」1,345石余明治5年(1872)の反別は98町余。
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【明治~大正時代】 |
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. 明治2年の「小川組御小物成盛掛小帳」に記載されている瀬高下庄町の商工業者数131人で、小川組総数206人のうち64%を占めている。業種別で最も目立つのは酒造業で28軒を数え、当町産業の特色となっている。このほか油・糀・蝋・飴などの業種も見られる。
明治6年(1872)下庄町に観設小学校が創立教員3名・男生徒50人・女生徒8人。明治11年(1877)下庄小学校と称し、下庄八幡神社境内に創立する。同37年に下庄尋常小学校と改称される。明治45年(1912)に現在地の栄町に新築移転している。
明治9年(1875)に田代の駅伝所跡に巡査屯所が創設される。翌10年柳川警察署瀬高分署と改称。
同年、大竹村を合併。
明治10年に西南の役が起き、明治政府は官軍用品として精米・わらじ・を筑後の村々に供出させた。瀬高には官軍の野戦病院設置され、瀬高の酒造家達も熊本の官軍に酒を献納し特需となる。
明治11年の戸数530・人口2,378人、耕宅地168町余
明治14年(1881)の大火災で田代は全焼し、談議所の一部を焼いた。のちに火除けの神様である火伏稲荷を祀る。
明治18年に旧薩摩街道の北側の田んぼ(現・栄町、恵比須町、矢部川)に旧国道(現・県道)の柳川・南関線が建設され木橋の瀬高橋が架けられた。のちに、この道沿いが商店街に移り変わり栄えるようになります。写真は当時の瀬高橋で、わら屋根の家前を馬車が通っている。二階建は足袋屋から旅館「松屋」を営んでいた中町の松尾宅である橋ぎわから斜めに道が川岸に向いて下って、藩政時代に渡ったガタガタ橋への通路が写っている。
明治24年九州鉄道、矢部川駅(現瀬高駅)が開業。明治42年には柳河軌道(柳川~瀬高)が開業され輸送手段が変化し矢部川駅周辺には駅前に「日新亭」「さかき屋」などの旅館、料亭、馬車駅ができる。同30年に駅前旅館旭屋が営業し、人力車から高等馬車の営業も開始しました。下庄の柳河軌道沿いの田畑(現在の栄町・恵比須町・矢部川)に跡取りでない商店の次男などの新規開店や従来の店を移転するところが増える。
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明治32年、中町(現・吉開蒲鉾店工場)に江崎銀行が設立されたが大正3年12月大不景気の為に倒産している。
明治34年に上瀬高町、下瀬高町が合併し瀬高町となる。
明治40年、瀬高、河沿、小川、緑、本郷を合併し瀬高町と称する。同年、下庄新町に郵便局開設(現・新町公民館東隣)同42年には柳川~矢部川駅間の柳川軌道が当初、矢部川2丁目まで敷設される。同43年に瀬高に初めて電灯が点く。同44年(1911)、下庄八幡神社の社殿が新築された。大工棟梁は八幡町の江上末次郎である。下庄尋常小学校が8月現在地へ校舎を新築移転する。
大正2年(1913)、金栗の児童は大江尋常小学校から近い下庄尋常小学校で就学するようになる下庄八幡神社の大鳥居を阿部酒造の阿部辰次郎により奉納された。同3年、金子小三郎が前田の古川鍛冶屋から独立し新町で鍛冶屋を開業した。同7年、談議所新道(栄町~八幡町)が建設され、この部分の旧三池街道が廃道し民家となる。同10年、瀬高町役場が11月14日下庄八幡神社東側に落成し正式移転する。同11年、新町の阿部酒造がラジオを購入、近所の人が自宅に聞きに大勢集まる。
大正6年(1917)には新町にあった郵便局跡に柳川銀行(福岡銀行の前身)が開設。旧建物は平成元年まで旧建物が現存していました。
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【昭和時代】 |
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昭和5年(1930)、阿部酒造の阿部弥徳の寄付により下庄尋常高等小学校の講堂が竣工する。ピアノは大坪酒造の寄付であった。8月、瀬高警察所が下庄636に新築され、上庄196から移転。
昭和6年、瀬高橋架け替え落成、鉄端2連コンクリート橋脚となる。恵比寿町に瀬高魚市場が設立される。
昭和15年、久留米ー大牟田を結ぶ産業道路(国道209号)ができる。
昭和17年、矢部川駅が瀬高町駅と改称される。下庄小学校正門脇に奉安殿(天皇の写真を祀る)が建設され、登校・下校時に敬意を表する。
昭和18年、栄町の「丸久デパート」に山門保健所開設される。同19年、矢部川に太田(瀬高)堰が完成し、新設した太田水路に水を流入し田の水資源確保する。
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昭和21年、瀬高保育園が下庄八幡神社境内青年会館を使用して開園・出資者は地元の酒造家や企業家で書家の原田観峰が園長となる。同年、大雨洪水により長田堤防決壊し商店街や下庄小学校も校舎浸水する。
昭和22年、瀬高中学校が大竹の武田平助(蝋を製造と銭湯「美泉館」経営 )が当時の金で100万円を寄付、校舎は杉材予定 が、桧材で建築され創立される。瀬高町公民館も開設。町長に壇幹一が当選する。
昭和25年、瀬高保育園現在地(恵比須町)に新築移転した。同26年、下庄八幡神社祭礼で境内で小暮サーカス興行が行われ数年恒例され、お化け屋敷の興行も行われた時もある。同27年、瀬高劇場で美空ひばりの公演があり大勢集まる。同28年、九州一円大洪水に襲われ、栄町・恵比須町・矢部川の商店は床上浸水、旧薩摩街道の微高地の住宅でも床下浸水する。全国から毛布など義援物資が送られた。同29年、当初、矢部川の水を引き入む瀬高町営プールが竣工される。
昭和30年、児童文学者与田準一により下庄小学校校歌できる。同31年、瀬高電報電話局が郵便局から分離、現在地に瀬高初の鉄筋コンクリート建て新築。同33年、富安材木の敷地に東映系の映画館「せたか東映」ができる。下庄小学校児童図書館を新築。同36年、瀬高郵便局が恵比寿町に移転新築。瀬高中学前に「忠霊塔」ができる。
昭和40年、町営水道が完成。瀬高にもボーリング場の娯楽施設もできました。昭和46年2月(1971)瀬高橋が建替え川幅拡大・堤防嵩上工事落成。
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明治12年頃の測量地図(測量当時は下庄町と大竹村が合併していた) |
山門郡の各集落に掲載しています、江戸時代からの名残りがある色分けされた測量図は明治6年から三潴県が県内を測量し始め同12年頃に完成した地図と推測されている。同9年には福岡県と合併しています。合併したのち、県と町村の中間機構として同11年に山門郡行政となり大正15年に廃止されています。山門郡(当時柳川も山門郡)の地図は柳川に設置された山門郡役所に移管されたといわれる。 この地図を元に、県道や国道の予定線が仮書きされており、明治維新後の県内の道路・鉄道・水路の基盤整備のために利用されています。この測量地図は江戸末期の街道筋や集落の形態が遺され、小字名により歴史を探索します。 |

山門郡役所発行の辞令 |
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【瀬高川(現・矢部川)の上庄と芳司(文広)の一部両岸は下庄の領分であった。 |
文広村と中山村・上庄町に挟まれた左測量地図の矢部川の河川敷は鷹尾神社に伝わる古文書「鷹尾文書」に出てくる瀬高下庄の名主が開墾したの名田が広がっていたと推測する。九大の故鏡山猛教授の研究から瀬高庄を上庄・下庄に分けた時の分け方は、矢部川を基準に分けたのではなく、おそらく名を単位として分けたのではないかとあり、文広の馬場先・潮井神や上庄の川原・干出・泉の河川の畑は下庄の名主の土地だったであろう。
【潮井神】平安末期から鎌倉時代に下庄の名主が開墾した場所とみられ、明治22年(1889)の町村制合併までは引き継いで下庄の領域になっている。それでは村境の厳しい時代に小字の潮井神の場所は誰がどんな目的で使用していたか。推測だが八幡宮に奉げる潮(川水)を汲み取ったり、神に仕える前の禊ぎの場所ではないだろうか。文広村は明治13年下妻郡から山門郡に編入され、潮井神や馬場先が文広の区割りに変更されたのは、明治末から大正時代と推測する。潮斎神社は「せんかみさん」と呼ばれ崇められてたり、「眼の神さん」と言われ眼病に悩む方も参拝されていた。
【西・東川原】上庄側の河川敷の下庄の領域西・東川原・干出・泉は明治22年に上庄に合併されています。境界の堤防は壊され川境に堤防が構築されている。現在は畑で民家が6戸余あります。
【干出】の北端から用水が引かれいるが現在も残り、明治37年に大和堰が造られ大和水路が直線で西方に建設され上庄の北部の水田に水を供給している。
【泉】は現在の山門高校の東の場所で水路の排水口は現在も上庄排水樋管の設備があります。現在の矢部川の堤防は川沿いに造られさらに川幅が拡張され高くなっています。
(上記の土地は本郷組大庄屋日記にも下庄の領地として書かれています。)
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上町(かんまち)(小字名)(行政地名) |
芳司(文広)からの道筋で藩政時代(江戸時代)には酒蔵の並ぶ酒造家で栄えた町です。明治時代は池田醸造(一角)(松尾)・大坪酒造(園乃蝶)・瀬高酒会社・田中屋酒造(都の月)・池田屋酒造(池泉)・上田酒屋の6軒の酒屋があり通り道は酒屋の従業員さんが常に行き交っていました。明治10年頃の測量地図(下図)の観音堂からの川の傍の水車は酒造米の精米用です。鉄道や自動車が普及する時代までは矢部川の船着場から酒を小舟で談議所の浜に運び、大船に積替えて長崎など各地に流通させていました。この付近は川泳ぎやお盆には精霊舟を流した場所です。昭和時代は酒造で使う水はそばの矢部川中央に水管を取付けた大きな木桶を石を詰めて沈めて、ポンプで清流を吸上げ各酒屋の水供給用の水道管が新町の菊司酒造まで伸びていました。町内には浄土宗の引接寺と日蓮宗の本浄寺があります。
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引接寺聖竜山 下庄上町 |
浄土宗善導寺派。室町時代の文明11年(1479)3月15日に僧深誉喰虎が開基。初めは遍光山と号した。瀬高念仏根源であった。寺は享保17年(1732)12月、14代住職諦誉元阿上人の時に下庄を焼き尽くした大火で寺社・寺宝、旧記ことごとく焼失した。その後、中山村に隠居されていた立花帯刀家3代の立花茂之公は子供に家督を譲り所領の中山村に移り住み道印と改号する。引接寺は道印の援助により、寛保元年(1741)に僧一誉即童を中興の祖として再建されたとみられる。また、立花茂之の弟で立花本家の養子となり柳川藩5代藩主となった立花貞俶の実母「玉泉院」が6月15日に亡くなり当寺に葬っている。道印(立花茂之)は一誉即童に深く帰依(信心する)し、次女の玉蘭も漢詩を通じて引接寺を愛し出入していた。女には珍しい漢詩の作家で始めは武宮謙叔に、ついで肥前の僧大潮元皓に詩を学んだ。茂之は宝暦4年(1754)1月23日に60歳で世を去り当寺に葬る。法名聖龍院潜與頼阿道印大居士。これにより寺の山号遍光院を茂之の院号により聖龍山と改められた。道印(立花茂之)の臨終に当たって、娘の玉蘭 が漢詩集の出版を条件に家老職の家柄の矢島家7代の矢島釆女(行崇)に嫁ぐのを条件として父親に出版を願った。漢詩集の後事を託された住職の円海上人は道印(立花茂之)の遺言により江戸の増上寺に帰り、不忍池で芙蕖館と名づけた塾を開いていた当時一流の漢詩人服部南郭に作品の添削をうけ、宝暦14年(1764)に玉蘭の漢詩集「中山詩稿」が服部南郭の序文を得て出版された。江戸の増上寺は引接寺と同じく浄土宗で往来があった。茂之の4男、5男、6男の3名は一誉即童の室に入り出家、弟子となり、その中の1人即瑞和尚は当寺16代住職となっている。茂之と正室盛亮院(安永5年(1776)丙申4月18日逝)夫妻の墓の後ろには長女の隋信院と帯刀家5代茂親の手によって寛政6年(1794年)3月18日に亡くなった次女の立花玉蘭の墓(碑貞松院殿天誉恵林妙真大姉)が建てられている。さらに亡くなって36年後の文政13年(1830)12月、引接寺第22代住職光誉上人の時、碓井、木村、原の3氏によって供養碑が建てられている。明治5年、柳川藩政時代の厳格な城下町に入る柳川城正門の「瀬高御門」が柳川城が焼失した後、競売にかけられ引接寺に移築され1階に変更して山門として残っていたが平成16年秋の台風で倒壊の為保存中で貴重な文化財である。 |

本堂と信徒会館 |

柳川5代藩主立花貞俶の実母玉泉院の墓 |

立花帯刀家3代目茂之夫妻の墓 |
倒壊前の瀬高門 |
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観音堂 下庄上町 |
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創建は不明だが、金箔の堅牢な厨子の中に輝くばかりの観音仏像が安置されている。昭和32年地元の方によって修築されているが、創設は相当古いらしい。この観音さんの御利益は水害、交通事故、病気などいろいろあり、地元の信仰は厚い。仏恩に感謝して、毎日花、線香、水がたえない。お堂は子供、老人のたまり場であった。写真は大坪酒屋の大奥様がお世話後、お参りされていた。 |
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乙姫神社 下庄上町 |
御神体は玉依姫命(たまよりひめのかみ)(神武天皇のお母さん)とカッパ像である。ここも昔は矢部川の船着場で近くの酒蔵の酒の積み出しで賑わったであろう。現在では社殿が老朽した為コンクリートの小さい祠に造り替えてある。鳥居も古いものは取りはずして横に積んである。矢部川の浜に鎮座し航海の安全と水難事故除けを祈願された神社である。上町は酒造家の大坪酒造・池田屋酒造・田中屋酒造(廃業)・明治時代までは松尾酒造・瀬高酒会社・上田酒店の酒蔵6軒が建ち並ぶ古くからの酒蔵の町であった。商売繁盛の神様エビスさんの祠が左側に祀ってある。この裏には豊漁、海上安全の神、七社宮があったが、昭和時代初期に下庄八幡神社境内に遷宮している。
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ヱビスさんと乙姫神社 |
乙姫神社 |

平成24年廃業した園乃蝶 |
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本浄寺 下庄上町 |
寺伝によれば永久年間(1113~1117)真言宗の祈祷寺寂光寺として建立、下庄八幡神社の裏にあり、うらばると通称される。また人呼んで、古卵塔ともいう。ここのは栗田関白藤原氏より出でたる石川氏の墓があり、古く藤原時代からの墓のあったことから、そのように呼ぶ。ちなみに石川氏は旧柳川城主、蒲池氏の末裔である。現在本堂横の武田氏之墓と呼ばれているのが開基日厚上人以来七代の墓である。これは、明治13年本堂建立の法勲により徳永茂兵衛氏が当時の住職日寿上人に無理に願い譲り受けたものといわれ、その中の一基は石面のお題目を中途より削り自分の墓碑としたという。日蓮宗である。
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中町(なかまち)(小字名)(行政地名) |
薩摩街道は元町~新町~田代~中町に入り吉開蒲鉾店を右(北)に曲り熊川書店(2m先)を左折した木戸門から(現在の瀬高橋の南寄り下)川に降りて瀬高の渡しに降りて、渡し舟で対岸の住吉の浜にある上庄御制場(高札場)に渡った。旧柳川藩志には「上庄御制場(札所)ヨリ下庄渡上り木戸口マデ百三拾間(234m)。下庄渡上り木戸口ヨリ芳司橋(現・文広)迄百三拾弐間(238m)」とある。下庄側の瀬高宿から上庄への瀬高の渡しは街道と結ぶ要所であった。
江戸末期頃には船出渡り、藩の船で渡守(船頭)は24石を貰っていたから船賃を払う必要はなかったとある。文政・天保(1818~1843年)の頃、粗末な橋が出来て渡り賃を取ったので「賃取橋」または「ガタガタ橋」と呼ばれた。洪水の時は、梁は橋脚から外れて岸に流され、減水すると元に返す橋であった。大名など高級武士の為には岸まで舟を並べ、つなぎ合わせた舟橋を架けていた。藩政時代(江戸時代)矢部川に沿って商業の発展した名残の街区名で、肥後(熊本)からのの参勤交代の薩摩街道筋で木戸門があり、矢部川の渡し場から上庄側の薩摩街道に結ばれていました。明治初期の測量地図の発見で舟渡しの場所が現在の瀬高橋の南側下あたりであることが推測される。東方面には下庄八幡神社の幅2m余の参道がある。明治38年、日露戦争後、矢部川を渡る渡し舟の不便さから、再び洪水で流されるのを覚悟で川面すれすれに簡単な有料の「ガタガタ橋」が造られが、3年後の明治41年、旧薩摩街道が拡幅されて、県道が瀬高駅方面に新設され、柳河軌道線路と一般通行との共用の木橋の瀬高橋が架設された。南側の加賀田仕立屋(現・加賀田電化)は店先を2m道路で削られたと言う。そして翌年6月に柳河軌道が開業している。明治32年(1899)、中町に「江崎銀行」が設立している。しかし大正3年(1914)12月、大不景気の為に倒産した。その跡地が吉開蒲鉾店となってる。明治44年に下庄八幡宮が新築される。明治時代には3軒の酒造家の酒蔵があり、商業の町として栄えました。

明治41年架設の木造瀬高橋、2階建は松屋旅館。
わら屋根の家前を馬車が通っている
橋ぎわから斜めに道が川岸向いて下っている。
2m奥に旧薩摩街道から舟渡し場への道 |

専用木像軌道橋も作られ昭和6年矢部川を渡る柳川軌道 |
ウチキリとは芋飴 |
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【熊本藩八代の殿さま松井章之の参府日記】天保12年(1841)の紹介(吉井~瀬高宿)
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吉井の町並を通り、いよいよ瀬高の町に至る。中程に瀬高川の仮橋あり、川の左右に川方役人が麻の上下を着用し平伏(額が地面や床につくほど体を平たくする)いたし居候。町中に人馬方役人で帯刀の者も平伏いたし居り、通り筋は形儀砂を敷き詰め、ひときわ念の入れようである。夕七ッ半前(午後5時前)に柳川藩の御茶屋(上庄)に着き、直ちに宿泊する。茶屋番は中村直次という。」 と書かれており、翌朝六時(6時)に出発している。(現代風に読みくずし)
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隅合酒屋と瀬高堰 |
上りの薩摩街道が突当る所に酒屋の板塀に沿って矢部川に降りる狭い石畳坂を酒屋の名をとった隅合坂があり「スメン坂」と呼ばれていた。天保7年(1836)酒造組合規定書に隅合の名が記載捺印されており、長い歴史をもつ隅合酒屋であった。隅家は鈴木とも称し、鈴木興五郎の代に、日露戦争(明治37~38年)の頃の失火にて無くなるまでは、樫の大木が遠く清水山より良く見えていたという。この火災で廃業したと思われ、この跡地を下庄新町の星隈蝋屋(後の星隈酒屋)が譲り受けたと思われる。昭和20年(1945)に建設された矢部川最後の瀬高堰が建設されると、このスメン坂を利用して降りて瀬高堰の上辺で洗濯する主婦や堰の下では、石の下に潜むうなぎを滑り止めの葉っぱで掴んで捕え、堰の上では遡上するハゼやボラの魚採りして水遊びする子供で賑わっていた。しかし灌漑用取水口で水難事故が起きたりして、昭和29年に瀬高プール完成後は遊泳禁止となった。 |
本田酒屋 |
本田酒屋は星隈酒造の北側に酒蔵、道筋には燃料のマキ倉庫、さらに北隣に屋敷があり、裏の離れには茶室と庭園があった柳川御用商人として酒造と両替商を営んでいた。文化7年(1810)、柳川藩御成役所発行の「米5升」の米札(薄茶藩札)の裏書きに「五月廿三日」「両替所下庄本田又兵衛」の名がある。本田酒屋は明治時代に酒に菌が入り腐り破産している。現在も当時を偲ばせる蔵の一部や庭園跡の広大な敷地が確認できる。 |
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【下庄八幡神社】 |
大冶6年(1131)8月上庄、下庄の両庄に分かれた時、樋口宮より分建されたという。樋口と同じく応神天皇、仲哀天皇(父)、神功皇后(母)の三柱を祭ってある。平安末期から鎌倉初期にかけて、山門郡鷹尾郷の開発が進み、保元4年(1159)頃鷹尾別宮が出来て、瀬高下庄の別符となる。文治5年(1189)には、これらの宮は高良宮(久留米)の別宮となり、同じ神格として取り扱われ、鷹尾宮は瀬高下庄の西部鎮守として祭礼神事をおこない、樋口宮は東の鎮守として、下庄八幡宮は鎮守本体がおかれて、社務政事(まつりごと)を行なっていたとある。宮のある中町を「府内」と長年の間、呼んでいた由縁である。当社の祭の日を八朔と呼ぶが旧暦の8月朔日の略で、旧暦8月1日のことである。早苗の穂が実る頃で田の神に感謝し五穀豊穣と子孫繁栄を願って八朔祭が始まったとされる。日本では明治5年12月3日に明治の改暦があり、この日を明治6年(1872)1月1日とした「太陽暦」(グレゴリオ暦)に切り替えられ旧暦に近い9月1日を八朔祭りとした。現在の社殿は明治44年に新築されている。大工棟梁は江上末次郎氏(八幡町江上寿氏の祖父)である。八幡神社入口の大鳥居は阿部酒造の先々代、阿部辰次郎さんにより大正2年奉納され当時の酒造家の繁盛ぶりが思考できる。境内に老木の樟の樹があり、神木となっている。9月1日の下庄八幡さんの八朔は上庄の祇園さんの祭りと共に、瀬高の二大祭りで、近隣の村からも沢山のお参りがあり、境内も道路も押すな押すなの人波であった。昭和30年代の八朔は境内いっぱいに木下サーカス団のテントが張られ興行された。お化け屋敷等の小屋が設けられた年は八朔提灯を持った小学生は無料だった。前の県道沿いは人や屋台で埋めつくすほどに賑っていた。さらに戦前は各町内に「八朔人形」が飾られ、踊り山笠が練歩き披露されて、境内では相撲が奉納されていた。現在では、早朝の氏子衆による矢部川にお潮水汲み(昭和17年開始)から始まり、女子小学生の浦安の舞、子供みこし、子供剣道が奉納され、夜は雅楽による祭礼が行われている。余興としてカラオケ大会も行われていた。仲絶で江戸後期から八朔祭り時に恭しく神を迎える門「ちょうぎり」が中絶部落に建てられたものが、現在は八幡神社本殿前に祭りの時に建てられている。茅輪くぐりは災難除けの神事で、「御守り札」は諸難消除・無病息災・厄除開運の御守りです。仲絶・八幡町・談議所・田代・新町・栄町・上町・中町の氏神さまである。 |
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茅輪(ちのわ)とちょうぎり(本殿前) |
浦安の舞 |
昭和35年山車巡幸に参加した子供達 |

大正14年、浦安の舞の記念写真、中央前列は外河神主 |
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昭和8年8月の武田蝋屋の参道奉納 |

書家・原田観峰が下庄八幡神社に昭和21年2月に瀬高保育園を開設。 |
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保育園運動会(八幡神社境内にて園児150人)昭和27年頃には児童数が急増した為に恵比須町に移る |
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木下サーカス |
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. 【江戸後期の八幡宮御祭禮の古文書】
寛保3年(1743)の記録では、下庄八幡宮の祭礼の踊りを藩に無届けで催したの大庄屋は遠慮を命じられ(罷免されること)、庄屋は釘付け(家の門を釘付けにして(外出を禁じ、謹慎させる)の刑罰を、町内は銀10枚の罰金を課した。藩政時代ではお宮の祭礼の催し事は大庄屋を通して藩への願いでが必要とされていました。
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安永8年(1779)から嘉永3年(1850)までの「八幡宮御祭禮御帳」の阿部家古文書の記録では、毎年、二十数名の姓を持つ氏子が順番で御祭礼の御座根元神〆塔頭役(祭礼の中心的世話役)になった人物名が書かれている。荒木祐三助(町役別当)、池田又左衛門(上町)上田又次郎(上町・糀屋)、上田興吉(上町・酒造)、上田吉助三・・(米屋)、武田吉次助(中町・油屋?)、松尾又左衛門・・(中町)、石橋源蔵(談議所・瓦屋新宅)、林貞次郎(旧・武田又三郎)、武田吉次郎(田代)、塚田六左衛門・・(田代)、鍋田善四郎(田代・安永年代頃の小川組大庄屋)田代交差点角のあった鍋田商店の先祖、小川源太郎(田代)、川原嘉平次(新町・糀屋)、川原四郎・・(新町)飯田嘉三・・(新町・町役別当)今の元町の畳屋の先祖、阿部善蔵(新町・造酒屋・地主・金融)。新町の阿部酒屋(阿部善蔵)と談議所の石橋文蔵(瓦屋・酒屋)は下庄では藩の参勤交代の費用などを賄う別格の大豪商であった。酒造の町屋が多いが、上町の田又次郎と新町の川原嘉平次は酒・醤油・味噌に使う糀屋を営んでいる。荒木祐三助と飯田嘉三・・は下庄の別当であった。各年の八幡宮祭礼の御座根元神〆塔頭役を担当した人物は、藩から姓を賜った程の大金持ちの商人や武士から転向した商人である。文政4年(1821)4月に第8代藩主立花 鑑寿が江戸で亡くなったので喪中に付き祭が中止になっている。文化9年(1812)の下庄町本座中「神御座御銀扣帳」の文化8年(1811)から嘉永3年(1850)までの文書にも阿部善蔵、石橋文蔵(本宅)、石橋源蔵(新宅)、武田吉次郎、荒木祐三助、林貞次郎、上田八三・・、川原仁助・・、上田吉助三・・(米屋)、上田又次郎(酒造?)、池田又左衛門(酒造)、上田興吉(酒造?)、林又兵衛、阿部善蔵(7代目)、らの商人が祭事に掛る36両などの金銭を奉じている。幕府の政策で一般の商人・農民たちは名字・帯刀は許されず、庄屋、名主や旧家、大商人など許された人しか名字を公に名乗れなかった。明治維新後の明治8年2月13日の「平民苗字必称義務令」で字名(姓)を名乗るようになった。この資料で下庄八幡宮の八朔祭を取仕切った下庄の有力商人や大庄屋・別当らの人物が窺える。嘉永7年(1854)1月米国使節ペリー、再び浦賀に来航し、柳川藩らは上総の海岸警備に着く。3月に日米和親条約締結。4月には京都で大火事。7月、伊賀地震。阿部善兵衛61歳の「一性之覚」によると八朔祭なし、11月には東海地震・南海地震・四国愛媛と大分の境んを震源とする豊予海峡地震が起きて瀬高でも連続して揺れる。1日、朝5つ頃地震、5日昼7つ頃大地震、夜8つ頃迄7度揺れる。7日、4つ頃中位の地震、4つ半頃また地震。8日朝また地震。
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瀬高の下庄や上庄は町組で、町奉行配下の大庄屋が支配する別当が町政を担当した。町屋が多い下庄町では造酒・精油・製蝋・瓦焼などが盛んで、薩摩街道や三池街道が通り、談議所の浜には廻船が停泊し、船を利用する旅人や物資の積み降ろしする商人。荷役人夫で賑い、周辺の道筋は旅人のための宿場町、荷役物資の売買を兼ねた市場町として発展した。立花家文書の御小物成盛掛小帳によると、文久2年(1862)の商工業者数は、造酒屋18軒・油屋(菜種油)14軒・糀屋8軒・蝋屋4軒・蝋燭屋2軒・挑灯張替業3軒・焼麸製造4軒・饅頭屋3軒・菓子屋8軒・飴おこし製造17軒・揚酒(酒小売)1軒・砥石屋1軒・丸散(錠剤薬)1・薬種(薬材料)1軒・陸問屋1軒・浜問屋3軒・柿問屋3軒・石炭小売1軒・小店19軒・水車小屋1となっている。 |
阿部家文書・本座帳・一部(柳川古文書館寄託・史料番号282)
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新町(小字名)新町行政区) 西池田(小字名)( |
寿永元年(1182)8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名に鷹尾神社の「餐膳酒肴」の調進が課されている古文書などから、下庄新町から中絶方面にかけ行武という名の集落があり、奈良時代の和銅8年(715)の班田制の実施により班給された土地のなごりであり、行武という人が開拓した土地とみられ下御庄の一集落であったと推測される。高良大社の天慶4年(941)の筑後地区の神様の登録帳の古文書天慶神名帳に「域樹(いきたけ)神」の記載があり、行武の名(集落の意味)の鎮守の神様で現在の生竹天神に該当すると考えられてている。寿永元年(1182)8月16日付の鷹尾神社公文所下文案(鷹尾神社文書/平遣4045)によれば、吉里・稲富・行武・重富・小熊丸・太郎丸・楽定・弥乙丸・小太郎丸・乙丸・久富・武富・友吉・有富・新名熊丸・吉富・吉武・吉成・枝光・北鴨荘・元吉成・小犬丸・小犬男丸・犬男丸の22名(集落)に「餐膳酒肴」の調進が課されていることから、下庄の荘園は現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯に広がっていたと考えられ行武の集落も鷹尾神社の氏子であることがわかる。南北朝初期の暦応2年(1339)の「鷹尾文書」の田畠譲状によれば「一所八反三丈 まき 元行武」とあって真木は、もと行武に、入っていたらしい。行武は下庄新町の鎮守神、「生竹天神」周辺の栄町から真木までかなり広範囲の土地であったのが伺え知れる。イキタケの地名に行武から、良い字を付けよの改名政策に応じて生竹の漢字が宛がわれたとも思考される。昭和40年頃までは下庄新町の生竹天神は栄町の古賀活版所(現・ルノワルユースホステル)の裏にあり柳川軌道が出来る前は一帯田んぼであった。現在栄町の筑邦銀行の一帯に小字名として残っている。 |

生竹天神 |

新町・旧薩摩街道 |

商家「塩屋」の3円60銭の受取書(沖家文書) |
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江戸時代に酒造場などの商人が移り住み新町の起名があったと考えられる。現在の新町(行政区名)の西方に小字名の新町・東方に西池田・北方に生竹がある。阿部家古文書から江戸期の宝暦元年(1751)には阿部酒造(甘露)は金栗村から下庄新町の東端に移住し酒造りをすでに営んでいる。新町は薩摩街道の道筋であり、町屋にはロウ製造、醤油製造、傘製造、米屋、石灰(肥料)桶屋、小物屋、塩物屋などがあったとみられる。塩物屋は談義所の浜から荷揚げした天草や島原から保存のために塩漬けした魚を、行商人などに売りさばいており、屋号を「塩屋」(庄村源太郎)と言った店があり、傘製造は2軒あったと思われる。道路に面した昔の商家はいずれも間口が狭く取られているのが特徴です。これは、当時の家屋に対する地租が間口の長さで決められたため、間口を狭く取って奥に長い敷地となっています。家の中には土間の通路が奥まであり、子供たちは「通らしてはいよ~」と言って通り抜けしていました。まだ今でも2・3軒は残っています。西端の菊久司酒造から南に三池街道が南に向って三池(大牟田)方面に延びる分伎点があり、伊能忠敬の三池街道測量の〇高の基点でもある。八幡町までは「犬ごろ土居」の上辺を三池街道が延びて交通の要所であった。大正7年に街道の西側に並行して県道の旧役場まで談議所新道が建設され、旧道は不用となり宅地に転用されている。また阿部酒造から北へ延びて樋口八幡宮に続く「吉岡土居」の道は、東部山間部からの物流の行き来があり通行量の通行量の多い「新町村」であった。明治時代には菊久司・菊久栄・甘露の銘柄の酒蔵3軒があった。明治40年(1907)に下庄新町に郵便局開設(現・新町公民館東隣・ニューリエ美容室敷地)。大正6年(1917)には引越した郵便局跡に柳川銀行(瀬高支店では、福岡銀行の前身)が開設。旧建物は平成元年まで旧建物が現存していました。
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伊能忠敬測量基点の案内石碑 |
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瀬高の旧薩摩街道の道筋には、一部がお宮に移設されているが、各町内ごと二か所くらいの恵比須祠があり、下庄新町には東の恵比須さん(明治年代建立)と西の恵比須さんが鎮座しています。戦後の子供の多い時代には東と西で分かれ、小学生達は各家庭を回り賽銭を集め、その資金で小豆を買い、ある家で豆を炒ってもらい、新聞紙で小袋を作り豆を入れて、恵比須碑の前で参拝した方に差し上げていました。「エベッサンにめーてはいよ~」と小学生の掛け声で町内は賑やかになりました。子供にとって一番楽しいのは、上級生から分け前を多くした賽銭の分配した小使い銭が頂けることでした。
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黒田麩屋前の恵比須さん |
右写真の黒田麩屋前の恵比須さんは、ペルーが浦賀に黒船で来航した嘉永6年(1856)に建立されたもので、左側面に「嘉永六癸丑十一月吉日」と印刻されている。右の像は左脇に鯛を抱え、右手には釣り竿を持っていたと推測される。左の像は男女の性別は判別しにくいが、筑後地方には夫婦恵比須さんが多く見られるので、女性と推測するが、両手で魚入れと思われる篭を膝の上に持っている。昔は初売り、縁日、歳末の大売り出し日には恵比須祠の前に特売品を並べで人だかりをつくっていた史料もあり、貴重な祠である。 |

恵比須像 |
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(三池街道)
三池街道は熊本の植木の薩摩街道から分伎し、三池陣屋(三池藩)のある三池(大牟田市東部)を通り、高田町の渡瀬から今福・岩津・長島・井出の上・中絶・土居(八幡町)を通り、新町と田代の境(川原酒造の西側)で薩摩街道に合流していた。ここが三池街道の終始点で文化9年(1812)2月に伊能忠敬が三池街道測量の〇高の基点としました。現在、新町公民館前に「伊能忠敬測量基点の地」として石碑が設置させていますが、本当の場所は向えの菊久司(川原)の自宅前を通り入口西角(隣は田代側)で薩摩街道との合流地点であるという。明治初期の測量地図でも田代側を犬ゴロ土居の上を三池街道が通っている。慶長5年(1600)に加藤清正は三池と薩摩街道を上り、上庄の北、久末にて柳川城主、立花宗茂と会見し城の明渡を説得させ、家臣と宗茂・闇千代夫妻を一時、肥後に住まわせる為に通った歴史ある街道です。
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大正7年に旧役場付近まで談議所新道が建設され犬ゴロ土居は撤去されている |
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【阿部家による酒の製造】
阿部酒造(甘露)の先祖は宝暦元年(1751)には金栗村から下庄新町の東端に移住し酒造りをすでに営んでおり瀬高での酒造業では先駆的な存在であった。屋号の亀屋は下庄新町で酒造を始める以前は金栗で酒や味噌・米などの容器のの製造を、あるいは多くの甕(かめ)による酒造をしていた時のなごりと言われる。かめ屋発祥の金栗部落には先祖の供養塔や天正元年(1573)に没した阿部先祖・源之十の墓があり、近年まで代々番頭が管理・お参りしていた。「阿部性永代永家図帳」によると初代は享保8年(1723)に亡くなった太郎兵衛(? ~1723)で、2代目は阿部治左衛門(利左ヱ門)(1760~1849)、3代目善兵衛亀永(1703~1782)、4代目利平次亀久(1732~1782)、5代目善蔵(利平次)(1755~1817)で文化14年(1817)没している。6代目利左衛門(治左衛門)(1777~1809)、7代目善蔵(儀三郎)(1787~1819)であるが6代目と7代目は兄弟で、いずれも30代前半に亡くなり、6代と7代の妹の寿恵(1801~1852)を妻にしていた善兵衛亀延(1794~)が養子に入り文政初年(1818~1820頃)に8代目となり、その代に激動の時代を乗り切り明治維新を迎えている。他の文書から9代目多賀、10代目卯三郎(亀信)(1843~ )、11代目が辰次郎、12代目弥徳、13代目正七郎、14代目辰弥15代善徳と続いている。阿部家の菩提寺である八幡町の安養寺が文政5年(1822)に廃寺状態で借庵となった為であろうか、天保12年(1841)に吉井の満福寺に移っている。弘化3年(1846)には阿部善兵衛は世話人代表として安養寺の御堂再建の寄付金を広範囲(現在のみやま市領域)の寺や住民から集めている。宝暦元年(1751)からの大福帳・造酒帳・金銀汯控帳などが、杉の木箱2杯に保存されており江戸中・末期の瀬高の酒屋の様子を知るのに重要な古文書である。(柳川の県古文書館所蔵中)15代も続いた旧家である阿部酒屋の古い帳面を見ると「大印酒」となっているので当時、「甘露」の銘柄も出来ていなかったと」見られる。本格的に屋号を亀屋と称して地主的土地収集を行った時期は明らかでないが、5代目善蔵の頃に積極的な金融・土地収集の古文書から確認される。また酒造と一緒に木蝋や地元産物も談議所の浜から船積みして出していたことが帳面で確認できる。弘化年間(1844~1847)の古文書には廻船「亀吉丸」を所有して交易をしていたことが解る。阿部家は石橋家と同様に藩の要請による不時の金の調達に応えている。文化4年(1804)発行の五匁と五分の2種類の柳川藩札の裏書人に阿部善蔵がある。文政5年(1822)2月17日、上庄瀬口の大工新太郎の家より出火した火事は本町、大小路、土居町、横町に燃え移る大火事となり、下庄に飛び火して上町、中町、田代、談議所、新町、市場を燃え尽くした。阿部家では酒残らず燃え、米蔵も皆焼失した。残った本家蔵7か所を改造し急場を凌ぐ。住まいは3間半、9間の蔵に3月より5月半ばまで仮住まいする。天保4年(1833)10月8日の晩、市場の塩屋嘉吉の家が火元の火事が発生。火事見舞いに蔵米銀を差しあげる。嘉永元年(1848)10月に1万両の大金を仲間たち(本方挌御用聞の石橋・星隈・久冨・牛島とみられる)と藩に上納した事が、阿部家文書「一性之覚え」に記載されている。この頃の柳川藩は財政貧困の状況であった。柳川藩に莫大な上納金を払い、明治維新になり、損害を受けたと想像する。しかし阿部家は膨大な田んぼや宅地を所有しており、その財力で切り抜けたであろう。酒の仕込水は清水山の伏流水の湧く、堤集落(山門)の橋本宅の井戸水を代々、使用していた。長い歴史ある阿部酒屋は多くの農地や宅地を持つ大地主で、終戦後の農地解放前までは米の収穫時期には小作人により酒米を積んだ車力が精米倉前に行列をなして納入され,この小作米が酒の原料となっていた。大富豪の阿部家は下庄八幡神社入口の大鳥居と敷地を阿部酒造の11代目阿部辰次郎さんにより大正2年奉納されている。昭和5年5月には12代目阿部弥徳さんが下庄小学校の講堂を寄贈された。当時の阿部酒屋の繁盛ぶりが思考できる。筋向えの元町の松尾宮の敷地も寄進されている。
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大福帳・造酒帳・
金銀汯控帳などの古文書 |

昭和時代、出荷を待つ甘露の酒瓶
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旧薩摩街道

阿部酒屋(かめ屋)発祥の地・金栗の供養塔 |
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尊寿寺日正山 新町 |
日蓮宗本国寺派、1082年(永保2)金伝寺とよび真言宗であった。1473年興善寺と改称し、法華宗に改めた。後年日正山本浄寺と称した。1595年(文禄4)大友義統(よしむね)の夫人、大友菊子(吉弘鑑理娘、洗礼名・ジュスタ)は法華教の信者だったので?、法華寺のこの寺に葬り法名尊寿院と称した。でも菊子ジュスタはキリシタンであり、なぜ法華経の寺に立花宗茂が建仁寺の墓から分骨して立派な墓を建てたか疑問が残る。菊子は立花宗茂の叔母である。1751~1763年に尊寿寺と改称、また一説には尊寿院の霊を納めた時からであると。加藤清正が朝鮮征伐の時、朝鮮王子を生捕りした時、その臣塩見家久の功績に報いる為王子の円鏡1面、扇子1本、錦褥の切れ端を与えた。八幡神社の裏の本浄寺は元の寺でその後新町に立花藩の寄進で立花宗茂の叔母、大友菊子の霊を納める尊寿寺と改め建立。1822年(文政5)下庄大火にて全焼、1858年(安政5)本堂妙見堂、山門などを再建。平成11年山門、清正公公堂宝塔尊などを再建する。本堂右建物玄関には立花藩より賜った御籠が展示してある。 |

本堂 |

大友菊子の分骨の墓 |
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田代(たしろ)(小字名)(行政地名) |
元禄9年(1696)に薩摩街道が本吉~小田のコースから北広田~吉井~前田~飛岡~下庄~上庄の西回りの薩摩街道筋となる。大竹村飛岡とは現在の元町で瀬高下庄宿の東の出入口を「飛岡出口」と称し幕末まで、木戸門があり、商業の繁栄した所で東市場と中市場(片平町とも言った)と西市場に分かれていました。当時の大坂商人の旅日記によると上りの旅人は下庄に、下りの旅人は上庄に宿泊していたようです。元町の氏神さまである酒の神「松尾宮」を過ぎると新町となり、江戸中期に金栗から移り創業した阿部酒造の酒蔵があり、つぎの田代には駅伝所があり馬継所、人馬割付や公用飛脚の業務を行う「問屋」が設置され、馬継所には定馬として27疋が配備され小川組の大庄屋が取仕切っていた。文政12年(1829)に田代にて火事。元治元年(1864)に小川組大庄屋今村嘉十郎を通じて、役所に提出した「瀬高下庄駅人足継立書上帳」(柳川古文書館蔵)には、馬継を利用した氏名と受け取った金額を記載され、当時の馬散使は直次で下庄町の別当は橋本仁一郎であった。利用した武士は薩摩藩の武士が多く、肥後藩、宇土藩、久留米藩、遠くは相良藩(現・静岡)の武士や三池や柳川の僧侶が次の羽犬塚宿や柳川城下まで利用している。薩摩・肥後・島原から船で来て談議所の浜で下船した旅人も、ここで荷継ぎをしたり休息しました。宿は武士と平民は別の宿に宿泊し、大名や高級武士は矢部川を渡り上庄の公営屋敷の御茶屋に宿泊している。。街道は中町の現在の星隈酒屋を右に曲った桝形を進み現在の国道に出て歩道部を左折し(現・瀬高橋脇)木戸門を通り下庄の浜に降りて渡し舟で対岸の住吉の浜(上庄)にある上庄御制場(高札場)に渡った。(古地図参照)旧柳川藩志の史料には「上庄御制場(札所)ヨリ下庄渡上り木戸口マデ百三拾間(238m)」とあり川渡しの距離を記している。渡船は明治維新後も利用され明治13年(1880)、上庄~下庄間の人4厘・馬8厘・人力車9厘,渡橋は人1厘・馬4厘・人力車3厘であった。 |
明治9年(1876)には宿駅廃止され、田代の駅伝所には巡査屯所(瀬高警察署の前身)が開設されている。明治14年(1881)の大火災で田代は全焼し、昔の町屋の面影を失った。田代の産業として八幡町の武田蝋屋で製造された生蝋をさらに田代の晒業者に委託し、天日に晒し、再精製した上質の白蝋が作られていた。のちに三橋町に移行し日本一の白蝋の生産高となる。 |

宿場町図 |

参考図絵・図版:東海道五拾三次之内 庄野「人馬宿継之図」初代広重 行書版 |
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元治元年(1864)下庄駅場の馬継立控(部分)
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立花家文書2203 小川組
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光源寺 田代 |
西暦1500年(室町後期)の初頭、寺院というより道場として、古くから門信信徒のための求道念仏の堂宇があったことは明らかである。寺号公称をおこなったのは、それより以降で、その開祖は祐閑である。祐閑は戸次道雪公、立花宗茂公に仕え天正15年(1587)筑後柳川に赴いた。慶長5年(1600)関が原の合戦の後、宗茂公柳川を去り、程なく祐閑は浄土真宗に帰依して山門郷の瀬高下庄に庵居した。慶長10年(1605)に西本願寺より光源寺の寺号を賜り木仏本尊を授与された。その後真宗大谷派へ転じて今日に至る。寛永14年(1637)、光源寺の二世、十時松吟は長崎に出て浄土真宗の布教活動をなすうちに、長崎奉行の馬場三郎左衛門に認められ一寺を建立することになり、瀬高の光源寺を弟に譲り、銀屋町に巍巍山光源寺(西本願寺派)を創建したが延宝4年(1676)火災により類焼したので現在地の伊良林に移転した。松吟の著書に長崎で穴吊りの拷問に耐えきれずキリスト教を棄教したイエズ科会司祭クリストファン・フェレイラが澤野忠庵の名と妻をあてがわれ、キリシタン目明しとしてキリシタン弾圧に協力した「ころび伴天連・澤野忠庵(クリストファン・フェレイラ)」が口述した天文書(国宝)を記述したことで有名である。フェレイラは日本人に南蛮医学を伝えた、娘婿の杉本忠恵はフェレイラ門下の医師で、のちに幕医を務めた。 |
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観音堂・清高稲荷・恵比須 田代 |
明治14年(1881)の大火災で田代は全焼し、談議所の一部を焼いた。その後、火除けの神様として祀つて以来、田代には火災はない。祭った当時は火伏稲荷と呼んでいたが、何時の間にか清高稲荷になった。多分祠の前の旗が風雨で色あせてしまったのを、新しく旗を奉納した人が柳河三柱神社内の清高稲荷を思い出し、旗に清高と書いて奉納してから清高稲荷となったであろう。旧暦の2月初めての午(うま)の日(現在は新暦の日)に初午(はつうま)さんの祭事を行っている。横には恵比寿の祠も祀つてあり。昔は小学生で恵比須祭りを行ない参拝者の接待をしてお賽銭を分け合っていたが少子化で廃止され現在は大人が10月20日に祭礼を行っている。左側のお堂は観音像を祀り春と秋のお彼岸に祭礼が行われ、巡礼者が訪れお参りされる。稲荷社はほかにも新町の大城さん宅の玄関脇に太郎稲荷、平田稲荷と二体ある。元町の松本運送店の裏にも立派な稲荷の社があったが今はない。 |
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談議所(だんきしょ)小字名)(行政区名) |
談議所は「ダンギショ」と読むべきですが地元では「ン」が欠落して、ダキショと呼んでいます。奈良時代、創建の宝聚寺の談議所(天台宗の会談道場)に由来するものです。その頃、この寺院では若き僧の修行や仏の慈悲によって大衆に説教が行われていたであろう。談議所には矢部川最大の河港があり、明治期では星隈家が談議所浜の大部分の地所を持ち廻船業を営んでいたという。輸出として酒や櫨蝋、瓦、和紙、傘、菜種油、菜種(カラシ)、茶、などが積み荷され、大川や天草・島原・長崎・博多・下関・瀬戸内海沿岸・大阪・江戸・酒田(山形県)などへ移出されました。移入品は島原の海産物・石灰肥料、天草の石材・干魚、長崎の唐綿や瀬戸内海沿岸の棉と塩、薩摩の黒砂糖などです。周辺の中町・田代・新町・市場町(現・元町)は帰り船で輸入された商品を売りさばく町として栄えました。談議所の浜は4、5隻の舟が帆を休めており荷役人夫、車力、馬車の行き交いで賑わっていた。高柳の農家でも荷役人夫として牛車で石灰などを配達し、遠くは黒木や現在の立花町まで昭和初期頃まで運んでいました。
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談議所の浜跡 |
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【石橋家による瓦焼き】 |
石橋家に伝わる古文書によると石橋彌八郎は永禄12年(1569)8月13日豊後国玖珠郡筧村吉弘館で生まれた。天正年間(1580~)筑前三笠郡岩屋城主の高橋招雲に仕え、50町歩を領し銅百貫文を賜り、土木権介(権官)に任じられ粘土を煉り、山間で瓦を焼くことを業とした。後年、肥後国阿蘇郡で瓦工業の家に客食し、製瓦の法を実地に研究すること数年、技術を体得して去り諸国を歴遊した。たまたま長州下関にて柳河藩の老臣の十時摂津に面会し、それが機縁となって立花家に迎えられた。元和8年(1622)に老臣は石橋彌八郎と計画し瓦製造に着手した。まず場所を瀬高下庄談義所に設け、この場所を瓦田・河原田と呼んだ。(高田町誌参照)石橋家はその道に従事すること13代、子孫相次いで他業に転ずることが、できなかった。そのかわりに藩内で他藩製の瓦を用いた家があれば、これを剥ぎ取る権利を与えられた。初代石橋彌八郎は、さらに瓦職人の離厭)と出会いがある。離厭は浅草生まれで名古屋・江戸・大阪と修業を重ね、柳川城の天守の御用を務め藩主の田中吉政から、お褒めの言葉があったことなどが縁で柳川に住み着き、間もなく立花宗茂が柳川城に再城となり、石橋瓦と出会いが生じて瀬高に定住した。彼の技術導入により石橋の離厭瓦として名声を博し栄えてゆく。離厭の子孫は代々石橋源蔵を名のり、後で本家石橋家と縁戚関係が生じている。談議所宝聚寺前の石橋金生さんが離厭の子孫であり新宅と呼ばれた。新宅の「離厭瓦御免地覚書日記」には石橋本家は藩の御用掛となる。瓦焼きは談議所の石橋家が専売免許の権を持ち、藩内の城や寺院の屋根j瓦ならびに島原や長崎にも船で輸送していた。上庄の御倉浜に対して民間の物資の積出入港は矢部川畔の談議所浜が利用された。天草、島原、長崎方面に瓦のほか、酒。種油、米などを手持ちの舟で輸送し、帰り荷には、あちらの石灰、白灰、石材、砥石、ツケアミ、浅草イリコなどの海産物、河内ミカン、薪などを積んできて、談議所の浜は4、5隻の舟が帆を休めており荷役人夫、車力、馬車の行き交いで賑わっていた。これらの品を売りさばく商店が中町、田代、新町、市場(元町)の街道筋に建ち並んでいました。石橋家は代々藩の御用聞を勤め、藩内で瓦を焼くには石橋家の許可が必要で、代りに、藩は瓦を市価より安く藩に納めさせたり、上納金を献上させた。本家・石橋家の家系は、すべては明らかでないが、残された古文書から江戸後期から明治・大正期にわたる家督は傅左衛門、文蔵、元蔵、一蔵と続いており、瓦製造のほか金融活動や土地集積も行い、徴収した余米を利用して酒造業を開業している。文政5年(1822)の瀬高両庄の大火事の被災者や町内の貧困者の為に救米を施している。藩より「新方御用聞」また「本方挌御用聞」に任じられ、藩の要請による不時の金の調達に応えている。嘉永6年(1853)のペリー来航による警備再編で会津藩から柳河藩が引継ぎ、新造された品川台場の警衛に回るまで、7年間担当しました。この時、中老中から御普請役の要請で石橋文蔵は100両を献上。嘉永7年(1854)に褒美として上下(裃)と永代壱人扶持(主君から家臣に給与した俸禄)を拝領している。また安政3年(1856)には江戸表震災(安政の大地震)の際に藩に100両進上し、永代5人扶持を拝領している。下写真②③④は藩の要請の調達金の古文書で下庄組として石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨徳蔵・牛島竹次郎が金を出し合い、藩の御物成役や銀会所に1000両や1500両の調達金を用立ている。「旧柳河藩江調達金引合覚」は、阿部・星隈・久富・牛島らと共に藩に調達を行った様子が解る。星隈慶次郎は談議所の浜の多くの所有地を持ち和紙の交易の特権をもっていた商人と推測される。明治維新後は紙問屋を営んでいる。久冨や牛島の末裔は調査中。下写真①は藩札裏書・酒110挺・石橋文蔵 弘化元年(1844)発行・銀会所(柳川藩)と記載あり、藩札の裏書きも引き受けている。万延元年(1860)に中老中より江戸表御殿(本丸御殿)の火災後の再建費用として、1000両の調達金を要請され献金する。褒美として御羽織を拝領する。さらに3000両を調達及び囲米を上納。褒美として9人扶持を拝領し、ならびに絹類着服免許を賜る。当時は農民や商人の服装にも藩により制限されていました。さらに柳川藩主の参勤交代の時には600両や800両の金を調達している。柳川の福厳寺祀堂の修理に際して瓦を進上している。いずれも褒美として御上下(裃)を拝領する。瓦焼きは明治以降は弟子たちが独立し引継がれ製造された。しかし明治維新により、町人扶持も廃止され藩での特権もなくなり、藩札の裏書による被害も受けた。明治16年(1883)の古文書「大阪・長崎の仕切畄」には筑後米や肥後米を売捌いているが、江戸期でも大阪まで交易していたとみられる。当時の船旅で使用した鼈甲製の折りたたみ枕が保存されている。酒造業は継続し財政豊かで、明治11年(1878)に石橋元蔵は下庄小学校の新築金113円3銭を寄付され、福岡県より銀杯を賜っている。酒造業は大正年代まで営んだ。明治・大正時代には鉄道、自動車の発展で談議所の船荷の扱いも減り、十数軒もあった瓦屋の景気のよさは昭和5、6年まで続いたが、しだいに寂びれる運命をたどり瓦の町談議所の面影が消えた。 |

①藩札の裏書き・石橋文蔵 |

②嘉永5年の調達金引合記 |

③左から本方挌御用聞の石橋文蔵・阿部善兵衛・星隈慶次郎・久冨徳蔵・牛島竹次郎
(姓と名前の頭略)と見られる。5人合わせて1000両の金を藩に調達している |
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④調達金・覚 |
萬覚帳 |

永代売切家屋敷事・文政7年 |
大阪、長崎への仕切畄(筑後米や肥後米が輸出されている・明治16年 |

明治21年の品仕入帳とハゼ買入帳 |
石橋家古文書・一部分(柳川古文書館寄託) |
宝聚寺(台嶺山玉泉院) 下庄談議所 |
奈良時代の養老年間(717~723)に高僧行基が諸国巡業の折に訪れ宝聚寺を開基したと伝承にある天台宗の古い由緒のある寺である。また勅願によって行基は奈良東大寺(全国国分寺の本山)の大仏建立の資金集めの為に諸国を巡礼しながら、寺院ならびに談議所を建立したとある。しかし行基が当地方に来た史実はないので弟子あるいは信者かも知れませんね。この時期に、この地に壮大な談議所が新設され、今では「談議所」の地名となって残っている。江戸末期までは僧侶の御説教を御談議と言っていたので、昔は広大な説教所であったであろう。本尊の不動明王は行基の作と、また土像の弁才天は弘法大使の作と伝えられている(伝承)。延暦22年(803)大師入唐の折、天竺国五台山の土で造られたものであると伝えられている。往時は一大伽藍があったが戦国の世に、たびたびの兵乱にあい焼失した。慶長9年(1604)田中吉政より元和7年(1621)竹中妥女正よりの各々の寺領書出の古文書がある。寛永年中(1640~1644)に豪湛が中興開山している。文政5年(1822)の上庄・下庄の大火の際に類焼した。よって遠近に昼は托鉢をし、夜は地行建設に尽力して遂に再建に成功した。時に地下8尺(2,5m)から掘り出された上半身の小型の黄金仏を掘り出し寺の宝物となっている。(瀬高誌参照)
郷土史家の堤伝氏によると「この寺は永く栄え江戸時代、紺屋一切の権利を与えられ紺屋の総支配をしていた。今日は紺屋はないが、昔は着物すべて手製であったので、糸をつむぎ、それを紺屋で染め、織り上げて着物を作ったのである。したがって各家々に木綿機織りが必ずあって主婦が機を織ってたのである。全くの自給自足の生活であった。その外に油船二隻があり、油の運送の賃金を寺の収入にしたのである。」という。(柳川の民話より)談議所の浜は島原あたりからの海産物の船で賑わい商人の部落として栄えた。寺の北側に矢部川に注ぐ川があり船が入り荷の積み下ろしをしていた。運河を寺前まで引き込み積み出しの便と港の管理、指導、談合を行ってきた寺でもある。寺前の運河に架かる眼鏡橋が本堂の周りの囲いに使用され現在残っている。境内裏手には行司、木村久之助の碑がある。護摩供養、観音供養の行事が行われている。 |
【宝聚寺の梵鐘について】
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日本古鐘銘集成『柏葉妙録』には享保9年7月に瀬高川(明治以前のこの付近の矢部川の呼び方)の岸より掘出して宝聚寺の鐘楼に懸けてあったと記されているが紀年がない。ただしそこに現れている蒲池長寿院長男憲栄なる者の姓から考えて、天正の頃を降るものではあるまいかと思われる。
戦時中の金属回収まで鐘楼にあったであろう。
〈筑後国瀬高下庄談義所〉
〈台嶺山玉泉院宝聚寺住物鐘〉
〈矜羯 坂本 勧持院豪存弟子也〉
〈飛花不動尊当寺中興住職憲栄〉
〈制托迦 妙松虎心〉
〈蒲池長寿院長男憲栄〉
〈在寺内造立〉
〈国家繁栄 護摩堂〉 〈門〉 〈焔摩堂〉
〈国家安全 観音堂由布三五兵衛〉〈大神姓政穀〉
〈常住祈念所〉 〈鐘堂 田尻相馬〉 〈道広 弐間除〉 〈柳野〉
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八幡町(やわたまち)(行政区名) |
江戸期は「土居」と呼ばれ、近年まで「犬ゴロ土居」と呼ばれ三池街道は土居の上を通り、小字名の「フケ」が示すように湿地帯が多くレンコン畑が多かった。享保2年(1717)創業の柳川藩御用達のハゼ実から木蝋を製造する「武田蝋屋」が思案橋の脇にあった。八幡町の名称は行政区名として明治期に付けられたと思われる。八幡町の起名については氏神である下庄八幡神社からでしょう。八幡町一に架かる思案橋は遊郭で遊んで帰るか思案した橋といわれる。浜では近隣の若衆が荷役に精を出した。人数は10人から20人位で暇な時は「寄場」でバクチに興じてた。周辺は商談の場で旅館、遊郭、商店が立ち並び賑わい繁盛していた。八幡町や談議所は鉄道輸送が盛んになる前までは、天草・島原・長崎などの交易の荷役や河港として栄えた町です。 |
【武田家による櫨蝋の製造】 |
元禄16年(1703)に柳川藩は「櫨運上の制」を定め木蝋の製造が促進された。藩内で早くから手がけたのは享保2年(1717)創業の下庄八幡町の武田蝋屋と言われている。柳河藩の御用商人となったのは宝暦元年(1756)の頃の武田鹿次郎(寛保2年1742年生れ)の時代と推測される。善七(安政元年1772年生れ)・平助(享和2年1802年生れ)・鹿蔵(天保元年1829年生れ)・弟の梅次郎(嘉永元年1848生れ)、又衛(安政4年1854年生れ)、弟の平太郎(慶応3年1867年生れ)と製蝋業を継承されている。製造された生蝋さらに下庄田代の晒業者に委託し天日に晒し、再精製した上質の白蝋も作られた。ほかに藩内の櫨の実は各所の御用商人により集められ、点在する家内工場の蝋屋でもハゼ実を蒸して搾り、生蝋が製造された。これらのは柳川藩の統制下でお蔵の浜(上庄)から帆掛舟で長崎や大坂などに運ばれ、ロウソクや髪結いの鬢付け油の原料になっていました。幕末には大量の白蝋を薩摩藩が買い占め、上海のヨーロッパ人に密貿易して、軍艦輸入や軍備の資金を稼ぎました。談議所の港から満潮に乗って長崎港まで運ばれ、ここからシナ辺の海外に輸出され、見返り品として、綿花や糸などを輸入したようである。 |

八幡町にあった頃の武田蝋屋・正面の建物が自宅、、右端は倉庫、工場は自宅裏に川沿まであった(大正12年2月の武田平太郎・記一氏の顕彰碑(左端)建立の除幕式)。
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安養寺・金岳山 下庄八幡町 |
当初禅宗であり薬師堂があったが戦国時代に佐嘉の龍造寺軍に焼かれている。寺の畑から掘出された半焼失坐像は寺が焼かれた時の石仏であろう。元和年間(1615~1623)僧祐仙が真宗本願寺派として開基。同寺から南150mのところに山法師塚なるものがあって、この塚に触れると祟りがあるとして、住民から敬遠されていた。昭和50年中央公民館建設のため、塚を撤去することになり調査が行われた。調査によると安養寺住職二世および妻と覚しき墓石、弥生時代の住居跡、弥生土器、土師器などが発見された。この塚が寺の境内の一部だったこと、この地域の字名が「安の内」ということから昔、相当大きな規模を誇っていたものと推測される。しかし衰退して文政5年(1822)光徳寺(現・高田町竹飯)の借庵となり4年後、善教寺の借庵となる。弘化3年(1846)に元信徒である阿部酒造の阿部善兵衛は世話人代表として安養寺の御堂再建の寄付金を下庄・市場・上庄・大竹・吉井・藤ノ尾・本吉・大江・堀切・泰仙寺・江ノ浦(現・高田町)・野町(現・山川町)・赤坂・蒲池山・原町・佐野の住人やお寺から幅広く集めており、当時の寺や商人の名が見える。特に一般の商人・農民たちは名字・帯刀は許されない時代、談議所には名字(姓)を名乗れる有力商人が多く談議所の浜周辺が商業の中心地であったろう。(阿部家文書・安養寺御堂建立差引扣帳)御堂の再建日は不詳だが現在、安養寺として再興できたのは阿部・石橋・西原らの尽力によるものであろう。寺の門を入ると右手に阿部家の墓がある。寺宝に六字名号。薬師十二神将像12体、薬師如来坐像、脇生立像2体、半焼失坐像一体がある。 |

寄進した寺(一部)他に西念寺・二尊寺・中央院(市場)勝萬寺(藤尾)・西楽寺(原町)などあり |

表題 |

新町の寄進した商人 |

新町の寄進者達 |
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談議所の寄進者した商人 |

阿部家・石橋家の寄進 |
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上町の寄進した商人 |
談議所の寄進者した商人 |
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一本松天神・天満宮 八幡町一 |
この神社は古代の天慶神名帳(944)に記された五百木部蛇臥神(いほこべだぶせんのかみ)であろう。明治以前は一本松天神と称して水の神で竜神で男の神様と信仰された。横を川が流れ犬ゴロ土居があり上を三池街道が通っていた。以前ここに大きな松が一本あっていたので一本松天神の名もこれからつけられたものと思われる。終戦前頃から廃業した武宮酒造の銘柄「一ッ松」もこの由来から取り入れ付けられた。天満宮は明治19年に一本松天神を祀ってあつた所に造営され小さい天満宮鳥居が当時の敷地巾を物語り、右側敷地は昭和初期に廃業された武宮酒造から寄贈され新しい鳥居が建設された。拝殿の西脇の旧鳥居の奥にはえびす祠(左)と並んで修験者のような姿の地の神様(右)を祀ってあるが、この神様は昭和25年頃まで安養寺境内東側に鎮座してあったのを現在地に遷宮奉置したものである。本殿東側の石祠は印鑰社は当神社の金庫番として鎮座され、勝運守護の神でもある。契約成立、証文印鑑作製時の信仰がある。祭礼は5月と9月に八幡町一の8班の持ち回りで行われている。昔(昭和以前)の祭りは、お座元(宿)がきめられ、おこもり(会食)が行われたり境内でのど自慢など行われ華やかであった。 |
藁葺き屋根の旧本殿・石灯篭は現在新鳥居の両脇に移転されている(武田蝋屋写真提供) |

一本松天神
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以前の一本松天神の鳥居 |

本堂
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印鑰社 |
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弘法大師堂 八幡町一 |
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八幡町天満神社の南側にある。昭和26年、八幡町の二十一日会のメンバーで改築されている。敷地は武宮酒造の倉庫敷地を寄贈されている。お堂の屋根は銅板葺きで立派な建物で堂内には弘法大師の像が安置されている。境内には十三仏の石像がある。ここから南側は七生寺という寺の敷地であったので、十三仏の石像などは七生寺跡の面影を残すものであろう。小字地名として広い土地が残っている。
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一つ堂天神(婦計(ふけ)天神)八幡一(中央公民館と役場の間西側の一つ堂水門(徳永宅東)にあったが廃宮) |
この神社は古代の水の神で竜神で女の神さんであった。用水路の分伎点に鎮座してかわの守り神として崇められ、逆らうと祟りがあるとされていた。公民館や役場用地造成で所在が不明のままになっているが、分伎水門の傍にあったであろう。 |
地名(小字)の話し |
安の内(小字名) 八幡町一 |
安養寺の境内であったことに由来するものであろう。安養寺から南150mに山法師塚なるものがあって、昭和50年、瀬高町中央公民館敷地造成の際、塚の撤去及び調査が行われ、安養寺住職二世及び妻と思しき墓石、弥生時代の住居跡など発見された。よって安の内の地名にある安養寺は昔、相当大きな規模を誇っていたものと推測できる。 |
西フケ 東フケ(小字名) 八幡町一 |
瀬高地方では湿地のことをドブ、ガタ、ジュツタンボなどと呼びますが、地名としてのフケの呼び名もその一つで漢字だと婦計と書いたそうです。西フケはレンコン畑が広がっていたそうです。東フケには一本松神社(現・天満宮)のほか、女の神様で竜神が祀られていた婦計神社があった。談議所の南には西婦計、東婦計の小字名が残っている。
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日渡り(小字名) |
矢部川沿いの談議所の浜に連なる下流側にある。ケ(日)は二日以上にわたる日の意があるので、日数をかけて荷物を運ぶ船場のある場所であろう。談議所や高柳の川辺は交通物資集散の要地として繁盛しました。
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田村口(小字名) 八幡町一 |
三池街道の思案橋の南側の所です。ムラクチは八幡町・談議所・田代の村入口の意味だと思います。思案橋は遊郭へ遊びに行こうか行くまいかと思案した橋という。
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七生寺(小字名) 八幡町一 |
奈良時代の和銅8年(715)の班田制の実施により七生寺に班給された土地のなごりである。安の内の西側の敷地一帯が七生寺という寺の境内地であった地域で中央公民館の西側の田圃(水路の南側)である。現在でも大師堂、石仏群や墓地の一部が残り、昔の面影を偲ぶことができる。 |
平町・下平町(小字名) 八幡町一 |
矢部川付近の所です。ヒラは平地の意もあるがヒラク(拓く)の意もあるから、ここでは矢部川沿いの開拓地と理解すべき地名でしょう。
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通道(小字名) 八幡町二 |
三池街道の通り道にあり、そこから起名されたのでしょう。
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ロノ坪 二ノ溝(小字名) |
奈良時代の和銅8年(715)に土地区画整理として条里制が施工された時の地名です。
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一本杉(小字名) 八幡町二 |
現在は田んぼや住宅地ですが、昔はここに杉の大木があり起名された思います。また八幡町一の天満宮には松の大木があり、一本松天神と呼んでいました。隣の武宮酒造の酒の銘柄が「一本松」でした。旅人の為に地域の道しるべとして利用されました。
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中絶新町行政区) |
和銅8年(715)に土地区画整理として条里制が施工された時の地名です。小字の中田江は中絶の元の地名で時代とともに転訛したとされている。 戦国時代の天正年中、肥前勢となった、大木城主の大木統光が宮園城を攻めたが,逆に城主の今村舎人に、ここの街道で追い討ちにされ惨敗。統光は命からがら矢部川に追い込まれて川中にて追い付かれ右足を高股より切り落とされている(今村家記)。藩政期には三池街道の道筋となり、集落の北方面に通行する人々場所と距離の目安となる「一里木」があり、ここの集落を「一里木」と呼ばれたと言う。道路標識などない時代に通行人の目印になるような木を柳川城から二里(8km)の地点、仲絶に植えたのでしょう。正確には二里木(8km)になり、後に二里石に改められました。江戸初期の貞享4年(1687)の観世音菩薩の石像と十坪余の仏堂がある。「夜鳴き観音」と呼ばれ近隣からの参拝客で賑わった。前の道が三池街道で行き交う旅人も参拝し休憩したであろう。江戸後期から下庄の八幡神社の八朔祭り時には部落に神を迎える門「灯切を建てて提灯に灯りをともし、五穀豊穣を祈願された。明治38年の日露戦争終結後の景気で瀬高の酒屋は益々活気づいて増産し柿渋の需要が増えた。 この時分下小川生まれで八女郡兼松に移り住んでいた佐田長一は柿渋や木炭を車力で瀬高の酒屋に納入していた。この佐田さんが三池街道沿いの中絶の茶店のおばあさんの養子となり、中絶の上田一門の人に製法を教えたのが起源である。当時は酒屋、醤油屋、傘屋、柳川地方の魚網関係まで一手に扱う程手広く商っていた。和傘の紙の防水に、醤油屋、酒屋では搾り袋に使用して程よく搾っていた。また魚網の水切りににも使用していた。昭和30年代で終わり、現在では製造されていない。 |
再建された二里石 |
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観世音菩薩 |

ちょうぎり(参考資料) |
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地名の話 |
東欠橋・西欠橋小字名) 八幡町二 |
三池街道に両脇の水田です。欠橋=掛橋のことで、傍の水田に起名されたものです。 . |
寺町(小字名) 中絶 |
仲絶集落の東北にあり、条理制時代の一区画で、どこかの寺領であったろう。
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幸助(なえずかり)(小字名) 中絶 |
条理制あと荘園制度に移行しますが後期に下部組織をなすのが名田(みょうでん)制度です。名田とは平安後期から中世にかけて、一般農民が土地の所有権を強化するために、土地に自分の名を冠したものです。最終的には安土桃山時代の太閤検地によって、名田は完全に消滅している。
平安後期から中世期の幸助さんの土地の小字名の田んぼです。
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上中田江・中田江(なかたえ)(小字名) 中絶 |
和銅8年(715)に土地区画整理として条里制が施工された時の地名です。中田江は中絶の元の地名で時代とともに転訛しました。中絶の北方面の三池街道の道筋には二里石が再建されています。
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中絶(なかだえ)(行政区名) |
地名を漢字で表示するので、当て字が多く、また発音の転訛が起こり古来は「ナカタエ」と呼び中田江と表示していた。その後、発音がなまり「ナカダエ」に変化し中絶の漢字表示に変化したものである。 |

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小塚(小字名) 中絶 |
塚とは古墳のことで、小さな古墳がある所の意です。
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八坪・向江(小字名) 中絶 |
奈良時代の和銅8年(715)に土地区画整理として条里制が施工された時の地名です。瀬高町には条理制における多くの地名が残っています。
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苗漬(小字名) |
苗=早苗の意で漬=浸かるで苗が浸かることです。古老に聞いたら文字通り、水稲がよく浸かる程の湿田だった所だったそうです。
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【新商店街の誕生】
明治24年(1891)に九州鉄道(現・JR)矢部川停車場(現瀬高駅)が出来て、明治41年に瀬高の渡しから薩摩街道の枡形を下庄八幡神社参道を直進し田代・新町・市場町(元町)北200mの田圃や荒地に沿って柳川(三柱神社付近)から停車場までの新道(現・国道443号)と柳川軌道が建設され、駅周辺には旅館や商店が出来始める。さらに明治42年6月に柳川(高畑)から柳川軌道が矢部川駅まで開業し、現在の中町~栄町~恵比寿町~矢部川の軌道道路沿いに、跡取りでない商店の次男などの新規開店や従来の店を移転するようになる。栄町に劇場が出来てから急速に商業圏が形成され商店や住宅が建ち始まる。
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栄町 |
栄町は商店が建ち並びはじめて、商売繁盛して栄える事を願って命名されたでしょう。大正9年、下庄八幡神社東側に瀬高町役場が4月新築落成する。当時の栁川新報の新聞記事によると「11日に上棟式ならびに開廰式を挙行せり式場は大国旗を交叉し祝幕彩旗造花などをもって美々しく装飾せられ、階上階下遺憾なく設備整い階上大広間には立花伯爵揮毫の「里仁為美」(論語で里は仁なるを美と為すと読み、意味は、「心の拠り所をどこに置こうか。それは、他人を慈しむことに置くのが最も良いことだ。」)の額および野田卯太郎逓信大臣の自作の「朝神楽壽く自治の上棟式」の額が掲げられて室の品位備わり定刻の十一時に及べば来賓、安河内知事・渡邊参謀長・富安保太郎代議士・成清博愛貴族院議員・生田目久留米聯隊区司令官・田島庶務課長・宮山判事・岡田検事・濱田館長・安河内女学校長・清水谷税務所長・戸川郡長・薗田、田北両県会議員・福永技芸学校長・・・・・・」が出席とある。地元の著名人の顔ぶれは、
野田卯太郎(1853-1927)はみやま市髙田町岩津出身で福岡県会議員をへて、明治31年衆議院議員(当選10回)。政友会の創立に参加し,大正13年副総裁。原内閣,高橋内閣の逓信相、第1次加藤高明内閣の商工相を務める。三池紡績を創立するなど,実業界でも活躍した。
成清博愛(1864-1916)貴族院議員は瀬高町堀池園の出身で大分県の馬上金山で成功し、金山王と呼ばれた。高額納税者として貴族院議員になる。大分県政友会党員であった成清博愛は第12回衆議院議員選挙で当選するが病の為に大分県日出町の別荘「的山荘」で53歳で世を去った。
富安保太郎(1864-1931)は山門郡川北村(柳河村、枝光村、磯鳥村、木本村、起田村、吉開村、新村(現・柳川市)出身 明治21年明治学院卒 柳川城内小学校雇教員 藤村作を指導、柳河中学校教員、銀水高等小学校教員、校長、明治25年2月辞任。明治27年5月福岡県会議員、明治29年九州製油会社社長。
瀬高の大竹二尊寺に改進党の本陣を構えたこともあり。明治27年5月福岡県会議員。明治32ー36年福岡県会議長。明治41年、衆議院議員(当選4回、政友会)、昭和2年に貴族院議員。九州電気軌道、日本電報通信社などの取締役を務める。昭和3~6年、福岡日々新聞社長。
木造2階建ての瀬高町役場は老朽化の為に、昭和44年(1969)に瀬高町大字小川5番地の鉄筋3階建の新庁舎に移転した。(現・みやま市役所) |

旧役場前通りの丸久デパート(現・443号線)昭和7年頃の写真
自動車時代でない当時の商店街は自転車や歩きの買い物客で賑っていた |

左門柱に瀬高町農会の表札もある。
役場前には柳河軌道の線路あり |

栄町の商店街大通りには古賀印刷所と
薬局が軒を連ねていた。なつかしいホーロ看板がある |
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大正12年の秋、瀬高の酒造業は全盛時代を向えていた。これらの酒屋(酒造家)が出資、株式会社を組織し、芸能部門へも手をのばして、瀬高町下庄栄町に出来たのが瀬高劇場である。当時筑後地方一番の立派な広々とした劇場で、客席に花道が備わり、二階席もあった。落成時の初演開場は、歌舞伎の名門、沢村宗十郎、沢村長十郎を迎えての「杮落とし(こけらおとし)」の芝居で幕を開けた。演題は「紅葉狩り」「義経千本桜」などであった。劇場の中に売店が設けられ、これを「中茶屋」といつた観客へ座布団や酒肴、湯茶を提供する商売である。そのサービス係をする女性を「お茶子さん」と呼び、働きながら芝居や映画が見られ、おまけにチップが、たんまり貰えた。興行師(小家主)は会社(劇場)側と契約を結び、契約金を払い契約期間経営にあたるわけである。案外高い契約金を払っていたようである。劇場の付近も客目当ての商店が増えてくる。 大正12年の秋、瀬高の酒造業は全盛時代を向えていた。これらの酒屋(酒造家)が出資、株式会社を組織し、芸能部門へも手をのばして、瀬高町下庄栄町に出来たのが瀬高劇場である。当時筑後地方一番の立派な広々とした劇場で、客席に花道が備わり、二階席もあった。落成時の初演開場は、歌舞伎の名門、沢村宗十郎、沢村長十郎を迎えての「杮落とし(こけらおとし)」の芝居で幕を開けた。演題は「紅葉狩り」「義経千本桜」などであった。劇場の中に売店が設けられ、これを「中茶屋」といつた観客へ座布団や酒肴、湯茶を提供する商売である。そのサービス係をする女性を「お茶子さん」と呼び、働きながら芝居や映画が見られ、おまけにチップが、たんまり貰えた。興行師(小家主)は会社(劇場)側と契約を結び、契約金を払い契約期間経営にあたるわけである。案外高い契約金を払っていたようである。劇場の付近も客目当ての商店が増えてくる。 昭和初期での瀬高劇場は浅草名物喜劇王・曾我廼家五九郎一座と特別加入として曾我廼家九一郎の公演が12月8・9日(年代不詳)の昼夜の2回行われた。
栄町に劇場が出来てから急速に商店が並び、昭和7年頃には丸久デパートが開店し、昭和18年に「丸久デパート」に山門保健所開設している。商業圏が形成され栄町から東進して恵比須町、矢部川3丁目の方へ家が建ち並び、商店が増え、田畑が消えて変革して行った。戦後は昭和20年代も中央の一流俳優、役者、歌手が相次いで瀬高に来演し、劇場の大きさに驚いたのもこの時である。昭和26年(1951)には瀬高劇場で美空ひばりの歌謡ショーが開演された。当時、美空ひばりは14歳の中学生であった。劇場周辺ではひばりの姿を見ようと大衆が押し寄せた。ひばりは栄町のすずらん化粧品店で買い物のために立ち寄っている。宿泊には瀬高駅前の旭屋旅館を利用したが、現金の盗難にあい、母親の喜美枝は「二度と瀬高には来ない」と怒っていたという。瀬高劇場での演劇より映画が主体となり松竹系を上映していた。悲しき口笛・鞍馬天狗・角兵衛獅子・君の名は・リンゴ園の少女・二等兵物語・二十四の瞳・喜びも悲しみも幾歳月・あの丘越えて(写真は当時の美空ひばり) などがある。 |

黄色い建物の瀬高薬局が瀬高劇場跡
入場料30銭の荒川一座のチラシ |
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下庄小学校(現・瀬高小学校) |
明治11年(1877)下庄小学校と称し、下庄八幡神社境内に創立されている。多分、境内の北下に校舎があったであろう。それが瀬高文化会や瀬高幼稚園の校舎に転用されたであろう。同37年に下庄尋常小学校と改称される。明治45年(1912)8月に現在地の栄町に新築移転する(瀬高町誌・学校の沿革には明治37年)とある)。大正6年、下庄尋常高等小学校と改称。昭和16年、瀬高第三国民学校と改称。下の写真は昭和初期の下庄尋常小学校で玄関右の職員室のみ石炭ストーブがあり煙突がある。玄関庭にはまだ二宮金次郎の像は設置されていない。右奥の講堂は昭和5年5月に新町の阿部弥徳(酒屋)が寄贈された。昭和17年、校門東脇に天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めた奉安殿が建立される。登下校時や単に前を通過する際にも服装を正してから最敬礼するように指導された。昭和20年、終戦により廃しされ、20年後あたりに壊されている。昭和22年、下庄小学校と改称。昭和27年には学校給食が開始。戦後の食糧難、栄養失調児童のために段ボールのドラム箱で船便でユネスコ (国際児奮基金) から贈られた、まずい脱脂粉乳のミルクでした。私も昭和30年前後に下庄小学校学校で学びましたが教室には暖房はなく、授業が終わると日当たりの良い中庭でウマ乗りで遊んでいた。授業の開始・終了は電気式ベルを鳴って知らしてしたが停電の時は、高さ30cm位で横に下庄尋常小学校の銘のある鐘を叩いて知らしていた。急激な生徒増の為に教室が不足し講堂を仕切って授業を受けました。また便所の汲取りが間に合わず、度々外の漕から流れ出ていた。昭和30年、校歌が作られ、郷土出身の作詞された與田凖一先生が来校され、講堂で皆で歌い祝いました。昭和33年、講堂前の南側に創立80年記念に図書館建設された。平成17年、新校舎竣工され西側の田圃に新道が建設され校門は西向きとなる。令和2年4月、少子化の為に、本郷小学校・上庄小学校・下庄小学校の3校が統合され児童数380人の瀬高小学校(下庄)となり、新しい制服に身を包んだ新1年生47人の入学式が行われた。 |
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大正14年7月 下庄小学校5年の女子生徒

校門脇の奉安殿(参考資料)
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昭和30年校歌作詞の與田凖一先生が来校 |

公認・瀬高町営プールは昭和29年5月に竣工6月には世界的水泳選手の古橋廣之進・橋爪四郎・
八幡製鉄の田中 聡子が参加する大会が行われた。写真は昭和35年頃の下庄小6年生の児童ら |
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参考文献
筑後鷹尾文書・大和町史上巻・瀬高町誌・瀬高町の地名の話(鶴記一郎)転写承諾済・下庄小学校百周年記念誌・某所古地図提供 |
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