庄福BICサイ                                         H21・11・30制作        H25・4・5更新      



成清博愛(1864‐1916)
的山荘(てきざんそう)」は福岡県みやま市瀬高町小川字堀池園(ほりいけぞん)集落の成清博愛(なるきよひろえ)が別荘として建築したものです。「的山」とは、鉱山を当てるという意味だそうで、博愛の雅号(がごう)から名づけられました(.)大分県杵築市山香町(やまがまち)馬上(ばじょう)金山で金鉱を当てた財を、惜しむ事なく投じました。大正2年に金鉱石の積み出し港のある大分県速見郡日出町(ひじまち)の別府湾を見渡せる景色の良い、日出城(暘谷城(ようこくじょう))の三の丸の日出藩屋敷跡の3670坪を購入(.)大正4年(1915)1月に建坪247坪の豪邸が完成しました(.)総工費25万円、現在の7〜8億円相当額である。玄関に見られる式台(しきだい)、座敷に設けられた床の間、付書院(.)棚、各部屋境の欄間(らんま)彫刻は江戸時代からの建築様式や装飾を受け継いだ貴重な木造平屋の近代和風建築です高崎山を築山(つきやま)に、別府湾を泉水に見立 てた借景の日本庭園で、巨泉を掘り、巨大な灯籠(とうろう)を建てた人工の美も発揮している


正門は昔と変わらないが樹木は大きく成長している

完成当時は砂利道でした。(大正4年撮影)
   
 
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 杵築藩の藩校「学習館」の門と同じく江戸様式の切妻造、桟瓦葺(さんかわらふき)腕木門(うできもん)である。両脇に袖塀を持ち、連なる石垣土台の屋根塀は上部に窓枠を配している。大正4年(1915)の完成した当時の道は砂利道(じゃりみち)であったが、のちに石畳が敷詰められている。現在は樹木が茂り風情をなしているが、門は創建時とほとんど変わっていない()門を入ると玄関前のロータリーまで続く綺麗な石畳の通路は海からの風の(におい)いと季節ごと変化する木々を楽しめます(.)
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玄関前


外玄関

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石灯籠
 
 
                         成清博愛の故郷・瀬高町堀池園から成清和子さんを表敬訪問(2011・4)

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 大正4年(1915)
の古写真は庭園造成中であろう、表題の同年の玄関の写真と比較すると石灯籠や玄関と大広間部屋との目隠しの竹垣はまだ設置されていない。玄関前の洋風建築に良く見る石畳のロータリーの周りには植え込みが(ほどこ)され樹木が程よい景観を成している。玄関は大理石の敷石が施されている(.)
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応接間

回廊の硝子戸


@18畳の大広間(海側)

A床の間の組子障子
B大広間

C付書院

D馬上金山の松風館


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 大広間の天井Eは桐板を使い、広間境の
縦格子欄間Bは一枚板を彫り込んだものです。床の間の組子障子Aは当時の職人技を見せつける作品です。左横の付書院Cの左の飾り棚は創建時の物が残されている。上の「國本」の扁額(へんがく)明治33年の立憲政友会の創始者、伊藤博文翁の書で以前は馬上金山の倶楽部松風館2階の大広間Dにも()けてあった。現在ある大正ロマン風の電灯のシャンデリアEは創建当時の写真Bには無いので、5年位後に電気が引かれてから設置された物であろう。虎の屏風は残されていないが(.)大正5年1月博愛が世を去った後に、長男の信愛(のぶえ)父の遺徳をしのび、和田三造画伯に「馬上金山の全景」の下絵を画き三造の奥さんが刺繍を施した馬上金山全景四曲一双の屏風絵(びようぶえ)がある。そのほか著名人の扁額や掛け軸・色紙などが飾られている(.)
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E大広間の天井

馬上金山全景・四曲一双の屏風絵
   

城下かれいのスケッチ

      

E手前の建物は後年「汐湯」を移築されている
石灯篭は同じ場所に現存している

F
手前の建物が大広間
 

G鞍馬石の靴脱石

H大正時代のガラス戸

I移築された「汐湯」2階建て
 
J庭園からの眺め


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 大広間縁側の手前の建物EIは海岸縁にあった「汐湯」の建物を移築されたものです。皇族方の迎賓館として使用され通路には赤じゅうたんが敷かれている。大広間縁側前の石灯籠は写真EFで検証すると同じ位置に現存している(.)庭に出る靴脱石は京都から取り寄せた、希少価値が高い大きな鞍馬石(くらかいし)Gが使われている。縁側の窓ガラスHは手作業によるもので、そのガラスに映り込んだ景色に少しひずみがあって、大正時代の味わいを(かも)し出している。
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K樹木も大木になった現在の庭園


L大正4年の庭園造成時
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 庭園は高崎山を築山に、別府湾を泉水に見立 てた借景の庭園Jとし、在来よりあった老松樹齢数百年の樹木のほか、県内外から集められた
(かえで)山桃などの古木、名木が植え込まれた。巨泉を掘り、巨大な灯籠(とうろう)を建て人工の美を発揮させている。この庭園に大正5年10月10日の夕方に何処より白鶴3羽飛んで日出別邸に入り邸内の老松に宿った。周辺からの見物客が集まり、80歳の古老(ころう)もいまだ見たこと無しと語る。3羽の白鶴悠々一夜を松間に明かし翌朝に飛び去った。(馬上金山志より)周りの塀は高さ2.6m余の瀬高町製の煉瓦塀(れんがべい)を数百m廻らした。95年の歳月により庭園の樹木も生長し、来客の散策コースとなっている(.)
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M海から見た大正4年の的山荘全景で、左側に見える建物が落成した的山荘Nで右端が日出港Oである。

N大正4年1月完成した的山荘

O当時の日出港
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 的山荘の海岸縁にある建物は「汐湯」と呼ばれていた2階建ての建物であるが、海遊びの休息場であったであろうか(.)現在は上部の的山荘の大広間の横に移築され、皇族方がお見えになった時の迎賓館(げいひんかん)として使用された。
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P大正4年の貯鉱場

Q碩田号発行の日出停車場(駅)絵葉書
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 日出港は田園の広がる小さな漁村であったが、博愛は鉱石を船で運ぶために莫大な私財を投じて港を整備し、日豊本線の日出駅から当時としては珍しい浜線(引込み線)を引き、鉱石を日出港に運び、馬上丸(ばじょうまる)の台船に乗せて、茨城の日立鉱山の製錬所に運びました。写真Bには日出驛前貯鉱場Pやの碩田号発行の絵葉書には日出(ひじ)停車場Qとあるが海の傍のあることから、日豊本線の日出駅から引込んだ浜線の日出港側の駅の事であろう。右奥が日出港の漁村で、現在は埋立(うまたて)られている。

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R大正4年

S大正10年
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 三の丸通路沿いは洋風の馬上金山の本社事務所が建てられた。左の写真Rは大正4年に新築された時だが、右の大正10年の写真Sには、電柱が立ち電気が使用されている。そのほかに傍には集会所・幹部(かんぶ)社宅なども建築されていた。
 
大正5年博愛が世を去ったあとは馬上金山の鉱主を引継いだ長男の信愛(のぶえ)の邸宅となりました。三代目の成清信輔氏は昭和39年に城下カレイ料理の料亭「的山荘」を営業、別府湾や高崎山を借景(しゃっけい)とした庭園が人気を集め、皇室関係者や財界人たちが訪れている。信輔氏の次は四代目の女将成清和さんと子息の成清恵司さん夫妻が懐石(かいせき)料理を昼食のみ営業されていた(.)的山荘は1991年に日出町の文化財となっている(.)2011年3月には町が的山荘を買取り同時に料理店の経営者も入替った(.)平成26年(2014)に的山荘は「旧成清家日出別邸」として、国の重要文化財に指定されました(.)
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掲載内容、及び写真について 無断転記使用・掲載を禁止致します。
(的山荘の写真は成清様より借用中です、古い写真は馬上金山写真帳などから掲載しました。)

庄福BICサイト      Email:shofuku21@yahoo.co.jp