庄福BICサイト 韓国歴史の旅 4日目
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【三清閣】
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毎日、充実した韓国旅行も最終日となりました。朝食は宿泊したソウル市江南区にある「リベラ」のホテルを出て市内レストランにて韓国式朝食を賞味、しかしそろそろ日本食が恋しくなりました。本日最初の観光である、「三清閣」はソウル市街の北にある北岳山の裾野の美しい森の中に、1972年「7,4南北共同宣言」発表当時、南北代表団の晩餐の場として自然に調和した韓国の伝統家屋韓屋で建設された、由緒ある場所です。それ以来、国賓の接待や政治的な会談の場所として使われてきましたが、現在は無料で開放され気軽に散策できます。歴史的には日が浅いが、風雅な佇まいや細部に手の込んだ建築として優れている。 |
南天門
三清閣、散策の入口です |
千秋堂
1年を通じて清浄な秋の趣を感じる
という意味で名付けられた建物 |
緑の香りが漂い、鳥の囀りが聞こえる |
幽霞亭
八角亭の構造で、八つの窓から
光が差し込むように設計されている |
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一和堂は 三清閣の中心となる存在で、1階の韓食堂では現代風宮廷料理を堪能でき、韓国伝統芸能もあり2階の茶院ではテラス席で喫茶しながら景色を眺望できる. |
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聴泉堂
近くに小川があることから、春の水の音が
聞こえる場所という意味の離れ佇まい |
塀や瓦にも韓国伝統の技法が使われている |
一和堂
南北がひとつになろうという意味からイルファと名づけられた歴史的な建物。
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【宗廟】
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ソウル市街地の北東に広大な森にある宗廟は、朝鮮を建国した太祖李成桂(1392~1398)が、首都を開城(現・北朝鮮)から漢陽(現在のソウル)に移し1395年(太祖4年)に建てられました。外大門で整列し、民族衣装を着た女性の宗廟の日本語専属ガイドさんと一緒に歩いて観覧する。正殿の右の敷地には祭祀を行う為の斎宮や典祀庁の建物がある。正殿は李朝時代の建築物の中で最も整然とし、荘厳かつ神聖な場所です。李氏朝鮮時代の27代の歴代の王と王妃の位牌が、柱と柱の間に1組ずづつ祀られ19の部屋がある。神室に安置された神主(位牌)は栗の木で作られ、小さな穴が空いていて、亡くなった人の名が書かれている。この神主に魂が宿るとされた。毎年ここで行われる宗廟祭礼楽は、器楽や歌、踊りで構成され、位牌のある室の祭床にはお餅と木の実、穀物、肉などが、正殿の廊の尊所床にはお酒と水が供えられ、500年まえの旋律をそのまま伝えています。 |
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外大門
ここで宗廟の日本語専属ガイドさんを待つ |
斎宮
斎戒沐浴して祭祀の準備をする部屋 |
正殿の柱と柱の間に1組の王と王妃の位牌を祀り
歴代君主の位牌を奉って祭祀を行う空間
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正殿の尊所床で酒と水を準備している祭官
(観覧パンフレットより)
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永寧殿は正殿の西側に1421年に建立されました。あまり有名でなかった王たちが眠る宮とされ、太祖の4代祖、正殿より移安された王と王妃、および死後称号を贈られた王と王妃の位牌34位を16室で祀ってあります。しかし、行なわれる行事は正殿と全く同様である。 |
永寧殿
あまり有名でなかった王たちが眠る宮 |
永寧殿門 |
永寧殿楽工庁
祭礼楽を演奏する楽工が待機し練習した所 |
宗廟祭礼楽
中央の通は先祖のための神路で
右は王、左は世子が歩く道である |
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純豆腐チゲ |
李氏朝鮮王朝は、儒教をベース にした文治国家として500年以上にわたる長期政権をしたが、日本との関わりは、1404年、室町幕府と国交回復して日朝貿易盛んでした。1593年および1598年には豊臣秀吉の朝 鮮出兵を受けて国土の大部分は荒れ果てた。このとき日本軍は、当時世界最高水準にあった種子島銃を使用し、 圧倒的優勢に戦闘を進めるが、大砲をともなった明の参戦、朝鮮半島の在地領主の蜂起、海上での敗戦などによって敗退して、国交を失う。1607年に 江戸幕府と日朝国交回復交渉を始め、その後に朝鮮通信使による交流が始まっている。1876年日本の明治政府と日朝修好条規締結。1910年日韓併合条約に基づき日本に併合され消滅している。
昼食は「純豆腐チゲ」 日本のおぼろ豆腐のような、押し固める前のやわらかい豆腐を使った鍋料理です。あさりなどの貝類や、牛肉や豚肉などを煮込んだ、だしに純豆腐、ねぎ、きのこなどを入れ、とうがらし油や、タデギ(とうがらしペースト)などでピリ辛に味つけをしてあります。白いご飯によく合います。 |
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【昌徳宮】
午前中に観覧した宗廟の北隣にある、昌徳宮は1405年、正宮である景福宮の離宮として建造された宮殿です。1592年の豊臣秀吉による文禄・慶長の役(壬辰倭乱)で敦化門のみ残され焼失し、1611年に再建されたのち、李朝第15代王の光海君(1571~1641)以降の約270年に渡って李氏朝鮮王朝の政務が行われた王の御所として使用されました。地形や自然環境を活かして建築物を配置する韓国の代表的な建造物として有名です。敦化門は1421年(太宗12年)、昌徳宮の正門として創建され、宮殿としての面目を整えた。その翌年、太宗の高徳を刻んだ15,000斥の銅鐘を掛けたところです。ソウルに残っている木造の二層門としては最古の門です。
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敦化門 |
敦化門の見事なモザイク模様 |
進善門 |
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大殿である仁政殿は堂々たる風格の瓦ぶきの2階建ての楼閣である。朱色の柱が建物をしっかりと支え、外壁には見事なモザイク 模様が描かれ、朝鮮王朝の宮廷美を今日にしっかりと伝えている。こちらで王の即位式、臣下の朝礼式、韓国使臣の接見など、国の重要行事が行われました。家臣たちが王様の前に勢ぞろいする時は、官位によって立つ位置が決まっており、 当然高い地位の者ほど王様の座る仁政殿に近いところに立つ。広場には、正 二位など官位の書かれた小さな石柱が並んで立っている。
昌徳宮の大殿・仁政殿
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仁政殿の彩色 |
仁政殿の玉座 |
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宣政殿は王の公式の執務所で、国事を議論したり、学者や官僚が儒教の経典や歴史を勉強したり、儒生たちを集めて試験をしたり、宴を行った重要な建物なのです。現在韓国に残っている唯一の青い瓦の宮殿。瓦の屋根の端に見える小さな石像はお宮を守る守護神として置かれた物で、西遊記の登場人物が並ぎ。和尚様、孫悟空、猪八戒・・・と続いてます。
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宣政殿の玉座. |
宣政殿の天井の装飾 |
大造殿の前にある王と王妃の寝殿 |
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大造殿には王と王妃の寝殿であり、王とその家族が生活していた中宮殿です。建物の特徴は、屋根に棟瓦がありません。韓国ではこの瓦を「龍棟」と呼んで、国王は龍に例えられたので国王の寝殿である大造殿の屋根には棟瓦がありません。
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大造殿前の
日時計 |
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大造殿・屋根には棟瓦がない |
外壁の装飾が鮮やか |
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床下のオンドルの焚口 |
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楽善斎は昌徳宮の片隅にある。今の建物は19世紀中期に建てられたが、王の未亡人などが暮らすところだった。そのため、ここは他の王宮の建物と異なり、丹青(五色の塗り)が塗られておらず、質素さを表している。1920年(大正9年)日本の皇族であった、梨本宮家から嫁ぎ、大韓帝国最後の皇太子李垠(イ・ウン)の妃となった李方子さんが、日本から1963年(昭和38年)に夫と帰国後過ごした場所だったそうです。夫が亡くなった後も、韓国に残り知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立される。方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、1981年(昭和56年)には韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。1989年(平成元年)逝去、享年87才でした。
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石焼ビビンバ |
昌徳宮の観覧後、明洞の繁華街を散策しながらお土産を探す。しかし日本の観光地とは違い、包装した品は無く、普通のロッテのお菓子を6箱購入、化粧品店では、カタツムリの化粧品を進められたが、効果あるか解らないのでアロエフェイスクリームを購入。空港に行く途中、ツアー専門の韓国食料店に立寄り、レトルトの冷麺を購入。2万円を両替した20万7千ウオンも7万ウオンが残りました。また韓国に来ようと~。本日の歩数計は1万7千歩を記録!空港で食堂を探していても、足が痛い・・。やっと日本食が食べれると期待したが、カツ丼など売り切れ!結局、石焼ビビンバとビールで我慢。ソウル発21時20分、大韓航空で帰国の途へ、羽田空港に23時30分着。空港の駐車料金5,500円を払い、自宅に着いたのは夜中の2時でした。疲れたけど充実した旅でした。終わり。 |
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