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【筑後国の鋳物師・平井家の歴史】
鋳物師とは、鍋や釜、梵鐘などの鋳物を作る職人であった。筑後国では、羽犬塚と瀬高上庄の平井家の2軒が藩内の鋳物職を取仕切っていました。羽犬塚の平井家は当主が豊臣秀吉から「鋳物師司」の御判書を授かり、久留米藩政においても鋳物師司の相続を認められたとみられる。瀬高上庄の平井家では柳川城主から領中の「鍛名屋惣司」のちには代々、「惣兵衛尉」の名を賜り「鋳物師惣司」の御判書を授かっています。両家は筑後一帯(現・福岡県南部)の鋳物商を支配した藩御用の鋳物師でした。ここでは平井家に残された古文書や遺された製作品により400年間も先祖代々にわたって伝統的に事業を行った筑後国の鋳物師・平井家の歴史を探訪します。
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【平井家の家筋】
ここに平井家が筑前の鋳物師の子孫としている。筑前の鋳物師は平安時代後期に大分県宇佐市にある宇佐神宮は、大宰府、府内に「府中宇佐町」という土地をもち、ここに28軒の家に住んでいたことが知られています。中世期になり太宰府五条に鋳物屋(平井家)・米屋(古川家)・紺(染物)屋(船越家)・相物屋(古川家)・小間物屋(安武家)・鍛冶屋(斉藤家)の「宰府六座」が出来て、中近世の商工業の中心として栄えた六座は、毎年6月15日に観世音寺と太宰府天満宮で能を舞っていました。大宰府の観世音寺の南から五条・鉾ノ浦にかけての発掘調査で、梵鐘(釣鐘)、灯籠、鉄鍋、羽釜、小型の製品としては、仏具、銅碗などが出土した。また、工房群にはそれらを製作した痕跡として、梵鐘の鋳造土坑や溶解炉の炉底部、作業場とされる掘立柱建物が検出され、大量の鋳型片、鉄・銅滓(鋳造した後に残された金属のかすなど)、溶解炉の炉壁片が出土し、鋳物師が活動していたことが分かっている。およそ13~14世紀と考えられています。
筑前鋳物師については文治5年(1189)3月10日、鎌倉殿(源頼朝)から平井大夫宗明に大宰府鋳師宗明を九州鋳物師政所職に補する(任じる)旨の下文(命令文書)がある。(『大宰府・大宰府天満宮史料』卷7)。また文禄年間(1592~96)大宰府天満宮門前町を代表して御神幸に従う業種別代表に「六座」があり、鋳物座に平井家が加わっている。鋳物座の子孫、太宰府市五条の平井家に伝わる『平井文書』には、中世以降の六座の活動について記されています。その文章のなかに「平安時代に宰府六座のなかで栄えた鋳物座衆の平井家の流れで、戦国の世に八女郡の福島と羽犬塚の二ヶ所にやって来た」とあるという。
【羽犬塚の平井家】
江戸末期に羽犬塚(筑後市長浜)の平井家の家筋を書いた『鋳物師職分控・家筋』によると、「先祖は平井宇太といい、福島(上妻郡)で農業を営むかたわら同郡岩崎村で鋳物職を営んでいたが、家を跡取りに譲り、同郡野町に引越し大勢の使用人を使い、野原を開墾し田畑を開いた。次いで同郡宿町へ移り屋敷を建て、大勢の使用人を抱えて開墾用の農具の鋳物業を始めた。天正15年(1587)4月に豊臣秀吉が、薩摩の島津征伐のために軍を進めたが、矢部川の増水のため渡河することができず、当地に数日間逗留を余儀なくされた。その時に、平井宇太は御休所設けて秀吉にお茶を差上げたところ、褒美に「鋳物師司」を授かった」とある。
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鋳物師職分控(1部) |
慶長5年(1600)には「関が原の戦い」で西軍は敗北し豊臣軍の立花宗茂(柳川城)や毛利 秀包(久留米城)は領地を没収され城を明渡す。翌年に石田三成を捕えた功績で田中吉政が二分されていた筑後国全部を治める柳川城主32万石となった。田中吉政入国時に、羽犬塚の平井宇太の息子、三郎兵衛に、鋳物師司が下命され、運上金(租税の一種)を上納している。
平井家は、宇太の息子三郎兵衛や孫の忠三郎は羽犬塚(筑後市・羽犬塚小学校)の地に居住し鋳物場を構え、田中藩主時代も「鋳物師司」として勤めた。
慶長7年(1602)5月に三郎兵衛の息子忠三郎に下された、田中吉政印判状には「一 此度、筑前国鋳物師大炊介(助)子孫某、永代召抱候 一 上妻郡長野村ニ而五拾壱石六斗五升 一 福島於西口ニ屋敷一ケ所 子孫ニ至迄当行者也 田中兵衛大夫 印 奉行 国友権左衛門 印 月瀬馬之丞 印 平井忠三郎殿」(久留米市史第8巻資料編36P)とあり羽犬塚の平井忠三郎は50石余で召し抱えられてる。
慶長10年(1605)9月10日の田中吉政から平井三郎兵衛に遣わされた文書には「一、 福島町 一 はいんつか町 一 野町 右於三ヶ所、鋳物職被仰付候上は、手前より鍋・釜其外、何も鋳候物共しょうばいとして、国中在々をあるかせ候 二、 若非分之儀申掛候者於在之は、其もの急度召連上上可申由、堅被仰出候間、得其意、たれたれいかようの儀申掛候共、手前商売之儀は、不可有承引候、猶安城勝兵衛方可被申者也 清水権兵衛 在判 搞八右衛門 在判 田中織部 在判 鋳物師三郎兵衛殿 」とあり鋳物類の商売は平井氏の許可なしには商売ができないものとされた。
慶長14年(1609)に、田中吉政が病没し、4男の忠政が家督を継ぐが世継ぎの子供がいなくて病死した為に改易。元和7年(1621)に筑後国は二分され立花宗茂が栁川城へ、有馬豊氏が久留米城や城下町を修築を進めながら、領国を治めた。羽犬塚は久留米藩領となり、平井藤太郎は久留米藩に細工の大平鍋を献上したり、藩御用の鐘を作った。寛永15年(1638)島原の乱には鉄砲玉を作り、承応元年(1652)には久留米城御橋の擬宝珠24個を納めたという。久留米藩政のなかでも司御免の相続が認められたとされている。板東寺(筑後市熊野)の釣鐘を納めた時には、現地で鋳立てたので、今も金屋町という地名を残している。現在の板東寺には梵鐘もや半鐘も残っていない。尾島の金屋町も同じく鋳物を作っていたことによるものであろう。

平井家が鋳物業を始めた頃、豊臣秀吉に「鋳物師司」を授かった当初の屋敷・鋳物場があった場所・のちに立ち退かされて、お茶屋(陣屋)が建設された(現・羽犬塚小学校) |
家筋を書いた『鋳物師職分控』には、羽犬塚の平井三郎兵衛と息子の忠三郎・三郎兵衛・藤太郎が鋳物細工をしていたが、敷地に御茶屋(陣屋)を建てることになり、立ち退きの為、手馴れた弟子として働いている善兵衛の村である下妻郡尾嶋村(筑後市尾島)に御用物鋳物場を設けた。藤太郎の次男の伝左衛門が上妻郡野町村で、三男の又兵衛が同郡福島(八女市福島)で、それぞれの鋳物場を作りまた商売をしていたが廃業し、忠三郎のみが羽犬塚で「鋳物師司」として勤めていたが、息子の孫左衛門が相続した時に田地も抱えている野町村(現・筑後市長浜)に移転した。その後、孫左衛門の息子の新兵衛(のち平太郎と改名)や孫の与八へと鋳物細工を相続されたとある。平井家の家系は、享保10年(1725)、孫左衛門の時に引き続き司職を賜り、先祖の平井宇太より「鋳物師惣司」を賜り10代相続してきたとあるが、残された製作品が見当たらない。
唯一、平井家元屋敷があった羽犬塚小学校の東側の願長寺に幕末の文久2年(1862)に平井新兵衛重行と平井平左衛門が鋳造した半鐘が残されていた。ここの寺は浄土真宗大谷派で寺伝によると天正13年(1585)、玄誓により開かれたとある。玄誓はもとは櫛原寿一郎利長という武士で、豊臣秀吉の家臣となり細川を名乗りました。その後、本願寺の顕如上人の弟子となり玄誓と称す。そして秀吉の九州島津征伐に従い途中、矢部川の増水ために羽犬塚に数日間逗留を余儀なくされた。その時に秀吉はこの地域に寺院がないため、玄誓に寺を建てるように命じ寺領50石が与えられ本願寺が建てられたという。本堂内の半鐘には 文久二壬戌歳 二月中旬 久留米領 願長寺 第十世 現住顕黙 鋳替施主 羽犬塚町中 上野甼 平井新兵衛 反対面には 鋳物師司 上埜町邦 平井新兵衛重行 仝苗平左衛門ユ と陰刻されている。願長寺は古くから平井家の菩提寺であったと見られる。近年でも檀家総代を続けていた家柄で京都で製作された鶴亀の燭台や明治25年に寄進された天井の2基の青銅板の提灯が寄進されており、昭和62年奉納の梵鐘は滋賀県の黄地佐平(金壽堂)か西澤梵鐘鋳造所で製作され、檀家総代の平井一氏が発起人として檀家一同で寄進されている。現在も筑後市長浜には平井姓の末裔が住んでいられるが、しかし平井鋳物師を知る人はいない。聞取り調査から明治時代には鋳物職を廃業していたであろうか。
(筑後地方の寺で平井家鋳造の半鐘をご存知の方はメールにてお知らせください)。 Email:shofuku21@yahoo.co.jp
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願長寺 |
文久2年(1862)平井家で鋳替された半鐘 |
反対面の半鐘の銘文 |
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昭和62年に檀家総代平井一と檀家一同で奉納した梵鐘 |
明治25年に平井家寄進の提灯 |
平井家寄進の鶴亀の燭台(京都製) |
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慶長7年(1602)の田中吉政から羽犬塚の平井家宛の印判状に「・・筑前国鋳物師大炊介子孫某・・」とある、子孫とは九州鋳物師政所職や大宰府惣官地頭職を賜った鋳物師の平井大炊助(筑前の藤原家)のことであり、筑後の平井家の本家とみられる。残された作品には慶長5年(1600)2月に筑紫広門が大宰府天満宮に奉納した径58.7cm、厚さ19.6cmの鰐口がある。正面上部に「奉寄進 安楽寺 天満宮 御宝前 鰐口一面」向って右に「留主大鳥居権別当 法印信寛 願主 筑紫上野介豊臣朝臣広門」向って左の銘文に「本願勾当坊政重 慶長庚子年二月吉日 九州惣官大工平井大炊助藤原種重」とある。筑紫広門(1556~1623)は、豊臣秀吉の九州攻めの戦功で筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられた山下城(現・立花町)の城主となり福島に城(館)を築く。しかし鰐口を奉納した年の9月に関ケ原の戦いに西軍(豊臣方)に属し敗軍の将となり改易されている。 |
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中世、全国の鋳物師は朝廷の権威を背景に天皇に奉仕するかわりに独占的な営業権などの特権を与える蔵人所(朝廷の役所の一つ)に支配されていた。しかし時代の変遷とともに鋳物師たちの特権もなくなってきた。蔵人所の鋳物師担当役人であった下級公家紀氏の家を真継家が乗っ取り、真継久直とその子康綱は戦国時代の天文12年(1543)に戦国大名に働きかけ鋳物師の全国支配を始めた。それを、徳川幕府が認めたことにより真継家は幕末まで全国の鋳物師を支配し、鋳物師職許状の発給や座法の作成など幕末に至るまで続きました。九州では真継家の支配は、ほとんどなく各藩が統制し運上金を納めさせたとみられが、享保10年(1730)に幕府から博多の鋳物師の由緒にお尋ねがあり、博多の鋳物師太田次兵衛より3通を書付けて差出した文書写しには大宰府惣官地頭職として鋳物師東藤衛門尉藤原康秀・平井大炊助藤原秀光などがあり、ことに文章を偽造し、公然と通らせるに成功した真継久直の名が書かれている。(綱野善彦 日本中世の非農業民と天皇を参照)また佐賀藩内の鋳物師同士の争いで、片方が大宰府の平井家の許可を得ているとして争っている。これらの資料から、京の蔵人所の真継家から大宰府九州惣官地頭職を任命された大宰府の平井家がこの地方の鋳物師を統轄していたと見られる。
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【上庄の平井家】
それでは、上庄の平井家は、いつから山門郡瀬高上庄に本拠を持ち、柳川藩の鋳物師の筆頭になったであろうか。平安時代の上庄は旧山門郡の三橋・大和・柳川(現・柳川市)にまたがる大荘園・瀬高庄の行政中心であり、農耕に必要な農具の鋳物業も必要とし、すでに筑前の鋳物師平井家から移り住んで居たとも推測される。または天正15年(1587)6月に立花統虎(のちの宗茂)が豊臣秀吉から山門・下妻・三潴・三池の栁川藩を授かった時に、筑前の鋳物師平井家から連れてきたか、あるいは羽犬塚から平井宇太の血筋とみられる縁者が柳川藩の鍛名屋惣司に任命され瀬高上庄に移り住みを構えたであろうか、確認できる資料はない。しかし、上庄平井家に残された、藩主立花宗茂が、まだ立花統虎と称していた豊臣秀吉の時代に「鍛名屋惣司」を賜った古文書(辞令)。400年程前の慶長4年(1599)8月に平井惣兵衛尉平成貞が制作した柳川城の欄干の擬宝珠(写真①)の銘。慶長13年(1608)に田中吉政筑後一国藩主時代には平井惣兵衛尉平政朝が東照寺や大善寺の鰐口を制作している。作者名の前に「瀬高住」や「瀬高上庄住」の銘が陰刻されてある。
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佐賀市立日新小学校の日新読本によると隣の佐賀藩の御用鋳物師の谷口清左衛門一門の初祖・長光は名工として知られているが、父の筑紫紆介治門(広門の弟の春門では?)鍋島家に人質として幼少を過ごす。沖田畷の戦いで龍造寺隆信の首を討ち取った島津の川上忠堅と一騎打ちを行い相討ちで双方死亡した。その功で、一家は龍造寺政家から龍の一字を賜り姓を龍とする。残された幼子の龍清左衛門尉長光は豊後国(大分県)谷口邑の鍛治の家で養育され、武器などを鋳造する技術を身につけた。さらに芦屋釜や梵鐘で名高い筑前芦屋(福岡県遠賀郡芦屋)と筑後瀬高(上庄の鋳物師平井家とみられる)に滞在し修行をかさね腕を磨く。修行の場と選んだ上庄の平井家には、すでに優れた技術を身につけた職人達がいたからであろう。寛永6年(1629)に佐賀に来往し、鍋島直茂から御用鋳物師として召し抱えられ、居を佐賀六反田(佐賀市大財1丁目)に構え、谷口と改名した。代々清左衛門を名乗り歴代藩主の御用鋳物師を勤めました。
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上庄平井家の古文書では正保2年(1645)のものから「瀬高上庄」とある。代々当主は代々藩主から「平井惣兵衛」の名を賜り、当初は平の姓を名乗り、のちには菅原の姓を名乗っている。家系図は残されていないが作品からは、成貞、政朝、保俊、重俊、忠俊、保俊らが代々相続していったことが想像できる。立花統虎(後の宗茂)が柳川に入城した天正15年(1587)以来、徳川の時代に変った慶長6年(1601)に藩主となった田中吉政の時代にも、元和6年(1620)に再封された立花宗茂から、立花家各藩主に使え、柳川藩で栄えた鋳物商の支配者として活躍し、明治・大正と通し昭和50年(1975)まで鋳物業を営みました。 |
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【柳川城の擬宝珠】福岡県柳川市
高畑(柳川市三橋町)の三柱神社の表参道の入口の二ッ川に架かる太鼓橋の朱塗の欄干の擬宝珠の内、四隅の古い4個の擬宝珠に線刻された銘には「九州筑後國山門郡/柳川城之橋也/作者瀬高上庄之住/平井惣兵衛尉平成定/慶長四己亥年八月吉日/小工拾参人/重八拾九斤」とある。この擬宝珠は筑後国山門郡の柳川城(現・福岡県柳川市本城)の「二の丸」から「三の丸」の内堀に架けられた橋のもので、瀬高上庄(現・福岡県みやま市瀬高町上庄)の鋳物師、平井惣兵衛尉平成貞が安土桃山時代の慶長4年(1599)8月に職工13人と共に制作したもので、重さは89斤(約53、4kg)あると刻まれている。この擬宝珠は太閤豊臣秀吉が死亡し、柳川城主立花統虎(後に宗茂に改名))が朝鮮の役(慶長の役)から帰国した翌年に鋳造された逸品で貴重な歴史遺産である。

①三柱神社の欄干の擬宝珠(写真文字部なぞり書き表示) |
三柱神社参道入口 |

(柳河明證圖會(柳川城・二の丸・欄干橋)の部分図) |
柳川城は明治5年(1872)1月18日に炎上し失われました。その後、内堀は埋立られ欄干橋の擬宝珠は用済みとなり、明治45年(1912)に三柱神社の欄干橋にふたたび取り付けられた。その後、第二次世界大戦時の昭和18年(1943)、兵器製造の為に、すぐ傍に建つ青銅製の鳥居と共に14個中、10個が軍に供出され、幸いにも4個、隠し保管されたものが、昭和57年(1982)10月に改築された欄干橋の四隅の柱頭に取り付けられています。
豊臣秀吉から筑後柳川藩を賜った柳川城主立花統虎(宗茂)が上庄の平井家に宛てた辞令が残されている。
秀吉から宗茂が受領した四郡とは山門・下妻・三潴・三池の筑後四郡の範囲で、内訳は山門郡72ヶ村(4万5022石)下妻郡の内16ヶ村(1万7844石)三潴郡の内90ヶ村(5万8616石)三池郡の内18ヶ村、総計4郡・196ヶ村(13万2182石)の範囲です。鍛名屋((鋳造所))を取り仕切る特権をを申し付けられたもので、かわりに藩に金銭の上納や寄附の義務があった。年号は記載されていないが、署名の立花統虎は文禄元年(1592)の朝鮮の出兵の以降は宗茂を名乗っているので、これは柳川城入城の天正15年(1587)から「朝鮮の役」前年の天正19年(1591)迄の書状であろう。花押とは自分の発給したものであることを証明するために書く図案化した記号で手書きの印鑑みたいなものです。
平井家に三郡(山門・下妻・三潴)の鍛名屋(鋳造所))を取り仕切る「鍛名屋惣司」を申し付けた正月6日の統虎の署名と花押の平井家に残る古文書。 |

立花統虎の古文書 |

解読文 |
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田中吉政が柳川城主となり二分されていた筑後国全部を治めた頃の上庄の平井家を知る辞令の古文書は残されていないが、上庄の平井家は蒲池の立石の東照寺や三潴郡の大善寺玉垂宮の鰐口の作品で知ることが出来る。
【東照寺の鰐口】柳川市蒲池立石
平井家は初めは藩命により武器を造っていたが、後には鍋、釜、農具などや寺の梵鐘、仏像、狛犬、鰐口など鋳造に従事していた。
鰐口とは仏堂の正面軒先に吊るされた鋳銅製で扁円・中空で下方に広い裂け目の長い口があり、参詣客が布で編んだ縄で打ち鳴らす鳴具(鈴)で、金鼓とも言われています。
慶長13年(1608)に瀬高の平井惣兵衛尉平政朝が制作した柳川市蒲池の立石の東照寺③の本堂の鰐口④もその一つである。慶長6年(1601)、柳川城に入城した筑後藩主田中吉政の寄進の鰐口で周縁部銘に表右肩に「薬師如来奉奇進立石山東照寺住持天初和尚」表左肩に「田中久兵衛尉橘朝臣吉勝願主」裏右肩に「慶長十三戌申二月時正月建立焉」裏左肩に「作有 瀬高住 平井惣兵衛尉平朝臣政朝」と陰刻されている。
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③立石山東照寺 |

④東照寺の鰐口 |
この鰐口は藩主田中吉政が三男の田中康政(通称久兵衛・後の福島城主)の病回復を願ったものです。村内の光を放つ田から掘り出した石を本尊とした薬師如来に祈ったところ祈願が成就し、報謝として、東照寺に対して戦国時代の永禄年間に大友宗麟に寺領を没収されていたので、12石3斗余の寺領を寄進し,さらに柳川城主蒲池鎮並の滅亡と共に兵火にあい寺の大半を焼失していた為に仏殿の再建と不動明王・多聞天像,十二神将等が安置してあげた。
【大善寺の鰐口】 久留米市大善寺町
伊藤常足が天保9年(1838)に書いた地誌『太宰管内志』によると、玉垂宮鰐口銘文に「筑後國三潴郡大善寺玉垂宮奉 寄進 鰐口施進主 田中筑後守 慶長十二年霜月吉祥日 作者瀬高上庄住平井兵衛尉平朝臣政朝」とあり、正月の火祭(鬼夜)で有名な旧三潴郡(久留米市大善寺町)の大善寺玉垂宮⑤にも同じく平井惣兵衛平政朝が慶長12年(1607)に制作し田中藩主が寄進した鰐口があったとされている。玉垂宮は寺院と神社が一体的に祀られた典型的な神仏習合の神社でしたが明治2年(1869)の廃仏毀釈により大善寺は廃され玉垂宮のみ残り、現在、鰐口は消失している。これらの作品の銘から、瀬高町上庄の平井家が古くは安土桃山時代から筑後国柳川の鋳物師として活躍してる。
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⑤大善寺玉垂宮 |
慶長14年(1609)に京都伏見で田中吉政が没し、四男の忠政が跡を継ぎ、藩主になっが男子を残さぬまま死去したために改易されてしまった。このあと元和6年(1620)に再び立花宗茂(統虎改め)が柳川の領主として19年ぶりに返り咲いた。
平井家には立花宗茂より拝領の陣羽織のほか代々の立花藩主からの「鍛名屋惣司」や「鋳物師惣司」を授かった書状が残されている。
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①田中藩主のあと再び柳川の藩主となった立花宗茂(この頃から統虎から改名)が平井九郎兵衛尉へ領中の「鍛名屋惣司」を任命した元和8年(1622)7月の宗茂の署名と花押の古文書 |

①宗茂の古文書 |

①の解読文 |
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寛永14年(1637)に勃発した「島原の乱」では立花宗茂は参陣して戦略面の指揮をし、立花忠貞(忠茂)は自ら軍を率いて参戦し、功を挙げた。寛永16年(1639)には宗茂の致仕により正式に柳河藩の第2代藩主となっている。平井家は島原の乱の為に青銅製の石火矢(大砲)の鋳造を藩から命じられて製造している。佐賀の鋳物師谷口家も製造しており、博多の鋳物師磯野家は石火矢(大砲)の玉鋳造に従事している。
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②㊤正保2年(1645)2月に第2代藩主となった立花忠茂(忠貞)が平井与茂介に与えた「鍛名屋惣司」の古文書 |

②㊤忠茂の鍛名屋惣司の古文書 |

②㊤の解読文 |
②㊦第2代藩主立花忠貞(忠茂)が平井与茂介の望み通り「惣兵衛尉」を名乗ることを2月5日に許可した名字状です |

②㊦忠貞の名字状 |

②㊦の解読文 |
忠茂は名乗りの一つで彼は度々名を改めている。年号は不明だが花押の底から左上に伸びる短い線が2本である②㊦が後の年代であろう。
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寛文4年(1664)立花忠茂は隠居して四男の立花鑑虎が家督を継いで3代藩主となる。通常新藩主就任に伴って発給されるが、平井家に3枚の「鋳物師惣司」を発給しているが、平井家で嫡男に鋳物師惣司の相続が行われたとも思考できる。
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③㊤寛文10年(1670)三月朔日に立花鑑虎が瀬高上庄の平井惣兵衛に「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

③㊤立花鑑虎の鋳物師惣司の古文書 |

③㊤の解読文 |
③㊥延宝2年((1674)三月朔日に立花鑑虎が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

③㊥立花鑑虎の鋳物師惣司の古文書 |

③㊥の解読文 |
③㊦元禄7年(1694)二月十三日に立花鑑虎が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

③㊦立花鑑虎の鋳物師惣司の古文書 |

③㊦の解読文 |
元禄9年(1696)7月に鑑虎が隠居すると、次男の立花鑑任がその後を継いで家督を相続し、4代藩主となった。翌年に集景亭(立花邸お花)が完成している。
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④元禄13年(1700)十一月十二日に立花鑑任が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

④立花鑑任の鋳物師惣司の古文書 |

④の解読文 |
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【二尊寺の梵鐘】 福岡県みやま市瀬高町下庄大竹
地誌『太宰管内志』の資料によると大竹村(瀬高町下庄)の二尊寺の最初の梵鐘には「大日本国鎮西路筑後州山門郡瀬高下庄大竹山二尊禅寺洪鐘一口」「永享七年乙卯四月廿三日 願主各々衆 大工平朝貞」とあり、大工とは鋳物師の総統のことで、永享7年(1435)4月23日に平朝貞が鋳造している。平朝貞とは平井家の栁川城の欄干橋の擬宝珠を製作した平成定や東照寺や大善寺の鰐口を製作した平朝臣政朝とは160年余の隔たりがあるが、この梵鐘を製作したのは瀬高上庄の平井家の先祖であろうか、または筑前の鋳物師であろうか研究を要す。
この梵鐘は戦国時代の永正15年(1518)に南筑後(高田町)の三池氏に奪われ、今福(現・高田町)の若宮八幡宮の所有になり、天文7年(1538)に肥前(佐賀市蓮池町)の蓮池城主の小田駿河守が奪い肥前の大堂(諸富町)の六社宮(現・大堂(うーどう)神社)の所有となった。明治時代の廃仏毀釈で失われている。
次の二尊寺の梵鐘は享保2年(1717)に上庄の平井惣兵衛保仭が鋳造している。銘文には「筑後州瀬高荘大竹山二尊寺者 鉄山士安禅師開基而延慶元年間出古叢林也 師者肥之大慈寒巖和尚・・・」「享保二丁酉春二月日 前妙心性天叟誌 樺島益正・益永・益家 樺島益吉・益利・益成 志樓妙須幼泰 妙子妙秋 瀬高上荘治工 平井惣兵衛尉保仭」とあり平井保仭が鋳造し、鐘銘文は二尊寺第2世住職、春龍の師匠である肥後細川藩菩提寺、泰勝寺四世住職、性天禅旭の執筆による。 |

二尊寺の鐘楼門
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しかし第2次世界大戦時の昭和17年に金属回収令で供出され失われている。戦後の昭和26年に再び上庄の平井家19代鋳物師平井國吉が制作した梵鐘が稚児行列にて運ばれ、二尊寺の鐘楼門に吊るされた。
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享保6年(1721)5月に立花鑑任が死亡し、立花貞俶がその養嗣子となって家督を継ぎ5代藩主となり2年後に上庄の平井惣兵衛に「鋳物師惣司」を発給している。享保17年(1732)に領内が「享保の大飢饉」に見舞われたとき、柳川藩は幕府に給金を求めている。
⑤享保8年(1723)7月16日に立花貞俶が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「( )鋳物師惣司」を任命した古文書 |

⑤立花貞俶の鋳物師惣司の古文書 |

⑤の解読文 |
延享元年(1744)、立花貞俶の死により次男の立花貞則が後を継いで6代藩主となる。延享2年(1745)に願主となり本吉の清水寺石段参道途中に京都の大工高田蕃蒸に命じて当時の建築技術の粋を集めて木造入母屋二層の山門を建立、階上の内部には、文殊菩薩、釈迦如来、四天王などを祀った。しかし延享3年(1746年)7月、謎の暴漢集団に豊前国大里浜にて襲撃され、死去した為に平井家に「鋳物師惣司」の発給はなかったとみられる。
弟の立花鑑通が家督を継ぎ7代藩主となった。2年後に上庄の平井惣兵衛に「鋳物師惣司」を発給している。宝暦8年(1758)に立花鑑通は本郷(瀬高町)に藩兵の調練所と「水御殿」建造させている。 |
⑦寛延元年(1748)に立花鑑通が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

⑦立花鑑通の鋳物師惣司の古文書 |

⑦の解読文 |
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【清水寺の半鐘と賓頭盧尊者像】 みやま市瀬高町本吉
日本古鐘銘集成によると瀬高町本吉の清水寺に、かつてあった天正9年(1581)の鐘の追銘には「筑後州瀬高上庄梁川村 坂本 旦那蒲池兵庫頭家恒」と出している。現在残された本坊⑥の半鐘には陰刻された「寛延四辛未歳十二月八日 住持遮梨湛道 鋳物師瀬高住 平井惣兵衛」の銘があるが、寛延4年(1751)に平井惣兵衛の銘のみで平井家の誰が制作したか不明である。この頃から慶長年代に使用していた「平」性がなく同寺の「撫で仏」⑦の銘からは「菅原」性に変っているが、いつ頃か理由が明かでない。「平井惣兵衛」は継承して江戸末期まで使用されている。 |
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⑥清水寺本防 |
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【龍本寺の梵鐘】 みやま市瀬高町浜田
瀬高町浜田の龍本寺には戦時中の金属供出まであった宝暦4年(1754)の平井家の梵鐘がありました。銘文は記載準備中。
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名刹、清水寺の石段を登り本堂の前、古僧都への道の登り口に、釈迦の弟子「賓頭盧尊者」⑦の仏像がある。びんずるさまは痛いところを撫でると癒してくだる「なでぼとけさま」です。この仏像の背面上部の銘に「五穀成就 国家安全・・ 北海津村 大城七右衛門 寛政己酉元年五月」背面中部に「鋳物師瀬高住/平井九卯兵衛尉菅原重俊/同 惣兵衛保俊/同 久米蔵常道/同 惣介末/牟田口武右衛門/宮崎勘左衛門/田中八右衛門/二ノ宮金兵衛/野口市左衛門/井原六次/黒田忠平/野口藤七/万時善三郎/北海津村庄屋/植田市三郎」の銘があり、これも平井鋳物師の平井九卯兵衛菅原重俊、平井惣兵衛保俊らの作であり、高田町海津生まれで瀬高町大竹の二尊寺の僧、大城七右衛門が、つらい托鉢行脚の旅から故郷に帰り、仏が苦しむ人々を救い、悟りの境地に導いてくれるようとの発願を立て、上庄の平井九郎兵衛尉(菅原重俊)も賛成して制作に着手し、寛政元年(1789)5月に完成し、落成式を行っている。念願を果たした七右衛門はその後も、修行を積み寛政7年(1795)4月に33才でこの世を去るが、彼が残した優しい微笑みを慕った「賓頭盧尊者」は大衆のなかに行き続け、「なでぼんさん」の愛称で身体の痛むところを仏様を撫でた手でさすると痛みが取れると信仰されて参る人々は後を絶たない。「反り花台座」は47年後の清水三重塔が落成した天保7年(1836)に追加制作されている。 .
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清水寺 |

⑦清水寺の「賓頭盧(びんずるそんじゃ)さん」 |
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寛政9年(1797)7月、立花鑑通の隠居により五男の鑑寿が8代藩主となる。1年後に上庄の平井惣兵衛に「鋳物師惣司」を発給している。
⑧寛政10年(1798)に立花鑑寿が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

⑧立花鑑寿の鋳物師惣司の古文書 |

⑧の解読文 |
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【本光寺】 柳川市東魚屋町
「撫で仏」を制作した平井九卯兵衛菅原重俊が保俊から「平井惣兵衛」を相続して平井惣兵衛菅原重俊と改名して享和2年(1802)に製作した本光寺(柳川市東魚屋町)の半鐘がある。陰刻で「享和二戌年 七月日/鋳物師/平井惣兵エ/菅原重俊/慶應二/寅八月日/第二鋳□/施主/外町/松永氏/万□□/筑後役州/山門郡柳川/本光寺/第一鋳□/施主/二保氏/施主/東町/續米興蔵/同/塚本忠エ/同/杉本茂三次」とあり、享和2年に二保氏や東魚屋町の信徒らが寄進した半鐘が損傷した為に、慶応2年(1866)に外町の信徒らが再鋳造してもらい寄進したものであろう。本光寺は蒲池左馬太輔鎮久の子美濃守貞久(鑑並の甥)が蒲池家滅亡後、菩提供養のため蒲池の中村に寺を建立して開祖となり、立花家が家小路に移し、田中吉政が藤吉に移した。寛永2年(1627)に現在の東魚屋町に移されたとある。本堂の阿弥陀如来像の床下には十字架が彫られた墓があるという。(調査中)

本光寺 |

本光寺の半鐘 |
【二尊寺】 福岡県みやま市瀬高町下庄大竹
二尊寺には平井家製の梵鐘のほか本堂外廊下左に文化3年(1806)に鋳造された半鐘がある。「大日本國西海路 筑後國山門郡大竹邑・・・女人■浄財而千人今鋳小鐘欲・・・」「旹文化三丙寅春三月日 大竹二尊禅寺 見住専圓瓊誌」「瀬高住 鋳物師 平井宗兵衛尉 菅原俊保」の陰刻銘があり、女人信者千人らが浄財を集め、再鋳されたとみられる。平井宗兵衛尉菅原俊保の陰刻がある。

二尊寺本堂 |

文化3年の半鐘 |

一、配下勝楽寺え今度久留米領より 古撞き鐘買い入れ候處、其の方職分に付いては 構いこれ有るべきの處、同寺より示談に及ばれ候ニ付き、 得其の意得られ候段、承知せしめ候、已来は 其の方無銘の撞鐘買い入れ、配下え 相用いさせ申す間敷く候、仍て一筆件の如し、 文化十酉年 十月 西方寺 瀬高金屋 平井惣兵衛殿
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文化13年(1813)10月の平井家の古文書には勝楽寺(大川市大野島)が久留米領から古撞き鐘を購入した事により、藩内の鋳物を独占的に扱う平井家から抗議があり勝楽寺が示談に応じ、同じ浄土真宗本願寺派の触頭である西方寺(柳川市)が、今後は配下の寺が平井家の銘のない撞き鐘(梵鐘)を購入しない事を平井家に誓約している。触頭とは寺社奉行から出る命令の伝達や、寺社から出る訴訟の取り次ぎにあたった寺である。この書から柳川藩内の梵鐘は平井家の許可なく他国から購入できなかったとみられる。 |
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本来、藩内の鋳物を独占的に扱う御用鋳物師を藩は指定していたのに現実には守られていない。たとえば福岡藩には大田(太田)、柴藤、山鹿、礒野、深見の鋳物師五家があるに、佐賀藩の鋳物師谷口家4代目安左衛門兼清(享保3年・1718没)が製作した正徳4年(1714)の覚応寺(浄土真宗本願寺派東区)半鐘や東林寺(曹洞宗、博多区博多駅前)や明光寺(曹洞宗、博多区吉塚)の半鐘がある。また、長崎市の晧臺寺(曹洞宗)には元禄15年(1702)に改鋳した梵鐘がある。また正徳・享保初期(1711―1718年)に長崎警備の為の大砲を鋳造している。これは、正保4年(1647)6月にポルトガル船2隻が来航し、福岡・佐賀両藩隔年交代の長崎警備御番などを通じた博多・肥前両鋳物師の往来と、肥前には製鉄に欠かせない炭山の存在があり材料調達でも交わりがあった為であろうか。熊本県上天草市大矢野町の遍照院にも谷口安左衛門兼清の宝永6年(1709)制作の戦時中の金属供出を逃れた梵鐘が残り、柳川藩内でも東蒲地の崇久寺には文政5年(1822)に8代目の谷口清左衛門廣峯が制作した半鐘がある。柳川藩内の他の寺にも、作者不明の平井家以外と思われる半鐘が数多くあるので今後の研究課題とする。
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文政3年(1820)6月立花鑑寿の死後、養子婿の鑑賢が家督を相続して9代藩主となった。藩政改革に取り組み、藩校である伝習院を創設している。2年後に上庄の平井惣兵衛に「鋳物師惣司」を発給している。
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⑨文政5年(1822)に立花鑑賢が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

⑨立花鑑賢の鋳物師惣司の古文書 |

⑨の解読文 |
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瀬高上庄町 平井惣兵衛 当春同町出火の砌、 右の者町内に救い米 相施し、貧窮の者 を取り救い候段聞き届け、 奇持(特の誤り)の事に候、仍て 御褒美として御盃拝領 申し付け候、 右の通り、御達し これ有るべく候、以上、 十二月 中老中 御勘定 御役所
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春先の瀬高大火の際、町内へ救い米を供出したことに対する褒状(賞状)。 ちなみに、『旧柳川藩志』によれば、瀬高両庄の大火が文政5年(1822)2月17日 に起こって いるので、この時の古文書とみられる。 |
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【三柱神社】柳川市三橋町高畑
幕末の平井家では保俊は平井弥左衛門と名乗り、「平井惣兵衛」を重俊から忠俊が相続改名し、活躍している。
文政9年(1826)に柳川藩祖の立花宗茂とその妻の誾千代、さらに妻の父である戸次道雪の三柱を一緒に祀るために三柱神社が創設され、拝殿と神殿との間の両側に青銅製の狛犬二基⑧⑨が制作され奉納されている。阿形の獅子の首部には
「文政九年十二月・・ 奉献 三柱大明神広前/奉献」右脚部の銘には「・・・ 鋳物師 平井弥左衛門尉菅原保俊/ 同惣兵衛尉 同忠俊/ 平井九兵衛 純正/ 同源太郎 三行/ 松下幸左ヱ門 知行/田中八五郎 春員/井原金蔵 斉改/宮崎小三郎 包重/黒田喜太郎 将行/野口利吉 一行/菊次小三郎/同 小市」と陰刻され、平井弥左衛門と平井惣兵衛菅原忠俊と鋳物師12名が制作している。人目にふれない拝殿の裏にあり、あまり人目にふれていないが、尻部や頭部は精巧で、顔つきが鋭く今にも動き出すような迫力と力強くさを感じる。 |

新築された三柱神社拝殿 |
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神殿を守る⑧の口を開けた阿(あ)形の獅子像は獅子の頭に霊力があり、悪を食べてくれると信仰され⑨の吽(うん)形の狛犬像は邪気を払うために頭に角(一角)がある。
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【清水寺】みやま市瀬高町本吉
清水寺本堂の右横の「賓頭盧尊者」(撫で仏)⑦の仏像が制作されて47年後の清水三重塔が落成した天保7年(1836)2月に「反り花台座」が追加制作されている。台座の銘には「五穀成就/国家安全/清水寺当職隆安・・・・台座願主大竹村薬師堂/庵主休心/台座再鋳願主/当山茶屋/橋本伝次/妻/世話人/椛嶋吉右衛門/藤原益行/同上庄町/浜武善兵衛/治工瀬高庄/平井惣兵衛尉 菅原忠俊/助工/久富嘉七/一映/平井弥三郎・・ 天保七丙申年二月吉辰」」とある。大竹村の薬師堂の休心が願主となり平井惣兵衛菅原忠俊らにより制作されている。「撫で仏」と「反り花台座」は平井家制作の現存する唯一の青銅製の仏像である。
この頃の柳河、三池両藩田租要項に「鋳物は上庄を創始とする」とあり多くの優秀な作品に取り組んだと思われる。
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文政13年(1830)3月に立花鑑賢が死去したため、長男の鑑広が10代藩主となった。しかし天保4年(1833)2月に病気で11歳という幼少で死去した。後を弟の立花鑑備が継ぎ11代藩主となった。上庄の平井家には「鑑広が短命であった為に鑑広の「鋳物師惣司」は発給されなかったであろう。鑑備の「鋳物師惣司」が残されている。
⑪天保7年(1836)に立花鑑備が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

⑪立花鑑備の古文書 |

⑪の解読文 |
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【台照院の半鐘】 柳川市
天保15年(1844)に平井惣兵衛菅原忠俊が制作した、立花家ゆかりの台照院(柳川市西魚屋町)の半鐘⑩には陰刻銘で「天保十五年/辰七月/筑後柳川台照院/本地院什/御鋳物師/平井惣兵衛尉/菅原忠俊」とある。台照院はもとは天台宗の寺でしたが、天正2年(1574年)に火災で焼失し廃寺となり、慶長2年(1605年)日恕上人が寺を再建したものです本堂の花の天井画は立花家の奥方や女中が描いたとされ、鶴を描いた扉戸や仏壇間は当時の栄華を彷彿させられる。寺の南側には立花壱岐の実弟の立花親徳の墓と立花家の家臣の墓石が残されている。本堂の東北にある妙見堂は、加藤清正と立花宗茂を合祀してある。
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台照院(柳川市) |

⑩台照院の喚鐘 |
【福厳寺の半鐘】 .
翌年の弘化2年(1845)に平井惣兵衛菅原忠俊が制作した、梅岳山福厳寺(柳川市奥州町)の半鐘⑪には陽鋳銘で「梅岳山」「福厳禅寺」、陰刻銘で「弘化二乙巳年夷則穀」「置禅堂」「御鋳物師/平井惣兵衛/菅原忠俊」とある。半鐘は読経出頭や座禅開始の合図に使われた。福厳寺は天正15年(1587)に立花宗茂が父戸次道雪の菩提を弔うため建立され、田中吉政の代に一時、寺は壊され、宗茂が再び柳川の領主となり再建した。寛文9年(1669)3代藩主立花忠茂の代に高僧鉄文を招いて臨済宗黄檗派に改めた大規模な寺で南側に天王殿、西に鐘鼓楼と開山堂がある。西の墓地には芥川賞作家長谷健、直木賞作家檀一雄や俳人木村緑平の墓が、本堂裏の御霊屋の建物には歴代の藩主の墓がある。
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福厳寺(柳川市) |

⑪福厳寺の喚鐘 |
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弘化3年(1846)に鑑備の死により、第8代藩主・立花鑑寿の次男の鑑寛が養子となり家督を継いで12代藩主となる。嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航すると幕府から深川沿岸の警備を任された。同年7月、ロシア船が長崎に到着すると、今度は長崎の守備を命じられている。上庄の平井惣兵衛には就任3年後に「鋳物師惣司」を任命している。
⑫嘉永2年(1849)6月8日に立花鑑寛が瀬高上庄の平井惣兵衛に柳河藩領内の「鋳物師惣司」を任命した古文書 |

⑫立花鑑寛の鋳物師惣司の古文書 |

⑫の解読文 |
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拝借仕り候金子の事 一、金百五拾両也 右の金拝借仕り候處、実正に御座候、 返納の儀は当未十一月より来る申六月限り 年八朱の割合にて利足相加へ元利 相違無く返納仕るべく候、若し万一不納仕り候 節は、私従先祖より 仰せ付け置かれ候鋳物師家督御引き揚げ 下さるべく候、後日の為拝借證文一筆 件の如し、 弘化四年 未十二月日 平井惣兵衛(印) 受人 久富堪右衛門(印) 御勘定 御役所
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弘化4年(1847)12月に平井惣兵衛が藩の勘定役所から金150両を拝借したときの証文で、金額と返済期限と利息が書かれている。返済できない場合は、先祖から命じられている鋳物師家督を取り上げてくださいと書き込んである。受人(保証人)として上庄の酒造家・久富堪右衛門の署名捺印がある。借金の目的は不明である。 |
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覚 一、鋳物一切賣らせ下され候処、 有り難き仕合わせに存じ奉り候に付いては、他国より 鋳物の儀壱品でも取り入れ賣り申す間敷く 候、若し萬一取り入れ候節は、御勝手 次第に御斗り下さるべく候、仍て 後日の為一筆差し出し置き申し候、以上、 嘉永三年 戌九月日
上妻谷川多々羅 瀬高屋 茂平治(印) 平井惣兵衛様
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嘉永3年(1850)9月、平井家より鋳物類の販売を許された、上妻谷川多々良の屋号、瀬高屋の茂平治が平井家制作以外の他国の鋳物類を売らないことを誓約している。上妻谷川多々羅とは旧柳川藩領であった現在の八女市立花町谷川多々良である。この書から柳川藩内の鋳物類の製造・販売も平井家の許可が必要であったとみられる。弘化2年(1845)の「谷川御用日記」によれば谷川村儀右衛門という鍛冶職人が秋月領依井村(朝倉郡三輪町依井)の農具の名家である鍛冶職弥助の二男徳治を呼び技術の指導を受ける願い書が出されている。 |
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幕末の元治元年(1864)長州戦争に参加した柳川藩は上庄平井家の平井蘇介を長崎に遣わしてオランダの大砲製造の技術を学ばせ,彼の帰国後に柳川藩の練兵所のあった三柱神社の神苑境内に「御製造所」を造り大砲製造を始めた。欄干橋傍の松月旅館の西側の広い空地区でないかと言われている。三柱神社の北部(右地図)に二ッ川から導水した水を利用した水車を、硝石と硫黄とを混合して火薬(煙硝)を作ったり旋盤の動力として使用したと思われる。その製鉄所も明治3年(1870)には閉鎖されている。その製鉄所の図面や大砲の図面など上庄から分家した三橋町蒲船津散田の平井蘇介の家に残されていた。その後、蘇介は分家した蒲船津散田で鋳物業を営んでいたが明治7年(1874)に瓦焼に転向されたという。蘇介の墓は柳川の瑞松院にある。
当時の長州砲 |
水車小屋の位置(明治時代) |
松
⑬慶応二年八月の規定覚
規定覚 一、御用の外職人引[ ](史料折れにて読めず) これ有り候節は、如何様共御咎仰せ付けられ 候に付き、職人共製造場え参らず候節 は、拙者より同所え申し出[ ]候事、 一、拙者申し遣し候節は、何事に限らず、 延引無く罷り出づべく候事、若し故障 申し立て候て罷り出で申さざる節は、職方 引き上ぐべく候事、 一、諸人共鋳物類旅より抜け入り并びに 古地金等旅出しいたし候者これ有るに於いて は、筋々申し上げ候て、其の品物引き上げの上、 支配差別申すべき事、 慶応二寅年 八月日 平井惣兵衛
職人中 上庄 久兵衛(拇印) 同 源太郎(拇印) 同 善七(拇印) 同 弥三郎(拇印) 同 幸右衛門(拇印) 同 安太郎(拇印) 同 半次郎(拇印) 渡瀬町 源太郎(拇印) 三池町 治三郎(拇印)
慶応2年(1866)には藩命で三柱神社境内の「高畑御製造所」で鍋釜などの鋳造をすることになり、平井惣兵衛が書いた藩営の「御製造所」に出向するにあたり職人に対しての注意覚書「規定覚」⑬である。規定覚を概要すると「職人達が製造所に行く時は、私が製造所に申し出るので、何事も遅れなく申し出る事。私から命令された際には、すぐに出勤し、もし出勤しない場合は職人の地位を取り上げる。他国からの鋳物の流入や古地金などの他国への流出を見付けた場合は藩に報告し、その品物を没収する。」と誓約させている。規定覚には上庄の久兵衛、源太郎、善七、庄助、弥三郎、小右衛門、庄助、惣助、幸右衛門、安太郎と渡瀬町の源太郎、三池町の治三郎の平井家の職人12名の署名と拇印が押されている。
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⑭乍恐奉願上口上之覚
恐れ乍ら願い上げ奉る口上の覚 一、昨年より以来高畑御製造所に於いて農具 鍋釜御鋳立て御座候に付き、年々金子弐百両 宛御下げ仰せ付けられ、有り難き仕合わせに存じ奉り候、 追々諸式高直に相成り候に付いては、何分生活 相立ち兼ね候、且つ又所々の借財残金返済も 出来申さず、形木屋居宅修覆等も出来兼ね、職人の者も上職人丈け御引上げに相成り、残る職人鋳掛け繕い等も年分丈けは御座無く 候に付き、是又難渋仕り居り候間、残る職人を以て 御用物注文物上妻鋤崎丈け鋳立て仕り度く、 鍋釜の義は成る丈け地金を以て御製造所より 拝領仕り度くこれを願い上げ奉り候、何卒 御慈悲の上を以て願いの通り仰せ付けさせられ下され候はば、 有り難き仕合わせに存じ奉り候、就いては御下げ金の義は 御賢慮を以て拝領仕り度く存じ奉り候、此の段苦しからず 思し召めされ候ハヽ、宜敷き様仰せ上げられ下さるべく候、以上、 慶應三卯年 三月日 平井惣兵衛
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慶応3年(1867)3月の平井惣兵衛が藩の御勘定・御役所に願い申し出た古文書⑭である。概要すると「昨年より以来、高畑御製造所において農具・鍋釜の鋳造をして、年に200両を頂いていますが、諸々高値になり、生活も苦しく、借金の返済や形木屋居宅の修理も出来ません。優れた職人を引き上げられたので、残された職人で鋳掛け修理をなどをを行うのみとなり難渋しております。残された職人に藩の注文品や上妻鋤先(こうつますきさき)を鋳造させ、鍋釜は地金を御製造所より拝領したくお願います。御慈悲の上、願い通り・・」と嘆願している。藩営の「高畑製造所」の安い報酬で上職人を取られ、残された職人での仕事が無くなり、役所に申し出ている。この慶應年間の200両の価値は米価換算で計算すると現在の80万円位で相当低い報酬で難渋している。柳川藩は農具や鍋釜などを製造させ船にて他藩に売りさばき貧困な藩の財政の収入としている。この書状は平井家の控えとして残されており、他に同様の2通の下書きが残されている。 |
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恐れ乍ら願い奉る口上覚 一、私儀有り難く是迄御上納申し上げ候鍋 釜類、是迄の直段にては何分引き 合い申さず候間、近頃恐れ多き儀に御座候 得共、別紙願いの通り、 御憐愍の上を以て、仰せ付けられ成し 下さるべく候様歎願奉り候、以上、 卯七月九日 平井惣兵衛 御勘定 御役所
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鍋釜類を藩に上納しているが、現行の値段では引き合わないため、 藩の勘定役所に対し価格の引き上げを願っている。卯七月九日は慶応3年7月9日。 |
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借用申し上げ候證札の事 一、金子五拾両也 右の通の金子慥かに借用申し上げ候處、 実正に御座候、右引当として五拾枚入りの 鋤先百俵御預け申し上げ置き候、尤返済の 義は、来る巳の四月十五日限り、月弐歩の利足 相加え、相違無く急度返済仕るべく候、若し萬一 相違の義も御座候はば、受け人立ち合い何か様共 御取り計り下さるべく候、其の為受け人加判仕り 置かさせられ候、後日の為一札件の如し、 慶応四年 辰十二月 借用主 平井惣兵衛(印) 受人 半次郎(印) 伊原庫次郎殿 御取次 熊次郎殿
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慶応4年(1868)、平井惣兵衛が農具の鋤(すき)先50枚入りの俵100袋を抵当に伊原庫次郎から50両を借用した際の 証文で、受人(保証人)は半次郎。高畑製造所で出来た鋤先の仕入資金であろうか、貸主の伊原庫次郎とは上庄の酒造家であろうか。横線があることから返却された証文とみられる。 |
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恐れ乍ら願い上げ奉る口上覚 一、私儀昨秋御鋳立ての農具拝借仰せ付けられ、 有り難き仕合わせに存じ奉り候、右代銀五ヶ年賦にて御上納 申し上ぐべき旨仰せ付けられ、畏み奉り候、然る處拝借の内 賣子共へ追々貸し附け申し候處、右代銀催促仕り候 得共、不算用勝ちに相成り、且つ又大釜類以今 賣り拂い方出来兼ね、大先の儀は餘程損じ 物に相成り、就いては甚だ難渋仕り罷り在り候間、恐れ多く 存じ奉り候得共、何卒 御憐愍の上を以て親蘇助炭地金拝借同様 拾ヶ年賦に仰せ付けられ下され候は、誠に以て有り難き仕合わせ 存じ奉り候、此の段宜敷き様仰せ上げられ下さるべく候、 頼み上げ奉り候、以上、 明治二巳年 七月 平井惣兵衛 御製造所 御役所
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平井惣兵衛は明治元年秋、高畑製造所で製作された農具を拝借し五ヶ年賦で その代銀を上納するよう命じられていた。しかし、農具を売り子たちへ貸し附け ていたが、その代銀が滞り、大釜類は売り払うことができないでいた。このため 支払を10ヶ年賦にするよう製造所に対し願っている。この高畑製造所も明治3年(1870)には閉鎖されている。 |
⑮の書状は明治以降、江戸時代以来の組織・制度が改変されるいく中で「釜屋頭」の役職が廃止されたもので、辛未は明治4年にあたる。勘定掛は立花家の家政組織である御内事掛の一部局です。
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⑮明治4年(1871)3月、柳川藩領内鋳物師の最高頭である「釜屋頭」の役職が廃止されたことに伴い、平井惣兵衛に対して、救助米として年に七俵(約420kg)を拝領するとある。現在の価格で7万円である。 |

⑮勘定掛からの書状 |

⑮の解読文 |
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【コラム】
梵鐘は寺院の鐘楼に吊る青銅製の大きな鐘で、撞木で撞き鳴らす。大衆の参集の合図として用いるので集会鐘ともいい、また朝夕の時報としても用いられる。大晦日に108回撞かれる除夜の鐘は一般的に良く知られている。半鐘は小型のもので、 喚鐘ともいい、本堂に吊って読経出頭や、座禅開始の合図に使用するものです。
鋳物は製作したい模型(木型)をもとに、砂で金属を流し込める鋳型を作り、中の模型を取出した後、鋳型の空洞部に溶かした金属を流し込み、模型と同じ形に出来たものを鋳物といいます。水道蛇口、エンジン、マンホールの蓋、仏像、鐘、釜、など大きな物から小さな物が製造されています。
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鋳物を鋳造する過程で使われていた道具 |
肥前国唐津藩(現在の佐賀県)の藩士、木崎盛標が藩の産業を描いた図録の中の唐津郊外で行われていた鋳物師の部分。安永2年(1773)から天明4年(1784)まで10年をかけて作成された。当時の鋳物師の現場を知るのに貴重な資料である。(国立公文書館デジタルアーカイブ利用) |
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図の左端には燃焼用の炭置き場です。建物の外壁には、たたら炉が設置され、上口からは材料の金属(砂鉄など)と木炭が挿入され、火口から点火される。室内では鞴(フイゴ)を6人交代で三日三晩足踏みしながら(下図右)壁を通して炉に空気を送り1500度に上昇させるのに多くの人力が必要であった。4日の朝に溶けた金属(湯)を湯くみで受け、室内に持込み砂で製作した鋳型に注湯する。時間かけて冷やし鋳型を壊して出来上がった鋳物を取出し余分なバリなどを取り、クリーニングして製品となる(下図左) |
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上庄の平井家は明治時代以降も昭和50年まで鋳物業として活躍して寺の梵鐘製作や造船関係のバルブ製造業を営んでいた。商家では稀に見る400年の歴史と文化財とも呼ばれるほどの優秀な作品を数多く残されている。
瀬高町上庄東新町の平井本家は昔から近所の人々に、金屋(鋳造所)と呼ばれている。地元氏神である、立花宗茂により改築再興された上庄祇園宮の軒下の階段・廊下の擬宝珠⑬の銘には「上庄氏子中 鋳師 平井忠治」とあり昭和3年(1928)1月の平井忠治が制作した作品である。東側の屋須多宮の擬宝珠には「明治三十七年旧6月吉日」の銘のみで作者名が無いが、これも平井家の作と思われる。 |

⑬上庄祇園宮の擬宝珠 |
日中戦争から太平洋戦争においては、戦局の悪化と物資、特に武器生産に必要な金属資源の不足により昭和17年には大々的な鉄や銅製品の金属回収で神社の灯籠・擬宝珠や寺院の仏具・梵鐘は根こそぎ失われ戦場の武器弾薬となった。300年以上古い梵鐘は文化的価値から金属回収令から免れているが作品は希少でありほとんどが消え去った。太平洋戦争中の平井家は佐世保海軍基地などの船舶用バルブ鋳物製造を手がけている。終戦後は19代鋳匠の平井国吉はバルブ製造と金属回収令で失われた梵鐘や喚鐘を製作している。 |

回収された梵鐘 |
昭和24年(1949)春に上庄の正覚寺の梵鐘⑭を鋳造、銘に「平井鋳造株式会社謹製 十九代鋳匠 平井国吉 鶴勝治 外工員四十五人」とある。同年秋彼岸に平井家先祖供養の為に平井国吉は町内の正覚寺(二百町)⑮と西念寺(東新町)⑯に半鐘を鋳造して寄進している。西念寺の半鐘はお堂内に吊るされている為に錆びずに銅色を保っている。 |

昭和期の上庄の平井家 |
昭和25年(1950)10月には下庄大竹の二尊寺の梵鐘を鋳造、銘に「平井鋳造株式會社謹製 十九代鋳匠 平井國吉 ・・」と鐘身に陽鋳されている。
同年、赤穂四十七士の寺坂吉右衛門の墓(寺の縁起)がある八女市豊福1348 の一念寺の梵鐘も鋳造し「瀬高平井製」と陽鋳されている。
昭和27年(1952)4月には柳川市西魚屋町の台照院の開宗七百年記念の梵鐘を檀家の河村泉家の寄進で鋳造され陰刻された銘に「瀬高町 平井鋳造株式會社謹製 十九世鋳匠 平井国吉 外五十一人」とある。 |

台照院の梵鐘 |
同年5月には下庄田代の光源寺の半鐘を鋳造「平井製」の銘がある。「平井バルブ」として船舶のバルブ製造を営み、のちに「平井工業」と社名変更されていた。しかし昭和50年(1975)には二十代目の平井伸一氏が亡くなり、遺族は久留米市に引越しされ、筑後国の鋳金界の名匠、平井家400年余の歴史を閉じた。広大な工場敷地には分譲住宅が建ち並び昔の面影は消え去っている。平井家の代々の墓は上庄二百町の正覚寺にあり、平井家鋳造の梵鐘が上庄の街に鳴り響いている。
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光源寺の喚鐘 |
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*古文書の解読・読み下しは柳川古文書館で、手紙類の資料(平井家~郷土史家・故鶴久氏所蔵)提供・解読は久留米教育委員会の協力を頂きました。
参考文献・柳川の美術Ⅰ(柳川市発行)・田中吉政(柳川市発行)・筑後市史第一巻・磯野五兵衛覚書近世博多年代記・
河野覚氏平井家文書研究資料・久留米市所蔵平井家文書・筑後市神社仏閣調査書
掲載の神社や寺院ならびに柳川「御花」・柳川市教育委員会・柳川古文書館・久留米市文化財保護課・太宰府市文化財課
・福岡市教育委員会文化財部・筑後市社会教育課・資料提供・解読・取材協力にお礼申し上げます。
*無断掲載使用禁止します。 ご感想、御意見、はこちらに Email:shofuku21@yahoo.co.jp |
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