庄福サイト                      【禁無断転載】                     H25・11・10製作                    福岡県柳川市三橋町棚町(たのまち) 
  棚町(たのまち)は三橋町の南東部に位置し、南は大和町、東は矢部川を挟んで瀬高町と接する。南東部の矢部川沿いの発掘調査では弥生式土器や土師器(はじき)が出土しており、弥生時代では微高地に人が住み稲作が始まっていたと見られる
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西に広がる整然とした水田は条理制の遺構である。和銅8年(715)道君首名(みちのきみのおびとな)は筑後守となり赴任して、溜池や堤防を築いて灌漑(かんがい)事業を広めた条理制(じょうりせい)による整備事業がなされた。平安時代でも名主により荒地が開墾され水田が増え瀬高庄の荘園が成立している(.)中世では柳川城の蒲地氏(下蒲地)の所領に属し、近世では柳川藩主の立花氏の藩領に属していました(.)
昔の用水は、乙丸堰を経て五十町そして棚町に流れていた。干ばつの時は苦労し、堀抜井戸を掘っていたという。反面水害も多く、ある時、上庄の祇園社が水害に()い、御神体が行方不明となった。捜索の結果、棚町の足洗い場に流れ着かれていた。そこで棚町の貧乏侍が(.)祇園神を破れ傘をさして上庄にお送りした。それから上庄祇園祭の時には家々の御神燈(ごしんとう)の上に傘をさすようになったという言伝えがある。棚町はまだ欝蒼(うっそう)と茂った(やぶ)が多く狐や狸の住かとなっていたらしく「場所じゃ場所じゃ、棚町ちゃ場所じゃ、狐、狸の出る場所じゃ」の里諺(りげん)が残っている。明治初期までは上棚町・中棚町下棚町の3村があったが明治9年の町村合併で中棚町・下棚町は江崎・古川・二丁新開・西津留と(あわ)せた6村は合併して六合村(ろくごうむら)が誕生し、上棚町は棚町村(たのまちむら)と名称が変わった。明治22年の町村制実施の際(.)棚町は明治9年にすでに合併していた上垂見・下垂見・平木分・白鳥・五十町の垂見村に編入しました(.)明治41年の町村合併で三橋村の一員となり(.)江戸初期に矢部川の掘り替えにより五十町の領分になっていた西郷高柳は棚町の領分に変更されました(.)昭和27年の町制施行で三橋町大字棚町となり行政区は棚町、水町、沖田に分れている(.)昭和21年のお倉の浜の下流が決壊した時の被害は甚大(じんだい)であった。水害の度に矢部川の川幅が拡大され堤防も嵩上(かさあ)げされてきた。しかし近頃の異常気象の大雨で平成24年にも棚町の下流の津留橋の手前の右岸堤防が決壊(けっかい)して被害を受けました(.)
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      【横手村】   横手庄について
 横手集落の南西部にあ(.)八ノ坪七反田の小字名は条理制の遺構です。建保(けんぽ)4年(1216)鷹尾文書のに瀬高上御庄住人横手入道(にゆうどう)無縁なる者が祭礼用の太刀(たち)を奉納する代わりとして米三石を寄進(きしん)している記事がある(.)これは五十丁横手の住人であろう(.)横手の庄は上庄の一村であったと考えられる(.)日本史学者の工藤敬一氏の著書によると「建仁(けんにん)元年(1201)11月高良宮(こうらぐう)上下宮井小社等造営所課荘々田数注文案では(.)横手庄は上庄に属するものと書かれているが(.)鎌倉期には他に所見がない(.)南北朝期には「師守記」紙脊文書に(.)康永(こうえい)3年(1344)正月27日の文殿廻文があり(.)瀬高横手庄についての城興寺所司提訴の訴訟(そしょう)への参対が命ぜられている(.)しかし実際には下庄の別符(べつぷ)である高良別宮鷹尾社の境内郷的(.)存在の鷹尾別符のことと思われる(.)と書かれてある。これは鷹尾(たかお)神社の正月7日、春秋二季の彼岸の饗膳酒肴(きょうぜんしゅこうの調進が課されていた22(みよう)(名とは集落の意味での中に棚町の2名が含まれることからも推察(すいさつ)できます。また横手の西にある小字に佃とあるのは、名主(みょうしゅ)(名田の所有者)の直接耕作地である(.)年貢や公事の賦課(ふか)が免除され、収穫物をすべて領主が収取した(.)
  【横手の天満宮(.)
 正保2年(1645)掘替工事(直進化工事)以前の瀬高川(矢部川)は(.)上庄から五十町、横手に蛇行して棚町の日吉神社の裏に曲って流れていました。二重堤防の外側の横手の堤防上には天神さんが五十町には八歳鎮座していました(.)境内の高さ(1.5m位)が堤防です。江戸初期に矢部川を遡上(そじょう)する肥後の船の航海日記によれば「船は横手の天神、五十丁村の八才(はっさい)様を拝み、右折し上庄東右岸談議所バ市に着く。」とある。古老の話しでは創建は荘園時代と言うがが確証はない(.)
 また横手には「毘沙門天」の社があり、昭和32年の土地改良でも、ここだけは昔のままの形で残っている(.)
 
五十町や横手や棚町を抜ける道の東側は矢部川の二重堤防の外側だった。
 
旧堤防上に鎮座する天満宮
 
     
棚町(たのまち)村】
 平安末期の
寿永(じゅえい)元年(1182)8月16日付の鷹尾神社公文所下文には当地域と考えられる「小熊丸名」(三橋町棚町字熊丸)、「北鴨住名」(三橋町棚町鴨角)( )内は比定地)ら22名に鷹尾神社の饗膳酒肴(きょうぜんしゅこう)の調進が課されているとからこの付近は瀬高下庄の荘園である(.)

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       【日吉(日枝・山王社)神社】
 日吉神社(日枝神社)の祭神は大山積(おおやまつみ)の神である。山の神は水が水田に引かれる頃、山から下りてきて農耕(のうこう)を助け、秋の収穫が終わると山に帰ると言われている。祭神・大山積を祭る同系列の神社が鎮座する棚町沖田・大和町六合の中棚町(.)下棚町の日吉・日枝の神社は矢部川対岸の北高柳や南高柳の日吉神社や三ノ溝(さなみぞ)の山王社との係わりを研究する必要がありそうです(.)鷹尾神社などに残された古文書には高柳の日吉宮は平安時代の寛和(かんな)元年(985)にはすでに祭礼が行われ、その祭典に要した御供物を克明(こくめい)に記した記録が残されています(.)
 
鳥居
 
楼門
 
新築された日吉神社
 
    【棚町の観音堂と若宮神社】
 集落の田中には、観音堂と若宮神社があり(.)観音堂の本尊がマリア像ではないかとも言われ(.)人口のミルクが無い昔では母乳のでない婦人が出るようにお詣りに来ていたお堂です(.)

 

観音堂

若宮神社
     【天満宮】
 水町・横手・小浜には天満宮がある。小濱の天満宮は子供の夜泣きを治す神と言われ、神殿の土を夜泣きする子供の枕下に入れおくと夜泣きが止まると言われた(.)また昭和32年の土地改良で道路拡幅が必要で神社の南側を1メートルを削ったところ、後に、病気、火災が相次いだ。関係者は驚き、巫女(みこ)に神のお告げを求めたところ、この付近は、昔は川岸で鎧兜(よろいかぶと)をつけ戦に敗れた武士が、ここに舟を寄せて、助かっている因縁(いんねん)のところであったそうである。また小浜には地蔵堂もあった(.)
     【水町】
 水町は棚町の西の位置する田んぼに囲まれた小村で、氏神さんは菅原道真を祭神とする天満宮です(.)水町散田には田んぼ中に、女山権現神社の農耕神である彦山大権現(ひこさんだいごんげん)の分霊を祀る権現神社の小さな祠があります(.)
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   沖田(おきた)村】
 沖田は広大な田園に囲まれ日枝(ひえ)神社を氏神とした小村で小川を挟んで、垂見村(たるみむら)と接する。小字の後藤分、千手分(.)林分は鎌倉時代の分割相続の名残りを示すものです(.) 村の西には誓願寺(せいがんじ)があります。
 
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参考文献   三橋町のあゆみ鷹尾文書・工藤敬一著「九州庄園の研究」・大和町史