庄福BICサイト 【禁無断転載】  H・23・5・16更新    福岡県みやま市瀬高町(せたかまち)大字高柳(たかやなぎ) 

 
  高柳は縄文時代後期に有明海の水面が下がり、陸地が出てきて弥生時代中期に( )水と稲と海の幸を求めて人々が住むようになったと考えられている。矢部川沿いの舟運( )に最も便利な環境あり有明海を通して鹿児島や朝鮮半島・中国大陸と盛んに交流していたであろう( ) 大化(たいか)元年(645)の大化改新後の律令(りつりょう)国家制度の条理制(じょうりせい)による分割された金栗から中山に続く条理遺構が残り、区画された水田があり当時の地名が古地図でも確認できる。( )古代の律令制(りつりょうせい)の公地公民の制が天平(てんぴょう)15年(743)墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)により崩れ、開発領主(かいほつりょうしゅ)による活発な開墾(かいこん)により、大規模な土地私有(荘園)が出現し、山門郡でも瀬高庄(せたかしょう)の成立をみる( )
   ,
      鷹尾神社の古文書(こもんじょ)による平安末期から鎌倉時代の高柳のすがた( )
 大治(たいじ)6年(1131)に瀬高上庄と瀬高下庄に分れている。平安末期にかけて( )山門郡鷹尾郷(現・大和町)の開発が進み、鷹尾社が瀬高下庄の総鎮守社(ちんじゅしゃ)となった。鷹尾神社の古文書によると現在の下庄域から大和町・三橋町域に及ぶ一帯に約29の開発領主の名田(みょうでん)約1000(ちょう)が広がっていた。鷹尾社の神人(じにん)神人とは神社に従属して社務や祭祀に奉仕する人)集団の中に( )金栗高柳上庄下庄吉里馬木などの村落名を苗字としている者が見られるが( )彼らは瀬高荘内に名主(みょうぬし)職を持つ開発領主であり、それらの集落は彼らの屋敷村であったと思われる( ) 治承2年(1178)7月5日の「別宮御前掃除役注文」には大宮司(だいぐうじ)15家に鷹尾社掃除役があてられ、高柳村の藤二郎藤三郎多次土入道古家小藤太本司貫主(.)高柳別当古家の6家の大宮司の名があることから鷹尾・金栗に次いで神社の役割を持っていただろう(.)
 建保(けんぽう)4年(1216)正月13日の鷹尾文書に高柳に関する一つの事件が記録されている。高良神人(じにん)の商人の勝陳坊(しょうちんぼう)の所に高良神人が来て誤って注連縄(しめなわ)を切ってしまった所へ高柳(ふねの)三太夫梶取(かんどり)紀大夫(きのたゆう)らがやって来て、それを見て怒り、彼等3人の婿(むこ)らが徒党を組み、三橋町の五十町で高良宮の神人と乱闘となり、相手の獅子頭(ししがしら)治道面(じどうめん)を破壊し、下人の一人を突き殺し、高良神人3人を捕らえ「殺したのは高良神人だ( )と言って、その死人を担いで守護所に訴えた。舟三太夫は事態収拾の為に京都に行き、朝廷の宣旨(せんじ)や幕府の御教書をもらって帰り、その沙汰(さた)を待っていたが、10月20日に高良山から三の神輿(みこし)大衆を先頭に神官・宮人・命婦(みょうぶ)らが大挙して瀬高に押しかけ、舟三太夫の家を破損し、舟や納所(なっしょ)の稲二ヶ所を焼いて引き上げた。事件等の記録によれば( )高柳の河辺は交通、物資集散の要地であり、高良神人や鷹尾神人の中には、瀬高や鷹尾の浜を拠点(きょてん)に海運による商業活動が盛んだった事も裏づけるものである(.)この事件は高良神人で商人の勝陳坊が瀬高にいて( )なぜか鷹尾神人の舟三大夫梶取紀大夫の婿らが行動を共にしている事から商圏や利権の対立があったと思われる。建暦(けんりゃく)元年(1211)から貞応(じょうおう)3年(1224)の鷹尾文書の祭礼記録によると鷹尾金栗馬木(真木)などの下庄内の各所から社務や祭祀に奉仕した神人(じにん)達で、高柳においては承久(じょうきゅう)元年(1219)の「鷹尾社祭礼諸役衆等日記」によると冬祭の大使を高柳舟大夫が御九日会の大行事を西郷高柳(●●●●)上三郎のが勤めている( )高柳(ふねの)三大夫については高柳の開発領主で高柳の浜を拠点に数隻の商船を所有し、梶取(かじとり)水主(かこ)(船乗)などを従える長者で、ちょっと傲慢(ごうまん)で行動に問題ある人物のイメージがある。鷹尾文書に出てくる人物で、(あま)(ふねの)あるいは梶取を名乗る者は漁業や海運を専業にしたとみられ、梶取は船頭のことでしょう( )  
    
 ,
    
西郷高柳(●●●●)について】( )
 三橋町五十町の南と棚町(横手)の東にある旧河床(かしょう)跡を流れる水路と東の矢部川に挟まれた
現在、老人ホームや棚町酪農団地などがある土地は江戸初期まで西郷高柳でした。高柳とは陸続きで同じ高柳村でした( )矢部川の流れは上庄から西の五十町や横手に蛇行(だこう)して西郷高柳の西側を流れていた。熊本県玉名郡江田村(現・玉名郡和水町(なごみまち))の帆掛船の航海日記によれば横手の天神、五十丁村の八才様を拝み、右折し上庄東右岸談議所バ市に着く。」とあり江戸初期の正保(しょうほ)2年(1645)に瀬高川(矢部川)の掘り替え(直進化改修工事( )によって西郷高柳が切離され五十町の領分となり、明治後期には棚町の領分に変更されている( )

   、
 【日吉宮・山王宮・日枝(ひえ)神社の由緒】
 南高柳と北高柳には日吉宮(ひよしぐう)三溝(さなみぞ)には山王宮が三橋町棚町には日枝神社があるが、本社は滋賀県大津市坂本にある日吉大社である。山王総本宮日吉大社はかっては「古事記」にある日枝(ひえ)(やま)、のちの比叡山(ひえいざん)にあったことから神代に創建され、日枝神社(ひえじんじゃ)と呼ばれいた( )最澄(さいちょう)が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の守護神として日枝神社を崇敬した為に山王権現(さんのうごんげん)または日吉山王と呼ばれるようになった(.)天台宗が全国に広がる過程(かてい)で、日吉社も全国に勧請・創建された( )織田信長の延暦寺焼き討ちにより日吉大社も焼け落ちた( )信長の死後、豊臣秀吉はの復興に尽力(じんりょく)し、秀吉の幼名の「日吉丸」から特別な宮として扱われた歴史がある( )高柳のお宮の丸一引の神紋の一引は中国では(りゅう)を表し、我が国では雨の神として尊敬されてきた紋です。日吉神社(日枝神社)の祭神は大山積(おおやまつみ)の神である。山の神は水が水田に引かれる頃、山から下りてきて農耕(のうこう)を助け、秋の収穫が終わると山に帰ると言われている。高柳の日吉宮は寛和(かんな)元年(985)にはすでに祭礼が行われ、その祭典に要した御供物を克明(こくめい)に記した記録が鷹尾文書に残されている(.)
 天正16年(1587)立花統虎(たちばなむねとら)(後の宗茂)が秀吉から柳河城主に封じられた。立花一族で立花道雪(おい)立花統春の末期養子立花統次(通称三太夫( )天正18年(1590)に高柳の地で知行一千石を拝領する(.)彼の手で文禄(ぶんろく)3年(1594)に高柳村の日吉宮日枝神社ともいう)再建( )した当時の祈願棟木板「山王十禅師権現御社」が残っていた( )日吉神社は、朝鮮の(えき)や関が原の戦いでも出発の時、武運長久(ぶうんちょうきゅう)を祈願され無事帰還されしより心深く毎年お参りされた(.)
 高柳の立花三太夫は藩主立花統虎に従い秀吉の朝鮮の役に出兵し多くの功を挙げ(.)天下分け目の関が原の戦いでも西軍として活躍して勇将として知られていたが徳川の東軍に西軍が破れた為に柳川城に引き帰ってきた( )しかし徳川軍に寝返った佐賀の鍋島直茂(なべしまなおしげ)勝茂親子軍が筑後川を超え、大木町(.)城島町の境の八院(はちいん)まで攻め込み立花軍と戦った「八院の合戦」では三太夫は勇敢な(いくさ)の末、馬上に長身の槍をしごき阿修羅(あしゅら)のように駈け回り、ただ一騎敵軍を突き抜けて敵味方を驚かせ、鍋島(なべしま)平五郎がいる五反田の本陣へ駈け込み、息をもつかせず( )攻め寄せた。三の橋まで進んだところ橋が切り落されていたので、堀を飛び越えようと馬に一(むち)加えたところ、馬が疲れていたのか、向うの堀岸を踏みかけ、馬もろとも堀に落ち敵兵が群がってきて三太夫は討ちとられた( )ときに25歳であった。現地には三太夫地蔵が祀られている。統虎は肥後に隠遁(いんとん)した後に奥州棚倉の小大名になり、石田三成を捕えた岡崎城の田中吉政が柳川藩主になる(.)再び統虎が柳河城主になる20数年間村人が日吉神社を守り続けた、いきさつがある(.)山王宮日吉神社は川岸に鎮座してあるので河川改修工事のたびに遷宮をかさねて現在の社殿で3回目の鎮座であり( )通称弘法さん寺の養安寺と同居するかたちになっている(.)
明治22年(1889)
高柳村東津留村、浜田村、泰仙寺村、河内村が合併して河沿村(かわそえむら)となり、明治40年には瀬高町となる。大正15年(1926)
に農民が立ち上がり団結して地主を相手として、警察まで巻き込んで闘った小作争議が発生し(.)地主は密かに矢部川を舟で村から抜けだす小作争議が発生したが翌年、昭和2年秋に落着した(.)(.)

  
.


     【北高柳の地名のはなし】
高柳(大字名)   北高柳(行政区名)
漁法の(やな)に関係した地名です。梁とは、川の瀬などで、杭を打ち並べ水が一ヵ所だけ流れるようにして、斜めに張った木や竹の篭で魚を受け捕らえる仕掛で、こんな「ヤナ」がこの地帯に多く仕掛けられていたので(.)この地名がおこったのです。このヤナの材料には柳の木枝を利用したかも知れません(.)
   .
きんぎし(通称地名)     北高柳・八幡町一  
北高柳の東部に、大正時代まで、矢部川堤防添いに十戸余の集落のあった地域とあり( )昔あった金源寺(きんげんじ)の転訛した(なまった)ものと言われている。堤防沿いにはハゼの並木があり晩秋には紅葉がきれいで「きんぎしの(はぜ)の木」と愛称されていた。
    .
竜臥(りゅうが)(小字名   北高柳日枝神社境内 
北辺の矢部川河岸にある。真言宗(しんごんしゅう)時代の僧が地名として造語したのではないだろうか。竜は水神の意味があるから、水神を祀ってあった寺の跡(.)あるいは水神さんが常住する聖なる場所を念じて起名しとものと考えられる( )1633年創建の下庄元町の松尾宮は熊本から分霊を一時、この高柳に奉安していることから当時高柳には規模の大きい真言宗の寺があったであろう(.)
                  
 洗道(小字名)
 水路が多いことから、農作物や洗濯物を洗っていた場所でしょうか(.)
角源蔵(かくげんぞう)         北高柳日枝神社境内 
 竜臥の南側の一画で同じ寺の敷地内であろう。真言宗の元三大師(げんぞうたいし)にあやかつた人名地名であろう。大楠の木があり上りの舟はこれを灯台がわりに航海していた(.)堤防工事で切り倒され大楠の木の切り株のそばには角源蔵稲荷社がある。瀬高の代表的な稲荷の主役をつとめた、たのしい民話も残されている(.)
   【瀬高狐物語】   角源蔵狐(かくげんぞうきちね)は、(さむらい)に化けたり、老人に化けたりいろいろな化け方をするのが上手(じょうず)で小川の宮の団三郎狐(だんさぶろうきつね)と化かし方の腕競(うでくら)べをした話が伝えられています(.)ある時、こんなことがありました。「ほら、ほら、見て 見て。あん人一体なんしとらすと。妙なことしだしたばい」と通りがかりの人々が話しています。見ると、1人の中年の男の人が、手に持った風呂敷(ふろしき)をつくり(ごえ)(肥料やわらで作った堆肥(たいひ)の山)の上に置いて、帯を解き、着物を脱ぎ、下駄も脱いではだしになり( )ふんどし(昔パンツのかわりに用いた物)一つになり、脱いだ着物や風呂敷を頭に帯でくくりました(.)そして「おーい おーい 大水だぞー。」と大声で叫びながら、さながら水の中を渡っていくような仕草(しぐさ)をしているではありませんか。その格好の面白さと言ったらありません( )
「あん人、狐に化かされとらすとばい。」「角源蔵狐めのしわざばい。(こま)ったもんばい。」「しばらくしたら、正気に返らすけんよかばってん、気の毒な人たい。」「お土産(みやげ)重箱(じゅうばこ)んなかん(中の)油揚(あぶらあげ)げや魚などは狐に食い荒らされとるじゃろう(.)」と、見ている人々は互いに言いあいました。しばらくすると、男の人は、正気(しょうき)にもどり、着物を着て、下駄(げた)をはき、(から)になった重箱を下げて、きまり悪そうに帰っていきました。今の下庄八幡町の葬祭場(そうさいじょう)付近でしばしばあったということです(.)(ふるさと昔ばなし・金子義實原稿河野覚さし絵よ(.)
弥太郎開(やたろうかい)(小字名)   
北高柳の西方の堤防沿いの地名である。弥太郎(やたろう)は人名で、開拓工事に貢献した人の名であろう(.)
  .
 外浜・浜・下浜(小字名)
 船着場のあった場所を浜と呼んでいました海運(かいうん)による商業活動が盛んだった頃の名残です。昭和27年の大洪水の後に河川拡張工事があり、日吉神社の周辺の竜臥・浜・外浜・下外浜・城ノ内・弥太郎開は削られて下図の線まで堤防が築堤されています(.)
   .
草葉(くさば)(小字名)     北高柳
クサバ(草葉)は草場の意味で( )昔からの墓があることから墓場の意味もあります(.)
 蔵町(小字名)
 米蔵があった意味もありますが、地形から蔵がいっぱいになるように願った地名でしょう(.)
  ()(小字名)
湿地のことでドブ、ガタ、ジュツタンボなどとも呼びます。漢字だと婦計(ふけ)とカタカナだとフケと書いたそうです(.)
聖町(ひじりまち)(小字名)     北高柳
北高柳部落の南部一画にあり条理制(飛鳥)時代の一区画と推定され、養安寺の寺領の一部であったろう(.)
   .
久保(くぼ)(小字名)     北高柳
クボ(久保)は窪の意味で窪地の土地の意です(.)
 ナゲシ(小字名)
 住宅の長押の意味だろうか、そうだと横長の田の意味でしょう(.)
   .
城ノ内(じょうのうち)(小字名)  高柳
南高柳集落と高柳集落の間の矢部川近くにある地名です( )中世において荘園(しょうえん)(庄園)や公領を基盤として成長してきた武士団の屋敷または領地から起名されたものです。この地には大城姓が多かった所で(.)船着場の荷役での収益を上げていた豪商がいたと推測される。現在は堤防拡張工事で大半が削り取られている。大城助次郎氏が再建寄進した地主神が祀られている(.)


       【南高柳の人物伝金子照世妙福夫妻( )
 久留米市上津町にある久留米成田山の日本最大級・救世慈母大観音(じぼだいかんのん)様は高さ62mあり昭和38年開眼された。インド村の高さ38mの平和大仏塔極楽殿(ごくらくでん)は、お釈迦さまが悟りを得られたインドの聖地マハーボディ寺院に行き(.)許可を頂き大仏塔を模して建設された。九州における成田山信仰の大霊場として九州はより全国各地や台湾・香港(ほんこん)・韓国の海外からも参拝者を集めている。開山されたのは瀬高町南高柳の金子照世(しょうせい)氏と奥様の妙福(みょうふく)さんである。金子妙福さんは鹿児島県の東串良町(現・鹿屋市)出身で( )若き時から強い霊感(れいかん)の持ち主で( )一時、南高柳で夫婦で農業を営んでいたが、久留米に出て霊能者として活動し信者を集め(.)のちに千葉の大本山・成田山(なりたさん)で修業され、久留米に成田山・新勝寺(しんしょうじ)からの直径分院として昭和33年(1958)に本殿を竣工( )初代住職金子妙福、事務長金子照世で開山され多くの人がその霊感魅了(みりょう)され信者となられた。妙福住職逝去のあと2世住職に照世和尚( )が就任され高齢で引退後は岩本3世住職が現在務めていられる(.)平成7年の南高柳の日枝神社の本堂焼失で再建に際して照世( )氏は多額の寄付金を奉納されている(.)
   .



慈母大観音起工式の金子妙福住職
    【南高柳の地名のはなし】
村中(むらなか)西名(にしみよう)東名(ひがしみよう) 南高柳
南高柳集落の住宅地一帯の小字名です。村中は中心部の意で、ミョウ(名)は東と西部の集落の意で荘園時代の名残です(.)
仏生(ぶつしょう)(小字名)         南高柳
南高柳の南側の公民館北東辺にあり( )仏聖と書く場合もあるが、仏飼田というべきもので、(とうと)い仏様に、日を定めて御飯を供える米の出処田であった。恐らく宝聚寺との関係ではあるまいか(.)
 渡り手(わたりで)  三ノ溝
 分村のことであろうか(.)
 ヨシノ(小字名)
 (よし)が生い茂った河川敷です( )昔は肥料、燃料、食料、生薬原料、漁具、葦ペンの材料として使われ、現在はすだれの材料として使われている地方もある。現在も矢部川河川敷には(あし)が生えて晩秋には野焼きが行われています(.)
三ノ溝(さなみぞ))(行政区名)西三ノ溝・東三溝(小字名)     高柳
 筑後地方で和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工された、灌漑(かんがい)水路の遺名です( )三ノ溝山王社の神社があり南高柳では現在も地域名として使用されています( )五ノ溝の小字名もある。他の地区の「溝」名の付く地名も条理制(じょうりせい)の灌漑水路の遺名で中絶集落には三ノ溝があり、東津留には五ノ溝があります(.)
 五反田(小字名)  三ノ溝
 和銅(わどう)8年(715)条里制が施工され、一戸または一つの集団に対して(.)五反、六反、七反の水田を班給した地域名で高柳の三ノ溝の北にある小字名です。他の地区で松田地域の六反田があります(.)
 
   下地図の説明
福久(小字名) 三ノ溝
瀬高地方では湿地のことをドブ・ガタ・ジュツタンボなどと呼びますが(.)地名としてのフケ呼び名もその一つです。高柳にある不毛・福久・深田の水田はフケに宛てた漢字の湿地帯の開拓水田の意です(.)
宮司町(小字名)       高柳
高柳には集落の氏神さんの3社をはじめいろんな宮があります。お宮の宮司さんが住んでいた所でしょう(.)
本坊(ほんぼう)(小字名)         高柳
相当に大きなお寺があった所と考えられる(.)
大工給(だいくきゅう)小字名)        高柳
大工職人にが住んだとも言われるが、この土地は水田地帯だから、職人の仕事がない時に野良に出て働いたとも考えられる(.)
高柳新堀(しんぼり)(集落名)    高柳
矢部川の堀の開拓により出来た土地で高柳から分村した地名です(.)
梨ノ水(なしのみず)(小字名)    高柳新堀
矢部川に近いこの地域は土地の人に尋ねたら、よく水不足するから、水無しから起こった地名ではないかとのことでした(.)
下里(さぐり)(小字名)         高柳新堀
矢部川の流れから見ると、高柳の集落の下(しも)にあたる集落の意味の起名でしょう( )堤防沿いには水の勢いを和らげ流れを対岸側に変える石を積上げた「バネ」が多く造られている(.)
土居ノ内(小字名)      高柳新堀
清掃センターのある付近です。ウチはフチ(縁)の転訛で矢部川の土居(どい)(ふち)の意の起名です( )
 江湖(えこ)(小字名)     高柳新堀
 高柳の南西部の矢部川付近に小字名である(.)江湖とは海水が出入りする川を称した。灌漑水の乏しい時代に樋門を設け満潮時は海水の上部にある淡水(アオ)を水田に引水した。下層の海水が浸入し始めると樋門(ひもん)を閉める( )江湖に設けた井堰による灌漑法がとられ、その遺名が残ったのでしょう。上庄の江湖橋は矢部川の本流が上庄を中心として迂回(うかい)していた頃、江湖があった所でしょう(.)
     .
 
 亀の石(小字名)         高柳
 亀と関係ありそうですが、亀は神に通ずるところから、何かの神社領の地名でしょう(.)現在は納骨堂があり東洋留水路の亀石橋があります(.)
 (いかり)(小字名)
 碇は船が停泊のために使用しますので近くに船着場があった所でしょう(.)
梶町(かじまち)(小字名)         高柳
南高柳と散田の間のある水田です。鍛冶職人が住んでいた所です(.)
六反田・七反田(しちたんだ)・五ノ溝(小字名)      高柳
和銅8年(715)条里制が施工され、一戸または一つの集団に対して( )五反、六反、七反の水田を班給(はんきゅう)した地域名で五ノ溝は灌漑水路の遺名です。現在東洋留水路の五ノ溝橋があります(.)
会田(あいだ)会町(あいまち)(小字名)   高柳散田
「アイ」、「アウ」は、出会う、集まることです(.)共同ですることを瀬高では「モヤイ」とも言って、「アイ」と語音が似ています。結局、数人の共同耕作地か、地主と小作人が収穫物を分けあった水田の意でしょう(.)
 高柳散田(さんだ)(集落区名)   下高町(小字名)    高柳散田
 高柳の娘村にあたり、浜田集落に隣接する。律令制度(りつりょうせいど)時代の口分田や乗田に対して百性墾田、寺田、寺墾田、神田、庄田など公の水を使用しない田を散田と区別し免税していた(.)しかし瀬高町に所在する散田は公水の矢部川水系を使用しているので荘園時代の平民百姓に与えられた公事を負担する百姓名が大部分であったが(.)一部の領主直属の経営で、公事を負担しない免税(めんぜい)土地散田であろう。小字名の下高町とは(しも)の高柳の意味であろう(.)
           【高柳の寺社仏閣】
 金厳寺(きんげんじ)      北高柳  (廃寺)
 高柳の北東部一帯、大正時代まで、矢部川堤防添いに十戸余の集落があった地域に金厳寺があったという(.)創建などまったく不明だが、地元の人は、ここを「きんぎし」と通称呼んでいた。堤防のはぜ並木を「キンギシのはぜ」と呼ばれていた(.)
    .
 養安寺(ようあんじ)(廃寺)   北高柳日吉神社と同境内
 1596〜1614年(慶長年間)創建、浄土宗で上庄の来迎寺(らいこうじ)の末寺であったといわれるが、この寺の開祖当初は真言宗で、開基はさらに古く後世に至って浄土宗に改宗したのではあるまいか(.)現在は西方の堤防側にあった高柳の氏神日吉神社が河川拡張の為に、この境内に移転して来た(.)今では日吉神社が本体で養安寺は附属施設の感がある。昭和27年(1952)に住職も亡くなり無住の小堂となり廃寺となった( )堂宇内には観音仏のほか、石仏が安置されている。養安寺を通称おこぼさん(御弘法)という。春、秋の祭礼には護摩たきも行われ(.)近隣からの参拝人が多く、にぎわいを呈していた。境内には年代は明確でないが、東側に苔むした多くの石仏、二十三夜塔、地蔵仏、十三仏、などがある(.)弘法大師堂(こうぼうたいしどう)は東中央にあり、堂内に大師像・薬師如来・石仏・阿弥陀仏・脇侍十二神将がある。日吉神社西側には観音堂・魔羅観音(まらかんのん)・地蔵堂がある。春と秋のお彼岸にはお遍路(へんろ)さんが訪れ参られる( ) 境内左手には皇族紋の付いた神体が祀られて奥にも御神体がある(.)右手には仏像が並び奥には仏教の祠がある。また古い(さい)の神を形取った木彫の像・お観音さん・二十三夜さんもある( )堤防工事で切り倒された大楠の木の切り株のそばに角源蔵(かくげんぞう)稲荷社がある( )下小川宮の団三郎、高柳の角源蔵と瀬高の代表的な稲荷の主役をつとめた、たのしい民話も残されている(.)
   .
石仏群 弘法大師堂 日吉宮・角源蔵稲荷・大師堂
 淡島社(あわしましゃ)(栗島)  北高柳日吉神社境内  
 北高柳日枝神社境内に祀ってあるが余り知った人はないようである紀州(きしゅう)和歌山の加太神社を本宗として近世淡島願人という乞食(こじき)坊さんが( )婦人たちからいろいろの物を集めて歩く風習があり、淡島様の縁起を唱えて諸国を巡歴して堂を建ててきたのが( )何時(いつ)からか婦人達の信仰につながった( )淡島神の由来については天照太神第六の姫宮(.)16才で住吉の一の宮の(きさい)となったが、婦人病に苦しみ祈願の為、(あや)の巻物その他二( )三の品をそろえ、空舟に乗せて堺から流した( )舟が3月3日に淡島に着いたと言う故事(こじ)から舟に乗せたという品にあやかり髪や衣類を持って参拝し、それを持ち帰ると婦人病が治るという信仰になった(.)

 二十三夜塔    北高柳日枝神社境内東奥
 月待ち行事「二十三夜講」は旧暦の十五日、十六日、二十二日、二十三日( )同信者が祭神の前で月が出るのを待ちながらお勤めや飲食を行われ、主に、「三夜待ち」「産夜」とも呼ばれて(.)多くは女性の講であつたようで、これを記念した塔が造られた(.)室町時代からあった記録もあるが、江戸時代に盛んになり全国に普及し関東でも信仰されていた(.)瀬高町では北高柳の二十三夜塔が確認されている(.)
 西(にし)の宮大神    北高柳日枝神社境内     
 南尤(無)大黒神  西ノ宮大神宮と扉にあり 法華経の石刻 柳河講中、 三池講中とあり調査の結果(.)西の宮大神とは恵比寿のことであり比叡山西の宮から分祀(ぶんし)された宮で柳河藩三池藩の総本社的立場にあったことが判明した(.)日枝神社と共に矢部川改修工事で何回も移転した為うっかり見過ごされ玉垣脇に土台(どだい)もなく地べたに祀られている。恵比寿大黒二体並んで祀られてあるのが印象的である。昔はここの社を基点に庶民(しょみん)の神様( )恵比寿様をここの祠の形をそのまま建てて恵比寿を祭り伝えて来た信仰が筑後一円に広がって行ったと思える。大人は座祭(ざまつり)を行って親睦の場とし子供は前述のように楽しい行事を続けながら成長して行った(.)最近まで続いていた子供達( )のえびすさんの呼び声もだんだん部落から消え遊ぶも単純化し(.)そっけなくなって、夢のある遊びから(とう)のいてゆくのは寂しいことである(.)

 角源蔵稲荷   北高柳日枝神社境内  
 北高柳弘法さんの大楠木といえば下庄八幡宮の大楠よりもっと大きな(くすのき)であった( )その根本近くに小さな祠の角源蔵稲荷が昔あった(.)民話「狐の角源蔵」もこの宮の名前であり、土地の小字地名も角源蔵である。ほかに八幡町思案橋(しあんばし)横にも稲荷さんが祀ってある(.)稲荷信仰は京都伏見の稲荷を各地に分霊、祀ったというが(.)もともと農耕の神であり、狐が神の使いであることと結びつけ水商売の人々が信仰したり( )鍛冶屋(かじや)さんが狐の力をかりて名刀小狐丸を打ちあげたという物語からフイゴ祭に稲荷を祀った(.)長い風習があり人間の都合で都合の良いように仕立てられて来たことは、恐れ多いことながら仕方がない(.)現在は日吉神社の東側に赤い鳥居と赤屋根のお堂に祀られている(.)
 地の神様   北高柳小字城ノ内・堤防そば
矢部川堤防下にあり北高柳の地の神様(産土神か)として五穀豊穣(ごこくほうじょう)・水難除けを願い祀られている(.)お堂の中の御神体は5神で中央が主神であるが誰か判明しない。その左右両脇に女性の(かま)を持つ像と稲穂を持つ女性の農耕神2体が祀ってある(.)また赤と青のカッパ像2体が併祀してあり(.)カッパ神は守護的役目をもっている様である(.)
地蔵堂     高柳東
 東高柳に鎮座しているお地蔵さんで8月にまつりがある。
    
 不動院・地蔵堂・荒仁さん    西高柳
神社西方に西小路の矢部川堤防の近くにある不動院と地蔵堂・荒仁さんがある( )1月・5月に祭礼を行い8月は小学生がおまつりを行う。8月28日は大日如来の化身、不動明王の縁日がある(.)昔、村内の火災が多かった為に火伏せ不動とも呼ばれる不動明王のご祈祷が行われるようになった伝承がある。荒仁宮(あらひとぐう)の祭神荒仁さんは久富家の祖神、日吉神社の祭神を背負ってきた人と言い伝えられている(.)
     

不動院

地蔵堂

荒仁さん
 高柳日吉神社(ひよしじんじゃ) 南高柳 
南高柳の産土神、北高柳のの日吉神社と同系列のお宮で( )享保21年(1726)、安東一角の筆なる「山王宮」の額がある。平成4年の不審火で本堂を焼失し( )氏子衆(うじこしゅう)の寄進でコンクリート造りの本堂が再建されている。再建が早くできたのも南高柳の氏子達のお宮に対して昔から信仰が深い証拠でもある( )境内に稲荷神社天満宮の祠がある。社日(しゃにち)さん(食物の神)の石碑があり( )春と秋のお彼岸に近い戌の日に田畑の神を祀って祈っている。神社の左道路脇に観音堂六地蔵を祀ってある(.)
新社殿 社日さん
 三ノ溝(さなみぞ)山王社  高柳三ノ溝
三ノ溝の産土神、北高柳と南高柳の日吉神社と同系列の神社。祭神は山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る( )国家鎮護・方除け・魔除け・災難除けの神様である。三ノ溝(さなみぞ)の地名の起源は和銅8年(715)以降に実施された条里制の遺構によるもので中絶から始まり三ノ溝、高柳散田の五ノ溝で終わっている。1200年位前のことである(.)
 
 
 庄福BICサイト   御意見・感想・をお願いいたします。shofuku21@yahoo.co.jp
         本ホームページ掲載記事や地図・写真の無断掲載はお断りします。       H・22・8・29製作