庄福BICサイト                                         福岡県みやま市瀬高町太神下小川・井出ノ上
  平安時代中期の『倭名類聚妙(わみょうるいじゅしょう)』に全国4041の郷にまじって、筑後国山門郡の太神(おおみわ)山門(やまと)草壁(くさかべ)鷹尾(たかお)大江(おおえ)の5郷が列記されていが、これらは郡郷の制度が定められた当時よりあった名前である。太神於保美和(おほみわ)山門夜万止(やまと)草壁久佐加部(くさかべ)と読みが付けられているが、この所在地が筑後の歴史家の間で不明とされていました( )古文書に見える太神とはどんな歴史がまつわるでしょうか。本来はオオミワと読むべきがオオカミと読まれオオガと読まれてきたという太神氏は渡来人ともいわれ神を祭る聖職を司る( )一族であり瀬高町太神のふるさとから東進していったと見られる( )宇佐八幡宮においては大神を祀るのは太神氏であった事や、高良玉垂宮では大祝は物部氏で小祝は太神氏であったなどの縁起などがある( )太神氏については諸説の多い氏族であるが、応神神功武内宿彌ら個人の実在性は疑問だが( )対韓の国防問題の起こる欽明朝ころ突如神功応神信仰は筑前海岸に起こった( )これは神功が国防のため筑後国太神郷に太神神を勧請した故事につながっていたので、太神氏と神功応神信仰の結びつきは強かった( )豊前宇佐は 大宰府 創設までは大和朝廷の九州基地であり、 辛嶋氏の文化で道仏的宗教文化の中心地であった( )ここに、568年に筑前の神功応神信仰を大和太神氏を背後にもつ、あるいは渡来人である太神比義(おおがのひき)が持ちこんだという( )
明治9年下小川(しもおがわ)長島(おさじま)井出ノ上(いでのうえ)の3村合併のときに、太神郷の該当地として比定され、太神村(おおがむら)と名称されました( )掲載の測量地図は当時のものです。明治18年鬼木(おにき)の三池街道筋(現・太神保育園の地)に4ヵ年制の太神尋常小学校が創立し、渡瀬に野菜を運ぶ車力が往来する街道を挟んで、東に運動場がありました( )明治22年には、小川村(金栗、上小川、堀池園)と大江村(真木、大江、有富)と合併して小川村となる( )明治40年には、1町(瀬高町)4村(河沿・小川・緑・本郷)の合併により瀬高町となりました( )

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   井手ノ上(いでのうえ)
 井手ノ上の集落( )三池街道筋に沿って北から流れる立派な水路があり、水郷の集落です( )井出は用水路、井堰の意味で、その灌漑水路の意の地名です( )太神の長島から井手ノ上を通る街道は( )江戸初期の街道制確定後は「三池街道」と呼ばれた。慶長(けいちょう)3年(1598)5月、柳川藩主の立花宗茂(たちばなむねしげ)は「関が原の戦い」で味方した豊臣軍が敗北し帰国し( )隣国の鍋島家に攻められ柳川城に篭城(ろうじょう)した為、加藤清正(かとうきよまさ)は熊本から、鍋島家との仲裁と開城の説得の為に( )この街道を通りました。文化9年(1812)2月8日には伊能忠敬(いのうただたか)の測量隊が下庄町村(下庄新町)に高印を残し、土居(八幡町一)一里木(中絶)真木(まき)井出ノ上(いでのうえ)長嶋村( )下小河村鬼木(おにぎ)長嶋本村三池郡古賀村の境界まで測量して瀬高に戻っています( )昭和10年(1935)には井手ノ上駅が開設され駅を中心として人口も増え発展した( )
 小井手(小字名)        井手ノ上 

 水路の西際の土地名で、井出は用水路、井堰の意味です。そこを流れる灌漑用水の関係地名です( )                     

三池街道と水路
 浦田 (小字名) 
 三池街道の東側の裏通りで井出ノ上の八幡神社が鎮座しています( )

 銭亀(小字名)          井手ノ上
 亀と関係ありそうですが、亀は神に通ずるところから、何かの神様との関係地名と思っています( )
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草葉・草木(小字名)          井手ノ上
 井出ノ上の国道209号の西側に土地名です。昔は草木が生茂っている土地( )その草を肥料や牛馬の肥料にする為の採草地であったろう( )
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  フケ(小字名) 
  湿地の田んぼを意味します( )
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 京手(きょうで)(小字名)          井手ノ上
井出ノ上の国道209号の北西端の土地名です。京手(キョウデ)は経田(キョウデ)のことで、読経料として寺へ寄附された田のことです( )
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 余ノ図・西余ノ図(小字名)  
 荘園時代の平民百姓に与えられた公事を負担する百姓名が大部分であったが( )一部の領主直属の経営で、公事を負担しない免税土地を余ノ図と呼んでいた( )
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 観音堂     井手ノ上 

 南瀬高駅から西に60mの所に地蔵さんと観音堂がある。延宝9酉年(1681)に下庄談義所の宝聚寺の僧にと寄進者の世話により建立されたとみられる(.)近年、観音像の心無い盗難があり新しく安置され、厳重に管理されている( )
 
 
     【下小川】 
 郷土史家・村山健治氏の論考によると「下小川の八幡神社の南の小字に宮という所があり( )三重の溝にかこまれていた。つまり三輪で、太古のの日本では、聖地は三重の輪で囲む習慣があったようで、本来の三輪の地名は三重で囲んだ聖地につけられた( )神社を宮というのも、この三輪から来ているように考えられる。オオミワの地に漢字渡来後、当て字して太神としたのも、神域であるが故と思われる( )太神(おおが)は現在では内陸部にありますが、邪馬台国は海沿いにあったとみられる。古代豪族の物部氏(もののべし)の発祥の地は太神の可能性が強いが、この物部氏と共に行動したと思われる氏族が太神氏(おおみわし)です。ほかに有明海の海人(あま)族と言えば大江の有富(あずみ)から出て、のちに筑後川下流を中心とした安曇(あずみ)一族、三潴郡を中心としたと思われる水沼一族になり、玄界灘は胸肩(むなかた)一族になります。これらの有明海と玄海灘の両豪族は、同じ邪馬台国の間柄で交流を深めたであろう( )
   
 下小川(しもおがわ)(行政区名)       大字太神
 古来から京都に近い方を上(かみ)という慣習から小川地域の(しも)にあたる地域の地名です。藩政時代は小川組が取り仕切ったことでしょう。現在の行政区名は下小川東・下小川西がある( )
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 馬場先(小字名)        
 八幡神社の社領で、中世からの、騎馬術の訓練場だった所です。
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     (通称名)
 八幡神社の南方の参道の周辺を宮と呼ばれている。
                
 耳切(みみきれ)築切(つききり)(小字名)  
 太神の北東部の端に耳切と築切の奇妙な地名がある。ミミとは瀬高地方では、カマギのミミなどと物の端を意味します。切(きり)は部分、一区画です( )したがって端の方の開墾地に付けた地名ではないかと思います。築切の築は土を高く盛り上げたり、堤防を築造する意味をもちます( )
                 
 菖蒲(しょうぶ)(小字名)      
 下小川の新川と大根川の合流点にある。菖蒲の花園を想像しましたが関係なく、「ショウブ」とは水路または湿地のことです。北隣に落合(おちあい)の地名があり新川と大根川の落ち合った湿地帯のようです( )
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 落合(おてあい・おてえ)(小字名)    
 藩政時代、灌漑上、山門、松田方面の余り水を再度利用して大江、太神方面をうるおす為にできた新川と大根川が落ち合う所、すなわち合流する地点です( )1枚の田んぼの水が1ヶ所処に集まって流れ出るところを「オテミナクチ」と呼びます。落合は大きな地形における水の合流点でしょう( )
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 福王寺(小字名)         
 下小川の北部に福王寺に関係する土地です。この寺名は岩津村(現・高田町)や溝口(筑後市)に日源上人(溝口や唐尾で和紙の製造を始めた和尚)が再興した寺があり、これらが大神村にあったか、あるいは関係あるかは不明だが、ここに福王寺の寺があったのであろう( )
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  九重堂  (小字名)
 寺に関するお堂があった場所でしょう( )
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 牟田・鉾田(小字名)         
 線路北東際の2ヶ所の田んぼ名で、牟田は湿地帯のヌタの田んぼの意です。鉾田は湿地の意の「フケ」のフがホの変化して出来た湿地帯の土地名です( )
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 門前(小字名)         
 お寺の前の敷地の意です。妙光寺の寺の前の敷地のことでしょう( )
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 町口(小字名)         
 下小川橋を渡った、公民館周辺の地名で集落の入口周辺を意味する地名です。
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 西方(小字名)        
 下小川集落にある下小川橋の西側集落を意味する地名です。
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 落合(小字名)         
 下小川の南東にある地名で、真木方面の水路と大根川の落ち合う、合流点の意の地名です。
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築切(小字名)         
 小川の東にある地名で、「築(つく)」は土を高く盛り上げたり、堤防を築造したりすることをいいます。開拓により土盛りにより水路と畑を作り上げた所です。
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 宮園前(小字名)       
 大広園の宮園城の西南に隣接する所です。水路が迷路のように入り組んだ水城の宮園城の城内を意味する地名です。
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 久保田(小字名)        
 下小川の東端にあり宮園城の近くにある。久保田とは公文(クモン)田のことで、国郡の役所や荘園の役人に給された田のことです。
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      【神社仏閣編】
 乙姫宮(小河神) 下小川八幡神宮合祀 
 由来縁起によると、海神の宮に詣でて赤玉( )白玉を奉持して帰り箱に納めて祀っていると( )雨乞い、航海の安全、五穀豊穣などの祈願が届いた。のち玉は紛失、箱のみを祀ったところ、同じような霊験があったといういい伝えがある( )海神の宮はどこか不明。戦前、戦後の「統制合同」により下小川の西南の端にあったが下小川八幡神社に合祀され幡神社本殿祭壇内に小社がある。現在でも昔の社の石垣や参道は残っている( )
その社(やしろ)の跡地の左側が古墳で石棺が見えたので早速この上に小さなお堂を建て観音様を安置して供養を続けている( )1822年(江戸後期)の宮の記録によると、944年の高良神名帳に「六位上小河神」とあり( )古代からの宮である。小河組の総社であり、下庄校区「文広を除く)、大江校区、南校区にわたる広い区域で( )その乙姫宮であったとすると長島の「こうや宮」などと共に重要な地位の神格であったろう。文政5年(1822)時の神職中島主膳の文書には八町(小字八丈)鎮座、祭神は豊玉彦命.豊玉姫命とある( )

 
乙姫宮跡の石垣
 
乙姫宮の狛犬
 
古墳跡の観音堂
 天道社(天下皇神) 下小川 
 昔は乙姫宮と並び古来より6〜7軒で古くから祀っていたが乙姫宮は八幡宮に合祀され( )天道社は現在中嶋親俊宅の裏手に祀ってある。古代からの自然崇拝の神である( )地元では「おてんとうさん」と呼ばれ太陽に感謝し五穀豊穣の願をを古代から祈った場所である
。場所は下小川の南端に位置して太神長島(おおがおさじま)の古代からの宮と連なっている( )こうやの宮の宮司であった中島越中藤原重光慶応4年、明治新政府に乙姫宮の由来縁起を上告提出した文書中に「川上名神( )祭神罔象女(みずはめ)神.瀬織津姫神」とあり、天道社で神名帳にある天下皇神ではないかと思える( )川上名神とは肥前風土記にある、肥前一の宮川上神社与止日女神(よどひめかみ)の勧請神ではないかと思考できる( )
 下小川八幡宮 下小川     本社の由来は【総合編】へ
 下小川の産土神である。平安時代の治安3年(1023)小河庄は豊前国( )宇佐の神領(宇佐八幡宮の社領)となり、鎌倉時代の承久2年(1220)宇佐八幡宮の分身を遷宮する。境内の参道両脇に御分霊を宇佐神宮まで御迎えに行き( )お供をして帰って来た人達にゆかりのあるといわれる四軒の家で屋根替えをする小宮さんが四体あり古来の作法で竹と藁で毎年、祭礼日( )前に作られる治安3年に小河庄が太神郷と呼ばれ宇佐八幡宮の神領となったのは当時、年貢を払うのに神領のほうが( )なにかと都合がよかったと思われる。これは他の本吉庄など神領になっているが同じ理由であろう。参道の中程にある楼門の( )の彫刻は参拝者を食い見るようで立派な作品である。以前はもっと彫刻があったが心無き者に持ちされれている。社殿の両脇に立っている新旧の塔に鳥が停まっている石造物は( )神話に倭の五王の時代を開いた応神(おうじん)天皇の神霊が黄金の鷹となって飛び去り、その止まったところに鷹居社を造立し( )八幡神として祀ったのが八幡信仰の始まりとされる。こうしたわけで神話の黄金の鷹を神殿脇に祀ったと思われる( )八幡神社は本殿・楼門が昭和10年代に再建され、天満宮も下小川東から境内に遷宮している。下小川風流の画が平成元年に原田訓介氏により奉納されている( )
神殿には、下小川西八条にあった乙姫宮を合祀してあり( )また神苑の西北端杉林の中に稲荷神社がある社前大鳥居の横に猿田彦大神を祀る( )


下小川八幡宮
 
楼門の彫刻
 
本殿
 
鷹の石塔
 
下小川の風流

小宮さん(西側)

分霊をお供した先祖の小宮 
 下小川八幡宮の境内に周りの堀川から流れて池があり、また下の堀川に流れて田んぼの用水になっている。毎年、池の真中にある石塔の神に対して祭事が行われている。詳しい由来は調査中です( )
 下小川風流(瀬高町無形民族文化財)
 宇佐八幡大社の分身を下小川八幡神社に遷宮の行列を氏子の祭礼の行事とし( )後世にさらに徳川時代の参勤交代の大名行列のやり方を取り入れて、今日の祭礼の行事になった( )現在行っている風流の中の鋏箱のおどけた文句の中に徳川時代の庶民生活が想像される。
*若様の初上りションベンタコどみや片付けろサトサイサイ ( )鋏箱一代後家暮らし洗濯しゅうよりやボボさせろ、ボボしゅうよりや砂糖なめろ、三日も四日も寝てなめろサトサイサイ*オドンゲン( )チャン達ちゃ飲みの助、天からオテテもまた飲ますサトサイサイ*段々畑のボンブラジョ(かぼちゃ)なるこっあ知らずに、はい回るサトサイサイ( )終戦より途絶えていたが先祖の伝承してきた文化遺産の消滅を憂慮し昭和53年風流保存会が出来10月19日の祭礼に復活。町の無形民族文化財に指定されている( )現在の祭礼は11月の第2日曜日に行われる( )
 

下小川風流
 
下小川風流奉納画

 猿田彦(さるたひこ)大神  下小川八幡神社鳥居左側
 鳥居の左脇には猿田彦の石碑がある。道の神、境の神でもある道祖神とされた猿田彦神(さるたひこのかみ)は、江戸時代の中期頃から庚申信仰(こうしんしんこう)とも習合して信仰されるようになった( )これは「猿と申」の共通性から、神道家によって結びつけられたものと言われ( )会食談義を行って夜明かしで神仏を祀ることから庚申待とも呼ばれた( )
 稲荷神社 下小川八幡神社本殿西側
 本殿の西側の杉の林の中に稲荷神社が鎮座する。稲荷信仰は京都伏見の稲荷を各地に分霊、祀ったというが、もともと農耕の神である( )
 本殿の東側には下小川東の妙光寺の北脇(現在は庭)にあった学問の神様( )菅原道真公を祀る天満神社を遷宮して小社を建立して祀つてある( )
 天満神社  下小川八幡神社境内
 八幡神社の本殿の東側には下小川東の妙光寺の裏(北脇)にあった学問の神様・菅原道真公を祀る天満神社を遷宮して小社を建立して祀つてある( )
            
  観音堂   下小川東
 下小川東の田んぼの広がる北方にお堂がある。女子小学生により、まつりを行う( )
 閻魔(えんま)     下小川公民館
 公民館の広場の入口西側にお堂がある。8月16日に男子小学生により、まつりを行う。
 井手の上八幡神社   井手ノ上
井手の上の産土神( )境内に天満宮の小社を祀る。南方100m位の所に木立ちに囲まれた池あり。大日如来堀と呼ばれている。木立ちの中に石の碑があり、以前、大日如来を祀ってあつたと思われる( )
 妙光寺(東琳山)   下小川  
 現在の妙光寺の以前にあった寺は古くは天台宗の寺院で長らく廃寺で( )石の板碑(写真)と五輪塔の倒壊した丸い胴のみが残っている( )板碑は明治の廃仏毀釈の難にあって、妙光寺の北側にある堀川の洗い場の敷石( )に敷かれていたものを、昭和50年頃に引揚げて住職が境内に安置されたものです( )高さ94Cm幅60Cm厚さ8Cmの安山岩の切石に上部に月輪の中に阿弥陀如来の「キリーク」阿弥陀如来の梵字、下部に刻銘があ( )
( )「一了」「西岩」 その下に「浄穢不二/何分自佗/巳身報土/唯心弥陀/應仁二年/戊子九月/十日満散/矣/大陽雋之」

「浄宣 善椿/理延 道訓 妙有/浄永 浄高/了香 妙光/道玖 性賢/妙永 妙慶/能迂 妙泉 妙祐/
 道秀 浄慶/宗永 正玖 元皈/妙圓 妙祐/道心 道泉 了桂/了金 道仲 了西( )

釈文は「真如実相は浄土穢土(災いの世)も差別はない( )一如だからどうしても自と他を区別をしょうか。万別一如の大真理を信じて、すでに吾が身は因果應報によってこの土にうまれたわけであるから( )推如来の本願を心に念ずるものである」との意味ある。建立は、応仁2年(1468)9月10日とあり、大陽焦之の名が記されている( )瀬高町では最も古い年号を持つ板碑である( )
 のちの世にこの地に移転した妙光寺は西牟田右京之尉で西牟田城主( )親元の次男(大友宗麟の祖父の代)で永正年間1504〜1521竜造寺の進攻により落城。右京之尉は三池の田尻鑑實の厚意により浜田村に住み浄土真宗に帰依し興教寺の僧(願休)になり( )1573年(天正元)阿弥陀如来の絵像を採り浜田に妙光寺を開祖する。127年後の元禄13年(1700)には東津留に移転し( )103年後の享和3年(1803)に下小川に移転し現在にいたる。天正年間に肥前の竜造寺隆信に寺を破壊され寺宝など奪われた( )尊象は3年後返され今に安置する。本堂1810年建立されている( )

 

 室町時代の板碑
 吉祥寺        下小川
 創建は不明だが相当に古いお寺らしく( )大乗妙典一石一字の碑立つ。禅宗(臨済宗妙心寺派)二尊寺の末寺。御本尊は弘法大使、住職の亡き今は、寺守りとして、寺を守っておられ、祈祷寺と呼んでいる。畳二枚位の広さの地獄極楽の掛軸二軸保存してある( )
 
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