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                                                       大東エンタープライズ0944-72-7900・川下り舟より撮影 
  明和5年(1768)面山瑞方和尚(1683~1769)が著した「桃水和尚伝賛」によると、桃水和尚は、60代の半ばに、「放下著(ほうけじゃく)」に代表される”無所有の境地”を実践すべく乞食(こじき)の群れに身を投じている。宮崎 安右衛門氏が著した大正10年1月初版、昭和33年(1958)最終版の「野聖桃水和尚」の序文には(.)釈迦もキリストも乞食した。真の出家者は乞食する。その辺の路傍で通行人から物や金銭を貰う乞食は、乞食の部類に入らない(.)真の乞食は精神的な糧を与えるものだ。釈迦やキリストによって救われた人々が心から感激して財や物を捧げる(.)それを受けてゆく。それが真の乞食だという。今日の僧はどうか。仏心より欲心のほうが盛んである(.)宗教への関心より経済運動に熱心である。世間でもこうした俗僧を問題にしてはいない。むしろ軽蔑している(.)桃水和尚が360年前に桃水が常に疑問とした「汗水流して働いた信者たちのお布施で生きている僧が、どうして彼らよりも暖かい衣服をつけ(.)ぜいたくな食事をとっているのか、気楽にのんきに暮らす住職に(.)彼らを諭し導く権利があるはずは無い」と疑問としていた。のちに「放下著(ほうけじゃく)」に代表される”無所有の境地”を実践すべく僧としての生活を清算し凡俗(ぼんぞく)に、たちかえって乞食(こじき)の群れに身を投じた。今一度、今日の仏教が墓守りや読経屋(.)または葬式屋に化していることは釈迦の真意でなかろう(.)桃水和尚の行状の一端を紹介することもまんざら無駄ではなかろう ━如是我聞(にょぜがもん)━ (.)昭和33年(1958)に文章を締め括っている。宮崎 安右衛門氏、自らも乞食行脚を行ない、無や乞食を人生哲学として考え(.)良寛桃水、アシジの聖フランシスを範とし、乞食の安右衛門と自称し、多くの著書を持っていた方です。50年後の平成の現代でも変化あるいは改革があるだろうか(.)今でも色んな疑問を投げかけている(.)
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   (挿絵は「桃水和尚伝賛」より写す)
 
乞食和尚桃水と阿弥陀仏
   桃水和尚は慶長9年(1604)に筑後国柳河町の味噌醤油を商う御用商人の裕福な商家の次男として生まれた(.)親は浄土宗信者で、子供の頃は、彼の欲しがる玩具やお菓子など欲しいものを与えていたが(.)どこにも売っていない家の仏壇の阿弥陀仏像を持ち出しては、よく遊んでいたという。その両親がほかの物をあげるから(.)仏像だけは駄目だと言って、小使い銭をあげても、地面に放り投げ、この仏像だけがほしいと言って聞かなかった(.)父親はあのような風では家の跡取りには向かぬ。あの性格では商売も失敗するに決まっている(.)何とかならぬものかと戸惑っていた。母親は(まゆ)をひそめて、「生まれ落ちるや仏縁に恵まれて、することなすこと抹香(まっこう)くさいことばかり、7歳になっても相変わらず、お坊さまの真似ばかりしている」と愚痴(ぐち)を言って不安になっていました。両親は決心して、息子の好むようにしてやろうと、相談の結果、坊主の修行に行くことになった(.)
 
  肥前(佐賀県)武雄の円応寺住職の圍厳(いがん)宗鉄にあずけられた。桃水の実家には毎年春には美しい花を咲かせる、桃の木があり、ことに桃の花が散る頃には(.)裏を流れる水郷柳川の流れに、時ならぬ風情を添えていた。こうした印象が印象が忘れられぬ為か、彼は自分の僧名を雲渓桃水と称したとある。桃水は居所が定まっておらず、どこにいるのかも解らずその為、和尚は「風顚漢(ふうてんかん)」と愛称名を付け教化より愛情もって見守りやさしく諭した。15歳の頃から真剣な修行に落ち込んだ。深夜庭園に立ち明かして経文(きょうぶん)を読み、あるいは深山に独りこもって二夜も三夜も戻らず(.)ある時は岩上に昼夜となく座禅に打込んだ。見聞ともに、世人と変わった小僧と怪しまれる(.)元和9年(1623)桃水は難行苦行の末、20歳にして推されて諸国修行の旅を命じられる(.)  
  九州をあとに江戸の駒込にある吉祥寺の学寮栴檀林に入る(.)しかし桃水を指導してゆくほどの禅匠がなかった。まもなく同寺を辞して下谷のある寺に一時身を寄せた(.)ある日、寺の菜園に出ると、驚いたことに幾百枚もの卒塔婆が壁板に使用され(.)さらに寺男が便所から汲んだ糞尿を野菜園にかけ、卒塔婆にも飛び散っていた。さすがの桃水も、見逃すことはできず、その日から毎日街頭に出て托鉢(たくはつ)したお布施で板を買い、張替えて卒塔婆はみんな隅田川に運んで読経をしつつ流した。幾日後に帰った当寺の住職は感動し(.)残りの垣も全て建替え高塀にし、周辺の寺も見習い卒塔婆の壁は全く無くなりました(.)次は品川の東海寺の名僧澤庵(たくあん)和尚の門をたたき禅道の修行を積む(.)しかし江戸の僧達の腐敗と無気力に失望し、やがて江戸を離れて陸奥・松島瑞巌寺(ずいがんじ)雲居、京・妙心寺の愚堂、加賀国大安寺の大愚などさまざまな僧のもとを訪れ、諸国修行の日々を送り柳川に戻った(.)
 
  寛永20年(1643)、師の圍厳が熊本の流長院の2世住職になっていた事を知り訪れて再び仕えた(.)明暦3年(1657)、師より仏祖正伝の法を授けられ、翌年の万治元年に能登国総持寺にて転衣の式を済ませる(.)わが身亡き後も僧として安穏に世を過ごせるようにとの、桃水の将来を案じた圍巌の配慮であったという(.)同年、大坂の法巌寺住職として赴任したある日、熊本でかなりの禄に預かっていた平野と言う武士が(.)ある事情で浪人となり20数人の家族を伴って桃水を訪れて来た(.)奉行所に届出なしで、男女20幾人を宿泊させ、さらに皆が毎日見物参詣でに行くので町の目付に見つかり(.)法巌寺の桃水と大坂曹洞宗一派は奉行所に呼び出された。大坂曹洞宗の長老たちは連帯責任を恐れ(.)取り調べ前に、いろんな知恵を教えた。ところが奉行に正直に申せと言われ、正直に桃水は周りから知恵をつけられた経緯(いきさつ)までも喋りだした。ついに奉行もあきれて笑いだしお(とが)め無しとなるが、住職仲間からは嫌われ、2年ほどで熊本に戻った(.)
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 明暦3年(1657)の夏、彼は師匠の懇切なる勧めに、やむえず仏祖正伝の大法を()いだ。その翌年には本山で転衣の式をすました。つまり桃水は歴とした大和尚の地位にのぼったわけである(.)名実ともに大和尚として、自他ともに許された名僧となった。このままで順当に行けば桃水も目出度く名僧として一生を無事に終わったかも知れないが(.)桃水の独特なる生活が、50歳以後より展開する。 万治3年(1660)年に肥後国阿蘇・清水寺の住職に赴任(.)この寺で最初の弟子・是看を得度し菩薩戒血脈を授ける。のちに肥前島原の晴雲寺に移り、島原城主高力隆長(こうりきたかなが)の請いに応じて大和尚(おしょう)として禅林寺住職となる。この禅林寺時代は琛洲(ちんしゅう)智伝(ちでん)の二人の弟子と一人の尼弟子・知法を得度した。桃水は”民衆の布施を頼りに民衆以上に豊かに安穏(あんのん)と生きている僧の境涯”に苦悩していく。その一環として自ら(くわ)を持って前住職の築いた花の庭園を崩し、代わりに茶の実や茄子(なす)を植えた畑に変えるも城主隆長からは激怒された。桃水は禅僧のもとで雲水暮らしを重ねるが、とうてい満足できなかった(.)汗水流して働いた信者たちのお布施で生きている僧が、どうして彼らよりも暖かい衣服をつけ(.)ぜいたくな食事をとっているのか」気楽にのんきに暮らす住職に(.)彼らを諭し導く権利があるはずは無いと疑問としていた(.)
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  ある日、桃水とは兄弟子の船岩和尚がこの頃有名な鉄眼(てつがん)禅師を招待して、流長院の本堂で「法華経」の提唱を開いた(.)桃水も招かれ鉄眼の法華経を聞いていた。ところが彼は書院の前方にある菜園を見た。桃水は何を思うたか(.)席をはずし、法衣を脱いで襦袢(じゅばん)一枚となり、素足で桶を担ぎ、日照りでしおれた畑の茄子やキュウリや、その他の野菜に水を汲んで与えた(.)船岩がその姿を見て「桃水どの。お止めなされ、見っともない、そうした汚れたことは(.)僧としてやめられたがよい・・・・」と言葉もあらあらしく注意した。「船岩どの(.)それならが便所に入って尻拭いた手で仏様を拝んでも、仏様はさして(いや)じゃと言われたことが一度もない(.)畑の肥料ぐらいは、それほど汚いものでない。こやしをやらんと茄子が痩せちまう・・」と彼は、返事をしながら(.)やっと畑の仕事を休んだという(.)大勢の参詣人は鉄眼から法華経の有難い話を聞き、菜園の野菜は桃水から生命の肥料を貰っている。良き対象である(.)
 
 寛文元年(1661)、禅林寺に5年ほどいた。曹洞宗の僧侶120余名を集めて宗門の健在ぶりを示す最大の法事・法幢(ほうどう)を執り行う。90日続いた法会を終えた。ところが、どうしたことか、ここに一大事が起こった。翌日早朝、桃水は方丈(居間)の(ふすま)に一枚の貼り紙を残して姿を消した。怒り心頭の城主隆長は、渡り場のところどころに出舟を止めて探索(たんさく)させたが、捕えることは出来なかった(.)桃水が一切のつながりから脱け出して出家の出家を敢行(かんこう)したのは、60歳の頃と言われている。幼にして僧の身となり、すべての修行を経て、一箇寺の住職となり、多くの人々より帰依(きえ)尊崇されて、人生の半ばを過ぎて初老のときを迎えて、何に刺激され遂に寺をも棄てて一処不住の身となった(.)脱走後の桃水は、柳川へ行って、ご両親の墓参りをして、中国道を通って(.)都の方へ向かったと言う(.)
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  桃水は山城国宇治の萬福寺に明国出身の名僧・隠元隆き(いんげんりゅうき)を訪ねて黄檗山に修行(.)この師のもとで終生の友となる明国福州出身の僧・高泉性敦雲外)を得て数年を過ごし鮮烈(せんれつ)な影響を受ける(.)桃水清国から来た高泉性敦隠元に招かれ長崎に上陸するや素早く彼を出迎えている(.)隠元には木庵禅師即非禅師高泉性敦(しょうとん)禅師と言う高弟がいた(.)桃水は、ここでも疑問は解決せずに、もがいていると、最も親睦な友人の高泉禅師により、放下著(ほうけじゃく)とは一切の執着心を捨てることだとアドバイスを受ける。大昔、中国の巌尊者(ごんそんじゃ)が高僧趙州(じょうしゅう)に、「放下著というが自分はすべてを捨ててなにも持ってはいない。これ以上、何を捨てればよいか」と食い下がる(.)趙州は哀れんで”それならかついで歩け”と言い捨てて去っていく。尊者は跳び上がった(.)「そうか。自分には、まだすべてを捨てたと思う心が残っていた。これを捨てて初めて放下著の境地に到達するのだ(さと)った」と教わった。
 寛文13(1673)隠元が亡くなった2年後に萬福寺を去る。60代の後半になった桃水放下著に代表される”無所有の境地”を実践すべく僧としての生活を清算し凡俗(ぼんぞく)に、たちかえって乞食(こじき)の群れに身を投じた(.)大空を天井とし大地を床として、世の中から見捨てられた貧しい(あわ)れな(むれ)に身をもって仏法を説いた(.)桃水の京での乞食生活の噂はやがて弟子達の耳にも入り、禅林寺時代の弟子の琛洲(ちんしゅう)智伝の二人が直接探索に訪れる。数ヶ月を要して琛洲が東山清水寺の辺りで発見したが(.)そのときの桃水は髪もヒゲも伸びて異臭がただようような衣服をまとっており、背にはむしろ背負い(.)右手に縁の欠けた木椀を持って、仲間の乞食達と談笑していたという(.)
  桃水の変わり果てた姿を見て泣く琛洲がどうか戻って下さいと懇願(こんがん)したが聞き入れられず暫く一緒に寝泊まりしたのですが、ある日、桃水は老乞食の死体の傍にあった椀の中の残飯を食べ琛洲に半分与えるも()いてしまう弟子の様子を見て、智伝と共に高泉のいる仏国寺で修行するよう(すす)め別れた。桃水は物乞いをして得たものを貧しい人々に惜しみなく分け与えていた(.)その一方で乞食生活を送るうちに、見た目の違いこそあれど、乞食の物乞いもまた、かつての大和尚(おしょう)時代に体験した”民衆の布施を頼りに民衆以上に豊かに安穏と生きている僧の境遇とあまり変わりが無い事に気づきはじめ(.)同時にそれが働かない者の怠慢(たいまん)に過ぎない事を悟ると京を去った。「無所有の境地」とは自らの(かて)で生きるところにあると知ったからである(.)

 
  70歳をすぎると「布施は受けるものではない、文字どおり施すものだ」と考え、伊勢、名古屋、奈良、大津と転々としながら老骨に(むち)を打って、有馬の温泉宿に奉公したり、奈良の大仏の掃除男として額に汗して働いた。大津では、粗末な小屋で馬の(くつ)草鞋(わらじ)作りの仕事をして馬子や雲助達から人気を博した。ある日桃水が住んでいる所が(.)みすぼらしく、あまり可哀想だと思い馬子が阿弥陀仏の絵像を掛けてくれた(.)桃水はその画にせまけれど宿を貸すぞや阿弥陀どの 住生(おうじょう)頼むとおぼしめすなよと炭書きしたという(.)桃水は「捨」の世界をとっくに超え、もはや願いするものは一切ない、縁に従って生きていくと腹が()わっている。
 ある時、高声に念仏した僧が通った時は念仏を、(しい)(もう)すも、()らぬもの、もし極楽を、通り過ぎてはと歌ったという(.)
  桃水の法弟に雲歩という僧がいる。この僧は桃水とは、また別な行き方をしている(.)雲歩細川綱利の尊崇ありて、説法ありて邪宗門(キリシタン)をころばしめ皆三宝(仏・法・僧)に帰依させた事により(.)豊後の高田の能仁寺、肥後の天福寺を開き、豊後および肥後のあいだに30か所の新精舎を建てていた(.)ある年、雲歩禅師が江戸屋敷の細川公の招きにより、5人の随待を従わせ大津の茶店で休息していると、偶然に桃水が沢山の馬の(くつ)を背負うてやって来た。雲歩禅師はびっくりした。日ごろ懐しく思っている法兄の桃水和尚ではないか(.)京洛付近にあって乞食の群や貧者の中に身をおいて活説法をしていられる、という噂を風のたよりに聞いていたが(.)桃水和尚の変り果てた姿に逢えたので彼はとても喜び桃水の手を握ってあいさつを交わした(.)「見られる通り、手前はこのような姿をしているが、別段なんとも思わぬ。雲歩よ、貴殿との逢瀬も多分これが最後になるやも知れぬ(.)随分達者で長寿されよ。しかし貴殿は主持ちも同様なれば、お勤めが大事ぞや━」と言いも果てず雲歩の手を振り切って姿を(かく)してしまった。二人の会話を聞いていた大勢の人はあっけにとられた。あの(じじい)は只者ではないと言った評判が群衆をして好奇心を沸かせ続々と桃水の小舎に押し寄せた。その晩桃水は大津の土地を離れた(.)雲歩禅師があとで、近親者に大津で「勤めが大事ぞや━」と言われた一言は実に意味深く、親切な教戒であったと語ったという(.)  
   晩年は老衰の為に労働生活を捨てて再び乞食生活を始めるようになる(.)これを心配した仏国寺の琛洲智伝は黄檗宗の高泉に帰依する京の豪商・角倉氏に保護を頼んでいる(.)桃水もまた角倉氏に興味を持ち、のちに京の北の鷹峰で酢の製造と販売の話を持ちかけられて(.)角倉氏の用人の協力を得て、酢屋通念と名を改め、土間に酢壷(すつぼ)を並べて製酢業者になった。その味が素晴らしく、繁盛して大金を手に入れ、お布施して歩く単純明快な快哉(かいさい)な姿が、「放下著(ほうけじゃく)」の到達点であったであろうか。
 天和3年(1683)に座禅を組んだまま桃水が亡くなる。自分の境地を漢詩にしたもの)が残されていました。七十余年、楽しかったものだ。屎臭い老いぼれになってしまい、何をすることもできなくなった(.)イー。涅槃の境地とは如何に。鷹峰の月は白く、風はすがすがしい(.)(読み下し文)
使用人は急いで角倉に伝えました(.)角倉がすぐに仏国寺(京都・伏見)に連絡すると、琛洲智伝が来て遺骸を仏国寺(ぶっこくじ)(黄檗宗)に引き取り、高泉和尚を導師として葬儀を行いました(.)享年79歳でした(.)仏国寺の墓所には一基の無縫塔(円寂雪渓水老宿之塔)と「桃水和尚之墓」の石碑が建っている、そのかたわらには弟子の琛洲智伝の墓が並んでいる(.)自分は乞食と言われた桃水和尚の行状や言葉を思う時、自然と頭が下がる(.)実に桃水和尚は日本の産み出した真の出家者である。諱は雲関、雲渓(うんけい)。乞食桃水は俗称。酢屋通念(遁全とも)(.)また柳川市西魚屋町の曹洞宗・報恩寺にある桃水和尚の塔は近年、柳川・立花家より書を頂き、建てられた供養塔です(.)
 
 

京都、伏見・仏国寺


仏国寺の桃水和尚の墓(中央) 


柳川市西魚町の法恩寺
 
法恩寺の桃水和尚の塔 
 

          参考文献   「桃水和尚伝賛」明和5年(1768)面山瑞方禅師・選    「野聖桃水和尚」宮崎 安右衛門著     「乞食桃水逸話伝」面山瑞方著

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