庄福BICサイト 郷土の人物伝
ロウ製造業・武田平助 明治22年(1889)〜昭和48年(1973) H・22・11・3製作
江戸時代の夜の明かりには主に行燈に菜種油を燃していましたが、ロウソクは高額な為に主に夜間外出用の提灯や、お城や富裕層、寺社仏閣で使われました。ハゼの実を砕き蒸して搾ると生蝋ができ、再精製された白蝋を使ってロウソクが作られました。当時は藩の奨励もあって田畑や道筋に多くの櫨の木が植えられ、秋の紅葉の時期には筑後平野を赤く染めていました。製造された木蝋は高価で取引され、柳川藩でも財政を潤すために元禄16年(1703)には「櫨運上の制」を定め木蝋の製造が促進された。藩内で早くから手がけたのは享保2年(1717)創業の瀬高町下庄八幡町の武田蝋屋と言われている。柳河藩の御用商人となったのは宝暦元年(1756)の頃の武田鹿次郎(寛保2年1742年生れ)の時代と推測される。善七(安政元年1772年生れ)・平助(享和2年1802年生れ)・鹿蔵(天保元年1829年生れ)・弟の梅次郎(嘉永元年1848生れ)、又衛(安政4年1854年生れ)、弟の平太郎(慶応3年1867年生れ)と製蝋業を継承されている。製造された生蝋さらに下庄田代の晒業者に委託し天日に晒し、再精製した上質の白蝋も作られた。これらの櫨蝋は柳川藩の統制下でお蔵の浜(上庄)から帆掛舟で長崎や大坂などに運ばれ、ロウソクや髪結いの鬢付け油の原料になっていました。幕末には大量の櫨蝋を薩摩藩が買い占め、上海のヨーロッパ人に密貿易して、軍艦輸入や軍備の資金を稼ぎました。談議所の港から満潮に乗って長崎港まで運ばれ、ここからシナ辺の海外に輸出され、見返り品として、綿花や糸などを輸入したようである。明治期の武田蝋屋は武田平太郎と弟の記一(明治8年1875年生れ)が木蝋製造を継承し筑後地方では有力な蝋屋でした。明治34年(1901)に武田蝋屋を本部とする「筑後木蝋同業組合」が創設され久留米市京町に事務所が、2市6郡には支部が置かれ、販売斡旋・製造研究に努めた。
大正2年(1913)7月3日の福岡日日新聞の筑後木蝋の事業成績記事には 「筑後木蝋同業組合に於ける大正元年度の事業報告に依れば同年中の組合人員は836名にして検査点数23,763中合格同数にして前年に比し人員に於て40人を減じ検査点数に於て508、合格に於て606、不合格に於て2を何れも増加せり、人員の減少は原□櫨実産額不足を告げ櫨実仲買の減少したる事主なる原因なり、尚同年中の生産額は2,437,100斤尚価格457,053円にして前年に比し生産高に於て60,800斤価格に於て31,694円を増加せり、増加の原因は直接海外輸出の増加に基くものにして販売価額は生蝋1ケ年平均18円白蝋19円50銭にて市場に出せり、同組合は主として輸出の増殖を計り生産の改良粗製濫造の矯正、価額の昇騰に努めたる結果明治45年4月より大正2年3月に至る1ケ年間の直接海外輸出高641,380斤に達し其の仕向地は英、米、独等なるが内地移出額は1,798,720斤にして内地移出は神戸、大阪、東京其の他東北各県なりき」
八幡町には筑後木蝋同業組合、肥後製蝋株式会社、筑後採蝋同業組合ほか肥後・三池・八女・久留米・島原・天草の採蝋・製蝋業者の寄進により大正12年(1923)2月に武田蝋屋の顕彰碑が建立されている。佐賀県神崎や筑後の木蝋業者の親睦会「福神会」が作られ指導的役目になっていたとみられる。 |

大正8年旧正月八幡町自宅前にて |
大正期には平太郎の一人娘キクは親戚から平助を婿養子に迎え家督が継がれている。 |
武田平助は明治22年(1889)に八幡町の商家に生れた。すでに6才で姉と一緒に学校に通っていたという。学業を終えると博多の新藤油店で商売の修行を行っている。武田蝋屋は、平助の温厚で商売の才覚に優れているのを気に入り婿養子として迎える。平助は義理の父、平太郎の家業を継ぎ、「筑後木蝋」を設立し長崎にも出店し、白蝋を神戸の大手の三井物産に出荷するまでに発展させ、製蝋業界では最大手の企業に成長させていた。当時、三井物産は化粧品用としてフランスに輸出していました。三橋町百町の農家の晒業者に委託して出来た粗製白蝋は八幡町の工場に集め、精製して輸出用に角型の型に流しマーク入りのきれいな白蝋に製品化され送られていた。白蝋はロウソクのほか、日本髪や大相撲力士などの鬢付け油や化粧品(ポマード、口紅、クリーム)文房具(鉛筆の芯、クレヨン、朱肉、カーボン紙)繊維用(ノリ剤、仕上げ用蝋染、光沢剤)、家具類の艶付用、医療用、石鹸 原料、飛行機塗料、靴墨原料として用いられてきた。のちに武田製蝋店に20数年間雇われた高田町海津の江崎宗四郎は、地元にかえり木蝋の製造を起業し、優秀な白蝋が談議所の岸から大川の若津港に行き神戸の商店に運ばれた。村周辺の人達は好評を聞き付け木蝋業を始め18軒にも増え益々発展したといわれる。
昭和10年頃には三橋町の農家が下請けで生蝋を削り天日干した粗白蝋の生産額は増え続け日本一になり、町の予算より上回った時期もありました。武田蝋屋は、町の産業を担っていた瀬高の酒造家を上回る蝋の売上高を記録し繁栄を続け、原料となる地元の櫨の実だけでは不足し、熊本や島原から櫨の実を買入れ、舟で運び上庄の御蔵の浜に陸揚げし車力で工場に運んでいた。しかし商品を神戸に運んでいた船が沈没し大きな損害を受け倒産に追い込まれる。三井物産の援助で立直ることができ、こんどは安全な鉄道輸送に切替えて神戸に運んだ。倒産の危機を救ってくれた三井物産の取締役の写真を額に飾り生涯その恩を忘れなかったという。この経験が戦後の混乱時の人助けに繋がったと思われる。
昭和11年に工場を貨車積込みに便利な瀬高駅に近い矢部川3丁目に移転させ「日本木蝋」や「武田商店」を設立、三井物産のほか福井県へ絹織物用の仕上げ用の蝋も出荷し益々商売は繁盛し、町の有力者となる。
戦後の混乱のなか武田平助は資産を投じで多くの人を助けて社会貢献している。
昭和21年(1946)大洪水で自宅工場も大被害を受け、商品も流されたが武田蝋屋の貴重な江戸後期の古文書(商売の伝票類)も失われている。この水害で家を失った家庭に家を提供、被災した貧困者には金銭の救済活動をされた。また刑務所あがりの人も雇い入れ社会復帰に貢献している。敗戦後、金も物資も無い時代に、見込んだ有望な起業家の資金の援助をし、これらは現在では優良企業として成長している。中小企業のために信用金庫の設立にも貢献され、地場産業の発展に寄与された。戦後、風呂に困った近隣のためには工場の湯を提供し、のちに大衆銭湯「美泉館」を経営されていました。
昭和22年(1947)に町立の瀬高中学校が創立されたが、武田平助氏は財政の貧しい町に、校舎の建築資金に当時の金額で100万円寄付をされ、杉材予定 が、桧材を使用した立派な校舎が出来あがっている。
|
|

武田平助翁

博多での修行時代

青年期時代
|
戦後の統制の頃には吉井の亀崎鑞屋・大江の今村鑞屋・三橋町役場東の橋本鑞屋の4軒で合同で木蝋を製造し大変な頃もありましたが、順調に昭和の時代を乗り越え昭和44年には先祖から信仰のあった下庄八幡宮の海運・商売繁盛の神さま宮地獄神社の社殿再建と鳥居が奉納され、昭和48年に84才で他界されました。 |