庄福BICサイト              みやま市高田町竹飯(たけのい)  製作H・25・11・4   更新H30・4・5
 
   【邪馬台国式古墳】         竹飯1022
 竹飯の東の天満宮の東の畑地に巨石古墳がある。縦 360㎝ 横 330㎝ 高さ 150㎝ 周囲からは(.)素焼きの土器や高坏の破片が確認されており、周辺.には古代人の住まいがあったとみられる。昔、村人がこの石を破砕しようとしたところ(.)巨石から血が流れ出したので、砕くのを中止したと伝えられている。血に見えたのは人を墓に埋葬するときに上から振りかけた赤色顔料の「ベンガラ」とみられる(.)この巨石は「ドルメン」の一種で、邪馬台国式古墳と言われており、みやま市では禅院・山門の堤集落の古墳群、山川町では中原のお岩様、佐野、立山、飯尾の河野幸雄氏宅の屋敷神さんがあり、他の地方には少ない貴重な古代の遺跡である(.)巨石古代には、これらの巨石の前に祭壇を設け、海の幸、山の幸、神酒を供え、一族が集まって祖先を祀り、安堵と繁栄を祈ったとも思考されている(.)
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    【牡丹長者伝説】
   長者伝説は全国各地に語り伝えられているが、そのうちの一つに竹飯村に伝わる「牡丹長者(ぼたんちょうじゃ伝説」では、奈良に都が定められ、地方に国司、群司を設けて地方を治める制度が始まった頃、筑後国における古代官道(駅路(うまやじ))は久留米の「御井駅(ごいうまや)」、羽犬塚の「葛野駅」、当地の「狩道駅」を経て玉名郡南関町大水(おおつむ)駅~肥後の国府(熊本市)さらに九州南端の「坊津まで結ばれていた。竹飯には、駅舎、駅馬が置かれ、九州の南北を結ぶ陸上交通の要衡(ようしょう)として人の往来が多かった。駅には、駅使うまやづかい(朝廷の使者)等に食料や人馬を提供する役割の、駅長うまやおさ駅子えきしが配置されていました。又、隣村の海津は有明海を交易する舟の港として水の駅「貝の浦」があり繁栄していた。このように竹飯地方は陸海の交通、交易(こうえき)の要地であったが、各駅には駅長をおき、貢ぎ物の監視、地方の政治、通行人や放浪者の取締りに任じた。この狩路の駅の駅長が「牡丹長者」との伝承がある。また、牡丹長者は九州探題か土豪である諸説がある。長者とは、その地を治める行政長官であり、その他に分限者(ぶんげんしゃ)と呼ばれて勢力をもつ大金持ちを指すのである。竹飯の長者原という地に、屋敷が、あったとも言う(.)牡丹長者は、外敵に対する守備のために、すぐ後ろにある山頂に城を築き防衛に気を配った(.)その城の美しさは、丁度、大空に舞う鶴の姿に似ていたので、人呼んで舞鶴城(まいつるじょう)と名付けたという。今もこの地方を「舞鶴」という。(舞鶴には別の諸説もあり)又、長者は信仰心が厚くて菩提寺(萬願寺)を建立して深く神仏を敬った(.)竹飯の萬願寺の裏手の墓地に「牡丹長者の墓」と伝えられている五輪塔(ごりんとう)が三基、一段小高くなったところに竹林に囲まれて静かに立っている。竹飯地方に残る牡丹長者伝説はその土地の人々の心のよりどころとして、これからも残していきたいものである(.)この五輪塔を中心に、南北朝時代の年号の塔や、歴代住職の墓石が薮の中に静かに建っている()
 『南筑明覧』は満願寺の「寺記にいわく、牡丹長者は九州探題なりと云う」と記してあるが(.)竹井庄を立荘し竹井城館を構築した、鎌倉時代の北条得宗の得宗被官である博多の「鎮西探題」の役割を指揮、監視していた竹井氏の役割を言い当てているであろう(.)

  荘園時代の飯得(はえ)庄】
 竹井(たけのい)の地は 山川町の中心地の野町から竹飯一帯まで、飯江川が搬出した土砂によって形成された扇状地で肥沃な畑となっています。その扇状地は海水によって侵蝕され急崖をなして平野に没しています。その侵蝕面に此君泉(しくんせん)などの湧出する周りを石垣で囲まれ、こじんまりした池があります。扇状の緩やかな台 地の地下から流れ出た湧水は、いかなる旱魃(かんばつ)にも乾いたことはなく、また大 雨に際して(あふ)れることがなかった井戸だったという。現在は高田町である飯尾、竹井、海津は山門郡に属し飯江(はえ)は両郡にありました。律令(りつりょう)時代から荘園時代には、川に土居を造り農地を拡張した開墾がなされ、飯江川(はえがわ)の上流の現在の高田町の東部にある飯江(はえ)一帯に安楽寺(あんらくじ)天満宮領の飯得庄(はえのしょう)があったとみられる。。「天満宮安楽寺草創日記」には得飯庄と逆に書かれているが飯得庄が正しい。飯得庄は43町2反あまりの田積を持ったとあ(.)
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   鎌倉時代の竹井(たけのい)の起名
 鎌倉時代になると大友島津少弐の武士らが畿内や関東から九州へ派遣されているが(.)頼朝(よりとも)が亡くなった後に北条氏の執権政治となり、承久3年(1221)後鳥羽上皇による「承久(じょうきゅう)の乱」を契機に信濃国諏訪氏を中核として諏訪明神の氏人によって形成された武士団(諏訪神党)は2代北条義時(よしとき)に味方し勝利をなす。承久の乱の手柄により、鎌倉に出向いて主従関係となり(.)北条氏家臣団の最有力者となる(.)また幕府は御家人の働きに対して領地を分け与えるなど、恩賞でこたえました(.)
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     (竹井城館の建築)
 (史料)北条得宗家(とくそうけ)が権力を独占した時期は諏訪氏が、得宗家に仕え有力被官(御内人(みうちびと))として大きな勢力を持つた。鎌倉幕府第8代執権北条時宗(ほうじょうときむね)は(文永11年(1274)の「文久の役」と弘安4年(1281)の「弘安の役」と二度にわたり元寇の来襲受けているが、(史料諏訪氏とは血縁である竹井(たけのい)一族の御内人の中で城郭・防衛施設構築の専門家であり、軍事に通じていた竹井(たけのい)五郎入道竹井(たけのい)又太郎らに鎮西探題の指揮・監督者として在地得宗被官に任じられ、九州に下向し(.)得宗の政治力、経済力を駆使して竹井村の東端にある長者原(みやま市山川町尾野)に自分たちの館である竹井城館を構築した(.)竹井城館跡は東西約350m、南北365mに及ぶ極めて広い範囲で主郭、東の郭(.)南の郭、西の郭から構成され、東、西側には三重の堀や土塁の遺構を明瞭に確認できる(.)今は畑や果実園となっているが、北側の崖を除く東西と南側の各所に、幅7~8mの空堀や土塁とみられる跡が残っている(.)鎌倉時代の城館としては西日本最大規模となる。肥後との国境に近い竹井は軍事上の要衝(ようしょう)であった。竹井(たけのぴ)氏が異国警固番役の配置や元寇防塁の築造の分担案を発案したとみられる。(史料)元寇研究会(福岡市)の佐藤鉄太郎会長=中村学園元教授、日本中世史=によると(.)元寇が博多に攻めてきた「文永の役」(文永11年(1274)において異国警護の直接に統率者は鎮西奉行であったが(.)のちには得宗(とくそう)政権が統率するようになり、担当したのが得宗の譜代の御内人(みうちびと)であった竹井(たけのい)又太郎である(.)
弘安9年(1286)12月28日の恩賞注文によると竹井五郎入道が元寇対策の功績で豊後国岩手彦太郎跡を配慮している(.)
しかし元寇に費用を自分で負担して参戦した御家人たちは、恩賞が不十分で生活が苦しくなり不満を積もらせていきます(.)

     (竹井庄の成立)
 竹井庄は得宗領である。御内人である竹井(たけのい)氏が、自己が収集して所有した土地の領有を最も確実にする為に(.)それを得宗に寄進して得宗の荘園として成立させ、自己の領有を主張する為に庄号に自らの苗字(みようじ)をつけた竹井庄(たけのいしょう)とし、北条氏得宗が世襲した所領の得宗領(とくそうりょう)竹井(たけのい)庄が成立していた。竹井庄(たけのいしょう)は、みやま市高田町竹飯(たけのい)を中心に存在していた荘園である。竹井(たけのい)庄の④⑤⑥史料を検証すると確証できる(.)条執権時代には御案内人の諏訪氏の勢力が広がって、各地に諏訪神社が勧請された(.)竹井氏は氏神として竹井村から北北東に2.4Kmほど離れた薩摩街道に面したみやま市瀬高町本吉(もとよし)に、諏訪から勧請した諏訪神社を建立している(.)この諏訪神社の存在も竹井氏が諏訪氏であることが裏付けでいるだろう。また、北条時宗竹井(たけのい)又太郎も禅宗を保護しており、竹井氏は得宗家の政治力、経済力を以てみやま市瀬高町大竹に曹洞宗九州本山大慈寺の3代住職鉄山士安を招請し「大竹山二尊寺」を開山している(.)推測ではあるが竹井庄は瀬高下庄の二尊寺や清水山の(ふもと)の本吉に及ぶ荘園であったかも知れない(.)

 ⑦⑧(史料)元弘3年(1333)5月9日足利尊氏らの攻撃を受けて六波羅探題は全滅。同じく菊池武時後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎮西探題も襲撃され、鎌倉幕府は滅亡しました。北条得宗の御内人であった竹井(たけのい)一族は竹井城館を去り、薩摩(鹿児島県)に移り竹井村の名と竹井城館が残された(.)

  鎌倉幕府滅亡後の南北朝期の 興国3年康永元年(1342)5月、北朝方の九州探題一色道猷(どうゆう) (範氏(のりうじ))は長者原にある竹井城館に立て籠もった南朝方の中院侍従義定菊池武茂(たけもち)肥後武教大城藤次(草野一族)大木貞資(さだすけ)を攻める。激戦の末、7月には南朝方は敗れて菊池(熊本県)に退いている。応永元年(1394)大友親世(ちかよ)が筑後の諸豪を引連れて菊池氏を攻撃せんと竹井原に陣した時、菊池武朝合志六郎宗隆をして潰散(かいさん)に追込んだ。菊池武朝隈府城(くまふじょう)(現・菊池市隈府)を出て筑後に進出し、田尻城15代目の田尻種顕を降し大友を破っている。竹井(たけのい)一族が竹井城館を立去った後も、竹井村が軍事上の要衝であったことが想像される(.)

   出典史料
 元寇研究会(福岡市)の佐藤鉄太郎会長=中村学園元教授の「元寇に於ける得宗被官竹井氏の役割」の論文を史料として構成し掲載しまし(.)
 元寇研究会の佐藤鉄太郎先生には、史料提供と数回にわたる御指導を頂き感謝申し上げます(.)
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 得宗(とくそう)」とは、北条氏の嫡流のことで「北条氏九代」をいう(.)
 幕府の初代執権の北条時政(ほうじょうときまさ)を初代に数え、2代義時(よしとき)からその嫡流である泰時(やすとき)時氏(ときうじ)経時(つねとき)時頼(ときより)時宗(ときむね)貞時(さだとき)高時(たかとき)の9代を数える。
 得宗(とくそう)」とは2代義時の別名(法名)であり、義時の子孫の家を「得宗家」と呼ぶ。元寇(文永・弘安の役)以降は(.)得宗家の御内人の影響力が強くなり、得宗邸での決定がそのまま政策となった(.)御内人、御内とは鎌倉幕府の将軍と主従関係を結んだ武士である御家人(ごけにん)に対して、得宗の直接の被官(家来)のことであり、研究用語として、御内人、御内のことを得宗被官と言う(.)

 太田 (あきら)『姓氏家系大辞典』の、竹井氏の項には「大江姓(後藤原姓)筑後国山門郡竹井邑より起こる」とある。また竹井氏は、諏訪氏・金刺氏と同じく諏訪(すわ)大社の大祝(おおほうり)を務めてきた家系で、武井祝と称していた。苗字の竹井はその屋敷があった諏訪湖の北岸の下社(しもしゃ)の武居(たけのい)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)に由来するが、武居の地名は武井、竹居などとも記しており、竹井も武居の宛字の一つであり、竹井氏はそれを苗字(みょうじ)とした諏訪神氏の一族である(.)竹井は筑後山門郡竹井を本拠地とした在地得宗被官となり、鎮西探題の引付役となっていたであろう(.)

  【諏訪氏家系図】
 諏訪氏は出雲神の嫡裔大国主神の子の健御名方神の後裔と伝えられ(.)平安時代の初期に御衣木祝有員が諏訪上社大祝(おおほうり)となり大祝を世襲する。
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 繁魚──清主──【諏訪有員─┼武方─┬為員──有盛─┬盛長──員頼──頼平──┬有信─┬為信───┐
                │   │       │            │   │     │
                │   │       │            │   └為重   │
                │   │       │            │    【片倉氏】│
                │   │       │            │    【武居氏】│
                │   │       │            │    【武井氏】│

 比志島文書(薩摩国御家人比志島氏が相伝した文書)文久12年(1276)
   
「蒙古警固結番の事、使者民部次郎兵衛尉国茂を以て啓さしめ候(.)聞し食され候て、披露せしめ給うべく候。恐々謹言。
        二月四(.)            大宰少弐経資
            進上 竹井又太郎殿(.)
       蒙古警固結番の事
       春三ケ月 筑前国 肥後国
       夏三ケ月 肥前国 豊前国
       秋三ケ月 豊後国 筑後国
       冬三ケ月 日向国 大隅国 薩摩国
                文永十二年
(1275)二月日(.)

 文永12年(1275)2月4日 大宰少弐経資は蒙古警護番役の順序を決め(.)これを鎮西の御家人に披露することを、竹井又太郎(殿)に托された文書である。元寇研究会会長の佐藤鉄太郎氏(中村学園大元教授・日本中世史(.)によれば「この書状は上位者にお伺いを立てる進上書であり、その相手は最高権力者の北条時宗であり、この防御案を考えましたが(.)この内容で良いでしょうかと、時宗へ取次ぎを竹井又太郎に依頼した文書だった」とする。その上で、そうした書状を託されろ立場にあった竹井又太郎(.)北条時宗に近侍していた腹心のの「得宗被官」であったと見られる(.)
    
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永仁5年(1257)10月22日の筑後国近藤文書の大江宗心所領處分状案の文中に記されている「・・・・たけのゐの四らうひょうゑにうたう(竹井四郎兵衛入道)にうりわたすといへとも・・・・(.)は竹井庄の庄号の「たけのい」と、苗字の「たけのゐ」と一致する(.)苗字と荘園の庄号は偶然に一致することはありえないので、苗字の竹井(たけのい)は古くからの御内人である諏訪氏に由来しており、筑後国の地名の竹井に由来している苗字ではない(.)従って、荘園の庄号は竹井の苗字にから荘園の庄号や村名は竹井氏の苗字に(ちな)んで付けられたことになる。竹井の呼称は「たけのい」である。(.)

 
薩摩比志島文書には弘安9年(1286)に、少弐(しょうに)の嫡子、武藤四郎右衛門尉盛資(もりすけ)に、モンゴル戦(弘安の役)の恩賞地として筑前療病寺(りょうびょうじ)および極楽寺の地頭職と、岩門合戦(いわとがっせん)の勲功賞として筑後国竹井庄の領家職が与えられ(.)竹井氏はそれらの代官職を勤める構造で領家職の代官職をそのまま保有することで竹井庄の領家職の支配を行っていたとみられる(.)得宗は竹井氏から竹井庄を寄進され(.)竹井庄の領家職、預所職、地頭職を領有し、竹井氏はそれらの代官職を勤める構造で竹井庄の支配を行っていた。(九州中世史研究第1輯・川添昭二著より(.).この文書でみやま市高田町竹飯を中心とした荘園の竹井庄があったことが確証できる。同年12月28日の恩賞注文によると元寇対策の功績で竹井五郎入道が豊後国岩手彦太郎跡を配慮している(.)


 永仁5年(1257)10月22日の筑後国近藤文書の大江宗心所領處分状案の文中に記されている「・・・・たけのゐの四らうひょうゑにうたう(竹井四郎兵衛入道にうりわたすといへとも・・・・(.)は竹井庄の庄号の「たけのい」と、苗字の「たけのゐ」と一致する(.)苗字と荘園の庄号は偶然に一致することはありえないので、苗字の竹井(たけのい)は古くからの御内人である諏訪氏に由来しており、筑後国の地名の竹井に由来している苗字ではない(.)従って、荘園の庄号は竹井の苗字にから荘園の庄号や村名は竹井氏の苗字に(ちな)んで付けられたことになる。竹井の呼称は「たけのい」である。(.)
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 「番場宿蓮華寺過去帳」には元弘3年(1333)5月9日足利尊氏らの攻撃を受けた六波羅探題の北条仲時や武士たちは後醍醐天皇方に応じた武士達と合戦し(.)鎌倉に脱出しようとしたが、反幕府勢力に囲まれてしまい、近江国番場宿米山山麓一向堂前にて北条方の将士430余名は討死自害し六波羅探題は無くなり後醍醐天皇が還幸して鎌倉幕府は滅亡した(.)当地の「蓮華寺過去帳」に六波羅北方の竹井太郎盛充竹井掃部左衛門尉貞昭の実名が記している(.)太郎盛充の盛からは盛を通字とする武士とみられ、貞昭の貞は、得宗の「貞時」からの偏諱(へんき)である。
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 博多日記には元弘3年・正慶2年(1333)3月11日菊池武時後醍醐天皇に応じて挙兵し、鎮西探題を襲撃したことが記されているが、その討伐に当たった鎮西探題の武士に竹井孫七竹井孫八の兄弟が記されている(.)
 
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  寿永元年(1182)頃に大蔵春実より8代目種成の三男実種が筑前国から筑後国三池庄田尻邑(高田町田尻)に移り住み、田尻三郎と称し田尻山に飛塚城(ひずかじょう)を構え、みやま市の南東部を支配していました。天文19年(1550)田尻親種(ちかたね)は竹井原合戦手負注文(田尻家文書)には、現・山川町町真弓・三峰の真弓(まゆみ)助八郎三峰小四郎隷従(れいじゅう)して(付き従がわせ)戦っている。村の東に広がる竹井原は幾たびか武将による戦いが繰返された場所です(.)藩政時代では竹井組の属していたが大庄屋の名は不明であるが幕末では安永9年(1780)椛島益興吉左衛門)・益行益美益朗と代々大庄屋を幕末まで世襲している(.)当組に所属する村は大木・松延・北広田・藤尾・堤・朝日・大塚・草葉・本吉・河原内・在力・南広田・中尾・野町・竹井(たけのい)飯尾(いいのお)飯江(はえ)・立山・原町・佐野・中原・小萩・三峰・北関・真弓の25か村であった(.)
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   【隠れキリシタン】
 寛永17年(1640)徳川幕府は宗門改めを厳重にし、どこかの寺の檀家になるよう義務付け強制的に仏教徒とした。(.)そして葬式や法事を檀那寺の僧がやることを義務づけ、盆には、檀那寺の僧が檀家まわりをして、邪法信者(隠れキリシタン)でない事を確認させた(.)また村の庄屋・大庄屋による隠れキリシタンの発見や取調べが行われている(.)嘉永2年(1849)に郡御役所(郡方役人(.)吉宏仔織助永松傅右衛門に竹井組大庄屋の椛島吉右衛門が提出した口覚書「邪法信者の処分」の古文書により竹井村周辺にも隠れキリシタンの農民が存在していた(.)

 嘉永2年(1849)6月に、竹井村の惣右衛門(旧名忠七)と田尻村の善平の邪法信者(キリシタン(.)が吟味され白状し(.)彦四郎長次郎甚右衛門久左衛門次郎右衛門忠次郎茂平次平右衛門瀰三右衛門喜平治右衛門伊平次喜三右衛門(.)多助の妻いな・利助の母やす・庄三郎の後妻とみの邪法信者17人余が捕らわれ、竹井村庄屋の儀助宅に男5人。飯尾村の庄屋清右衛門宅に男5人(.)大木村の庄屋直作宅に男5人。本吉村の庄屋新左衛門宅に男5人。中尾村の庄屋善右衛門宅に男5人。飯江村の庄屋清実右衛門宅に男5人。(.)立山村の庄屋十太郎宅に女3人。野町の庄屋甚右衛門宅の牢屋に2人が入牢となる。後日、竹井村の河原で「叩きの刑」が執行され、竹井村の惣右衛門は村追放刑となっている(.)
先年以来、邪法信者が相次いだので、急ぎ、竹井村の以前の庄屋安右衛門が残した記録を調べると(.)寛政9年(1797)、役人の古賀吟右衛門が不意に来て、竹井村今屋敷小路にて邪法信者(キリシタン)の吟味が行われた。疑わしき者(.)5・60人程いたが、なんにも御咎(おとが)め無しの処分となったとある。推測であるが、あまりの多さに処罰した場合、農業の労働力を失い(.)村からの年貢を納められなくなり、藩の不利益になることを考慮して御咎(おとが)め無しの裁断を下したであろう。
文政5年(1822)にも同所で邪法信者の吟味が行われ捕らわれた(.)捕らわれた孫助は7~8年前から信仰し、忠七は5年以前から信仰していた事が判り。2名は庄屋備えの牢屋預かりの処分を受けていた(.)孫助とは嘉永2年(1849)6月に捕らわれた惣右衛門であった事が判明している。
 天保年間(1831~45)、立山村(山川町)の良海和尚が村人にキリストの教えを披露した疑いで吟味され(.)捕らわれて入牢したが、後に「御免」となり釈放されている(.)
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 明治初年の反別は1,064町余,石高は1万3,010石余、御領中郡別人数高御改帳(県史資料3(.)によれば,文化7年(1810)の家数1,605・寺庵数37、2歳以上人数7240、安政(あんせい)5年(1858)の家数1,971・寺庵数38,2歳以上人数8,669で現在のみやま市の東南部にあたる(.)竹飯村の地名は明治9年(1876)10月の町村合併の際に竹井村と飯江川の左岸に位置する飯尾村(いいのお)を併合して山門郡大字竹飯と改称した新しい名である。明治11年(1878)7月に郡区町村編成法が発布され(.)竹飯村内の西端にある小字の日渡、大手畑、小柳、山本の土地が三池郡田尻村に編入されている(.)竹飯の集落としては240戸を容する農村です。集落の成因について考えられる事は集落の東部に拡がる肥沃(ひよく)な長者原といわれる畑、北部の沖積地の水田は竹飯の人々の耕作地で共に相当広いもので、経済面の基礎になっています(.)明治40年(1907)1月1日の大合併で山川村の誕生で一員となり、昭和34年4月10日に、竹飯・海津(かいず)・飯尾が山門郡山川町から三池郡高田町に分村編入されています(.)
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   竹飯八幡宮
 仁和2年(886)9月29日に、竹井庄21ヵ所の祈願所として東隣村の飯江(はえ)に創建されている(参考:福岡県神社誌)。八幡宮の例祭の時は、この最初の鎮座地でも神事が行われるが、いつ現在地に移転したかは不明。戦国時代の田尻は武運長久の祈願神社としている。柳川藩主立花宗茂公が朝鮮の役凱旋後、竹飯八幡宮に祈願成就のお礼に煙火(えんか)を奉納したのが始まりと言われる。昔は仲秋の名月の夜に行われていましたが、現在では10月10日に奉納される(,)仕掛花火の稲すりお城万穂などは有名で、九州有数の花火生産地ならではのみごとなものである(,)千変万化の彩りを見せてくれる花火は、町の特産品の一つです。特に竹飯地区には煙火花火、玩具花火の製造所が 多くあり、日本でも数少ない国産花火の生産地です(,)竹飯稚児風流(市指定無形民俗文化財)は頭にシャグマ、和装姿に赤青のタスキがけ、手甲(てっこう)、脚はんわらじがりで太鼓をたたき舞う。五穀豊穣、悪疫(あくえき)退散、稲虫退除の祈願が含まれる。 竹飯の風流は、子どものみで行うところに特色がある(,)境内の聖母(しょうも)神社は仁和2年(886)11月12日に創建されている。屋須多神社は明治6年に再建されたものである(,)
 竹飯八幡宮
 樹齢三百年のイチイガシ の木

屋須多神社と聖母宮
竹飯八幡宮・ 肥前型鳥居  花火  竹飯稚児風流 
     竹飯八幡宮の鳥居(13~14世紀)有形文化財 
筑後地方には、堀切玉垂宮・大善寺玉垂宮、水田天満宮、蒲池三島宮などに肥前型鳥居があり、ここの鳥居も肥前型鳥居の形態の古い形を示している( 、,,)普通の鳥居は笠木が全体的に曲線を示すが、肥前型では両端だけが曲線となっており、島木と(ぬき)のあいだが狭く笠石はずん胴型で二段あるいは三段の()ぎ目をもっており、基礎部分は台座をもたず掘って建て式になっている(, )肥前式には砥川の石工が有名であるが、この鳥居には残念ながら石工名、造立年月日等の銘文はない(,、 )竹井城の祈願神社としての性格を持っている八幡宮あるゆえ、田尻(たじり)氏の寄進とも考えることができる。材質は杵島地方の安山岩である(,)
 
   竹井山  満願寺 蓮華院          みやま市高田町竹飯1283  
  九州探題、牡丹長者の祈願寺として、人皇58代光考天皇(こうこうてんのう)仁和(にんな)年間(885~889)に天台宗として開祖している。天文年間(1532~1555)に僧宗眼法師により中興の祖とする。牡丹長者の建立した5か所の寺の5個の(ほとけ)をまとめて建てられた菩提所であった。本寺は往古大伽藍(だいがらん)なりしも天正の戦乱時代に佐嘉の龍造寺隆信の乱入により焼払われ旧態なく記録寺宝残らず焼失せりという。寛永(かんえい)(1626)3年2月立花宗茂により再建、本尊は阿弥陀仏、寺地3反6畝3歩と竹井の畑地4町8反。また河原内村(かわはらうちむら)の鍋谷山の山林東西3丁、南北2丁を寄付される。宝永6年(1709)7月11日薬師堂を原町より当寺に移され新堂御建立あり。立花英山(えいざん)公の時に稲荷社を小川 村御茶屋より境内に御遷座有り。村誌に寺地東西24間南北23間、面積552坪と。境内に牡丹長者の墓というものあり(,)中興開山の宗眼大和尚の墓碑には天文十八年寂とあり、他に同時住僧の寛文二寅年六月二十三日及ぴ元禄十三年死亡の基あり(,) 荒廃せるを昭和23年(1948)に本堂・庫裡を武末豪順師再建し現在に至る。行事 4月8日花祭り 1月12日薬師縁日 春秋彼岸会 12月24日御正忌(ごしょうき)
 
本堂
 
境内の石造群
 
西の竹藪にある歴代住僧の墓後ろは五輪塔群
     【満願寺の四天王角柱塔】
 満願寺の四天王像は、野外にあって蓮弁型の四角柱を後背にし、丸彫りに近い半陽刻の一石造りである。材質は安山岩で、東に持国天(じこくてん)、南に増長天(ぞうちょうてん)、西に広目天(こうもくてん)、北に多聞天(たもんてん)を配している(,)もともとは須弥山の上空の仏達を守護する神であるが、四天王を拝むと(,)大変なご利益があるといわれている。持国天は家内安全、増長天増益(ぞうえき)広目天は広く世間を視る目、多聞天は多くのことをよく聞いて学ぶ心を授かるというものである(,)この像がいつ、誰によって安置されたかはわからないが(,)筑後地方では大変めずらしくこの地方の信仰を知る上で貴重な文化財である(,)  
     【満願寺の六地蔵】

 半陽刻下肥前型六地蔵の典型であり、安山岩製である。南部大牟田は肥後型六地蔵が多いが、高田町には肥前石造文化が入り込んでおり、石造文化の交流接点としても重要なものである(,)
  満願寺の五輪塔群
 寺の左奥の竹藪には牡丹長者のと言われる五輪塔をはじめ、数多くの石塔や歴代住職の卵塔の墓碑群がある。五輪塔は平安時代中期頃から個人の墓石や供養塔として造られました(.)宇宙の五大要素(空・風・火・水・地)」を象徴(しょうちょう)しており、それぞれ上から空・風・火・水・地を表しています。上から空輪(くうりん)=宝珠形、風輪=半月形、火輪=三角形(または笠形、屋根形)、水輪=円形、地輪=方形。、天地間の森羅万象(しんらばんしょう)を表現したものと言われている。材質は阿蘇凝灰石を使用されたののが多く、肥後(ひご)の石塔文化の影響を受けており、一部に南北朝時代の年紀銘を有するものがあり、康永(こうえい)三年(1344)明徳二年(1391)の北朝年号と正平(しょうへい)一五年(1360)の南朝年号が混在しているが、みやま市内に現存する石塔類の中では最も古いののである(.)この石塔群は筑後地方における石塔文化の特色や変遷(へんせん)を知る上でまた当地方の中世史を考える上からも貴重な文化財である。 (現地案内板を参照(.)  
     【中央5輪塔】 

 造立年月日などの記銘はなく、水輪に阿弥陀如来種子(しゅじ)のキリークを正面に、向かって右側に観音菩薩サ、左側に勢至菩薩サク阿弥陀三像(あむださんぞん)を配置し、後方にバンを薬研彫(やけんぼり)している。前面の花立台には、奉寄付 薩州 藩中 田尻嘗 竹井村 世話人 坂本 茂左ェ門 とある(,)従来、この塔は牡丹長者(ぼたんちょうじゃ)の墓といわれているが(,)むしろ牡丹長者を供養した四方仏塔としたほうが適切であろう。花立台とこの五輪塔が同時に建立されたとすると(,)薩州藩中」から考えてみて、江戸幕藩体制が確立された以後の作といえる。三基ある中で最も新しい造りである(,)
     【南側五輪塔】

 造立年月日の記銘はないが、室町時代末期の作と考えられる。開山中興和尚宗眼法師が天文年中(1532~1554)に建立したものであろう。水輪にサ観世音菩薩ア仏の通種子バク釈迦如来サク勢至(せいし)菩薩種子(しゅじ)を四方に薬研彫(やけんぼり)したもので、四方仏供養塔と呼ばれている(,)
 
      【北側五輪塔】 

 水輪に頸(くび)をもった五輪塔で宝塔塔身に見違えるほどあるが、底部も円形であることからやはり五輪塔というべきであろう。水輪に対して火輪、風輪、空輪がやや小さく、不均等(ふくんとう)である。水輪にキリーク阿弥陀如来アク不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)タラーク法生如来バン大日如来(だいにちにょらい)を配した金剛界四仏を種子で薬研彫してある。石材はいずれも阿蘇溶結疑灰岩で、大牟田南東部から南関にかけて産出される(,)
 
   此君泉(しくんせん)  
 満願寺の西方に湧水が出る此君泉があり、江戸時代柳川藩主立花氏の水調達の泉であった。柳川の殿様は、城から東に約8kmの位置にある、この泉の水を愛用し、夏の盛りに(たる)に詰め、周りを綿や(わら)で包んで、直射日光を避けながら、数々の人夫が交代で担ぎ、早駕籠(はやかご)並みにリレーして、御屋敷まで運び、殿様が飲まれるときは、まだ冷たくて、大変喜んで召し上がられ、またこの水でお茶を飲んでいたそうです。近くの百姓たちは、夏は飲み水として農作業に疲れた喉を(うる)おし、冬はお茶の湯として、炊事用としても欠かせぬ存在でした。旧柳川藩志には 「山川村大字竹飯字竹井にあり。同所満願寺の西方幽邃(ゆうすい)の地に冷泉湧き出す。池水6間の4間にて面積凡そ24坪、元は竹泉と云う。この地、竹井の称もこれより出る。干ばつに渇すことなく、大雨に(あふ)れることなし。伝に言う、「往時八幡山松花堂猩々(しょうかどうしょうしょう)翁此の地に来り、この水を以って硯滴となして書画を作って其の清潔を称賛して曰く、此れ石清水の水質と同じと。藩主の鑑通公は之を此君泉(タケイズミ)と命名した・・・・。」とあります(.)圃場整備で水が枯れていたが、平成24年にユンボで底を掘ったら奇跡的に水が出て此君泉が甦っています。(.)
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  竹飯の寺社仏閣
     
 浄土真宗、本願寺派
光徳寺
金竜寺  東の天満宮 
 画像準備中  〃  〃
 寂善寺 天満宮   飯尾の老松宮
 
    飯尾村(たけのおむら)
 地名辞典では山の裾の延びた所を尾としているが、飯尾村は山裾が延びた微高地に上小路と北小路の村落でもあり、また飯江川に沿った飯江村の下流の尾っぽの様でもあります。部落の南北にある小字名の河原や土居ノ内は飯江川が(じゃ)の目のごとく流れていた頃の、名残(なご)りでしょう。この地域一帯の遺跡調査から古代の飯尾には山腹の横穴住居に住み、山で狩りを川で魚や貝を採って生活をしていたでしょう(.)稲作がなされるようになると微高地に人が住み村が誕生したとみられる。飯江川沿いの湿地の開墾が進み荘園時代では山腹に老松宮が鎮座していることから、飯江村と同様に安楽寺(あんらくじ)天満宮領の飯得庄(いいえしょうの一部であったとみられる。明治9年(1876)10月の町村合併で竹井村(たけのいむら)と合併して竹飯村となっています(.)
 
 
 
 
  参考文献 高田町誌・三池郡誌・高田町の文化財・柳川史話(岡茂政・著)