庄福BICサイト 【禁無断転載】 古地図に見る徳島の歴史 福岡県みやま市高田町徳島 |
島堀切村は江戸初期の寛永15年(1638)、柳川藩主立花忠茂のときに、普請方役人田尻総次(惣馬の祖父)矢部川(中島川)と飯江川の直線工事により開拓され、飯江川河口の洲状の堀切村の南西が切り離された。さらに北と西に土手を構築し数十年をかけて干拓された。西の開の付く小字はその土地です。干拓施工者には、藩営と民営があり民営は藩の免許を受け、多くは願主は地頭で資本金を出し、地元農民が労力を提供した鍬先人で永代小作人の権利を生じて地頭に余米を納める義務が負わされた。屋根や日除けに使う葦の収益を目的に育てる所有権を持つ者を野主、葦野主、踏立人と呼ばれ、やはり余米を納める義務があった。古地図の崇勝寺開は寺請、庄九郎開は町人請、大百姓開は村請の蒋野開や問住所開は武士請の開拓者地名です。島堀切村や干拓地の徳永村は対岸の山門郡中島村の領域でした。庄九郎開には藩有地の三の丸御蔵があり、明治以降は官有地でした。
明和7年(1770)には柳川藩の年貢米を納める「在の三倉」の一つ「島堀切蔵」(中島蔵とも言う)が島堀切村に新設された。絵図から北開の川沿いにあったと推測される。米倉には蔵役2人と蔵目付1人がいました。立花町域などの年貢米は瀬高蔵や島堀切蔵に納入されました。
島堀切村と徳永村は明治22年3月まで山門郡でした。明治11年に島堀切村と徳永村は合併して徳島村が誕生しました。明治22年には山門郡徳島村と三池郡の江浦村、江浦町が合併して三池郡江浦村となり、初代村長には永江猪十郎が選ばれた。 |
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寛政元年の島堀切蔵の絵図 |
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藩内の年貢米は瀬高御蔵(上庄)、田町御蔵(柳川市田町)、島堀切御蔵(高田町徳島)の三穀倉に納められ、大坂の柳川藩蔵屋敷へ回漕されました。島堀切村にはもう一つ、藩内で消費される御用米を納める三の丸御蔵が今の浦島橋のたもとから約40m川下付近にありました。数棟のお倉と役所その他の建物が立並び、物々しい番人がいた。渡里には当時の炊事方や枡計り方、帳面方、その他下役の家が残っていました。当時の旧家屋は、どの家を見ても庭が広くとられ、遠い山間部から上納する人達が、お倉付近の民家に一時預ける便宜の為である。熊本の植木(味取新町)を基点とする三池街道は大牟田〜渡瀬〜江浦町を通り島堀切村の渡里の渡し舟で中島村に渡り鷹尾〜塩塚〜徳益〜今古賀〜柳川の城下に通じている。江浦の淀姫神社鳥居前から徳島地区の四箇所に入ると道端には小高く土を盛って、柳川まで2里(約8km)の道標である「二里石」が立てられ横には大きな樹木と旅人が休息する茶屋があった。 |
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四箇所の二里石(江浦小保存) |

渡里の渡し場跡 |
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徳永村は江戸時代に干拓された土地で新しい村落の幸福を祈った地名です。「御領分汐土居間敷覚」に徳永開の記載があり、寛文13年(1628)には干拓が完成している。徳永元開や外古開の小字は元や古が付くのは古い年代の干拓を表す。内高木、外高木、川崎開は開拓者地名です。安政開は安政4年(1857)の干拓で整然と水路が構築され、川沿いには船の航海安全を願う琴平神社が祀られていた。徳永の川端には中島御番所(江浦村番所)が設置されていました。海上の関所手形である「川口通行切手」の改めを行って物資の移出入の監視をし、海上通行税である津口運上を徴収したり、乗船者の取り締まりをしていました。番所は幕に提灯が掛けられ飾槍・鉄砲・火薬・火縄が用意されていた。正保2年(1645)の「鷹尾の覚書」には、瀬高両庄へ出入りの船から、帆10反につき1貫文宛ての帆別(通行税)をとっていたとある。
江戸初期には田中吉政藩主の所領であったが、江浦城は正保元年(1644)に「一国一城令」により取り壊され華やかなりし江浦城下は急激に寂びれました。痛手を受けた商家の町民たちは役人の大浜民部に相談のうえ、正保4年(1647)に江浦港を、徳永に開設、各地と天草、島原および長崎から海産物を移入、蝋や菜種油、酒などを移出し、交易出来るようになり、江浦の問屋、商店が栄えを取り戻した。 170年後の文政の時代には町から村への直接取引に小売行商人が活躍、小間物は風呂敷で背負うが、多くはフゴ(物を運搬するために用いる竹や藁(わら)で編んだかご)、メーゴで担ぎ、更には車力で「江浦の塩物売りさん」と呼ばれ近隣はもちろん、肥後の山鹿・南関・府本方面、筑後の福島・黒木・矢部・白木の方面まで出かけて生活物資を売り行商しました。
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中島番所の絵図 |
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. 引用文献・大和町史・高田町誌 |
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