【南高柳の地名のはなし】 |
村中・西名・東名 南高柳 |
南高柳集落の住宅地一帯の小字名です。村中は中心部の意で、ミョウ(名)は東と西部の集落の意で荘園時代の名残です。
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仏生(小字名) 南高柳 |
南高柳の南側の公民館北東辺にあり。仏聖と書く場合もあるが、仏飼田というべきもので、尊い仏様に、日を定めて御飯を供える米の出処田であった。恐らく宝聚寺との関係ではあるまいか。 |
渡り手 三ノ溝 |
分村のことであろうか。 |
ヨシノ(小字名) |
葦が生い茂った河川敷です。昔は肥料、燃料、食料、生薬原料、漁具、葦ペンの材料として使われ、現在はすだれの材料として使われている地方もある。現在も矢部川河川敷には葦が生えて晩秋には野焼きが行われています。 |
三ノ溝)(行政区名)西三ノ溝・東三溝(小字名) 高柳 |
筑後地方で和銅8年(715)、土地区画整理として条里制が施工された、灌漑水路の遺名です。三ノ溝山王社の神社があり南高柳では現在も地域名として使用されています。五ノ溝の小字名もある。他の地区の「溝」名の付く地名も条理制の灌漑水路の遺名で中絶集落には三ノ溝があり、東津留には五ノ溝があります。 |
五反田(小字名) 三ノ溝 |
和銅8年(715)、条里制が施工され、一戸または一つの集団に対して、五反、六反、七反の水田を班給した地域名で高柳の三ノ溝の北にある小字名です。他の地区で松田地域の六反田があります。 |
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下地図の説明 |
福久(小字名) 三ノ溝 |
瀬高地方では湿地のことをドブ・ガタ・ジュツタンボなどと呼びますが、地名としてのフケ呼び名もその一つです。高柳にある不毛・福久・深田の水田はフケに宛てた漢字の湿地帯の開拓水田の意です。 |
宮司町(小字名) 高柳 |
高柳には集落の氏神さんの3社をはじめいろんな宮があります。お宮の宮司さんが住んでいた所でしょう。 |
本坊(小字名) 高柳 |
相当に大きなお寺があった所と考えられる。 |
大工給小字名) 高柳 |
大工職人にが住んだとも言われるが、この土地は水田地帯だから、職人の仕事がない時に野良に出て働いたとも考えられる。 |
高柳新堀(しんぼり)(集落名) 高柳 |
矢部川の堀の開拓により出来た土地で高柳から分村した地名です。 |
梨ノ水(小字名) 高柳新堀 |
矢部川に近いこの地域は土地の人に尋ねたら、よく水不足するから、水無しから起こった地名ではないかとのことでした。 |
下里(小字名) 高柳新堀 |
矢部川の流れから見ると、高柳の集落の下(しも)にあたる集落の意味の起名でしょう。堤防沿いには水の勢いを和らげ流れを対岸側に変える石を積上げた「バネ」が多く造られている。 |
土居ノ内(小字名) 高柳新堀 |
清掃センターのある付近です。ウチはフチ(縁)の転訛で矢部川の土居の縁の意の起名です。 |
江湖(小字名) 高柳新堀 |
高柳の南西部の矢部川付近に小字名である。江湖とは海水が出入りする川を称した。灌漑水の乏しい時代に樋門を設け満潮時は海水の上部にある淡水(アオ)を水田に引水した。下層の海水が浸入し始めると樋門を閉める。江湖に設けた井堰による灌漑法がとられ、その遺名が残ったのでしょう。上庄の江湖橋は矢部川の本流が上庄を中心として迂回していた頃、江湖があった所でしょう。
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亀の石(小字名) 高柳 |
亀と関係ありそうですが、亀は神に通ずるところから、何かの神社領の地名でしょう。現在は納骨堂があり東洋留水路の亀石橋があります。 |
碇(小字名) |
碇は船が停泊のために使用しますので近くに船着場があった所でしょう。 |
梶町(小字名) 高柳 |
南高柳と散田の間のある水田です。鍛冶職人が住んでいた所です。 |
六反田・七反田・五ノ溝(小字名) 高柳 |
和銅8年(715)、条里制が施工され、一戸または一つの集団に対して、五反、六反、七反の水田を班給した地域名で五ノ溝は灌漑水路の遺名です。現在東洋留水路の五ノ溝橋があります。 |
会田・会町(小字名) 高柳散田 |
「アイ」、「アウ」は、出会う、集まることです。共同ですることを瀬高では「モヤイ」とも言って、「アイ」と語音が似ています。結局、数人の共同耕作地か、地主と小作人が収穫物を分けあった水田の意でしょう。 |
高柳散田(集落区名) 下高町(小字名) 高柳散田 |
高柳の娘村にあたり、浜田集落に隣接する。律令制度時代の口分田や乗田に対して百性墾田、寺田、寺墾田、神田、庄田など公の水を使用しない田を散田と区別し免税していた。しかし瀬高町に所在する散田は公水の矢部川水系を使用しているので荘園時代の平民百姓に与えられた公事を負担する百姓名が大部分であったが、一部の領主直属の経営で、公事を負担しない免税土地の散田であろう。小字名の下高町とは下(の高柳の意味であろう。 |