庄福BICサイト     【禁無断転載】     古地図に見る高畑村の歴史        柳川市三橋町高畑
  
小字の宮ノ内にある三柱神社の創建は文政9年(1826)です。初代立花藩主・立花宗茂と妻のぎん千代、その父戸次道雪[べっきどうせつ]の三神を祭った神社()6万2000平方mもの敷地をもつ神域の一角には高畑公園が整備され桜の名所で、春には多くの花見客で賑わう(.)毎年10月の上旬の3日間は秋の大祭(通称・おにぎえ)が開催され、県の無形民俗文化財に指定されている「どろつくどん」が奉納される(.)
 
 
三柱神社

おにぎえ 
 
明治10年頃の測量地図
 
   【柳川城の擬宝珠(ぎぼし)福岡県柳川市
 高畑(柳川市三橋町)三柱神社の表参道の入口の二ッ川に架かる太鼓橋の朱塗の欄干(らんかん)擬宝珠(ぎぼし)の内、四隅の古い4個の擬宝珠に線刻された(めい)には九州筑後國山門郡/柳川城之橋也/作者瀬高上庄之住/平井惣兵衛尉平成定/慶長四己亥(つちのとい)年八月吉日/小工拾参人/重八拾九斤」とある( )この擬宝珠は筑後国山門郡の柳川城(現・福岡県柳川市本城)の「二の丸」から「三の丸」の内堀(うちぼり)に架けられた橋のもので瀬高上庄(現・福岡県みやま市瀬高町上庄)鋳物師(いもじ)平井惣兵衛尉平成貞(ひらいそうべえじょうたいらのなりさだ)が安土桃山時代の慶長(けいちょう)4年(1599)8月に職工13人と共に制作したもので、重さは89(きん)(約53、kg)あると刻まれている。この擬宝珠は太閤豊臣秀吉が死亡し、柳川城主立花統虎(むねとら)(後に宗茂(むねしげ)に改名)が朝鮮の役(慶長の役)から帰国した翌年に鋳造された逸品で貴重な歴史遺産である( )

               
@三柱神社の欄干の擬宝珠(写真文字部なぞり書き表示) 
      三柱神社参道入口       
  
(柳河明證圖會(柳川城・二の丸・欄干橋)の部分図)
幕末の元治元年(1864)長州戦争に参加した柳川藩は上庄平井家の平井蘇介長崎に遣わしてオランダの大砲製造の技術を学ばせ,(.)彼の帰国後に柳川藩の練兵所のあった三柱神社の神苑境内に「御製造所」を造り大砲製造を始めた(.)欄干橋傍の松月旅館の西側の広い空地区でないかと言われている(.)三柱神社の北部(右地図)に二ッ川から導水した水を利用した水車を(.)硝石と硫黄とを混合して火薬(煙硝)を作ったり旋盤の動力として使用したと思われる(.)その製鉄所も明治3年(1870)には閉鎖されている(.)その製鉄所の図面や大砲の図面など上庄から分家した三橋町蒲船津散田平井蘇介の家に残されていた(.)その後、蘇介は分家した蒲船津散田で鋳物業を営んでいたが明治7年(1874)瓦焼(かわらやき)に転向されたという(.)蘇介の墓は柳川の瑞松院にある(.)

                          当時の長州砲
 
水車小屋の位置(明治時代)
 神社の欄干橋の下手には柳川名物「川くだり」の柳川観光開発や柳川橋の袂には大東エンタープライズの乗船場があり、数隻の「どんこ舟」が待機している。欄干橋のたもとに城壁造り3階建の料亭「松月」がある。ここは元「懐月楼」と呼ばれた女郎屋で(.)明治40年頃、当主の中島健介の祖父によって建てられたもので(.)懐月楼はもと神城外の高畑保育園の地にあった2階建の女郎屋であった。この2階から東山に出る満月を眺めると懐月楼の真価を感じる(.) 
 
 
昭和40年のボーリング場