庄福BICサイト 【禁無断転載】  古地図に見る泰仙寺の歴史(H23・7・15製作・11月更新) 福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)泰仙寺

 泰仙寺村(たいせんじむら)は元は対岸の大和町の鷹尾(たかお)村にあり、陸続きでした。樹木が鬱蒼(うっそう)と茂り、森には自然の精霊が漂い神々が宿る聖地とされてきました。庄園(しょうえん)時代になると下庄(しものしょう)の開発名主により周辺地域の開墾(かいこん)が進むと森の中央に下庄の鎮守の鷹尾神社が祀られ、鷹尾別符と呼ばれ鷹尾神社の社領でした(.)庄園制度が鎌倉末期以降、武士により破壊され、天文6年(1537)田尻城(たじりじょう)(高田町田尻)田尻親種(たじりちかたね)は豊前の守護大名大友義鑑(おおともよしあき)に恩賞地としてもらった鷹尾村に鷹尾城を建て本拠としました( )戦国武将の田尻氏天正6年(1578)には勢力が後退した大友宗麟・義統(よしむね)から離反をして、佐賀の龍造寺隆信(りゅうぞうじたなのぶ)の配下となり柳川城の蒲池(かまち)一族(下蒲池)を滅亡に追いやった。ところが天正11年(1583)には龍造寺( )鷹尾城を奪われ肥前佐賀郡巨勢(ひぜんさがぐんこせ)に所がわりを命じられた。城主田尻氏が居なくなった終期の鷹尾城は時代の流れで鍋島・大友・立花・田中の家臣(かしん)が城主として入替ったが( )慶長20年(1615)6月、藩主田中忠政の時に幕府の「一国一城令」(1大名に1つの城)で鷹尾城は取壊(とりこわ)され現在では影も形もありません( )下記の鷹尾城略図は天正17年(1589)鍋島の配下となった田尻鑑種(たじりあきたね)が、鷹尾城の菩提寺・親種寺(しんしゅじ)を所領の肥前国下松浦郡(伊万里市東山代町)に移した親種寺で発見されたものです。江戸初期から廃城になる12年の間に画書かれたとされる()鷹尾城の古い絵図によると本丸の鬼門(きもん)(北東)には八幡宮の参道正面に聖母宮を指すちんじゅ(鎮守)が画かれ( )光蔵寺(真言宗)と現在の泰仙寺の前身である太せん寺(禅宗)が画かれ、東に500石余の穀倉(こくそう)地があり、周りを城の外掘の機能をもつ矢部川が流れている。現在の泰仙寺集落の場所である(.).

 




鷹尾村測量地図
 
@図 田尻氏の菩提寺 親種寺所蔵の古い絵図(伊万里市東山代町( )
 
  
田んぼの形状で蛇行していた頃の矢部川河川跡が解る(ほ場整備事業前の航空写真)



   【泰仙寺村の誕生( )
 鷹尾城が現存していた時代では中国の明や朝鮮との貿易も盛んで( )城下町として商業が盛んで鷹尾神社を中心として寺社が建ち並んでいました。「南筑明覧」によると江戸初期の寛永16年(1639)大雨洪水決壊(けっかい)の為に鷹尾の中堀新川(泰仙寺村)を瀬高川(矢部川)が流れ込み、鷹尾村は2村に分断され泰仙寺村の起源となり(.)渡舟場の開設となる。正保2年(1645)には津留村と同じく矢部川の蛇行(だこう)(矢部川七曲りの一つ)を直線とした一大工事(.)水害は減り、船は浜田村まで遠回りしていたのが短時間で通過できるようになりました(.)分断前の鷹尾村の穀物の村高は2,717石元和6年(1620)の資料))だったが東の領域の石高(こくだか)500石余が切り離され泰仙寺村となる。村名は寺院名を村名にしたと思われる(.)泰仙寺村の人々の馴れ親しんだ生活環境や菩提寺(ぼだいじ)鷹尾村にあり、水田の水利も強い制約を受けるなど当時は、よそ者扱いで( )舟で元の故郷の鷹尾村と行き来して交流を持ち、深いつながりがありました(.)泰仙寺村の外周りの内(ひらき)外開(ほかびらき)、東開、上開、下開は旧河川跡が開墾され、新たに出来た水田です。しかし旧矢部川跡の開墾地で標高が低く大雨の度に水に浸かり(.)現代の昭和40年代まで浜田村とに架かる水路の橋付近は浸水で浜田小学校に通学するに困難を来たしていました(.)
   【泰仙寺・光源寺(.)
 村の泰仙寺(たいせんじ)と隣の聖母宮は、江戸初期に簡易に書かれた古地図(上記@図)で(.)鷹尾城の東側に描かれているが、もう1つの光蔵寺(こうぞうじ)の場所を泰仙寺集落内を探索しました(.)集落の中心に中島静子さん宅が管理所有している「光蔵寺」の寺額が掛っている地蔵堂があった(.)(.)堂内の右のケースには、数百年も古いと見られる虫食い状態でも重たい木造の地蔵像2体が納められ(.)左のケースには霊を入替え代替わりした地蔵木像2体が祀られている(.)地蔵堂内の朽ちた旧地蔵像とお堂前の二尊並座が刻まれた笠塔婆(かさとうば)が鷹尾城があった栄華な時代を物語っているように感じた(.)蜑ヘ藩立花家分限帳(ぶげんちょう)の「延宝9年(1681)知行取(ちぎょうとり)無足扶持方共」の寺社領并諸御合力米の項の瀬高南部や鷹尾周辺の記載では、高(鷹)尾村の八幡宮、高17石6斗9舛(.)江浦の淀姫宮、高1石2斗・津留村の天神宮、高1石2斗8舛5合・太(泰)仙寺村の地蔵菩薩、2石8舛2合とあり(.)江戸時代には堀に囲まれた地蔵小路(しゅうじ)に光蔵寺の立派な地蔵菩薩堂があったと推測される(.)今の光蔵寺の地蔵堂は小さなお堂なったが、昔から参拝者が多く、お彼岸には、お遍路(へんろ)さんの昼食のお世話をしてきたと言う。昭和2・30年代ではお堂前には毎年(.)南秀太郎劇団の芝居小屋が架かり周辺の村からも観客が来て賑わっていた。劇団の子役の子供達は2週間余りの興行期間中は村(.)子供と一緒に仲良く浜田の小学校に通学していたと言う(.)


 明治22年(1889泰仙寺村と北側の東津留村は河内村・高柳村・浜田村と合併して河沿村となりました。明治45年(1912)には本郷村・小川村・緑村と河沿村は瀬高町と合併して瀬高町となりました(.)昭和17年(1942)3月昭和47年5月に架けられた泰仙寺橋は、まだ自家用車のない時代、鷹尾・中島に生活の利便性を持っていた村民にとっては(.)大きな喜びだったことが、聖母宮境内にある記念碑で感じ取れる(.)
 
光蔵寺地蔵堂
 
昭和初期?に入魂された地蔵木像
 
光蔵寺扁額のある新旧の4体の地蔵木像
 

   
古い地蔵像

 
光蔵寺の二尊並座の笠塔婆   
                        泰仙寺集落の航空写真



   
    【地名のはなし】
中土居
旧矢部川が北側を流れていた頃には土居であった名残りです( )
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鐘ノ免(かねのめん)(小字名)    泰仙寺
寺の鐘や鐘楼の費用を捻出し、免は免税された土地の意で、この地名は寺院などの免税された土地の遺名です。東津留の金付免(かねつきめん)も同じです( )
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内開(うちひらき)外開(ほかびらき)・東開・下開・上開(小字名)    泰仙寺
これらの地名は寛永16年(1639)矢部川の蛇行(矢部川七曲りの一つ)を直線とした一大工事によって開田された地名で川床跡で蛇行して連なる土地です( )
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源正(げんしょう)鐘ノ面(かねのめん)(小字名)    泰仙寺
矢部川の蛇行の堀替え工事で矢部川の州だった開田土地です( )
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 高畝町(たかせまち)(小字名)
 周りの水田より微高地であり水の引き込みには難点があつたが良田である( )
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芦高(あしだか)(小字名)    泰仙寺
(あし)は同じ読みの(あし)のことで矢部川の河畔に葦が茂っていた所の開拓地名です。
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舟小路    (通称名)
 舟の渡しがあった周辺の地区の呼び名です。
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地蔵小路   (通称名)
 光蔵寺・地蔵堂のある地区の呼び名です。

 
 明治13年頃の泰仙寺全域測量地図

 泰仙寺(しょううんさんたいせんじ)
 泰仙寺は戦国武将、田尻氏の鷹尾城本丸の北東の鬼門(きもん)にあたり、聖母宮・光蔵寺と共に本丸の鬼門を封じるために創建されたではないだろうか。江戸初期に幕府の「一石一城令(いっこくいちじょうれい)」により城が取壊される頃には宮や寺は現存してており、矢部川の直線化の堀替え工事で鷹尾村から分村当時はこの寺名を村名に使っている。その(のち)の世には廃寺となったと思われる(.)年代は不詳だが江戸時代、柳川の龍徳院禅宗の末寺となり祥雲山泰仙寺と号して禅僧代々相続している(.)天保2年(1831)(瀬高町誌では文化10年(1813)とある)柳河領主家臣、西山貞信が出家して春山と改名し真宗大谷派東本願寺に改宗し相続した(.)明治の初め大風にて倒壊し明治7年本堂を建立し今日に至る(.)本堂内には江戸期の薬師如来が祀られている(.)
 泰仙寺の聖母宮

 聖母宮の呼び名は一般的には「しょうもぐう」と読むが、地元では「せいぼきゅうと」呼ばれている(.)例祭には応仁天皇を祀る鷹尾八幡宮より母の神功皇后(じんぐうこうごう)を祀る聖母宮へ御神幸の行事があり、聖母宮からは風流の奉納が八幡宮に行われていた(.)しかし 正保2年(1645)鷹尾村が蛇行した矢部川の堀り替(.)直進化工事で村が二分され東に切り離された泰仙寺村が出来た(.)古書には鷹尾神社の神幸所(聖母宮(しょうもぐう))を観音堂の傍らに移すとあり堀り替えの場所にあったであろう(.)聖母宮旧記には、それでも泰仙寺村の聖母宮へ御神幸(ごじんこう)の行事は文政(ぶんせい)10年(1827までは舟で渡って行われていたが(.)その後は不便な為に途絶えている。現在では鷹尾の矢部川西岸の城跡(.)祀ってある聖母宮まで御神幸があり泰仙寺村には来ない(.)しかし泰仙寺村の産土神(うぶすなかみ)となり、祭は鷹尾神社と同じ10月19日に行わ(.)南の堤防沿いには祭りの費用をまかなう神社所領の祭田(さいでん)あったが現在は堤防拡張で消失している(.)


昭和24年河野哲夫氏奉納の
神功皇后像
 
  稲穂と鎌を持った「田の神さん」は、冬は山の神となり、春は里におりて田の神となって田を守り、豊作をもたらすと信じられています。泰仙寺村の(びらき)の田んぼに鎮座し豊年満作を願っていたが、祠の裏書きによると昭和18年11月に聖母宮の境内に移されている(.)

 左うしろには、お地蔵さんが祀られている( )
 
 昔の泰仙寺部落は農家が大半を占めていたが、油屋、蝋屋、雑貨、瓦屋などの商店や工場もあり商家前に「恵比寿さん」は商売繁盛を願って明治23年に建立されている(.)道路事情などで集落内から聖母宮境内に移されたとみられる( )                       
鷹尾村時代から「観音堂」はあったらしく、江戸初期の寛永16年(1639)矢部川の蛇行(だこう)を直線とした一大工事、観音堂の傍に聖母宮が移されている(.)観音信仰は往古から、(.)観音経」を称えれば、姿を千変万化させて(.)この世のあらゆる場所に現れ、災いから救済される功徳( )があると信仰をあつめました(.)春と秋のお彼岸には善男善女( )巡礼姿がみられ泰仙寺の「お観音さん」である(.) お堂の中にある写真は、昭和時代初期の泰仙寺村( )信仰者の巡礼姿であろうか(.)    
 
 泰仙寺の渡し   泰仙寺⇔鷹尾(大和町)
 泰仙寺が鷹尾から分かれたのは、寛永16年(1639)に矢部川の大雨氾濫で鷹尾村の中堀新川(泰仙寺村)にも矢部川が流れ込み、鷹尾村は2村に分断される。したがって舟渡しはこの頃から始まったと思われる(.)正保2年(1645)には蛇行(だこう)を直線とした一大工事で鷹尾ー泰仙寺間に本流が流され、泰仙寺浜田の間を流れていた矢部川は埋立てられ田んぼと水路に変わった(.)泰仙寺の渡しも他の渡しと同様に番小屋があり干潮時は船橋がかかり歩いて渡っていた(.)船も同じく底が平たく浅い渡し専用のものであった(.)明治末頃の渡し守りは「シンさん」といっていた。渡し賃は村の各戸から米をぬいて渡し守に渡していたそうで1回1回金を払わなく渡っていたそうである(.)後はしばらく「ハヤトさん」が引き継がれておられたそうである。老幼婦女には危険な状況の渡舟場が昭和14年(1939)武藤覚一氏と村有志の発起で改修された(.)蜑ヘ土木事務所長澤村義道は危険な渡舟場の状態を見るに忍びず、憤然と立って潜水橋(せんすいばし)(大水の時には沈むを企画して昭和15年(1940)に架設されたが翌年の洪水で流失し( )澤村はさらに国費補助・町村当局、地元民の協力を得るなど努力支援され、昭和17年(1942)3月に念願の泰仙寺橋が()けられた。昭和39年(1964)に、船が衝突して中央部が崩れて通行できなくなり、渡し舟(下写真)が人や自転車を運んでいました(.)当時は通学にも利用されていたが大雨の時にはロープを対岸まで張り舟は渡っていたが水流が激しい時には転覆(てんぷく)して被害を出している。昭和47年5月に村民期待の幅6m、長さ159mの鉄筋コンクリートの橋が完成し( )聖母宮の境内には泰仙寺橋完成の記念石碑が建てられている(.)

昭和17年の橋架設に努力支援した
澤村義道の顕彰碑(聖母宮境内)
 

村一同による昭和47年の
泰仙寺橋完成記念碑

泰仙寺の渡し(昭和39〜47年)
.参考文献 蜑ヘ藩立花分限帳、蜷歴史資料集成第三集・旧柳川藩志・瀬高町誌・田尻文書・親種寺文書・大和町史・故鶴記一著「地名の話」
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