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瀬高町本郷より上流の矢部川は久留米藩と柳川藩との国境から境目川、または地域名(上妻郡)から上妻川と呼ばれ矢部村の地域だけが矢部川と呼んでいた。浅瀬が多い為に久留米藩領への往来、物資の交流は厳しく禁じられていた。しかし夜になり、こっそり川中を歩いて往来する者もいたようだ。江戸時代の後期には比較的、自由になり、谷川組御用日記によると柳川藩と久留米藩との婚姻、養子などの交流も頻繁に行われている。天和元年(1681)山下町(立花町北山・山下)に矢部街道の宿駅として商家数十軒を移して堀新助を支配役として新市街を設けた。寛保年間(1741〜43)の地図によれば柳瀬村(八女市)から中川原(立花町北山・中川原)の柳瀬歩渡りの川幅32間(58m)深さ1尺8寸(55cm)とある。久留米藩領の古地図には福島より柳川への往還と記されていて福島往還とも呼ばれていた。現在の山下の少し上流の中川原橋の場所である。さらに上流の山崎村(立花町山崎)から宮野村(八女市)に渡る陳前(ぢんまえ)歩渡りと原島村(立花町原島)から柳島(八女市柳島)に渡る高橋歩渡りがあり、さらに四条村(黒木町四条野)には築地歩渡り、木屋村(黒木町木屋)には竹瀬歩渡り・塚瀬歩渡り・戸川瀬歩渡りがあり、大渕村(黒木町大淵)には花廻歩渡りが、矢部村には三瀬歩渡り・芝庵歩渡りが描かれている。文化9年(1812)10月12日に伊能忠敬らは久留米藩領の柳瀬村(八女市柳瀬)から測り始め矢部川を歩行で渡り(柳瀬歩渡り)北田村(立花町北山)〜山下町〜唐尾〜本吉と清水寺本堂までを測量している。
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唐尾の渡し 唐尾⇔溝口 |
安土桃山時代の末期(文禄4)1596年行脚僧の日源上人が溝口(筑後市)で和紙製造を始めて栄えましたが、元和6年(1620)筑後藩の田中藩主が改易され、有馬藩(久留米)と立花(柳川)藩に分藩されると、日源の弟の矢ケ部新左衛門を柳川藩の唐尾に住まわせて和紙の製造を始めさせた。唐尾の南筑橋上流には、元禄8年(1695)に田尻惣馬が築いた千間土居があります。全長1、300間(約2・7`)にわたる土居は、別名「惣馬が土居」と呼ばれることになりました。千間土居が完成したあとも、惣馬の治水事業は終わらず、千間土居から船小屋にかけて、水流の勢いを弱めるための水刎(みずはね)(水羽根)の建設や植林などを実施。柳川藩の土居は強固なものとなった。久留米藩の古地図によると旧坊津街道筋であり舟渡しがあったであろう。幕末以降には木橋が架けられ、昭和年代にはコンクリート橋に架け替えられたであろう。昭和28年の大洪水でこの南筑橋は流され昭和30年に改修されたが老朽化の為に50m下流に新しい橋が完成する。この付近は船小屋ゲンジボタル発生地である。(H21.5現在) |

昭和28年の大洪水 |
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長田の渡し 北長田(筑後市)⇔南長田(みやま市) |
矢部川両岸の長田は川の流れの変化により北と南に分断されたとの伝承がある。更に南長田は上長田と下長田に分村されている。長田川原は南北朝時代の建武4年(1337)に菊地武豊と佐竹重義の両軍が、激戦を行った記録が残されている。この戦を「長田川原の戦い」と云う。
戦国時代の終りの天正15年(1587)4月豊臣秀吉の、薩摩の島津征伐の為に高良山吉見岳城(久留米市)から藤田・一條・知徳(広川町)の旧坊津街道(薩摩街道)を通過し、長田宿(筑後市)を通り徒歩により矢部川を渡り、大塚〜大草〜本吉宿〜河原内と清水山麓の街道を通り原町(山川町)〜大津山(南関)に辿り着いたとされている。秀吉は矢部川の増水のため渡河することができず、長田宿(筑後市)に数日間逗留を余儀なくされたと云われている。1701年元禄14年(1701)
柳川4代藩主立花鑑任の時、参勤交代の為の薩摩街道が、羽犬塚〜尾島十字路から右折して大門口〜久郎原〜今寺を経由し、柳川領の本郷〜上庄〜下庄〜原野町経由と路線変更されたため「長田の渡し」は廃止され浅瀬を歩いて渡っていた。増水の時は船小屋の観光橋(ガタガタ橋)を渡って土手を登るか、尾島から本郷(瀬高町)へまわるかの方法で矢部川を越えていたとのことです。昭和4年2月に久留米市と瀬高町を結ぶ県道(現在の国道209号)新設事業の一環として下流側に船小屋橋(赤橋)が架けられ南に架かる中ノ島橋と共に完成した。この橋は平成14年8月船小屋温泉大橋に架け替えられました。 |

昭和28年の大洪水舟小屋 |
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本郷の渡し |
宝暦9年(1759)柳川7代藩主立花鑑通が四ヶ所藤左衛門に命じて建築された陸戦隊の演習場の水御殿と館の南方に駒射ち・犬追物・流鏑馬の練習をした本郷馬場があった場所です。江戸時代の末期の絵には朝鮮松原付近に仮橋が架けられ鵜飼漁(下妻アユ)が描かれている。川底に大網を敷き、上流から鵜匠が鵜を使って鮎を追い、網に集まった鮎を引きあげる漁法でした。本郷から橋を渡り下長田を通過して、壇ノ池(瀬高町下長田)〜小田村唐尾(瀬高町)〜山下町(立花町)〜黒木町〜矢部村(柳川藩領)の矢部往還が利用されていた。矢部村周辺では柳川城に通じることから柳川街道と呼ばれた。
昭和初期でも橋梁は橋桁が2間くらい(4m)の間隔で並び、水面上に5尺くらい(1.5m)が出て、その上に横幅1間(1.8m)長さ3間(5.5m)の板がのせられ、雨季には太いシュロ網がかけられ、洪水の時は、中間から切れて、両岸に流れ着く仕組みであった。板橋が流され架け直す迄は「団平舟」と呼ぶ渡し舟で往来していた。昭和19年には吉岡から直線の5m道路が本郷左岸の堤防まで開通し、現在地の幸作橋は最初は筑後川の豆津橋(久留米駅の西方)の廃材を貰い、筏を組み筑後川を下し、矢部川をのぼり、上庄の御蔵浜かで回送し、部落民が現地に運んで苦労して組立てて架けている。写真(下右)は昭和27年に撮影されたもので、「ドンキャンキャン」の中世の神事と近世の大名行列を組み合わせた祭りの行列が橋を渡っている。この橋は昭和28年に洪水で流され、しばらくガタガタ橋であったが昭和32年11月に現在の橋が完成した。

江戸末期の本郷の図(梅沢晴峩/筆) |

昭和27年撮影の幸作橋
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江戸末期木橋のあった場所 |

松原堰と幸作橋
ここから右に沖の端川で柳川に分流されている |
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瀬高の渡し(瀬高橋) 下庄中町⇔上庄横道 |
江戸期の参勤交代の薩摩街道の瀬高の渡しは街道と結ぶ要所であった。船は藩の船で渡守(船頭)は24石を貰っていたから船賃を払う必要はなかった。江戸後期の文政・天保年間(1818〜1843年)には「ガタガタ橋」がかけられ渡し賃を払ったとある。
明治38年の記録にも日露戦争後矢部川を渡る渡し舟の不便さから、洪水で流されるのを覚悟の上で川面(かわも)すれすれに簡単な橋(ガタガタ橋)を架けた。勿論流されるとその費用は無駄になる。よって幾らかの渡し賃を徴収して架け直しに備えるようにした。橋の番をし料金を徴収する人を決めた。当時上庄側の橋ぎわで、呉服小間物屋のことを橋の番屋と呼ぶようになった。この店は談議所に移り、更に栄町に移転、橋本屋の屋号で終戦すぎまで下庄で営業をつづけた。下の写真で見ると橋ぎわから斜めに道が川岸向いて下っているのが見える。ガタガタ橋への通路跡である。
明治42年に柳川軌道敷設(当初矢部川2丁目四ツ角まで)により、本格的な瀬高橋が架設されたものである。これにより沿道に栄町・恵比須町・矢部川町の商店街が新設されていく。しかし瀬高橋はたびたび洪水により流失して架け替えられた歴史をもっている。
明治44年 2月木橋が架設される。柳河軌道の線路も敷設される。
大正 9年12月柳河軌道専用の木橋が継足される。大正12年3月橋脚がコンクリート柱になり、上部は木造橋。
昭和 6年 6月に鉄橋2連、および鉄筋コンクリート橋脚の混合橋となる。(下2番目写真)
昭和46年 2月矢部川堤防護岸工事により、河川巾を広げ堤防も高くして現在の橋に架け掛けられた。
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明治時代後期の木造の瀬高橋(右の建物は松屋)

昭和6年に鉄橋二連・鉄筋コンクリート橋脚に架け替えられ、渡り初め式の祭り姿の町民

昭和6年に架けられた瀬高橋・手前は柳河軌道瀬高橋

昭和46年竣工の現在の瀬高橋 |
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東津留の渡し 東津留⇔西津留(大和町) |
江戸初期の藩主立花宗茂時代(1621〜)は津留の渡しがあり、藩の家臣石橋重四六が津留の渡しの目付け役を仰せつかって東津留の柳瀬野(ヤナ城)に住んでいた。正保2年(1645)矢部川の流れ変更工事により津留村が二分され、東西にわかれた。この辺の川の改修は享保5年(1720)以降であろう。この改修によって、津留村の南端の六合古川にあった渡しがここに(現在の津留橋下流約100m地点)移されたと考えられる。したがって享保年間(1720〜)から渡しが始まったと思われる。渡しには左岸を護岸して刎(は)ねがあり、右岸はよし野が広くあって桟橋があり、約2時間おきに渡していた。渡し守は「タンさん」と言っていた。朝6時から夕方8時までが渡しの時間でそれ以外の時間は特別相談して渡してもらっていた。昭和7年(1932)に長さ85間、幅2間半の木造の津留橋ができて渡しは廃止されたが、昭和28年の大洪水で流出した為、昭和33年11月の橋開通まで約5年間渡しが復活しその時の渡し守は「シッちゃん」という人だった。 |
泰仙寺の渡し 泰仙寺⇔鷹尾(大和町) |
泰仙寺が鷹尾から分かれたのは、寛永15年(1638)に矢部川の改修が行われた時のことである。したがって渡しはこの頃から始まったと思われる。それ以前は、泰仙寺と浜田の間に矢部川は流れていた。泰仙寺の渡しも同様番小屋があり干潮時は船橋がかかり歩いて渡っていた。船も同じく平たく浅い渡し専用のものであった。渡し守りは「シンさん」といっていた。渡し賃は村の各戸から米をぬいて渡し守に渡していたそうで1回1回金を払わなく渡っていたそうである。後はしばらく「ハヤトさん」が引き継がれておられたそうである。その後泰仙寺橋が架けられたが、昭和39年(1964)に、船が衝突して中央部が崩れて通行できなくなり、渡し舟(下写真)が人や自転車を運んでいました。昭和47年5月に幅6m、長さ159mの鉄筋コンクリートの橋が完成した。
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泰仙寺の渡し(昭和39〜47年) |
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江浦・中島の渡し 江浦(えのうら)⇔中島 |
江戸期の文政の時代(1818年〜1829年)、江浦の大坪市左衛門が渡し守を勤める事となり、運行する為の扶持米24石は三池郡中より支払っていたとあります。江浦から中島までは主要な三池街道(柳川道)の渡しで舟は藩の舟であったため、船賃を払う必要はなかった。明治7年には有料の賃渡しと変更になっています。その後、急速に不便を痛感し、橋梁架設の機運が高まり、明治33年(1900)にはじめて木橋が出来た。両岸の地名をとり、浦島橋と命名された。大正5年(1916)にコンクリートの橋に架け替えられた。「鉄筋混凝土木桁橋」とあるその時もなお割橋で「ひきわり橋」「はね橋」と呼ばれていた。当時は珍しい「引割橋」で瀬高町の談議所の浜や御倉の浜へ往復する帆船の通過のたびに、橋の中央部が一方に引き上げられると、子供たちは、てっぺんから飛び込んだりして泳いだ。大正5年の船の出入り数1607隻でトン数は1万1685トンであった。しかし大正10年(1921)6月17日の大洪水に流失ししばらく、渡し舟に戻り、間もなく木橋の仮橋が出来た。昭和28年(1953)にも流失に出合い度重なる洪水のたびに橋が架設されてきた歴史ある浦島橋です。昭和31(1956)に大工事の末、幅6m、長さ139m、の新しい橋が開通した。 |
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正時代のコンクリート製の昇開式の浦島橋・手前は小型帆掛け船 |
昭和初期の若津港(大川市)の幌船 |
昭和31年完成した浦島橋の渡り初め |
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明治末期の大牟田川河口の幌船 |
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堀切の渡し(飯江川) 堀切⇔江浦(高田町) |
矢部川に合流する飯江川の堀切の渡しは、明治34年以前までのことである。満潮時から干くまで船頭の「フウ」さんから渡してもらっていたそうである。船は長方形の平たいものであった。干潮で真中が狭くなると船を南向きに浮べ両岸から板を渡し船橋を作ってもらい、歩いて渡っていた。渡し賃は1回五厘くらいであった。村内の人からは年末米をもらい、他村の人は金を払っていたらしい。後には「友さん」が引きつぎ奉仕してくださった。明治34年に板橋(ガタガタ橋ともいった)ができたが、村人の頼母し講を盛り立てて援助したそうで渡り賃を受け取るため番小屋を作り、金投入箱が設けられていたそうである。大正9年に県でコンクリート橋にかえられた。昭和37年この橋の5m上に高く架設され今に至る。この丁字橋の東側の川岸に昔の船着きの跡に細く古びた杭が残り昔の面影を偲ぶことができる。
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長島宇津の渡し(飯江川) 長島(おさじま)⇔宇津 |
矢部川に合流する飯江川の宇津の渡しは、いつからあったか明らかではない。文化9年(1812)2月の伊能忠敬の測量日記に、長島本村宇津川十二間とあるが、渡しのことは記されていない。しかし三池街道(三池〜瀬高)であるので渡しはあったと思われる。その時期は明らかでない。江戸の初期の参勤交代が始まって以来のことであろう。大名がここを渡る時は臨時に漁船が徴用されたかも知れない。
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