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立花帯刀家とは立花家の親族である。柳川藩では立花帯刀、立花内膳の両家を、「御両家」と呼んだ。帯刀家は中山村、山崎村の2300石、内膳家は上内村、坂井村の1000石のみが、知行地をそのまま保持し続けました。帯刀家は文をもって鳴り、内膳家は武をもって聞こえたと言われるが、のちに帯刀家は炮術や槍術の師範を兼ねる当主もあるから文武併行が同家の家訓とされている。栁川城中の席次は帯刀家、内膳家、監物家、大学家の順である。柳川藩首席の御家柄で、名誉は天皇御即位式に、帯刀家当主が宮中に参上するなど祭祀面でも掌っていた。帯刀家からは、第5栁川藩主貞晟公のほかに、立花弾正家の分立、立花志摩家の家老職の創立などがあり、姻戚に至っては藩重役はもとより、他藩にも及んでいる。明治維新まで続いた帯刀家の夢の後を彷彿とさせてくれる、静かな威厳ある歴代の墓を巡ってきました。
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【立花内膳家とは】祖は柳川藩2代目藩主立花忠茂の実兄の政俊で南関に近い国境の上内の1000石を知行した通称は内膳、号は宗繁で寛文4年(1664)、57歳で逝去。墓所は柳川の法華宗台照院で戒名は「台照院殿瑤雄日源宗繁大居士」である。内膳家2代目は種俊が跡を継ぎ寛文9年(1669)に上内村(大牟田北部高田町に接し新大牟田駅の東)に黄檗宗法輪寺を創建し、上内内膳家代々の菩提寺とした。元禄10年(1697)54歳で逝去。法号「法輪寺殿嗣法雪関元徹大居士」。
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【初代栁川藩主・宗茂から2代柳川藩主・忠茂へ】
立花宗茂と誾千代夫妻には子供がいなかったので、宗茂の弟、立花直次の四男の千熊丸が慶長17年(1612)7月7日、誕生まもなく養子とされる。なお、直次の長男の種次は三池藩の初代藩主に、三男の正俊は内膳家の初祖に成長後になっている。宗茂の養子になった千熊丸は成長して忠茂と称し11歳のときに殿上において加冠(元服のときに初めて冠をつけること)する。寛永6年(1629)頃に家督を相続して翌年、28歳で江戸城、西の丸老中であった永井尚政の娘長子(玉樹院)を正室に迎えた。しかし玉樹院は長男と次男を続けざま亡くし、結婚4年後に他界し栁川・蟹町の崇安寺に葬られ寺の名を玉樹院と改める。寛永14年(1637)11月の「島原の乱」では忠茂は軍を率いて参戦し功を挙げ、2年後に33歳で正式に柳川藩2代藩主となる。
【茂虎(のちの帯刀家初祖)と鑑虎(のちの3代柳川藩主)の誕生】
正保元年(1644)甲申4月18日に側室である光行太郎左衛門の娘が、鶴寿(のちに帯刀家の初祖となる茂虎)(三男)を江戸で産んでいる。同年、将軍徳川家光の意向により継室(後妻)として全国3本の指に入る大藩、仙台62万石伊達忠宗の娘の鍋子姫を前将軍徳川秀忠の養女として、10万9千石の中藩の柳川藩が迎えることになる。財政困難で資金調達には大変な苦労があったという。継室の鍋子(法雲院)は、翌年の正保2年(1645)乙酉11月15日に、、嫡男、勝千代(のちの藩主鑑虎)を産んでいる。忠茂にはその後、宗満(号は立花大膳)・茂辰(矢嶋主水俊行の養子となり号を矢嶋石見行和と称す)・貞晟(八男で幼名源五郎、号は立花弾正、三潴郡の5000石を分与され、江戸幕府の旗本寄合の立花弾正家となる。のちに甥の帯刀家の貞俶(のちの5代藩主)を養子に迎える)・重虎(矢嶋行和の養子となり号を矢嶋釆女と称す)。ほか6人の娘らの10人の子供を儲けている。正保3年(1646)に徳川家に対し敬意と家康の御霊を祀る為に永興寺(瀬高町大草)に東照宮を勧請している。忠茂は鍋子姫が産んだ嫡男の鑑虎を藩主と考え、家督をめぐる争いを避けるために庶長子である茂虎を京都大徳寺に和尚に依頼して、茂虎を将来、同寺碧玉庵住職にするように依頼し茂虎に出家するように勧めたが、拒んだので激怒し、江戸から国元(栁川)にいる家臣の由布安芸(立花九郎兵衛)の預かりとして謹慎させた。由布宅の裏手に1棟を設け住まわせ、茂虎は世俗から離れ読書に耽り謹慎した。五節句(七草・桃・端午・七夕・菊の節句)などの時は裏小路の通路より窃かに、その玄関に至り祝辞を述べたと言う。いわば柳川藩安泰のための犠牲者といえる。寛文14年(1664)に2代藩主忠茂は隠居して、茂虎の異母弟の鑑虎が柳川藩3代藩主となった。
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【鍋子姫の子・鑑虎(のちの英山公)について】
3代藩主の鑑虎は思いやりのある良い藩政を行い領民に慕われる人柄でした。天和3年(1683)、山門郡内でいちばん高い狭野山(現・みやま市山川町)に、軍馬・農工場の放牧場を設けました。これが「お牧山」の始まりで、鑑虎の母里である奥州仙台より種馬を譲り受け、9ヶ年の歳月を費やして、土塁を築き柵を設け、馬の飼育に必要な人材を配した。鑑虎は毎年、馬肥ゆる秋の一日に、供人を従えてお牧山へ向かいました。元禄9年(1696)7月に鑑虎は家督を次男の鑑任に譲り、剃髪して英山と号された。隠居後の夏の暑さを厭わる為に、元禄11年(1698年)に、涼をもとめて、山紫水明の里である、九折(山川町)に別荘「雪峰軒」をもたれ、季どきに訪れ静養されました。よく清水寺に参拝に訪れ、その際に願望で清水寺本堂と愛好している能の舞台の建立を思いたたれ着工したが翌年の元禄16年(1703)に完成を見ずに逝去された。清水山の南隣の九折の雪峰山の墓所に息子の鑑任と並んで眠る。 |

雪峯山の鑑虎の墓 |
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【帯刀家の創設】
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柳川藩3代目藩主となった弟の鑑虎は兄の茂虎の不遇を痛み、寛文12年(1672)に領内の中山村(現・三橋町中山)に領地を与え同所に住居させた。延宝3年(1675)に父、忠茂が亡くなった翌年の延宝4年に山崎村(現・立花町山崎)も領地と優遇され2300石に加増され、立花内膳家(1000石)と共に藩の信望を集めた立花両家の一つ立花帯刀家が創設される。「延宝九酉年知行取無足扶持方共」(1681年頃の資料)の組外筆頭に『高貮千三百石 立花帯刀様』と見える.。
【帯刀家初代と2代目の墓・九品寺(臨済宗妙心寺派)】
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①立花茂虎(1644~1701)は幼名は鶴寿。通称、帯刀。号は好白で通称名から帯刀家と称され、『武の家』の内膳家に対し『文の家』の帯刀家と俗称されました。茂虎の正室は清光院で嫡男の茂高を産み、5年後の延宝4年(1676)に子の行く末を見届けずに若死にし、本郷の九品寺に葬られた。戒名は清光院殿秀月妙雲大姉。茂虎は継室に栄林院を迎え、次男の茂明(元禄14年2月28日早世・円融院殿・九品寺に埋葬)と三男の任利(後号立花志摩)を儲けている。任利は正徳3年(1713)癸巳1月21日、千石を賜り柳川藩家老となり、栁川城北三ノ丸の立花家元祖となっている。帯刀家初代の茂虎は元禄14年(1701)3月13日に58歳で亡くなっている。旧柳川藩志には「之を福厳寺に葬る。最初の法号(戒名)春林院殿、別に本郷九品寺に石塔位牌を安置す。」とある。禅寺の九品寺(満壽山)(瀬高町本郷)の墓所には立花帯刀家の祖、立花茂虎と最初の奥方の清光院の西隣に墓がある。戒名は国融院殿洞雲一花大居士。継室の栄林院は23年後の享保9年(1724)10月11日亡くなっている。戒名は栄林院殿心華浄芳大姉。亡くなった21年後の延享2年(1745)に3と4代藩主の鑑虎と鑑任の墓所である九折村(現・山川町河原内)の雪峯山の近くに、茂虎の最初の戒名、春林院殿と3度目の宗永寺殿の法名から名付けた春林山宗永寺(黄檗宗)が建立され、栄林院の戒名、栄林院殿心華浄芳大姉の墓と、隣に夫の茂虎の3度目の戒名、宗永寺殿李渓好白大居士の墓が建てられた。このように茂虎の墓は正室と継室の墓のある本郷と九折の2か所にあります。
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瀬高町本郷の九品寺の墓所
立花帯刀家初代茂虎公と清光院・奥方の墓 |
九品寺本堂にある清光院殿(茂虎の正室)
の大きな位牌 |
山川町河原内・九折の宗永寺墓所
立花帯刀家初代茂虎公と栄林院・奥方の墓 |
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②帯刀家2代目は嫡男(長男)の立花茂高が継いでいる。茂高は寛文11年(1671)辛亥8月6日に生まれ、母は清光院で、幼名を虎次郎と称し、のちに号を立花帯刀また立花朽木と称す。貞享3年(1686)丙寅2月6日に家督を相続している。正室は三池藩2代藩主・立花種長の娘の国子、玉泉院で、嫡男の茂之と次男の貞俶や娘らを儲けている。当時の古文書によると元禄15年(1702)8月24日夜、帯刀家の立花茂高(31歳)が突然柳河領を抜け出し、翌25日に久留米領坂東寺(現・筑後市)へ駆け込むという事件が起こった。これに先立つ元禄8年(1695)、茂高の家来が家老矢嶋采女に慮外(無礼)を働くという事件が起きています。此の時茂高は、藩にこの家来を引き渡さなかったことなどの対応の不備から逼塞(門を閉ざし、昼間の出入りを許さない刑罰)が申付けられた。この逼塞は一旦はすぐに免ぜられたようですが、どういった理由からか再び逼塞を仰せつけられています。知行地である中山村の屋敷から柳川城下の屋敷に移されてからは、さらに厳重な管理下に置かれました。このような状況に堪えかねて茂高は久留米に出奔したのでした。久留米藩家老への上申書によれば、茂高は久留米藩の家臣になるか、あるいは出家するかを希望し、柳川に返還されることだけはしないように願っています。柳川からの追っ手はその日のうちに坂東寺へやってきます。当初寺側は茂高はいないと答えていましたが、久留米藩に相談した結果、寺内に居ることを追っ手に伝えます。柳川・久留米両藩がこの事件についての交渉を重ねた結果、茂高は柳川へ返還されることになります。坂東寺は最初茂高を願い通りに出家させ、柳川には返還しないように主張したようですが、茂高の身の安全が保証されることがわかると返還に応じることになりました。こうして、9月1日柳川藩家臣南部喜右衛門が坂東寺へ赴き、茂高を駕籠に乗せて柳川へ連れ帰り、この出奔事軒は幕を閉じます。柳川へ戻った茂高はその後も屋敷に幽閉され、正徳4年(1714)に彼が亡くなるまで許されることはありませんでした。茂高に逼塞の原因になった事件への対応不備や素行不良があったことは事実のようですが、この時期は帯刀のような大身家臣の権力が藩権力に取り込まれていく過程にあたると考えられ、その矛盾がこの出奔の原因となっているとみることもできます。 (平成15年 柳川市史編さんだより〜98〜 より読み下し引用)
茂高の子、茂之が元禄10年(1697)にわずが2才で家督を相続したのは、上記のように父の事情によるものであろう。
しかし、元禄11年(1698)に生まれた次男の貞俶(清直)は、正徳2年(1712)、14歳で3代藩主鑑虎の弟である、大叔父にあたる、立花貞晟(2代藩主忠茂の5男で三潴郡新田大野島5千石を領し将軍家に官任す・旗本寄合の立花弾正家)の聟養子となりその家督を相続して旗本となったが、享保6年(1721)5月の第4代藩主・立花鑑任の死により、その末期養子となり、23歳で柳川藩5代藩主となり同年、最初の養父、貞晟の娘、松子を正室として迎えている。これにより帯刀家の地位は藩主に次ぐ勢力となる。同年、柳川藩家老の小野春信(若狭)が在役精勤の功としてもらった三池郡平野山で平野炭鉱を創業している。この小野家の170年後の第28代の5男、三郎が、明治中期に帯刀家の養子となり家督を継いでいる。九品寺墓所の重なる墓標の奥から3列目が帯刀家2代目の立花茂高で正徳4年(1714)甲午6月17日に42歳で亡くなり戒名は韜光院殿朽木常安大居士である。茂高の正室は柳川藩5代藩主、貞俶の母でもある玉泉院は寛保元年(1741)辛酉6月15日に亡くなり下庄上町の浄土宗の引接寺に葬られている。茂高の墓の右の香桂院殿 蘭夢妙覺大姉の墓と本堂の位牌は茂高の娘で5代藩主、貞俶の妹にあたり久留米有馬藩の家臣の鵣鷹傳五右衛門に嫁いでいた。本堂には香桂月院の位牌もある。 |

瀬高町本郷の九品寺の茂高の墓所
右は妹の香桂月院の墓 |
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立花家本家と内膳家・帯刀家の家系図
①内膳家政俊─②内膳家種俊―
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①宗茂──②忠茂─┬─③鑑虎──④鑑任──(帯刀家の貞俶を養子とする)
①帯刀家茂虎──②帯刀家茂高─┬─⑤貞俶(茂之の弟)─┬─⑥貞則
③主水家茂之(貞俶の兄) ⑦鑑通──鑑門
| ├─ 鑑一 ― ⑨鑑賢──⑩鑑広
④主水家茂矩 , | └─ ⑪鑑備
| └─⑧鑑寿── 寿俶 ── ⑫鑑寛(鑑備の養子となる)
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⑤帯刀家茂親
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⑥帯刀家茂旨―
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⑦帯刀家茂教 ― 〇帯刀家茂漚(家督継承前に没す)― ⑧松千代家茂尊(幕末・万延・文久年~)明治29年に帯刀家茂樹と改名
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【帯刀家3代目の墓・引接寺(浄土宗)】
③帯刀家の3代目は長男の立花茂之(幼名・千次郎、主水・一蔵)が2才で家督を継ぐ。栁川第5代藩主貞俶の実兄である。茂之は元禄8年(1695)己亥2月5日に誕生、母は玉泉院である。幼名を千次郎、元禄10年(1697)に家督を相続。のちに号を主水と称す。弟の貞俶が養子により5代栁川藩主となった為に帯刀家は藩の上位となり事実上藩主につぐ勢力があったと伝えられる。住いも元禄15年(1702)、故あって追われた家老の米多比丹波の屋敷跡を拝領した20余軒もある本町に住む。現在の伝習館高校から市役所までの場所である。邸内には講武場、騎射を設け、文武並行が家訓とされるようになり、炮術や槍術の師範を兼ねる当主も出るきっかけとなる。帯刀家の家来は、藩外に出る折には藩士同様の資格が与えられ、他家の家来と違って、藩士に無礼なことがあっても、直ちに切り捨てられることなく、一応帯刀家の承諾を得ねばならなかった。また中山村の農民も帯刀家の直支配となり、家来に准ぜられ、他村の農民より権威があったという。
(明楽の楽団結成)
長崎ではキリスト教禁令下において明国末期の戦乱を避けて長崎で交易していた明国の商人がキリシタンでないことの証として寛永年間(1624-1643)、黄檗宗の三福寺と言われる3つの寺を創建した。崇福寺の創建に多大な寄進をして功績のあった、白糸の交易をして富を築いた明国の渡来人魏之琰(徳川家光から賜った帰化名・鉅鹿)は交易の傍ら、本国から19種類の楽器を持参して明国の朝廷や廟で奏でる明楽(魏氏楽)が一族により崇福寺などで演奏されていた。茂之は陪臣(家来)数十名を長崎に遣わし、明楽を習得させ楽隊を編成し中山の別邸などで演奏し洋々たる奏楽の美声を聞かせていた。魏之琰から4代目にあたる魏皓(日本名・矩鹿民部)(1728年-1774年)は明楽を世に広めたいと考え、京や江戸にのぼり諸侯の前で明楽を奏し貴族階級、武士階級に広め江戸の中期から幕末にかけて日本でも流行した。安永の頃(1772)宮中に招聘され、天皇の御前で明楽を奏し、一大旋風を起こしました。当時は宗教はもちろん、絵画も、書も、音楽も全て「黄檗文化」がもてはやされた。明楽で使う楽器は管楽器の巣笙・觱篥龍笛・長簫。巣笙と觱篥は、それぞれ日本の雅楽の笙と篳篥(ひちりき)に似ている。弦楽器の小瑟・琵琶・月琴。打楽器は太鼓・小鼓(しょうこ)・雲鑼(うんら)・壇板である。帯刀家で幕末まで演奏された明楽は明治7~8年までも楽器、被服10数点があった。柳川の日吉神社には帯刀家から維新後奉納された明太鼓が拝殿にあり、巣笙も残されている。明楽は幕末期の清楽の台頭により衰退し、清楽の中の一部門に包括されてしまった。現在、東京の坂田古典音楽研究所など復元演奏・指導しており、湯島聖堂の文化講座で中国古典楽器の演奏を指導、大成殿で毎月一回、日曜日の午後に、無料の公開コンサートを行っている。明清音楽研究会でも明清楽の研究と復元演奏を行っている。 |

明太鼓・日吉神社 |
茂之は享保5年(1720)庚子6月13日に致仕(地位を退いて嫡男の茂矩に家督を譲る)号を一蔵と称す。享保18年(1733)癸丑3月2日に所領の中山村の別業(別邸)に移り住み、虎白や道印と改号する。茂之は引接寺(瀬高町下庄上町)の15代住職一誉上人に帰依(信心する)して、浄土宗に改宗した。父、茂高の正室玉泉院(茂之と藩主貞俶の母)は、寛保元年(1741)辛酉6月15日に亡くなり引接寺墓所(御霊屋)に埋葬され、5代柳川藩主となった貞俶によって墓が建立されている。茂之の次女は矢島釆女の嫁と玉蘭で、国内で2番目に漢詩集を発表している。後に矢島釆女の嫁となる。玉蘭もこの寺を愛したらしく「中山詩稿」には「遊ニ引接寺一」という五言律詩が収められている。また息子の4男、5男、6男の3名は後に引接寺・一誉上人の弟子となり、その中の1人即瑞和尚は当寺16代住職となっている。茂之(道印)は延享3年(1746)に椿原町にあった長命寺に栁川・出来町の別荘地を寄付し寺を移転させた。本尊不動明王並びに秘仏大聖歓喜店天を寄進している。宝暦4年(1754)1月23日に60歳で世を去り引接寺の帯刀家の御霊屋に葬られた。法名聖龍院潜與頼阿道卬大居士。これにより寺の山号遍光院を茂之の院号により聖龍山と改められた。帯刀家3代の茂之と盛亮院(安永5年(1776)丙申4月18日逝)の夫妻と後ろには娘の隋信院(長女)と中山玉蘭(次女・貞松院)らの墓も同所にある。 |
帯刀家2代、茂高の正室(茂之・貞俶の母)玉線院の墓 |

帯刀家3代の茂之と盛亮院の夫妻の墓 |

茂之の娘の隋信院と玉蘭(貞松院)の墓 |
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.. 【帯刀家4代以降の墓・宗永寺(黄檗宗)】
山川町九折の宗永寺は立花帯刀家の祖、立花茂虎公の継室の栄林院が亡くなった21年後の延享2年(1745)に臨済禅宗黄檗派の寺として、玄堂和尚が開山し、帯刀家初祖の茂虎の最初の戒名、春林院殿と3度目の戒名、宗永寺殿の法名から名付けた春林山宗永寺が建立され、帯刀家の菩提寺とされている。宗永寺は宝暦10年(1760)に僧金海によって再建し、隠居地とする。庭奥の一地蔵尊の台座に「一切有情」 「地蔵菩薩結縁願主中」 「宗永山圓如謹誌之」 「時天明元年辛丑年閏月吉日立」(1781)と刻まれている。帯刀家の菩提寺で一般檀家を持たなかったので、明治以降は女僧が行う祈祷所として2代続いたが、昭和年代には廃寺となり完全な農家となり現在は寺の建物では無く農家風情である。墓所も裏山にあった為に、帯刀家の墓所と知る人は無く、寺の主も三池から彼岸にはお参りに来られるので三池藩の殿様の墓と誤解されていたし、「旧柳川藩志」の著者、渡辺村男も認識なかったであろう。近くの廃寺となった藩主、忠茂と鑑虎親子の菩提寺、霊明寺の御本尊の釈迦牟尼仏像や位牌が残されているが、霊明寺が廃寺になり取り崩され前に持込まれたものです。裏山の帯刀家初代と4代以降の帯刀家の墓の調査取材が平成24年4月に完了しましたので掲載します。 |

春林山、宗永寺(黄檗宗)現在は農家屋敷 |

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④立花帯刀家4代茂矩公(1769年逝)と奥方の墓 |
⑤立花帯刀家5代茂親公(1815年逝)と奥方の墓 |
宗永寺墓所東側の並び |
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④帯刀家4代、立花主水茂矩は享保3年(1718)戊戌2月26日に誕生。幼名は熊次、母親は父の正室、盛亮院(墓は引接寺)です。享保5年(1720)庚子6月13日に3歳で家徳相続している。享保19年(1735)甲寅6月7日、18歳になり加冠(元服の儀式)。号を立花主水と称す。享保20年(1735)乙卯3月28日に前髪執。同年11月3日、叔父の藩主貞俶の命により桜町天皇即位式のために京都の宮中に参上しており、帯刀家は祭祀面も掌ることが慣例となる。寛延3年(1750)庚午3月11日、いとこである栁川6代藩主貞俶の長女・喜勢子を奥方に迎える。明和6年巳丒(1769)3月21日に51歳で亡くなる。墓所は山川町九折村の宗永寺にある。戒名、瑞雲院殿悟眞哲ノ玄大居士。長男の茂親が造立している。隣に奥方の超勝院殿瑞譽妙然襡峯大姉(文化4年丁卯(1807)8月21日逝)(立花帯刀源茂親造立)の墓。その左隣に茂親の子供であろうか、立花熊壽の墓、戒名、清林院殿玉峯淨榮大童子(天明元年(1781)辛丒5月21日逝)。
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帯刀家4代茂矩公の位牌 |
⑤帯刀家5代、立花茂親は宝暦3年(1753)癸酉7月1日に誕生。幼名は茂寿。明和5年(1768)戊子8月20日に加冠立花帯刀・養源院と称す。明和6年(1769)己丑2月20日に前髪執。同年5月10日に家督相続する。正室は7代藩主鑑通の娘の俊光院を迎える。後桃園天皇即位式に京都の宮中に参上する。武道面では奥秘極の栁川藩の未木流の槍術の師範であった。文化12年戌寅(1829)6月14日に61歳で亡くなる。戒名、養源院殿俊徳宣明人居士、隣に奥方の俊光院殿明與圓月智照大姉(文政8年乙酉(1825)8月3日逝)の墓がある。 |

九品寺の半鐘 |
【満壽山 九品寺の半鐘】
茂親が九品寺に奉納した半鐘で、いつの頃からか、本郷の聖母宮境内の火の見櫓に架かっていたが道路拡張計画の為に降ろされたものです。
4面に細い字で陰刻された銘には「孝孫立花茂親公丁 韜光院殿(立花茂高の戒名)七十年遠忌 辰再爐鞴裡・・・・」 「天明第三発卯年 四月吉祥日 筑後州下妻郡本郷村満壽山 九品禅寺 見住嗣法比丘 爾層山 謹記焉」 「・・・・鐘者住大檀越立花好白(帯刀家初祖立花茂虎の号)大居士所寄付・・・・」などが書かれている。
解明できぬ文字も多いが要約すると、帯刀家初祖立花茂虎の正室の清光院が早死にして九品寺に葬られた頃に茂虎(好白)が半鐘を寄付したとみられる。長い年月の使用で、ひび割れで音がでなくなっていた。帯刀家5代目の茂親は天明3年(1783)4月に曽祖父の茂高(帯刀家2代目・戒名韜光院殿朽木常安大居士)の七十周忌の法要を本郷の九品寺で行い、高祖父、茂虎(好白)が寄付した半鐘を再鋳造して寺に奉納して冥福を祈っている。当時の住職は層山とみられる。鋳造の職人名は記入されていない。 |
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宗永寺の位牌の頭には立花家の定紋の祇園守があるが、位牌を入れた厨子の正面左の紋は立花家の家紋のひとつ杏葉紋で、もとは豊後の戦国大名大友家が用いた家紋で、武勲のあった家臣に報奨としてこの紋を与え九州の諸将の憧れの家紋にもなりました。立花家の初祖、立花道雪も頂戴したであろう。大友家と龍造寺家が争った元亀元年(1570)の今山の戦いで、龍造寺の家臣で篭城していた鍋島直茂が篝火に映える大友の杏葉紋に惚れ込み、奇襲戦で勝った後の肥前佐賀藩主鍋島家でも定紋として使い続けたとある。厨子の正面右は、くずし祇園守紋です。立花家で用いられる祇園守紋は6種類もあり調度品・武具などに使用されています。
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⑥帯刀家6代、立花茂旨の母親は鑑通の娘の俊光院である。幼名を滝三郎という。文化12年(1815)乙亥8月に家督を相続する。文化14年(1817)丁丑10月4日に仁考天皇の御即位に宮中に参上する。宗永寺の墓所墓所西3基には左から定勝院殿妙心精通大居士(天保14年(1843)癸卯11月初4日逝)(立花帯刀源茂教建之)、信證院殿清譽不染浄心大姉(嘉永4年(1852)亥9月17日寂)(立花帯刀源茂教謹建之)とあるが、この2基が嫡男の茂教が建立した帯刀家6代、立花茂旨夫妻の墓である。また下庄の引接寺の御霊屋の西右端に茂教が建立した娘の墓の宝珠院殿(嘉永7年(1854)寅6月24日逝)と法林院殿の大童女の墓がある。
⑦帯刀家7代、茂教の母は藩主の娘の信證院である。天保2年(1831)辛卯7月に家督を相続する。弘化4年(1847)に考明天皇の御即位に宮中に参上する。嘉永元年(1848)に炮術の萩流の師範となり門下生は幕末の動乱期において活躍している。文化元年(1804)にロシア艦艇が長崎へ来たのを始め、イギリス、フランスが来る。嘉永6年(1853)7月には浦賀にアメリカ黒船が強行上陸し、鎖国日本を揺さぶる。柳川藩は、海辺防備のために房総習志野への出兵が要請される。次いで、長州戦争に参加した藩は、上庄の平井家の平井蘇介を長崎に遣わしてオランダの大砲製造の技術を学ばせ、彼の帰国後に柳川藩の練兵所のあった三柱神社の神苑境内に「御製造所」を造り大砲製造を始めている。この動きに対して日本国内では開国論と攘夷論との2派が対立を深めた。茂教は万延元年(1860)庚申5月29日に57歳で亡くなり宗永寺の墓所に葬られた。西3基の並びの右端(入口右)には戒名、覺了院殿一如天眞大居士。墓は孫の立花松千代源茂尊が建てている。
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7代茂教公(右開扉)などのの位牌

炮術 |
〇立花茂傴は帯刀家7代、茂教の嫡男である。文化5年(1808)壬午に誕生する。母親は輝徳院殿です。幼名を亀之助という。号を立花日向と称する。宗永寺墓所の東の並び中間に厩宗院殿圓應智鑑大居士(安政6年巳未(1859)5月18日逝)(立花松千代源 敬立)38歳卒があるのは茂傴の墓であるが、父・茂教より1年早く亡くなっており、病気の為に家督を継ぐ事はなく、9歳になる息子の松千代が継いだとみられる。
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⑥立花帯刀家6代茂矩公(1863年逝)と奥方墓
⑦立花帯刀家7代茂教公(1860逝)の墓 (九折の宗永寺) |
〇立花帯刀家茂漚公(九折の宗永寺)
(8代茂尊公の父親)(1859逝)の墓 |
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⑧帯刀家8代、立花松千代は早世した茂漚の嫡男で嘉永3年(1850)庚戌2月15日に誕生。のちに茂尊と称す。帯刀家の家督を継ぎ、立花松千代家とする。栁河藩立花家分限帳の第三集の資料によると文久元年(1861)の侍帳では高二千石・立花帯刀殿と立花枩(松)千代殿の記載がある。文久年間頃の惣侍分限では高二千石・立花松千代殿の記載があり帯刀家の家督は立花松千代源茂尊が受継いでいる。古文書「文久・慶應・明治 家中変遷」によると江戸期最後の慶應年間(1865~1867)に立花松千代家から元の立花帯刀家に改めている。明治2年(1869)総師職、翌年3月に辞職。遊学の為に上京し、のちに浪華青年舎兵事学1年となり10月に伍長兼伝習役となる。明治6年(1872)6月に上妻郡山崎村に移住し、のちに旧宅の柳川本町に帰る。さらに大牟田市歴木に柳川の屋敷を移築して引越している。先妻は三奈木黒田家の黒田一美の娘、安子であるが男子(茂松?早死)と速(速子)をもうけた。しかし安子は若死され、後妻に黒田藩士右田家から嫁(たき)を迎え4人の男子、をもうけた。明治29年(1896)10月の項に松千代から茂樹と改名している。茂樹が亡くなった後は、娘の速子は野村祐一と結婚し家を出る。後妻の子、千代松(静茂)・謙吉・直治・朴の4人の幼い息子がいたが、現在の帯刀家の当主の取材によると、事情は不明であるが、栁川の立花殿さま(立花寛治氏)から4人子供たちを勘当する文書があり驚いたと言う。それぞれ福岡市の佃煮・「儀助煮」本舗宮野家へ、昭和46年8月20日息子の右田千代松(静茂)・松本謙吉・橋本直治・立花朴の4人で引接寺の父茂樹の墓を改修し供養が行われている。長男の静茂は母親の姓(右田)を名乗って室内装飾のデザイナーとして活躍しているいる。、 |

8代目茂樹の墓(引接寺) |
⑨帯刀系譜は8代で終わっているが、「大牟田市史」によると帯刀家9代を継いだのは、小野家第28代家老家戸主の小野隆基の五男の小野三郎が帯刀家の養子となる。小野家は柳河藩の家老を代々勤め、平野村(大牟田市)を所領し平野山の炭山経営では、明治6年(1873)に官営へ移行するまで行われ多くの財産を築いている。小野家は明治維新後、帯刀家と同じく栁川から三池に引越している。養子の立花三郎は三池小学校の教師となったが、のちに三池銀行や柳河銀行に勤め、三池町の町会議員となる。夫人の愛は上内(内膳家)の立花守雄の娘である。愛の父である立花守雄は栁川藩12代最後の藩主立花 鑑寛の娘を妻に迎えている。夫妻の真新しい墓は帯刀家初祖、茂虎公夫妻の墓の手前左隣にある。霊岳院殿秀道貫徹大居士・俗名立花三郎、昭和38年(1963)2月5日逝去。愛光院殿貞室妙照大姉・俗名立花愛・昭和40年4月23日逝去の祇園守の家紋を彫った墓がある。中央に細長い筒をクロスさせ銀杏の葉は守り札に結ばれた緒がひらりと広がる様のような飾りである。栁川藩主の立花家は栁川祇園守で中心に二つ巴が入っています。由来は藩祖宗茂が夢の中で祇園神のお告げを受け、「扇子の上に祇園守を載せたる様」を家紋としたことが初めとされます。嫡男の禎二氏は昔は福岡県試験場に勤務の経歴があるが、5~6年前までは禎二氏の奥方が息子さんの付添いで九品寺や宗永寺に墓参りに訪れていましたが今は途絶えている。大牟田市歴木にある帯刀家の建物は柳川城内の建物を移築されたもので、江戸初期から340年続いた帯刀家の歴史と風格があり、広い邸宅の木立を渡ってくる風は歴代の思いを偲ばせてくれる。 |
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⑨立花帯刀家9代立花三郎夫妻の墓(九折の宗永寺) |
帯刀家の祇園守の家紋 |
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.参考文献 栁河藩立花分限帳、栁川歴史資料集成第三集・旧柳川藩志・瀬高町誌・大牟田市史・前田淑著「立花玉蘭・その生涯と作品」・「中山小学校100周年記念誌」・教育委員会中山校区故郷を知る
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