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  台湾の日本統治時代は明治28年(1895)-昭和20年(1945)ですが終盤の(昭和16年(1941)には、台湾に 日本人約36万人が住んだとされる。台湾では本国のため貢献した日本人の功績を顕彰(けんしょう)し、知らしめる努力を続けている。台湾のお年寄りたちは、偉人の功績を称える一方、こう強調する(.)「お役人ばかりではありませんよ、名もない多くの民間人が、台湾のために献身的に働いてくれた」と言われる(.)明治43年(1910)に台北市に建てられた洋館「撫台街洋楼(ぶたいがいようろう)」」(別名・大和町洋楼)が、2010年で落成100年を迎えた。洋館は当初(.)土木建築会社「高石組」の本店事務所とし て建設され()初代経営者は福岡県沖端村(現・柳川市矢留本町)出身の高石忠慥(1850~1922)だった(.)1930年代後期に洋館は酒類貿易会社「佐土原商会」の社屋となり、高石家の消息も途絶えたという(.)西日本新聞の尽力で子孫が見つかり、平成22年(2010)7月に柳川在住の高石家の家督を相続した高石忠慥の弟・熊太郎の孫である(.)高石京子さん夫妻が落成100年記念式典に招かれ(.)忠慥氏の写真や土木建築会社「高石組」の法被を寄贈された(.)これを機会に地元柳川では一般社団法人九州日台経済文化交流院が発足され(.)高石組の研究と資料集め、および台湾との親交を深めています(.)
 落成100年に招待された高石京子夫妻   
 嘉永2年(1849)12月13日高石忠慥(たかいしちゅうぞう)筑後国山門郡沖の端村字矢留(やどみ)の柳川藩士の田中儀八の長男として誕生する。
幼い時に、親は高石の姓を継いでいる(.)矢留村は立花家が代々藩を治めた柳川城の西南側にあり漁業の村として栄え、武家屋敷も点在していた。高石忠慥は5人兄弟で(.)次男で村役場に勤めていた
熊太郎高石家の家督を引継いだ(.)3男の金原豊造は台湾で高石組で得意の土木工事を担当()のちに台南支店長として活躍、当時、戦役を避ける為に金原家の長男の姓と交換していた。位牌は矢留の本家にある(.)4男は戸嶋亥十郎で柳川町出来町で医者を開業・当時戦役を避ける為に戸嶋家の長男の姓と交換(.)子供たちは福岡市で活躍。妹のコマは柳川の立花家に勤めていた富安家に嫁いでいる(.)(子供たちは大牟田の三池鉱業や県の土木課で活躍している(.)
 明治2年(1869)に19歳で上京。翌年、大蔵省臨時建築局に入り東京市内(現東京都)京町から新橋までの
             民間家屋建築工事に従事し、のちに東京建物会社に優遇され転職する(.)

             数年後に退社して山口県土木課に勤務する。結婚した時期は不明であるが、子供は3人の娘を儲ける。
 
 明治2年(1869)
に19歳で上京。翌年、大蔵省臨時建築局に入り東京市内(現東京都)京町から新橋までの
             民間家屋建築工事に従事し、のちに東京建物会社に優遇され転職する(.)
  
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             数年後に退社して山口県土木課に勤務する。結婚した時期は不明であるが、子供は3人の娘を儲ける。

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 明治17年(1884)
、34歳で皇居御造営事務局に転任する。

 明治19年((1886)山梨県や長野県の土木技師として天才を発揮する。

 明治19年((1886)
に大倉喜八郎氏に認められ大倉財閥の土木建設部門の大倉組(現大成建設)に入り、土木
              琵琶湖から京都府への水路計画(大津-鴨川合流点間)の疏水(そすい)工事に従事した。

 
明治23年(1890)に海軍の呉海軍鎮守府建築工事に従事、
              および佐世保海軍鎮守府(ちんじゅふ)の建築工事にも従事し完成させている(.)

 明治28年(1895)6月7日、日清戦争に勝利した日本は、基隆入城経て台北に城内に無血入城を果たした(.)

 明治29年(1896)48歳の時、大倉組台湾出帳所の土木主任として日本が領有した台湾に渡る。()けの赴任であった(.)
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 明治29年1月23日付け
佐世保海軍鎮守府監督部に高石忠慥が提出した造船所構内で鍛冶場より失火した届け書


明治28年の日本軍の台北の北門に無血入城

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  台湾は、かつては原住民と福建省からの移民や流民、倭寇(わこう)などが争いを続けているような孤島だった。17世紀にはオランダ人が植民地にしたこともあったが、支那大陸からの移民と原住民を対立させる支配形式をとったため、台湾の文化や国籍意識は育たなかった(.)日清戦争に勝利し清国から台湾を接収した日本は世界に認められる一等国になる意図もあり、新領土である台湾を日本と同じ(.)いやそれ以上の台湾にしようと、インフラ整備や産業振興に尽力した。しかし台湾には、風土病や原住民の反乱が多く(.)清時代は文化・文明の範囲外としてまともに統治することをあきらめていた(.)ヨーロッパから持ち込まれたアヘン吸引の悪臭もはびこり、土地も人心も荒れ果てていたのだ(.)言葉が統一されていないため、部族間でも意志の統一が図れず、生蕃の襲撃も発生していた(.)こんな困難を乗越えて築かれた日本統治時代のインフラ整備が、現在も台湾経済を支えています(.)
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     【高石忠慥の回想Ⅰ】
 台湾へ行く者は世人より「君はそんなに借金が出来たのか」と不審がられる程であって、借金で首の廻らない人間か、(はし)にも棒にもかからぬ極道者(ごくどうもの)でもなければ台湾など行くべきでないと言われる状態であった(.)
明治29年
に台湾に渡った当時の台湾航路の汽船は大抵2千トン内外の小さな船で、しかも航海に5日間も要して不便で大変であった(.)それでやっと台湾北部にある基隆港(きーるんこう)
上陸すると、昼間でも灯火を要するような薄暗い土人家屋ばかりで街を通るには悪臭が鼻をつく不潔な市街でした。衛生設備が不十分な為に悪疫(あくえき)がはびこり、さらに土俗や山地原住民である生蕃(せいばん)は遠慮なく出没横行して枕を高くして眠ることが出来なく命()けであった。当時、(すで)に初代台湾総督の劉銘伝(りゅうめいでん)が建設した基隆(きーるん)新竹(しんちく)(台湾北西部)に至る99kmの汽車の便があったが、実に不完全なもので水返脚(現・汐止区(せきしく))の付近まで行くと汽車が動かなくなり乗客一同が下車して汽車の後押しををするような騒ぎとなっていた。今日から考えると(むし)滑稽(こっけい)である。(のちの明治32年から台湾縦貫鉄道が日本から鉄道資材を送り台湾総督府鉄道部技師の長谷川謹介(きんすけ)らの尽力により悪疫その他多くの困難と戦いながら明治41年に完成している。)当時の旅行は実に困難で非常に危険が伴っていた(.)現に私が旅行中に三又河に宿泊したことがあります。その時一日延ばして私がそこに宿泊していたなら、すでに土匪(どひ)その土地に住みついて害をなす集団の為に殺されていたかかもしれません。というのは私が、その宿屋を出発した晩に一群の土匪(どひ)が、その宿屋を襲って皆が殺されたのです・・・その話を聞いて実にぞっとしたことがありました(.)
 
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          【高石組の創立】


  明治33年(1900)大倉組を辞め、52歳にて独立して台北で土木建築請負業・高石組を実弟の金原豊造創業しする(.)
           おもに公共物の建設を請 け負った(.)

             
高石忠慥は建築物が得意で実弟の金原豊造は土木工事が得意で(.)のちには「土木王」と
           呼ばれ
ていた(.)







 明治34年(1901)
台湾神社が創設される。
             台北~台南間の電話が開通する。(.)
             阿里山で大森林が発見されている(.)








 明治38年(1905)台湾北部を流れる川、新店渓上流の亀山の亀山発電所建設請 け負い完成まじかの
       2月20日の夜明けに工事現場の
配下の者15名が
台湾原住民の生蕃(せいばん)(山地原住民)に襲撃され死亡した。
        葬儀は西本願寺台湾別院で行われた
(.)  

社屋、新築落成御披露の新聞広告
   
現在、梵鐘と番所が再現されている

             
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明治39年(1906) 小南門通、西門外街の市區改正工事を行う。                 

 
明治41年(1908) 台湾初の博物館の児玉総督後藤民生長官記念館(現国立台湾博物館)の建築を受注した(.)


 明治43年(1910)7月撫台街(ぶたいがい)一丁目「高石組」の社屋の新築落成披露を行った。この建物は現在、郷土資料館「撫臺街洋樓」と呼ばれている
               合資会社「高石組」とし、手広く事業を展開し新竹(現・新竹市)の南門街にも出張所を置く(.)
               (撫台街は大正12年に大和町と改められ、終戦まで、「内地人」を名乗っていた日本人居住者が多く住んでいたエリアである(.)) 
              
              台南の大北門(己)ノ18番地に支店を置き実弟である
金原豊造台南支店長とする(.)
                
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               秋田木材会社の木材を台湾全島に一手に販売する。のちに阿里山木材の販路が民間に許可されるや本島の材木商を株主として(.)
               合資会社台湾木材共同販売所を創業し、明治32年に高石組に入社した田口泰蔵主事にして経営を一任する(.)
               

               撫台街の大溝の埋立て工事を請負う(.)

 明治44年(1911) 台南郵便局倉庫の新築工事を行う。
                
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              台湾神社で高石組10周年記念式を行う。
             

              台湾神社
台渡十年記念として鳥居を献納する(.)
              
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もう1基は大正3年10月28日、高雄の古賀組古賀と三千人の献納で、これらが台湾神社の鳥居の柱である。
              終戦(1945年)後に新北市長福街の「
三峽清水祖師廟」が三度目の修繕を際に(.)台湾神社で取壊された鳥居を購入し。
              廟本殿内の両側の高さ5メートルもある柱、各4本に使用されている(.)
  
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台湾神社の絵画
 
台湾神社境内での子供のスナップ

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神社跡地は圓山大飯店となっている







三峽清水祖師廟にある台湾神社鳥居を再利用した石柱


       【高石組本店】
 明治43年(1910)に合資会社「高石組」の本店として台北城内の北門の大和町通り(現・延平南路)に建てられた洋館で、台北駅の西側に位置する。建物の一階部は石組みの半円アーチで「亭仔脚(ていしきゃく)」と呼ばれる台湾式アーケード。石組みが基本で、火災にも耐えうる。二階部は木造となっており(.)屋根は銅葺で、優雅な雰囲気が醸し出されている洋式建築です。なお、用いられた石材は台北城の城壁を撤去した際に切り出され転用されたと伝えられている(.)戦時色が色濃くなった昭和15年(1940)には30年続いた高石組を廃業し(.)日本酒「富久娘」輸入販売もしていた酒造業者の佐土原商事(佐土原吉雄社長)に社屋を売却している(.)昭和20年(1945)第二次大戦で日本は敗戦した為に台湾の日本人は本国に引揚げ、この建物は中華民国政府に接収された。そして長らく警備總部(.)そして国防部の管轄下に置かれていた。さらに後には、民間に払い下げられ、漢方医学の診療所となっていた()1997年には台北市から歴史建築として古蹟の指定を受けたが、隣宅の火災によって、建物の木造部分が焼失(.)その後は長らく放置されていた。5年間の修復工事が行われ民国98年(2009)(日本暦平成21年)には市史跡となり台湾の歴史資料館として一般公開された(.)なお、現在、この一帯にはカメラ機材を扱う店が軒を連ねており、「台北照相街」(カメラ・ストリート)と呼ばれている(.)
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正面は加藤時計店・うしろの煙突は台北湯。 現在の通り名は博愛路(左)、延平南路(右)の名称に変更

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高石組のある撫台街は大正12年頃には大和町に改称されている

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地図右が北方向
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石造と木造の混合構造で一階全面はのアーケード・2階の窓は上下開閉
屋根は銅葺で洋式建築・明治期の民間商業建築としては貴重である

 
明治期の農工銀行前から高石組本店のある旧大和町通りの写真。
正面に見えるのは北門で昔、台北が城壁に囲まれていた時代に、
最も栄えた街への入り口となっていました


柳川の高石京子さまの資料館寄贈品

椅子に座った弟の金原豊造と右に立つ高石忠慥の写真


高石組の法被(はっぴ)(高石京子さん寄贈)
 
故郷の福岡県からの訪問・2015年3月4日





台北市中正区延平南路26号
撫台街洋楼 10:00 ~ 17:00 (月曜休み)
(MRT台北駅徒歩5分) 02-2314-5190
 
 
一階アーケード

 室内階段


高石組本店近くにある現在の北門
 
屋根部
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台湾に来た時代の基隆港から台北  新竹までのコース
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 基隆港 台北市街  新竹神社 

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                【亀山発電所】
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 明治36年(1903)土倉龍次郎は台北電気株式会社を設立、新店渓(しんてんけい)上流の亀山に発電工事を起し、高石組も工事を請け負った。社長の高石忠慥の手記によると「明治38年(1905)2月20日の夜明け、私が台湾での最初の水力発電所「亀山発電所」の工事を請負って、工事中に不幸にして配下の者15名が生蕃(せいばん)台湾の高山族(高砂族)のうち、漢民族に同化していなかった先住民族襲撃(しゅうげき)をうけて、殺害され無残にも首を切断し持ち去れた事件があります。台湾原住民には殺害した人間の首を()る風習があり、これを在台の漢人や日本人は「出草」(首狩り族)と呼んだ。思えば涙の種に他ならんです(.)」(日本統治時代末期になると出草はほとんどみられなくなるが、完全に出草という風習が消滅するのは台湾国民政府時代となる(.))襲撃事件があった年の8月には660馬力の発電所を完成させて(.)発電が開始され台北市に電力が供給された(.)その後、更なる電力需要に対応すべく、明治40年(1907)には同じ新店渓下流の小租坑に3千馬力の発電所を起工している(.)亀山発電所は38年間稼働(かどう)し役目を終え昭和13年(1943)に廃止され和14年(1939)に完成した2代目の亀山発電所(現・桂山発電所)が完成して発電を稼働している(.)最初の亀山発電所は現在では建物の廃墟が残っている(.) 
   



   
 

 
明治40年(1907年)同じ新店渓下流の小租坑に
3,000馬力の発電所を起工

 

第2代目亀山発電所(現・桂山発電所)

昭和14年完成
 




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台北県新店市にて撮影

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              【高石忠慥の回想Ⅱ】
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 台湾に渡り、今日までの16年間の事を追憶(ついおく)しますと、当時は物価なども一定せず(はなは)だ乱調子で、商人なども我勝ちなる欲望の一点張りで意外な金儲けもあったが、その一面においては、何時いかなる病難災害が身に降りかかるか解らず。ほとんど命懸けでしたから、(もう)ければ儲けただけ使い果し(.)真面目に貯金した者は、すごく少なかったと思います。ことに請負業者などは諸材料を請負のたびに、本国に注文し移入し、職工も同じく本国から呼寄せたり不便な時代でした(.)その為に請負の時期を誤り、思わぬ損害を招くことも多く、請負金の高い割には儲けがなかった。日本の領有当時の渡台者の中には、新領土開発の為に国民の義務として(.)この険悪なる台湾へ命を犠牲にして渡台された人もあるだろうが、それは(ごく)少数の人で、その大部分は台湾は、金でも落ちているように思って一獲千金(いっかくせんきん)という欲望心から、ほんの腰掛け的に来た者が多かったと思います(.)当時から僅か16年位の今日まで、このような発展をしようとは、無論当時において予想もしなかった事で、実に驚くのはかありません(.)全く別天地の感ありて夢のように思われ実に結構なものです。海陸運搬の便といい、教育衛生の普及、産業経済の発達などは申すに及ばず、恐るべき悪疫(あくえき)も殆んど絶滅して人心も次第に落ち着き、真面目に考えるようになって、確実な成功を企画する時代に進み、その他、すべての文化の程度において母国に優れるとも劣らぬようになったのは(.)実に祝福のはかはありません。ただ(うら)むべき事は現今社交上において、無益な弊風(へいふう)(悪いならわし)がある事です。それから次第に内地から台湾視察に来る人も増加しましたが(.)まだまだ内地にては台湾を野蛮で未開の土地と思っている人もいると思われるので台湾の発展した様子を母国人に知らせたいものです(.)
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 【高石組が施行した児玉総督後藤民生長官記念館】(現・台湾国立博物館) 所在地・台北市中正区の228和平公園内

 
第4代台湾総督児玉源太郎は民政長官、後藤新平民政長官と共に、土地改革、電気水道供給施設・交通施設情報施設などを整備、衛生環境改善、アヘン根絶(こんぜつ)、学校教育、製糖業などの産業を育成することにより台湾の近代化を推進し、一方で統治に対する反逆者は取り締まり統治体制を確立した(.)その小玉源太郎が(明治37年(1906)に急死。その民政長官であった後藤新平(ごとうしんぺい)も南満州鉄道初代総裁に赴任が決定し、台北新公園(現・二二八和平公園)で後藤新平の離台送別会で(.)児玉源太郎・後藤新平記念館を建設することが決定されたが、総督府には資金の余裕がない為に莫大な建築費用は一口一円の寄付金で賄われた(.)総督府営繕課の野村一郎荒木栄一の技師により設計、高石組が建築を請負して8年の歳月を経て大正4年(1915)完成しました(.)天井裏には建築工事した高石忠慥の名前が残されている。内部は列柱とドームを持つギリシャ神殿風の建物は(.)建築構造は鉄鋼コンクリートとレンガを組合せ、主要建材は日本の大垣市赤坂町の黒大理石と水戸の白寒水石(しろかんすいせき)で、木材は現地の台湾ヒノキを使用し、外壁には洗い石をあしらった(.)内部の高さ30m程の天井のステンドグラスには児玉家の家紋である軍配団扇と後藤家の家紋である藤を組み合わせた図案が使われ(.)もともと本館が二人の功績を称える記念館として建てられたという由来を物語っています(.)当初は「児玉総督後藤民政長官記念館」の名で設立されましたが、翌年には「台湾総督府民政部殖産局附属博物館」、4月には「台湾総督府博物館」と改称された(.)戦時色が色濃くなった昭和初期の絵葉書によると台北新公園博物館と改称されている。絵葉書には「守れ南の最前線」と戦争への意気込みが書かれている(.)
 大正12年(1923)
に台湾を訪れた「昭和天皇」(当時は皇太子)もここを訪れています(.)現在は台湾の国定史跡に指定され、国立台湾博物館の名称となり、台湾の歴史と自然を主題して展示されている(.)日本博物館まえにある日本統治時代に満州国皇帝から台湾神社に贈られた青銅製の牛の像があり、博物館の向かいにはドイツのホーエンツォレルン社から輸入された台湾初の蒸気機関車が(.)隣の九号機関車は日本で始めて鉄道が横浜~新橋間を走ったときの10両のうちの1両が展示してある。ここ、二二八和平公園には台湾護国神社の神馬も配置されている(.)ほかに館前の路地には、かつて台北勧業銀行および三井物産株式会社だったという建物が昔のままに残っています(.)
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 設計者総督府営繕課技師:野村一郎・施行高石組 
 

台北公園内故兒玉伯後藤男記念造營物建設の景
穹拱工事(其一)

高石忠慥発行・兒玉緵督後藤民政長官記念博物館 : 寫眞帖より
「社團法人台灣歷史資源經理學會」資料提供
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〃 塔家鉄筋混凝施行中の景 穹拱工事(其二)

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昭和15年4月30日 台北市勧業課観光係より転写

 


大正5年4月5日 台湾日々新報より



大王ヤシの街路樹が植えられた公園通り
1939年
 
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階段方向からの玄関側 
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玄関ホール天井・ステンドグラスが施されてたドームが見える
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児玉総督、後藤民政長官の像が飾られていた場所(花瓶台座部)



保管されていた児玉源太郎と後藤新平の像 

 
昭和初期の絵葉書・.台北紀念博物館 
   
 大正元年(1912)台南支店長の金原豊造台南西市場の建築を受持つ(.)
             
                
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             6月9日基隆郵便局を竣工させる。
       
     
 
 
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       当時、東京市京橋区元数寄屋町
(現在の東京都中央区銀座や有楽町付近)にも家があり、帰国すると宿泊していたであろう(.)
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      故郷の沖ノ端村矢留にも帰省して、実家の傍の矢留尋常小学校(現・矢留小学校)の校門を
 寄贈している(.)

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 矢留村の氏神さまは六騎浪士が創建した矢留大神宮の傍の境内の丸い池には
  高石忠慥らが池柵石を寄進して陰刻した名前が残っている(.)



 (写真は当時の矢留尋常小学校の校門と矢留大神宮の池柵石の銘

           

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 大正2年(1913)
総督府内田委員長と中川副委員長を迎え児玉総督後藤民生長官記念館の計画から6年の歳月を経て地鎮祭を行う(.)
           
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            台北市の
淡水河の護岸工事を行う
(.)
          
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台南駅舎の新築工事や台南市街の水道工事台南支店長の金原豐藏が受持つ。
         
       
        
             

 大正3年(1914)台湾神社に石燈籠を献納する(.)
           
 (現在、新北市林口・竹林山觀音寺の社殿後方の廃材置場に台湾神社の鎮座記念碑や石燈籠が積まれている。
燈籠の銘の調査を要する(.)
            

             打狗館工事着手。総督府から台南(ちょう)(庁舎)新築工事を受注(.)   
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                .
             台北西門にある台湾稲荷祈年祭に出席
(.)
           
         
           
         台南廳(庁舎)
             
             
台湾劇場総会に出席(.)

              
             高石組の工事部主任の
矢部米吉・土工主任の古橋良市・会計主任の津村益三兩の勤続者を表彰する(.)
                 
                         
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児玉総督(第4代)後藤民生長官記念館の上棟式。盛んなる餅投げであった。撫台街の朝日座で祝賀会を行う(.)
            
    
 大正4年(1915)児玉総督後藤民生長官記念館(現国立台湾博物館)の建築を完成させる(.)
              
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高石忠慥は「兒玉緵督後藤民政長官記念博物館 : 寫眞帖」を出版する(.)
           
 
            打狗(現・高雄市)
浅野セメント工場建築受注(.)


 大正6年(1917)
高石忠慥娘婿の高石威泰を代表取締役社長とする。
            
            彰化郵便局(台湾中西部)新築工事受注台南の橋梁工事受注。宣蘭ー八堵間の鉄道工事受注。打狗病院増築受注(.)
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            台湾瓦斯会社総会に出席
(.)
            
 
大正7年(1918)台湾燐寸(マッチ)会社創立し役員となる。
                  .
            12月10日に高石組の重役である高石忠慥の実弟の金原豊造が亡くなる。享年60歳。位牌は故郷の沖端の矢留本町の実家にある。

 大正8年(1919)台湾自動車会社を創立。役員となる。
            
            
日本芳醸K・K取締役となる。醸造発売された日本酒の
売価は内地銘酒の約3割安く、在留日本人や支那人家庭でも買われた(.)
 
             
            
高砂麦酒K・K監査役となる。日本統治時代は台湾で唯一のビールの製造工場で現在台湾ビールとして受継がれ見学可能(.)
            夜はビヤホールやバーがある(.)
(台北市八徳路2段85号)

 大正9年(1920)8月合資会社組織を株式会社「高石組」として、代表取締役社長を娘婿養子の高石威泰に変更し、資本金25万圓とする。
            

            忠慥は新設される会社に投資して重役として産業界に盡瘁(じんすい)する。成徳學院吉村種次郎氏の2名で寄贈する。
            
            製糖業や樟脳業界でも活躍した北港製糖所の
小松楠彌や鈴木商店の番頭、金子直吉と親交があり(.)
            
            台湾神社祭礼に能狂言を奉納した。「平定紀念会二十五年誌」を編纂することになる(.)


      
            投資ならびに重役となり貢献した企業東洋煉革床工業K・K社長(.) 合資会社台湾木材共同販売所社長・ 台湾竹材K・K社長・
  
              
           
大正醤油K・K取締役・ 台湾自動車K・K取締役(.) 
材木問屋
     
     大正醤油は櫻井貞次郎らにより大正9年4月20日に台北市下奎府町2丁目44番地に台湾最初の醤油製造として創業された(.)戦時中の昭和20年5月31日に空襲で破壊されたが(.)台湾人により再建されたが10年後に防腐剤混入事件で廃業となり(.)株主は極東劇場を建設し開演(.) 

                  

    
高石忠慥の最期
   大正10年(1921)
には、日本に帰国し東京の築地の本宅に住んだとみられる(.)

 
  大正11年(1922)忠慥は胃がんを発症し病床生活となる。心配した実弟で医者をしていた戸島亥十郎は4月末から、栁川から東京の築地の忠慥宅に来て看病した。
     しかし、
同年6月30日
「高石組」創立者・
高石忠慥東京築地の本宅でこの世を去る(.)
     鉄道・ダム発電・水道・公共建築の請負業として台湾のインフラを築きあげる為に大きな貢献し(.)晩年は多くの台湾振興の会社の事業家として台湾経済に貢献した(.)
     享年74歳(実家の位牌と台北市文化局資料参照)であった。(.)
7月2日葬儀が築地本願寺であり、その後、実家のある沖端村矢留で納骨式が行われ(.)
    台湾においても分骨式が行われた(.)(当時の柳河新報の記事参照)

    遺骨は故郷の沖端村(現・柳川市矢留本町)の本家の南方面に大きな墓を建造し納骨されていた(.)現在は埋立地の為に地盤が悪く墓が傾き危ない為に墓石は
   地中に埋めて
(,)
長善寺(沖旗・旧稲荷町)の納骨堂に納められている。現在(.)元の墓所は草が生えた空き地となっている
(.)
   .

   遺志により矢留小学校に天皇と皇后の写真と教育勅語を納めた奉安殿を建設し寄付された。台湾より選りすぐって送った材料を全部使用された(.)

   戦後に奉安殿が禁止され、矢留本町の本神宮境内の六騎神社の建物に流用された(.)

   

    .

    高石忠慥が亡くなった翌年の大正12年(1923)裕仁皇太子(のちの昭和天皇)が台湾を行啓(ぎょうけい)された。台北では、台湾神社にも参拝された。
                
大正12年総督府前での、少年少女たちによる裕仁皇太子歓迎の様子

大正12年大正時代の街並み 
    .
    .
      2代目「高石組」社長 高石威泰
 
高石威泰
     .
  高石忠慥の子供は3人娘で、長女が銀座の医者に嫁いだので次女が婿養子をもらい家督を継いだ。婿の高石威泰高石組を引継いでいる威泰明治23年(1890)12月、福岡県生れ(.)
 
 
明治45年(1912)に東京高等商業学校(現一ッ橋大学)を卒業(.)のちに高石家に婿養子として迎えられ
 台湾の義父の仕事を(たす)けた。
、     

 
 大正6年(1917) 高石組は息子の高石威泰が社長を継ぎ、大正8年(1919)台湾中部の濁水渓(だくすいけい)
   
日月潭(にちげつたん)発電所(台湾電力K・K)工事
受注、約4千人の労働者を使い行われた。
   美しい自然景観と台湾原住民族である邵族(サオ族)が住む未開の地であった(.) 
   海抜1,300mの武界(ぶかい)にダムを作り、濁水渓の水を日月潭に導いて水位を20m上げ(.)
   延長2,978mの水圧隧道で有効落差329m(.)発電を行う最大出力10万kWの東洋一の大発電所計画である(.)

   途中資金不足や関東大震災による影響などで計画は中断した(.)
 

 大正12年(1923)9月
関東大震災には一時東京に帰り、復興事業貢献(こうけん)している。

 
  昭和6年(1931)高石組は濁水渓の日月潭工事再開。第5工区を受注して20ヶ月で完成させた。
           (鹿島組、大林組、鹿島組、今道組、高石組、鐡道組、大倉組が共同施行(.)     
   
日月潭は、台湾南投県魚池郷に位置する湖。台湾で最も大きな湖である(.)
湖の北側が太陽の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる。人気の観光地である。
        
            
濁水渓人道橋(だくすいけいじんどうばし)を受注した。
            
            台北州管内縱貫道路復旧工事を受注(.)


 昭和8年(1933)
台東の農作灌漑用水「卑南圳事業」を受注。1936年完成。
            (太田組、高石組、今道組、佐吉組、大倉組、新兒組、田村組、古賀組が共同施行)

            
    
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 昭和9年(1934)6月東洋一の日月潭水力発電所が完成した(.)
              極めて良好の成績を以て終始し電力会社より賞与金を受けた(.)

明石元二郎第7代総督の指示によって、日月潭にアジア最大級の水力発電所が作られ、電気は台湾中に通うようになった(.)太平洋戦争末期、「日月潭第一発電所」が昭和19年(1944年)10月昭和20年(1945年、中華民国34年)3月(.)二回も戦闘機に襲われたため、屋外の発電所はひどく破壊され、中止状態になってしまった。戦後は台湾電力K・Kから台湾電力公司となった(.)台湾は復興のための電力需要に迫られ,外国からの援助と為替がなかった状況で他の発電所の日月潭に適する発電施設を取り外し(.)やっと、台湾人の指導で、すばやく復興した(.)この水力発電所は、中華民国74年(1985年)8月に明湖発電所が完成して、未だに台湾の水力発電量の半分を生み出している(.) 
  

日月潭ダム
 
日月潭水力発電所 
 
   

  昭和9年(1934)
、台湾北部を流れる新店渓(しんてんけい)の堤防拡張工事を行う。
      濁水渓の人道橋を四拾萬円で落札する(.)


      新竹・竹南間複線工事台北水道線路築造工事(.)台北市の南西52km水路の桃園大圳(たいしゅう)工事


台北市の南西52km水路 桃園大圳
  桃園大圳(たいしゅう)工事  
 
 台北盆地の西にひろがる桃園台地に設けられた水路で,これは台北市の南西52km,北流する淡水河が桃園(とうえん)台地によって行く手をさえぎられ,東へ流路を変える石門にダムをつくり(.)これを台地上の桃園盆地の水田に供給した。(.)嘉南大圳は台湾南部を西流する官佃渓上流の烏山頭に高さ55m(.)長さ1.3kmのダムをつくり,山をへだてた曾文渓の水をトンネルで取り入れるもので(.)高石組も工事に参入して、1920年に着工し,1930年に完成した(.)
 
板橋街水道員山浄水池工事
  板橋街水道員山浄水池工事・台北郊外の三貂嶺(さんちょうれい)鉄道工事など多の公共物の建設を請 け負った

  出入先は 台北州庁 総督府内務局、土木課・ 鉄道部・ 逓信部・ 交通局道路港湾課 
  台中州 新竹州 桃園水利組合 台東庁 台湾電力株式会社 陸軍経理部台北市役所 台湾鉱業株式会社(.)

 

 

  昭和10年(1935)
台湾総督府が設立されてから40周年を迎えたことを記念して台湾博覧会が開催される。
              第1会場は台北市公会堂 (現在の中山堂)(.)第2会場は台北市公園(現在の台湾国立博物館や二二八記念公園)で開催。
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(博覧会の第2会場となった、現・台湾国立博物館のある公園一帯)

  昭和15年(1940)高石組の本社家屋を酒輸入業者の佐土原(吉雄)商事に売り払っていることから、
      戦時色が色濃くなり、
受注工事も激減し日本に帰国したとみられる(.)
      
  昭和16年(1941)12月8日 
日本(大日本帝国)が真珠湾を奇襲しした。
         これに対してアメリカは日本に宣戦布告をして太平洋戦争が勃発した(.)
              
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        高石威泰の家族は昭和20年の東京空襲以降、本家に連絡なく消息不明である。

佐土原商事の広告

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高石組が手掛けたおもな受注工事
  亀山発電所   台北紀念博物館(現・台湾国立博物館)   基隆郵便局
  小南門通、西門外街の市區改正工事   撫台街の大溝の埋立て工事   台南郵便局倉庫の新築工事
  台南西市場新築   基隆郵便局新築   淡水河の護岸工事
  台南駅舎新築   台南市街の水道工事   打狗館工事
  台南(庁舎)新築   浅野セメント工場建築(高雄)   彰化郵便局(台湾中西部)新築
  台南の橋梁工事   宣蘭ー八堵間の鉄道工事   打狗病院増築
     
  日月潭(にちげつたん)発電ダム工事   台東の農作灌漑用水「卑南圳事業」   新店渓の堤防拡張工事
  濁水渓の人道橋   新竹竹南間複線工事   台北水道線路築造工事
  桃園大圳(たいしゅう)工事   板橋街水道員山浄水池工事   三貂嶺(さんちょうれい)鉄道工事
  (青欄は高石威泰が受注した工事)   
       (未確認調査中の受注工事)   台北淡水河護岸工事   北山礦発電所
  台北軍兵舍   基隆軍兵舍   後龍溪護岸工事 
  台湾総督府廳舍・部分   濁水溪護岸工事   蘇澳花蓮港道路改修工事
  中壢平鎮間複線工事   桃園鶯歌石間、複線工事   大林三畳溪架橋工事
  集集水里坑間鉄道線路複線工事   板橋街水道工事等   
 
  参考資料・引用文献 「社團法人台灣歷史資源經理學會」資料提供 台北新高堂書店・大正2年発行「台北写真帳」 片倉佳史著台北の歴史を歩く 金子展也「台湾に日本式の神社」 
「台灣電力日月潭工事紀念寫真帖」 高石忠慥・兒玉緵督後藤民政長官記念博物館 : 寫眞帖(台湾総督府図書館蔵)  統治時代の「土木學會」 台湾日日新報 高石京子さまの聞取り調査
 
 庄福BICサイト                    ご意見ならびに高石組の資料提供をお願いしています。  shofuku21@yahoo.co.jp
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